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雪降る月夜にドブネズミ  作者: 鮫に恋した海の豚
第1章
3/39

性欲に任せた交わりを目前にした罪悪感



 玄関先の軒下で頬に詰め込んだ豆をゆっくり味わっていると、ドアの開く音に続いて軽快な足音が響いた。俺は豆を飲み込んで軒下から出る。


 少女はご機嫌なウィンクを俺にして、スキップ混じりで森に続く狭い一本道へ向かっていく。俺は全速力でその後を追って、少女よりも先に森へ入った。


「ねぇピーター、森は危ないのよ。家の中で待ってた方が良いと思うの」


「チューチュー(そうさ、森は危ない。だから俺も一緒に行くんだろ)」


「ピーターは本当に森が好きなのね。だけどあんまり遠くへ行っちゃ駄目よ」


「チューチュー(君こそ前みたいに寄り道して怪我したりするんじゃ無いぞ。あれだけ注意しろと言ったのに、まったく)」


「そうねピーター、私は今日もお勉強会が楽しみなの」


 噛み合わない会話を切り捨てて、俺は森の中を駆けた。町に居る現ドブネズミの顔なじみから聞いた噂話だ。最近野犬が増えて数匹の仲間が犠牲になっているらしい。森の中を根城にしている野犬が居ないとは言い切れない。


 背の低い木に駆け上って道筋の周辺を睨みつける。この辺りは安全そうだ。


「計算がちゃんと出来るようになれば、買い物だってもう少し上手くなると思うの」


「チューチュー(そうだな、もう意地悪な魚屋に騙される事は無くなるさ。もし騙されたとしても、ちゃんと俺が仕返ししてやる)」


「分かってる、お婆さんのお世話に手は抜かないわ」


「チューチュー(婆さんなんか見捨てて、その大好きなお勉強にのめり込めば良い。言い過ぎかもしれないが、国直属の識者にでもなれば、こんな生活ともおさらば出来る)」


「今日の夕食はちょっと思い切ってお婆さんが好きなお魚にするわ、ピーター」


「チューチュー(好きにすればいいさ)」


 俺は噛み合わない会話を止めて、森の中を駆けめぐる。木に上っては下り、上っては下りを繰り返し、少女から離れて道筋を進む。


「もうピーターどこに行ったの? 危ないったら」


 少女の不安げな声を聞きながら、俺は木に上って森の奥を睨みつけた。


 ほらな、悪い予感ってのは的中するもんだ。あの床に置かれた細切れのチーズを食べる前にも、元恋ネズミが片目のビックキャットに復讐すると言い出した時も、悪い予感はしてたんだ。俺の睨みつける先に、少女の声に気づいた野犬が居る。さて仕事だ。なんたって俺は騎士だからな。


「ちゃんとお家に帰るのよ」


 緊張感の無い少女の声を背に、俺は野犬の居る方向に駆けた。捕まるつもりは無いが、犬ってのは猫より単純な分、質が悪い時がある。そこは運に任せるしかない。


「チュー(おい、バカ犬)」俺は野犬の真横で立ち止まり、分かり易い悪態を付く。まぁ言葉が通じる訳じゃないから、悪態を付いたのは俺だけの自己主張みたいなもんだ。


 野犬は標的を俺に変えたらしく、すぐさま牙を剥き出して後ろ足を蹴った。犬ってのはバカだからここまでは簡単だ。しかしバカだから、ここからが大変。その執拗なしつこさと言えば、粘着式のネズミ取りと比べても遜色はない。ただ俺は頭脳派の元ドブネズミだ。そのしつこさを利用させて貰おう。


 犬に襲われてすぐに背中を見せるのは、素ネズミの逃げ方だ。俺は向かい来る牙に立ち向かう。頭上ギリギリを汚れた牙が過ぎる。そのまま一直線に進み、野犬の股を通り抜けた。振り返る余裕は無い。おそらく目の前でお湯に浸した氷の様に消え去った俺に目を丸くしてるだろう。その呆けた面も見てみたいが、それで捕まってはお腹を空かせて尻尾を食べるドブネズミ(元の木阿弥)だ。


 バウワウッ!!


 苛立った野犬の鳴き声に背中を押されながら、俺は目先にある大木の根本に走る。野犬が地面を蹴りまくる音が振動と共に伝わってくる。さて間に合うか。余裕はなさそうだ。


 背後に野犬の息づかいがある。俺は後ろ足で思い切り地面を蹴り上げて、大木の根本に出来た穴に飛び込んだ。


 体中至る所を打ち付けたが、体内に牙が刺さり込んだ気配は無い。まぁそんな体験をしたことは無いわけだが、おそらくこんな痛みでは済まないだろうとは思っている。俺は安堵の息を吐いて、顔を上げた。


 穴の入り口で、野犬の口元が出入りを繰り返している。程良く湿気の混じった香ばしい腐臭が野犬の悔しそうな息づかいと共に穴の中に広がる。それが俺の涎を誘発させたが、食欲に駆られて口の中に飛び込む訳にはいかない。さて第一関門は突破した。ここからは心理戦だ、バカ犬よ。


「チュー」

 俺は上目遣いで野犬と目を合わせて、出来るだけ不安そうに聞こえるであろう鳴き声を出した。初夜の恥じらいの様な、連れ合いを裏切り性欲に任せた交わりを目前にした罪悪感の様な、気持ちの悪い鳴き声だ。


 野犬は俺の策略にまんまと引っかかってくれたようで、唸り声を吐き出しながらこっちを睨みつけている。


「チュー」

 もう一度気持ちの悪い声を出してから、俺は少しだけ穴の入り口に近づいた。


 バウワウッ!!


 予想通り、野犬は剥き出しの口を穴の中に突っ込んでくる。ここまでこれば第二段階は突破だ。穴の中に入ってしまった俺から標的が少女に移らないよう注意を引きつける。成功したようだ。


 穴の出入り口はそこしかないと思っているだろう。バカ犬よ。そこで待っていればいつか恐怖に駆られたドブネズミが自暴自棄に飛び出てくると思っているんだろう。そこら辺のドブネズミならそうだろうな。だが俺はすでにそこら辺のドブネズミでは無い。元ドブネズミ兼騎士だ。自暴自棄という言葉とは両極にある。


 俺は両思いの雄と雌が付き合う前に行う無駄な押し引きの様に何度も穴の入り口に近づいては、荒々しいまでに高ぶった野犬の欲望を小さな一身で受け止めた。


 さぁここまで引きつければ、犬のしつこさが役に立つ。このバカ犬はもう俺にぞっこんだ。さながらアル中にとってのラム酒、売春婦にとっての歯が黄金色の男、野犬にとっての穴に閉じこめられたドブネズミって訳だ。


「チュー」

 俺は最後にもう一度不安げな鳴き声を発して、野犬と目を合わせたままゆっくりと、自暴自棄になる少し前を演じながら、穴の奥に入っていった。そして野犬のまるで引き裂かれた恋仲を求めるような鳴き声を背に、大木の反対側から外に出る。あの穴の中に充満していた尖った口から放たれる腐臭は忘れがたいが、さて少女の元に戻ろう。


 未だ聞こえる情熱的な鳴き声を後目に、俺は出来るだけ気配を殺しながら大木を駆け上がる。ここまでこれば最終関門も突破といって良いだろう。枝を伝って少女の歩く一本道に戻りながら、やっとこさ胸をなで下ろした。



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