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雪降る月夜にドブネズミ  作者: 鮫に恋した海の豚
第4章
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泥溜まりで延命の雨を願う稚魚



 卑しい笑みを浮かべた雄猫が数匹、手足を暴れさせて泣きじゃくる少女の金髪を、乱暴に切り刻んでいく。そんな夢から目を覚ましても、俺の悪夢は続いていた。


 森の入り口で体を起こすと、左後ろ足の激痛が脳を震わせ、全てが現実だと伝えてくる。見ていた夢が今よりも幸せな気がして、俺は笑ってしまった。笑えるほどに、現実ってのは冷徹だ。


 幾多の仲間を失いたった独り行き着いた洞窟の奥で、神々《こうごう》しく置かれていた銀のランプには泥水しか入っていない。穏やかだった水中の生活に戻ろうと試みたトンボは溺死するだけで、手塩に掛けて育てた娘が唐突も無く月に帰ると言い始めれば、納屋に閉じこめて物語は終わりだ。葉の味を忘れられない蝶にそれを味わう口元は無い訳で、私は人間の王子だと言い張るガマガエルは、ガマガエルのままに生涯を終える。それこそ奇跡的にエラ呼吸を手に入れた鳥がいたとしても、泳ぎ方が分からずに海底で歩き回り、ウロウロしている内に捕食される。


 おそらく現実なんてのは、そんなモノだ。希望の先に、腰を据えて待っている。そうじゃなければ、幸せを願うドブネズミから宝石を贈られた少女が、悲痛に泣き叫んで走り去る訳が無い。笑ってしまう程に、下らないんだ。現実なんてのは。


 俺はボロ小屋に向かって体を引きずる。気が遠のく程の激痛は、すでにどこから発せられているのかも分からない程、小さな体は別の何かだった。


 綺麗な薄紫を塗りたくる空は、どこか遠い別の世界で長い眠りから覚める美女でも祝福しているんだろう。あぁ、下らない。希望に満ち溢れた目で、俺の世界を、少女の不幸を、見下ろすな、くそったれ。


 ボロ小屋の中で、身動き一つ出来ずに横たわっていても、激痛はまるで責め立てる様に響き続ける。雲一つ無い青空に白色を放つ太陽が昇っても、少女は帰ってこない。


 どれほどの後悔を重ねても、胸の中で毒団子を口にしたドブネズミ程に心臓が暴れ回っても、俺の目には、涙一つ浮かんでこなかった。もし今までに一度でも、それを一つでも流す事が出来ていれば、少女の気持ちを、少しは理解出来たのか、俺の気持ちを、伝える事が出来たのか。俺にはもう何一つ、分からなかった。


 目を瞑った。全身にのし掛かる疲労に身を任せようと思ったが、激痛はそれを許さず、胸を叩く後悔は膨れ上がる。


 俺も少女を不幸に導く現実の一つだったんだ。ドブネズミが、人間を幸せに出来るはずがない。分かっていながら目を背けて、何度も失敗を繰り返した。まるで家族の為に獲物を得ようと闇雲に弓を放ち我が子を射る狩人や、生まれたての子鹿を愛でようと高価な首輪を締めて窒息死させる頭の悪いクソ餓鬼と何も変わらない。


俺は自己満足の為に、少女を傷つけた。下水を這いずり回り、仲間を裏切り裏切られ、ただ真っ当なドブネズミの道を歩いていれば良かったんだ。


 汚い体を優しい両手に包まれて、ピーターという名を付けられ、その名を何度も呼ばれ、下らない理由で自分を言いくるめて、少女の側に居座った。俺はあの時、死ぬべきだったんだ。もし死んでいれば、少女は、幸せになれたのかもしれない。


 俺は目を瞑り続けた。夢か幻想か、婆さんに暴言を吐かれ色味の薄い豆のスープをひっくり返された少女が、困った笑みを浮かべている。


「また怒られちゃったわ、ピーター」

 あぁそうか、それじゃあ落ちた豆は俺が食べよう。そう告げると、少女は大きな鼻に指先を付けて笑うんだ。


 母親が、少額の金を置いて部屋を出ていく。少女と会話をする事もなく、笑いかけることもなく、ドアを閉めた。


「お母さん、ありがとう」

 少女は健気な笑みをドアに見せつけて、お礼を言うんだ。俺はそれが、酷く悲しくて、悔しかった。ドブネズミの癖に、立場も弁えず、少女へ哀れみでも抱いていたんだろう。


 町からの帰り、少女はいつもはしゃいでいた。いつまでも続くおしゃべりに、俺は身を預けていたんだ。


「グリーンハンデ先生が、好きなの、ピーター」

 勉強会の帰り、少女は恥ずかしそうに呟いた。俺はあれやこれやと、一緒になって作戦を企てた。少女がそれを実行に移せた試しは無かった。あの頃抜け出す事ばかり考えていた日常は、それこそ平凡だったのかもしれない。


 夢と幻想と激痛と後悔を彷徨うろつく俺の耳に、夢から抜け出したのか現実か、少女の足音が届いた。目を開き体を起こすと、やはり現実だと思い知らせる激痛が全身を震わせたが、少女の足音も、消えることは無かった。酷く不揃いな、足音だった。俺は床に座り込んだまま、ドアを見つめた。


 少女の足音は、ドアの向こうで止まった。同時に、全てを吐き出すような笑い声が、薄暗い室内と俺の耳を揺らす。ゲラゲラと、胸を裂く音が、鳴り響いた。


 少女はどんな顔をして、何を考えて、なぜ笑っている。どれほどの思考を巡らせた所で、俺にはただ、眺める事しか出来ない。してはいけない。乾燥地帯で雨を待ち続ける根の浅いサボテンの様に、僅かに水を張る泥溜まりで延命の雨を願う稚魚の様に、俺は希望を彩る雨を待つ事しか、してはいけないんだ。もし絶望すらも飲み込む豪雨が降り注ごうとも、何もしては、いけない。 


「ただいまっ」

 雷を響かせるように、ドアは開いた。大声を発した少女は、そのまま笑い声を上げ続けた。ゲラゲラと、音が鳴る。


 大きな顔は、擦り潰した野いちごを塗り込んだように、赤く染まっていた。視線の定まっていない小さな瞳は、寝不足のウサギ程に真っ赤だった。艶やかなはずの金髪は、汗と脂が塗り込まれ、重く垂れ下がっている。右手には、手の平を超える酒筒が、握り込まれていた。


「暗くて汚い家ね」

 そういって、また笑った。強い酒の香りが、暗くて汚い室内に充満する。少女の目線が、床に座る俺に気づいた。


「ただいまっ」

 少女は笑う。笑っている。


「そんな所にいたら風邪を引くわ、ピーター」

 少女は食卓に酒筒を置いて俺に近づき、冷え切った両手で少し乱暴に小さな体を包み込んだ。左後ろ足の激痛が漏れてしまわぬように、口を耐え縛る。


「もう限界。今日は歩き回ったのよ」

 俺を食卓の上に置いた少女は、声を上げて笑った。長い付き合いだ。俺には分かるさ。顔を見たときから、全部気づいていた。


 大粒の雨が、降り始めた。全てを飲み込む、真っ暗な雨だ。空に浮かぶ白色の希望など覆い隠して、薄暗いボロ小屋の中には、どう仕様も無い程の豪雨が、ゲラゲラと、降り始めた。 

 


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