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雪降る月夜にドブネズミ  作者: 鮫に恋した海の豚
第4章
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童話の世界に浸る幸せな空想など


 異性に贈り物をするというのに、身の回りを小綺麗にもせずに迎えるなんて、威勢だけの若ネズミがやることだ。俺は違う。歳を取ったとか、老ネズミの頬袋って事でも無い。モテる雄ってのは、細かい気配りが出来るんだ。


 さぁ、まずは掃除をする時間さえ奪われた少女の代わりに、この食卓がある部屋だけでも、綺麗にしよう。


 俺は楽しげな妄想のおかげで疲労の抜けた三本足を引っ張って、台所に置かれていた布切れを口に挟んだ。それを食卓の上に持って行き、少女を真似て埃をぬぐい取っていく。


 何十往復もした頃には、食卓の上はある程度綺麗になっていた。それにしても、とまた独り笑う。ドブネズミの歩き回る食卓なんて、それこそ汚いんじゃないか? そんな自虐すらも、笑える高揚感に、俺は浸っていた。  


 使用済みの布切れを台所に戻し、今度は若干大きめの布切れを、口に挟んで降りるには骨が折れそうな気がして、床に放り投げた。別に汚くはない。その布切れは、床の清掃に使う訳だから。


 俺はその大きめの布切れを使い、重石おもしを繋げられたカタツムリの様な動きで、床の汚れを、若干諦めながら、拭き取っていった。  


 全く手応えの無い床清掃を終えて、今度はその粗い隙間に挟まっていた小石や、堂々とふんぞり返っている虫の死骸を、外に放り出していく。そしてなんとかとりあえず、予定していた清掃を全て終えて俺は、食卓の上に腰を落ち着けた。


 もし理想を言えるなら、ここに全身が綺麗に残る魚の骨や、毒蛇の抜け殻でも並べたい所だが、ドブネズミでは無い少女が、目を輝かすかは疑わしい。


 少女を喜ばすには、やはり卑しい丸みを帯びたグラスに注がれるワインと、鼻がひん曲がりそうな臭いを発する悪趣味な形をしたキャンドルだろう。分かった所で、俺に用意できる訳は無いが。


 せめてこれぐらいは、と俺は青い石ころの位置を何度も変えながら、少女の帰宅を待った。迷いながらも最終的な位置を決めて、元婆さんの部屋にある、森の入り口が見えるいつもの窓際へ向かった。


 腰を落ち着けて、空を眺める。透き通った夜に浮かぶ満天の星が、少女の帰りを待ちわびているかの様に瞬いていた。もうすぐ帰ってくるよ、と一際輝く大きな星が、俺に呟いている。


 深呼吸を繰り返し、気合いを入れて、緊張を解きほぐす。分かってる。当たり前に、あの誇大妄想が現実に起こるなんて事はあり得ない。おそらく目を見開いて驚いた少女に、俺はチューチューと鳴くだけだ。


 ただ、それで良い。この辛い日常から、悪夢を見る悪夢の様な、大切な記憶から真っ先に消えていく病気を患った様な、辛辣で陰険な婆さんの介護を続けながら最低な母親に殴られ続けるような、そんな辛い日常から僅かでも救われてくれれば、俺が未だに、ただのドブネズミである俺が未だに、人間である少女と共に生活する意味を、見いだすことが出来る。


 ずっと眺めていた森の入り口に、不意に揺れる人影が現れた。心構えも、準備も万端なはずだったが、細く短い手足は緊張で震え出し、それに比例して、俺の前歯は過度の期待で身を乗り出してくる。


 森に現れた人影は、当たり前に少女だった。俺は急いで、窓際から離れて元婆さんの部屋を出た。


 ゆっくりと、食卓に駆け上る。どうにか緊張を落ち着かせながら、気色の悪い前歯を狭い上唇で覆い隠す。油断すると、すぐに飛び出てきそうだ。


 少女の疲れ切った足音が、ドアの前で止まった。あの日からは、いつもこうだ。まるで容赦なく続く悪意に満ちた日々は、黒馬こくばまたがる山賊に身も心も蹂躙される様な日々は、翼もクチバシも水掻きさえも奪われたアヒルの様な日々は、このボロ小屋が作り出しているのだと疑惑を抱いている様に、少女はドアの前で足を止める。


 昨日まではこのたった数秒で一生分程に胸を締め付けられていたが、今日は違う。少女にとってこのボロ小屋は、毎日富に換わる石ころを生み出すドブネズミが住んでいる、まるで奇跡の様な家に生まれ変わる。俺は期待にはやる体を押さえつけて、ドアが開くのを待った。


 俺の期待に応えるように、ドアはゆっくりと開いていく。少女はこのドアを、不幸が飛び出すびっくり箱の蓋とでも思っているのかもしれない。そんな気配を纏いながら、暗がりでも分かるほどの疲労に打ちのめされた少女が、億劫に入ってきた。


「チューチュー(お帰り。今日はどんな事があったんだい?」


 いつも通りの俺の言葉に、いつも通り少女は返事をしない。いますぐ眠ってしまいそうな、眠り続けている様な目をしたまま、操られたようにランプの火を点けて、食卓の椅子に身を預けた。


 俺は疲れ果てた少女を眺める。いつもはこのまま少女が眠りに付くのを待って、目を覚ますのを待つ。ただ希望の無い日常が過ぎ去るのを、待つだけだった。ただ今日は違う。


 俺の予想通り、食卓の上に置かれた青い石ころは、定位置に置かれたランプの明かりに背中を押され、まるで暗闇を照らす希望の様な輝きを放っていた。俺の前歯がそり上がる。分かってるさ。あれはただの誇大妄想だ。言葉が通じ合うなど、起こりえない。


 上下左右と泳いだ少女の視線が食卓に堕ちていき、すぐにその石を捉えた。つかぬ間の険しさの後に、その目は眠りから覚めた。


「チュチュ、チューチュー(おお、驚いたかい?)」


 俺の声はおそらく、町中で鳴り響く楽隊の音楽に服を脱ぎ出す酔っぱらい程に、ご陽気だったに違いない。石ころを見つめる少女の目が、押さえようもない潤いに覆われていく。


 俺がその光景に喜ぶ間もなく、全ての期待は強い不安に反転した。すでに大粒の涙を流し始めた少女の顔には、童話の世界に浸る幸せな空想など欠片も無く、暗い現実と現実の狭間に掘られた深い谷に、落とされた様な悲しみが漂っていた。


「チューチュー(それは、いつも頑張っている君へ、俺からのプレゼントさ)」


 おそらく、その声は震えていただろう。もし少女が奈落へ落ちたと感じているのなら、その背中を押したのは俺になってしまう。そんな馬鹿な話ある訳ない。あっていけないんだ。


「なによ……これ」

 少女は泣きながら指輪をつまみ上げ、睨みつけた。


「チューチュー(俺が、下水から拾ってきたんだ。遠慮なく、使ってくれ)」


「ふざけてるわ…………なによこれっ」


 少女は叫ぶと同時に立ち上がり、全てから逃げ去るように、全てを捨て去るように、ドアを乱暴に開け放ち部屋を出ていった。俺の心臓が、息も出来ないほどに速まる。


「チューチュー(違うんだっ、待ってくれっ)」


 俺は食卓を駆け下りた。庇うことを忘れた左後ろ足から伝う激痛が、全身を巡り脳に衝撃を加える。ただ、それよりも大事な事が、目の前から消え去ろうとしていた。


「チューチュー(行っちゃいけないっ。駄目だっ。頼むからっ)」


 少女に伝えたいのか、それともこの世の全てに懇願を捧げたのか、俺にも分からなかった。ただ俺には、声を上げる事しか出来ない。


 脳に響く激痛は、俺の五感を奪っていく。駄目だ。そんなこと、あっては駄目なんだ。なぁ、頼むよ。すまない。いくらでも、謝るから。


「チューチュー(待ってくれっ。俺なんだ。全部。もう目の前から消えるから。頼むから。戻ってきてくれっ)」


 未だ絶望の余韻を残すドアを避けて俺が外に出ると、少女はすでに森の入り口間際まで近づいていた。


 分かってる。もうこの距離じゃ、俺の小さな声は届かない。距離なんて関係ないのかもしれない。ドブネズミの声など、ずっと昔から、少女には届いてなかったのかもしれない。


「チューチュー(待ってくれっ、頼むからっ。俺は……どうしたらいいんだ)」


 少女の陰が森の中へ消えていく。それでも俺は、後を追った。激痛は、聴力を奪い去っていた。自分の叫び声さえ、聞こえなかった。役立たずの老いた体は呼吸の仕方を忘れ、手足に重みを加えていく。


 たどり着いた森の入り口からいくら目を凝らしても、どれほどの願いを叫んでも、すでに少女の陰すらも、姿を消していた。微かに残された五感が、もう諦めろ、と俺を地べたに押さえつける。


 揺れて霞む薄暗い視界には、悲しげな笑みを浮かべた少女の顔が現れた。聴力を失った耳には、悲痛を叫ぶ泣き声が響いた。体中を激痛が走り回っている。これは、悪夢だ。俺はただ、悪夢を見ている。そう、思いたかった。 


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