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雪降る月夜にドブネズミ  作者: 鮫に恋した海の豚
第4章
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例えば前歯の欠けたドブネズミを二匹並べたからって



 俺が落ち込む事に何の意味がある。そんな考えが、ふっと頭に浮かんだのは、下品な笑い声を上げていた雨が含み笑いに変わった真夜中、少女が不意に目を覚まして泣き出した時だ。


 一ヶ月ぶりに聞く、胸を裂くような泣き声。その声に裂かれた胸の内から、俺を支配していた無意味な不安や不甲斐なさは一瞬にして消え去った。まるで森が作り出す闇を七色に輝く発光体が高速で通り過ぎる(青天の霹靂)様に、小娘だと思っていた雌ネズミがたった一晩で身ごもる(青天の霹靂)様に、空は晴れているのに何の前触れもなく雷が鳴り響いた様に、それは俺の頭に湧いて出た。俺が落ち込む事に何の意味がある。


 お前はただのドブネズミだ。この一ヶ月ほど、馬鹿の一つ覚えの様に何かがずっと耳元で囁いていた。昨日までは落ち込んでいたさ。だが今は違う。頭のオカシいドブネズミが頭のオカシな事を言うが、俺は昨晩、ドブネズミに生まれ変わった。耳元で囁く馬鹿の言うとおり、全く持ってその通りだ。俺はただのドブネズミ。そんな事すら、忘れていた。


 少女と三年も暮らす内に、俺は何か勘違いをしてたらしい。口では理解している風な事を言っていたが、人間にでもなれると思っていたんだろう。とんだ笑いぐさだ。


 以前の俺はとんでもなく頭が悪かった。いつかは人間になれると、いつまでも少女と暮らせると、おそらくそんな事を思っていたんだろう。当たり前に口には出さなかったし、そんな奇跡なんてある訳ないと気取っていたわけだが。


 だからこそ、落ち込む少女と共に落ち込む事が唯一の慰めだ、なんてクソの足しにもならない事を考えていた。ドブネズミに生まれ変わった俺としては、あり得ない思考だ。母猫からはぐれた生まれたての子猫に同情するような、口当たりが柔らかくまったりと甘い極上の食い物であるミツバチを巣穴に運ぶ蟻の手伝いをする様な、全く持ってあり得ない。元々殺し奪うのが、はたまた怯え逃げ去るのが、ドブネズミの本質だ。確実に、忘れていた。


 落ち込む少女と共に落ち込んで、何が生まれる? 何かが生まれたとしても、おそらくそれは片足が不自由なドブネズミだ。人間になりたいなどと口にする、見るに耐えないドブネズミ。今となっては考えただけで吐き気がする。


 少女が落ち込むのは仕様が無い。あんな事があって、これからそんな事が起こる訳だから。どんな事になるのかはっきり分かっている訳じゃないが、すでに一ヶ月前に食った肉の味は忘れたし、菓子パンに至っては食ったのかさえ忘れてしまった程、食卓に並ぶ料理は貧相なモノになった。俺の尻尾よりもだ。

 

 俺は全然気にしちゃいないが、料理が並ばない日もある。当たり前にお腹は空くが、ダイエットをしなければ、と思っていた矢先だ。そのおかげで、今は一番身軽だった頃の体型を取り戻せそうな程、痩せる事が出来た訳だ。俺にとっては有り難い事ではあったが、やはり少女にとっては、辛い事に、落ち込む事象であることに変わりはない。


 つまり何度も言ってしまうが、そこで俺も一緒に落ち込む事に何の意味も無かった訳だ。二つの負を掛け合わせても、当たり前に倍の負になるだけだ。例えば前歯の欠けたドブネズミを二匹並べたからって、急に一際長い前歯を持ったドブネズミが現れる道理は無い。


 つまり正しい道に歩めるなんて事はあり得ない。人間の世界でどんな計算式が存在しているのは分からないが、ドブネズミの世界で、そんな馬鹿げた計算式は存在しない。当たり前だ。これだけは真理に近い。


 さぁ朝日が夜にサヨナラを告げている。それに合わせた蝋燭型の目覚ましが鈴の音を弾いたが、いつもの様に少女は起きない。まぁ仕様がない。今は宿場の他にもう一つ、酒場でも働いている訳だから。


 昨日までなら気遣って、俺も落ち込んでいるんだぞ、君と同じ気持ちなんだ、と意味の分からない被害妄想に浸り、声をひそめながら起こしていたが、なんて事は無い。俺はドブネズミなのだから、ご陽気に、まるで阿呆の様に、叫べば良いんだ。


「チューチューチューチューチューチューチューチューチューチューチューチューチューチューチューチューチューチューっ(さぁ起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ。朝が来たぞっ。落ち込んでても意味は無い。どうせ働かなくちゃいけないんだ。さぁ起きろ起きろ起きろっ。頑張って働くんだ。ただ今日は期待してろっ。疲れ果て、家に帰ってきたら、驚かしてやるぞっ。君はさぞかし驚くぞっ。今日は俺も働くんだ。ドブネズミが働くんだ。期待してろっ。君は絶対驚くぞっ。さぁ起きろ起きろ起きろっ)」


 よし、起きたか、と俺は重苦しく目を開いた少女を確認して、ネズミ除けの爆竹より耳障りな鳴き声を止めた。


「チューチュー(おはよう、まるで生まれ変わった様な朝だな)」  


 少女は挨拶を返してくれず、すぐにボロ洋服ダンスに向かい着替えを始めた。別に落ち込む事は無い。いつもの日常だ。少女はあの日以来、家で笑うことは無いし、こんなドブネズミの俺と楽しげな会話に励む事もなくなった。昨日までは落ち込んでいたさ。でも考えてもみろ。それが人間の本質でもある。ドブネズミと楽しく会話なんて、あり得ない。


 少女はすぐに着替えを終えて、元婆さんの部屋を出ていった。俺はすぐさま、片足の不自由なドブネズミの様になった左後ろ足を引っ張って、食卓に向かう。


「チューチュー(いってらっしゃい)」

 少女は返事もせずに、振り返りもせずに、背中だけを見せつけて、ドアを閉めた。別に落ち込む事は無い。

 

 さぁここからは仕事だ。なんせ俺はただのドブネズミな訳だから。あぁ楽しみだ。疲れ果て、家に帰ってきた少女は、食卓の上に置かれたあれを見て、どんな顔をするのだろうなっ。


 俺はいつものようにボロ洋服ダンスの裏に空いた壁の穴から外に出て、いつもの宿場とは違う、老夫婦の住む住宅へ向かった。



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