どうか、明日の世界が優しいものでありますように。
暗い部屋の中のベッドの上で、鼻から深く息を吸いこんだ。
肺が膨らみ胸が自然と反り、口からゆっくりと吐き出せば元に戻る。
それを何度か繰り返し、溜息を落とす。
喉がつっかえるような、胸が詰まるような不快感と共に生きている。
ぐっぐっと競り上がる何かを、元の場所に戻すように飲み込みながら生きていた。
とにかく、息を吸って吐いてを繰り返し、何とか今日も生き長らえたと思う。
喉から胸へ掛けての不快感だけは取り除けず、それでも時計の針は確かに一周する。
目を閉じて深呼吸と溜息を繰り返し、カチコチと秒針の音を聞く。
どれくらいそうしていたか、控えめな足音が聞こえ、瞼を持ち上げる。
足音が少しずつ大きくなり、部屋の前の扉で止まり、音を立てないように捻られたドアノブが回り、扉が開く。
僅かに扉と壁を繋ぐ金具が軋む。
足音は聞こえるが、部屋が暗く足音の人物を確認出来ない。
それでも足音はベッドの脇までやって来て止まり、私の名前を呼んだ。
「おかえり」
緩く手を伸ばす。
電気を点けるのも怠く、カーテンを開けることも好まず、暗闇に目の慣れた私は、掴んだ頬を引っ張り、顔を近付けさせた。
すると、しっかりその顔が確認出来る。
三白眼な黒目に細い黒縁の眼鏡を掛けた、眉間にシワがデフォルト気味な男。
疲労感の滲み出た顔に、小さく笑う。
短く切り揃えられた髪を撫で、掴んだ頬を離して撫でる。
「今にも死にそうな顔」
「いつも死にそうな奴に言われたかねぇよ」
ゴツン、と顔を近付けられて額に額を打ち付けられた。
存外優しいそれに、また、笑い声が漏れる。
「電気、点けるぞ」
「うん」
私の手を離し、わざわざ掛け布団の中に戻した彼は、カチリと部屋の電気を点ける。
いつも通り、反射的に一度目を閉じた私を見て、彼もいつも通り笑っていた。
昼間もカーテンを閉めて生活して、彼が帰宅するまで電気を点けなければ、当然目は慣れない。
何度か瞬きをする私に、彼が「今日は」呟く。
「ん?」
「今日はどうだった」
ベッドの隅に座り込んだ彼は、私を労るように前髪を梳く。
柔らかな手付きに目を細めながら「いつも通りだよ」と答える。
嘘偽りのない言葉だ。
基本的に私は、ベッドの上で丸まっている。
息を吸って吐いて、深呼吸をして、溜息を吐いて、トイレくらいは行くがご飯を食べたいともなかなか思えない。
でも今日は、少しだけ本を読んだ、とナイトテーブルを指し示す。
彼は眼鏡の奥でそれを見据え、手を伸ばした。
置いてあった本は、哲学書でも医学書でも物語でもエッセイでもなく、絵本だ。
日本では割と有名な絵本で、道徳なんかの授業でも使われるらしい。
物語の語り手の妹の話だ。
彼が細く、あぁ、と頷きながら本を捲る。
それを見ながら、私はそのストーリーを思い出した。
語り手の妹は転校先で虐めにあったのだ。
悲しいかな、人というものは少しでも自分と違うものがあれば排除したくなる生き物で、彼女はクラスという世界で見れば井戸の中の小さな世界で弾かれた。
そこを出てしまえば、もっと広く自由な世界があったはずなのに。
クラスという世界から弾き出された彼女は、ゆっくりと心が腐敗していった。
腐った心は動かず、彼女の世界は自室になり、時間だけが流れていく。
誰にでも平等に流れる時間は、彼女にとって不平等に彼女を置いて、流れていく。
ぼんやりどこかを見つめる彼女。
セーラー服を着た過去のクラスメイトが外を歩き、その声が彼女の部屋に届いた。
ブレザーを着た過去のクラスメイトが外を歩き、その声が彼女の部屋に届いた。
そんなある日、彼女は鶴を折る。
端と端を揃え、折り目を付け、そんな風に折られた鶴が、赤、青、白、沢山。
そんな鶴に埋もれたまま、彼女はまだまだ鶴を折った。
彼女のお母さんも、語り手である彼女のお姉さんも、揃って鶴を折った。
そうしてある日、彼女が亡くなったのだ。
彼女を世界から弾き出した誰も、彼女の死を知らなかっただろう。
彼女のお姉さんは、彼女が花で埋もれる中、鶴を入れた。
私は一度目を閉じて、彼を呼ぶ。
静かに本を閉じた彼が振り向き、ん、と柔く返事をした。
喉の奥が詰まり、胸が重い。
「いきたいなぁ」
彼に手を伸ばせば、彼が私の手を握る。
彼の顔が良く見えなかった。