「また明日」
小さな金魚鉢を眺める。
中にはたった一匹の金魚しかいない。
この魚は幸せなのだろうか。
そんなことを考える。
少し前まで祭りの屋台で多くの仲間と一緒だったのに、引き離され、狭い金魚鉢に入れられた魚。
世界から隔離され、たったひとりぼっち。
まるで私のようだ。
高校最後の夏休み。
女友達と祭りに行ったはいいけれど、彼女はクラスメイトたちを見つけた途端、笑顔で駆け寄り、その輪に合流した。
私もそこに混ざればよかったのかもしれない。
そうしたら私は一人で家に帰り、可哀想な金魚と世界から隔離されなかったのかもしれない。
でも無理だった。
だって、そこには彼がいた。
彼女と一緒に、彼がいた。
別れてまだ一週間しか経ってない、元彼。
クラスメイトの中にいる私の、彼氏だった人。
この状況で先に帰ったことは、私に別れを切り出した彼へのちっぽけなちっぽけな意地だったのかもしれない。
まったく意味のない抗議だと思う。
でも放課後に校舎裏に呼び出して「好きな人ができたから別れてほしい」なんて。
「彼女に俺の気持ちを伝えたら、彼女も俺と同じ気持ちだったんだ。だから別れてほしい」なんて。
ふざけてる。ほんと。ふざけんな。
この元彼は、私という彼女がまだいるのに、新しい彼女を作っていた。バカにしている。
その瞬間に一気に彼に対する熱は冷めた。
私の中でこれまでの彼は、優しくて誠実で、浮気なんてとても出来ないような、そんな素晴らしい彼氏だった。
彼はとても人を大切にしていて、それでいて嘘もつかない。
しかしそれは彼の表面でしかなくて。
彼は「浮気なんて出来ない」のではなく「浮気と本気の区別もつかない」とんでもないバカ野郎だった。
そして彼は「人を大切にしている」というよりは、人に嫌われることに対して怯えていて、「自分が嫌われないようにする」ことが得意だった。
だから彼は私に対して「彼女も俺も同じ気持ちなのだからそれは悪いことじゃない。むしろお前が俺と付き合っていることのほうが、いろんな人を悲しませる最低な行為だ」とでも言っているようだった。
――いや、実際彼はそう言った。
もう少しオブラートに包んだ言葉ではあったけれど。
女々しくて仕方ない。
もう何の興味も湧かない。
彼は所詮、こういう人間だったということ。
そんな彼は私に別れる理由を必死で説明してきた。
私にはどうでもいい理由でも、彼にとってはそうではないようだ。
私は黙ってそれを聞いていた。
「だから、なに?」と話をぶった切ってしまいたかったけど、私は黙ってそれを聞いた。
全てを話し終えた彼は「そういうことだから」と言って帰ろうとした。
まるで「また明日」とでも言っているかのように軽い言葉だった。
私はそれを引きとめた。
「ちょっと待って?」
そう言って引きとめた。
つい先ほどまでの私は、彼の誠実さを信頼していたし、実際に「あなたのことが好きだよ」と言葉にして伝えていた。
彼はきっと、私なら自分への未練を残してくれる、なんて思っていたのだろう。
ゆっくり振り向いて、私に向かって微笑んだ。
愛しさや切なさの気持ちをぶつけられる。
なんて、そんな優越感に浸れるとでも思ったのだろうか。
残念ながら私はそんなこと絶対に言わない。
すでに愛情をなくし、私の信頼を裏切った彼に対して、そんなものは絶対に見せない。
「最低」
私は彼に思いっきりビンタした。
それは嫌われることを怖がった彼への仕返しだったのかもしれない。
気持ちいい音が、静かな校舎裏に響いた。
彼は何が起きたのか分かっていないようだった。
今まで優しくて、自分の言うことを何でも聞いてくれた彼女が、自分に平手打ちをくらわせるなんて、そんなこと。
しかも思いきり、だ。
「じゃ」
そう言って私はその場から立ち去る。
それは「また明日」とでも言っているかのように軽かった。