梅雨明けは新宿
『梅雨明けは新宿』
卒業式の日は朝から雨だった。
明るいグレーのスーツを着た彼の横を、袴姿の私が歩いている。ビニール傘は新しいのを二人で買った。
「卒業なんだね」
私は見慣れない様子のツッキーの横顔が、やっぱり出会った時とは違うのだと感じた。
出会った頃のツッキーには、ニキビがあり眉が細かった。
ニベヤで洗顔しているうちに赤みも消えて、毛先だけ茶色だった髪も黒くなったのは、一緒に暮らし始めて半年ぐらいたった頃だった気がする。
夜中のコンビニで緑のジャージを着なくなったのは、一年前ぐらいかな。もう、緑と赤のジャージカップルはいなくなった。
そして、半年前からツッキーは私の知らない美容院でツーブロックにして、金属バンドの腕時計をし始めた。
「なんか、すっかりおしゃれだね」
相変わらず、アパートの近くの美容院で髪を切っていた私は、急激に変わるツッキーに腹が立った。
「しかたないだろう。もう学生じゃなくなるんだから」
「でも、ちゃんとした社会人になるわけじゃないよね」
バーテンダーなんて仕事を私は社会人とは認めない。社会人と言うのは、朝早くに起きて満員電車で経済新聞を読む人、もしくは、会社についたら作業着に着替えて力こぶから汗が滴る人と決めていた。
「社会に出てお金を稼げば社会人だろう。プーじゃないんだから。
それに、健康保険だって自分で入るんだぜ」
職業に貴賤はない。自分だって高い志や夢があるわけじゃなく派遣の仕事を選んだのだから。
しかしである、バーテンダーでは地元もしくは、都会を離れて二人で暮らすというささやかな幸せ計画からは外れすぎている。
「田舎で小さな会社に勤めるのも悪くないけど、それは、もう少し先でも出来る気がするんだよな。結局、十八歳の時に吉祥寺に出てきてから、ずっと東京を避けて東京のことが何も分からないまま卒業することになったじゃん。だから、もう少し東京のことを知ってから田舎に帰ってもいいと思うぜ」
山手線の内側で仕事を始めたツッキーは、遅ればせながらの東京デビューに浮かれているとしか思えなかった。
緑のジャージが似合う男が、夜の赤坂で黒いベストなんて似合うはずないし、似合って欲しくもなかった。
卒業式の夜も、ツッキーは夜の赤坂に向かった。
私には私なりの計画を妄想していたが、そのことをツッキーには言わなかった。
それぞれのグループが吉祥寺の居酒屋やカラオケボックスで別れを惜しんでいること、どのグループにも入らなかったこと。
そんなことを考えながら深大寺のアパートでつまらないテレビの音を聞く卒業式の夜に涙が出てきた。
深大寺に行こう。
ニトリで買った整理ボックスの奥から赤いジャージを引っ張り出すと、股に食い込むほどしっかりと履いてお尻を叩いた。
深大寺の傍を流れる野川の桜はまだ蕾さえもつけていない。
春には、また二人でベビースターを食べながら見ることが出来るだろうか。
「ベビースターなんて貧乏臭いな」
ツッキーはそんなことを言うのだろうか。
「貧乏じゃなくてもベビースターは美味しいよ。それに、缶ビールには合うじゃん」
そんなことを言いながら、小さな袋に指を突っ込んでツッキーの横を歩けるだろうか
深大寺の参道にある蕎麦屋は全部灯を落としていた。
「田楽食べようよ」
隣にいるはずのツッキーにねだったが、何も答えてくれえない。
「田楽かよ。おでんにしようぜ」
私はツッキーの口真似をしてみたが、全然にていない。
「おでんにしよぜ」
飽きるほど聞いているツッキーの口ぶりを何度も何度も真似てみたが、どうも何かが違う。
「コンビニでおでんを買って帰ろうか」
山門から手を合わせた後で、またツッキーに言ってみた。
派遣ながら営業アシスタントとして私の社会人生活は始まった。
私の仕事は大手建設会社の子会社で、見積書を作ることだった。決められた条件の数字を入力すると見積書は完成し、完成した見積書は営業担当によって修正が加えられ、また戻って来ては作り直す。
私は三人の営業担当の補助をすることになった。
慣れない仕事や生活にオドオドしているうちに三か月が過ぎ、梅雨が訪れた。
新宿の梅雨はビルの谷間に蒸し暑い蒸気を発生させ、深大寺とは違う匂いがする。
「鬱陶しい天気ですね」
私が担当する小宮主任に笑顔で気候の挨拶をすると、彼女は視線をパソコンから私に移し見上げながら「ちょっといい」と険しい顔いいミーテイングテーブルにスタスタと歩いて行った。
小宮主任は私が担当する人の中で唯一の女性であり、唯一の主任だった。三十歳での主任昇格は、かなり早い方だと言っていた三十二歳の担当さんは、自分は決して出世が遅れている訳ではないと言うことを私に伝えたかったようだが、ちょっとやっかみが感じられた。いずれにしても、私にはどうでもいい情報だ。
テーブルに向かい合うように私を座らすと、小宮主任は呆れたように低い声で話始めた。
「もう三か月よね。そんなに難しい仕事を頼んでいる訳じゃないと思うんだけど」
どうやら、私は見積書の数字を間違ったらしい。
「確認が足らない私にも責任はあるけど、中学生でも出来る仕事をいちいちチェックしていたら仕事が回らないでしょう」
「すいません」
反論はいくつかある。小宮主任の仕事はいつも「急ぎで」という指示だし、指示したメモも分かり難いし、走り書きすぎて読みづらい。
確認したくても、いつも眉間に皺を寄せて忙しそうにしている人に「これなんて書いているんですか」と気楽に話しかける度胸もない。
「責任感がない人と仕事はしたくないのよね」
小宮主任は派遣社員が嫌いだった。組織の中に馴染む努力も、自分の可能性も放棄した人が派遣になると決めつけていた。
私の周りにいる派遣社員の中にはそんな人もいると思うし、私もそんな一人だが、理由や夢があって派遣社員をしている人だって少なくない。
自分とは違う価値観を否定する傲慢な女は可愛くない。
「山田さん、私って可愛くないでしょう」
小宮主任は私の心の中を見透かしたように、静かな声で言った。小宮主任は美人ではないが、決して不美人ではない。
私は正解が見つからず、ただ下を向いた。
「貴女を見ていると、なんだか毎日つまらないことで世の中があふれているように感じるわ。
気に食わないことや、不満はいっぱいあるけど、避けていても避けきれないから、私は必死で面白いことを探してるつもり。
いつも怖い顔してるから、そんな風には見えないかもしれないけどね」
年長者の説教は嫌いだ。特に生き方を語られるほど困ることはない。
素直に「そうですね。頑張ります」と言えば簡単なのだろうが、なぜか、その簡単なことが出来ない。
出来ないことには近づかない。それが、お互いの幸せだと信じている。
「まあいいわ」
小宮主任は最後に「ごめんね」と言った。
十二時に寝て六時半に起きる。ツッキーに会うのはお互いに寝ているときだけだった。
トーストをかじり、インスタントコーヒーを飲む間、私はお酒と煙草、そして私には想像できない甘い香りを纏ったツッキーの寝顔に「行ってきます」と小さな声でいう毎日だった。
あの日から小宮主任をときどき観察するようになった。いつも怒っていると思った彼女は、実はちゃんと笑う。
そして、ときおり机の中からチョコを出して食べていることも分かった。
そして、驚くことに小宮主任も美しい村の近くの出身だということ、大学は一流でないことなど、勝手に想像していたこととの違いも面白かった。
話したい。このことを、私の発見をツッキーに話したい。
「小宮主任はちょい田舎村の中学から、ちょい都会村の高校に行ったのかな?
もしかして、お祭りとかで会っていたかもしんあいね」
ささやかな大発見でビールを飲みたかった。
扇風機を奪い合いながら、話したかった。
「ルックチョコの種類を確認しながら食べるんだよ。きっと、全種類万遍なく食べるようにしているんだと思うよ」
前のツッキーなら、きっと話に乗ってくれた。
「俺はバナナを最初に全部食べているんだと思うぜ」
などと、その理由を説明してくれたと思う。
疲れた顔で眠るツッキーを置いて行く仕事になんの意味があるのだろう。
そんなことを考えながら乗る満員電車の中は、無表情にスマホを見る人で身動きもとれない。
初めてツッキーと山手線に乗ったとき、椅子に座るのがもったいなくて、ドアのところに立っていた。
高いビル、犇めき合う家の屋根、チョコパフェのミントのように現れる公園。
「あれは、なんだ?」
変な形の建物を見つけるたびに、ツッキーは小声で尋ねた。
「あれは、秘密のアンテナだよ」
ゲームの中のように私は楽しい嘘をつき、ツッキーは大げさに驚いてくれた。
その時は、意味なんて考えなかった。
会社につき皆に「おはようございます」と言うと、必ずみんな「おはよう」と返してくれる。
小宮主任は書類から顔を上げることはなかったが、ちゃんと「おはようございます」と丁寧に挨拶をしてくれる。
そうして、私は五時まで仕事をして「お先に失礼します」と言って帰る。
「ごめん、山田さん、これだけやってくれない」
いつものように西友に寄って帰るはずだった私を、小宮山主任は呼び止めた。
「急ぎなんだ」
小宮山主任はいつも急いでいる。
「分かりました」
西友は二十四時間営業だから急ぐ理由はない。
いつものように見積書の修正だと思っていた私に渡されたのは、企画書と書かれた書類とUSBだった。
「パワーポイント出来るよね」
本当はあまり得意じゃなかった。派遣会社の研修で習った時も使わないだろうと思って真面目には勉強しなかった。
しかし、私の経歴には『パワーポイント』と燦然と書いてある。
おそるおそる開いたUSBは、派手な色彩で小宮山孝子と書いてあり、その文字をみたとたん吹き出してしまった。
そして、頑張ろう。そう思えた。
慣れない資料の訂正は、予想を遥かに超えるほど難しく時間がかかった。いつ「出来た?」と催促されるかとひやひやしながら、画面と格闘したが、小宮山主任は「どう?」とも聞かず、自分の仕事をしながらチョコを食べた。
なんとかこうとか終わりかけたころ、「食べる」と差し出されたルックチョコにはバナナだけが残っていた。
小宮山主任が私の仕事に満足してくれたかは分からないが、帰る時には「ありがとう」と手を上げてバイバイをしてくれたのが、自分でもビックリするほど嬉しかった。
今日こそは起きてツッキーを待っていよう。ツッキーに小宮主任がバナナを苦手なことを教えよう。
そうして、それでもなぜルックチョコレートを買うのかを教えてもらおう。きっとツッキーなら私の謎に答えてくれる。
そう思って西友で豆腐を買って帰ったが、その夜ツッキーは帰って来なかった。
その翌日も、ラインの返信はなくただ、既読のマークだけが光っていた。
そして、三日後の朝、ツッキーは帰ってきた。出勤の準備をする私に、「アパートを出ていくことにしたよ」と前触れもなしに衝撃的な告白をするのだった。
「なんで」
パンくずが床に落ちるのも気にならないほど、私は焦った。
「やっぱ、職場に近い方が便利だし、それに、分かっていたんだろう。なんとなく」
「何が、何が分かっていたの」
「いや、そろそろ潮時っていうか、なんていうか」
自分の洋服を大きなボストンバックに詰めるツッキーの背中は、初めて公園で泣いていた時と同じなのに、もう寄りかかることは出来ない。そう思うとやっぱり泣けてきた。
ツッキーが言うように分かっていた。もうツッキーは隣村のにいちゃんでも、ジュージマンでもないこと、そして、いつまでも赤いジャージが私にも似合わないことも分かっている。
ツッキーと手を繋いで歩くのは、もう私ではなく、私の知らない誰かで、私の知らない街なのだ。
「行ってきます」
『さよなら』も、『ありがとう』も『嘘つき』とさえ言えず、私はアパートのドアを開けて、何も変わらない曇り空の街に入るしかなかった。
会社に着き、いつものようにパソコンを立ち上げ机の中からペンケースを出そうとすると、そこにはルックチョコレートが入っていた。
「山田さん、悪いんだけど、もう一度企画書治してくれる」
『おはようございます』を言う前に、小宮山主任は付箋だらけの企画書を私に差し出した。
「急ぎですよね」
トーストを半分しか食べられなかった私は、ルックチョコレートの封を開けると、ストロベリー味で血糖値を上げた。
「そう、大急ぎで」
小宮山さんもストロベリーを口に放り込むと、何も言わずにまた自分の席で仕事を始めた。
窓からは、久しぶりの日差しが降り注ぎ、梅雨が明けたことを気象庁より先に教えてくれた。
いかがでしたか?