ジャージマン吉祥寺で泣く
『ジャージマン吉祥寺で泣く』
田舎から出てきた私は、吉祥寺という響きだけで舞い上がっていたのが五年前のことだ。
「吉祥寺の大学っておしゃれじゃない。遊びに行ってもいいよね」
地元に残る同級生に言われるたびに、「来て、来て」と小躍りしてはしゃいだものだ。
しかし、大学時代の四年間、誰も地元の友達を呼ぶことはなかった。いや、呼べなかったというのが本心だ。
地元ではあまり知られていないが、東京ではまずまずの知名度を誇っていると思う大学に受かった私は、意気揚々と吉祥寺の不動産屋に訪れると、そこには驚愕の事実が待っていた。
「こんな小さい部屋で月に15万ですか」
父は完全に疑っていた。レンズの下だけにフレームがある不安定なメガネをした不動産屋さんのお姉さんを、睨みつけるように何度も「15万って」と繰り返すのだ。
田舎から出てくる前に、予習していた私でも15万円という家賃プラス30万円の敷金は絶句に値する。
「大切なお嬢様にご紹介する物件ですから、セキュリティーも万全でバス・トイレも綺麗でないと。そうすると、15万円というのは破格な安さだと思いますよ」
ハ・カ・クという言葉は千円以下の時に使う言葉だと信じていた私にとって、最初に食らったカルチャーショックは、東京では15万円は破格という格差だった。
私と父はうな垂れたままピカピカのガラス扉の不動産屋さんを後にすると、当てもなくなく他の不動産屋を探して吉祥寺の街を彷徨った。
マルイ、東急だけでも洋服は充分売っているだろうに、街の中は服と靴で溢れている。
「東京の人は何着服を持っているのかな」
作業着とジャージを着まわしている父に聞くのも無駄だと思ったが、今は父しか話す相手がいない。
「たぶん、十着は持っているな」
父の十着は何かを想像したのではなく、『たくさん』という意味だと思う。それほど、私たち父娘にとって想像を絶する都会なのだ。
何本も通り過ぎるバスと引っ切り無しにホームに入る電車の音を聞きながら、遠くへ遠くへと向かう私達の前に、木枠の曇りガラスが懐かしい不動産屋が現れた。
「ここにするか」
父にも私のも確信があった。
そう、ここなら大丈夫。ここなら、普通のメガネをかけたおばさんが親切に安い部屋を紹介してくれる。
「吉祥寺でバス・トイレ付3万円の物件ですか」
度の強い黒縁メガネを掛けた白髪の老人は、メガネ越しに私たち親子を値踏みすると、聞こえる程度に小さく「はあ」と溜息をついた。
私たち父娘の希望が儚く散ったかに思えたが、神様は私をこの街に暮らすことを許してくれた。
「バスで少し離れますが、深大寺さんの傍にご希望の物件がありますよ」
吉祥寺は田舎でもおしゃれスポットとして有名だが、深大寺なんて聞いたこともない。きっと寂れたお寺で、私はお墓に囲まれて眠るのだと覚悟を決めた。
「この子、昔から霊感が強くて、金縛りとかに会うんですけど大丈夫でしょうか」
父も私と同じことを考えたようだが、私が金縛りにあったのは仮病をつかうためで、本当は金縛りがどんなものかも知らない。
「頭が重い、体も重い、きっとこれは霊が」
そんな言いわけを信じてくれる優しい父と母だった。
「ああ、そうですか。でも3万円ですよね」
3万円なら幽霊と同居したっていいだろう。不動産屋さんからは、そんな雰囲気がひしひしと伝わり、父も「3万円ですものね」と私の意向など確認することなく、契約書に判子を押して、母に電話した。
「予算内でいい物件が見つかったよ。なんとかっていう有名なお寺さんの傍らしいから、安全だしな」
お寺の傍で安心という発想に、母も躊躇なく同意したようで、父は、「そきゃ守られているよ」と何度も、名前も知らないお寺のご利益に感謝したのだ。
こうして、築40年、木造二階建て、六畳和室、銭湯近くという優良物件から私の東京ライフはスタートした。
窓から見える公園と駅までにあるおしゃれなカフェ。フローリングにはアジアンテイストのマット。そんな暮らしを想像する地元の友人を呼ぶことは、友情を壊すことになりかねないので、身を隠すように静かに暮らすことを決意したのだ。
不安と不安と不安に三方を囲まれた大学生活で、一方だけは幸せに溢れていた。
それは、彼だった。
着ていく服にも困るような貧乏が、彼と巡り合わせてくれた。
彼とは大学二年の夏前に始めた居酒屋で知り合った。同じ大学の同じ学年なのだから、その前にどこかで会っていたと思うのだが、いかんせん友達の少ない私の交友範囲は限られている上に、その友達も極めて地味だったから、バンドをやっている彼など眩しくて目に入らなかったのかもしれない。
「見たことありますよ。良く掲示板の前に立っていますよね」
バイト先であったときの彼の第一声だ。
確かに用もなく、私は学校の掲示板を眺めている。それが、私にとって、この大学にいる実感が一番湧き上がるのだ。
「ああ、まあ、ええ」
私はなんと言っていいのか分からず、そんなことを言ったと思う。
バイト先の彼は驚くほど明るかった。
「いらっしゃい!」
「アタリメ、喜んで!」
「生いっちょう!」
その生を「なーま」と伸ばして言うのも私には信じられなかった。
お客に嫌な顔をされるほど明るい彼を私は『親しくなりたくない人』リストに登録していたが、彼も私のことは苦手のようで、他の大学の女子のように話かけたりしなかった。
接点はあっても交差するだけの関係だと思っていた彼と、バイト先以外であったのは、こともあろうに銭湯の入口だった。
「あれ?」
彼もバツが悪そうに会釈だけして男湯の暖簾に消え、私も言葉を発せず女湯の暖簾を潜った。
派手なシャツにギターを担いで校内を歩く彼が、三本線の入った緑色のジャージ姿で風呂桶を持っていたのを、湯船の中で思い出すと、可笑しくて仕方がなかった。
あれは、絶対に中学生の時から来ているジャージだ。そんなことを勝手に決めてシャンプーをしながら笑いを堪えるのが大変だった。
お互いに運悪く、帰りも一緒になってしまった。
緑のジャージと後をすこし離れて赤いジャージの女子が歩く姿を傍から見た人はどう思っただろう。
「山田さんは、この近くなんですね」
緑のジャージはバイト先とは別人のように丁寧で、髪がサラサラだった。
「筒井さんも、この辺なんですか」
緑ジャージさんの本名は筒井勉と言うのだが、バイト先の人はツッキーとみんな呼んでいる。ちなみに私はバイト先でも山田さんで、学校では靖子ちゃんと呼ばれている。
いずれにしても、あだ名はない。
「いえ、僕はもっと三鷹よりなんですけど、今日は近くの銭湯が休みだったもので」
「ビールでも飲みますか」
デートではない誘いとは言え、私とツッキーは夕暮れの児童公園で缶ビールを飲んだ。
「なんか、バイト先と感じが違いますね」
秋風が吹き始めた公園のベンチは、風呂上りには心地良かった。
「恥ずかしいですね」
もっとも恥ずかしい服装を見られたツッキーは、観念したように自分のことを話始めた。
「山田さんは、僕のこと嫌いでしょう?
そういうのって、なんとなく分かるじゃないですか」
ツッキーはそういうのが分からない人だと思っていた。
「そんなことないよ。ただ、タイプっていうか種類っていうか、きっと私と話しても面白くないだろうなって」
田舎に居るときは感じなかった自分の心が、都会に出てきて見つかった。
私はけっして明るく元気な女の子なんかじゃなかった。
いつも自分の友達を比較して、喜んだり嫉妬したりしている心が狭く腹黒い人間だった。
ただ、今までは比較となる対象が自分とさほど違わなかったから、それなりに自信をもって生きてこられたのだと思う。
中学・高校の六年間で二回ほど告白されたこともあったから、客観的にも容姿がそれほど悪いわけじゃないと思うし、勉強だって東京では知られた大学に入れる程度には出来た。
確かに、中学の時に仲が良かったリンカは、地域一番の高校に受かって、年に三回は告白らしきものを受けるほど可愛かった。
それでも、軟式テニス部では私の方が強かった。
そんな小さな比較の中で、私は明るく生きてこられた。
それなのに、田舎で羨む吉祥寺に出てきたとたん、比較する人の数もレベル違いすぎた。
リンコ程度に綺麗な女子は、無印良品のアロマ売場にいっぱいいるし、鼻血が出るほど勉強しても入れない大学名が筆記体で書かれたセットアップジャケットを着たテニスサークルの女の子は、日焼していても歯は真っ白で、笑顔が眩しかった。
身近なところででも、親が会社役員で季節ことに家賃一年分の服を買う人だっていたし、おしゃれなカフェで普通にキャラメルマキアートにシナモンを振りかけて飲んでいる。
当然、私のように田舎から出てきた裕福ではない女の子もそれなりに居たが、一年もすると、彼氏が出来てクレープを普通に食べながら街を歩けるようになっていた。
話は長くなったが、要するに彼氏も出来ず一年半を経過した私は、自信なぞという無形な武器を完全に失い、さりとて、この赤いジャージで何が悪い!と開き直る勇気もないままに、どんどんどす黒い女の子に変わった。いや、本性が体の奥から前面に浮き出してきたという感じだろうか。
ツッキーはというと、
「俺、田舎ではけっこうギターが上手いと思っていたんですよ。髪だって、スゲー伸ばしてグルグル回して、それなりにキャーキャー言われていたと思うんですけどね。
だから、ジョージに来ても負けねえって思っていたけど、全然違うんですね。
ジョージに来る前に、高円寺でアパート探したときは、タツーとか入れてギンギンな感じの人とか歩いていたから、俺も行けるんじゃないかと勝手に思っていたのに」
最初は元気だったツッキーが鼻水を垂らし始める頃には、何を言っているのか分からなくなった。
整理してみると、まず、長い髪を切ったのは銭湯で隣に座った怖そうなお兄ちゃんに叱られたからだ。そして、ツッキーがしきりに言っているジョージというのは、吉祥寺のことをおしゃれっぽく言っているのだが、その情報はかなり古く、私でさえ聞いていて恥ずかしい。
そして、吉祥寺から三つほど新宿よりにある高円寺という街に憧れたのもロック系の雑誌にファンキーな街として紹介されたことによるもののようだが、どれも情報としては正確とは言えない。
確かに高円寺は夢から覚められないミュージシャンがよい年をしても皮パンツを履いているし、その右隣りの中野には売れない芸人が深夜の公園で漫才の練習をしている。そして、左隣りの阿佐ヶ谷は、難しい演劇論を肴に朝まで安い酒を飲むのが似合う。
でも、どの街も基本的には普通の人が普通に生活している地味な街で、吉祥寺のようにさり気なく、極めてさり気なく、おしゃれに生活をする街ではないような気がする。
また、話が逸れてしまった。
要するに、恥ずかしい田舎者のツッキーは、恥ずかしさを隠すために思いきり元気に振る舞って、疲れていたのだ。
「このジャージを着ているときが、一番くつろげるんですよね」
お気に入りの緑のジャージは、やっぱり中学の時にウキウキ買ったものだった。
鼻水を流し、ジョージタウンなどという田舎者と親しくなる必要性など私にはない。
私がいま求めているのは、孤独もしくは白馬に乗った王子様なのだ。けっして、ママチャリで農道を二人乗りする相手ではない。
「では、ごきげんよう」
そう言いかけた私に、ツッキーは「山田さんもXXの出身ですよね」と、教えた覚えもないことを言い放った。
「も?」
振り返る赤ジャージ女子に緑ジャージは、「俺、隣の街なんです。しりませんか?デビルズパラダイスってバンド」と更なる矢を放った。
私的には、隣街はど田舎だ。まず、コンビニが1軒しかないことからも、私の街とは比べ物にならない。その田舎でデビルパラダイスとは凄すぎるし、知るわけもない。
「ごめん、私、ロックとか聞かないから」
「そうですよね、山田さんは『ゆず』とかの感じですよね」
確かにゆずは好きだ。アルバムも持っている。でも、その言われ方は気に食わないし、田舎のデビパラに言われることではない。
「ミスチルとかも聞くし」
それが、なんの反論になった訳でもないことは、口走った後で気がついた。
「俺も好きですよ、ミスチル」
暗黒とかの歌詞が好きだと思っていたツッキーの口から
「届けたい、届けたい♪」というミスチルのメローデイーが飛び出したのには驚いた。しかも、すごく心地良い。
それから、緑と赤のジャージは風呂上がりの体が冷え切るまで、田舎の話をした。
当然、ツッキーは自分の町が私の町より田舎だということは最後まで認めなかった。