六、 俺と彼女のでこぼこ共同戦線
さっき偽俺とすれ違った廊下に戻ってみたものの、やはりその姿は無かった。それどころか、俺は運の悪いことにまたも清水先生に遭遇し、ひとしきり追い回されたのだった。
清水先生との鬼気迫る追いかけっこの中で、校内は大体見たが偽俺を見つけることはできなかった。もう学校を出てしまったのかもしれない。だけど学校を出たとして、あいつはどこに行くのだろう。
年に似合わず驚異的な粘り強さを見せた先生をようやく振り切ると、俺はあの渡り廊下から再び中庭に出た。どんどん日が長くなる季節だけど、野草が花をつけている植垣には夕日の茜が差している。長くて、奇妙な一日だった。俺は結局自分の体を取り戻せなかった。身近に感じていた優しい先生には追い回され、名前も知らなかったクラスメートに助けられた。疲れがどっと押し寄せてくる。
俺、もう結構がんばったじゃん。なんで戻れないんだよ……。
暗いもやのように思考を埋めていく疲れと諦めに、しっぽまでが力なくだらりと垂れる。最初二叉に見えたそれも、今ではぼさぼさの縄みたいな普通のしっぽだ。
その時、植え込みの夏草の茂みから、長い影法師が伸びているのを見つけた。体育座りした膝に顔をうずめている。肩が震えていて、泣いているようだ。そこに居たのは、俺が学校中を探しまわった、『俺』の姿だ。
……なあ。
呼び掛けの代わりに出てきたのはもちろん猫の声だ。それに相手は反応して顔を上げた。俺を見とめると、眉が苦しげにぎゅっと寄った。
「お前、ちゃんと怪我の手当してもらえたんだね。よかった」
声が震えている。自分の泣き顔なんてなかなか見る機会など無いよな。それは、案外ぐしゃぐしゃじゃない、きれいな泣き顔だった。
「よかった……けど、なんでこんなことになっちゃったのかなあ」
そんなの俺にも分かんないよ。俺は委員会が終わったあと、ケンを探していつものように帰宅しようとした。俺の推測が正しければ、お前は怪我した猫の世話をしようと追いかけて中庭まできたんだろう?俺たちは二人とも、こんなわけの分からない理不尽に見舞われるような行動はとってない。
「輪島、どこ行ったんだろう。私の体、もっていっちゃったのかな」
いやいや、俺はここだ。その言い方だと変質者みたいだからやめてくれ。おそらく、自分が俺と体が入れ替わってしまったのだと考えて、この時間まで俺を、というか俺が入った自分の体を探していたのだろう。
不可解な事故によって俺の体に入ってしまったこいつは、猫の体に入ってしまった俺と同じくらい途方に暮れている。そりゃあそうだ。俺たちはまだ学生で子どもで、自分一人の力じゃこんな訳の分からない理不尽な状況に立ち向かうことなんてできない。
人間の言葉を発せない猫の声帯がもどかしい。俺はいま、こいつと話したいのに。心細くて戸惑っているのはお前だけじゃないって言いたいのに。
なあ。
なあ、藤宮寺。
「藤宮寺」
……。
えっっ!?!?
今誰が言った?それとも俺の心の声が出たのか?
俺と藤宮寺は、揃って目を見開いて固まった。そして声の主を探してキョロキョロと見回したが、俺たちの他には誰もいない。藤宮寺が『俺』の目をこちらに向けた。
「今、お前がしゃべったの……?」
そんなのわかんないよ。
「そんなのわかんないよ」
……ええっ!
さっと振り返ると、さっきまで普通の猫のしっぽだったそれがメガホンのように、二叉に分かれた先端をくっつけて輪を描いている。
「なにこれ」
うわっ、心から漏れた声が、しっぽの輪っかから響いてきた。俺が目を白黒させている間に藤宮寺がずいっと顔を近づけてくる。
「ねえ、あなた誰なの」
俺はおずおずと『俺』の顔を見上げる。
「俺、輪島。輪島秋生だよ。お前のクラスメートの」
俺たちが記念すべき初の自己紹介を交わした後、藤宮寺は怖い顔をして黙り込んでしまった。俺は俺で、今の状況を整理しようと必死になって考えを巡らす。まず、元の猫が何者だったのか知らないが、喋れるというのは非常に心強い。喋れず、元の姿に戻れずだったら最悪人間としての暮らしをドロップアウトして真剣に猫としての人生ならぬ猫生を設計しなければならないところだった。すると俺の姿をした藤宮寺が口を開いた。
「私、輪島と体が入れ替わったんだと思っていたんだけど、輪島があの猫の姿をしてるってことは、私の体に入ってしまったのは猫ってことでしょ?つまり私たちは、私が輪島に、輪島が猫に、猫が私にっていう形で三つどもえの入れ替わりをしてしまった。輪島、ダメもとで聞くけど、あんたはもとに戻れる方法を知っている?」
高校に入ってこれまで藤宮寺と話したことはなかったけど、話してみるとなんというか、イメージ通りの奴だった。言葉の端々から気の強い性質がびんびん伝わってくる。
「いや、知らねーよ。俺はお前らとぶつかって、気づいたらめっちゃ耳が痛くて、とにかく必死で走ってた。猫になったって分かったのだってトイレに飛び込んで鏡見てからだよ。ぶつかった直後のこと、藤宮寺は覚えてないの?」
やっぱりメガホンのようなしっぽから声が出てくる。残念ながら俺は元に戻る方法なんて、てんで見当もつかない。こっちが教えてほしいものだ。藤宮寺は何かものすごく失礼なことを考えてそうな目で俺を見下ろしたあと、ため息をついた。
「私もしばらく気をうしなっていて、気づいたら周りに誰もいなかったの。女子トイレに入ったらすごい目で見られたし、視界の高さが違って気持ち悪いし、もう最悪。あと、藤宮寺じゃなくてエミリでいい。藤宮寺って呼ばれるの好きじゃないから」
「ああ、うん……」
その姿で女子トイレに入ったのか。俺は猫の足で頭を抱えてしまった。藤宮寺、改めエミリはいらいらしたように爪を噛みながら続ける。
「とにかく、あんたじゃなくて猫の方が私の体に入ったのなら尚更早く探さないと。あの猫も戸惑っているだろうから心配だし、変な行動を誰か知っている人に見られても面倒だし。輪島、あんたも私の体を探すの、手伝いなさいよね。全員が揃わなければ戻れるものも戻れないでしょ、多分」
今から猫エミリを探すのかよ!ただでさえ俺の体を探して学校中を駆け回り、あまつさえ清水先生との追いかけっこを命からがら逃げ延びて疲れ果てている俺は、声を挙げずにはいられない。
「今から探すって言ったって、もうすぐ日が落ちて暗くなるぞ。大体お前はあの猫が行きそうなところに心当たりはあるのかよ?やみくもに探したって疲れてますます身動き取れなくなるだけだろーが。自分の体が心配なのは分かるけど、二人とも家に帰ってこないってなったら親が学校に連絡でもして、大騒ぎになる。そうなれば猫が入ったお前の体もすぐには探せなくなるさ。猫と入れ替わったって言って、誰も信じないだろ。気が急くだろうが、今は大人しく帰って改めて猫と元に戻る方法を探した方がいいって」
本音を言えば、俺は自分の体が見つかって、しかも猫じゃなくて人間が入っていたと分かって、だいぶほっとしている。それにちゃんと人間の言葉でコミュニケーションができるので、不安も大部分が解消された。もちろん一刻も早く戻りたい気持ちは変わらないけれど、一度家でゆっくり休んで、英気を養いたいのだ。反対する俺を、エミリはぎろりと睨み下ろした。
「あんたは良いよね、自分の体に入ってるのが猫じゃないって分かって」
ぎくっ!見抜かれていた。
「あのこが行きそうなところの、心当たりなんて無い。でも、今帰ったってどうするの?そもそも帰るってあんたの家のことでしょう?私にあんたのふりしろって?あんた自分のわがままに、私を付き合わせるのはやめてよ」
痛いところをズバズバ刺してくる言葉だ。だけどこいつの言う通りに今から猫を探したって、思うような結果は得られないだろう。俺たちは普通の高校生で、猫の世界なんてこれっぽっちも知りはしないのだから。
「頼むから、冷静になれ。確かに今は俺の家に帰るしかないけど、お前の悪いようには絶対にしないよ。それに明日になったら俺もお前の体をいっしょに探す。早く元の体に戻りたいのは、俺も同じなんだ」
俺の言葉を吟味するように、エミリはきつい目でしばらく俺を睨んでいたが、やがて根負けしたように一つため息を吐いた。
「悔しいけど、今私たちにできることはあんたの家に帰ることだけね。だけど明日は絶対私の体を見つけるんだから、約束よ。分かったら、私をあんたの家に連れて行きなさい、輪島」
俺の姿をした女王様は威丈高に命令した。こいつ根は悪くないんだろうけど、すっげえ偉そうなんだよな。
学校から15分、俺が先導する形で、俺たちは家に到着した。玄関前に突っ立って、ドアを開けずにいるのは、これからエミリが取るべき言動を復習するためだ。
「いいか、一人称は『俺』、母親は『かーちゃん』だ。俺のことは友達から預かったペットって説明しろ。飯のとき以外は部屋にいればいいから。俺の部屋は二階のつきあたりだ。狭いし、その、ちょっと散らかってるけど、十代男子としてはそれが普通なんだからな。今日だけだし、我慢してくれ」
「わかったってば。ほら、行くよ」
エミリがドアノブを握り、力を入れた。俺は左手に抱えられたまま、その横顔を見上げる。普通男子高校生は自分ちに帰るのにこんなに緊張した顔、しないよな。
「た、ただいま……」
エミリの挨拶はいつもの俺の声より数段かたかったが、キッチンの方からはいつも通りの母親が顔を出してきた。
「あきー、お帰り。ちょっと遅かったじゃない、どうしたの?あれ、何、猫拾ってきたのー?ちょっとお、制服に毛がつくわよー」
「あ、うん、あの、このこ友達の引っ越しの間だけって頼まれて預かったの。俺の部屋においてやりたいんだけど、いい?」
しどろもどろだし、俺にしてはなよっちい言葉遣いだけど、言い訳としてはまあ及第点だろう。エプロン姿の母親は抱えられた俺をジロジロと覗き込んでくる。なんか俺まで緊張してきちゃった。自分の家なのに、まさしく借りてきた猫状態だ。
「ふうん、良いけど……。ばっちい猫ちゃんねえ。名前はなんていうの?」
「えっ?名前?」
これは予想外の詮索だった。俺はバッとエミリを見上げた。やばい、目が完全にてんぱっている。
「名前……、名前は……」
「なあにー?聞いてないの?」
母親がいぶかしむように目を細めてエミリを見つめる。
「あの、みっ、みっ……」
「み?」
「ミルクって言うんだ!」
一瞬、俺たちは沈黙に包まれた。母親も口には出さずに思っただろう。汚い黒猫に『ミルク』かよ。エミリは俺から顔を背けている。
「まあ、いいわ。ご飯になったら呼ぶから、着替えてきなさい」
第一関門、なんとかクリア。
俺の部屋を見たエミリの第一声は「狭くて汚い」だった。まあ、予想通りだ。だけど俺だって言いたいことくらいある。
「少しの間なんだから、我慢しろよ。それに散らかってるだけで汚くはない、と思う。それよりお前、『ミルク』ってなんだよ。いくらなんでもセンス無さ過ぎだろ」
「いきなり振られたんだから、仕方ないでしょ。自分だって予想してなかったんだから、文句言わないでよ」
エミリが不機嫌な声を出しながら着替えのためにクローゼットを開け、固まった。あ、ちょ、そこは……。女の子が見るにはちょっと散乱しすぎている衣類の山がそこにあった。
「あんた、これこそいくらなんでもどうかと思うけど?」
「うん、これはその、ごめん。キレイな部屋着は引き出しの中に入ってるから」
なんとか着られそうな服を引っ張り出したエミリは、着替えた後で制服だけじゃなく散らかっていた服を少しハンガーにかけてくれた。それから汚いものを見るような目で部屋を見渡しつつ、ベッドの端っこにちょこんと腰掛ける。俺はフローリングの床に腰を下ろした。
「まあでも、思っていたよりはひどくなかったわ、あんたの部屋」
「お前、俺にどんなイメージもってたんだよ」
「さあ?」
俺はため息をついて、痛いところから話題をそらす。
「それよりさ、あの猫について教えてくれよ。あいつ、お前から見てどんな猫だったの?このしっぽとか、俺がこうして喋れてるのも明らかにおかしいよな。こういう入れ替わりが起きそうな前触れとかなかったのか?」
エミリは思い出そうとするように天井をあおいだ。
「どうって、まあ普通の猫よ。私も会ったのは高校に入ってから数回くらいだけど。しっぽだって前に見たときは普通だったし、特に変わったところなんてない、大人しい子。それに学校でしか見かけなかったから、行きそうなところなんてさっぱりね」
母親に不審に思われないよう、俺たちは小さめな声で話す。その声にも、落胆や不安がにじんでいた。ぼそぼそと続いた会話もしだいにしぼんでいき、ついには二人とも無言になってしまう。手持ち無沙汰なエミリは足をぶらぶらさせていたが、その足がベッド下の物にぶつかった。驚いて覗き込もうとする。
「いった……。なに?」
「わー!わー!ちょっと待って!その下は、見ちゃダメっていうか……っ」
「……うわ、最低」
だから見ないでって言ったのに。ベッドの下は健全な男子高校生なら誰もが持っている秘密の物置なのだ。俺だけが責められるのは理不尽というものだ。
「あんたってほんと、ばかね。お母さん絶対気づいてるに決まってるじゃない」
「えっ!なんで!?かーちゃんだけには知られたら困るんだけど!」
呆れたような、哀れむような視線を送られていると、階下から母親の声がした。
「あきー!何騒いでるのー?ご飯だからもう下りてきなさい」
俺は普段から親と積極的に会話をする方ではないし、それをエミリにも伝えてあったので、夕食の場では特にぼろを出すことはなかった。
エミリが抱えて下りた俺に、母親がミルクを出してくれる。本当はエミリと同じ白米とハンバーグが食べたかったが、今は非常事態なので贅沢は言うまい。
夕食を乗り切り部屋に戻ると、エミリが口を開いた。
「ご飯、美味しかった。あんたのお母さん料理上手ね」
「それは良かった。毎日食ってるとあんま思わねーけどな。お前んちは飯美味くないの?」
なんの気も無しに聞くと、エミリは黙り込んだ。
「うちのことはいいの。あんたは詮索しないで」
ひどい言いようだ。もちろん俺だって人様の事情を面白半分に探る趣味はないが、こんな状況なんだから少しはお互い歩み寄る姿勢を見せたって損はないだろうに。そうだ、こんな状況と言えば、俺はこいつに頼まなきゃいけないことがあるんだった。
「あのさ、悪いんだけど、俺を風呂に入れてくれないか」
下手に出て控えめに切り出した俺に、案の定変態でも見るような冷たい目が向けられた。
「は?なんで私があんたにそんなことをしてやらなきゃならないの?この期に及んで裸の付き合いが大事とか言うんじゃないでしょうね。ふざけたこと言ったらただじゃ済まさないわよ」
「お前なあ……。この状況でお前に下心なんか湧くかってーの!そうじゃなくて、この猫の体すごく汚いから、このまま寝られないんだよ。不潔なままでいたら怪我も悪くなりそうだし。俺がこのまま死んだらお前だって元に戻れるか分かんないだろ?だからこうやって頼んでるんだよ」
なけなしの誇りと守るための弁解に、エミリはふんと鼻をならした。
「わかった。洗ってあげるけど、変なことしたら熱湯かけるから」
するわけがないだろう。そもそも女子が入っているとはいえ、自分の体に興奮するような性質は持ち合わせてない。
俺はエミリを案内して浴室まで来たのだが、低い視点から見る水場はなんだかソワソワして気が休まらない。たらいに張った水のゆらゆらと揺れる水面なんか、見つめているとゾッとしてきそうだ。やっぱり猫になると価値観が変わってしまうみたいだ。俺が脱衣所で尻込みしていると部屋着の袖と裾をまくったエミリが呼んだ。
「ぐずぐずしないで、こっち来なさい」
とげとげしい物言いながら、エミリは優しい手つきで俺を洗ってくれた。猫用のシャンプーなんかうちにあるわけがないから、おっかなびっくり人間用のシャンプーを使っている。俺はお化けのように大きく見えるシャボン玉がどうにも恐ろしくて、エミリの腕に爪を立てないように気をつけながら、目をぎゅっとつぶっていた。
存外丁寧な手つきで泡を流しながら、エミリが耳の傷を覆うガーゼにそっと触れてきた。
「これ、痛いの?」
喋るにはしっぽをメガホンにする必要があるので、洗われているときにはちょっと喋りづらい。何か言おうとするともごもごという雑音が混じった。
「多少は痛いけど、我慢できない程ではないよ」
俺がそういうとエミリはごまかすように反対の耳の付け根を爪でかりかりした。う、それをされると不本意ながらのどがゴロゴロ鳴ってしまう。
「ふうん……。私が見つけたとき、あのこ見たこともないくらいパニックになってたの。いつもは静かなこだったのに。だからよっぽど痛くて怯えてたんだと思う。こんなことになったけど、傷をちゃんと手当できたのは、よかった」
その声は小さく尻すぼみで、うすいシャボン玉のように湿った浴室に消えた。
エミリはきつい言葉とは裏腹に世話焼きで、濡れた毛をタオルで乾かしてくれた。会話をするといがみ合いになってしまうけれど、そんなに嫌な奴ではないのかも知れない。まあ、ただ単に猫好きなだけなのかも知れないが。
その後エミリは自分も風呂に入るために部屋を出て行った。俺は怪我をしたり走り回ったりしたことが小さな体に負担となったのか、ひどく眠かったので、床にしいたタオルの上で丸くなった。普段なら床でなど寝られたものじゃないだろうが、今はすぐに睡魔がやってくる。俺が意識を手放しかけたそのとき、慌ただしい足音がしてまだ風呂に入ってない様子のエミリが戻ってきた。
「何、どうしたの?風呂なんか問題あった?」
起こされた俺は前足で顔をごしごししながら向き直った。
「ちがう、そうじゃない」
うつむいた顔はなぜかちょっと赤くなっている。どこか様子がおかしい。エミリはしばらく、言いかけては言葉を折る、というのを繰り返したが、意を決したのか何なのか、赤い顔で俺を睨みつけてきた。
「な、なんだよ。怖い顔して。俺がまたなんかしたかよ?」
「ちがう!あの、……だから、その……、輪島」
再び沈黙が流れる。本当にどうしたというのだろう。後は寝るだけという状態なのに。金魚のようにぱくぱくした口が、聞き取れないほど小さい声で何か言っている。え、何だ?
「……トイレの仕方がわからない……」
俺は思わず土下座のように揃えた前足に突っ伏してしまった。
屈辱やら色んな複雑な感情に赤くなって震えるエミリに、ヒト男子の一般的なトイレの仕方を説明すると、俺は再びタオルの上に丸くなる。学年のマドンナで羨望と畏怖の目を向けられていたエミリは、話してみるとちょっと嫌な奴だった。だけど、普通の女子として16年間生きてきた彼女が、それも幾人もの異性から好意を寄せられはね返してきたであろう彼女が、その歯牙にもかけていなかったようなクラスメートの俺(しかも猫)に、男性としてのトイレの仕方を説かれなければならないというのは、さすがに可哀想かもしれない。だけど考えようによっては……ちょっと興奮する、かも。だって見た目は俺だけど、中身はあの綺麗な藤宮寺エミリだ。あの気位の高い女子高生が、俺の体でトイレをして、俺の体でシャワーを浴びる……。ダメだ、これ以上は考えるのをやめよう。不可抗力な状況に置かれた同士だし、俺にはそんな不躾なことを考える権利なんてない。
目を閉じながらも、そんな出口の無い思考回路にはまっていると、エミリが濡れた髪をふきながら部屋に戻ってきた。彼女が寝る場所としては俺のベッドしかないが、今はそれに文句を言う気力も無いのか、エミリは大人しく布団に入った。
「輪島」
「なに」
「電気のリモコンどこ?」
「枕の横にあるだろ」
その声は重たげだ。眠いんだろう。答える俺も丸くなった体勢で目は閉じたまま。不思議なしっぽだけで返事をした。
ピッという音とともに電気が消えると、どちらも言葉を発しない。俺はいつもベッドに入って3秒で寝入る性質だから、彼女ももう夢の中かもしれないな。
「輪島」
あ、まだ寝てなかったか。
「明日は絶対、私の体を見つけるんだからね。それでちゃんと元に戻ろうね」
「うん。そうだな、絶対。入れ替わりは、終わりにしよう」
返事は返ってこなかった。代わりにスーっという寝息が聞こえてくる。俺はしばらくの間、タオルの上に放り出した前足に復活したつやを眺めていたが、次第に視界がぼやけてきたのに任せて意識を手放した。俺たちの長くて奇妙な一日はそうして暮れていったのだった。
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