四、 今、俺は猫である
二人と一匹の衝突によって、俺たちは仲良くもんどりうってひっくり返った。俺は頭を打ったようでしばしの間ブラックアウトしていたようだったが、突如として襲ってきた強烈な痛みに飛び起きた。それは思考を焼き切るような、今まで経験したことのない痛みだった。正常な判断などとてもできない程、その痛みは俺の脳裏をかき混ぜていたが、どうやらそれは俺の左耳に起因しているようである。俺はいてもたってもいられず、やみくもに走り出してしまった。自分がどこに向かっているのかすら分からない。とにかくこの痛みの正体を突き止めなければいけない。
俺の暴走は、よく慣れた臭気の中に飛び込んだところで止まった。言わずと知れた、男子便所である。だが、今はよく知る便所特有の臭いが堪え難いほど強く感じた。とにかく、便所なら洗面所の鏡があるから好都合だ。どうして俺がこんな痛みに遭っているのか、しっかり確認してやる。
しかし顔を上げた俺は息を飲んだ。見慣れたはずの小便器が高層ビルのように俺の眼前にそびえ立っている。自分の視界を到底信じられない。俺は頭を強く打ちすぎて脳にダメージを負ってしまったのだろうか。
目的の洗面所も見上げるほどの高さにある。鏡を見たいのに手さえ届かないとはどういうことなのだろう。落ち着いたら、生徒の誰もが使える仕様にするよう、学校側に意見しよう。必ずそうしよう。
俺は白い陶器の洗面台を見上げたまま、今も攻撃の手を緩めない鋭い痛みに焦れていた。ついさっきまで親しんでいた、把握していた俺の世界が、今じゃ意地悪く俺に背を向けている。否応のない苛立ちが足下から募ってきた。
そのとき、後ろから誰かが背をおしてくれるように、「跳べるよ」と囁きかけられたような気がした。
そうだ、俺は何を足踏みしていたんだろう。こんな高低差など容易く飛び越えてしまえばいいじゃないか。
俺は足の筋肉に力を充満させた。その次の瞬間、俺は白い洗面台に着地していた。
本当に跳べてしまった。呆然としたのもつかの間、またも電流のような痛みが頭蓋に響いてきて、俺は鏡を覗き込んだ。そして俺はまた、唖然とした。
俺が覗き込んでいる鏡には、一匹のひどく小汚くて不細工な猫が映り込んでおり、猫のほうも心底びっくりしたという表情でこちらを覗き返している。この猫の中で唯一見れた造形というのが、均整のとれた二等辺三角形でピンと立った一対の耳なのだが、猫の右側の方の耳にはざっくりと切り込みが入って、そこからおびただしい血液が流れている。この様子ではひどく痛むだろう。
ちょっと待てよ、この猫が映っているのは鏡だから、実物の猫が怪我をしているのは右耳ではなく、俺と同じ左耳ということになる。俺はぶるぶると震える手を持ち上げて顔を触ってみた。触っているようでよく分からない、不思議な感覚だ。鏡の中の猫も、毛繕いをするように自分の顔を前足で触っている。信じたくないけれど、もう確信的に悟ってしまった。鏡に映っている猫は、俺だ。
俺は、猫になってしまったのだ。
絶望した俺だったけれど、どこか頭の片隅は冷静なままだった。鋭い痛みのお陰も多少はあったかもしれない。その冷静な俺がまずもって心配したのは、感染症だった。鏡に映った俺は、汚い猫だ。見た限り野良猫だし、生まれてこのかた風呂にも入ったことはなさそうだ。泥のような汚れもところどころにへばりついているし、フケともノミともつかない白いものがあちこちについている。傷口をこのままにしておいたら、猫破傷風かなにか知らないけれど、確実に感染する。そして最悪の場合、死ぬ。だけど俺は、こんな汚い猫のまま人生を、いや猫生と呼ぶべきだろうか、とにかく一生を終えるなんて絶対にごめんだ。まずは傷口を清めないといけない。
俺は蛇口に手を伸ばした。
つるっ。
…………。
ぷにぷにの肉球とくるっと丸まった爪で構成された猫の手は、銀色の蛇口の上ですべってしまう。俺はもう一本の前足を投入してがっしりと蛇口をつかんだ。
こ、これは……。
このまま全身の体重を乗せれば、もしかしたら蛇口を回せるかもしれない。だけど、今俺がいるのは陶器の洗面所の上だ。前足に力をこめれば、今度は後ろ足の踏ん張りがきかなくなってしまう。俺は爪で蛇口をかりかりしてみたり、後ろ足のポジショニングを変えるためにふみふみしてみたりと試行錯誤を繰り返したが、一滴の水も落ちてはこなかった。
思わずぱっと顔を上げると、鏡の中にどこか血走った黄色っぽい目が見えた。明らかに必死なその形相に、こんな状況でなければ笑ってしまっていたかもしれない。だけど、今は愛嬌のあるその表情が憎たらしくて仕方がない。鬼気迫る俺とは対照的に、どこか能天気な動きでふわふわしているしっぽも同様だ。
俺がじっと見ていると、しっぽの方も見られていることに気づいたかのように、はっと動きを止め、挨拶のようにぴこぴこと先端を動かした。それは猫のしっぽにしては奇妙な形をしていた。ちょうどアルファベットのY字のように真ん中ほどから先が二叉に分かれている。訳は知らないが、こんな便利そうな形状をしているのだから、少しは役に立てよ。今は皮肉にも、猫の手を借りたいような状況なのだから。
すると、しっぽは「いいよ」とうなづくような動きでピコっとした後、蛇口の方に伸びてきた。そこでぎゅぎゅっと動くと、俺の今までの努力をあざわらうかのように、勢いよく水が流れた。
俺は少しの間流れ落ちる水を眺めていたが、意を決して頭を近づけた。きっとしみるけれど、ばい菌に殺されるよりはましだ。
水が傷口に触れる。冷たい、と感じるよりも先に痛みが全身を貫いた。しっぽの先まで全身の毛が逆立ちしているのがわかる。傷口を通り抜けていく水の、一つ一つの粒子が針であるかのようだ。
俺は、涙が出そうになるのをこらえながら、四肢を踏ん張った。もしかしたら本当に涙が出てしまっていたかもしれない。それでも水に流された血が白い洗面台を汚し、さらに水がその鮮やかな赤さえキレイに押し流してしまうまで、じっと待った。
別の生き物のような不思議なしっぽが、蛇口を閉めてくれた。痛みは去っていないけれど、血が止まって俺は結構冷静になれた。俺は猫と入れ替わったはずの俺の体のことを考えた。
俺の体に入った猫がもし本能のままに行動したら、始まったばかりの俺の高校生活はきっと詰む。もしやつが本能のままに、校舎の壁で爪研ぎをして俺の手を血まみれにしたり、いやみなほどの秀才イケメン杉田にフーッと威嚇をしたり、あの清純可憐なミコリンの白く細い芸術的な足に、破廉恥にも欲望のままにすりすりとマーキングでもしたら!!!
それは……それは、白状しよう、うらやましい!!!俺だって許されるなら、ミコリンの汚れ無き柔らかい体に触れてみたい!!!だけどそれをしてしまえば俺はその瞬間虫けらにも劣る低俗な存在として、ミコリンから、そしてこの学校の全員や社会の皆様から白い目を向けられるのだ。最悪の場合、齢16にして婦女暴行の罪でお縄に繋がれるかもしれない。
それだけは避けなければならない。
俺は、後生の俺にとって掛け替えの無い甘酸っぱい青春の一ページとなるべき清く正しい高校生活を守る。だから今こそ、欲望のまま道を踏み外そうとしている俺自身を探し出しにいくのだ。
ようやく話が動き出しました。
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