三、泣きっ面に猫
アクシデントに近い形で体育祭実行委員になってしまい、棚ぼた的にミコリンと話すことができた水曜日を別とすれば、俺の一週間は女子との接点など皆無のまま過ぎていくのが常だ。そのストイックっぷりはまるで俺の周囲半径一メートルに女子の近づかない結界でも張ってあるかのようだ。例えるならそう、家の周辺に野良猫避けのCDやペットボトルを置いているような感じ。俺の場合は意図してやっているわけじゃないが。だから俺は、ミコリンと話せる水曜日を指折り待つ、という程ではないにせよ楽しみに日々を過ごすようになった。
自分から何もしなくとも女子が寄ってくるイケメン秀才の杉田とはえらい違いだよ、と休み時間にクラスの中央の席で和気あいあいと女子と話す男を見やる。今も数人の女子が前の時間の数学の問題を杉田に訊いているところだ。甘えるようなトーンの高い女子の声は反響しながらこんな教室の端まで響いてきた。渦中の杉田は嫌な顔一つせず答えてやっている。そして解説を請いた当の女子は、杉田の秀でた額にさらりとかかる前髪をぽーっと見上げていた。
こんな世界の片隅の高校一年の教室にも不平等はあるもんだ、そう思って杉田の後方に視線をずらす。すると今度は杉田とはまた違った意味での人気者、藤宮寺エミリが目に入った。他のクラスの男子生徒が通りがかるたび、その席をちらちらと見やっては去っていく。彼女の席もやはり何人かの女子生徒に囲まれている。小島とか藤田とか、一年生にしてはちょっと背伸びをしてスカート丈を短くした、強気そうな女子ばかりだ。どこどこのブランドの新作がどうとか、なんとかちゃんの新しい彼氏がどうとか、ひっきりなしに話題を変えている。だけど中心にいる藤宮寺エミリの表情にはあまり変化は見られなかった。けだるげに頬杖をついて、作り物めいた顔を級友たちに向けている。彼女の笑った顔を、俺はまだ見たことがない。
ふと、先週の水曜日に、中庭で見かけた後ろ姿を思い出す。あんな風にかがんでいる姿はあまり彼女のイメージにない。あのとき藤宮寺はあの猫と何をしていたのだろう。そこまで考えて、俺は彼女の声すら知らないのだということに気づいた。
水曜日の朝は、いつもなら10分で終わる準備にもちょっと念が入る。といっても寝癖がないか確認して、少量のワックスで動きを出すくらいだけど。義務教育を終えたばかりの俺はおしゃれの仕方なんて知らないのだ。
いつもより周到な俺をいぶかしむ母親の視線から逃れるように家を出ると、人通りの少ない住宅街の道の上に、小さな影を見つけた。
「ナア〜ン」
「うわっ」
いきなり不細工な声を出すので、俺はびっくりしてしまった。黒いシルエットは小さい猫のものだった。こちらをじっと見る縦線の入った黄色い瞳に既視感を覚える。
「あれ、お前こないだ藤宮寺といたやつ?」
どうりで見覚えがあると思った。そう言うと猫は軽い足取りで俺に近寄り、足に絡み付くようにして俺を見上げた。俺が思い出したのでどこか満足げだ。
「よく見りゃお前、汚くてブス猫だな。藤宮寺はこんなんと何してたんだか」
相手は猫だと思って口に出してしまった。とたんに猫はガウガウ言って離れた。言葉が分かるわけはないだろうが、マイナスなニュアンスを感じ取ったのかも知れない。
教室の自分の席につくと、俺の小さな変化をめざとく見とめたケンがちょっかいを出してきた。
「ワッキー今日きまってんね〜。なに、デート?」
ふっ、ケンめ、俺がそう毎回お前の策略にはまると思ったら大間違いだぜ?
「はははお前、俺にとっちゃ毎日がスペシャルだっての」
ノリノリの俺にケンが水を差す。
「今日俺コンタクト入ってないんだけどいつも通りのあほのワッキーで安心したよ」
上げて落とす……それがお前の、やり方かーー!
放課後また、二人分の上履きの音が廊下に響く。一方はペタ、ペタ、ペタと気の抜けた感じ。もう一方はキュッキュッと小気味良い音だ。もちろん後のがミコリンの上履きの音。
「くしゅっ!」
大きなくしゃみで足音は少し乱れた。
「大丈夫?」
風邪だろうか、それとも花粉症か?俺はポケットをごそごそしたけど、あいにくスマートに差し出せるようなハンカチやティッシュは見つけられなかった。
「うーん、むずむずする。輪島君はさ、どこか部活入らないの?」
ミコリンはいつもと違うちょっとくぐもった声で俺に問いかける。
「うーん、今は授業についていくので精一杯で余裕無いしな。余裕できてきたら考えようと思ってるけど」
これはほんと。中学の頃はバスケ部でゆるーく練習しつつベンチを温めていたけど、受験を機に体育館から足が遠のき、高校に入学した今じゃ授業を受けて宿題をする以外はまったり過ごすことに居心地の良さを感じている。
「それに高校の部活って真剣すぎてこわいっていうか……。俺なんかじゃすぐ放り出されそうだよ」
俺の自虐っぽい口調に、ミコリンが肩口までの黒髪を揺らして笑う。
「そんなことないでしょ、輪島君はどの部活でも大丈夫そうだと思うよ」
ドキッとして隣に並ぶ少し低い位置にある白い小さな顔を盗み見る。髪を耳にかける細い指とか、ゆらゆら揺れて色んな光をうつす瞳に見入ってしまいそうになる。
「まあ、部活ってお腹空くもんね。輪島君、お腹空かない?」
「へっ?」
突然変わった話題に声をあげてしまった。我の道を突き進むミコリンは学生カバンをごそごそやっている。
「あ、あったあった。」
ミコリンはカバンから取り出したものをぱきっと割って片方を俺に差し出した。
「はい、チューペット。輪島君、好き?」
「う、うん。ありがと……」
この際、どうやって学生カバンの中でキンキンに冷えたチューペットを保管したのかとか、校則的にアウトではないのかとかいうことは気にするまい。俺は冷たいチューペットとミコリンの優しさを黙々と味わいながら、体育準備室に向かうのだった。
普通の教室くらいの広さがある体育準備室には先週よりも多い、15人程度が集まっていた。じゃあ始めよっか、とテニス部の田原先輩がみんなに着席を促した。この人はなるべく早く終わらせて練習に行きたいだろう。今日も練習着の白いウェアの上から学校名の刺繍が入ったウィンドブレーカーを羽織っている。俺はもしミコリンがテニス部に入ってひらひらの短いスカートを履いたら似合うだろう、と想像して思わず目尻を下げた。
「先週伝えた通り、今日は個別の種目についてどういったものをやるか話し合います。今週初めて参加する人もいるから、先週も来ていた人から意見を出して下さい」
田原先輩よりは実務に長けてそうな、眼鏡の女子の上級生がテキパキと進める。アホ毛の一本もない真っ直ぐな髪と細いフレームの眼鏡がスパルタな印象を演出している。俺はミコリンがドS眼鏡教師の格好をしたら、と脳内で想像した。うーん、ミコリンだとあまり緊張感が出ないかも。その格好でもじもじ恥じらってくれたら、それはそれでなかなか……。
ぐいぐい、ぐいぐい。
ん?隣に座るミコリンが俺を肘で小突いている。ミコリン、ドS教師だったらそんな手加減をしたら舐められちゃうぞ。肘で椅子からどつき落とすくらいじゃないといけない。
「輪島君!呼ばれてるよ」
ミコリンの心配そうな小声がようやく俺の耳に届いた。
「輪島君、だよね?ずいぶん真剣に考えていたようだけど、なんかいい案でもあるの?」
冷え冷えするような眼鏡先輩の声が、俺のやに下がった妄想に完全に終止符を打った。おそるおそる顔を上げると、眼鏡の奥のつめたーい瞳と目があってしまった。
「えっと、あの……」
やばい、なんにも案なんて考えていない。何か、何か考えろ、俺!
ミコリンの気遣うような視線を左頬に感じる。ああ、ミコリンのドS教師姿なんてイメージしている場合じゃなかった。コスプレなんか……。
は!一つだけ思い浮かんだ。けどこれを言ってもいいものかどうか。
「輪島君、案はないの?あるなら早く言って」
眼鏡から零度の光線が放たれ俺を射抜く。ええいままよ!
「あの、コスプレリレーというのは、どうでしょうか」
俺の小さな声が水を打ったような静かな室内に虚しく響いた。
先輩が眼鏡の奥でまぶたを閉じるのがスローモーションのようによく見えた。意外にもまつげが長く、整った顔をしている。しかし先輩が再び目を開けたとき、そのまなじりはこれ以上ないほどつり上がっていた。
「それは、もちろん君も出るんだよねえ?それで、その衣装はどうするの?生徒にどのように用意させるの?まさか具体的な方策もないのに突き当たりばったりに提案したってことはないよねえ?」
明らかに怒気のこもった先輩の詰問に、小心な俺はすくみ上がってしまった。
「この中には、もしかしたらいやいや実行委員を任されてしまった人もいるかも知れないけど、各々クラスの代表としてこの場にいる限り、責任をもってしっかり取り組んで下さい」
眼鏡先輩は睨め付けるような目つきで部屋全体を見渡した。
「まあまあ和田、そのくらいにして。来週一人一個ずつ案だしてもらって投票することにしようぜ」
田原先輩が飄々とした口調で凍った空気を中和して、その場を収めた。
俺の横を歩くミコリンは、人差し指でぽりぽりとこめかみをかいている。
「災難だったね」
玄関に向かう道すがら、ミコリンはなんでもないような感じで俺に話しかけてくれる。でもその声には会議の前にした会話よりも多分に彼女のいたわりと気遣いが含まれているのを感じた。
「いや、ぼーっとしてなんにも考えてなかったから自業自得だよ。阿部にもヒヤヒヤさせちまって悪かった」
俺が悪かった。ミコリンといっしょにいられることが嬉しくて、それしか考えてなくて、結局彼女にいらない心労をかけてしまった上に彼女の前で恥もかいた。俺はミコリンの方をとても見ることはできなかった。
「輪島君!」
でも先に靴を履き替えて下駄箱を出たところで、ミコリンの声が降ってきた。声に続いて何かきらっと光るものが投げられる。俺は慌ててそれをキャッチした。
「あめちゃんあげる」
ミコリンはいつもどおりの、輝く笑顔だ。
「あたし、コスプレリレー嫌いじゃないよ。来週はもっと詰めてきて、先輩見返そうよ。期待してるからね」
俺はミコリンが眩しくて、なぜだか気恥ずかしくて、顔が火照ってくるのを感じた。だから、軽く挨拶して去っていく彼女を何も言えずに見送った。手のひらに残ったあめ玉を握りしめる。
ミコリンはすごい。そして俺は単純だ。彼女のさりげない一言で浮上させられて、気の乗らなかった委員会だってもうこんなにやる気になってしまうんだから。
葉桜の並木道を歩いて、俺は初めて会った時のミコリンのことを思い出していた。あの時この桜はまだつぼみのままで、俺はミコリンの名前すら知らなかった。俺のくせに、今日はやけに感傷的だ。
校門の前まで歩いてきて、俺は校舎の方を見上げた。俺の失敗のせいで委員会は早く終わってしまったから、もしかしたらまだケンが教室に残っているんじゃないかと思ったんだ。中庭に接する渡り廊下を通って階段を上れば、俺たちの教室まで近道になる。担任のしみっちゃんに見つかったらお説教だけど。俺は自分の思いつきを採用することにして、踵を返した。
先週同じ場所で藤宮寺エミリを見かけたことがふいに頭をよぎった。最近あの石膏像のように表情の無いクラスメートのことがやけに気にかかる。俺がミコリンといっしょにいる度に新しい表情を発見するように、あいつにも他の色んな一面があるのだろうか?
でも俺は高校を卒業するまでにそれを見ることはないだろうな。自分の考えを打ち消しながら、先週彼女がしゃがんでいた場所を通り過ぎる。渡り廊下まできて革靴を脱ごうとしたところで、背後から複数の慌ただしい足音が聞こえてきた。
「ちょっと、あなた!お願い、その子を捕まえて!」
悲鳴に近い声に何事かと振り向く。視界に飛び込んできたのは、いつぞやの汚い野良猫と髪を振り乱した女子生徒だった。
あれ?藤宮寺エミリ?
尋常じゃない様子だが、その女子生徒はかのクラスメートのようだ。俺は言われた通り猫を捉えるべく両手を広げた。
普段ならそんな下手は踏まないのだろうが、よっぽど慌てふためいていたのか、「ミギャッ」と潰れた声を上げて猫は俺に突っ込んできた。
間髪入れずに藤宮寺エミリも走ってきた。だが俺は顔を上げて、ぎくりとした。彼女の進行方向の地面に黄色い物体を見つけたからだ。あれは漫画などで登場人物などをタイミングよく転ばせるために使い古された常套手段、バナナの皮!全然気づかなかった。誰があんなところに捨てたんだ。いや今はそんなことより。
「おい待て、止まれ」
「えっ、あっ、きゃ!」
俺の静止虚しく、彼女はまんまとバナナの皮を踏んでつんのめった。俺と藤宮寺エミリは猫を挟んで仲良く頭から激突した。奇しくもそれは、クラスメートでありながらある意味雲の上の存在であった藤宮寺エミリと俺のファーストコンタクトだったのであった。
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