第3章:月夜のキス《断章2》
【村雲夏姫】
私が中学生になってしばらくしてのことだった。
ある日、私は兄である明彦の誕生日ケーキを作っていた。
日曜日と言う事もあり、朝から彼は部活である陸上部の練習に出かけていた。
キッチンでスポンジケーキが焼き上がる香ばしい匂い。
「……ふふっ、今日のケーキは美味しくなりそう。新作、夏姫スペシャル!」
お菓子作りはほぼ毎日していた。
私はケーキ作りの本を眺めながら、焼き上がったスポンジケーキをオーブンから 取り出して、ふんわりとしたケーキに満足気だった。
「お兄ちゃん、喜んでくれるかな♪」
あの頃はまだ今のように険悪な事もなく、兄と呼び慕う仲。
素直に彼のためだけにケーキを作っていた。
「あとはこれにデコレーションすれば完成っ。お兄ちゃんはショートケーキより、チョコケーキの方が好きだよね。だとしたら、次はチョコ作りだ」
私は手際よくチョコレートケーキ用のチョコクリームを作り、出来上がったケーキをデコレーションしていった。
彼の好みのお菓子を作り、食べてらもらうのが楽しみだったの。
「よしっ、いい感じに出来あがり。あとは仕上げだけ」
出来あがったケーキに私は満足してしばらく冷やしておく。
あとはそろそろ帰ってくる彼を待つだけだ。
「あら、夏姫。ケーキを作ったの?」
「お兄ちゃんの誕生日なんだから当たり前じゃない。ケーキ買ってないよね?」
「えぇ、夏姫がいつも美味しいケーキを作ってくれるものね。明彦もきっと喜ぶわよ」
母に褒められて私は得意気に笑みを見せる。
お菓子作りが趣味で、将来の夢は一流店のパティシエになること。
お菓子職人になりたい、なんて夢を抱く子供は多い。
それが夢で終わるのが大半だけど、私はそれを叶えて見せる。
そう心に決めて、常に努力を重ねてきた。
「……あっ。お兄ちゃんが帰ってきたっ」
玄関で物音がしたので私は彼を出迎えに行く。
「よぅ、夏姫。いい匂いがするな。ケーキか?」
「お兄ちゃんの誕生日ケーキを作ったの。今日のは特別製なんだよっ」
「へぇ、それは楽しみだ。シャワーを浴び終ったら食べさせてもらう」
家に帰ってきた彼はすぐにお風呂場へと行く。
私はその間にキッチンでケーキの準備を始めることにした。
ケーキを食べやすい大きさに切りながら用意していた『お誕生日おめでとう』のチョコプレートを乗せて、ついに完成。
テーブルの上においてみると、それっぽくていい。
残念ながらローソクはお兄ちゃんは不要派(刺さったのを抜くのが面倒なため)なので必要はない。
「後はジュースをもってくればいいよね」
コップにオレンジジュースをいれて準備万端。
お母さんも加わり、彼と一緒に誕生日ケーキを食べることにした。
「誕生日おめでとう、明彦お兄ちゃん」
「ありがとう。夏姫」
彼はチョコレートケーキを食べると「美味しい」と言ってくれる。
「相変わらず、夏姫の作るケーキは美味しいな」
「ありがとう、えへへっ。お兄ちゃんに褒められたぁ」
私が作るケーキを食べて、笑顔を見せてくれるだけでいい。
それだけで心が満たされる。
私はその時まで幸せな時間を過ごしていた。
好きなお菓子を食べてくれる人がいる。
小さな頃から慕う兄がいて、心の支えになっていた。
それなのに、私は――。
私にとっての悪夢の始まり。
それはその日の夜、部屋に戻ろうとした私が耳にしたある言葉。
リビングでは両親がふたりで話をしている。
「そうか。明彦も今年で14歳か。子供の成長とは早いな」
「……えぇ。夏姫もすっかりと明彦に懐いてくれて、ホッとしているわ。最初はどうなる事かと思ったけども、今では本物の兄妹そのものだもの」
最初は何の話かさっぱり分らなかった。
私と兄の話をしているのは分かっても、それがどういう意味なのか理解できていない。
「お兄ちゃんはお兄ちゃんなのにどういうこと?」
私は廊下でその話を聞きながら、疑問を抱く。
彼らはそんな私を知らずに話を続けてた。
「最初に明彦を引き取ると決めた時、まだあの子も1歳だったからな。すぐ後に夏姫が生まれて、子育ても忙しくてなぁ。最初はふたりともどう育ってくれるか心配だったが、今の二人を見ているとその選択に間違いはなかった」
「明彦もとても優しい子に成長してくれたもの。夏姫もお兄ちゃんと慕ってるわ」
……何かがおかしい。
それに気づいた時は私は知りたくもない真実がそこにあるのだと気づいた。
これ以上は聞きたくない。
聞かなければ何も問題なく過ごすことができる。
これからも、ずっと――。
「いつかは話さなくてはいけないな。明彦にも、夏姫にも……」
「何も話さなくてもいいとさえ思うわ。このまま、ずっと」
「そうは行かないだろう。これはけじめだよ」
お父さんはそう呟くと、私にとって衝撃の言葉を告げた。
「……あの子は僕達の実子ではない。それは事実だ」
「今は私達の愛すべき子供よ?」
「分かっているさ。明彦がどう受け止めるかは別としても、僕らは彼を本当の子供として育てている。それに間違いないはない」
私の中で何かが壊れる音がした。
少女漫画でよく見る展開だ。
兄と妹のラブストーリーならお約束の実は兄妹じゃなかったって言う展開。
大好きなお兄ちゃん……血の繋がりがないから結ばれる、とか。
そんな安っぽいどこにでもありそうな漫画のような設定。
「……嘘だよ、こんなの嘘に決まってる」
私は自室に戻り、ベッドに寝転がり天井を見上げた。
ショックがあまりにも大きすぎて何もする気が起きない。
「お兄ちゃんは、私のお兄ちゃんじゃない?」
少女漫画ではそのまま血の繋がりのない兄妹がハッピーエンドになるための設定。
血の繋がりがないのなら、兄と妹じゃない。
ただの異性でしかないじゃない。
それじゃ、彼は一体、誰なの?
どうして、私の兄として一緒に暮らしているの?
たったひとつの言葉が私の心の何かを壊し、戸惑わせる。
「……私は、これからどう接すればいいの?」
思春期だった事もあり、私はどうすればいいか分からず、彼を拒絶するしかなかった。
兄だと思っていた人間が本当の兄じゃなかった。
これが恋愛モノの少女漫画なら私は喜ぶ立場なのかな。
そんなわけがない……私は彼に異性を求めていたわけじゃない。
私自身の心は彼を“お兄ちゃん”として求めていたのに。
「実の兄妹じゃない」
大好きだったお兄ちゃんが本当の兄ではない。
それが他人だったと知ってしまった。
これからどう対応すればいいのか分からなくなっていた。
それ以来、私は彼に対して完全に心を閉ざしてしまった。
あれだけ慕っていたことが嘘のように。
拒絶することしかできなかった。
兄と信じてきた人間が他人だと知った。
その真実は10代の私が受け止めるにはあまりにも重い話だったから。
それから何年か経っても、未だに私は何も変わらずにいる。
あんなに近かったはずの心の距離が開いてしまったの。
どうして、こんなことになってしまったのかな。
私は過去を思い出しながら、寝ている明彦の横に立つ。
「……もう何年前だっけ」
ぐっすりと熟睡中、全く持って起きる気配はない。
その寝顔を見つめながら私は彼に言葉を放つ。
「現実ってのは漫画と違うんだよ。実兄妹じゃないなんて、そんなことを言われても困るだけ。何で、家族じゃないの?私達は兄妹じゃないの?」
私はそっと寝ている彼の頬に触れる。
「大きくなったよね。身長も今じゃ30センチくらい違うし」
昔と比べて大人っぽくなった気がする。
考え方も、以前と違うのにも驚いた。
「たった1歳違いなのに。アンタだけ大人になってる」
そして、私はまだ子供のままだ。
「ずるいよ、私だけ置いていかれてるじゃん」
考え方も、彼のように冷静に物事を考えられるわけでもない。
私達の関係を変えた、あの日の真実を私は両親に尋ねたことはない。
真実を確認することも怖かった。
「私はただの兄妹でいたかったのかな……?」
分からない、それが正しいのかどうかなんて。
こうして仲違いする意味があるのか。
「分からないから拒絶するしかないの」
私が分かっているのはただひとつだけ。
「アンタなんてお兄ちゃんって呼んであげない」
……強がるようにそう呟いて、私は薄ら笑いを浮かべた。
私自身、彼に対して、兄として接することは多分、もうない気がするんだ。