最終章:お兄ちゃんなんて呼んであげない
【村雲明彦】
お兄ちゃん。
夏姫からそう呼ばれていた懐かしい頃を思い出していた。
あの頃はまだ夏姫も素直で可愛くて。
よく俺のためにお菓子を作ってくれたっけ。
あれから少しの時間が経った今、夏姫は俺を兄とは呼ばない。
それが寂しいと思うこともあるけれど。
性格だって昔とはちょっと変わってしまっている。
だけど、変わらないこともある。
それは……夏姫が俺にとって可愛い存在であるということ。
「準備はできたか、夏姫?」
昨日のうちに荷物をまとめておくように言っておいた。
そもそも、この家に持ってきている夏姫の私物は家出の荷物だけ。
そう多くはないけれども、こちらで買ったものを含めれば少し増えている。
「これとこれはこっちに置いておいてもいいよね。また来るんだし」
「シャンプーやらタオル程度ならかまわないが。パジャマは持って帰れ」
「えー。それを私だと思って夜、寝るときに抱いて寝るとか……」
「ありえないだろ。どんな変態さんだよ!?」
女物のパジャマを抱いて寝る変態さんにはなりたくない。
「むぅ。なんか私までバカにされたような」
「気のせいだ。ほら、荷物をまとめる。電車の時間までそう時間はないぞ」
予約している特急の時間まであと1時間半と言ったところか。
「え?あっ、もうこんな時間。シャワー浴びてくるから、これを入れておいて」
「おーい、俺に任せっぱなしかい」
シャワーを浴びにいってしまった夏姫。
俺は仕方なく荷物をまとめる。
夏姫の私服とパジャマ、それにこれは……下着……ハッ!?
いかん、何を手に持って凝視してるのやら。
それこそ変態さん扱いされてしまうではないか。
夏姫は……意外に可愛い奴を使ってるのだな。
なんてことを思いながら荷物をまとめあげると、俺はあるものに気付く。
「これは……?」
テーブルに置かれているのはネックレスだった。
いつだったか、見覚えのあるものだ。
「夏姫の大事にしてるものだっけ」
俺はそれを忘れないようにリビングに置いておく。
やがて、夏姫がシャワーを終えてやってきた。
「朝シャワー完了!すっきり目覚めて、準備OK!」
「そりゃ、よかったな。はい、これ」
「あっ、ありがとう。これがないとねぇ」
夏姫は自然な仕草でそれを身につける。
「お気に入りのアクセなのか?」
「……は?何を言ってるの、これ、明彦がくれたものでしょ」
「ナンデスト?」
そんな洒落たもの、私の記憶にございませんが?
俺の発言に夏姫はムッとした顔をみせた。
「うわぁ、忘れてるよ。私の中学の入学祝いにくれたものなのに。あれからずっと大事につけてるの。ひどいわ、明彦」
確か夏姫が中学に入る頃に遊びに出かけて買ってほしいとお願いされた。
その時のアクセを未だに大事にしてくれるとは……。
「明彦がくれたものだから、大事にしているの。喧嘩してた時もこれだけは外せなかったんだ。私のお守りみたいなものだから」
「そう言ってくれるとこちらも嬉しいよ」
昔に挙げたプレゼントをちゃんと大事にしてくれている。
それは思いのほか、嬉しいものだった。
駅について、俺たちは実家の方向に向かう特急電車に乗る。
これで数時間、電車に揺られたら俺たちの実家にたどり着く。
夏姫がこちらに来たみたいに夜行バスを使う手もあるが、時間優先なのでこちらを使う。
「なぁ、夏姫。改めていうけどさ。覚悟は決まったか?」
「当然。そんなものはとっくに決まってるよ。夢も恋もどちらも手にする」
「そうか」
俺たちがこれから立ち向かうのはとても大変な試練だ。
けれども諦めずに頑張りたい。
「……なんて言葉では言っても、正直、緊張はするけどな」
「明彦?」
「なんでもないよ。俺は俺のするべきことをするだけさ」
俺には夏姫との交際を認めてもらうようにお願いすることしかできない。
「まぁ、そんなことばかり考えていても、しょうがないか」
結局のところ、悩んでも、答えは両親と話してみないとでないのだから。
電車からの景色を眺めている夏姫。
俺は彼女に前々から思っていたことを尋ねてみる。
「そう言えば、夏姫。前から聞きたかったんだけど」
「なぁに?」
「どうして、俺の事をお兄ちゃんって呼ばなくなったんだ?そりゃ、喧嘩してた時期もあるけどさ。今さらかもしれないが気になってな」
少なくとも、夏姫がこっちに来てからは一度も呼ばれていない気がする。
関係修復がなった今も、だ。
夏姫は何だか言いづらそうな顔をする。
「それは……だって……」
「だって?」
「今さらじゃない。私はもう明彦に兄を求めてないもん。昔みたいな兄と妹みたいな関係じゃなくて、男と女の関係になりたいの」
答えは単純なものだったようだ。
兄と呼ぶのをためらう、たったひとつの真実と理由。
「――もう、明彦の事を“お兄ちゃん”なんて呼んであげないっ」
夏姫は満面の笑みで断言する。
確かに今さらだったのかもしれない。
俺たちの関係はもうすでに、恋人という関係に変わろうとしている――。
数時間後、俺たちは自分たちの家の前にいた。
夏姫が俺の手を握りしめてくる。
「うぅ、緊張するなぁ……」
これから両親との対面に俺たちは緊張していた。
「俺も緊張してる。さすがに緊張するぞ」
「でも、私たちはちゃんと話をするためにここに帰ってきたんだよ」
例え、どんな結末が俺たちを待っていたとしても。
俺たちはその困難だって乗り越えてみせる。
「……大好きだよ。私は明彦が好き。それだけ忘れないで」
夏姫が俺にはっきりと言葉にして呟く。
大事な彼女を、自分のものにしたいから……。
俺たちは手を繋ぎながら家の扉を一緒にあけた。
「「――ただいま」」
俺たちの2週間という同居生活は終わった。
その長くも短い時間の中で夢や恋愛、様々なことを2人は経験してきた。
このたった2週間の出来事を俺はきっとこれからも忘れることはないと思う。
俺と夏姫の関係はまだ始まったばかりなのだから――。
「……おい、夏姫。なんでここに来た?」
「んー?冬休みだし、遊びに来たよー」
数ヶ月ぶりの再会。
家に帰って来た俺を待っていたのはこたつに寝転がる妹がいた。
「いや、俺が実家に帰るって話は?明日帰る予定だったんだけど」
「……知らなーい。いいじゃない、こっちの方がふたりっきりで、好き放題できるでしょ?恋人同士、遠距離恋愛は寂しくて辛いもん。ちゅー」
いきなり俺にキスしてくる。
俺は彼女を受け止めてやると嬉しそうに笑うのだ。
「久しぶりだね、明彦。会いに来ちゃった」
結果として言えば、俺と夏姫の交際は認めてもらえた。
両親も最初は戸惑ってたが、本気だって気持ちを分かってくれたのだ。
理由として『夏姫を大事にしてくれる相手だから』と言ってもらえた時は嬉しかった。
「ったく、前もって言っておいてくれ。正月だけは帰ろうか」
「うん。そうだ、さっきね。小桃さんに挨拶してきたよ。春からお世話になりますって」
「そうか。よかったな」
「えへへっ。試験にも合格したからね。来年は一緒に暮らせる部屋に引っ越そうよ」
夢を追い求めてた夏姫。
推薦での大学進学は正式に断り、製菓の専門学校への入学を決めた。
……こちらはこちらで親と教師を交えて相当にやりあったらしい。
最後まで揉めに揉めて、自分の意見を貫き通した夏姫の勝利だった。
両親からは「もう好きにしなさい」と呆れに似た諦めの言葉があったらしい。
「私は人気のパティシエになる。みんなを見返してやるんだから」
「……ふっ。そういう所はお前らしいよ。やるからには、やりなさいって両親も言ってたぞ。ここからだな、夏姫。夢をしっかり叶えて来いよ」
「うんっ。明彦のおかげだよ。夢も恋も明彦のおかげで手に入れられたの」
俺に抱き付いて甘えてくる。
夢を追い求める夏姫を見ていると、俺も頑張りたいって気持ちになれるんだ。
「夏姫は俺の大事な女の子だよ。これからもずっとな」
恋人を抱きしめながら俺はそう呟いた。
ようやく恋人関係になれた。
これからは堂々とこの子を愛することができるんだから――。
これで完結です。




