第6章:誰を思うか《断章3》
【村雲夏姫】
誰のためにお菓子を作るのか。
小さい頃の私は、明彦のために作っていた。
彼がお菓子を食べた時の笑顔が大好きだった。
『美味しいよ、夏姫』
その一言が嬉しくて、その一言が聞きたくて。
私はお菓子を作ろうとしていた自分を思い出した。
今の私に欠けているもの。
それは誰を思うかと言う心。
技術をあげるために努力した。
それは悪いことじゃない。
けれども、いつしか誰かのために作ると言う事を見失っていた。
自分自身のため?
そんな自己満足で作られたものは意味がない。
食べてくれる人のために作る。
そんな大事で初心を私は忘れていたの。
「こんな気持ちで再び、お菓子を作ることになるなんてね」
私はオーブンを見つめながらそう呟く。
本当は私自身、分かっていたのかもしれない。
ただ、懐かしい過去を思い出したくなかった。
今は食べてくれる人間がいない現実を受け止めたくなかった。
「自業自得……だよね」
私が明彦を拒んだ、それが招いた現状だ。
私は変わらなければいけない。
小桃さんが私に欠けているとものだと言った。
この“誰かのために作る心”を見失っていた。
あの頃のように、お兄ちゃんの笑顔がみたいと頑張っていた時とは違う。
心の持ちよう、今のままでは本物のパティシエにはなれないもの。
「……明彦のために、か。そんな気持ちをもう一度、思い出した」
アイツを兄だと慕っていたからこその想い。
今は少し違うけれど、感謝の気持ちはある。
その気もちを胸に私はアップルパイを焼いていた。
「そろそろ出来上がったか?」
お風呂に入ってた明彦が戻ってきた。
「どう?お腹は減った?」
「あと一つくらいはかろうじて。それ以上は期待されても困る」
「そう。だったら、座っていて。もうすぐ焼き上がるから」
「なぁ、夏姫。聞いてもいいか?」
オーブンで焼き加減を見つめる私に問う。
私は彼の方を見ずに話を聞き続ける。
「ん?何よ?」
「どうして、お前はパティシエになりたいんだ?」
「どうして?変な事を聞くのね」
「変かな。お前がお菓子好きなのは知っている。でもさ、パティシエと言う事は自分の作ったお菓子を皆に食べて欲しいって気持ちがあるからだろう?」
パティシエに憧れたのは、美味しいお菓子を作れる人を尊敬しているからだ。
初めて本物のお菓子を食べた時の感動が忘れられない。
他の誰にも真似できない味。
そんなパティシエになりたいと夢を抱いてきた。
「私も有名なパティシエみたいになりたいのよ」
「お菓子作りがただうまいだけでいいのか?お前が欲しいのは名声だけなのか?」
「嫌な事を言うじゃない。まるで、私が自己満足でしか料理していないみたいな言い方……私は……私、は……?」
明彦に文句を言おうにも、続く言葉が出なかった。
あぁ、そう言う事なんだ。
私は唖然とする自分に気づいた。
いつのまにか、私がパティシエになりたい理由の中にあるものがなくなっていたの。
「……笑顔が、ないのね」
「笑顔?」
「そうよ。私はパティシエになって、食べてくれる人の笑顔が見たかった。美味しいって言ってもらいたい。皆を笑顔にしたいって、思ってたはずなのに」
子供心に感じてたパティシエと言う“夢”の始まり。
きっかけはそんな些細なことのはずだった。
些細でも、一番大事なことなのに。
「私には最初からこの心構えが足りてなかったの」
そして、それは出来たお菓子にも表れていて、小桃さんに見破られた。
「夏姫のお菓子、俺は好きだぞ」
「ありがと……」
今、欲しかったのはその言葉だった。
完全に落ち込む前に、明彦は欲しい言葉をくれたの。
私は彼の方を向くと、いつも通りの明彦がいる。
あの頃と変わらない……優しい兄の姿。
「何もかも変わったのは私だけ」
しかも、悪い方にだけね……。
オーブンがチンっと音を立てる。
どうやら、パイが焼き上がったみたい。
リンゴの焼けたいい匂い、これはきっとうまく行ける気がする――。
「出来たわよ。さぁ、食べてみて」
「熱っ!?さすがに焼きたては熱すぎるぞ」
「……冷めたのよりはマシでしょ?」
「そうすっね。いただきます」
アップルパイを熱そうに食べる明彦。
けれど、先ほどと違い、その表情には変化があった。
「美味しい……。何でだろう、さっきよりも断然美味しい」
「……あっ」
――笑顔。
明彦が私に向けたのは笑顔そのものだった。
食べてくれた人がくれる笑顔が好き。
「そう……よかった」
ホッとする私に明彦が手を伸ばしてくる。
「これなら、パティシエのお姉さんも納得するって。よく頑張ったな」
頭を撫でる彼にくすぐったさを感じる。
あれだけ嫌悪し続けてきた自分がすっと消えていく。
何で……明彦は……私の事を……。
「か、軽々しく私に触れないでっ」
「褒めてるのに。お前も食べてみるか?」
「い、いいわよ……」
「どう違ったのか、お前自身が味見しなきゃ分からないだろうが」
彼はパイをちぎって私の口へと持ってくる。
これを食べろと言う方が恥ずかしいわ。
けれども、拒むことも出来ずに私は口を開く。
「あーん」
「や、やめてよ。その言い方」
まるで、パカップルみたいじゃない。
渋々、私はパイを食べさせてもらう。
一口、食べただけで何かが違うのに気付く。
本当に味が変わった気がする。
何て言うのか分からないけど、優しい味になった。
「これが……心の違い?」
誰を思ってお菓子を作るのか。
それだけのことで、こんなにも違うなんて。
「パティシエになりたい。お前が夢を持つ職業なんだ。夢に少しは近づけたか?」
「……」
「夏姫?」
「う、うるさい。カッコつけないでよ」
こいつのおかげで近づけたと思う自分が恥ずかしくて。
私はぷいっとそっぽを向く。
「はいはい。とりあえず、しばらくはアップルパイは遠慮させてくれ」
「仕方ないわね……。明日からはケーキ三昧よ」
「マジで勘弁してくれ」
私の中で何かが変わる。
お菓子作りの心構えも。
明彦への想いも。
何かが変わったその夜は不思議なくらいに心がスッとしたの。