鏡の世界
私はメイクを落とす為に覗き込んだ鏡の前で、大きくため息を吐いた。
勿論寸分の遅れもなく鏡の中のもう一人の私がため息を吐く。
今日も失敗した。上司に怒られ、後輩には笑われた。
自分でもよく会社勤めができていると思う程私はどんくさい。
何故わざわざさえない自分の姿をしげしげと鏡で見てしまうのだろう。少なくとももう一人ここに、ダメな人間がいることで安心を得る為なんだろうか。それとも何処か勝手に変わっていないかと心の底で期待でもしているのだろうか。
勿論鏡の中の私はいつもの私。ため息の吐き方も、肘の着き方も、運のつき方もまるで同じなさえない私だ。
私は変わりたいと思っている。でも何から始めたらいいのか見当もつかない。
私は目を閉じて鏡の前で少し考えてみた。
会社を辞める? 何か勉強をする? 資格をとる? 外国語でも習う? ボランティアでも始めてみる? 旅にでも出る?
今までも考えたことはある変わる切っ掛け。
でも――
そんな時間ないし。続く分けないし。こんな私が変われる訳なんてないし。
閉じた瞼の裏に浮かぶのは、多くの努力を途中で投げ出している私自身の姿だ。まるで鏡で写し取ったかのように、色々な新しい自分が中途半端に物事を諦めているのが思い起こされる。
ここで決断すれば人生は変わるかもしれない。だけど私にはその一歩を踏み出す勇気がない。毎日のようにここで決断すれば思いながら、今日まで鏡の前でため息を吐く世界で生きてきたから。
勉強だって昔は参考書ぐらいは買ってきたのだ。旅行にいこうとパンフレットぐらいはもらってきたのたのだ。
今は何処かに埋もれているけど。
私は部屋の整理もできないのだ。
いつも同じ鏡に写し取ったような私の毎日。変わっていくのは散らかっていく一方の私の部屋ぐらいだ。
私がそこまで考えて目を開けると、鏡の中の私が――
鏡の中の私が何処からか取り出した参考書を見開いていた。
私が驚きに目を見開くと、向こうの私も気がついたのか驚きに目を見開いた。
勿論鏡の中の私だ。全く同じ姿で驚いている。だけど鏡の中の私は私が手にしていない参考書を手に驚いてる。
私は慌てて鏡を閉じた。
昨日のことは目の錯覚だったのだと自分に言い聞かせて、私は翌朝メイクの為に恐る恐る鏡を立ち上げた。
鏡の中の私はやはり恐る恐る鏡を持ち上げている。昨日のあれもやはり気のせいだったのだろう。
私は手早くメイクを済ませると、カバンに必要なものを詰め込んだ。身支度を整えもう一度鏡に全身を映し出させる。
何かが違う。何となくそう思ってしまい、私はしげしげと鏡を見た。
カバンが少し膨らんでいる。何か参考書一冊分だけ大きいような――
私は慌てて仕事に出かけ、帰りに新しい鏡を買った。怖かったのだ。今の鏡を使うことが。
新しい鏡は特に異常な光景を映し出さない。いつものさえない私の世界を忠実に映し出していた。
私はやはり鏡に写し取ったかのような代わり映えのしない世界を生きた。
そしてある日思い出して、以前まで使っていた鏡を覗いて見た。
私はほっとする。同じ自分がそこには写っていた。
背後に写る部屋も散らかった私の部屋だ。やはり前のあれは見間違い――
私は鏡に思わず顔を近づけた。そんなことをしても、背後の景色は自分の姿でよく見えない。そんなことも分からないから私はダメなのだろう。
だけどお陰で別のことに気づいた。鏡の中の私はつやつやとした肌をしていた。まるで毎日が充実していると言わんばかりだ。そして背後の部屋に散らかっているのも、私の部屋がゴミめいた生活用品なら、向こうは各種の参考書や旅行のパンフなどだ。
向こうの私が私を見下すように笑った。
私はまた怖くなって鏡を閉じた。だが時折気になって鏡の向こうを覗いてしまう。そこには日々充実していくと思しき私の姿があった。ある日は恋人らしき人物が部屋を訪れ、向こうの私が手を伸ばすと独りでに鏡が閉じてしまった。
代わって欲しい――
私は嫉妬にそう思った。
そしてある日夢を見た。私は向こうの世界の私になっていた。でも惨めな夢だった。私は私のままで向こうの私になっていたのだ。
味わわされたのはできる自分とできない自分のギャップ。
そう、世界を代えても意味がないのだ。私が変わらないといけないのだろう。
変わって欲しい――
私は自分が変わろうと決心し、参考書手に鏡に向かってみた。
向こうの私も同じ夢を見たのか、そんな私を見て優しく笑ってくれていた。