黄泉路
団地に紫陽花の花が咲いた。
陽の当たる花びらは、薄紫を色づかせている。群れる緑の中、蕾は未だ細長く白い花弁を伸ばしていた。
梅雨の湿気が蒸し暑い中、今日ばかりはいたく晴れている。梅雨明けはまだずっと先だと言いながら、テレビの天気予報士は、梅雨の合間の快晴だと話していた。
夏子は紫陽花が陽の光に照らされている中、カンカン照りの太陽の光が正面からフラッシュの様に眩しく目に刺さるもので、思わず手のひらで影を作った。そのまま立ち止まることなくいつも通りの道を歩いて行く。
団地を抜けてしばらく進むと、誰が作ったのか、てっぺんに到底手が届きようもない、高い高いコンクリートの塀がある。そのコンクリート塀に両端を囲まれた道は、およそ一方通行の道幅で、車で走る分にはあまりにも見通しが悪過ぎる。この道を車が走っているのを見たことがない。それもそうだ。この道に入ろうとして、間違えた、と、バックして出ていく車をごく稀に見るくらいである。
だからだろうか、夏子はこの道でいつも野良猫に会う。この高い塀に囲われたアスファルトの道は、どんなに陽が高く昇っても影に覆われていて、直射日光を遮ってくれる。居心地がいいのか、野良猫なのか放し飼いの猫なのか、首輪をしている猫も、していない猫も、自由気ままに彷徨いている。
夏子は時間があればそこらにいる猫の背を撫で、首元をこすり、猫に愛想を振っている。人間慣れした彼らは拒むことなくゴロゴロと喉を鳴らす。あまりに猫がたくさんいるので、どれがどの猫だとかは区別がつかない。
夏子は、人の名前や顔を覚えることが苦手だ。それがまあ動物になってみれば、より区別がつかなくなる。しかし夏子が意味もなく話しかければ、彼らは彼女を見上げる。白目がほとんど見えない、真っ黒い大きな瞳、人間とは違う眼だ。感情が読み取れることもなく、ただ眼を合わせれば気まぐれに夏子から離れていく。夏子は猫たちとのこの距離感をとても好んでいた。
夏子の朝の道は変わらない。
季節に応じて咲く花や、枯れる木々、香る花、落ちる葉。天気によって濡れる地面、熱されたアスファルト、水たまり、滑りやすくなった薄い氷の張った地面。そして高い塀に両端を囲われた狭い道、猫、通り過ぎる人、猫を構う人、エサを与える人、時間に追われて走る人、スマホを見ている人、自転車を立ち漕ぎする人、重い鞄を背負う人、どの季節も変わらない服装をしている人。
夏子の朝の道は変わらない。
「おはよう、夏子。」
たくさんの風鈴が、甲高く鳴いた。夏子の横を強い風が通り過ぎていく。
「おはよう、坂口くん。」
夏子は後ろから掛けられた声に、振り向きざま挨拶を返した。そして正面を向いて歩き出す。その横に坂口が並んで、同じ速度で歩き出す。
先月からのことだったろうか。夏子の朝の登校時、この高い塀に囲まれた細長い道を通るたびにこの少年が現れるようになった。制服は夏子とは違う学校のもので、詰襟の黒い学ランを来ている。夏子は坂口に、もう夏になるのに暑くないのか、と一度聞いたが、これが落ち着くんだ、と答えた。季節がどれだけ巡っても半袖短パンの少年はいたが、逆もあるんだと、夏子は改めて感心した。
二人はこの高い塀に囲まれた狭い道を並んで歩くが、特にこれといった知り合いでもない。先月あたりのこと、夏子がこの道を通る時に坂口が現れて、今日と同じように「おはよう、夏子。」と挨拶をしてきた。夏子は人の顔も名前も覚えるのが苦手だったため、もしかして知り合いだったのかもしれない、と思いながら記憶を探ってみたものの、やはり声をかけてきた少年に見覚えはない。こういう時は素直に非を認めて名前を聞くしかない、夏子は経験から正直に話して、彼は坂口というのだと知った。
「そういえば、私たちどこかで会ったことがあったの?」
夏子が尋ねた。坂口の名前を聞いた時のことを思い出していたから、自然と口から疑問が出た。
「うん、あったよ。夏子は変わらないね。」
「そうなの。坂口はよく覚えていたね。」
夏子は自分の記憶力のあまりの低さから、坂口の記憶力に感心しながらも、やはりこういうことが起こるたび申し訳ない気持ちが湧き上がってくる。しかし今になれば毎日この道で顔を合わせる仲だ。流石にあまりにも低い記憶力の夏子であっても、坂口の声は覚えられるようだった。顔はいまいち自信がないようだったが、それでも詰襟の黒い学ランを着て、あの風鈴のような涼しい声を聞けば、それは坂口だと分かるのである。
高いコンクリートの塀に囲まれた道を抜けると、二車線を歩道が挟む大きな道路に出る。そこで夏子は左に、坂口は右へ、二人は違う学校なのでここが分岐点らしい。
「じゃあまた明日。」
「また明日。」
自動車が車輪の軽快な音を鳴らして夏子の横を走り去る。坂口の声は、一度に溢れた騒音の中でも掻き消されることなく夏子に届き、夏子もそれに反射的に返事をしてまた立ち止まることなく歩いていった。
窓ガラスを洗い流すように雨が降っている。
梅雨の合間の快晴はほんの合間に終わって、夏子の持つビニール傘を雨粒が途絶えることなく叩いている。団地の紫陽花が水滴を弾きながらも蕾が嬉しそうに開き始めてている。雨に濡れた葉の緑は、日光が雨雲に隠れているせいか深緑になり、開花した花弁も青が濃く見える。なるほど紫陽花とはよく名づけたものだと夏子は横目に見ながら感心した。
今日も夏子は朝いつも通りの時間に団地を抜けて、あの高い高いコンクリートの塀に囲まれた道を進み、そして二車線を挟む歩道を左へと曲がる。
今日の雨でアスファルトはすっかり黒味がかった灰色になり、あちこちに水溜りを作っては、排水溝は大忙しだ。夏子の履く革靴にも歩くたび底から泥水が染み込んできたので、黒いハイソックスの足首から下はもう酷い有り様である。サンダルで通学できれば少しは快適だろうに、制服というのは分かりやすいが機能性に難があるのではないかと夏子は不快な足をまた一歩進めた。
例の高い高いコンクリート塀に囲まれた狭い道は、晴れた日でも薄暗いのであるから今日のような太陽を隠す日は夜のような有り様である。そうして当然猫たちはいない。彼らが雨の日にどこにいるのか夏子は全く知らない。全く知らないが雨のあたらない場所にいるんだろう、ということくらいは分かる。今日は靴の中が不快で、猫に触ることもできない、傘で片手が塞がり、その傘には絶え間なく夏子を濡らそうと雨粒がバシバシと降ってくる。ビニール傘に当たる雨粒の音と、地面に降り注ぐたくさんの雨音の後、夜のようなこの道が、突然光に照らされたかと思った一瞬、近くで雷鳴が轟いた。
「おはよう、夏子。」
雷鳴はゴロゴロ唸るように低い音を立てて消えた。涼やかな挨拶の声はすぐ真後ろから聞こえて雷鳴にかき消されることなく夏子の元へ届いた。
「おはよう、広口。」
夏子が振り返るとやはりそこにいたのは広口で、彼も今日はビニール傘を刺している。夜みたいに真っ暗な道で、真っ黒いアスファルトの地面の上に立つ詰襟の黒い学ランを着た広口は、そのまま背景に溶けてしまいそうであったが、彼の焼けていない白い顔貌がいつものように隣に並ぶときちんとそこに広口の存在を認識できた。
「すごい雨だね。」
どちらともなく話し始める。
「さっき、広口が声かけてきた時、すごい大きな雷が鳴った。結構近いところに落ちたんじゃないかな。」
「落ちるなんて。隕石じゃあないんだから。」
「そりゃあまあそうだ。隕石が降ってくるのに比べたらこの程度。」
ビニールで弾き落とされる程度の雨粒と、避雷針に落ちる程度の雷と、そりゃあ確かに礫や岩が落ちてくるよりかはずっといいだろう。夏子は涼しげに話す広口の声で先ほどまで感じていた雨への不快感が少し和らいだ。
「靴がね、どろどろなの。この大雨で。」
「僕もそうだよ。革靴なんて言いながらちっとも役に立たない。」
「本当に革なのかなこれ。」
「さあね。どっちにしろこの雨じゃあみんな足はどろどろだよ。」
そうかそうか、じゃあ歩いている人はみんなこのどろどろの足で歩いているのか。夏子はその平等に感心してすっかり満足した。
「この道、いつも猫がたくさんいるでしょう。」
「そうだね、僕も毎日見るよ。」
「天気が悪いとね、みんなどこかへ行っちゃってるのよ。」
「そりゃあそうさ。誰だって好き好んでこんな日に外に出たくないよ。」
「そうだよね。ああ、私やっぱり雨好きじゃないかも。」
「好きな人は少ないだろうね。」
たわいない会話をして、だんだん塀の先から薄い雨雲に隠れた太陽光がぼんやりと道を照らしているのが見える。そうして高い高いコンクリートの塀に囲われた道を出て、いつも通り夏子は左へ、広口は右へ曲がる。
「じゃあまた明日。」
「また明日。」
次の日もやはり雨であった。雨粒が屋根にあたり地面に流れ大きな音を立てている。それに伴い横っ面から強い風がビュウビュウ音を鳴らして吹いている。夏子は今日も左手にビニール傘を刺しながらも、雨粒を飛ばして吹いてくる風に思わず傘を手放しそうになった。これはもう刺しても刺さなくても変わらない事態になりそうだと思い、泥水に浸かった革靴を面倒に引きずりながら朝の道を進んだ。
団地を抜ける際、昨日と同じように紫陽花は嬉しそうに雨に濡れている。蕾はだんだん数を減らして、次々と開花していく。元々咲いていた花は強い風に散らされ、徐々に花弁を少なくしつつある。強い風に従うよう葉が靡いている。美しい藍色を湛える紫陽花を横目に夏子は団地を抜けた。
例の高い高いコンクリート塀に囲われた道は昨日と変わらない。猫もおらず、わずかな日光も入らず、ところどころに水溜りを作るばかりである。しかしながらビル風とはまた違うのか、この道に入ると随分と風がマシになった。左手で強く傘を持っていた夏子も思わず力を抜くが、それでも雨の量は変わらない。昨日はこの道で高口としか合わなかったが、今日もこの道は夏子以外歩いていく人も、自転車で通り過ぎる人も見当たらなかった。いたかもしれないが、夏子の記憶力はあまり良くない。
夏子が高い高いコンクリート塀に囲われた夜のような朝の道を歩いていくと、知らない内に足元が水をかき分けるようにジャバシャバと音が鳴るようになった。気づかぬ内に夏子の革靴の半分が沈むくらい道路の水嵩が増している。ビニール傘へ絶え間なく落ちていた雨粒も今はバケツをひっくり返したように量を増しているようだ。これは参った。夏子はどろどろになった革靴がもはや使い物にならないくらい水の中を歩いていくのであるから、もはやその不快を通り越して驚きしかなかった。
一瞬夏子と道を明るく照らしたかと思えばドォンと低い雷鳴が落ちる。上を見上げれば雨雲を縦に割くように一瞬稲光が走る。明るく空を照らしてそして一秒も満たずドォンと雷鳴が轟く。今日は今年一番の雨かもしれない、夏子はそう思って歩くものの水嵩がなにやら増していく一方で歩く速度が落ちているようだ。なにかビニール袋のようなゴミが向こうから緩慢に流れてくる。なぜこんな日に登校しなければならないんだろう。もしかしたら今日は休校日になったんじゃないだろうか。それにしても足が重い。この道は、はて、こんなに長かっただろうか。
「おはよう、夏子。」
足元の水をかき分ける音をさせて真後ろから溝口の声が聞こえた。
「おはよう、溝口。」
夏子は左手にビニール傘を刺していたが、隣に並んだ溝口はもはや諦めたように傘を刺していない。
「溝口はもう傘を諦めたの?」
頭からドシャドシャと水を浴びる溝口は、皮肉気に口元を歪めた。
「これじゃあもう刺しても刺さなくても意味ないさ。どうせ全身ずぶ濡れだよ。」
溝口の言う通り、傘を刺しているのはもはや形だけで夏子も全身ずぶ濡れである。少し気を抜けば傘は飛んでいきそうであった。
「確かに。」
夏子も同意してビニール傘を閉じた。傘を横に傾けた瞬間、シャワーを浴びるように雨水が頭から降り注ぐ。なんだか夏子は疲れてしまった。朝からこんなに疲れてしまってはどうしようもない。思わず塀にもたれて腰を下ろしてしまった。もう下半身の布は諦めている。溝口は足を止めて夏子のそばに立った。
「どうしたの、夏子。」
「ちょっと疲れたの。だから少し休む。」
「学校に遅れるよ。」
「きっと今日は休校日よ。こんな暴風雨なんだから警報かなにか出てないとおかしいよ。だから帰る。」
「もう、学校には行かないの?」
「そうだね、もうたくさん行ったから、今日はもういいかな。」
「じゃあ僕もサボるよ。休校日だったかもしれないけれど。」
そう言って溝口も気にもしないように夏子の隣に座り込んでしまった。水嵩は増える一方で夏子のハイソックスまで沈んでしまっているのに、溝口は気にせず座り込んでしまった。
「せっかくここまで歩いてきたのに。」
思わず夏子がぼやくと、溝口は笑った。
「そうだね。夏子はよく頑張ったね。」
「溝口もね。もう私と溝口しかここを歩く人を見なくなったから。」
「それはどうだろうね。案外明日には晴れて、猫や他の人たちも通るだろうよ。」
「そんなものかな。ああ、でも疲れた。猫の一匹でもいればね。」
「彼らは賢いからね。ちゃっかりどこか雨のあたらない場所で過ごしているさ。」
とりとめのない話を続ける内に、水嵩はまたもや増して、とうとうお腹まで沈んでしまった。立ち上がって、歩き出さなきゃいけないのに、こんな中水をかき分けて進むだなんて、夏子はすっかり心が折れてしまった。隣には溝口が変わらず並んでいるし、しばらく水嵩が下がるまで待とうかとも思う。けれど。
「溝口は、あー、みぞぐちだっけ?ちがう、君の名前、あれ、あの、もしかしたら違うかった?」
「これは珍しいね。君が人の名前を思い出そうとするなんて。」
「本当に失礼だけれど、本当に失礼なのは私の方だから。どうにも頭の一部が弱いみたいで、君の名前も顔も思い出せないんだよ。でも君の声は知っている。」
涼しげで凛と澄んだ声は梅雨の湿気を吹き飛ばすようである。
「君が最初に私に名乗った名前はなんだったの?」
「さあなんだったかな。僕もね、毎日君に違う名前で呼ばれているから、自分の名前を忘れてしまったんだよ。全く酷い話だ。」
「君ほど記憶力のいい人が?まさか」
「そのまさかだよ夏子。」
これは大変なことをしてしまった。夏子でさえ自分の名前は忘れたことがないのに、自分のせいで、隣にいる彼は、自身の名前を忘れてしまったというのだ。
「ああどうしよう、どうすればいい。」
「気に病まなくていいよ、夏子。名前なんてほら、誰かわかるか為のマークでしかない。」
「他人にとってはね。でも自分にとっては大事なものでしょう。」
「じゃあ夏子、君の苗字は?」
そう言われて、夏子も自分の下の名前が夏子であることはしっかり覚えているが、上の名前が全く思い出せないことに今更気づいた。
「あらら。なんだったっけ。」
「ほら見ろ。相変わらずだね夏子は。名前なんかなくても人間なんとかなるもんさ。」
「ああそうか。わかったよ、君の名前。上の名前はどうにも思い出せなかったけれど。」
「そうかい。それは本当に良かった。良かったら答え合わせでもしようか。」
とりとめのない話を続けていると、知らない内に水嵩は首元まで上がってきたらしい。しまった、これでは沈んでしまう。
「君は」
その瞬間、夏子はぐっと下から何かに引っ張られて頭まで水に沈んでしまった。彼の名前が私の口から泡になって浮かんで消える。思わず見上げると、水面越しにようやく彼の顔がハッキリと夏子の目に映った。
梅雨が明けて、その日は久しぶりの快晴であった。
今日も夏子は歩く。面倒で億劫であんな目にあったのだから、もういいだろう、と思いながらも、夏子は乾いた夏服を着て、いつも通りの道を歩く。
満開の紫陽花が淡い紫の花弁をぼろぼろとこぼしているのを横目に、団地を抜けて、あの高い高いコンクリート塀に囲まれた道へ進む。あちこちにまだ水たまりが残っている。
雨の間どこへ行っていたのだろうか、なんでもないように野良猫なのか飼い猫なのか、猫がごろごろそこらへんに寝っ転がっている。
ねっころがる、とはまさに猫のためにある言葉なんじゃないか、など下らない洒落を考えながら、夏子は今日も猫に媚を売る。
水嵩はどうなったのだろうか、あっという間にはけてしまった道端に座り込み、猫の喉を撫でると、ぐるぐると声が聞こえる。毛並みに沿って、しなやかな肌触りを感じながら撫でてみる。そうすると、もういいよ、と言うように猫は立ち去る。
夏子はしばらくぼんやりとその場にしゃがんでいた。あちこちに水溜まりはまだ残ってはいるが、あの水嵩はなんだったのだろう。すっかり水没してしまって、確か、最近いつもここで会う人が「おはよう、夏子。」と後ろから声をかけてくる、昨日、確か、確か、確か、確か、確か、確か、確か、確か、
誰だっけ。




