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最後のチケット

掲載日:2026/05/01

第1話 青い星の残像

 テラ・ノヴァの空は、今日も赤く腐っていた。

 恒星の異常活動が始まってから、もう二年。最初は「美しい夕焼け」と人々は言った。でも今は違う。赤は血の色で、大気は薄く、肺の奥まで焼けるような熱を帯びている。悠真はベランダの手すりに両肘を乗せ、遠くの地平線を見つめていた。地平線の向こうには、かつて「新地球」と呼ばれたこの星の最後の森が、黒く枯れ果てて横たわっている。

 「悠真……もうすぐ、通知が来るよね」

 背後から聞こえた声は、かすかに震えていた。振り返ると、美咲がキッチンのカウンターに寄りかかっていた。白いシャツの裾を指先で握りしめ、まるでそれが最後の支えであるかのように。彼女の瞳は、いつもより大きく見えた。恐怖で瞳孔が開いているのだと、悠真はすぐに気づいた。

 二人は三年前、この小さなアパートで出会った。美咲は「記憶保存士」という仕事をしている。地球から持ち込まれた最後の写真や動画、音声を、テラ・ノヴァ生まれの子供たちに「本物」として語り継ぐのが役目だ。彼女自身は地球を知らない。二歳のときに両親と一緒に移住してきた最後の世代だった。

 「来るよ。午後六時ちょうどだって、公式発表あったろ」

 悠真はそう言って、彼女のそばに歩み寄った。腕を伸ばすと、自然に美咲の肩を抱き寄せられた。彼女の体は細く、でも驚くほど温かい。地球の気温に慣れた人間には、テラ・ノヴァの気温は常に「少し寒い」。だからこうして触れ合うたび、悠真は自分が「守りたい」と思う理由を、改めて思い出していた。

 悠真の「地球復興貢献度スコア」は、すでに事前通知でAランクだとわかっていた。旧地球時代、彼は環境修復技師として、汚染された海を浄化するバイオフィルターの開発に携わっていた。テラ・ノヴァでも、その技術を応用して食糧生産プラントを立て直した実績がある。AIは彼を「地球に還すべき五百人」の一人にカウントしているはずだった。

 美咲のスコアは、Cランクだった。

 彼女は「記憶保存士」として文化的な価値は認められていたが、AIの判定基準は冷徹だ。「地球復興に直接寄与するか」「遺伝子的に多様性を保てるか」「生存率が高いか」。美咲の遺伝子には、テラ・ノヴァ特有の放射線耐性異常が見つかっており、それが致命的なマイナスポイントになっていた。

 午後五時五十九分。

 二人はソファに並んで座り、互いの手を強く握り合っていた。テーブルの上に置かれた二つのタブレットが、同時に青白く光った。

 通知音は、子供の頃に聞いた地球の童謡のメロディだった。『ふるさと』。美咲が保存していた古い音源を、行政が選別通知に流用しているらしい。皮肉なほど優しい旋律が、部屋に流れた。

 悠真のタブレットに、緑色の文字が浮かぶ。

【帰還選別結果:承認】 【搭乗者番号:NT-0472】 【出発日:地球標準時 三ヶ月後】 【同行可能家族・伴侶:申請可(審査あり)】

 美咲のタブレットは、赤い文字だった。

【帰還選別結果:否認】 【理由:貢献度スコア C-2(遺伝的適合性不足)】 【異議申し立て期間:七十二時間】

 沈黙が落ちた。

 美咲は、最初は何も言わなかった。ただ、悠真の手を握る力が、ゆっくりと弱くなっていった。まるで、指先から命が抜けていくみたいに。

 「よかった……悠真、よかったね」

 彼女の声は、笑おうとしているのに、震えて言葉にならなかった。目尻に溜まった涙が、頰を伝う前に悠真のシャツに落ちた。

 悠真は言葉を失っていた。頭の中を、様々な計算が駆け巡る。Aランクの搭乗者には「伴侶枠」が一枠だけ与えられるという噂はあった。でもそれは「審査あり」。審査とは、要するに「地球で生き残る価値があるかどうか」をもう一度AIに問うことだ。美咲の遺伝子異常は、間違いなく落とされる。過去の事例で、似たケースは全員否認されている。

 それでも、悠真は言った。

 「一緒に帰る方法、探すよ」

 美咲が顔を上げた。瞳に、驚きと、ほんの少しの光が戻った。

 「え……?」

 「異議申し立て、俺が全部書く。データ捏造じゃなくて、正当な理由を。俺の技術が地球で必要なら、美咲の記憶保存士の仕事も必要だ。地球の子供たちに、失われたものを語り継ぐ人がいなきゃ、復興なんて意味がないって……」

 悠真の声は、自分でも驚くほど冷静だった。でも胸の奥では、別の声が叫んでいた。

 ——残りたい。

 美咲と一緒に、ここで最後の三ヶ月を生きて、星が崩れる瞬間に抱き合って死にたい。地球なんて、もう知らない星だ。美咲がいなければ、青い海も緑の森も、ただのデータに過ぎない。

 でも美咲は、首を横に振った。

 「ダメだよ、悠真」

 彼女は涙を拭い、微笑んだ。それは、悠真が一番好きな、強がりの笑顔だった。

 「私はここでいい。だって……私は地球を知らないんだもん。テラ・ノヴァが私の全部だった。あなたが帰って、地球をもう一度綺麗にしてくれたら……それで、私の記憶は生き続けるよ」

 悠真は彼女の両肩を掴んだ。強く、痛いくらいに。

 「バカ言うな。俺が一人で帰って、何するんだよ。美咲がいない地球に、価値なんてあるか?」

 声が震えた。涙が、気づいたら頰を伝っていた。

 美咲は悠真の胸に顔を埋めた。彼女の髪から、いつも通り、合成ラベンダーの匂いがした。テラ・ノヴァでしか作れない、人工の香り。

 「一緒に残る……って選択肢もあるよね?」

 彼女の声は小さかった。でも、そこに初めて「本音」が混じっていた。

 悠真は黙った。Aランクを辞退すれば、搭乗枠は自動的に次の人に回る。誰かが代わりに救われる。美咲と二人で、残りの三ヶ月を、精一杯に生きる。星が崩れる最後の夜、互いの体温を感じながら、終わりを迎える。

 それも、悪くない。

 いや、むしろそれが正しいのかもしれない。

 窓の外で、赤い空がゆっくりと暗くなっていく。テラ・ノヴァの太陽は、もう寿命が近い。遠くの丘の上では、帰還船の建設現場が夜通しライトを灯している。あの船に乗れば、地球に還れる。でも、代償は大きすぎる。

 悠真は美咲の髪を撫でながら、静かに息を吐いた。

 「異議申し立て、やってみる。ダメなら……一緒に残ろう」

 美咲が顔を上げ、悠真の目を見つめた。そこには、恐怖と、希望と、愛が、複雑に絡み合っていた。

 「うん。でも、無理しないでね。悠真が地球に帰る姿を、私は見たいんだ」

 二人は額をくっつけた。通知の童謡は、まだ部屋のどこかで小さく流れ続けている。

 外では、風が枯れた森を撫で、まるで地球が遠くから呼んでいるかのように、かすかな青い残像を夜空に描いていた。


第2話 記憶の棘

 朝の光は、血のように赤かった。テラ・ノヴァの太陽は、もうフィルターなしでは直視できないほど膨張し、腐敗した果実のように空を支配していた。悠真はベッドの中で目覚め、隣に横たわる美咲の寝顔を、長いあいだ見つめていた。彼女の睫毛は微かに震え、夢の中でさえ不安を抱えているようだった。昨夜の通知から、まだ十時間と経っていないというのに、世界はすでに色を変え始めていた。

 悠真はそっと起き上がり、キッチンで合成コーヒーを淹れた。湯気が立ち上る瞬間、ふと地球の海を思い出した。データ映像でしか知らない、しかし美咲が何度も語り継いだ「青」。あの青は、こんな赤い空の下で、どれほど遠い幻なのだろう。

 「もう起きてたの?」

 美咲の声が、背後から柔らかく絡みついた。振り向くと、彼女は白いシャツのまま立っていた。昨夜の涙の痕が、頰に薄い影を落としている。悠真は無言でコーヒーを差し出し、彼女を抱き寄せた。二人の体温が重なる瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。愛とは、時に、相手を失う恐怖をそのまま抱きしめることに他ならない。

 「異議申し立て、今日から始めるよ。行政センターは午前中が空いてるらしい」

 悠真の言葉に、美咲は小さく頷いた。しかしその瞳には、諦めの色がすでに滲んでいた。Cランクの壁は厚い。過去の事例では、遺伝的適合性不足で否認された人間が覆されたケースは、皆無に等しいと聞く。それでも、悠真は手を止めなかった。止めたら、この愛がただの終わりを迎えてしまう気がしたからだ。

 二人はアパートを出て、赤い砂埃の舞う通りを歩いた。テラ・ノヴァの街は、すでに静かな崩壊の気配を孕んでいた。帰還船建造現場に向かうトラックが地響きを立て、道端では選別結果に絶望した人々が、ただ座り込んでいる。誰かが遠くで歌っていた。地球の古い童謡——『ふるさと』。美咲が保存していた音源が、街中に漏れ聞こえるようになったのだ。皮肉なことに、それはもはや希望の歌ではなく、別れの挽歌に変わりつつあった。

 行政センターは、かつての議事堂を転用した巨大なドームだった。ドームの天井には、地球の青い衛星写真が投影され、嘲るように輝いている。受付のAI端末は冷たい合成音声で告げた。

「異議申し立ては、搭乗者本人のみ可能。伴侶の追加申請には、追加審査が必要です。審査期間は十四日。結果は最終的です」

 悠真は端末に向かい、必死に文を綴った。指先が震えるのを、美咲はそっと握って止めた。

 ——彼女の記憶保存士としての役割は、地球復興において不可欠である。新生人類が失われた文化を再構築する際、感情と記憶の橋渡し役として、彼女以上の適性を持つ者は存在しない。私の技術が物理的な復興を担うなら、彼女の魂は精神的な復興を担う。両者が揃ってこそ、真の「帰還」が成立するのではないか。

 美咲は傍らで静かに読んでいた。やがて、彼女は悠真の耳元で囁いた。

 「悠真……無理に盛らないで。私の遺伝子異常は、事実だから」

 その言葉に、悠真の胸が抉られた。美咲は二歳で移住してきた。地球の記憶など、ほとんどないはずだ。それでも彼女は、データの一つひとつを「自分のもの」として愛してきた。枯れた森の映像を前にして、「ここに、きっと花が咲いていたんだね」と微笑む彼女の横顔を、悠真は何度も見てきた。あの微笑みが、地球への憧れではなく、悠真への愛の延長だったことに、今さら気づく。

 申し立てを終え、二人はセンターの外にある人工公園へと足を運んだ。公園といっても、枯れた木々と、薄汚れた芝生が広がるだけの場所だ。それでも、ここには地球から移植された最後の「本物の土」があるという。悠真は美咲の手を引いて、その土の上に腰を下ろした。

 「美咲、俺……正直に言うよ」

 声が、風に溶けそうに小さくなった。

 「Aランクを辞退して、一緒に残りたいって、昨夜は本気で思った。ここで三ヶ月、二人だけで生きて、星が壊れる最後の瞬間に抱き合って……それでいいんじゃないかって」

 美咲の指が、悠真の掌の中で固くなった。彼女は空を見上げた。赤い空の向こうに、幻の青を求めているかのように。

 「私も……そう思った。昨日、通知が来た瞬間、心のどこかで『これでいい』って安堵したの。地球なんて知らない。知らない星に、一人で行って、悠真が苦しむ姿を見るより、ここで一緒に終われるなら……」

 言葉が途切れた。風が、枯れ葉を二人の足元に運んでくる。美咲は続けた。

 「でも、悠真が地球に帰ってほしい。あなたは地球の匂いを知ってる。最後の移住者世代で、実際に汚染された海を浄化した人たちの一人なんだよ? あなたが帰らなかったら、あの星は本当に死んだままになる」

 悠真は彼女の肩を抱き寄せた。体温が、赤い太陽の下で、奇跡のように温かい。

 「俺にとっての地球は、美咲が教えてくれたものなんだ。データ映像を見ながら、君が『ここに波の音が聞こえる』って言ってくれた声。君がいない地球なんて、ただの死骸だよ」

 二人は長いあいだ、黙っていた。公園の端で、別のカップルが泣き崩れていた。男が選ばれ、女が落選したらしい。男は女を抱きしめながら、何度も「ごめん」と繰り返している。その光景は、鏡のように自分たちを映していた。

 午後、美咲は自分の職場——記憶保存アーカイブへ向かった。悠真も同行した。そこは、地球の残滓を集めた聖域のような場所だった。無数のホログラムが浮かび、桜の花びら、雪の結晶、子供たちの笑い声が、静かにループしている。美咲は自らの端末を操作し、悠真のために一つの映像を呼び出した。

 それは、地球最後の海の記録。波が打ち寄せる音とともに、夕陽が沈む光景。美咲が幼い頃、両親が残したプライベート映像だった。

 「これが、私の『地球』なの。悠真、あなたが実際に触れた海とは違うかもしれない。でも、私が愛したのは、この映像の中の青。そして、あなたがその青を、もう一度現実に戻してくれる姿」

 映像の中で、波が砕ける。美咲の声が、重なる。

 「もし、私が帰れなくても……あなたが帰って、この海をもう一度、綺麗にしてくれたら。私はここで、ずっと見守ってる。星が滅んでも、私の記憶は、あなたの中に生き続けるから」

 悠真の視界が、滲んだ。涙が、ホログラムの青い海に落ちた。現実の涙が、仮想の海を汚すなんて、なんと残酷なことか。

 アーカイブを出た頃、空はさらに赤く、深く染まっていた。帰り道、二人は寄り添って歩いた。美咲の指が、悠真の指に絡まる。まるで、離れたくないという最後の抵抗のように。

 「申し立てが通らなかったら……」

 悠真が呟くと、美咲は静かに微笑んだ。

 「そのときは、一緒に残ろう。残りの日々を、精一杯に愛し合って。地球の記憶を、私が全部あなたに渡すから」

 その夜、二人はベッドで体を重ねた。肌が触れ合うたび、赤い星の運命が遠のいていく気がした。愛は、滅びの淵でこそ、もっとも鮮やかに輝くのかもしれない。悠真は美咲の背中に唇を寄せ、囁いた。

 「君がいない地球なんて、俺は受け入れられない」

 美咲は答えず、ただ悠真を強く抱きしめた。窓の外では、童謡が風に乗り、夜空を漂っていた。青い星の残像は、まだ、かすかにそこにあった。

 しかし、明日になれば、行政からの一次回答が来る。運命の棘は、すでに二人の心に深く刺さっていた。


第3話 棘の深淵

 一次回答が届いたのは、通知からちょうど三日目の夜だった。テラ・ノヴァの空はすでに夜の帳を下ろし、赤い残光が地平線に血の帯を引いていた。悠真はアパートの小さなテーブルで、タブレットの画面を凝視したまま、息を殺していた。美咲は背後からそっと腕を回し、彼の肩に頰を寄せていた。二人の体温は、まるで互いの心臓の鼓動を分け合うように、重なり合っていた。

 画面に浮かぶ文字は、冷たい白だった。

【異議申し立て 審査結果:否認】 【理由:遺伝的適合性不足(放射線耐性異常による地球生存確率 42%未満)。追加搭乗枠の適用不可】 【最終決定。搭乗者本人のみ帰還可能です】

 沈黙が、部屋全体を重く覆った。童謡の通知音はもう流れなかった。ただ、遠くの街から、誰かの叫び声が風に乗って聞こえてくるだけだった。選別結果に絶望した人々が、夜の闇に声を上げ始めていた。

 美咲が最初に口を開いた。声は、驚くほど穏やかだった。

 「やっぱり……ね」

 その一言に、悠真の胸が引き裂かれた。彼女は微笑もうとしていた。いつもの、強がりの微笑み。唇の端がわずかに上がるけれど、目は笑っていない。悠真はタブレットを握りしめたまま、指の関節が白くなるほど力を込めた。

 「もう一度、二次申し立てを……」

 「悠真」

 美咲は彼の言葉を優しく遮った。細い指で、彼の頰を撫でる。その指先は、まるで風に揺れる枯れ葉のように、はかなく震えていた。

 「これ以上、無理をしないで。AIは冷たいけど、公正だよ。私の体は、この星でしか生きられないように作られてしまったんだ。地球の重力や大気、放射線……全部が、私を拒む」

 悠真は彼女を抱き寄せた。強く、痛いほどに。美咲の髪から、合成ラベンダーの香りが漂う。あの人工の匂いが、今は永遠の別れを予感させる毒のように感じられた。彼は彼女の耳元で、掠れた声で囁いた。

 「俺は……君なしで地球に帰れない。帰ったら、何を見るんだ? 青い海を? 君が教えてくれた波の音を? すべてが、君の記憶の中にしかなかったのに」

 美咲は悠真の胸に顔を埋めた。涙が、シャツの生地を湿らせる。温かく、静かに。

 「私も、怖いよ。悠真が一人で地球に行って、寂しさに潰される姿を想像すると……心が張り裂けそう。でも、私がここに残って、星が滅ぶのを見届けるのも、怖い。一人じゃ、きっと耐えられない」

 二人はベッドに横たわった。赤い月明かりが、窓から差し込み、二人の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。悠真は美咲の背中を、指でゆっくりと撫で続けた。肌の感触一つひとつが、記憶に刻み込もうとするかのように。彼女の肩甲骨の柔らかな曲線、腰のくびれ、息遣いのリズム。すべてが、失われゆくものだった。

 「一緒に残ろう」

 悠真は、ついにその言葉を口にした。声は低く、決意に満ちていた。

 「Aランクを辞退する。搭乗枠は次の人に回る。誰かが救われる。それでいい。俺たちは、ここで最後の三ヶ月を、愛し尽くすんだ。毎朝、君の寝顔を見て、毎晩、君を抱きしめて……星が壊れる瞬間まで」

 美咲は体を起こし、悠真の目を見つめた。瞳には、星の最期のような輝きがあった。

 「本当に……いいの? 悠真、あなたは地球の記憶を持ってる。最後の移住者として、汚染された海を浄化した人たちの一人。あなたが帰らなければ、あの星は永遠に死んだままよ」

 悠真は彼女の唇に、指を当てた。

 「地球は、もう母じゃない。ここが俺たちの星だ。君と出会った星。君が記憶を保存してきた星。君がいない地球に、意味なんてない」

 その夜、二人はこれまでで最も激しく、優しく、体を重ねた。肌が触れ合うたび、赤い星の脈動が伝わってくるようだった。悠真は美咲の首筋に唇を寄せ、囁いた。

 「君の記憶を、全部俺にくれ。地球の青も、桜の花びらも、君の笑顔も。全部、俺の中に生き続けさせて」

 美咲は喘ぎながら、涙を零した。

 「うん……全部あげる。私の全部を、あなたに」

 行為のあと、二人は絡み合ったまま、夜明けを待った。外では、風が強くなっていた。枯れた森が、悲鳴のような音を立てて倒れていく。テラ・ノヴァの崩壊は、静かに、しかし確実に近づいていた。

 翌朝、悠真は行政センターへ向かった。辞退手続きのためだ。赤い砂埃が舞う道中、彼は美咲の手を固く握っていた。道端では、選ばれた者と選ばれなかった者の別れが、至る所で繰り広げられていた。母親が幼い子供を抱きしめながら泣き崩れ、恋人同士が永遠の別れを誓うキスを交わす。すべてが、鏡のように二人の未来を映していた。

 センターのドーム内は、混沌としていた。Aランクを辞退する人間は、意外に多かった。愛する者を置いて帰ることを選べない者たち。AI端末は冷たく告げる。

「辞退手続き完了。搭乗枠は自動的に待機リストへ移行されます。後悔は、自己責任となります」

 悠真はサインを終え、美咲と共に外へ出た。空は今日も赤く、太陽はさらに膨張していた。地平線では、帰還船の骨組みが、まるで巨大な墓標のようにそびえ立っている。

 二人は人工公園の「本物の土」の上に、再び腰を下ろした。悠真は美咲の膝に頭を預け、目を閉じた。彼女の指が、彼の髪を優しく梳く。

 「これで……決まりだね」

 美咲の声は、穏やかだった。でも、その奥に、深い棘が刺さっているのがわかった。悠真は目を開け、彼女の顔を見上げた。

 「怖いか?」

 「怖いよ。でも、悠真と一緒なら、耐えられる。残りの日々を、毎日を、宝物にする。地球の映像を全部見直して、君に語ってあげる。君が知らない、私の『地球』を」

 悠真は彼女の手を取り、掌にキスをした。

 「俺も、君にテラ・ノヴァのすべてを返す。この赤い空の下で、二人で見た朝焼けも、枯れた森の匂いも、全部」

 風が、二人の間を吹き抜けた。遠くから、再び童謡が聞こえてきた。『ふるさと』。今は、まるで二人のための子守唄のように響く。

 しかし、悠真の心の奥底では、まだ小さな棘が疼いていた。Aランクを辞退したことで、地球復興の可能性を、自らの手で潰したのかもしれない。美咲を守るために、母なる星を捨てる。それが、本当に正しい選択なのか。

 美咲もまた、同じ棘を抱えているはずだった。悠真の未来を、愛ゆえに奪った罪悪感。二人とも、それを口には出さない。ただ、互いの体温にすがりつくように、手を握りしめていた。

 赤い太陽が、ゆっくりと中天に昇る。滅びの時計は、刻一刻と進む。愛は、棘の深淵でこそ、もっとも鮮烈に輝くのかもしれない。二人は、土の上で額を寄せ合い、静かに息を合わせた。

 この三ヶ月が、永遠になるように。


青の棘

 帰還船の窓から見えたテラ・ノヴァの最期は、赤い花が爆発するようだった。

 船が大気圏を離れる瞬間、星は音もなく崩れ、輝く破片となって宇宙に散った。悠真は美咲の手を強く握りしめ、窓に額を押し当てていた。美咲の指は細く、冷たくなり始めていた。出発前、彼女は微笑んで言った。「やっと、一緒に行けるね」。その声が、今も耳の奥に残っている。

 地球への航行は、三ヶ月だった。

 船内は静かで、重苦しかった。五百人を超える乗客のほとんどが、誰かをこの星に残してきた者たちだった。夜ごと、誰かの嗚咽が廊下に漏れ、悠真と美咲は互いの体を重ね、言葉少なに夜を過ごした。美咲の肌は日ごとに透明になり、息遣いが浅くなっていった。遺伝子異常は、地球の放射線と重力に晒されると、思った以上に速く進行すると、船医は淡々と告げていた。

 地球は、灰色だった。

 着陸したとき、悠真は一瞬、夢を見ているのではないかと思った。データ映像で何百回も見た青い星は、どこにもなかった。大気はまだ毒を孕み、海は死んだ色に淀み、かつての都市の残骸が、風に削られて砂塵となっていた。それでも、空気にはかすかな湿り気があり、遠い記憶の「匂い」がした。

 臨時のシェルターに収容された翌朝、美咲はもうベッドから起き上がれなくなっていた。

 悠真は彼女の傍らに座り、冷たくなった手を両手で包み込んだ。窓の外では、灰色の空の下で復興チームが動き始めている。自分の技術が、ここで必要とされるはずだった。バイオフィルター、土壌浄化、食糧再生——すべて、彼がテラ・ノヴァで磨いてきたものだ。

 でも、今はただ、美咲の指先の脈を、必死に感じていた。

 「美咲……」

 声が、震えた。

 彼女の瞳は、まだ悠真を映していた。唇が、かすかに動く。

 「悠真……見て。青い空……少しだけ、見えるよ」

 実際には、空は灰色だった。でも悠真は頷いた。彼女の幻視に、そっと合わせた。

 「うん、見える。君が教えてくれた海も、波の音も……全部、ここにある」

 美咲の微笑みは、テラ・ノヴァで見た最後の笑顔と同じだった。強がりで、優しく、愛おしく。

 「一緒に……来れて、よかった……」

 その言葉を最後に、彼女の指から力が抜けた。

 悠真は彼女の手を、胸に押し当てたまま、長いあいだ動けなかった。シェルターの外では、復興の機械音が響き始めていた。誰かが叫んでいる。新たな地球を、作り上げるのだと。

 悠真は美咲の冷たくなった頰に、額を寄せた。

 ——見送った。

 テラ・ノヴァの赤い空の下で、君と決めた三ヶ月を、結局はここで終わらせてしまった。君を置いて一人で帰るのが怖くて、Aランクを辞退して、でも最後に奇跡のように二人分の枠が回ってきた。あの瞬間、僕たちは喜んだ。誰かの犠牲の上に成り立つ未来を、受け入れてしまった。

 意味は、あったのか?

 この灰色の星に、君の手を引いて降り立ったことに、価値はあったのか?

 君が教えてくれた「青」は、僕の記憶の中にしか残らない。君の声、君の体温、君が保存したすべての記憶——それらを、僕はこれから一人で守り続けなければならない。

 悠真は美咲の亡骸を抱きしめ、静かに泣いた。涙は、彼女の頰を伝い、地球の埃っぽい床に落ちた。

 外では、かすかに風が吹いていた。死んだ海の方向から、微かな湿った匂いが漂ってくる。まるで、遠い昔の地球が、二人に別れを告げているかのように。

 悠真は美咲の冷たい手に、自分の指を絡めたまま、目を閉じた。

 「君がいない地球なんて……」

 言葉は、途中で消えた。

 ただ、胸の奥に、青い棘が深く刺さったままだった。

 それが、僕たちが出した答えなのかもしれない。

(最終話 終わり)

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