君が砂糖を減らすたび
夕方のカフェは、傾いた陽の光がにじみ、少し焦げた豆の匂いがした。
焼き菓子の甘さと混ざって、空気そのものがやわらかく溶けていくようだった。
「いらっしゃいませ」
放課後の時間帯、制服姿の三人組が笑いながら入ってくる。
近くの高校の生徒たちだ。
その中のひとり――黒髪をひとつに結んだ子が、友達に背中を押されてレジへ向かった。
小さな財布をぎゅっと握りしめ、目だけでメニューを追っている。
「……を、お願いします」
声が小さくて、聞き取れない。
「すみません、もう一度お願いします」
「コ、コーヒーをください」
言葉の端が震えている。
顔を上げた彼女の視線が、一瞬こちらとぶつかって、すぐに逸れた。
――ああ、この子、緊張してるな。
どこかで見たことがある気がした。
そういえば、昼どきに店の外を通る学生たちの中で、
何度かこっちをちらっと見ていた顔だ。
後ろの友達が小声で笑っている。
「ほら、話しかけなよ。好きなんでしょ」
その言葉は聞こえないふりをしたけれど、彼女の耳まで赤く染まっていた。
思わず口にしていた。
「かわいいね」
彼女の肩がぴくっと震える。
「あ、いや、そういう意味じゃなくて。すみません」
笑ってごまかしながら、カップを手に取る。
「コーヒー、初めてですか?」
「……はい」
「じゃあ、カフェオレがおすすめです。飲みやすいですよ」
「カフェオレ……?」
「牛乳が多めのやつです。俺も初めてコーヒーを飲んだときは、苦すぎて砂糖をいくつ入れても飲めなかった」
「……じゃあ、それで」
「承知しました。ご用意しますね」
ドリンクを準備してカウンターに置くと、
彼女はおずおずと受け取り、両手でカップを抱えた。
そのあと、調味台の上でキャンディーのように包まれた角砂糖を三つ、ひとつずつ丁寧にカップへ落とし、ゆっくりスプーンでかき混ぜる。
湯気の向こうで頬が赤い。
まだ苦いんだろうな――そう思って、俺は少し笑った。
後ろに並んでいた友達は、目配せして小さくガッツポーズをしている。
三人は席に戻り、じゃれ合うように笑っていた。
俺はその光景を眺めながら、
あの子はきっと、“年上のカフェ店員”にちょっと憧れてるだけだ。
そう、軽く思っていた。
数日後、また彼女が来た。
今度はひとりで。
レジで「……カフェオレ、お願いします」と言い、
会計を済ませて、飲み物を待つ。
この時間は他の店員は休憩中で、客は彼女だけ。
「カフェオレ、気に入ってくれました?」
カウンター越しに声をかけると、
彼女は戸惑いながら小さく頷いて「はい」と答えた。
「飲みやすかったでしょ?」
「……はい」
「甘いもの、お好きですか?」
「……はい」
「俺に会いに来てくれたの?」
「はい……えっ?」
彼女の顔が一瞬で赤くなる。
口を開きかけて、言葉が出てこない。
その様子が面白くて、俺はくすくす笑った。
「ごめんごめん、冗談」
「……からかわないでください」
「なんだか上の空みたいだったから、つい」
笑いながら言うと、彼女はムッとした顔をする。
「だめだよ、俺みたいなの、好きになったら」
「何言ってるんですか、そんな……!」
「からかったお詫びに、これ」
カップを載せたトレイに小さなクッキーと角砂糖三つ。
「お菓子で機嫌を取ろうとする、大人ぶったガキなんだよ、俺」
その言葉に、彼女は表情を緩めた。
その笑顔を見たとき、胸の奥が少しだけ温かくなった。
まるで砂糖がゆっくり溶けていくみたいに。
うちの店は彼女たちの高校から近いとはいえ、個人経営の店で価格帯は高校生向けとは言えない。
そんなところにわざわざ一人で、真面目そうな彼女が通うなんて。
――もしかしたら、本当に少しは俺のことを。
そう思う自分を、笑いながら誤魔化した。
それから、彼女はよく一人で来るようになった。
最初は「お待たせしました」「ありがとうございます」とだけ交わしていた言葉が、
少しずつ会話になっていった。
「テスト前?」
「はい。今日は図書館、混んでて」
「なるほどね。うち、意外と静かで勉強向きかもな」
「……そうなんですよ」
他の学生客には丁寧語で話すのが癖になっているけれど、
気づけば彼女にだけは、砕けた口調になっていた。
彼女ももう緊張していないようで、
俺が冗談を言うと、少しだけ眉を寄せる。
「……もう、からかわないでください」
その言葉が返ってくるたびに、なぜか嬉しかった。
けれど、ある日ふと気づく。
俺のほうこそ、彼女と目が合うと視線を逸らしていた。
まるで、気持ちを見透かされるのが怖いみたいに。
ある夕方、カウンター越しに女の子たちがきゃあきゃあと騒いでいた。
「店員さん、連絡先教えてください!」
「彼女とかいるんですか?」
そんなやりとりにも慣れていて、笑って断るのがいつものこと。
でも、そのとき視線の端に、窓際でノートを閉じている彼女の姿が見えた。
小さく俯いて、カップをスプーンでかき回している。
その仕草に、胸の奥が少し痛んだ。
注文がひと通り済んだころ、金属音が響いた。
見ると、彼女がスプーンを床に落としていた。
オーダーを他の店員に任せ、彼女のもとへ。
「新しいスプーン、お持ちしました」
「……」
彼女は目を合わせずに受け取り、小さく頭を下げる。
床に落ちたスプーンを拾いながら、彼女の耳元で小さく呟く。
「ありがとう。逃げるきっかけが欲しかった」
ハッとしたようにこちらを見る彼女。
「やっとこっち見てくれた」
テーブルの上には、角砂糖の包み紙が二つ。
「あれ、今日は砂糖二つだけなんだ」
「少し、慣れてきたんです」
なんだか大人ぶったように言う彼女に、俺はつい笑ってしまった。
別の日、閉店後の帰り道。
コンビニの近くで彼女を見かけた。
塾の帰りなのか、遅い時間。雪が舞う季節。
知らない男たちに声をかけられて、困ったように立ちすくんでいる。
「おい、待たせたな」
自然にそう声をかけて、彼女の手を取った。
男たちは少し驚いた顔をして、「あ、知り合い?」「悪い悪い」と笑って去っていった。
思わず握った彼女の手は、冷たくて少し震えていた。
「……大丈夫?」
「はい……ありがとうございます」
小さな声でそう言って、彼女は頭を下げた。
「まったく。夜道で声かけられても、ついてっちゃダメだぞ」
「そんなこと、しません!」
「冗談。心配しただけ」
街灯の下で、彼女の髪が風に揺れる。
その光が、なんだかいつもより柔らかく見えた。
――ああ、きれいになったな。
そう思った瞬間、息が少し詰まった。
すぐそこのコンビニに迎えが来るのだという。
彼女と並んで少し歩いた。
「もう大丈夫です」
と、笑う彼女に、俺は握っていた手を離した。
髪に雪が舞い降り、ふわりと溶ける。
しばらくの沈黙のあと、彼女が俺をじっと見つめた。
目を逸らせなくなるほど真っ直ぐに。
「……何?」
「……」
「俺、かっこいい?」
冗談めかして言うので精一杯だった。
声が少しだけ震えていたのを、自分でもわかっていた。
彼女はふっと笑って、視線をそらした。
「ピアス、似合うな、と思って」
「……ああ、これ?」
指先で耳に触れる。小さな銀の輪。
何の意味もなくつけていたそれが、今になって少しだけ熱を帯びた気がした。
風が吹き抜け、街の明かりが揺れる。
そこに車が一台。彼女の家族が迎えに来たのだという。
「ありがとうございました」
小さく頭を下げて、彼女は車の下へ歩き出す。
その背中を見送りながら、
俺はコーヒーの香りのような、どこか甘くて苦い余韻を抱えて立ち尽くした。
見つめられていた耳も、重ねた手のひらも、じんわり熱を帯びていた。
それからというもの、彼女を見るたびに心の中がざわついた。
笑えば嬉しいし、他の店員と話すときでさえ落ち着かない。
彼女が来ない日は、コーヒーの香りさえ味気なかった。
そんなある放課後、店の外で、彼女が見知らぬ男子と並んで歩いているのを見かけた。
制服の袖を軽く引かれ、照れたように笑っている。
同じ学校の生徒らしい。
俺より少し背が低くて、真っ直ぐな目をしていた。
きっと彼女には、ああいう“同じ目線の相手”が似合うんだろう。
笑いながら話す二人の横顔は、思っていたより自然で、きれいだった。
彼女が扉を開けて店に来る姿しか知らなかった俺には、
“学校の中の彼女”が、少しだけ遠く感じられた。
その夜、閉店後のテーブルを拭きながら、なぜだか笑ってしまった。
――そりゃそうだよな。
俺なんかが、勝手に特別扱いしてたんだ。
拭き取ったばかりのテーブルには、
小さな光が反射していた。
まるで、今しがた見た彼女の笑顔の残像みたいに。
しばらくして、彼女が久しぶりにやってきた。
いつもより少しだけ大人びた表情で。
「相談、してもいいですか?」
俺はカウンター越しにうなずいた。
「気になる人がいるんです」
心臓が跳ねた。
それでも、すぐに落ち着いた。
――ああ、やっぱり、あの子のことなんだろうか。
「そっか。どんな人?」
「優しい人です。……でも……」
彼女の言葉には迷いが混じっていた。
俺はただ笑って頷き、彼女の言葉を遮るように言った。
「そうか。がんばれよ」
彼女は一瞬表情を固めると、小さくうなずき、
カップの中をゆっくりかき混ぜた。
手元には、角砂糖の包みがひとつ。
「前は三つも入れてたのに」
「このくらいのほうが、美味しいんです」
その表情はどこか大人びて見えて、俺はそれ以上言葉を出せなかった。
春が近づく。
重いコートが薄くなり、街の風が柔らかくなる。
カフェの外の桜が咲き始めたころ、彼女が笑って言った。
「卒業式の日に、好きな人に告白するんです」
「へえ、いいね。がんばれよ」
「……緊張します」
「大丈夫。きっと伝わるよ」
そう言いながら、心の中では“伝わらなければいい”と願っていた。
「……俺、君のこと、好きだよ」
彼女の目が丸くなる。
沈黙が少し長すぎた気がして、俺は笑って続けた。
「どう? 告白される側の気持ち、参考になった?」
彼女は何も言わなかった。
けれど、その瞳に映った自分の顔が、寂しそうで見ていられなかった。
彼女はいつも通りのカフェオレのカップを受け取り、
砂糖を入れずに飲み始める。
ミルクに滲む苦味が、心の奥にまで広がっていくようだった。
卒業式の日。
制服姿のまま、彼女があの日見かけた男子と一緒に来た。
繋がれたその手は、あの夜、確かに俺が握っていた手だった。
「来ちゃいました」
そう言って、ピースサインをして笑う。
俺は笑って、カウンター越しにクッキーを渡した。
「サービス。おめでとう」
「ありがとうございます」
彼女は注文した飲み物を受け取り、彼と並んで店を出た。
ドアの鈴が鳴り、春の風が入り込む。
俺は休憩に入ると言って、裏口のドアを開けた。
外の光は眩しくて、胸の奥が少しだけ痛んだ。
ポケットの中から角砂糖の包みを取り出し、指先でつぶす。
カサリと音がして、白い粒が風に舞った。
砂糖はもう溶けてしまった。
それでも、少しだけ甘い。
ある曲を聴きながら書きました。
※ジャンルが恋愛/異世界になっていたので訂正しました。




