夜
アンナは怯えた表情で俯いていた。
「ここは、どこですか。」
下を向いたまま、独り言のように言った。
「...アンナ、お前がいた国はこの辺りではないな。」
バーディーが低い声で言った。
「誰でも学校に通えるほど繫栄している大国なんて、テーティス王国か...今向かっているエクアール帝国くらいよ。」
困惑した表情でサティが言った。
「......てい...こく?」
アンナの表情から、さっと血の気が引く。
「アメリカとか知らない?韓国とか中国とか聞いたことない?」
「知らねえな。」
「イギリスは?フランスは?」
「...残念ながら。」
サディは首を横に振り、バーディーは首をすくめた。
「そんな...」
アンナの思考はぐるぐると回り、パニックに陥った。
ここは夢なのか、あるいはここが死後の世界というやつなのか。
だが、夢にしては感覚がリアルすぎるし、地獄にしては穏やかだ。
「アンナは他の世界から来たのかもしれないわね。」
気の毒そうにこちらを伺っていたサティが口を開いた。
「ごく稀に他の世界から、この世界に飛ばされてくる人がいるって、魔法の教科書に載っていたの。」
異世界、というものなのだろうか。
それが分かったところで、アンナの状況は変わらない。行く当ても特別な能力もない。
不安がじわじわと思考と胸の奥を蝕んでいく。
混乱する頭の中に、ぽっかりと浮かんだ疑問を、アンナは口に出してみた。
「...二人は、何のためにこんなところを走っているの?」
その時、サティが虚を突かれたように、ヒュッと短く息を吸い込む音が聞こえた。
「何のためかって?」
バーディーは意地悪でもするかのように、ニヤニヤしながら言った。
へらへらとした口調の奥にどす黒いものを感じる。
バックミラー越しにサングラスがこちらを向いた。
「...誘拐だよ。」
アンナはヒッと悲鳴をあげた。
「ち、違うのよ。囚われている人を解放しに行くだけなの。」
サティが必死に弁明しようとする。
「今向かっているエクアール帝国には、人魚が幽閉されていると言われているの。」
アンナはますます困惑してきた。異世界の次は人魚か。突然、現実味の無い話ばかりになってきた。
「千年以上前、不老不死の人間が世界中を旅していたの。ある港町で、シャチに襲われた船を助けるために海に飛び込んで、人魚の力を発現させた、という伝承が残っているの。」
サティは古びた本を広げて、挿絵を指さした。
色あせているが、大人よりも小さい少女が光を放っている絵のようだ。アンナと背丈が同じくらいに見える。
「白い髪、白い肌の美しい少女は何百年も生き、世界中の人々を救っている、と書かれているの。」
「その人が、どうしてこの先の国に閉じ込められているの?」
「それがね...」
サティの話では、人魚の水を操る能力を使って、大砂漠の真ん中に豊かな国を築いているようだ。無限に生み出すことのできる水を使って、生活用水を賄うだけでなく、動力として扱うことで、産業が発展していったという。こうして急速に圧倒的な国力をつけたエクアール帝国が、経済力と軍事力を用いて他国への侵略を企てていることは周知の事実である。
「私たちの仕事は、この大砂漠の周辺で偵察をしたり、物を届けたり、人を運んだりする、便利屋ってところかしら。」
今回の仕事は、大国の心臓部ともいえる人魚を奪う、というわけだ。
「...それって、危ないんじゃないの?」
「そうだな。」
バーディーがそっけなく答えた後は、エンジン音と砂が車体にこすれる音が聞こえるのみで、車内は静まり返ってしまった。
すっかり暗くなった外は、バンのヘッドライトが道とも言えない道をわずかに照らしている。バンの明かりが届かないところは、真っ暗闇だ。
こんなところに、アンナが一人で逃げ出したら、どうなるか。想像するだけで背筋にぞわぞわと寒気が走った。
膝の上のぎゅっと握ったこぶしを見つめていると、ぎゅるるるる、と腹が鳴った。
バーディーはフッと笑って、車を緩やかに減速させた。
「飯にするか。」
そう言うと、バーディーはサングラスをダッシュボードに放って、バンを降りた。
「どんなときでも、お腹は空くものよ。」
と言って、サティはアンナの手を引いた。
外は涼しく、砂を巻き上げた夜風が冷たい。
サティの持つ、古めかしいオイルランタンの明かりだけが、闇を切り開いていた。
アンナはサティの腕にぎゅっとくっつき、どこかから恐ろしい者がやってくるのではないかと怯えていた。
だが、サティはランタンのつまみを捻り、炎を小さくした。
それだけで、アンナはびくりと肩を震わせた。
サティはアンナの様子にくつくつと笑い、
「ほら、空を見てごらんなさいな。」
と言った。
アンナが顔を上げると、満天の星空が広がっていた。
明るい星だけでなく、小さな星のか弱い光もかき消されることなく、目に飛び込んでくる。
星たちの奥の黒い背景には、白くかすんで見えるところがあった。あれが銀河と言うものだろうか、たしかにミルク色の川が流れているようにも見える。
アンナが茫然と天を見上げていると、
「火、点けてくれ」
と後ろでバーディーの声がした。
振り返ると、バーディーが焚き火の支度をしていたようで、砂の上に細い薪がくみ上げられていた。
サティは薪に手のひらをかざして、呪文を唱えていた。
すると、薪が組まれた中心にある丸めた紙にぽっと火が点った。
風が薪の隙間を通って、火種にそっと通り過ぎると、小さな炎はぼうっと音を立てて、大きくなった。火の粉を散らせながら、薪に燃え移っていく。
アンナが焚き火に近づくと、香ばしいような、煙臭いような匂いがした。
冷えた両手をかざしてみると、温かな空気が手を包み込んでいくようだった。
ちらちらと揺れる炎が、まるでアンナをこの世界に迎え入れているように感じた。
「ほら、そこ。ちょっとどけ。」
アンナが視線を上げると、バーディーが三脚を組み立てていた。
焚き火を囲むように三脚を立てると、中央からぶら下がったフックに水の入った小鍋を吊るした。しばらくすると、ふつふつと泡が立ち上ってきた。
「はい、携帯食料。バーディーはこれ好きなのよ。」
サティから受け取った小さな缶には、見たことも無い文字が並んでいた。
「余計なこと言うな。」
と言うと、バーディーはタブを起こして缶を開け、お湯を注いだ。
二人に倣って缶に湯を入れると、シュワシュワと音がする。
中を覗くと、薄茶色のもこもことした泡が生じている。パンのようないい匂いがする。
やがて、泡は缶から少しはみ出し、湯気を立てて固まった。
サティは小さく千切り、ふうふうと冷ましながら食べている。バーディーはすでに二缶目を作り始めたところだ。
アンナも缶からあふれたところを一口食べてみた。
「おいしい!」
蒸しパンのようなもちもちとした生地は、黒糖のような甘さがあるが、香りはパンそのもの。油を多く含んでいるのか、しっとりとしている。
「だろ。」
バーディーはにやりと口角を上げて、二缶目を貪り始めた。
可食部は小さいものの、ずっしりと腹にたまる感じがして、アンナとサティは一缶食べれば十分に空腹を満たすことができた。
夜中、アンナはバーディーに借りた寝袋の中で、この世界でも、案外やっていけるかもしれないと思い始めた。
翌朝、アンナは二人よりもずっと早く目覚めた。
隣で眠っているサティを起こさぬよう、そっとドアを開け、外に出た。
朝日はまだ地平線の下にあるようで、雲一つない空は深い青から白のグラデーションを描いていた。
深呼吸をしてみると、澄んだ空気が肺を浄化していくようだ。
太陽がごつごつした大地から、顔を出した。陽光がまっすぐに自分を照らしている。
このまま、どこかの町へ行けないだろうか。二人の仕事に巻き込まれないよう、どこか遠く。
「お前、逃げようだなんて思ってないよな。」
そのとき、耳元で威圧するような低い声が聞こえた。
肩がびくりと跳ね、アンナは慌てて振り返った。
バーディーのきれいな青い目が険しくアンナを見下ろしていた。
「あいつは世間知らずだから、すぐに懐いたが、俺はお前のこと信用してないからな。」
そう言って、踵を返したバーディーの顔は、朝日の陰になって黒い影に隠れた。




