第1章:異世界への召喚
「あー、だりぃ……」
午後の日差しが容赦なく照りつける教室。
窓際の席は、ある意味特等席だ。
だって、こうして堂々と突っ伏して、カクンカクンと心地よい眠りの世界へ旅立てるんだから。
数学教師の山田先生、通称ヤマセンの単調な声が、まるで極上の子守唄のように俺、桜庭陽介の鼓膜を優しく揺らす。
俺は桜庭陽介、17歳。
平凡を絵に描いて額縁に入れて博物館に飾れそうな、ごく普通の高校2年生だ。
成績は中の下を安定飛行。
運動神経に至っては、体育祭のリレーでアンカーを任されたら、次の走者にバトンじゃなくて絶望を渡せる自信があるくらいには壊滅的。
当然、女の子にモテるなんていう都市伝説とは無縁の生活を送っている。
そんな俺にも一つだけ、人様に自慢できる……いや、自慢するほどでもないか。
ほんのちょっとだけ変わったことがあるとすれば、「何となく上手くいく」っていう、やけに都合のいい星の下に生まれたらしいってことくらいだ。
宝くじで高額当選! とか、道端で運命の美少女と衝突! みたいな派手な幸運じゃない。
本当に、地味で些細なラッキーの積み重ね。
それが俺の日常。
「――というわけで、この応用問題だが……よし、桜庭!」
ビクッ! ヤマセンの野太い声に、俺の意識は強制的に現実世界へと引き戻される。
うわ、最悪。
今の今まで、夢の中でスライム相手に無双してたっていうのに。
「は、はいっ!」
慌てて立ち上がると、クラス中の視線が槍みたいに突き刺さるのを感じる。
特に女子の「あーあ、またかよ」みたいな冷ややかな視線が痛い。
だって、黒板に書かれたミミズがのたくったような数式、見事に一つも頭に入ってきてないんだもん。
ヤマセン、俺が居眠りしてたの、絶対気づいてやがったな。
「……」
冷や汗が背中を伝う。
隣の席の鈴木が、肩を震わせて笑いをこらえているのが視界の端に入る。
くそっ、後で覚えとけよ。
頭の中は真っ白。
解答なんて、逆立ちしたって出てきやしない。
「あー、えっと……その、ですね……」
万事休す。
クラス中からクスクスという失笑が漏れ聞こえてくる。
ああ、俺の平凡な日常に、また一つ恥の思い出が刻まれる……。
そう思った、まさにその時だった。
サァァ……。
どこからともなく、不思議な風が教室を吹き抜けた。
窓は全部閉まっているはずなのに、まるで誰かがそっと窓を開けたみたいに、優しい風が俺の頬を撫でる。
そして、俺の目の前にある数学の教科書が、パラパラパラ……と勝手にページをめくり始めた。
まるで意思を持ったみたいに。
おいおい、なんだこれ。
心霊現象?
そして、教科書はピタリとあるページで止まった。
そこに書かれていたのは……あれ?
この数式、黒板のやつとそっくりじゃね?
しかもご丁寧に、赤ペンで囲まれた模範解答まで載っている。
「……もしかして、x=2……とか、ですかね?」
恐る恐る口にすると、ヤマセンがカッと目を見開いた。
マジか、当たっちゃった?
「……うむ。正解だ、桜庭。よく分かったな」
クラスの失笑が、一瞬にしてどよめきに変わる。
え、俺、なんかすごいことしちゃった?
いやいや、全部教科書のおかげだって。
「はは……運が良かっただけですよ」
俺はそう言ってへらりと笑い、そそくさと席に着く。
心臓がバクバクいってる。
さっきの風といい、教科書の動きといい、一体何だったんだ?
でも、まあ、いつものことか。
俺の人生、大体こんな感じで、ギリギリのところで何となく上手くいく。
大きな不幸もなければ、度肝を抜くような幸運もない。
ただ、日常のちょっとしたピンチを、見えない何かがそっと助けてくれる。
そんな平凡な日々。
再び窓の外に視線を移す。
青い空には、白い雲がゆっくりと流れていく。
ああ、また眠くなってきた。
ヤマセンの声が、だんだん遠くなっていく。
このままでいいのかな、俺。
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
毎日同じことの繰り返し。
刺激もなければ、達成感もない。
本当に、このまま平凡な大人になって、平凡な人生を終えるんだろうか。
もっと何か……何かこう、胸が熱くなるような、自分にしかできないことがあるんじゃないか?
例えば、そうだな……勇者とか?
異世界で魔王を倒す、みたいな。
あー、ダメだダメだ。
ラノベの読みすぎだな、俺。
でも……。
もし、万が一、億が一、そんなチャンスが巡ってくるなら……。
「せめて、最強の力が欲しい……な」
ポツリと、そんな言葉が口からこぼれ落ちた。
自分でも驚くほど、心の底からの願望だったのかもしれない。
その瞬間だった。
ゴウッ!
突風が窓ガラスを揺るがすような音と共に、教室全体が目も眩むような真っ白い光に包まれた。
「うわっ!?」
「なんだ!?」
クラスメイトたちの悲鳴が聞こえる。
だが、それもすぐに遠くなっていく。
ヤマセンが何か叫んでいるようだけど、もう聞き取れない。
体がフワリと浮き上がるような感覚。
いや、違う。
床が……床が消えていく!
足元から奈落に落ちていくような、強烈な浮遊感。
視界は白一色で何も見えない。
なんだこれ、何が起きてるんだ!?
訳も分からないまま、俺の意識は急速に薄れていった。
◇
「……ん」
どれくらい時間が経ったのか。
次に目を開けた時、俺はポカンと口を開けて立ち尽くしていた。
目の前に広がっていたのは、だだっ広い石造りの大広間だった。
高い天井には、シャンデリアと呼ぶにはあまりにも巨大な光源がいくつもぶら下がっていて、キラキラと眩い光を放っている。
壁や柱には緻密な彫刻が施されていて、まるで中世ヨーロッパのどこかの城にでも迷い込んだみたいだ。
だが、よく見ると、壁際には明らかに現代科学の産物としか思えない、近未来的なデザインの操作パネルみたいなものも設置されている。
なんだこの、ファンタジーとSFがごちゃ混ぜになったみたいな空間は。
そして、俺の周りには、俺と同じように呆然とした表情を浮かべた奴らが大勢いた。
ざっと見ても100人以上はいるだろうか。
みんな俺と同じくらいの歳に見えるけど、着ている服はバラバラだ。
制服姿の奴もいれば、ジャージ姿の奴、さらには何かの民族衣装みたいなのを着ている奴までいる。
共通しているのは、誰もが目の前の状況を理解できずに混乱しているってことだけ。
「なんだよ、ここ……」
「ドッキリか何か?」
「おい、出口はどこだ!」
ざわざわとした喧騒が、大広間に響き渡る。
そりゃそうだよな。
いきなりこんな場所に放り出されたら、誰だってパニックになる。
「皆さん、ようこそおいでくださいました。クロノスアカデミア入学試験会場へ」
その声は、どこからともなく、しかしハッキリと俺たちの頭の中に直接響いてきた。
驚いて顔を上げると、大広間の中央、俺たちの頭上くらいの高さに、一人の女性がフワリと浮かんでいた。
腰まで届きそうな長い金髪を風になびかせ、純白のドレスに身を包んだ、とんでもない美人だ。
背中には光の翼みたいなものまで生えている。
おいおい、天使か何かか?
「あなた方は、異世界である地球から、このオーディナルへと召喚された『選ばれし者』たちです」
選ばれし者?
地球から召喚?
オーディナル?
頭がクラクラする。
情報量が多すぎて処理しきれない。
「これより、皆さんには適性検査を受けていただき、あなた方がその身に秘めている『固有スキル』を測定させていただきます」
固有スキル……。
なんだか、ラノベでよく聞く単語がポンポン飛び出してくるな。
混乱と驚きで頭がいっぱいのはずなのに、不思議と恐怖は感じなかった。
それどころか、心の奥底のどこかで、こんな非日常的な展開を、俺はずっと待っていたような……そんな感覚さえあったんだ。
「さあ、新たな運命の扉が、今、開かれます」
天使みたいに美しい女性は、そう言って妖艶に微笑んだ。
俺の平凡だった日常は、どうやら本当に、今日で終わりを告げたらしい。