紫暮 ひさな と メランコリー①
紫暮 ひさなは、あまり人前で話さない女子生徒だ。授業でグループワークをするとき、大抵ノートや教科書を読んで誰にも自身に話しかけてこないようにしている。これは燕奏 栞音に聞いた話だが、体育の授業でペアを組んで何か教え合う時間が設けられたとき、何も話さずただ平均的な身のこなしをするのだそうだ。高校に入学したばかりの頃、紫暮 ひさなと話そうと努力していた、いわゆる陽キャ的な女子生徒がいたが、その努力は空しくなるだけだと判断したのか1学期が終わるころには諦めていた。だからと言って一言も喋らないわけではない。必要最低限は口を開く。授業中、先生に指名されて何か発表することになったときとか。とは言っても先生にギリギリ聞こえるかくらいしか声を出さないが。ここまでくると、俺もそうだがクラスの置物のような存在だ。
人と喋らないのだからクラスで認知されていないのかと問われれば、そうじゃないと答えるのが正しいのだろう。誰とも喋らないからこそ、男子の中で『付き合いたい女子ランキング』で見事1位を獲得している。このクラスの男子は静かな人が好みのようだ。女子の中でも人気らしい。静かさが高貴な雰囲気を出しているとかで紫暮 ひさなを綺麗だと感じるのだと。
紫暮 ひさなは休み時間、教室の隅でいつも何かをしている。俺がこれまで読んだことはないし、これから先も読むつもりもない、分厚くぱっと見呪文のようにしか見えない文章が構成された本を読んでいるときがあれば、この学校に入学する際に買わされたノートパソコンでタッチタイピングをしているときもある。他にも、イヤホンをしてアニメ鑑賞、双眼鏡を使って窓から見える山に生息する鳥の観察、ゲーム機を何台も机に並べてキャラクターの厳選に至るまで様々だ。たくさんの趣味を持っているようだ。
テストの点数は平均的だ。平均の中の平均と言ってもいいほどに。試験が終わった後に前の黒板に張り出される順位表では毎回ど真ん中に紫暮 ひさなの名前がある。俺は理系科目が70点以上、文系科目が30点以下というように得意不得意の差がとても激しいため、紫暮 ひさながとても羨ましい。
ここまで俺が知っている範囲で紫暮 ひさなを説明したが、性格、特技、好きな小説、マイブームなどをよくわかっていない。紫暮 ひさなと高校1年生の頃から約1年一緒だったのにだ。俺の他にも彼女と高校1年生のときクラスが一緒だった奴はいたが、やはり俺と同じように彼女のことがわかっていない。本当に本、タイピング、アニメ、鳥の観察、ゲームが好きなのかもよくわかっていないし。ちゃんと彼女の顔を見て話したことがないのだがら、そうなって当然と言えば当然なのかもしれない。
だからと言って、彼女と話したいとは思わない。俺も彼女と同じようにあまり人と話さないタイプだからだ。今はだっただが。燕奏 栞音に出会ってからは話すようになった。とは言うものの話す相手は燕奏 栞音くらいだ。
紫暮 ひさなは、人と会話するのをできるかぎり避けたり、運動や勉強をわざと平均のレベルに合わせたりしてあまり目立つようなことをしないようにしているのだと、燕奏 栞音は考えている。自分もまともに紫暮 ひさなと話していないから、あくまで考察に過ぎないとも語った。俺は、燕奏 栞音の考えは少し違うのではと考えている。目立つようなことをしないようにしているのなら、なぜ教室の隅で休み時間中に人の目を気にせずに、趣味に没頭しているのだろうか。人と関わりたくないが自分の趣味には気づいてほしいとかそんなところだろうか。燕奏 栞音と俺のどちらかの考察が合っているのか、両方合っているのか、もしくはどちらも見当違いなのかなんなのかは結局本人に確認しなければわからないことだ。
俺は紫暮 ひさなに憧れていたのかもしれない。燕奏 栞音の考察が合っていた場合、絶対に他人と話さなように無視や拒絶をして、思い描く理想の自分に近づこうとしているということではないだろうか。もしそうなら、彼女の生き方はとても美しい。やりたいことを突き通す。そんな人間になりたい俺は彼女が眩しいと感じてしまう。
だが、彼女の真似事をしなかった。俺は誰かの真似をするのが苦手だからだ。誰かが汗を流して作り上げたレールに、不法侵入して勝手に進んでいる気分になるからだ。レールはないほうが気楽で良いに決まってる。見たこともない景色を見て、次はどこに行くか自分で決め終点を自由に動かせるほうが絶対に面白い。
だけど俺は自分でレールを作り、その上を進みたくもないのに背中を押されて進まされる。見たくもない景色を見させられる。どこまでレールが続いているのか誰も教えてくれない。せめて押される前に自分の足で進むほうが楽になれる気がした。
紫暮 ひさなは美しいと説明したが、正確に言うと美しかったのほうが正しいだろう。
今年の春休みに『チカラ』を手に入れ、副作用というか『代償』で人の『心の音』が聞こえるようになってしまってから俺の人生が変わってしまった。
2年生になって、憧れていたはずの紫暮 ひさなに対して興味がなくなってしまった。それどころか紫暮 ひさなと距離を置きたいとさえ思ったのだ。『心の音』のせいで。この音は不快で仕方がない。1日ご飯を抜くことと、この音を1日中聞き続けることのどちらかを選ばなくてはならないのなら、俺はご飯を抜くほうがいいと即答するだろう。それほどこの音は不快なのだ。どんな嫌な音よりも。
紫暮 ひさなは学校にいる間は別に『心の音』を出さない。全ての授業が終わり放課後になった瞬間から音を出すのだ。それも爆音。この音の何がいやらしいのか、それは俺にしか聞こえないことだ。
『チカラ』が欲しいと願ったのは俺だ。しかし、手に入れた『チカラ』は全くと言っていいほど使う場面がない。そのうえ、『代償』で聞こえてくる『心の音』がうるさい。
紫暮 ひさなの『心の音』を無視を続けて何日か経過したがもう我慢の限界だ。
『心の音』を止めるにはどうしても紫暮 ひさなと話す必要がある。なぜなら紫暮 ひさなのことを知らなければならないからだ。
やはり、レールの上を進むしかないようだ。