5.琴子の生い立ち②
そして、嵐のような風が吹き荒れた夜のこと。
義父は琴子の部屋を訪れた。障子が開く音がしたとき、琴子の背は固まり、手は震え、心臓の鼓動が耳を打った。
「琴子、こっちへ来い」
いつものように名を呼ぶ声。だが今夜は、いつもより低く湿っていた。琴子は一歩、後ずさった。逃げ場はないと分かっていた。それでも、足は畳を蹴り、必死に抵抗しようとする。しかし、圧倒的な力の差に琴子は成すすべなく、組み敷かれた。義父の手が琴子の腕を掴んだとき、その体から熱と酒の匂いが立ち昇った。抵抗する腕に力は入らない。頭の中が白く染まり、息が詰まりそうだった。
だがその瞬間、義父が短く呻いた。
苦しげに眉をひそめ、琴子の腕を放した。胸を押さえて蹲り、どろりとした息を吐く。
「ぬ…ぬし…」
言葉にならない声を最後に、義父は崩れ落ちた。
琴子はしばらくその亡骸を見つめ、不意に顔を上げると、姿見に映る自分に角が生えていることに気づいた。そしてようやく、義父がこうなったのは、自分の妖力が暴発したからだと理解した。ただ立ち尽くし、震えながら、闇の中で自分の鼓動の音だけを聞いていた。そして、不意に心の奥に浮かんだのは、ここにいない本当の父の顔。
――どうして、来てくれないの?
答えのない問いだけが、胸の奥にいつまでも残った。
物音に気付いて駆けつけた母は義父の姿をみて、何があったのか悟ったようであったが、何も聞かずにただそっと琴子を抱きしめてくれた。
助かった――そう思うには、あまりにも遅すぎた。
それ以来、琴子は男という存在に深く恐れを抱くようになった。誰かに近づかれるたび、肩がすくみ、喉がひゅっと細くなる。男性が怖い。それはいずれ政略結婚する運命にある鬼族の娘としては、あまりに致命的なことであった。
今、琴子がまともに話すことができる異性は弟の光太郎ぐらいだ。ちなみに光太郎は土蜘蛛の義父と妾との間の子で、母親の血を濃く受け継ぎ、送り犬の容貌(クリクリと大きくたれた目に上がった口角、ふわふわした栗色の髪の毛)をしている。つまり琴子とは血がつながっていない。母親を早くに亡くし、没落し際孤児になりそうだったのを琴子が引き取った。
残された土蜘蛛家の人たちはその後、当主が闇市を取り仕切っていた証拠が次々と見つかり没落していったが、琴子の妖力暴走を公にしないでくれた。当主には逆らえなかったが、皆、琴子たち親子に同情していたのだ。
土蜘蛛家を出た琴子たちは都に戻り、祖父の庇護を受けるほかなく、内裏の近くに小さな邸宅を与えられた。その頃には、祖父の烈永帝は息子(琴子の叔父)に帝位を譲ってはいたが、妖の長として、実質的には帝以上の権力をもったままだった。駆け落ちに失敗した母に対する周囲の目は冷たく、決して皇族としてタダで生活を保障してもらえるようなことはない。幼い光太郎と病気がちな母を支えるために、琴子は皇后付きとして出仕するようになった。
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「転移者・・・」
そうつぶやいて、琴子はゆっくりと覚醒する。母の部屋にいたはずなのに、目を覚ますと自分の部屋であることに気づく。確かに昨日母を診てくれた青年の術は妖のそれではなかった。考えたいことは沢山あるはずなのに頭がぼんやりして、瞼が重い。琴子は諦めて、もう一度眠ることにした。
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