4.琴子の生い立ち①
琴子の一番最初の記憶は、朝の光が差し込む庵の中で、父が筆を走らせる音だった。
畳の上には、母の袖がふわりと広がっている。その膝の上に座ると、母はいつものように琴子の髪をそっと指で梳いてくれた。少しくすぐったくて、琴子はくすりと笑う。
父は向かいの屏風に向かい、黙々と筆を動かしている。細くしなやかな筆先が紙の上を滑るたび、母の姿が少しずつ生まれていく。
時折、父が目を上げる。まるで母の表情のひとつひとつを確かめるように、じっと見つめては、また筆を走らせる。
「またそんなに夢中になって」
母は微笑みながら、手を止めずに琴子の髪を編み始めた。琴子は小さくあくびをし、母の膝の上でころんと横になる。畳の匂いと、母の着物のやわらかな感触に包まれると、まぶたが重くなってきた。
筆の音が心地よい子守唄のように響く。静かで優しくて、どこまでも暖かい時間が過ぎる。
ふと、琴子は目を細めながら絵を見た。母が自分を抱きしめている姿が、もうすぐ完成しようとしている。かくりよにはないはずの、西洋絵画の技巧が使われた水彩画。父は転移者だった。人間界とは決して交わるはずのないかくりよ。でもごく稀に、このかくりよに人が迷い込むことがある。原因も周期も不明。ただ分かっているのは、一度かくりよに来るともう元の世界には戻れないということ、そして転移者には不思議な力が宿るということ。
父には、描いた景色の場所に観た者を空間移動させる力があった。記憶の中の父は滅多に風景画を描かなかったけれど、年に数度、一人で放浪の旅に出てはそこで見た景色を絵に残して戻ってくる。そうしたら、今度はその景色の場所に家族みんなで空間移動し、新たな生活を始めるのだ。
あるときは山の麓の小さな村で山菜を摘み、またある時は海に囲まれた孤島で毎日のように漁をしながら生活する。琴子は引っ越すたびに、次はどんな楽しみがあるだろうと期待に胸を膨らませた。家がころころと変わっても、両親が傍にいてくれたから、寂しいことはなかった。
だが、そんな幸せな生活も、琴子が8歳の時に終わりを告げる。いつものように旅に出たまま、父が姿を消したのだ。いつもはひと月ほどで帰ってくるのに、全く音沙汰がないまま1年が過ぎ、2年が過ぎた頃、母と琴子は都から来た兵士たちに見つかり、宮中へと連れ戻された。琴子はその時初めて、自分が当時の烈永帝の孫であること、駆け落ちした両親が兵から必死に逃げていたということを知った。
それからの日々は地獄だ。烈永帝は12年ぶりに帰ってきた娘と孫をねぎらうようなことは一切しなかった。それどころか嫌がる母を無理やり、親子ほども年の離れた土蜘蛛の当主と結婚させたのだ。義父は大酒のみで女癖も悪く、機嫌が悪いとすぐに周囲の者を殴る暴漢として知られる男だった。
毎日のように罵声を浴びせられ暴力を振るわれ続ける。大きな図体から繰り出される拳の威力は、ヒステリック時の皇后の比にもならない。その時間、琴子はただおびえて震えていることしかできなくて、母はそんな琴子をかばいながらひたすら夫に謝った。母は決して琴子を傷つけさせまいとしていたが、琴子にとっては殴られるよりも、全身に痣をつくり、すっかり笑わなくなってしまった母を見ていることの方が辛かった。
母は何度も烈永帝に離縁を懇願する書状を送っていたが、ついに許可が下りることはなかった。
「琴子の生い立ち②」は本日17時にアップ予定です!