3.黒ずくめの男
「こちらへどうぞ」
琴子は母親の部屋に黒ずくめの男を案内した。この邸宅に大人の男性が入るのは初めてのことだ。中央の布団には、苦しそうな表情を浮かべる母の姿。その周りには、危篤を表す紫色の妖力の光が見える。妖力は命の源だ。妖たちは妖力をもとに妖術を操り、変身する。そしてその妖力は、妖術を扱う変身時と、命の灯が消える直前になると周りにも可視化されるのだ。母が死んでしまうかもしれない。その恐怖が心を支配し、琴子の目からは涙が零れ落ちた。
「やめて、死なないで・・・母上」
すると、男が口を開く。
「大丈夫。すぐに治療に取り掛かります。でもその前に一つだけ・・・」
「ここでのことは、他言無用です」
男は琴子の目を見据えて静かに言った。すると、琴子も少しずつ冷静さを取り戻していく。
「分かりました。どうか、母をお願いします」
黙ってうなずくと顔を覆っていた黒い布を外していく。現れたのは、穏やかな光をたたえた瞳と、端正な顔立ち。滑らかな肌は月の光をやわらかく反射し、風になびく淡くくすんだ亜麻色の髪が気品を添えていた。年齢は琴子と同じ二十歳程だろうか。
本来妖というのは通常時でも、その容姿に一族の特徴が色濃く表れるものだ。例えば、猫又の一族なら大きなつり目に小さい口、河童なら緑がかった肌、鬼であれば黒髪赤目というように。異種族間で産まれた子であれば妖力の弱い種族の特徴を持つことが多く、どちらの特徴も併せ持つ、または妖力の強い方を受け継ぐというのは極めて稀なことであった。
だが、目の前にいるこの青年は琴子の知るどの妖の容姿の特徴も持っていない。そんなことはこの世界ではありえないことだった。
「あなたは・・・転移者?」
琴子は目の前の光景が信じられず、消え入りそうな声で尋ねる。すると、青年は人差し指を自身の唇にあてて柔らかく微笑んだ。そして、今度はその手を母の頭上に手をかざし、一言「生きて」とつぶやいた。
次の瞬間、母の身体を眩いばかりの金色の光が包み込む。妖が使う妖術の類とは違う、美しくてどこか暖かい術だ。
しばらくすると、母からみえた紫色の妖力はなくなり、表情も穏やかになる。どうやら、峠は越えたようだ。琴子は安心して、緊張の糸が切れたように、そのまま意識を手放した。