7、逢魔が時――大禍刻
ポケットの中の十円玉を親指で弾く。
きん、と高い音がしてくるくると廻る。
・
――午後・五時半。
――結局あれはなんだったのだろう?
帰り道で僕は考えていた。発案したのは岡本だろう。策動したのが北見で巻き込まれたのが武田、そして最後に僕だ。あの儀式に四人必要というのは、たぶん嘘では無いのだろう。少なくとも岡本はそう思っていたはずだ。
そうでなければ、北見は十人でも二十人でもひっぱてきただろう。だが、北見の行動には意味があるはずだ。そういう意味では北見は信用できる。
何の意味もなく武田と僕を巻き込んだとは思えない。
けれど、解らない。もしかすると、武田にあの告白をさせることが目的だったのかも知れないし、血液型がバラバラでないといけないとかそういう儀式の必然があったのかもしれない。考えたところで思考のピースが揃っていない可能性もある。
それは考えても解らないかも知れないことで。けれど、考えるまでもなく解ることもある。少なくとも、あの儀式で起きたことは本当だということだ。
あの空気は本物だ。
――ぴん、と弾くとくるくると廻る。
「――と」
薄くまとわりつくような気配。それは視線の重さだ。どこから、と考えるが前からなら気が付いていたはずで。後ろからなら……。
前方を確認する。いつも駄菓子を買っているお店がある、七時頃に閉まる店はすぐ前に街灯がある。夕方の今は明かりが灯っていないけれど。重要なのは街灯ではなく電信柱の隣、鉄柱が立っていてその上には防犯ミラーが設置されている。
夕焼けに赤い世界の中で、鏡の中に一人の少女がいた。
赤の中で深いほどに……青い。ふわりと地面から浮いているように見えた。
振り向くと、少女は鏡の中でそうしていたようにそこにいる。
戸惑う程度の微笑みを湛え、けれど、違うのは彼女の脚が地に着いている事だ。振り向いて最初に赤の中では顔が見えない、と思ったが、徐々に目が慣れてくる。
普通の服じゃない、と次の感想はそれだった。知ってる限りで近い物はお祭りの夜に女子が着ている浴衣。けれど、衿の部分は全長の半分程度しかない。具体的には上半身を包んでいる部分は着物の様な衿がある、しかし、その裁断は裾までは通じていない。下半身は筒のようになっていて布の重なりはほとんど見えない。
上半身と下半身のちぐはぐな造りの境界線は曖昧ではない。腰帯と言っただろうか、ベルトを布で作った物が巻かれていてそれが上下構造の境界線にある。こちらからではどう結んでいるのか解らないが背中側から尻尾のように二本分の端が見える。
その少女に――自分の何かが警告する。似たものを感じた、それもついさっき。
けれど、――目を奪われた。
警戒するのとそれは同時。視覚の集中を奪われて動揺。だが、動揺から立ち直るよりも早く、彼女は動く。気が付けば顔が目の前にある。肩くらいまで伸びた髪の毛が風に遊ばれて僕の顔に触れる。――森の様な香りがする。
――嗅覚を支配される。
「あ、れ」
心拍が少しずつ上がる。他の何を理由にするでもなく。女の子の顔が目の前にあるというのですらなく。森の香りのする女の子に――惹かれていく。
「くふ」
少女は笑う。その声は高く丸みを帯びていて、甘い。
――耳を奪われた。
さっきまでの戸惑いに溶けた笑みではない。妖艶を幼貌に溶かせばこうなるだろうという表情。目の前に少女が居て初めて気付く。この子の身長は僕よりも少し高い、年齢は同じくらいだろう。
「だ」
誰、と夕暮れ時に誰何の声を上げかけて、それは果たされない。声を呑まれた。手段は一番簡単に、口を封じたのだ。口と口で。
口づけは一瞬で、彼女が一歩跳ぶように後ろに跳ねると糸を引く。夕焼けの光が反射して光の橋を見せる。どく、と力強い鼓動を感じた。震源は自分の心臓。
脈打つというよりも握って圧力を加えられたような感覚。
「ん」
彼女は一歩の先から手を伸ばして僕の右手を取った。恋人繋ぎで指で組むようにして手を引き寄せて、人差し指を立たせる。
「くちゅ」
そのまま指先を口に含んだ。温かい、そして湿った感触。舌先の突起の全てが感じられるような錯覚。体の神経と血液が指先に集められるような感覚。ぞわりと、背筋に鳥肌が立つ。興奮を無理矢理に引き出されるような感じ、そして、もう一つ同時にかき立てられるのは被食者の感覚。かり、と人差し指の先に前歯の硬さを感じるとそれは痛みに転化される。偽物の痛み、心の中で生んだもの。
喰われる、と心のどこかで感じて。同時に、喰われたい、とも思った。どこか陶酔を感じているような円みを帯びた黒い目と目が合う。横から射す夕日を反射して、紅く染まっているようにも見える。
――ぶつん、と音がした気がした。
脳のどこかの制限器が壊れたような音。その音におされるようにして僕は動いた。
人差し指の先を軽く食む彼女の前歯の間を縫って右手の親指を滑り込ませる。同時に人差し指を抜く。そのまま人差し指を彼女の頤にかけた。ん、と彼女の身じろぐような誘うような息が一つ。赤を射された目を見て、吸い込まれるように口を吸う。親指を差し込んでいる分だけ唇同士は密着しない。隙間があれば漏れる物があるのは必然。
だくだくと、どくどくと、親指を伝って二人分の唾液が零れる。右腕を伝って肘までを濡らす。上唇を軽く噛むと、ひくん、と彼女は体を揺らす。そのままこそぐように前歯を使って三秒。それから開放する。
目と頬とを赤く染めた彼女は、けほ、と咳き込む。僕も、かふ、と掠れた咳をする。
――僕は心を奪われた。
この『どろり』として『とろり』として『くらり』とする、赤い世界でのお互いの初めてのキスが、僕と瑠璃葉の始まりだった。
・
――午後・六時。
はじめてのちゅー、と可愛く言っても自分すら騙せない。
「――えと、ごめん」
「あやまるなら、しなければいいのよ」
先にやってきたのはそっちじゃないか、と思いながら。もしかしたら、男と女でファーストキスの価格査定が違うのだろうか?
「いや、僕も初めてで、どうしてあんな事をしたのかも」
困ったように言い訳が口をつくと瑠璃葉――彼女――はくす、と笑う。
「まぁ、私が可愛いからってことにしてあげるわ」
行為は同じ筈なのに、立ち位置は完全にこちらが下だ。これは――固定か!
ソウデスネー、と答えながら。
「――君は何?」
改めて先ほど、口ごと閉ざされた問いを。
瑠璃葉は表情を変える、少し、困ったような表情に。
「えっと、あなたの言葉でいうなら――狐狗狸さんかしら」
解らないことを口にされたのに。納得する。――いや、納得という言葉では正確でない気がする。その言葉は水が土に染みこむように心に染みる。『理解』ではなく『言語化』、形をもっていた思考に名前を与えられたような。やっぱりという思いが強い。
「さっきの儀式?」
「そうよ。呼ばれたから出てきたの」
しかし、儀式は終わっているはずで。しかも、僕の前に出てきた理由が分からない。
他の三人と違うところと言えば……。思いついたのは一つ。
「――これか」
ポケットの中から十円玉を取り出す。ご名答、と瑠璃葉が頷く。けれど、岡村に聞いていた事前の情報では狐狗狸さんは『何かが出てくる』様な物ではないはずなのに。
「術者の前に姿を現すかどうかは任意、それに教室のあの時点ではこちらに出てこれないからね」
瑠璃葉は淡々と告げる。けれど、と疑問に思うのは彼女の言葉の一部。『姿を現すかどうかは任意』、つまり、出てくる必然は無かったと言うことだ。
必然もなく、目の前に現れた。なら、何かの意図があるのだろうか。――考えろ。
自分に任じる。目の前にいるのは自分の理屈が通じる相手なのか? 問え、自分に問いかけて解答を現出させろ。道を踏み外せば、何もかもを失う、という気がする。
理性的でないのはわかる。でも、どうしようもなく解っているのだ。それは例えば、ふとしたときに感じる悪い予感――それをとても濃くしたようなもの。
意味もなく、理論でもない。けれど、確信だ。放っておけば不味い――のに。
「どうしたの?」
瑠璃葉が微笑んでこちらをみる。その笑顔を見ていると思考を投げそうになる。
だめ、だ。
「なんでもない」
黒い瞳に吸い込まかけて目を逸らす。立ち上がって台所に。レンジを開く。
「大した物じゃないけど」
そういって、ことん、とカップを置いた。
もう一度、どうしてこんなことになったのだろう、と自問する。
仕舞い忘れたコタツには瑠璃葉が座っている。夕日の射す時間帯、いつもならクラスメイトとは別れている時間だ。そんな時間に招いた人が家にいるという不思議。
いや、招いた人が家にいるだけではない。こんな時間に家に他の人間が居ること自体が珍しい。兄弟はいないし両親は共働きで帰ってこない。共に不規則な仕事をしているからだ。家は広くても静かなものだ。電子レンジの使い方も慣れた。
「――なにこれ?」
ホットミルクだ。何と聞かれても困る。
「牛乳嫌い?」
「飲んだこと無い」
彼女は言って、コップを両手で抱えるように持ち。
薄くピンクの唇で触れて、飲み――。
「ぁつう!」
手を離す彼女。きつく目を閉じて小さく舌を出す。
――猫舌らしい。
「はぁ」
溜息なのか。感嘆なのか、自分では解らない息を吐いて。パックの牛乳を彼女の前のカップに注ぐと湯気が立たないくらいに温度が下がる。
「どうぞ」
再度勧めると、戸惑いながら瑠璃葉は手に取り飲んだ。
「おいしい」
笑顔。妖艶でも誘うようでも裏があるようにも見えない笑顔。
瑠璃葉本来の笑顔だと思える。――可愛い、と正直にそう思う。
「あ、蜂蜜入れるともっとおいしいかも」
台所のテーブルの上に出ていた瓶を取ってくる。柄の長いスプーンを黄金色の液体につけて引き抜きそれでもって瑠璃葉のカップをかき混ぜる。
「甘い」
一口飲んで、感想はそれだった。だが、口調と裏腹に目元が緩んでいる。が、それを恥じるように消すと瑠璃葉は口を開く。
「お母さんは?」
「仕事」
端的な疑問に一単語で答えると瑠璃葉は、そうなの、と頷いた。
「お母さんが嫌いなの?」
「別に、特別嫌いじゃない。それより、狐狗狸さんでも知らないことはあるんだね」
「まぁね、全知なんて物から遠いのは人間だけじゃないわ」
素っ気なく答える瑠璃葉を見ていると、心拍が上がる。どうしてだろう、と考えるが、人間じゃない物を目の前にしている恐怖だと、自分の理性には答えておく。
――その時電話が鳴った。
「なんだったの?」
「今日は帰れないって」
両親からの電話。二人は建築デザインの事務所で働いている。
不規則なのは事務所の責任者だからだ。最近ライバル会社の偉い人が倒れたとかで仕事が多くなって、夜中まで仕事をしているらしく帰ってこない。
「ふ、うん」
瑠璃葉は少しそわそわしている気がする。
「あ、えっと……泊めて貰おうかと思って」
「え? 別にいいけど?」
僕は深く考えずに頷く。両親が帰ってこないから咎める者もいない。女の子同士のお泊まり会というのは良く聞くし、と。『女の子が女の子の家に泊まる』と言うことと『女の子が男の子の家に泊まる』という事の違いに無頓着な僕は、頷いた。
あうあう、と言いながら瑠璃葉は頬を染める。
――晩ご飯も二人分かと後から見れば間の抜けた事を考えながら台所から声をかけた。
「食べられない物とかある?」
答えは、溜息で返ってきた。
・
――午後・六時半から九時まで。
夕食のための買い物をした。冷蔵庫の中の物で足りないこともなかったけれど牛乳を飲んだこともない瑠璃葉の好みが解らなかったからだ。肉は余り食べたくないとのこと、けれど色々な野菜に興味を示していた。結局、ピーマンとタマネギとブロッコリーを買わされた。帰り道ふと聞いてみた。
「瑠璃葉は他の人に見えないの?」
「んー、そうね、子供。本当に子供って感じの子なら見える事もあるかな? あとは、本物の霊能力者とか」
「へぇ、そうなのか」
僕は召喚者だから見えているし、瑠璃葉側から見せてもいるとのことだった。
家について瑠璃葉をコタツで待たせて僕は料理を始めた。瑠璃葉は料理をしたことが無いとのことだったし、客をもてなそうという気持ちが無いでもなかった。
牛乳は美味しかったとのことなのでクリームシチューを作る。
カレーとシチューは得意だ、ルーを使えばもっと楽だ。でも、それを使うと具の大きさぐらいしか工夫の余地が無くなる。少しでも美味しい物を食べて貰いたいと思った。
クリームシチューは味見の限り文句のつけようも無い。焼いたパンと一緒に出す。そして、夕食の時には瑠璃葉の話をした。
狐狗狸さんの生活は聞く限り江戸時代の村社会といった感じだ。『マヨヒガ』のようなものと言っていた。意味はよく分からないけれど竜宮城みたいに人間には行きがたい場所だと。基本的には農耕で暮らしているけれど、牛はそこにいないのだとか。だから牛乳を飲んだことが無かったとか。
瑠璃葉は狐狗狸のなかでも、狐だと言っていた。狐は化かすのか、なんて、事を聞いた。化かし合わない理性は存在しないと難しい言葉を返された。化粧だって見栄だって嘘には違いないのだそうだ。変身できるのか、と聞くと既にやっていると答えてくれた。今見えている可愛くて綺麗な女の子は瑠璃葉であって瑠璃葉ではないのか。そう思って、その姿は偽物なのか、と聞くと。狐に唯一の姿はないと答えが返ってきた、この姿も、狐の姿も、もう一つの姿も本物である、と。
そのあと僕の話もしようとして。特に話す事もないので止めた。趣味は料理ぐらいだ、好きな人もいない。
・
――午後・十時から十一時まで。
お風呂に入る瑠璃葉の着替えの事で一悶着あったり、何処で眠るかについての話し合いなんかを繰り広げた後、結局同じベッドで寝ることになった。論争の決着は売り言葉に買い言葉の様な物だったような気がするけれど、そんなことはベッドに入って数十秒で吹き飛んだ。僕の服と瑠璃葉の服――お風呂から上がっても同じ服を着ていた――二枚の布越しに女の子がいる、それもお風呂上がりの湿った暖かな体で。
そう思って緊張し心拍数が上がると前後関係なんて吹っ飛んでも仕方がない。
三十秒くらい沈黙してから気が付いた。
「瑠璃葉、何か付けてるの?」
「え?」
「……良い匂いがする」
互いに背中を向けているのだけれど、匂いに前後はない。鼻まで届く匂い。夕方に嗅いだのと同じ匂いだ。
「うちの里の匂いよ」
「――へぇ、良いところだね」
深い森のような、渡る風のような匂い。それは妖しいマヨヒガの匂いらしい。そう思えば神秘的にも思える。そして、眠い。
「ごめん、瑠璃葉……眠い」
「えぇ、疲れてるのよ。あの儀式で」
そうかもしれない。あの夕方の教室でとても疲れたような気がする。
「眠りなさい――何なら子守唄もつけましょうか?」
からかうように、けれど優しく。
「いいよ」
ぶっきらぼうに、照れるように。
森の香りの中で僕は眠りに落ちていった。
・
――午後・十一時半。
ある家。
十階建てマンション、七階の一室。そこには家族が居た。
サラリーマンの父親と専業主婦の母親と高校生の姉と小学生の弟。標準とは言わないけれど、平凡という言葉に含まれる家族。なかなか大きな部屋だったので姉が中学に入ったときに子供達には個室が与えられていた。弟には窓際の部屋を。姉は洗濯物を干すときの通路が嫌だと言って別の部屋を選んでいた。
異変があった。ただ、誰も気が付かない位の異変。昨日と比べて一度か二度ほど温度が低い。居間でもキッチンでも姉の個室でも。食事が終わった後であり、居間には父親がいたがそれには気が付かなかった。キッチンの母親も気が付かなかった。
しかし、もっと大きな異変の起きている部屋もあった、それは弟の部屋。そこだけは十度以上温度が低い。暖房の意味もない。けれど異変に気が付く者はいない。
温度が低く暖房が効かない理由は部屋の窓が開いていたからだ、洗濯を干しに出られるガラス戸が。そして、異変に気付く者がいない理由は部屋の主が居なかったからだ。
外に出ていた、リビングに通じるドアからでなく、外に通じるガラス戸から。
けれど、彼はもはやベランダにもいない。
見つけようと思えばさらに遠くを見る必要がある――とはいってもそう遠くを見る必要もない。彼の現在地は五十メートルと離れていないからだ。
――ただし、この現在地、もはや余人の力が無くては動かない。
・
――明けて、午前五時半。
とある家。坂の上にある数軒の家のうちの一軒。この辺りには豪邸しかないと言うこととその立地条件から、多くの家から文字通りに見上げる位置にある家。使用人すら雇っていそうな豪邸には三人の家族が住んでいた。父親は絵描きであり、母親は大きな宝石商の家に生まれたお嬢様だった。とはいえ、父親は母の家の脛をかじっている訳ではない。父親の才能は本物であり、一つの季節に一枚ほどしか絵を書かなかったが一枚一枚に破格の値がついていた。
今、その父親は赤い絵を描いている。アトリエとして使っている部屋は習作と下書き、失敗作で埋め尽くされている。部屋は赤く、そして、床すらも赤い。
赤は別の部屋の床にもあった。応接間の床にも絨毯が敷き詰められていたが、微妙に色合いの違う二色の糸で織られた絨毯だった。もう一つの部屋にも赤い床はあった。
大理石の筈の床、ただ、一面が黒い。いや、黒いのは影のせいだ。そして、乾燥したせいでもあった。その部屋は夫婦の娘の部屋だった。一面が赤黒い。
だくだくと、だくだくと。
体積に換算して二千立方センチメートル以上の赤の量だった。
――鉄は錆びて黒くなる。
・
――午前七時十五分。
目覚ましに起こされた。布団の中には僕しか居ない。夢だったのかと思ったけれど。目覚めたての意識が違和感を嗅ぎ取る。布団の中には暖かさが残っている。香りも。
――僕以外の。
五分も経っていない暖かさ。温もり。
「瑠璃葉?」
声を上げながら二階にある僕の部屋から下りると瑠璃葉はいた。
台所に。そして、冷蔵庫を開けて牛乳を飲んでいた、よっぽど気に入ったらしい。
「温めなくて良いの?」
「うー、温めた方が良い」
瑠璃葉が使っていたマグカップを受け取り牛乳を注ぐ、気持ち多めに注いだカップをレンジに入れる。加熱時間は一分。熱かったら調整してとパックごと渡す。
瑠璃葉がそれを飲んでいる間に朝食の準備をする。トーストを焼いて、目玉焼き、ソーセージを出そうとして……それは止めておく。昨日の朝、母親の作ったサラダがあるのを見つけて冷蔵庫から出す。バターと蜂蜜を用意して、目玉焼きには塩を振る。ドレッシングと塩、一応どちらも用意して出した。
お気に召したらしく文句一つ無く笑顔で完食した瑠璃葉。ちなみに塩派らしい。
「あ、そろそろ学校の時間だ」
「学校?」
「うん、休みじゃないしね」
瑠璃葉は少し中空を見て考えるような間。
「せっかく、こっちに来たから、色々見に行きたいけど――召喚者の近くに……、正確にはその十円玉の近くにしかいられないの」
「……で」
上目遣いで見られる。――なにか、不味い気がする。
手遅れだった。
・
――午前・十時。
「透明人間?」
「とはまた違うんだけどね」
瑠璃葉の力。すれ違った人が平日午前学校外の小学生を気にも留めない。
「違和感を感じない、とかその程度だよ」
デートというと気恥ずかしい。
逢い引きというと艶めかしい。
案内、手引きといった感じの怪しい単語を使う。胸ポケットに十円玉を入れて。
財布の中には結構なお金。夕食の準備とかのお釣りをこつこつと貯めてきた分だ。
電車で出かけて水族館に行った。マンボウがお気に入りのようだった。あんなに大きな魚は見たことがない、と。瑠璃葉の里には海がないとか。確かに、川魚であんなに大きな物はいないだろう。そして、鳥。水族館にいる鳥と言えば皆に人気のあれだ。よちよちと歩き水の中を飛ぶ鳥。『ペンギンに触れてみよう』というコーナーに並んだが瑠璃葉はペンギンに警戒されたようで触れられなかった。だが、可愛いと言っていた。その後、電車で地元に戻ってきて、商店街を歩いている。
「……あそこに入ろっか」
僕が指さしたのは喫茶店、入ったことは無い店なのだが足が疲れてきた。瑠璃葉も平気そうな顔をしてはいるものの歩調に余り元気がない。瑠璃葉は二つ返事で承諾する。
お二人様ですね? と聞かれて窓際の席に通される。向かい合いの小さな席。
――?
「そういえば、今の店員さん二人って」
「うん、今日は見えてると思う」
「――何で?」
「見せやすくなってるから見せてるの」
説明は要領を得ないが要するに今日の瑠璃葉は普通の人間にも見えているらしい、その事に今まで気が付かなかったのは間が抜けていると思うが。――そういえば、駅でも切符を二人分買った。
――まぁ、いいかと思い直して。
「何頼む?」
メニューを見せる。写真を見比べながら瑠璃葉は悩むが。
「これ」
瑠璃葉が指さしたのは抹茶パフェ。何というかお似合いだ。
「そう、僕は……」
ミルフィーユなんて物を頼んでみる、ちょっと気取っているけれど。葉っぱの話。
飲み物はミルクティーとホットミルク。甘い物を頼んだ時は待つのも楽しいと思う。
「抹茶好きなの?」
「お父さんが好きなの」
瑠璃葉の里にも抹茶があるらしいが、僕はお茶の作法を知らない、抹茶アイスとかは好きだけど。そんな益体も無いことを話しながら注文が来るのを待つ。さほどの時間も掛からず注文の品が来る。無愛想な店員が、ホットミルクとミルフィーユを瑠璃葉の前に、ミルクティーと抹茶パフェを僕の前に。さもありなん。
若干ほっぺたを膨らませた瑠璃葉が乱暴に交換する。
――の前に一口とミルフィーユを口にして。
「!」
目を見張る瑠璃葉。挙動不審とも言える様子でこちらを見た。
――欲しがりさんめ。
フォークでミルフィーユを切って瑠璃葉の前に突き出す。うー、と唸るような声。屈辱的という感情を滲ませながら舌を伸ばす。
「はむ」
かつんと、音を立ててフォークを噛む。そして、ミルフィーユを舌で取る。
「うー」
と唸りながら、しかし、甘いから逆らえない。女の子らしいなぁ、と思いながら。
同時に背筋に鳥肌が立つ。ゾクゾクとする快感だ。雛鳥に餌をやる程度の行為かと思っていたがとんでもない。
これは、甘味という暴力だ。その暴力で他人を屈服させることに得も言われぬ征服感を感じる。サディストなのかな……と思いながら。もう一口。
・
――午前・十一時半。
ある小学校、三階建て建築の三階の教室。
六年生の教室。中にはざわりとした空気。
休み時間のそれではない。もっと、固く重い空気だ。教師までもがその喧噪を騒ぎ立てる一因になっている。要するに、大人までもが騒がざるを得ない事態。
騒然と呆然の混じり合った物。どうしてなのか、といえば。
――風が吹き込んだ。
冷たい風。十二月の風は肌に刺さるくらいに痛い。窓をどうして閉めないのか、と言えばそこにいる誰もが理性的に動けるほど自分を取り戻していないから。教室の中には四つの空席。三人は今日、登校してきていないために、もう一人は席を立ったからだ。立って走って、窓枠に脚をかけて。
――乗り越えた。
少しの時間が経ったあとに、床、舗装されたセメントと頭蓋のぶつかる音がした。
そして、水音。それから十秒も経っていない。故に誰も反応できていない。
――あるのはただ、身を投げた誰かの最後の音を波紋の様に広げる騒めきだけ……。
・




