5、父娘、又は、色付く翠と射す茜
「と言うのがこの前の続きの話だよ、翠花」
そういうと真剣な表情で先ほどまでの話を聞いていた翠花は目を閉じた、反芻しているような沈黙。正座をして、一時間以上に渡る話をじっと聞いていた。いつも、一族が集まるときに正座が嫌で仮病を使う子だとは思えない。それ以外は真面目なのに。
翠花は最近、瑠璃葉に似てきた。それも、俺が小学生の頃に出会った瑠璃葉にだ。背格好もそうだし、衣装は、一族伝統のデザインらしくあの時の瑠璃葉とは色違い。白緑色の布地を多く使っていて、腰帯の色はわすれな草の花の様な色。今は座敷の上なので靴は履いていないけれど靴に関してはサイズ以外に違いはないようだ。
「ありがとうございます。それが父様がその様である理由なのですね」
「……まぁ、本当はもう少し続きがあるけど、里の人間なら大体知ってることだよ」
具体的には、瑠璃葉と一緒に彼女の父親に会って、門前払い同然に追い返されて、次に訪ねた時に見返して認められて……と、まぁ、人間の結婚と同じような事だ。
――最終的に、この里どころか、近隣の狐里を巻き込んで七連戦をさせられたときはどうしようかと思ったけれど。その結果、うつけやら変人やらと奇異の目で見ていた里の人間からの評価が引っ繰り返ったので怪我の功名と言ったところか。
「それにしても、翠花。そういう話が聞きたいって事は……」
俺の言いたいことを言い切る前に察したのだろう。
翠花はこちらを直視する。頬は少し赤い。
「――まぁ、いいさ。それこそ、俺の言えた事じゃないものな」
「父様は……それで良いのですか?」
良いかどうかと、聞かれると答えづらい。
勿論、立場的には駄目だと言うべきで、父親としても一言言いたい気持ちがある。けれど、自身としてどうなのか、と言われれば……。
「――やっぱり、俺にいえる事じゃあないよ」
んー、と翠花はあごに指を当てて思案顔。
「そうですか、お話くださってありがとうございました」
翠花は頭を下げて立ち上がろうとして――慣れない正座でバランスを崩した。
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脚の痺れが取れた頃、庭の奥まったところ、他からは見えない低い崖の上で翠花は空を見ていた。背の高い木、背の低い木、両方が覆う翠花の秘密の場所で、その一箇所だけは空が開けていた。
――空は高い、春なのに。
――春だから?
それもまた、違う気がする。空が高いわけじゃないのではなかろうか、と翠花は思う。空から吹き下ろすような風が翠花の髪をさらう、肩甲骨に被るくらいの長さの後ろ髪が一瞬広がって、また、収まる。
空は『高い』のではなく『遠い』。天に見放された、そう感じれば天は遠いだろう。
自分のしようとしていることはどうだろうか、と自問する。この里の人々は基本的に神という物を信じない。――いや、それでは表現に少しの齟齬がある。この里の人々は神と呼ぶ者を『実在』として有している、だが、それは天の上の存在でもなければ、世界の趨勢を見守るほどの強大さも有していない。
それを神と呼ぶのはひとえに自身らと比較したとき、地続きで有りながら格別の力を有している存在であるからに過ぎない。殿上人と言った程度の認識だろうか。もしくは、普通の人間が天才という言葉に対して抱いている感情が、彼らが神に対して思う認識に一番近いのかも知れない。
天はあくまでも『なにがしか』ではない。天に顔向けできるというのは自分に恥じるところがないという意味だ。そういう意味で『天が遠い』というのは自分のなかで何らか卑下する、或いは、何かためらいを覚えるのにも似ているかもしれない。
――翠花は溜息を吐いた。
此所は誰にも見られない彼女の隠れ場所。少し変わった来歴を持つ両親の元で強く在らねばならないと思っていた彼女は溜息一つ吐くにも一人になれる場所を求めた。
それは彼女自身の矜恃であったが同時に彼女自身だけのためではない。里の中で、父親は元人間と言うことでこそこそと言われ、母親は人間に惚れた変わり者と言われ、妹はまだ幼く泣き虫であった。彼女自身は両親のことが好きであったし、妹の事も守りたいと思っていた。そして、彼女が決めた方法は自分が優秀であると人々に理解してもらうことだった。だからこそ、他の人に弱いところは見せられないと自戒し溜息を吐くのも涙を流すのもこの秘密の場所だった。
――あぁ、と翠花は溜息を吐く。
この秘密の場所も溜息の濃度が濃くなってきた。梅雨の時期、多く雨が降ればあの瑠璃の樹は匂いを強くする。そうなればこの隠れ場所の空気も入れ替わるのだけれど。
――はぁ、ともう一度溜息を吐いた。
その時には自分がこの里にいないかも知れないのに、と。
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俺は茶碗に残った最後の茶をすすりながら、音を漏らした。
板張りの部屋、一部分だけを切り取れば剣道場の様にも見える。しかし、一般的な剣道場を比較対象にとってみても、この部屋は四分の一ほどしかない。
とはいえ、彼はその事に全く文句はなかった。なぜなら、此所は別に激しい運動をすることを目的にした部屋ではないし、それに個人の部屋でしかない。最近では慣れてきたけれど昔、住んでいたアパートと比べると広すぎて落ち着かないくらいの広さだ。
和室らしく、調度品日用品も和風の物ばかり。翠花が使っていた座布団も茜色の分厚い物だし、襖の奥には布団もある。炉には鉄釜もかけられている、きちんと習ったわけではないが彼は此所に来てから抹茶を飲む機会が格段に増えた。
壁には二振りの刀が飾られている、刀の周りに湿度を高く感じる空間がある。それは、保存が適切でないからではなく、刀が実用で使われて間もないために放っている呼気のようなものだった。
「悪くないなぁ」
呟く。思うのは翠花の事である。
瑠璃葉との第一子。可愛い女の子。
何が悪くないのかといえば、翠花が両親二人の話を聞きに来たことである。『恋に恋するお年頃』に差し掛かった頃から翠花はそういう話を求めるようになった。他人には強さばかり見せようとする翠花は、逆に、家族に対しては弱さを見せてくれる。
恋の話を求め人に聞くなど、翠花は外では決してやらないだろう。それまでは、里の他の人々の恋や二人の恋、物語の恋など満遍なく話し、そして、聞いていたはずの翠花だが、この間、初めて里の外に出たときから執拗に聞きたがったのが二人の話である、とくれば、彼女に何が起こったのかは明白である。
「そういう血なのかな」
彼が聞いたところによると、瑠璃葉の曾祖父もこの里の外から来たらしい、人間なのかそうでないのかまでは知らないが。それ以外ではあまり、里の外と血の交流があったという話は聞かない。
「さすがはうちの娘、と言っておこうかとりあえず」
うん、と彼は一人頷いた。
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そうして、少しの時間が経った。外の空が少し茜に染まり始めた頃、軽い足音が廊下に響き部屋を訪ねたのは小さな影だった。
「とうさま」
「うん? どうした、朱音」
声をかけた小さな少女、服装は翠花と同じ物、ただ色合いはオレンジで腰帯は銀色。人間の外見で言うなら七歳か八歳くらい。ランドセルに違和感がなくなる年頃だ。
髪型は肩に掛かるかどうか位の長さ、綺麗に梳かれている髪にはいわゆる天使の輪がある。アクセントになっているのはサイドポニーをまとめている髪留め。ヘアゴムなのだが、琺瑯の飾りがついている。デザインは柊の葉と南天の実。鮮やかな緑と赤が彼女の髪の黒さを際だたせる。幼いというより甘いと思わせる声で朱音は問いかける。
「きょうもねえさまがおかしいの」
『きょうも』といってもこの日一日を指すのではない。『最近』よりも、彼女にとってそれらしいから選ばれただけの言葉だ。
その言葉を受けて彼は一度頷いた。答える素振りをしながらも間を空けたのは答えを急く朱音の興味を切らさぬように、かつ、間を取ることで落ち着かせる為でもある。
「おかしいのかい?」
語調を変えて同じ言葉を返す。これも勿論落ち着かせるためだ。
朱音は今のところ『素直』に育っている、嘘をつけない。丸わかり。親から見ればだが。そして――そんな性格だから解りやすく落ち着いた。走ってきた為、肩でしていた息も静かにじっと父親の目を見る。
「なにが、おかしいのかな?」
笑顔を崩さず朱音の言葉を待った。
――翠花の様子がおかしいと感じているのは分かる。どう思っているのかを聞きたい。
「……えーと、ねえさまが遠いです」
朱音は自分でもよく分かっていなさそうに言って、けれど、自分の言葉に納得している。――遠いとは遠ざかるからこそ遠い。
姉妹の距離ではない。翠花と里の距離。幼いから鋭いのか、幼いのに鋭いのか。
男親の親馬鹿で後者を支持しつつ微笑む。
「そうか、それじゃあ、少し母様と父様の話をしよう。翠花も聞いた話だよ……」
言いながら座布団を出してその上にあぐらをかく。そして、その膝の上に朱音が座り見上げる視線が交わる。
――それは御伽の子守話だ。
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