第九章 監禁(あるいは欺瞞)
1
2021年 2月 20日 土曜日 16時 20分
「遅いな」
籐藤は腕時計をにらみつけたままパイプ椅子から立ち上がった。
法律が佐田本老人を家に送りに出てから既に一時間以上が経っていた。白山神社から佐田本家まで、老人を連れて歩く往路で約十五分、法律の健脚による復路で約七分といったところか。ひとをこの寒空の下で待たせておいて、若き探偵は老人の家で温かい茶でもごちそうになっているに違いない。籐藤は鼻を荒く鳴らした。
法律のスマートフォンは縛に貸しているため連絡は取れない。籐藤は忙しそうに駆け回っている青森県警の刑事の肩をたたき、少し外に出ると伝えた。
佐田本家のインターフォンを鳴らすと、木戸が開き佐田本老人が顔を出した。籐藤は佐田本に法律はいないかと訊ねた。佐田本の南部弁を聞き取るのは難しかったが、どうも法律はいないらしい。もし法律がいるならば、インターフォンが鳴った時点で佐田本の代わりに彼が出てくるだろう。
「入れ違いになったか」
籐藤はコートのポケットに手を入れ、神社にもどった。
だが予想に反して神社にも法律の姿はなかった。忙しそうに駆け回っている若い刑事に法律がもどってきたか訊ねる。答えは否。そばを飛ぶ鳥を墜落させかねない勢いの舌打ちを籐藤が放つと、若い刑事は駆け足で逃げていった。
空は既にうす暗い。境内の広場に照明はなく、本殿前の広場につながる屋根付きの通路に、ぽつぽつと頼りないライトがついているばかりだ。捜査員の中には懐中電灯を手にして歩き回っている者もいる。
拝殿の中には十分な光源があるらしく、正面の入り口から白い光が放出していた。籐藤は光に吸い寄せられる虫のように拝殿に向かう。傾斜のある木製の階段をえっちらおっちらと登ると、拝殿の中から盛田がひょいと顔をのぞかせた。
「足元、気をつけてください」
抑揚のない声質で盛田は言った。盛田の丸いあごが自身の足元を指していた。拝殿の入り口の敷居は、約三〇センチはあろうかという高さであった。
「先輩は身体が固かったですよね。学生時代、何をしても先輩には怒られてばかりだったけど、こと準備運動のまた割については、先輩も何も言えませんでしたよね」
「ひとには得意不得意があるからな」
一〇時〇〇分を指す短針と長針ほどしか足を開けない柔道着姿の自分を思い出しながら、籐藤は敷居をまたいだ。右太もものあたりが『パチリ』と小さな音を上げる。籐藤の精神力は太ももの小さな悲鳴を黙殺した。
拝殿の中はがらりと広く、奥に置かれた祭壇の他に目立ったものはなかった。床の畳はささくれ立ち、裸足で歩いたりしたら足の裏がずたずたになりそうだ。
「拝殿を捜査すると言ったら、村の住人から苦情がきましたよ」
「苦情?」
「村の人間は子どものころから、かみさまのおうちに不用意に入ってはならないと躾けられてきたそうです。村人にとってここは聖域。そこに警察が我が物顔で入るのが気に入らないのでしょう」
「警察が嫌われるのは東京も青森もかわらないな」
「そっち。神職はお粥が乗った五つの汁椀を祭壇の前に運びました」
盛田が背中を向けながら祭壇を指さす。籐藤は痛む太ももをさすり始めたが、盛田がふり返ると素早く手を放した。
「それとおもしろいものを見つけましたよ。拝殿の縁の下、ちょうどこの真下にですね、五つの粥が盛られたのと同じ汁椀がひとつ落ちていました。底にはうっすらと粥が残っていましたし、すぐそばに粥が落ちていました。トリカブト粥の汁椀とすり替えられたものに違いありません」
「犯人が捨てたものか。まぁ、汁椀を持って広場に戻るわけにはいかないからな。身体検査でも受けたら一発でバレる」
「汁椀は拝殿の奥の給湯室に同じものがニ十個ほどありました。他の柄の汁椀も同じく大量に置かれていました」
「当日、トリカブト粥をポリ袋にでも入れてここに来たのかな。それから給湯室で汁椀を盗み、粥を盛ったと」
「拝殿の入り口はいつも戸がしまっていましたが、カギがかかっていたわけではないので誰でも入れたそうです」
「事前に盗んでおいた可能性もあるわけか。ところで、病院に向かった四人はどうなんだ」
「今頃、むつ市の病院で検査を受けている頃でしょう。同行させた若いのから何度か連絡がありましたが、四人とも異変は起きていないそうです。やっぱり、あの四人が食べたのは普通のお粥だったみたいですね」
「そうか。無事ならよかった。被害者は」
「解剖に回します。それと、口腔内に残った粥の成分を検査するように科学捜査研究所にも頼んでおきました。ところで先輩。探偵さんはご一緒ではないのですか」
「それがな。佐田本さんを家まで送り届けて戻ってくるはずだったのに、いくら待っても来ないんだよ。さっき佐田本さんの家まで様子を見にいってきたんだが、家にいるのはあのじいさんひとりだけだった」
「ふぅん。迷子ですか。申し訳ありませんが青森県警は人手不足でしてね。捜索隊を手配する余裕はありません」
「うるさい。ぶん殴るそ」
「警告で済ませてくれるとは、先輩も丸くなりましたね。いいですよ。探偵さんを見かけたら報告しますよ。というか、暗くなってきたし先に帰っただけじゃないですか」
だが籐藤が新橋の一軒家に戻ってみても、出迎えてくれたのは玄関の靴箱の上に置かれた赤べこと静寂だけだった。
二十時近くになり、新橋がむつ市の病院から帰宅した。
「村長さんたちは無事です。かなり詳しく検査してもらいましたが、恒河沙さんが予想された通り、四人が食べたお粥に毒は入っていなかったみたいです。念のため、今夜は病院に泊まって、異常がなければ明日の朝には村に帰ってくるとのことです」
「それはよかった。しかし、犯人はどういうつもりだったのか。五人の内、ひとりだけをランダムに殺すなんて」
「誰でもいいからひとりが死ねばよかった。ふたりでも三人でも四人でもなく、ひとり。犯人が何を考えているのか、まったくわかりませんね。ところで恒河沙さんは。お風呂ですか」
法律が行方不明であることを伝えると、新橋は顔を曇らせて『探しに行かなくていいんですか』と籐藤に訊ねた。籐藤は小さく首を横にふった。
「いい歳をした大人が、たかだか数時間連絡が取れないだけで。明日にでもなればひょっこり帰ってきますよ」
「そんな、猫じゃないんですから」
2
2021年 2月 20日 土曜日 19時 18分
衣擦れの音に包まれながら苺刃柚乃は意識をとりもどした。
ぼやけた視界の中で見覚えのある物体が苺刃の頭に倒れてきた。
「うぐ」
自身の手に頭を叩かれ、苺刃はくぐもった声を漏らす。身体に力を入れ起き上がろうとするが、側頭部に漬物石をくくり付けられたかのような重みを感じ、かすかに浮き上がった身体が再びベージュ色のベッドの上に倒れこむ。
「ここは……」
うつぶせのまま、頭を揺らして周りを見る。六畳ほどの広さの部屋には、苺刃が横たわるベッドと、隅に置かれた四角い木製のテーブルが置いてある。四方の壁のうち、二辺に一枚ずつドアがあり、閉じている。
苺刃はナメクジのようにベッドから這い降りると、一枚のドアを開けた。ドアの向こうには三畳ほどの空間に、洗面台とトイレ、そしてガラスで区切られたシャワールームがあった。洗面台のレバーを上げると、冷たい水が音を立てて流れ出した。苺刃は両手をコップ代わりにしてたっぷり一リットル分ほどの水を飲んだ。
五臓六腑に水分を染み渡らせると、苺刃の意識はやっと鮮明になった。洗面台に両手をつき、深く息を吐いて気持ちを落ち着かせる。
「やられたぁ……」
苺刃は意識を失う前のことを思い出す。窮地から救ってくれた特秘委員会が、まさか自分たちに睡眠薬を盛るとは思いもしなかった。どれほどの時間眠りについていたのだろう。
元の部屋にもどる。時刻を確認しようとするが、部屋には時計はない。窓もない。黒いローブのポケットからは、自身のスマートフォンがなくなっていた。
苺刃はもうひとつのドアに向きあった。この部屋でおこなわれていることは監禁だ。特秘委員会は自分(おそらく縛にも)に睡眠薬を飲ませ、この部屋に運び込んだ。どうせこのドアには鍵がかかっているに違いない。そう確信しながらも、抵抗の意志を顕わにせず、監禁という横暴に粛々と従う気にはなれなかった。苺刃はドアノブをひねり、力をこめて引いた。予想は外れた。ドアは開いた。
「おめざめですか」
ドアの前の廊下に、背筋を立てて椅子に着く銀色タキシードの男がいた。男の黒髪は整髪料で固められハリネズミのように尖っている。鼻は高く、口の周りは短いが濃いひげで覆われていた。
「室内でお待ちください」
苺刃が口を開く前に男は言った。有無を言わさぬ冷たい口ぶりだった。だが苺刃は尋ねぬわけにはいかなかった。ドアノブを片手で握りしめながら苺刃は口を開いた。
「縛さんは無事なんですか」
「室内でお待ちください。わたしに言えるのはそれだけです」
男はタキシードの上前を払い、腰についたホルスターを見せた。そこには一丁のテーザーガンが備えられている。苺刃はおずおずと部屋にもどった。
十分ほどして、銀色タキシードの女性がひとり訪ねてきた。ショートヘアをへジャブで覆った、厳しい目つきの若い女性。梶谷葵はどこか疲弊した様子で苺刃と向かい合った。
「縛さんは無事なんですか」
開口一番に苺刃は尋ねる。葵は眉を大きく上下させてから、両目を閉じてまぶたの上から指で押した。
「まず初めに誤解を解くとしましょう」
目のマッサージをしながら葵は言う。
「わたしたち特秘委員会は、苺刃さん。あなたに敵意を抱いてはいません。何も悪気があってあなたをこの部屋にお連れしたわけではないのです」
「縛さんは無事なんですか」
「あなたはこの建物から出たいとお考えでしょうが、聖ブリグダ教団に目をつけられているという事実があります。聖ブリグダ教団が村中をうろついている以上、あなたを村に返すわけにはいきません」
「縛さんは無事なんですか」
「つまり、これは一種の保護というわけです。あなたを外に出すわけにはいきません。あなたを無事に村の外へお連れする準備が整うまでこの部屋で暮らしていただきます。監禁まがいの生活を提案して、『はい分かりました』とお返事をいただけるはずがない。そのために手荒な手段を使わせていただきました」
「なるほど。で、縛さんは無事なんですか」
「……無事です。別のお部屋にいらっしゃいます」
「でしたら会わせてください。『保護』のため、この部屋に連れこまれたのは、なるほど、納得はしていませんけど理解はしました。ですがわたしと縛さんを別々に分ける理由はないでしょう」
「上からの命令です。そして、お二人を会わせるわけにもいきません。これも上からの命令です」
「どうしてですか」
「おふたりを会わせるとなると、少なくともどちらか片方に部屋から出ていただくことになります。しかし、この建物の中には重要機密が多々ありますので、歩き回られると困るんです」
「なるほど。理解はしましたけど、納得はできません。縛さんに会わせてください」
「……上の者に掛け合ってみます。ですからお願いです。苺刃さん、この部屋からは出ないでください。ドアに施錠がされていないのはわたしたちの信用の証です。あなたが部屋から出ないと信じているから、カギをかけていないわけです。ですが、もしあなたがわたしたちの信用を裏切ったら、その時、部屋の外に偶然居合わせた者が、あなたに危害を加えるかもしれません」
葵はタキシードの上前を叩いた。そこにあるものについて、苺刃は先ほど実物提示教育を受けたばかりだった。
「後ほど夕食をお持ちします。どうかお願いします。わたしだって、辛いんです。どうか面倒は起こさないように、お願いします」
葵が部屋を出るためにドアを開けると、廊下の椅子に座るハリネズミ髪の男の姿が見えた。男は美術館の監視員のように背筋を伸ばし、鋭い視線で部屋の内側を見つめていた。
ドアが閉ざされ、窓のない空間に苺刃は再び取り残される。苺刃はドアを何度かノックしてから、数センチだけ開いた。
「外に出るつもりはありませんよ」
先んじるように苺刃は声を張りあげる。核物質を扱うようにゆっくりとドアを開くと、ハリネズミ髪の男は椅子から腰を浮かし、怪訝な目つきで苺刃をにらみつけた。
「あの。マンガとか雑誌とかもらえません。この部屋、娯楽が何もないので」
男は数回まばたきをすると、無線機を取り出しボソボソと何かをつぶやいた。
一時間後。苺刃の部屋に、てんとう虫コミックス版 ドラえもん(全四十五巻)が届けられた。
3
2021年 2月 20日 土曜日 19時 30分
両手足を拘束する鉄枷を左右に振る。鉄枷から壁の手すりに伸びた鎖が、床の上で波のようにうねりをつくる。モントゴメリーたちがこの部屋を去ってから二時間ちかく、法律は長いことこの遊びに興じていた。
奇怪な宗教団体に決して紳士的とは言い難い手段で拉致監禁された。それなのに彼の心臓は焦燥の汗を流すことなく、常時と変わらないリズムを奏でていた。
現状を脱する手段を思いついたというわけではない。『それほどひどい目に遭うこともなかろう』と聖ブリグダ教団を軽んじているわけでもない。むしろ法律は確信していた。自分は殺される。モントゴメリーという男は、自身の手札に『殺害』というカードを忍ばせているタイプの男だ。そのカードの枚数は多く、それゆえに安い。カードを生産するのはその者の意志だ。モントゴメリーという男の意志は『殺害』を安く見積もっており、これまで何回もその手札を切ってきたにちがいない。
法律はこの手のタイプの人間に何度もあってきた。だから知っていた。モントゴメリーは自分を殺す。そこに利益があるからだ。利益とはなにか。それは平穏だ。
教団員たちの中には強化の儀式が失敗に終わったこと、さらには祈年祭で殺人事件という禍々しい事態が発生したことへの疑念が少なからず生じている。何故こんなことが起きてしまったのか。自分たちの信心が足りなかったのではないか。指導者たちが教えてくれた儀式の手順が誤っていたのではないか。どうして、どうして、どうして、どうして。
モントゴメリーが最も恐れていることは、教団への求心力が低まることだ。だから彼は提示する必要がある。此度の儀式の失敗は、教団の過失によるものではない。すなわち、教団外部の介在により祈年祭が失敗したのだと、その証拠を示す必要がある。
その役目を果たすのが、偽りの巫女として教団に潜入していた恒河沙縛だ。異教徒たる彼女が、邪悪なる意志の下で巫女のふりをして鈴を鳴らしたせいで儀式は失敗に終わった。狡猾なる巫女はその姿を消したが、代わりにこの巫女と血を分け合った兄を捕らえた。この兄に妹の代わりに罪を償わせる。それにより、教団内に平穏が訪れる。儀式の失敗は帳消しとなり、明日からまた聖ブリグダ神の復活のために祈る日々が――平穏が訪れるのだ、と。
法律は殺されることを覚悟している。それなのに心は穏やかだった。この世を憂い、死を希うわけでもない。半年前の彼ならきっと、心を乱し、両手に走る激痛を気にする暇もなく、あたり一帯に鉄枷を叩きつけていたに違いない。
何が彼を変えたのか。
それは、それは、それは――
鉄格子の反対側にあるドアが開いた。
敷居の向こうに黒い影が浮かび上がる。その影は横にいる誰かと声を交わしていた。片方の声には聞き覚えがあった。車から降りた法律を気絶させた金砕棒の男だ。どうやら男は、法律を捕らえたこの部屋の門番の役目を任命したらしい。
そしてもうひとりの声。女性の声だ。ドアを開けた黒い影。彼女は慎重な足取りで部屋に入ってきた。歩くとカチャカチャと金属が擦れ合う音がする。
「あの」
か細い声が法律に向けられた。法律が声を返す前に、女性は両手に持っていた何かを壁際のテーブルに置いた。金属音はその置いた何かから発していたらしい。
女性は鉄格子のドアに近づくと、ジッと法律を見つめた。
「手を前に出してください」
「大丈夫。この通りばっちりですよ」
法律は彼女の意図を理解し、鉄枷を振って鎖を鳴らした。女性は小さく息を吐き、黒いローブのポケットから取り出した鍵をドアのカギ穴に差した。
「夕食です」
「あぁ。食事、いただけるんですね。ありがたい」
女性はドアを開け放つと、テーブルに置いたものを両手に持って鉄格子の内側に入ってきた。
女性が手にしていたものは一枚のプレートだった。プレートの上に料理が乗っているようだが、部屋はうす暗く、何が乗っているのか法律にはよくわからない。プレートを運ぶ彼女の足取りは重く、全身から警戒心がにじみ出ていた。
プレートが法律の目の前、床に置かれる。女性はそそくさと後ろに下がり、法律と距離をとった。
法律がプレートに手を伸ばすのを見ると、女性はドアをくぐり鉄格子の外に出て鍵を閉めた。
次に女性は、テーブルの上に置かれたこの部屋の唯一の光源であるランプを手に取った。そのランプを鉄格子のそばにそっと置く。橙色の光が鉄格子の内側にも注がれる。その光のおかげで、法律はやっとプレートの上の料理の姿を見ることができた。
「……これはなかなか」
プレートの左側に置かれた平皿に山盛りのナポリタンが鎮座している。ソーセージ、玉ねぎ、そしてピーマンと、具材はシンプルだが、大量のスパゲティ麺の中にごろごろとそれらが転がっている。プレートの右側には並々とスープが盛られたラーメン用のどんぶりがあった。コンソメと黒コショウの香りが混ざりあって法律の鼻腔をくすぐる。湯気を立てるスープの中には、色とりどりの角切り野菜と、大ぶりなブロッコリーが入っている。平皿とどんぶりに総面積のほとんどを埋め尽くされたプレートのすき間を這うようにして、バナナが二本置いてあった。
「捕縛された人間に食べさせるにしては、量が多いですね」
「モントゴメリー様直々の命令です。あなたにも教団員と同じ量の食事を摂らせるようにと」
「みなさんもこの量を?」
「毎日、大量にエネルギーを摂取しています。一時的な次元からあらわなる次元へ移るときには多大なカロリーを消費します。教団員には常日頃から過剰にエネルギーを蓄えておくことが義務付けられているのです」
「これなら朝食も楽しみだな。ぼくに明日の朝があるというなら」
法律の皮肉に女性は反応を示さない。室内に充満した気まずい空気を払拭しようと、法律は正座の体勢になり『いただきます』と一礼した。
鉄枷を嵌められた右手でフォークを取るが、フォークは短く、すぐそばにある左手が邪魔してナポリタンを取りづらい。細心の注意を払いフォークを回し、何とかナポリタンを取るが、油分が多いらしくスルスルとフォークから皿へと落ちていった。法律は次にスプーンを使ってスープを飲もうとしたが、今度は口に運ぶ途中にスープが左手に落ちてしまい『あぅ』と情けない悲鳴をあげた。
法律が食事を摂る姿を確認するよう言いつけられているのか、女性は鉄格子越しに法律を見つめている。法律は苦笑しながら女性の方を向いた。
「あの。恐縮ですが見ないでいただけますか」
女性は何も応えない。十秒ほどの間をおいて、法律は「お願いですから」と続ける。
「お皿に顔を伏せて食べるしかないんです。犬みたいに。あの、そんな姿をひとに見られるなんて……」
女性は大きなため息をつくと、鉄格子のドアを開き内側に入ってきた。つかつかと法律に近づきフォークを取ると、ナポリタンを器用に丸めて法律の口もとに運ぶ。
「これもこれで、恥ずかしいですね……」
数秒の逡巡を経て、法律は控えめに口を開いた。女性はその口にフォークを運ぶ。法律の口の中でケチャップの甘味とパスタのふくよかな触感が混ざりあった。美味とは言い難い。だが、口腔を介してひとたび脳が数時間ぶりに食事という習慣を思い出すと、それが美味ではないとわかりながらも、脳は自らを活動させる栄養素を急激に欲し始めた。もう少し簡素に述べると、法律は女性の補助を受けながらガツガツと食べ始めた。
食事の途中、法律は何度かフードを被った女性の顔をうかがった。面長で、目じりのあたりに細いシワが走っている。無表情を保つよう意識しているようだが、時おり、口もとの表情筋が緩み、花が咲きかける程度の笑みを浮かべるのを法律は見逃さなかった。
「あの、お尋ねしたいことが。宮野美穂さんという信者の方をご存じでしょうか」
バナナの皮を剥く女性の手が止まった。頭を少しだけ下げたので、女性の顔はフードに隠れて法律には見えなくなった。
「数か月前に、こちらに入信された村の女性なので……もご」
法律の口にバナナが突っ込まれる。その時法律は、かすかに浮き上がるフードの下の、女性の表情を見た。女性は眉をひそめ、くちびるの端をかすかに嚙んでいた。それを見て法律は確信した。彼女は宮野美穂を知っている。ワニが獲物を捕食するように、口をはげしく動かしてバナナを食べ進む。一本のバナナが数秒で胃の中に消えた。
「し、しっている……もご」
二本目のバナナが法律の口に突っ込まれる。いかに栄養価が高いと言っても、二本は栄養過多ではなかろうか。脳裏に流れたそんな戯言的懸念を黙殺しながら、再び法律はバナナを素早く咀嚼する。三本目のバナナはない。
「宮野に、いったいどのようなご用ですか」
女性は震えるような声で訊ねた。
「お伝えしたいことがあるのです」
「いったい、なにを」
「それはご本人にしか言えません」
「でしたら、どうぞ」
「はい?」
女性はフードを取り、顔を見せた。
「宮野美穂はわたしです」
4
2021年 2月 20日 土曜日 18時 58分
ラニア・アッバースと蓮下啓也が部屋を去ったあと、縛は一度大きく両腕を伸ばしてあくびをした。目元を濡らす少量の涙を拭おうと右手をあげると、この時はじめて自身が着ているローブのポケットにまだ何かものが入っていることに気づいた。
縛にはそれが意外に思えた。というのも、彼女が気絶している間に、ラニアはこのポケットに入っていたスマートフォンを盗みだした。となれば、同じくポケットに入っている他の私物も、全て没収されているとばかり思っていたのだ。
だがポケットに入っているものを思い出して、縛は『そりゃそうかぁ』と大きなひとりごとをつぶやいた。
ポケットの中のものは、大したものではない。いや、縛本人にとってはどれも貴重なものではあるのだが、少なくとも通信機能をもつスマートフォンのように現状の打破に劇的に機能するものはひとつもない。だからラニアはポケットの中にこれらを残していったのだろう。
縛はそのポケットから小さなアルミ缶を取り出す。中には、聖ブリグダ教団の教会でもらったクッキーが入っていた。小さな缶にすき間なく詰め込んできたため、昼間の内にいくらか食べてしまったがまだ数枚は残っている。縛は数時間前に自身が睡眠薬入りの紅茶を飲んだ丸テーブルに着いた。紅茶のポットは既に取り除かれていたが、代わりにペットボトルの水が三本置いてあった。
縛はクッキーを食べながら部屋を見渡した。自身を捕らえる鉄格子の間隔は狭く、当然そこから出ることはできない。鉄格子の向こう側には電子錠で開くドアが一枚あるばかり。窓の類は一枚もなく、周りは白く塗装された壁に囲われている。天井に換気口があるが、縦に細長くとてもひとが通れる幅ではない。この部屋から出るには、電子錠がかかったドアを通る以外に手段はないだろう。
部屋の内側には、丸テーブルと二脚の椅子、それから壁際に置かれた三つの本棚だけ。どれも木製だ。
トイレはどうすればいいのかと首をひねると、部屋の隅に壁と同化するように白い衝立が置いてあった。衝立の裏側を見ると、そこには箱型の簡易トイレが置いてあった。
縛は本棚に近づき、一冊の単行本を手に取った。パラパラとページをめくってみるが、挿絵はなく、彼女にとっては退屈極まりない一冊だった。他の本も手にしてみるが、そこに納まっている本のほぼすべてが彼女の興味を引くものではなかった。結局縛は、三冊の絵本を取りテーブルに戻った。
絵本をテーブルの上に放り、ぼんやりと顔を上げると、鉄格子の内側、部屋の角に設置された一台のカメラの存在に気づいた。迷彩効果を期待しているのか、ご丁寧にボディは壁と同じく白く塗られている。カメラのレンズも半透明の白だ。縛はカメラに向かって大きく手をふってみせた。
監視カメラの映像は、特秘委員会青森支部一階にある映像室のモニターに映されていた。
モニターの前のパイプ椅子に、ラニア・アッバースが足を組んで座っていた。彼女は猛禽類のような鋭い目つきでモニターの縛をにらみつけている。
「大人しいものだ」
吐き捨てるようにラニアは言った。
彼女の横で顔をしかめる蓮下啓也が、首をかすかに前後させた。
「もう少しうろたえるものと思いましたがね」
「それが普通だ。だがこやつは普通ではない。これほどの大物を本国に連れ帰れば、ジナテリウムの研究は急激に進行するぞ」
「しかし、クッキー缶はともかく。あんなものまでポケットに入れているとは意外でした」
「ジンは生物の皮を被り、その内側に正体を隠す。それと同じであろう。あの者は清楚な巫女を自称していたようだが、そうした清廉なる皮膚の内側には凡庸なる煩悩が隠れ潜むものだ」
5
2021年 2月 20日 土曜日 19時 52分
「まいったな、これは」
思わず法律はフッと笑ってしまった。
「まさかこんな形でお会いすることになるとは。自己紹介がまだでしたね。恒河沙法律と申します」
「巫女様の……お兄さんだとか」
宮野美穂は両眼を細めると、数センチだけ後ろに下がった。
「そうです。そして血縁を理由に、今こうして不自由の刑を受諾しているわけです」
「どこでわたしの名前を?」
「宮野さん。そもそも、ぼくの妹、恒河沙縛がこの教会を訪れた理由をご存じでしょうか」
「巫女様は邪教徒だったと聞いています。聖ブリグダ教団に潜入し、神々への祈りを妨げる敵だったと」
「ちがいます。あの子はただの女の子です。ひとに頼まれたらNOと言えない優しい子。宮野さん。ぼくの妹はあなたの娘さんに頼まれたんです。聖ブリグダ教団に入信したお母さんを連れもどしてほしい。そう頼まれたから、この教会を訪れたんですよ」
「さくらが……あの子が、巫女様に頼んだ?」
美穂は大きく開いた口をローブの裾で隠す。
「ご存じではなかったようですね。妹は偶然この村を訪れ、娘さんに命を救われました。『恩返しを』と申し出る妹に、娘さんは『お母さんを連れもどしてほしい』とお願いした。だから縛はこの教会を訪れた。するとどういうことか巫女様として歓迎を受けた。この教会への滞在を容認されるのはあなたに会うのに都合がいいから、巫女様という役目を引き受けたわけです。縛は何度か千来田さんに、あなたに会わせて欲しいとお願いしたそうです。ですがそれは無下に断られた。それでも、この教会に居続ければいつかあなたに会うチャンスが巡ってくると信じて、巫女の仕事を全うしていたわけです」
「そんな、わたし、知りませんでした。娘が、巫女様が……」
「宮野さん。あなたは、どうして聖ブリグダ教団に入ったのですか。たったひとりの子どもを家に置いて。いったい、何があなたをそうさせたのですか」
美穂は折りたたんだ両ひざをぺたりと床に降ろした。
「恒河沙さんは、どちらからいらしたのですか」
「東京です」
「東京。いいですね。先ほど別のものに聞きましたが、探偵業を営まれているとか。本当に、非凡で、特別な人生を歩まれている。わたしと違って」
両手を強く握りしめる。爪が手のひらに喰いこみ、傷をつけ、血がにじみ出るほどに、強く、強く――
「去年の夏のことです。缶詰工場の仕事の最中、わたしは左の膝を痛めました。激しい運動をしたわけではありません。敷地内にある、短い坂を上がっている途中で、突然膝が痛みだしたのです。丈夫な身体だけが唯一の取り柄だったというのに、この怪我のせいで一週間近くろくに歩くこともできませんでした」
宮野は折りたたんだ左の膝を手のひらで叩いた。
「お医者さんはこうおっしゃいました。齢四十を超えると、どんなに丈夫な身体にもどこかしら異常が生じるものだと。誰だってそうなんです。年をとるとは、苦しみが多くなること。膝の痛みを感じながら、わたしは自分が人生の折り返し地点を回ったことに気づきました。そして、その向こうにある終わりの姿も、ぼんやりと見えてきたんです」
法律は眉をひそめ、軽くあいづちを打った。
「人生の終わりが近づいてきて、わたしは怖くなりました。『これ』がわたしの人生なの。こんな平凡で、退屈な人生が『わたし』なの。下らない男に惑わされて子どもを産んで、こんな何もない田舎町に骨を埋めて終わりなの。本当に『わたし』は『これ』でいいの。つまらない人生が現実であるという事実に、わたしは打ちのめされました。そんな時に出会ったのが、聖ブリグダ教団でした」
「……あらわなる次元」
法律がつぶやく。美穂は法律の目を見ることなくうなずいた。
「聖ブリグダ教団はこの世界を否定しました。われわれが生きるこの世界は、聖ブリグダ神が生みだした仮初の世界に過ぎない。本当の世界は、聖ブリグダ神が住まわれる、あらわなる次元にある。わたしのこの下らない人生を偽物だと言ってくれたんです。わたしはこの教えに同調しました。偽りの自分を変えるために、わたしは子どもを捨ててここに来たんです」
「変わりましたか」
法律が訊ねる。美穂は顔を伏せて黙り込んだ。彼女の代わりに、長い沈黙が答える。その沈黙を経て、ふたたび美穂は口を開いた。
「娘を捨てて、こんな場所に逃げ出すなんて。まともな大人なら、どんな人生だろうと、ただ安全に生きていけるだけで、それだけで十分で、不満なんて口にせず、苦しみなんて感じなくて、それが普通なんでしょうか。やっぱり、わたしはおかしいのでしょうか」
「いいえ」
法律はすぐに答えた。
「あなたが苦しみを感じるのなら、その苦しみは本物です。例え世間がなんと言おうと、苦しみそのものを否定することはできません」
「その苦しみを治すために、わたしはこの場所を訪れた……」
「それが間違いです。あなたにとってこの場所は麻酔です。麻酔は痛みをごまかしてくれます。だけど傷を治してはくれません」
美穂は両手で顔を覆い嗚咽を漏らし始めた。
生暖かい涙が指のすき間から流れ、黒いローブの袖に吸い込まれていく。
「宮野さん。聖ブリグダ教団から逃げてください。ここにいても、あなたの悩みが解決されることはありません。それどころか、あなたの心は徐々に教団の教えに惑わされ、その悩みすら忘れて、教団に奉仕する操り人形になるかもしれない。ここを出るんです。そして、娘さんといっしょにぼくの妹を頼ってください。ぼくの妹は優秀です。きっと、あなたも……さくらちゃんのことだって守ってくれるはずです」
「よくできた妹さんなのね」
「まだ他に四人もいます。兄とは違ってみんな優秀ですよ」
「それで……そのお兄さんは、力を貸してくださらないの」
「はい。わたしはもうすぐ殺されると思いますので」
「……え?」
「モントゴメリーさんは危険な人です。あの人は責任者として、今日の祈年祭と強化の儀式の失敗の責任を負わねばなりません。どんな形で責任を取るのでしょう。まぁ、偽りの巫女を捕らえて罰するのが手っ取り早いのですが、残念ながらぼくの優秀な妹はモントゴメリーさんの魔の手を逃れたようです。ふふん。まぁその代わりに、不肖実兄のぼくが掴まってしまったわけですけど。ちぇ」
「巫女様……いえ、妹さんの代わりにあなたが? 理屈は分かるけど、殺すなんてそんな物騒なこと……」
「やりますよ。聖ブリグダ教団の教団員には、世界中の王室や行政機関の有力者が含まれています。日本の警察に息を吹きかけるなんて余裕でしょう。ぼくのような、一本の豆苗程度の価値しかない探偵を行方不明にさせるなど、モントゴメリーさんにとっては大した仕事ではないでしょう」
「そんな。そんなことって。どうして」
その時、部屋のドアが開き金髪をオールバックに固めた男が意気揚々と入ってきた。言わずもがな、スターⅡ、黄金星の階級を持つ、フランシス・モントゴメリーだ。
「おや。まだいたのか」
モントゴメリーは美穂を見つめてにこりと笑った。
「きみ。この男はしっかりと食べてくれたかね」
美穂は口をぱくぱくと動かしながら、宙を舞う虫を追うように視線を泳がせた。
「どうした。答えたまえ」
「は、はい。食べました……ぜんぶ」
「本当か。ふむ。皿はきれいになっているようだね。よろしい。きみ、皿を下げて出て行きたまえ」
「あ、あの。モントゴメリー様」
美穂は消えかけの電球のように弱々しい声で言った。
「このひとをどうするおつもりですか。まさか……こ、殺したりなんて。しないですよね」
「殺す? 何を言っているんだ。そんな残酷な行いを聖ブリグダ神が許すはずがないだろう」
モントゴメリーは胸に両手を当てて空を仰いだ。芝居がかったその仕草に、法律は嘲笑し、美穂は畏怖を覚える。
「では……彼をどうなさるつもりですか。このままこの部屋に閉じ込めておくわけないですよね」
「うむ。彼には協力してもらう」
「きょう……りょく?」
「祈年祭が終わった直後から、化身様がご機嫌を損ねていらっしゃるのだ。どうも強化の儀式が失敗し、祈年祭であんな悲劇が起きたことに腹を据えかねたらしい。そこで、明日の一八時より、この黄金星自ら『調和の儀式』を行う」
「『調和の儀式』? 不勉強ですみません。いったいどういう儀式なのですか」
「重要な儀式ではあるが、大したことはしない。化身様とは、ブリグダ神の身体の一部が一時的な次元に現れたものだ。その精神は次元間器官を通じて、あらわなる次元の聖ブリグダ神に通じている。つまり、化身様の怒りとは、聖ブリグダ神の怒りのことであり、生贄を供してその怒りを鎮めることでこの世の調和を取り戻す。怒りの原因はこの男の妹だが、同じ血族のものを供すれば化身様も納得してくださるだろう」
「ね。ぼくが言ったとおりでしょ」
法律は宮野に向かってウィンクを放った。だが宮野は呆然としたまま、モントゴメリーを見つめていた。
「生贄って、冗談ですよね。ただの儀礼的な、本当に殺すわけじゃ……」
「殺すわけじゃない。彼に名誉を与えるんだ! 聖ブリグダ神の怒りを買った彼の魂は、あらわなる次元に渡り、救済を受ける機会を永遠に失ったままになる。だが調和の儀式で大役を果たせば、彼の魂は救われ、あらわなる次元にたどり着くことが可能となる。そして彼の妹も、兄が大役を果たし、誉ある最期を迎えたと知れば、聖ブリグダ神の栄光を始めて理解することになるだろう。心の平穏。闘争の終結。調和はそこに現れる。そのための一歩を、彼に踏んでもらうわけだ」
その時、どこか遠くから轟く重低音の叫び声が木造校舎を震わせた。
ハグドの儀式のあと、法律がこの廃校舎に潜入した時に一度聞いたものと同じ声だ。この世のすべてを嫌悪するかのような重低音が、何度も、何度も繰り返される。
「ほら。この通り化身様はお怒りだ」
モントゴメリーは両腕を組み、愉悦の表情を浮かべた。
「さぁ。これを片付けて出て行きたまえ。わたしは今から、彼に用事があるんだ」
モントゴメリーは、床に置かれた夕食のプレートをあごでさした。美穂は両手を震わせながら、それを拾う。
美穂が鉄格子のドアをくぐる時、モントゴメリーがその肩を掴んだ。美穂は大きく跳ね上がり、反動でプレートからフォークが落ちる。
「確認だが。本当に、全部食べたんだね?」
美穂はすばやくうなずいた。
「……それは、よかった」
モントゴメリーはフォークを拾い、プレートに置く。美穂は法律を一瞥したが、すぐに目を背けて部屋を出て行った。
「それで。モントゴメリーさんはどんな御用なんです。調和の儀式とやらの打ち合わせですか」
「どんな御用かって?」
モントゴメリーはローブの内側から、黒くしなやかな、乗馬用のムチを取り出した。
「……ふざけるなよ。まったく。何もかも上手くいかない。こんな東国のくそ田舎まで来たというのに、強化の儀式も祈年祭も失敗に終わった。本部に報告したらお叱りを受けたよ。わたしは聖ブリグダ教団の笑いものだ。無能の烙印を押され、わたしよりも劣るカスが指をさして笑っている。これ以上に悔しいことがあろうか。あろうか。あろうか!?」
モントゴメリーはムチをふり回して宙を裂いた。ひょうたん形に広がったムチの先端が、鉄格子に当たる。鉄格子は鋭い金属音を放出してうす暗い室内に響き渡った。
「わたしは未熟者故、この怒りを治める術が思いつかない。すまないが、きみで解消させてもらうよ」
6
2021年 2月 20日 土曜日 19時 58分
モントゴメリーは法律のシャツの裾をつまむと、感心した様子でくちびるを横に伸ばしてみせた。
「厚手の生地だ」
「下北半島は寒いと聞いていましたので」
法律が着ていたダウンジャケットとセーターはクシャクシャに丸められて部屋の隅に転がっている。鉄枷を嵌める前に脱がされたらしい。上半身はこの厚手のシャツとその下にある肌着だけだ。
「正しい判断だ。きみにとっても、わたしにとっても」
モントゴメリーは法律の上半身を蹴飛ばした。床に倒れた法律は身体を起こそうと四つん這いの姿勢になる。モントゴメリーはそんな法律に、怒声を発しながらムチを叩き下ろした。
法律の背中に落雷が落ちたかのような衝撃が走る。もしくは、背中に置かれた地雷が爆発したかのような。どちらでも構わない。どちらでも違いはない。共通するのは、他に類を見ない激痛であるということ。法律は歯を噛みしめ、苦悶の声を発した。服の上からだというのに、その痛みに容赦などというものは感じられなかった。
「拷問が下手な人間は、過剰に苦痛を与えてしまう」
ムチを空中でふり回しながらモントゴメリ―は言う。そのふるまいはさながら、オーケストラの前でタクトを振る指揮者のようだ。
「骨を折ったり、鼻をそぎ落としたり……。本当に信じられない。拷問のもつ意味が分かっていない。過剰に苦しめてはダメなんだ。死にたいと思わせるんじゃない。確かな痛みはありながら、生への希望を抱き続けるギリギリの痛み。この微妙なポイントを見極めて、苦痛を与えるのが真の拷問なんだ。つまり、こんな風に!」
ムチが再び背中に叩きつけられる。法律が痛みに身体を反らせると、間髪いれずにムチが左腕を叩きつけた。痛む左腕をかばうように右手が動く。だが両手首を固定する鉄枷のせいで、右手は瀕死の芋虫のようにもどかしく動くばかりだ。その動きに付随して、鉄枷から伸びた鎖がじゃらじゃらと音を立てた。
「きみは死なない。シャツの上から叩いているから跡が残ることもない。大丈夫だ。安心しなさい。安心して、苦しむがいい。おっと」
モントゴメリーのムチが、法律の右手の甲に当たった。法律は鉄枷ごと両手を、身体の内側に抱え込むような姿勢を取り、そのまま横向きに倒れこんだ。
「……それは残るかもな。ははは」
法律は肩を上下させながら荒い呼吸をくり返している。苦痛を紛らわすためなのか、つま先を床に押しつけ、こするように何度も床をかいていた。
「夕食は気にいっていただけたかな」
モントゴメリーが訊ねる。法律は答えない。モントゴメリーは膝をつき、法律の髪を掴んで頭を持ち上げた。
「我が教団が、ブリグダ神への祈りを込めて作った料理だ。味もよく、量もあると評判でね。きみのような罪人にも満足していただける最高の夕食だったと思うが」
「……おいしかったです。特にデザートのバナナが」
法律の身体が床に勢いよく投げられる。手枷を付けられている法律は上手くバランスが取れず、顔から床に倒れこんだ。あごの先に走る痺れのような痛みに、思わず顔が上を向く。法律は天井を見つめた。その手前に、ムチを振り下ろすモントゴメリーの姿があった。
ムチは法律の腹部に下ろされた。シャツと肌着がめくれていたので、へその数センチ上の肌にムチが当たった。
法律の咽喉から擦れた声が漏れ出る。浮き輪に残っていた最後の空気が弁から出るような、そんな弱々しい、声とも言えない声だった。
法律は顔を横に向け、大きな咳を一度放った。次の瞬間、法律は吐いた。吐瀉物がうす暗い室内の床に、またたくまに広がっていく。
床に伏せた顔の部分を、生あたたかい吐瀉物が覆っていく。不格好な姿勢のまま法律は何度も嘔吐く。ポンプのように大量の吐瀉物が吐き出された。
「そうだよ。この惨めな姿が見たくてね」
震えが止まらないのか、モントゴメリーは両腕を身体の前で交差させ、自身の身体を抱きかかえるような姿勢をとっていた。
「嘔吐する姿は、なんて無様なんだ。本当に醜い。これほどみすぼらしいものがあるだろうか。ははは。さぁ、もっと見せてくれ。苦痛と、羞恥と、嫌悪が織り交ざったその汚らしい顔を見せてくれ。ははは。なんて……本当に、あぁ、気分が。た、たまらない!」
法律の顔は涙と鼻水と吐瀉物が混ざりあった液体で覆われていた。芋虫のように身体をよじり、地べたを這いまわる。モントゴメリーから距離をとろうとしているようだ。だが手枷から伸びた鎖がそれを許してくれない。ピンと鎖が伸びて、法律の動きはその場で止まる。
「ヘイ!」
モントゴメリーが大声をあげた。すると、廊下に通じるドアが開き、金砕棒の男が姿を現した。
床に突っ伏す法律に背中を向け、モントゴメリーは男に何かを伝えた。男は大きくうなずき、すぐに部屋を出た。
「大丈夫かい。ミスター恒河沙」
かしこまった口調でモントゴメリーは言った。口調こそ紳士的だが、その表情には地獄の王ベルゼバブでさえも裸足で逃げ出しかねない、不気味な笑みが浮かんでいた。
「いま、手当を呼んだ。しっかりと治療をしてくれるから安心したまえ。おっと」
モントゴメリーのローブの裾と革靴が法律の吐瀉物に触れた。モントゴメリーは部屋の隅に丸められた法律のダウンジャケットを取り、付着した吐瀉物を拭きとった。
「もっとも、これも『生への希望』のひとつだ。わかるだろう。きみは治療を受ける。そしてその後、わたしは包帯を巻いた箇所にムチを叩きつけるんだ。殺さない。絶対に殺しはしないよ。だって殺したら、これほど楽しいゲームが終わってしまうじゃないか。おや、ミスター恒河沙? ふむ。気絶したか。つまらないな。それじゃあ、また後で。グッドナイト」
7
2021年 2月 20日 土曜日 20時 27分
「こんなこと。ひどい、ひどすぎる」
宮野美穂は救急箱を手に法律に駆け寄った。
部屋中に吐瀉物の臭いが充満している。美穂は自身のローブが吐瀉物で汚れるのもかまわず、法律の身体を揺すった。
法律はうつ伏せの姿勢で木板の床に倒れこんでいる。顔は壁の方を向き、右手の指がひくひくと照明に焼かれて落ちた羽虫のように動いていた。
美穂は法律のシャツと肌着をめくり、その背中に小さな懐中電灯の光を当てた。美穂の口から引きつった声が漏れる。法律の背中には無数の赤黒い痣ができていた。
上機嫌でムチをふり回すモントゴメリーに法律の手当てを命じられた時から予想はしていた。だがこうして加虐の実態を目の当たりにすると、衝撃で美穂の心中は激しく揺れた。これは、行われてよいことなのかと。
「う、うぅ」
うめき声をあげながら、法律は頭を動かした。
「大丈夫ですか。すぐに手当てをしますから。背中の他にどこを打たれたの」
「お腹……あと、手がものすごく痛くて」
法律の右手の甲は楕円形に腫れあがり、その一部が裂けて血が滴り落ちていた。美穂は救急箱から消毒液を取り出し、ひと声かける間もなく傷口に噴きかけた。
「うぅ……」
「がまんして。すぐに包帯を巻くから」
「宮野さんですか。いまやっと気づきましたよ」
「喋らないで。他に痛むところは」
「宮野さん。あの男は。モントゴメリーは……」
「安心して。もう出て行った。今はあなたとわたしだけだから」
「あ、そうでしたか」
法律の口調は平然としたものに変わる。すっくと上半身を起こすと、右手に巻いている途中の包帯が美穂の手から転び落ち、吐瀉物が広がる床をてんてんと転がった。
「どうも。手当をしていただき感謝します。ほら、こんな状態ですからとても自分ではできなくて」
法律は壁に背をついて座り、両手の手枷を左右に振ってみせた。
「だ、大丈夫なんですか。だって、モントゴメリー様にムチで……」
「打たれましたよ。痛いですよ。氏のサディズムの慰めものになりましたとも。ゲロまで吐きました。でもね、この程度の痛みは大したことありません。少し苦しそうな演技をしたら、すぐに満足してくれましたよ。ぼくは過去にもっと大きな苦痛を与えられた経験があります。それに比べたらこんなの、蚊に刺された程度の痛みしかない」
「でも、それは加減の違いであって、痛みがあることには代わりないでしょう」
「まぁ、それは確かに。実際、右手は本当に痛いです。もっとも、明日にはぼくは調和の儀式とやらで殺されることになるのですが。あ、殺されるんじゃない。名誉が与えられるんでしたね。訂正訂正」
「どうして、そんな気軽に言えるの。あなたは死ぬのが怖くないの。それとも、頭がおかしくなってしまったの」
「前者は不正解。ぼくは死ぬのが怖くないわけではありません。一般人相応に死ぬのは嫌です。後者も不正解。ぼくの頭は正常です」
「だけど……」
「死ぬのは怖い。だけど、ぼくが死んでも大丈夫なんです」
法律はやっと気づいた。どうして自分が、こんなにも素直に自身の死を受け入れているのか。
それは、妹たちの存在だった。
半年前の九相図殺人事件の後、法律は全国に散り散りになった妹たちを訪ねた。
その目的は、兄妹の団結――東京の探偵事務所に妹たちを呼び戻し、五人の兄妹で探偵事務所を運営すること。そして、十年前に兄妹を裏切った父、恒河沙理人と対峙することにあった。
五人の兄弟は探偵としては優秀かもしれないが、それぞれが弱点を抱えている。だがひとりの弱点は他の四人がカバーすればよい。五人が力を合わせれば、稀代の名探偵にして『反謎』の名を冠する恒河沙理人にも匹敵すると法律は確信していた。
妹たちは探偵事務所への帰還を承諾してくれた。山吹医科大学付属病院での殺人事件を経て、長女である氷織が戻ってきた。ほんの数日前に、気まぐれワガママ眠り姫こと次女のLAWが京都から戻り、そしてこの青森の地で、放浪癖のある三女の縛を捕まえた。今は沖縄で暮らす末っ子からは、高校を卒業して春には東京に戻ってくると確約を得ている。
そう。妹たちは東京に戻ってくる。あの優秀な妹たちが帰ってくる。そこに自分がいる必要はないのだ。
「宮野さん。ぼくは十年前に失敗しました。探偵としての職務を果たせず、大切なひとたちを裏切り、逃げ出しました。妹たちの前に戻るのに、十年もの時間を要しました。妹たちは、こんなぼくを許してくれた。再び東京に集まり、兄妹で力を合わせてくれると約束してくれたんです。宮野さん。妹たちはすごいですよ。全員が超優秀なS級の名探偵です。ぼくと彼女たちには雲泥の差があります。必要なのは彼女たちの力だけなんです。ぼくは接着剤みたいなもので、彼女たちをくっつければそれで役目は終わりなんです」
「だから死んでもいいの。妹さんたちを集めたから、この世に悔いはないの」
「死にたいわけじゃありません。死んでも大丈夫ってだけです。妹たちは強い。もうぼくを必要とはしていない。ぼくが死んだとしても、彼女たちは強く生きていきます。ねぇ、宮野さん」
法律は手枷を左右に振りながら笑ってみせた。
「ぼくを見てください」
「何を……」
「ぼくをです。ぼくは十年前に失敗した。それでも妹たちとやり直すことにしました。そして妹たちはぼくを許してくれた。だいじょうぶ。あなたにもできます。さくらさんのもとに戻ってください。あなたはもう気づいたはずだ。モントゴメリーという男は異常です。聖ブリグダ教団はあなたを救ってくれない。この教会にも、村の家にもあなたの未来はないかもしれない。だけど家にはさくらさんがいる。さくらさんの未来がある。それって、けっこうすてきなことだと思いますよ」
「そんな気休めを言われても、今さら娘に会わせる顔なんて……」
「だけどさくらさんはあなたを求めた。母親であるあなたに戻ってきてほしいと僕の妹に願ったんです。あなたが自分は終わった人間だと思うなら――ぼくはそうは思いませんが――娘さんの未来のために生きるべきだ。会わせる顔がない? そんなプライド、娘さんの願いに比べたらちっぽけなものですよ」
美穂は顔をローブの袖に埋めた。しばらく押し黙り、やがて弱々しく嗚咽をこぼし始めた。
法律は何も言わない。彼の脳裏にあるのは、美穂に強い意志を取り戻させることだけだった。美穂はまだ間に合う。まだ聖ブリグダ教団に精神を取り込まれてはいない。この場所から離れれば、さくらの元に戻れば、すべてやり直せるはずだ。
どれほどの時間が経っただろう。うすぐらい室内で、美穂は顔を上げた。
その瞳を見て、法律は息を呑んだ。美穂の瞳は涙に赤く輝き、そして力強い意志が宿っていた。
「あなたをここから逃がします」
美穂は法律の手枷に触れた。子どものように手枷を乱暴に引っ張る。叩く、千切ろうとする。だが頑丈な造りの手枷はびくともしない。
「だめです。止めてください。そんなことをしてはいけない」
「鍵が必要ですね。どこにあるんでしょう。探してきます」
「いけない! ぼくを逃がすなんて、教団の人間にバレたらどんな目に遭うかわかりません。最悪、あなたもぼくといっしょに調和の儀式に参加させられるかもしれない。娘さんのところに戻ることだけを考えてください。穏便に聖ブリグダ教団から抜け出す方法だけを考えるんです。ぼくのことなんか構っちゃいけない」
「だけど、あなたを放っておくわけには……」
「宮野さん!」
法律は鋭く声を上げ、手枷につながれた両手で美穂の手を握った。
「よく聞いてください。仮にあなたがこの手枷を解いてくれたとして、その後はどうするんです。この部屋の外には、ぼくを気絶させた大男がいるんでしょう。彼に気づかれずここを逃げる方法があるとでも? 仮にあの男の目を盗めたとしても、その後は? 何人もの教団員がいるこの教会から出ることができますか。ぼくは今や、この教会の超大物VIPです。ぼくが逃げ出したことはすぐにモントゴメリーさんの耳に届くでしょう。そしたら、ぼくもあなたもおしまいだ」
「それなら、警察に通報します」
「それも不可能だ。現時点でさえも、宗教団体である聖ブリグダ教団を相手に青森県警は尻込みをしています。上層部に圧力がかかっているらしく、あまり強気な捜査はできていないのです。建物の中に男がひとり監禁されていて、明日の夜には処刑される。まさか。たちの悪い冗談と一笑されておしまいですよ」
「だけど、だけど……」
「宮野さんのアイデアは非現実的なんです。そして現実的な解決策なんてものはない。ぼくをここから救うなんて、誰にも――」
ほんの一瞬のことだ。ほんの一瞬だけ、法律の言葉は淀を生み出して停滞した。そしてすぐに法律は自身の失態に気づいた。美穂の瞳が力強く輝いていた。美穂はその淀の意味を理解していた。
「いるのね」
美穂は法律の手を強く握り返した。
「あなたをここから救えるひとが」
「ちがいます。そういう意味じゃ……」
「言いなさい。誰なの。誰ならあなたをここから連れ出せるの。言わなければ、わたしがその役目を買って出るだけ」
「やめて。やめてください。ぼくは、そんなつもりじゃ、くそ。どうしてぼくはいつもこうなんだ。肝心なところで、どうして」
「恒河沙さん。答えてください。誰があなたを救ってくれるの」
法律はのどを震わせた。荒い呼吸を繰り返し、覚悟を決めたように美穂を見つめる。
「妹なら、縛なら……ぼくを助けられる」
「わかった」
美穂はすっくと立ちあがり、ドアに向かってつかつかと向かった。
「何としてでも、妹さんをここまで連れてきます。だから、死んでもいいとか下らないことを考えるのはやめて。妹さんと仲良く東京に帰ることだけ考えて」
法律が何かをつぶやいた。だがそれは美穂の耳には届かなかった。
廊下に出ると、数メートル離れた位置に金砕棒の男が立っており、眠そうな目で美穂を見つめた。
「手当は済んだか」
「はい。だいぶショックを受けているみたいで、かなり落ち込んでいます」
「それは残念だ。少しでも抵抗してくれれば、また痛めつける口実ができたというのに」
男は握りこぶしを造り、もう片方の手のひらに数回打ち込んだ。
美穂は男に背中を向けて離れていった。