第八章 祭りのあと(あるいは拉致)
1
2021年 2月 20日 土曜日 14時 38分
「鍋を!」
岩城の後頭部を支えながら法律が叫んだ。岩城の全身は痙攣し、クモの脚のようにうごめく指が周囲の雪をかきわけている。
「籐藤さん、粥の鍋を確保してください。それから、汁椀も。誰にも触らせちゃいけない」
「……毒か!」
籐藤が立ち上がる。その勢いでパイプ椅子が後ろに倒れた。盛田刑事とその部下も立ち上がり、岩城のもとに駆け寄る。籐藤は竹垣の衝立の裏に飛び込み、粥が入った鍋を確認した。緑色の大根の葉が混ざったお粥は、底の方にいくらか残っていた。
籐藤が戻ると、盛田刑事とその部下が五つの汁椀の周りにいた。八足台に乗っていた五つの汁椀は、岩城が倒れこんだ衝撃で地面まで吹き飛んでいた。
「先輩。新橋先生を呼びました」
スマートフォンを耳から離し、盛田が言う。盛田は次にスマートフォンに指をすべらせ、また耳に付けた。
「部下たちもここに呼びます。おら。全員、その場から動くな。わの許可があるまで動くでねぇ!」
盛田は冬眠した動物たちが目を覚ましかねない勢いで怒声を発した。神社内の人々が怯えた表情でその場に固まる。例外は三名。モントゴメリーはにやつき、ラニア・アッバースは心ここにあらずといった様子で空を見つめている。そしてもうひとり、佐田本老人は両手を合わせてぶつぶつと何かをつぶやいていた。
「ど、毒って。お粥に毒が? それなら、わしらも毒を食っちまったのか」
梶谷村長が声を震わせる。同じくお粥を口にした、江竜、大久保、そして梶谷泰造の三人は不安そうに互いの顔を見合わせた。
「た、大変だ。おめら、吐け。粥を吐き出せ」
梶谷村長が指を口に差しこむ。他の三人もそれを見て同じように指を口に入れた。
「やめてください」
法律が手のひらを突きだして制止した。
「無理に吐き出すと、毒が器官に入るかもしれない。却って危険です」
「んだこといっても!」
「それに、恐らく皆さんのお粥に毒は入っていなかったと思われます。皆さんも毒を摂取してたら、岩城さんと同じ様に苦しんでいるはずですから」
「た、たしかに。わ、苦しくねぇ。おめらは?」
梶谷村長が腹に手を置きながら訊ねる。他の三人も『何ともない』と答えた。
「ですが、念のために医者に診てもらった方がいい。盛田さん。四人を警察の車で病院へ連れていってください。救急車を待っている時間はありません」
「四人? 五人の間違いでは」
盛田が訊ねる。しかし法律は小さく首をふった。
「四人です。岩城さんを診るのは、検視官の仕事ですから」
法律は深く息を吐き、顔を伏せた。先ほどまで雪をかき分けていた岩城の指はその動きを止めていた。痙攣も止まっている。まるで、電池の切れたおもちゃのように。
息を切らしながら新橋が神社に駆け込んできた。ボタンをとめていない白衣がたなびく。足元は黒い靴下にサンダル履き。診療所からそのまま飛びだして来たのだろう。新橋が改めて確認した。岩城はたしかに亡くなっていた。
「何があったのですか」
新橋は法律に訊ねる。
「祈年祭のお粥を食べてから、数分後に苦しみだしました。恐らく、お粥に毒が入っていたと思われます。ただ不思議なことに、同じお粥を食べた管理組合の四人は何ともないようなんです。念のため、このあと病院で検査していただこうかと」
「適切な判断です。わたしも病院まで同行しましょう。途中で何か起きた時のために」
青森県警の車が神社の前に停まった。村中に散らばっていた刑事たちが神社に駆け込んでくる。そのうちの数人が、管理組合の四人と新橋を連れて神社を出ていった。
境内は騒然とした雰囲気に包まれていた。ある者は恐怖に顔を歪ませ、ある者は憤然とした様子で横のものと言葉を交わしている。モントゴメリーは千来田に耳打ちをした。千来田はスマートフォンを取りだし、どこかにメッセージを送った。
2
2021年 2月 20日 土曜日 14時 12分
祈年祭のお粥が拝殿に運ばれた頃、神社の裏にある林で行われている強化の儀式にある変化が生じていた。ナイフを手に踊るひとが減っている。儀式が始まった際は二十人の教団員がいたのに、今は九人と、半数に満たない。残りの十一人はどこに行ったのか。泡となって消えたわけではない。単に疲れ果て、円形に回る儀式から離れた所で休んでいるのだ。
――無理もないよね――
雪の上に尻もちをついて背中を丸める教団員を見つめながら苺刃は考えた。その教団員は、齢五十を過ぎたと思われる肥満体型の女性だった。日ごろから運動をしているとは思えない体型。それは、他の休んでいる教団員たちも同じだ。腰が曲がり始めた男性や、蠟のように肌の白い痩せぼそった若者。強化の儀式から抜け出してきた教団員に共通するのは、誰もかれも『運動習慣』なる四文字とは縁のない生活を送っていそうな外見をしていたことだ。そんな彼らは約一時間の間、雪の上でくるくると周り、ステップを踏むのをくり返したわけだ。一時間もっただけ、上等と言っていいだろう。
ではいま強化の儀式を行っている九人の教団員が平然としているかというと、そうでもない。フードの内側から時おり現れる彼らの表情には疲労の色が明確に表れ、ステップにはキレがない。この場を仕切る丸眼鏡の男は『しっかりと踊れ』と檄を飛ばした。だがその声にも既に勢いはなく、言った本人だって、踊りの振り付けをいくつも省略していた。
結局、無理があるのだ。一時間に及ぶ間、大した体力もない一般人がくるくると回転を続けるなどできるものではない。足元が雪に覆われているというのも理由のひとつだろう。同じ軌道で雪の上を動いているうちに、雪は踏み固められ滑りやすくなった。実際、何人もの教団員が転んだ。転ばないように細心の注意を払いながらステップを続けるのはなかなかの気苦労だ。
「あ」
円形に回る儀式の中心で縛が声をあげた。皆の視線が縛に集まる。純白のローブから伸びた手の先には小さな鈴が握られている。その鈴が割れた。ぱかりと縦にふたつに割れ、その半分が中に入っていた玉といっしょに雪の上に落ちていった。
場の空気が凍る。教団員たちは呆然と巫女様を見つめた。踊り続けていた教団員もその動きを止め、無言で荒い呼吸をくり返している。
「しゃんしゃん」
縛が軽やかな声を出す。伸ばした両手を脚に沿え、ぴょんとその場で飛びながら。
「しゃんしゃん。しゃんしゃん」
凍りついた空気がさらに冷え込む。場の全員が見つめる中で、縛はひとり垂直に飛び続けた。誰かが弱々しく言った。りどば。数秒の間をおいて誰かが続ける。りどば。ぶつぶつと、ふて腐れたように皆が続く。りどば。りどば。えるりどば。そして縛は跳ねる。しゃんしゃんと。
ともすれば滑稽である。だが彼らには止めるという選択肢はなかった。これは儀式だ。やらねばならぬことだ。例え自分が疲れ果て、踊りの輪から離れたとしても、体力のある同胞が踊り続けるから問題はない。だが完全に止まるのはいけない。誰かが踊り続けなければならない。強化の儀式を続けなければならない。たとえ巫女の鈴が壊れようとも。たとえそれが、傍から見たら滑稽に過ぎない有様であろうとも。
覇気のない舞が三十分近く続いた。時刻は十四時三十分を過ぎたところ。強化の儀式は終わり、約一時間と三十分の間踊り続けた数人の教団員は、冷たい雪の上に両ひざをついて激しい呼吸をくり返した。
丸眼鏡の男は尻を地面に降ろし、両膝を抱え込みながら前後に揺れている。いわゆる体育座りの姿勢だ。青ざめた無表情で何かをつぶやいている。
「しっぱいだ。だいじょうぶ。できることはやった。だいじょうぶ。ぼくはわるくない。だいじょうぶ。みんながわるい。だいじょうぶ。ぼくみたいにまじめにやらないから。だいじょうぶ。どうしてすずが。だいじょうぶ。みこさまなのに。だいじょうぶ。こわれるなんて。だいじょうぶ。だいじょうぶ。だいじょうぶ。だいじょうぶ。だいじょうぶ。だいじょうぶ――」
その時、白山神社の方向から騒然とした声が響きわたってきた。全身を披露に支配された教団員たちはうなだれた様子で、神社の方に顔を向ける。それだけだ。『なんでしょう』と互いに声をかけあう元気もない。
「だいじょうぶ。だいじょうぶ。だいじょ――えあ?」
丸眼鏡の男はふところからスマートフォンを取りだした。画面を凝視し、一度『ひ』と乾いた悲鳴をあげると、切り株に腰かける縛を一瞥した。
その視線には畏敬の念は込められていなかった。代わりにあったのは――敵意だ。眉を曲げ、鼻の周りにシワが集まり、侵入者を前にした番犬のような歪な表情で男は縛を見ていた。
そんな表情がカメラのカットを切り替えたようにパッと笑顔に替わる。丸眼鏡の男は数人の教団員を手招きで集め、ぼそぼそと小声で会話を始めた。その間、教団員たちはチラチラと縛の方を見た。当の縛はといえば、切り株に座り、ぶあつい雲がかかり始めた空を見つめていた。
「巫女様」
丸眼鏡の教団員は縛に近づく。笑顔だ。にこやかな笑顔。過剰で、不気味で、警戒せざるを得ない造りものの笑顔。本能的に危機感を覚えた苺刃は、縛に寄り添い、ローブの背中を掴んだ。
「白山神社から連絡がありました。祈年祭は無事終わったと。強化の儀式も終了です。お疲れさまでした」
「どうも。おつかれさまでした」
縛は深くあたまを下げる。山から吹き下ろす風が縛の顔を覆うヴェールを撫でた。
「寒い中大変だったでしょう。さぁ。早く教会に戻りましょう。一刻も早く、カゼをひかれる前に。さぁ、早く。こちらへ。さぁ、さぁ、さぁ」
丸眼鏡の教団員は縛の腕を乱暴に掴んだ。縛は呆けた様子で素直に立ち上がる。
「ちょっと。何をするんですか」
苺刃が抗議の声をあげる。丸眼鏡の教団員の手を払うが、一度離れた男の手はすぐにまた縛の腕を取る。苺刃は見た。教団員の表情筋がぷるぷると弛緩している。顔中に冷たい汗をかき、見開いた両眼が何を見るでもなく何かを見ていた。
「う、うるさい。仕方ないだろう。命令なんだ。わたしだって。でも、巫女様を捧げれば……たしかに。そうだモントゴメリー様が、黄金星の言うことが間違っているはずがない。さぁ、巫女様。どうぞこちらへ。わたくしたちをお救いください。はは。早く。早く。早く来い。くそ。騙しやがって。こっちに来るんだよ!」
縛の腕を五つの腕が同時に掴んだ。五人の教団員が前に立ち、獣のような形相で縛をにらみつけている。苺刃の心臓がどくりと脈を打つ。思考ではない。脊髄反射で苺刃は動いた。身構える隙を与えず、肩から教団員のひとりにぶつかった。バランスを崩した教団員が、固まった雪に足を滑らせ、他の教団員もろともその場に転ぶ。彼らの腕は縛から離れた。その腕を今度は苺刃が掴み、息をつく間もなく引っ張る。
「逃げましょう」
ふたりは手を取り合い、林の中に駆け込んだ。後ろを振り向く間もない。その必要もない。怒声が聞こえる。追いかけてくる。いくつもの怒声が。
「まずいことになったね」
縛が言った。言葉とは裏腹に口調は平然としたものだった。左手は苺刃の手と繋ぎ、右手で純白のローブの裾を持ち上げながら林の中を駆けていく。
「『騙しやがって』て言いましたね。縛さんの正体がバレたってことでしょうか。それとも、わたしが?」
「どっちでも変わらないよ。わたしたちは一蓮托生。わたしの皮が剥がされる時、隣では柚乃ちゃんの肉が裂かれている」
「こわいこと言わないでください。あぁもう。どっちに行けばいいんだろう」
周囲を見渡すが、どこを向いても雪を被った木々が広がるばかりだ。目印になるようなものはなく、ただ後方から聞こえる『り り りっふるぅしてぐぃ ぶりぐだば』なる合唱から遠ざかることしかできない。
「あ」
ひと際大きな木の枝をくぐって抜けると、ふたりの目の前には天を貫くような白い岩壁がそびえ立っていた。村の東側に立つ山のふもとまでたどり着いたのだ。急傾斜の崖を登ることなどとてもできない。方向を変え、再び走り出そうとした時、まさに今ふたりが向かおうとした方角から教団員たちの声が聞こえてきた。反対の方角に足を踏み出す。だがそちらからも教団員たちの声がした。
「まずいです。まわりに、こんなたくさん……」
苺刃は首筋をつたわる汗を指で拭い、乾いたくちびるに滑らせた。その時、目の前の木の幹から銀色の影が躍り出た。
「助けにきました。こちらへ」
それは特秘委員会の構成員だった。銀色のタキシードに身を包んだ若い男が、背中を向けて走り出した。
議論をする暇はなかった。縛と苺刃は男の後に続いた。すいすいと、特秘委員会の男は迷いなく林を駆け抜けていく。それが正しい道なのかは分からない。だが、縛と苺刃はついて行くことしかできなかった。
林を抜けると、ぽかんと開けた空き地があった。木製の小屋が建ち、その横に銀色のバンが停まっていた。バンのスライドドアは空いており、そのドアの内側でヒジャブを身に着けた構成員が、必死な形相で手招きをしている。
苺刃と縛はバンに飛び込んだ。先導してくれた男もその後に続く。苺刃は窓越しに林から駆け出して来る聖ブリグダ教団員たちの姿を見た。儀礼用のナイフを掲げ、黒いローブをはためかせながら、鬼気迫る形相でこちらへ向かってくる。
誰が合図するでもなくバンは走り出した。空き地の前の細い道に急加速で向かっていく。縛はヴェールを頭の上に払い、両膝をシートに立てて子どものような姿勢でバックドア越しに教団員たちの姿を見つめていた。
「ナイフを持って走るなんて。危ない」
「本当。転んだりしたらどうするつもりでしょう」
隣の苺刃も両ひざをシートに立てて後ろを見る。助手席に座る特秘委員会の女性が大きく咳ばらいをした。
「ちゃんと座っていただけますか」
「あ。すみません。あの、助けていただきありがとうございました」
苺刃は前を向き直し、頭を下げた。
「だけど、どうして」
「どうして助けてくれたか? 上からの指示です。ブルーローズ様は聖ブリグダ教団の『巫女様』に大変興味を抱いておられます。もし『巫女様』の身に危険が及ぶようであれば、何としてでもお守りするようにとの命令です」
「だからあの場にいたんですか。強化の儀式を観察しているのではなくて、縛さんを守るために」
「バレていたのですか。上手く隠れていたつもりでしたが」
特秘委員会の女性は少し悔しそうに言った。一度鼻を鳴らし、気持ちを改めたように背筋を伸ばす。
「ブルーローズ様は、坂道で握手をした際に、あなた様がもつ特殊な力にお気づきになられました。その力は聖ブリグダ教団ごときに飼いならし得るものではありません。いつか彼らは『巫女様』の力に恐れを為し、恐怖から敵意の刃を向けるだろうと」
「そうだったのですか。ありがとうございます。ほら、縛さんも」
苺刃は一礼してから縛の純白のローブの袖を引いた。縛は七五三の写真撮影を終えた子どものように不格好に頭を下げた。
バンは小道を抜け、村の東側を走るおやしろ通りに出ると、スピードをさらに上げて南下していった。
「村に留まるのは危険です。教団員たちはいたるところにいますからね。おふたりには、われわれの青森支部まで来ていただきます。支部には厳重な警備体制が敷かれており、アリの子一匹の侵入さえ許しません。支部の中にいれば絶対に安全です」
「重ねてありがとうございます。わたしたちも、突然の事態にどうしたらいいかわからなくて。とにかく、一度落ち着いて今後のことを考えなくてはいけないので」
「ええ。その通りですね」
特秘委員会の女性はにやりと笑った。
「ゆっくりと時間をかけて、お考えください」
3
2021年 2月 20日 土曜日 14時 49分
境内を青森県警の刑事たちが慌ただしく駆けまわっている。祈年祭に参加していたひとたちは、パイプ椅子に座ったまま待つよう命じられた。彼らが事件に関与しているかどうかは分からない。だが、事件発生時に現場に居合わせたことには違いない。
盛田は竹垣の衝立の裏にあるタープテントの下にいた。カセットコンロの上に乗った鍋を見つめている。鍋の内側にはまだお粥が一杯分ほど残っていた。
鍋の横には五つの汁椀が並んでいる。管理組合の五人が食べたお粥が盛られていたものだ。黒をベースに朱色の線が模様として走っている。既製品らしい安っぽい代物で、どこかでまとめ買いしてきたものらしい。ひとつとして例外なく、お粥はきれいに平らげられており、汁椀の底にうっすらと半透明の白い膜が残るばかりだ。
「盛田」
籐藤が後ろから声をかける。盛田は背中を向けたまま舌打ちを放った。
「部外者はおとなしくしていてくれませんか」
「そんなことを言っている場合か。どうなんだ」
盛田はコートのポケットからスマートフォンを取りだした。着信があったらしく、短い言葉を交わして通話を終えた。
「四人を病院に連れていった部下からです。いまのところ、四人とも体調に変化はないそうです」
「五人とも同じ粥を食べたのに? では、被害者は粥を食べて死んだわけじゃないのか」
「祈年祭の前に食べたものに毒が入っていたのでしょうね」
「ちがうと思いますよ」
籐藤の後ろから法律がひょいと顔を出した。盛田の表情が苦々しく歪む。
「岩城さんはお粥を食べるまでは元気そうに見えました。お粥を食べて、席に戻ってすぐに倒れたわけです。それ以前に毒を摂取していたとしたら、お粥を食べるために立ち上がった時点で、いくらか毒が回っていて具合が悪く見えたはずです」
「主任」
若い刑事が現れた。籐藤と法律にちらりと目をやる。盛田は『かまわん』とつぶやいた。
「休憩の間、岩城は聖ブリグダ教団の金髪の外人といっしょにいたそうです。その外人に聞いたところ、盛田は休憩時間にガム一枚も、水の一滴も口にしていないとのことです」
「やはり、粥に毒が入っていたのか」籐藤は眉をひそめた。「だがなぁ。さっきも言ったが、他の四人も同じ粥を食ったんだぞ。なんで岩城にだけ毒が効いたんだ」
「同じ粥を食べたわけではないからでしょう」
法律はアルミ鍋にスプーンを入れた。少量のお粥をとり、躊躇することなく口に運ぶ。唐突な行動に周りの者はぽかんと口を開けて見つめることしかできなかった。
「大丈夫ですよ」。へらへらと法律は笑ってみせる。「鍋のお粥に毒が入っていたら、五人そろって毒にやられているはずです。だが毒が効いたのはひとりだけ。つまり、毒が入っていたのは岩城さんが手にした汁椀だけ。故にこの鍋には毒が入っているはずはないわけです」
「だからと言って食うやつがあるか。ばかもん」
籐藤は法律の頭を強く叩く。法律は『きゃん』と子犬のような悲鳴をあげた。
「休憩時間に毒が入れられたんですよ」。法律は頭を抑えながら言った。「休憩時間にお粥は作られ、拝殿に運ばれ、十五分後にこのテントの下に戻され、祭壇まで運ばれました」
「つまり。運んだ神職が毒を入れたのか」
「……とは言い切れません。何故なら、休憩の間、境内はずいぶんと騒がしかった。聖ブリグダ教団と特秘委員会との間で『ちょっとした』とは言い難い小競り合いがありました。彼らだけでなく、留守部村のひとたちも、祈年祭の進行について口論をしていました。それに、トイレに行く人やタバコを吸いに行く人もいて、境内の中はひとの往来が多かった。この間にこっそりと拝殿に忍び込み、汁椀のひとつに毒物を入れるのは難しくありませんよ」
「確認してこい」
盛田が部下の刑事に指示を出した。部下の刑事は慌ててテントの下を去る。
「誰が毒を入れたのかは気になりますが。それよりも気になるのは、犯人の目的です」
法律は腰を曲げて岩城が手にしていた汁椀をじっと見つめた。
「目的って。岩城を殺すことだろう」
「籐藤さん。それは違います。結果として亡くなられたのは岩城さんでしたが、他の四人が亡くなられた可能性だってあるんですよ。見てください。見たところ祭壇に運ばれた汁椀に違いはありません。すべて黒に朱色の模様があるだけ。五つの汁椀が祭壇に運ばれて、毒が入った汁椀を岩城さんが取る可能性は五分の一だったわけです」
「探偵さんのおっしゃる通りですね」。盛田が口元を抑えながら言った。「汁椀は五角形の形で祭壇に置かれていた。横一列なら、どちらかの端から順に取るかもしれませんが、五角形となると順番なんてものはありません。毒入りの粥を誰が食べるかは犯人にも分からなかったわけだ」
「はい。犯人は、岩城さんを狙って殺したわけではありません。管理組合の五人のうち、不確定で誰かひとりを殺すつもりだったわけです。ですが、それは何故。五人のうちひとりが死ぬことで達成する目的とはなんでしょう」
「菅原久も管理組合の一員だったな」
籐藤は白壁の向こうにある本殿の方を見た。四日前、菅原久は本殿の前で凶刃に倒れた。
「同一犯だと思うか?」
「わかりません」
「犯人は管理組合の全員を殺すつもりなのか」
「だとしたら、すべての汁椀に毒を入れれば済む話です。重ねてわかりません。犯人の目的がまったくわからない。管理組合のひとりをランダムに殺して、それで得をする人間なんて」
「失礼。刑事さん、すこしよろしいかな」
背後からのどぼとけをくすぐるような声が聞こえた。
三人がふり返ると、困り顔と笑顔を相混ぜにした表情のモントゴメリーが、わざとらしくもみ手をしていた。
「お伺いしたいのですがね。わたくしたちは、いつになったら帰していただけるのでしょうか」
「殺人事件の可能性は十二分にあります。つまりは、犯人がこの場にいる可能性だって同じく。その犯人を逃すわけにはいかない。おたくが犯人だと言うつもりはありませんが、もうしばらくがまんしてください」
盛田が言う。モントゴメリーは鼻で笑った。
「手間をとらせないでいただきたいな」
「……なんですって」
「また電話をかけるのは面倒だと言っているんです。刑事さんだって日に二度も上司に怒られるのは嫌でしょう」
「いったいなんの話だ」
籐藤は肩に力を込めてモントゴメリーをにらみつけた。盛田がその肩に手を置いた。
「先ほど無理に『巫女様』に接触しようとしたら、こちらの御仁は上層部のお偉いさんを介してわれわれに圧力をかけてきました。聖ブリグダ教団は高貴なるお方たちとねんごろの仲だそうで」
「……くだらない」
「同意します。同時にわれら組織人はこのくだらない話に従わざるを得ない。わかりました。モントゴメリーさん、この場にいる教団の方々のお名前と連絡先を記録させてください。教団の皆さんは山の教会に滞在されているんですよね。もし、この村を出る用事がある場合は、必ずわれわれにご一報ください」
「よかった。仕事がたまっていましてね。教会に帰ってやらねばいけないことがたくさんあるんです。本当に、たくさんね」
「その前に失礼。モントゴメリーさん。あなたはこの事件についてどう思われますか」
盛田が訊ねると、モントゴメリーは眉を大きく上下に動かした。
「悲劇的ですね」
「それだけ?」
「ええ。ひとが亡くなって悲しいなぁ、と」
「岩城さんは聖ブリグダ教団さんと懇意にしていたとうかがっています。実際、祈年祭の前にもあなたと楽しそうにお話しされている姿をわたしは見ました。それなのに、悲劇的のひと言で済まして終わりですか」
「あぁ、そういうことですか。それはたしかに、困りましたな。管理組合さんでわれわれの思想を理解してくださったのは、岩城さんと、なんと言ったかな。あぁ。江竜さんか。岩城さんと江竜さんのふたりだけだった。特秘委員会のシンパは大久保さんひとり。御人形様の譲渡先を決める多数決には、こちらの方が有利と岩城さんは常々おっしゃっていたのに、これで一対一になってしまった。これはこまった。あとは村長親子にわれわれの思想をご理解いただけるかどうか。こまったなぁ」
「憐みの情はもち合わせておられないようですな」
モントゴメリーは額を一度叩くと、その手をそのまま額に置き何度もうなずいた。
「憐み! なるほど。あなたがおっしゃりたいのは、そのことですか。これは失礼。刑事さん。われわれにとっては当然すぎて忘れていました。えぇ。憐みはありません。何故なら、本人の意図せぬ形とはいえ岩城さんはあらわなる次元への回帰を達成されたのですから。われら一時的な次元の住人が、あらわなる次元にたどり着く方法にはいくつか種類があります。そのうちのひとつが、他殺です。自殺ではいけません。聖ブリグダ神は本人の望まぬ死の苦しみを迎えた者に最上級の慈悲を与え、あらわなる次元にその魂を招いてくださるのです。岩城さんが誰かに殺されたのだとしたら、彼の魂は今、この一時的な次元を抜け、あらわなる次元にたどり着いたはずです。われわれが岩城さんを憐れむはずがない。むしろ羨むくらいです。彼は祝福を受けた。聖ブリグダ神の祝福がその身を包み――」
「取り込み中に失礼する」
割って入ってきたのは、ラニア・アッバースだった。ラニアは苦々しい表情で腕を組み、モントゴメリーよりも前に身を乗り出した。
「いつまでここに足留めされねばらぬのだ。分刻みで組まれている余の予定はすでに乱れておる」
「ミス・アッバース。名前と連絡先をお伝えすれば、帰ってよろしいそうですよ」
モントゴメリーがにやつきながら言った。ラニアはモントゴメリーに背中を向けたまま一度鼻を鳴らした。
「では、早速そうさせていただこう。余の名前は既知であるな。しばらくはこの村の青森支部に滞在しておる。よいな」
「はいはい。よきにはからいますとも」
盛田はふて腐れた口ぶりで頭をかいた。部下の刑事を数人呼び、犯行時に神社内にいた者たちの対応を任せる。それから盛田は壊れた祭壇の前に横たわる遺体の方に向かった。
「どう思う」
籐藤が訊ねる。隣に立つ法律は、卓上に残された五つの汁椀をしげしげと見つめていた。
「先ほど申しあげた通りです。犯人の狙いがわかりません。それが一番の謎です。岩城さんが毒物の入った汁椀を取る可能性は二十パーセント。岩城さん以外の誰かが亡くなる可能性だってあったわけです。つまり、犯人の目的は五人のうちひとりを殺すこと。それはいったい、どんな動機にもとづいて行われたのでしょう」
「愉快犯なんじゃないか」
「へ?」
「犯人の目的は管理組合の全員を殺すこと。ただし、まとめて殺しちゃ、おもしろみがない。時間をかけて、順番にひとりずつ殺していくことに意味がある。そんな、ふざけた嗜好の持ち主なんじゃないかな」
「妥当かもしれません。しかし、どうして管理組合が殺されなければならないのでしょう。最初に殺された菅原さんも含め、六人を死に至らしめるほどの動機とは」
「管理組合は御人形様を譲渡すること自体については揉めていなかった。どちらに譲渡するかで揉めていたんだ。つまり、御人形様の譲渡に反対する人間が犯人なんじゃないか」
「そんなひといるんですかね。だって、あの人形はいつから神社にあるのかよくわからない代物なんですよ。何年も前に、気づいたら本殿の中に置いてあった謂れも知らない藁人形。なかなかインパクトのある見た目ですから、村のマスコット程度に思い入れのあるひとはいるかもしれません。しかし人間を殺すほどの動機になるとはとても……」
「だが、実際にひとは殺されている」
「すばらしい意見です、籐藤さん。そう。実際にひとは死んでいる。ふたりの人間が不自然な形で死に至っている。ひとりは刺殺、ひとりは毒殺。事故なはずがない。ふたりには明確な殺意の意志が向けられたわけです。では、その意志とはいったいなんでしょう。ぼくにはどうも犯人の姿が想像できない。目的が理解できない。愉快犯。この会場にそんな恐ろしい人間がいるというのか」
「……あの」
弱々しい声が聞こえた。衝立からひょっこりと顔を出すさくらの姿があった。さくらは佐田本老人の手を握っている。佐田本は不安そうな表情で厚い雲がかかりだした空を見上げていた。
籐藤が自分の額を強く叩いた。
「すまない。おれから離れるなと言っておきながら、おれの方で勝手に離れちまったな。大丈夫か。教団のやつらに何かされたか」
「いえ、それは大丈夫です。遠くからジロジロとこちらを見てきましたけど。たぶん、いつおふたりが戻ってくるのかと、怖くて手出しができなかったみたいです」
「そうか。まぁ、なんだ。寒い中わるいが、もう少しおれのそばにいてくれ」
「わたしは構わないのですが、佐田本さんが……」
佐田本老人の顔つきには疲労の色があった。片手に構える杖をつく手つきはどこかぎこちない。
「長いこと外にいて、身体も冷えちゃったみたいです。そろそろ家に帰してあげたほうがいいかと。本当ならわたしがお連れすればいいのですが……」
佐田本とふたり、神社を出たあとで聖ブリグダ教団の人間に絡まれるのではないかと不安なのだろう。
「でしたらぼくがその役目を引き受けます」
法律はぴょこりと挙手をすると、その手でさくらに代わり佐田本の手を取った。
「佐田本さんのお宅はわかります。家に着いたら、またここに戻ってきますので」
「すみません。よろしくお願いします。佐田本さんも、家の中のことなら、大体はご自分でできるはずですので」
法律と佐田本はタープテントから出ようとした。広場の後方、出口のあたりでは、神社を出ようと刑事たちに自身の名前と連絡先を伝えている祈年祭の参加者で溢れかえっていた。
その時、佐田本の足がぴたりと止まった。佐田本の視線は、お盆の上に並ぶ五つの汁椀に注がれていた。佐田本は法律の手を握ったまま、ずいずいと汁椀に近づいた。そばにいた青森県警の刑事が怪訝な表情で佐田本を遮る。すると佐田本は、刑事の革靴に、ねじ込むように杖の先端を突き刺した。『ぎゃ』という悲鳴と共に刑事は飛び上がる。
佐田本は五つの汁椀のうち、ひとつをまじまじと見つめていた。その汁椀の底には、一枚の緑の葉が混じった、スプーン一杯に満たないお粥がうっすらと残っている。
「おめら、これ食ったんか」
佐田本は語気を荒くして法律に言った。法律はその勢いに圧倒され、弱々しく首をふった。
「お粥を食べたのは管理組合の皆さんです。ぼくたちは――」
「今すぐ診療所のセンセを呼べ。こんなもん粥に混ぜるなんて。あまくせごしかさね」
「なんですって。おじいちゃん、なんて言いました。お粥に何が入っているのかわかるんですか」
法律が訊ねる。佐田本は当然といった様子で大きく首を縦に振った。
「スルク」
「スルク?」
「スルク。つまりは、ブス」
「ブス? ブスって……ブス……ブス……あぁ。そういうことか!」
法律は大声を発して盛田を呼んだ。盛田は人込みの中でモントゴメリーと千来田、更にはラニアと蓮下に絡まれ面倒くさそうに対応していた。名前を呼ばれたことをこれ幸いにと、盛田は一礼してから法律のもとにやってきた。
「探偵さん。いったいなんで――」
「トリカブトです」
論ずる機会を許さぬ勢いで法律は言った。
「佐田本さんが教えてくれました。岩城さんが口にしたお粥にはトリカブトが入っていたんです。トリカブトは早ければ接種後一分と経たずに死に至る場合もある即効性の高い毒物です。岩城さんはお粥を食べて数分後に亡くなった。間違いありません。佐田本さん、どれです。どれにトリカブトが入っているんですか」
佐田本はひとつの汁椀を指さした。
「あとは大根だ。これだけがブスだ」
「ブス?」
盛田は頭の上に疑問符を浮かべた。
「トリカブトの別名です。小根を乾燥させたものを漢方薬の世界では附子と呼ぶんです」
「そうか。おい、これだ。被害者が口にしたのはこの汁椀だ。これだけ別にして保管しておけ」
盛田に命じられ、若い刑事は宝物を運ぶかのような緊張した手つきで、その汁椀を他の四つから離した。
「即効性のあるトリカブトということは、神社を出る時もピンピンとしていた他の四人が食べたお粥には、やはりトリカブトは入っていなかったようですね。しかし、トリカブトか。まいったな……」
「何がまいったんですか」
仏頂面で思案する盛田に若い刑事が訊ねる。
「入手方法のことじゃないですか」
盛田に代わって法律が答えた。盛田は法律をちらりと見て、先を続けるよう視線でうながした。
「猛毒の代名詞というイメージから、トリカブトはどこか珍しい植物のように思われます。しかし実際のところ、これが簡単に手に入っちゃうんですよね。北海道から九州まで、少し湿度がある山に入ればすぐにトリカブトを見つけることができます。紫色のキレイな花は園芸用としても人気で、通販サイトなんかでも簡単に苗が買えるんですよ」
「探偵さんの言う通りだ」
苦々しそうに盛田は言った。
「解毒薬もなければ特効薬もない。そんな危険な毒が、ナイフと同じくらい簡単に手に入るんだ。いや、ナイフは山に生えてはいないからな。ナイフよりも簡単に手に入ると言ってもいい」
ひとまず佐田本を家まで送ろうと思い、法律は盛田に断ってから、佐田本とふたりで神社の出口に向かった。
その時、黒いローブを羽織った男が、駆け足で神社に飛び込んできた。入り口にいた警察官が男を止める。必死の形相で暴れまわり、男の顔から丸眼鏡が落ちた。男は慌てふためきながら千来田の名前を何度も呼んでいた。
「すみません。うちの教団のものが失礼を」
既に神社を出る許可を得た千来田が、男を連れて神社の外に向かう。背後からすまし顔のモントゴメリーも続いた。
人の目につかない柱の陰に入ると千来田が男に訊ねた。
「巫女様……いや。あの不届きものは捕らえたのか」
男は何も答えず、震えながら視線を足元に泳がせた。
千来田が何か言いかけたが、それより先にモントゴメリーが男のローブの胸元を掴み、もう片方の手で男のほほをはたいた。ショックで顔を歪ませる男を、モントゴメリーは無言のままにらみつけた。
「も、もうしわけありません。あの女、予想以上に足が速く……」
「逃がしたわけか。従者だとかいう女は」
「もうしわけありません!」
「謝る以外にできることはないのか」
千来田は怒声をあげた。
「まったく。しかし参りましたね。祈年祭が失敗に終わったいま、聖ブリグダ神の慈悲を請うためにはあの女が必要だというのに」
「ただいま、教団員たちに村中を捜索させています。お時間をいただければ必ず――」
「誰かが家にかくまっていたらどうする。無礼を承知で家に上がって、押し入れやらクローゼットを開けてまわるつもりか。そんな狼藉は許さん。教団の名が廃る」
「し、しかし……あ!」
丸眼鏡の男は神社から出てくる二人組を見て声をあげた。それは法律と佐田本老人だった。法律は佐田本の手を取り、緩やかな坂道を滑らないよう、よちよちと歩いている。
「あ、あの男です。間違いありません。昨日、教会に侵入した男。あいつに間違いありません」
「馬鹿な。あの男は警察だぞ。臆病者ぞろいの地方警察にそんな大胆なことができるはずがない」
「本当に警察官なのかな」
モントゴメリーは法律の背中を見つめながら言った。
「わたしはこれまであらゆる国の警察官と渡り合ってきた。あの男からは、警察官特有のピリついた匂いがしない。どれ。ひとつ確かめるとするか」
三人は神社内で忙しそうに立ち回る刑事を捕まえて訪ねた。
「あぁ。あの人ですか」
既に坂道の下の方にいる法律を見ながら刑事は言った。
「東京から来たっていう探偵です。警視庁のお偉いさんのお気に入りだとかで、昨日から捜査に首をつっこんでいるわけですよ」
「探偵!」
千来田が驚愕の声を張りあげる。モントゴメリーは二本の指であごをさすりながら、顔を前後に揺らした。
「素人に横槍を入れられているわけか。そりゃ困ったね。君たちとしては早くお帰りいただきたいといったところか」
「もちろんです。あそこにいる怖い顔の男が警視庁の刑事でして、どうもあいつが東京から連れてきたそうなんですよ。まったく。よその事件に首を突っこむなんて非常識ですよ。東京の人間ってのはみんなこうなのかな」
「それで、あの探偵の名前は」
「たしかそう、恒河沙なんとかって」
「恒河沙! 巫女様――いえ。あの女と同じ名字ですよ、サー・モントゴメリー」
「わかっている。ふむ。なるほど。見たところ兄といったところか。よし。家族のツケは家族に払ってもらうとするか」
4
2021年 2月 20日 土曜日 14時 42分
銀色のバンは明らかな速度超過をしながら留守部村を駆け抜けた。苺刃は警察官としてスピード違反は見逃せないと思いながらも、自身の正体を特秘委員会に明かしていいのかどうか判断がつかず黙認することにした。
特秘委員会の構成員は誰ひとりとして口を開くことはなかった。林を抜け出た直後に苺刃が感謝の言葉を口にしようとしたが、それすらも『話はあとで』と遮られてしまった。
車内には張りつめた空気が漂っていた。時おり特秘委員会の構成員は縛を一瞥した。縛が腕の位置を変えるだけでも彼らはびくりと身体を震わし、何事もなかったのかのように視線を元にもどした。『まるで猛獣を搬送しているかのよう』。それが苺刃の率直な感想だった。
村の南東にある細い道を抜けると、正面に幾何学的な造りの巨大な建物が現れた。銀色のバンはその建物の入り口に横付けして停まった。
特秘委員会の構成員たちは、合図もなしに素早く車を降りる。スライドドアが開くと目の前に両開きのガラスドア。その向こうには白い壁に包まれた空間が広がっていた。
縛と苺刃が車を降りる。ふたりは早く建物に入るよう促された。歩きながら苺刃は左手の方角――北のほうにちらりと視線をやった。そこには草木が一本も生えてない、白い雪に覆われた上りの斜面が伸びており、遥か向こうに聖ブリグダ教団の教会の姿が見えた。
「ここは」
苺刃が訪ねる。
「特秘委員会青森支部です」
構成員のひとりが早口で言った。バンの助手席に乗っていた女性の構成員だ。彼女が先頭に立ち、次に苺刃と縛が続く。ふたりの後ろに、林の中で助けてくれた男と、バンを運転していた男が続いた。
建物に入ると、まず目についたのは、全面を白い壁に覆われた広大なロビーの中央に鎮座する不気味な噴水だった。噴水の中央に立つ豊満な肉体の女性の像。女性の頭部には巨大な八枚の花弁が咲いている。一枚の花弁ごとに鉄柵のように上部に伸びた棘が生えており、その棘の内側に表情を歪ませた小人の姿がある。花弁の先端からはちょろちょろと水が漏れ出し、像の足元のプールに落ちていた。
その醜悪な見た目に苺刃は思わず目を背ける。目を背けた先にあったのは、いたるところの壁から飛びだす、布を顔で覆われた男の像だった。
苺刃は悲鳴を飲み込み、着ている黒いローブの袖を内側からぎゅっと掴んだ。ぶ厚い布越しに熱を感じる。横にいた縛が袖ごと苺刃の手を握っていた。いや、握るというよりは掴むと言った方が適切な、不格好な形だ。苺刃は縛を見た。縛は少し眠そうな表情で、前を歩く構成員の背中を見つめていた。
三階に上がると、しばらく五人は長い廊下を進んだ。ひとの気配がまったくしない。その姿さえ見えない。微動だにしない爬虫類にのみ込まれ、その体内を歩き回っているような、そんな不気味さがここにはあった。
縛と苺刃は三階の奥にある一室に通された。天井も、壁も、床も、白で統一された一室。立食パーティーでも催せそうな広い室内なのに、置かれている家具は中央にある丸テーブルと二脚の椅子、それと入り口のドアの真向かいの壁におかれた三つの本棚だけ。テーブルと椅子は、周りよりもかすかに薄い白で染めてあり、この白濁の海にぼんやりと浮かんでいた。
「ここでお待ちください。間もなく担当の者が参ります」
そう言って、三人の構成員は部屋を後にした。
「もう。何が何だか。わかりませんよ」
苺刃は上半身をのっぺりと伸ばしてテーブルに伏せた。白い室内で黒のローブが際立って目立つ。対して縛の白のローブは、この白の空間に溶け込んで迷彩のような効果を発揮していた。
「聖ブリグダ教団にチヤホヤされていたのが遠い昔のようですね。『騙しやがって』か。どうしてバレちゃったんでしょうね」
「やっぱり、これのせいかな」
縛はローブのポケットから半分に割れた鈴を取り出した。
「本物の巫女様が儀式を執り行えば、こんな不吉の悪いことは起きないとか」
「だったら鈴が割れた直後に言うものじゃないですかねぇ。縛さんが『しゃんしゃん』って可愛らしく鳴いていても、あの人たちずっと踊っていましたよ」
「可愛かった?」
「可愛かったです」
「うへ。ありがと」
「どういたしまして。それにしても輪をかけてわからないのが、特秘委員会がわたしたちを助けてくれた理由です。あの林にいた理由は、強化の儀式を監視するのが目的だったとしても」
「敵の敵は味方ってことじゃない? わたしたちが教団に追われているのを見たから助けてくれたわけ。あ、もしくは……」
「もしくは?」
「ほら。さっき特秘委員会のお偉いさんと握手したじゃない。あの黒髪のかわいい女の子。その時にわたしの人徳が伝わって、もしわたしが困っていたら助けるよう部下に命令を出していたのかも。うへへ」
入り口の自動ドアが開き、バンの助手席に乗っていた女性がカートを押しながら入ってきた。カートの上にはティーセットと茶菓子が置かれていた。
「紅茶になります。申し訳ありませんが、いまはアッサムしか用意しておりませんので」
「あ、なんでも大丈夫です。違い、わかりませんから」
けろりとした表情で縛は言う。特秘委員会の女性は無言のまま給仕を続けた。
「長いこと外におられて身体が疲れ切っているはず。しっかりと糖分を摂取してくださいね」
カップに琥珀色の紅茶が注がれる。その紅茶にたっぷり大さじ一杯の砂糖が止める間もなく加えられた。
特秘委員会の女性は一礼して部屋を出た。
ねっとりと温かい紅茶をふたりは口にした。頭を鈍器で殴られたかのような甘さが口いっぱいに広がる。苺刃は顔をしかめる。正面で縛も鏡合わせのように同じ表情をしていた。
「これからどうします」
カップを両手で抱えながら苺刃が言った。
「教会に帰るわけにはいきませんよね。謝って許してくれるとは思えませんし」
「でも何とかして帰らないと」
「事件の捜査が進んでいないからですか。教団の内側から事件について調べるつもりでしたけど、結局大したことは分かっていませんからね」
「それもあるけど。いちばんは、さくらちゃんのお母さんのことだよ」
縛は憂いた目を紅茶に落とした。茶葉のカスがカップの底に沈んでいる。
「わたしは、さくらちゃんのお母さんを取り返すために教団に入ったの。きれいなローブを着て、しゃんしゃんと鈴を鳴らしたのも、全部さくらちゃんのため。あの子はわたしに頼んだ。お母さんを連れもどしてくれって」
「そこまでする義理があるんですか。ランプの魔人じゃないんですよ。命を助けられたからって、何でもかんでも引き受けなきゃいけないわけじゃ……」
「義理じゃない。意志だよ。わたしが生みだしたわたしの意志。わたしはさくらちゃんを助けたい。あの子の願いを叶えたい。いま、わたしはそのためにこの世に存在している。そんな気分なの」
「そんな気分って。気分で行動するんですか?」
「頭でごちゃごちゃ考えるのは他のひと《の仕事。わたしはもっとアニマルなの。アニマルに飛ぶ。アニマルに跳ねる。アニマルに爆ぜる。それがわたし、恒河沙縛」
「とても探偵とは思えない口上ですね。えっと、縛さんって探偵さんなんですよね。お兄さんと同じで」
「うん。五人の兄妹みんなで探偵をやっているよ」
「五人も」
「その中でわたしが一番のどべ。他の兄妹はみんな頭がいいのに、わたしだけが例外でダメダメなの。探偵なんて向いてないのに、他の生き方が思いつかなくてアルバイトと並行してズルズルと続けちゃっている。頭のわるいダメ人間だって自覚しているからこそ、頭じゃなくてそれ以外のところで勝負するしかないの」
「それ以外のところ?」
「自分の気持ちに正直であること。だって、自分がしたいって本気で思っていたら、百二十パーセントの力で打ち込めるでしょ。考えることが苦手だから、代わりに全力で行動するの。自分の気持ちのままに、素直に。だから、何としてでももう一度あの教会に戻らないと」
「事件の方は?」
「そっちは大丈夫。ほう兄が解決してくれる。わたしなんかがいなくても、あの人がいれば大丈夫だから」
しばらく経ち、縛は左腕を軽く上げて手首を見つめた。もっとも、その手首には腕時計などついていないのだが。
「ずいぶん待たされるね」
カップの中の紅茶は既に空だ。暖房が効いていて、室内は温かい。まばたきをして閉じた苺刃のまぶたが、数秒間そのままで固まる。苺刃は頭を震わせて両目を開いた。
苺刃は縛を見る。縛はテーブルに片肘をつき、頭を支えていた。その目はうつろで、空になったカップを見つめている。
「まさか。縛さん……」
苺刃の片目が閉じる。閉じた目は接着剤でくっつけたかのように動かない。
「とっても甘かったね。紅茶も、わたしたちも……」
その言葉を最後に耳にして、苺刃の意識は暗い夢の中に落ちていった。
縛は陶器のポットを取り、それを自身の頭に叩きつけた。乾いた音と共に、波打つ痛みが側頭部を駆け抜けていく。頭が痺れる苦痛と、靄がかかったようなまどろみが半分半分で縛の意識を占めている。ふたたび縛は自身の頭をポットで叩いた。ポットは割れ、縛の側頭部からは一本の赤い線がつたって落ちていく。縛は口の中で『まずい』とつぶやいた。出血するほどの傷は負ったはず。なのに、痛みをほとんど感じない。痛みよりも眠気が意識を支配していた。自傷行為によっても覆せないほどの眠気が、眠気が、両目が、ゆっくりと、閉じていき――
眼が覚めると、縛は自分が横たわっていることに気づいた。
冷たい床の感触に不快感を覚えながら身を起こす。側頭部を猛烈な痛みが駆け抜けていく。こめかみのあたりに触れ、血の乾き具合からだいぶ時間が経ったことを確認する。
上半身を起こし、うなり声をあげる。
目の前のテーブルには空のカップがふたつ乗っている。ゆっくりと身体を起こし、テーブルをのぞきこむ。手前のカップには粉々になった陶器の破片が入っていた。
テーブルと椅子、そしてみっつの本棚以外にはなんの家具もない真っ白い部屋。縛はひとりでうなずいた。どうやら自分は別の部屋に移されたわけではないようだ。だが眠りにつく前と異なる点がふたつある。ひとつは、苺刃がいないこと。もうひとつは、自身とドアを挟んで、無数の鉄棒が床と天井の間に伸びていること。鉄柵だ。鉄棒と鉄棒の間は狭く、とてもひとの身体を通すことはできない。縛はふらつく足取りで椅子に座りこんだ。
「つまりは、牢獄?」
鉄柵の向こう一メートルほどのところにドアがあった。そのドアが開き、ラニア・アッバースと蓮下啓也が現れた。ふたり揃って顔を強ばらせている。まるで、檻の中の猛獣を見るかのように。
「その物騒なものをしまってくれますか」
ラニアが口を開く前に縛は言った。その目は蓮下の手に握られた拳銃を見つめていた。何もかも白の部屋の中で、黒光りする拳銃はよく目立った。
「お願いします」
その口調が平時と変わらず、落ちついたものであることにラニアが眉をひそめた。蓮下は『どうしましょう』とラニアに訊ねた。三回り以上は齢の離れた上司は、蓮下の手から拳銃を奪いとると、銃口を壁に向けて引き金を三度引いた。
破裂音と火薬の匂いが室内に漂う。銃弾が穿たれた壁には歪なヒビが走っていた。
「物騒だから意味がある」
ラニアは無表情のまま言った。拳銃から硝煙が噴き出している。
「余は大いに恐れておる。人畜無害なひとの皮の中に隠れたお主の本性に対し、覚えたことのない甚大なる恐怖を感じておる。拳銃がなんだと。お主の牙に比べたら、このようなもの、おもちゃと大差ないではないか」
「すみません。言っていることがよくわかりません。あ、そうだ。あの、林の中ではありがとうございました。部下の方々が助けてくださって、本当に感謝しています」
「この状況で感謝の言葉を口にするのか?」
「助けていただいたのは事実です。現在進行形で監禁されているのと同じくらい事実。ひとつの事実には、本心で感謝しています。もうひとつの事実には、はらわたふつふつ華氏百度です」
「摂氏三十七度か。解熱剤が必要かな」
「痛み止めをください。側頭部がずきずきします」
「あとで届けさせよう。他に何かご入用か」
「理由と自由が欲しいです。閉じ込められている理由と、ここを出る自由」
「謝罪は要求しないのか。うむ。前者はお答えしよう。恒河沙縛。お主の中から尋常ではない量のジナテリウムが観測された。有史以来、類を見ない量のジナテリウムだ。お主の中にはこの世の崩壊を招きかねない悪のジンが潜んでおる。はっきり言って、このブルーローズでさえ手を焼く相手だ」
ラニアは銀色タキシードの胸に挿した青いバラを優しくなでた。
「わかるか。お主は危険な特秘物なのだ。本国との相談の結果、明日お主を特秘委員会本部まで輸送することになった」
「それって、どこにあるんですか」
「飛行機で二日かかる」
「辞退します」
「拒否権はない。特秘物とは、その存在そのものがこの世界の存続に関わる危険物なのだ。恒河沙縛。お主という存在そのものが危険なのだ。この地球を容易に破壊する爆弾を全身に巻き付けた人間が、自由にそこいらを闊歩することが許されていいはずがない。お主は特秘委員会の下で厳重に管理される。この世界の安寧とひとりの人間の自由、秤にかけてどちらが勝るかなど考えるまでもない」
「やめておいたほうがいいですよ」
「ん?」
「今すぐわたしを解放してください。そうしないと、ラニアさん、あなた大変な目に遭います」
「ふん。なんとも非力な脅迫だな。希望をひとつ打ち砕いておこう。助けを呼ぶことはできん。お主が寝ている間にスマートフォンは預からせていただいた」
ラニアはポケットからスマートフォンを取り出した。縛が法律から借りたものだ。
スマートフォンを足元に落とし、ラニアは銃弾を放った。衝撃でスマートフォンが宙を舞う。液晶画面に穴が空き、貫通したその穴越しに白い壁が見えた。
ラニアは拳銃を蓮下に差し出した。蓮下はそれを、献上品のように恭しく受けとる。
「後生だ。無意味な抵抗は控えよ。もしお主がわれわれの意志に背く様な行動を取った時、お主の連れの安全は保障できんぞ」
「柚乃ちゃんのことですね。あの子はどこにいるんですか」
縛は初めて感情的にものを言った。ラニアは平然とした様子だが、その横で蓮下は拳銃を強く握った。
「別の部屋に監禁させていただいた。あのものに悪のジンは潜んでおらんようだが、お主を操るのに好都合だと思ったのでな」
「わたしは聖ブリグダ教団と生活を共にして、彼らの異常性を目にしてきました。特秘委員会も異常性の点ではドッコイドッコイですね」
「ふざけるな。あのような気狂いといっしょにされては困る。特秘委員会は公益を第一に於いた慈善団体である。日本の言葉にこんなのがあったな。『世のためひとのため』と。恒河沙縛。この世界を救うために、その身の自由を捧げよ」
「わたしが何を言っても、そちらの判断は変わらないようですね」
「無論」
「あいわかりました。じゃ、めいっぱいの悪口を言うことにします。ばか。ばかばかばか。あほ。ドジ。まぬけ。クソダサスーツにクソダサ造花」
「スーツではない。タキシードだ。造花でもない」
「青いバラは存在しないって聞きましたけど」
「……塗っておる」
「え。じゃぁ、本当は何色なんですか」
ラニアは目を見開き、縛に向かって指を突き立て、縛が知らない言語を喚き散らかした。言葉の意味は分からなかったが、その口調とヒシヒシと感じる悪意からそれが罵詈雑言であることは縛にも推測できた。
たっぷり三十秒ほどの悪態を言い放つと、満足したのかラニアは鼻息を鳴らしながら部屋を出て行った。蓮下もおずおずとその後に続く。
縛は床の上に膝を抱えて座ると、前後に揺れながらこれからのことを考え始めた。どうにかしてこの場から逃げ出さなければならない。だがどうやって。集中して思案しようとすると、それを邪魔するものがあった。
恒河沙法律。兄の存在だ。
縛は四人の兄妹に尋常ではない畏敬の念を抱いている。彼女は自分が探偵に向いていないと自負している。探偵を名乗るなどおこがましい。毒蛾がアゲハ蝶を自称するようなものだ。探偵として依頼を受けたことは何度もある。いくつもの謎と直面してきた。だが縛はそれらの謎をひとつとして解いたことがなかった。
いつだって、いつだって、いつだって兄妹が助けてくれた。自分より優れた兄妹が助けてくれたのだ。だから今も、この村に恒河沙法律がいると思うと――自分が考える必要はない、頭脳労働は兄の仕事だ――脳が思考に対し非難の声をあげる。出過ぎたマネはやめろと嘲てみせる。
「そうだよね」
前後に揺れ続けながら縛はひとりつぶやいた。
「ほう兄なら大丈夫。ほう兄ならきっと、わたしを助けてくれるよね」
5
2021年 2月 20日 土曜日 15時 15分
「それじゃあ、これで失礼します。佐田本さん、おつかれさまでした」
縁側のロッキングチェアで前後に揺れる佐田本に、法律は一礼した。
佐田本は片手をちょいちょいと上げて笑ってみせた。自宅まで連れ添ってくれたことに感謝しているらしい。法律もちょいちょいと同じ様に手を上げて応える。
玄関を出て県道通りに立つと、法律は一度大きくノビをした。通りにひとかげはなく、恐らくいま現在この村で最もホットな場所である白山神社の近くにひとは集まっていると思われる。
法律が神社に向かおうと歩き出した時、後方から黒く巨大な陰が猛スピードで向かってきた。
それは一台のハイエースだった。ハイエースは法律をわずかに追い越して停まる。スライドドアが開き、黒いローブを着た男が五人降りてきた。
「恒河沙法律さんですね」
男の内のひとりが上ずった声で言った。法律はぽかんと口を開けて首肯する。
「巫女様……妹様がお呼びです。大至急、お話ししたいことがあると。どうぞ、お車へお乗りください」
「え、縛が。縛がぼくを呼んでいるって。そりゃ大変だ。いったいなにがあったんです」
「くわしい話は車の中で。さぁ、どうぞ」
法律はいそいそとハイエースに乗り込んだ。その後に五人の教団員が続く。法律は押されるように最奥の席に着いた。スライドドアが閉まるのが早いか遅いか、ハイエースは急発進した。
スモークガラスに覆われた車内は真夜中の洞窟のようにうす暗い。法律は横に座った教団員の腕をちょいちょいとつついた。
「いったい何があったんですか」
「落ちついてください。くわしい話は教会の中で」
「しかし」
「お願いします。われわれは、ただあなたをお連れするよう命じられただけなのです。確実にお連れするようにと」
ハイエースは村の東部にある坂道をのぼり、聖ブリグダ教団の教会の前に停まった。車内の教団員が急ぎ足で車を降りる。最後に法律が降りようとステップに足を置いた時、車の外から伸びた像の鼻のように太い二本の腕が法律の首を掴んだ。
法律は外の明るさに目を眩ませながらうめき声をあげた。何者かに首を絞められている。法律は相手の顔を見た。その顔は法律よりも数十センチ下の高さにあった。ずいぶんと小柄な相手だ。ちがう。法律は自身の勘違いにすぐに気づいた。雪と土が交じり合った地面が遠く感じる。裕に二メートル以上は。つまり、自分は首を絞められながら持ち上げられているのだ。もう一度法律は自分の首を絞める相手を見た。巨体に合わない小さなローブに身を包んでいる。見覚えがある。それは巫女様の部屋の前にいた金砕棒の男だった。七分袖から突き出た二本の腕には黒く濃い毛が大量に生え、太い血管がボコボコと浮き上がっていた。
法律は相手の左右の肩を両手で掴むと、両ひざを揃えて持ち上げ、相手の顔面に叩きこんだ。
金砕棒の男の頭が後ろに反り返る。周りの教団員たちがアッと声をあげる。だが男は倒れなかった。法律の首を絞める力が弱まることもなかった。男は首を起こすと、口もとまで垂れてきた鼻血をぺろりと舐めた。醜悪な笑みを法律に見せ、より一層の力をこめて彼の首を絞めた。
視界の周辺に黒い幕がかかり始める。法律はもう一度両ひざを持ち上げようとしたが、力が入らず、二本の足は風のない日の鯉のぼりのようにだらりと垂れた。
次の瞬間、法律の意識が捉えたのは、耳の上で聞こえる『じゃらり』という硬質の音と、首筋から肩にかけて走る強烈な痛み、そして手首と右ほほに感じる冷気だった。
ぼんやりとした視界の中で、法律は自分が気絶していたことに気づいた。冷たい木板の上に横になっていた身体を起こす。動くたびに『じゃらり』という音が上の方から聞こえる。特に腕を動かすとその音は大きくなる。
「……なるほど』
法律はつぶやいた。両手首に鉄製の枷がつけられていた。枷から伸びた鎖が壁からつき出た短い手すりに固定されている。鎖の長さはおよそ八十センチといったところか。
手の甲で目元をこすってから室内を見渡す。がらんと開けた空間だ。正面の壁にチョークの跡が残る黒板が貼られている。机や椅子の類はないが、十中八九、学校の教室で間違いないだろう。
だが法律は右の方を見て、自分の推測に『待った』をかけた。法律は子どもの頃の自分に問いかける。はて。学校の教室には、天井から床にかけて伸びる無数の鉄格子なるものがあっただろうか。
ない。絶対にない。聖なる学び舎に鉄格子なる不穏なものは似合わない。そんなことを言ったらこの両手首を捕らえる鉄枷だって同じこと。その通り。学び舎にこんなものは似合わない。だが、ここがカルト教団の教会だとしたら、それは十分が過ぎるほどに似合っている。
茶番的思考に法律は満足し、現実をあらためて捉え直すことにした。
ここは聖ブリグダ教団の教会、かつて留守部村の小学校だった廃校舎だ。そしてこの部屋は牢獄だ。罰を犯した教団員、もしくは教団にとっての敵を監禁するために作られた部屋なのであろう。
鉄格子の向こうには、右手の方にだけスライド式のドアがあった。左手の方にもドアがあるようだが、その前には古い棚や荷物が積んであり、出入り口として機能していないようだった。
数分後。ドアが開き、三人の教団員が入ってきた。
先頭に立つのはフランシス・モントゴメリー、次に千来田イヴリンと金砕棒の男が続く。
モントゴメリーはキーホルダーのリングを人さし指に差し、くるくると回しながら口笛を吹いている。そのふるまいはあまりにも演技くさい。千来田は腕を力強く組んでいる。その指先はローブの袖を強く掴んでいた。
「グッドモーニング。ミスター恒河沙」
モントゴメリーは鉄格子の一部にはめ込まれたドアの鍵を開けると、嬉々とした声色で中に入ってきた。千来田と金砕棒の男も続く。
「もう朝ですか」
「ん?」
「グッドモーニングって。ぼくは、ひと晩も気を失っていたのでしょうか」
「あぁ失礼。グッドイブニング。ミスター恒河沙」
「夜ですか。それで、どんなお話を聞かせていただけるのでしょうか」
「どうも落ちついているな。おい、首を絞めすぎて頭がおかしくなったんじゃないか」
モントゴメリーは子どものようにくちびるを尖らせ、金砕棒の男をひじでつついた。男はその巨体に似合わず子どものようにモジモジと身体を縮こませた。
「ミスター恒河沙にお伝えしたいことがある。まず一点。妹さんが呼んでいると言ったが、あれは嘘だ」
「なんとなく予想はついていました」
法律は手枷を動かし、鎖をじゃらじゃらと鳴らしてみせた。モントゴメリーはにんまりと笑う。
「そしてきみの妹さんは、強化の儀式に失敗した。きみも祈年祭が失敗したのを見ただろう。岩城の死によって祈年祭は台無しに終わった。あれでは聖ブリグダ神への祈りは届かない。それもこれも、すべてきみの妹のせい。偽りの巫女のせいだ」
「縛に責任があると」
「そうだ。きみの妹はわれわれを騙していた。あらわなる次元を訪ね得る巫女としてわれわれの前に現れておきながら、実はそのような力を持たず、われわれを騙してみせたペテン師だった。きみの妹のせいで強化の儀式は失敗に終わった。強化の儀式が失敗に終わったため、祈年祭も失敗に終わった。もしきみの妹が本物の巫女であるならば、強化の儀式は成功し、岩城とかいう男が死ぬこともなかったわけだ」
整合性のない理屈を耳にし、法律は理路整然とした議論の構築を放棄した。ここから先は、年少組を担当する保育士のように寛大な気持ちで話を続けることにしよう、と心のなかでうなずいた。
「強化の儀式が失敗に終わり、きみの妹の正体が露見した。その途端、きみの妹は脱兎のごとく逃げ出した。現在も捜索を続けているが未だ見つかっていない。いや、見つける必要もない。何故なら、妹の犯した罪を償うために彼女の兄を捕まえたからだ」
「償いですか。具体的にぼくは何をすればよろしいのでしょう。妹の代わりに鈴をふりましょうか。しゃんしゃん」
「ばかにしてくれるな。そんなものは求めていない。いや、特別なことをしてもらう必要はない。きみはただ、ふふふ。その時を待っていればいい」
「やめておいたほうがいいですよ」
「なに?」
「今すぐぼくを解放してください。そうしないと、モントゴメリーさん、あなた大変な目に遭いますよ」
モントゴメリーは声をあげて笑いながら鉄格子の外に出た。千来田と金砕棒の男も続く。三人は鉄格子を抜けると、ドアをしっかりと施錠した。鉄格子越しにモントゴメリーが法律を一瞥し、キーホールダーを指で回しながら部屋を出た。
「さてと」
法律は手首から伸びた鎖を全力で引いてみた。鎖が固定された手すりは頑丈でびくともしない。というより、例え拘束から逃れたところで、次には施錠された鉄格子からの脱出という過酷な第二フェイズが待ち構えている。さらにその次には、何十人という教団員が在住する教会からの脱出という第三フェイズ。ことは容易ではない。
「でも、よかった」
法律は床にどすりと座り、左右に身体を揺らし始めた。
「教団はしいちゃんを取り逃がしたわけだ。しぃちゃんが無事なら。うん。よかったよかった」