第七章 祈年祭(あるいは殺人)
1
2021年 2月 20日 土曜日 12時 30分
坂道を一台の外国産車が歩くような速度で下っていく。最高級グランドピアノのように重厚な外国産車の周りを、黒いローブを着た聖ブリグダ教団員たちが囲っている。車の前方には二列になって、後方にもまた二列になって直線に伸びている。
「り り りっふるぅしてぐぃ ぶりぐだば」
列を形成する誰かがつぶやく。一拍をおいて、列を形成する全員が復唱する。り り りっふるぅしてぐぃ ぶりぐだば。
また別の誰かがつぶやく。り り りっふるぅしてぐぃ ぶりぐだば。そして列を形成する全員が復唱する。り り りっふるぅしてぐぃ ぶりぐだば。
木々の葉がトンネル状に伸びて坂道を覆っている。そのため、この坂道はうす暗い。陰鬱な坂道に奇妙な言葉がこだまする。り り りっふるぅしてぐぃ ぶりぐだば。
車内では三列目のシートに座るフランシス・モントゴメリーが、長い足を器用に組んで窓の外を見つめていた。
「まったく。千来田は演出が好きだな。車を飛ばせば数分で行けるというのに」
二列目のシートに千来田イヴリンがいる。分度器で測ったかのように垂直に背筋を伸ばす千来田は『お言葉ですが』と口を尖らせた。
「これから行うのは大いに意義のある儀式です。教団員のみならず、留守部村の方々にわれわれの意志の強さを示すためにも、この程度のことはしなければ」
「こんな小さな村でやったところで、特に効果はないだろう」
モントゴメリーと千来田は英語で会話をしていた。英語を理解できない苺刃柚乃は、千来田の隣に座り、呆けた顔で車の天井を見つめていた。
モントゴメリーの横には縛がいた。金色の装飾が施された純白のローブを身にまとい、ヴェールの下にその顔を隠している。モントゴメリーは横目で縛――巫女様の様子をうかがった。『緊張されていますか』。モントゴメリーは日本語で訊ねる。だが縛は返事をしなかった。
突然、車が停車した。
前方の教団員たちが何か声を荒げる。だが彼らを蹴散らすように、ふたりの男が肩で風を切りながら車の方に近づいてきた。
「巫女様はここでお待ちを」
千来田が車から降りた。運転席に着いていた教団員も千来田に続く。モントゴメリーは大きなあくびをしてから車を降りた。車内には縛と苺刃だけが残された。
教団の列を止めて現れたのは青森県警の刑事たちだった。盛田巡査部長とその部下が、千来田に向かって笑顔で話しかける。千来田は大きく首をふり、声を荒げた。
苺刃はローブのフードを被り、車外の様子をうかがった。
「あのひとたち、きっと縛さんに用があって来たんですよ。どうしましょう。どうします。どうしますかね。あの、縛さん。もしもし」
縛は微動だにしない。まさかと思い、苺刃は縛の肩を揺すった。そのまさかだった。縛は『んが』とつぶやき、手の甲に落ちたよだれを慌ててローブにこすりつけた。
「なになに。着いたの」
「ちがいます。警察です。青森県警が車を停めたんです」
「え。なに。速度超過違反?」
「ナメクジの競歩みたいにゆっくりでしたよ。あれ。過度に遅くても道交法違反になるんだったかな。て、そうじゃない。たぶん、縛さんに話を聞きに来たんですよ」
「わたしはかまわないけど」
「ですから、青森県警は縛さんを神社で起きた殺人事件の犯人だと睨んでいるんですよ。何か証拠を見つけて縛さんを逮捕しにきたのかもしれません」
「でも、わたし犯人じゃないもん。証拠なんかないよ」
「相手は警察ですよ。遅々として捜査が進まないことへのいら立ち。上層部からのプレッシャー。家族不和。なつかない飼い犬。行きつけのラーメン店の値上げ。そんな心理的疲弊が累積して、彼らを証拠品の捏造という悪の道へ進ませてしまったのです」
「柚乃ちゃんも警察の人間じゃなかったっけ? とりあえず様子を見ようよ」
縛は窓ガラスを数センチだけ下げた。
「その車の中にいらっしゃるのでしょう。ねぇ。少し話を伺うだけ。いいじゃないですか」
「いけません。われわれは急いでいるのです。公権力が一般市民の行動を制限するなど、日本はいつから管理国家になったのですか」
千来田は両手を大げさに振りながら盛田に喰ってかかる。まわりの教団員たちも『そうだそうだ』と同調して声をあげた。だが盛田も伊達に刑事をやってきたわけではない。周りの勢いにのみ込まれることなく、うんざりとした表情で少ない量の髪を搔いている。
「お、こちらを見ていらっしゃいますね。どうも。青森県警の盛田と申します。すこしお話をお聞きしたいんですがね、車から降りてきていただけませんか」
盛田が車内の縛を見ながら近づいていく。千来田や教団員たちが慌てて盛田の周りに立ちふさがる。盛田のほほがかすかに上がった。
「みんな、その警察官にさわるなよ。わざと転んで、怪我をしたとか、公務執行妨害とかで大事にするつもりだ」
距離をおいてスマートフォンを操作していたモントゴメリーが言った。教団員たちは小さなうめき声をあげて盛田から距離を取る。盛田はモントゴメリーを見つめて、大きな舌打ちを放った。
「よし、完了。みな、もうすこし待て」
スマートフォンをローブのポケットにしまいながら、モントゴメリーが言った。
「刑事さん。日本のことわざにこんなものがありましたね。『鵜の真似をする烏』。あなたは自分の身の程を知るべきだ。小さな島国のド田舎の警察風情が、われら聖ブリグダ教団の歩みを止めるなど恐れ多いとは思わないのかね」
「いいですか。その車にいる女、恒河沙縛は事件当夜に村を訪れたよそものです。事件とは関係ないというなら、それでもかまわない。とにかく一度話を聞かせてもらえませんか」
「できませんね。見てわかるでしょう。われわれは神社に向かわなければならない。非常に忙しいのです」
「おたくの教会を訪ねた時も『忙しいから』と断ったじゃないか!」
「当然でしょう!」
千来田が鼻息を荒くした。
「巫女様は常に忙しいのです。警察の相手をしている暇があるなら、午睡の時間に充てたほうが有意義というもの」
「捜査に協力するより、昼寝の方が大事ってことか。あ、なんだ」
盛田の肩を部下の刑事が叩いた。真っ青な顔をして、その手にはスマートフォンが握られている。
「こんな時に電話? 後にしろ。なに、緊急事態。ったく。どこのどいつだ……はい、もしもし」
盛田の顔が氷像のように固まった。彼は機械音声のように『はい』とくり返し、最後に死体のように抑揚のない声で『失礼します』とつぶやいた。
「圧力をかけさせていただいた」
モントゴメリーはローブの裾に着いた小さな木の枝を払いながら言った。
「聖ブリグダ教団はきみたちが思っている以上に強大な組織なんだ。噂ではイギリス王室の一員も教団に所属しているとか。あくまでも噂だよ。わたしのような下っ端がその真相を知るはずがない。だがまぁひとつ確かなことはね。アジアのド田舎で行われている殺人事件の捜査に口出しするくらい、われわれにとってはなんの造作もないことだ」
「……完全に手を引けと言われたわけじゃない」
盛田は下唇を噛みしめながら言った。
「確たる証拠が見つかったら、その時は動いてかまわないと」
「そりゃ妥当ですな。わたしは『証拠もなくわれわれを疑うのは止めさせてほしい』と頼んでいるだけ。誤解してもらっては困る。巫女様を疑うなと言っているわけではない。きみたちの思想の自由は認めるとも。でもねぇ、他人にその思想を押しつけるのはいけない。本当に自分たちが正しいと思うのなら、信じるにたる証拠をもってきていただかないと。ねぇ、それが理性的な人間ってやつでしょう」
くすりと笑い声が花咲いた。
それはひとりの教団員の口からこぼれ出た。
笑いの花が伝播する。ひとり、またひとりと嘲笑の花を咲かせ、刑事は怒りに顔を歪ませた。
突然、その笑いの花が枯れた。
ざくりざくりと音がする。裂くように、爆ぜるように、彼らは足元の雪を蹴散らしている。
銀色タキシードの集団がそこにいた。両手を後ろに組みながら、電撃戦の如き勢いで坂道を登ってくる。
その先頭には、ブルーローズ――ラニア・アッバースの姿があった。
2
2021年 2月 20日 土曜日 12時 35分
千来田が前に進み出て、荒波の前に立つ防波堤のように両腕をひろげた。
「何用ですか。この道の先がどこに繋がっているのか、知らないとは言わせませんよ」
だがラニアは止まらない。黙々と速足で進む。ラニアの目に千来田の姿は映っていない。下級の教団員など相手にするまでもない、そんな様子だった。
千来田は自身が路肩の石と同じ扱いを受けていることに気づき、悔しそうに顔を歪めた。ラニアの背後に続くピンクローズ――蓮下啓也が不敵に笑う。半年ちかく白山神社の藁人形を巡って争っている相手が辱めを受けている。彼にとってこれほど楽しいことはなかった。
「なんと驚き! ラニア・アッバース女史ではありませんか」
だが彼は違った。フランシス・モントゴメリーは、揚々と諸手を上げて歓喜の声をあげる。対してラニアの表情は冷たいままだ。太く力強い眉の下にある瞳もまた、砂漠で力尽きた動物の死骸のように冷たい。だがその瞳は見ていた。眼前に立ちはだかるスターⅡ、黄金星を認識していた。
「誰だ」
ラニアは英語で語りかける。
「名乗るほどの高名はもち合わせておりません。下郎とでもお呼びいただければ幸い。まぁ、今現在この島国に在留する聖ブリグダ教団員の中では最も高位の存在と認識していただければ結構です。いやぁ、まさかアッバース&キャロライン財団創始者のお孫様にお目通りが叶うとは。これだけでもこんな小国まで来たかいがありました」
「祖父を尊敬しているのか」
「大ファンです。だってわたし、フィクション映画が大好きですから。おじい様の誇大妄想には感服するばかりです。ルーカス、スピルバーグ、ハサン・アッバース!」
「言ってくれる。そこをどけ。用があるのは『巫女様』とやらだ」
「なりません」
千来田がラニアの前に立ちふさがる。ラニアは黒い巻き毛をかきむしりながら嘆息を吐いた。
「巫女様になんの御用で」
モントゴメリーは子どもをあやすような口調で訊ねた。
「お目通りを願う。噂ではずいぶんと大物らしいではないか」
「ふん。かまいませんよ」
「いけません!」
千来田が声をあげる。だがモントゴメリーはその声を完全に無視し、ラニアの手を取り車の方へ引いていった。後ろから蓮下が胸の桃色の薔薇に指を置きながら近づく。だがモントゴメリーがふり向き、大きく首をふった。
「巫女様に近づいていいのはミス・アッバースだけだ。きみ、それ以上近づくというなら、ミス・アッバースにも去ってもらうよ」
「しかし……」
「蓮下。大人しくしていろ」
ラニアは子どもをしかりつけるように言った。蓮下は不満に溢れた顔つきで後ろに下がった。
車内では苺刃が身を乗り出してことの成り行きを見守っていた。
「なんかすごいことになってきましたね。ふたつのとんちき衣装の集団がこれだけ集まると、なんだか見ていて壮観」
「運動会みたい」
ぽつりと縛が言った。
「はい?」
「紅組と白組の対抗戦って感じ。警察は審判をしてくれる小学校の先生かな」
「言い得て妙ですね。いや嘘です。小学生ならもっとかわいいですよ。黒のローブも銀のタキシードも、みんないい歳をした大人でこれっぽっちもかわいくない。わ、こっち来た」
モントゴメリーとラニアが連れ立って車に近づく。モントゴメリーが軽くドアガラスを叩くと、苺刃はドアガラスを下げた。
「巫女様。大変恐縮ですが、特秘委員会の方が是非お話をしたいと」
「ラニア・アッバースと申す。失礼な言葉遣いであったら申し訳ない。まだ日本語を学んで日が浅いものでな」
ラニアはドアガラスの内側にゆっくりと手を差し伸ばした。
「聖ブリグダ教団の巫女と会うのはこれが初めてだ。余はお主らの教義を認めようとは思わぬ。だが、この世界をよくしたい、人々を救いたいと願っているという点では聖ブリグダ教団もアッバース&キャロライン財団も変わらぬ。自己の利益の追求にばかりうつつを抜かし、隣でたおれる人間に手を貸す余裕もない馬鹿者どもに比べたら幾分マシだ。よろしければ握手を」
縛はヴェールの内側に隠した顔を、ゆっくりとモントゴメリーに向けた。モントゴメリ―はラニアの後ろで会釈をした。縛は無言のままラニアの手を取った。一度だけ力を入れて握り、離す。
「……まさか」
ラニアがつぶやく。黒い目が大きく見開かれ、縛を見つめていた。
「蓮下。計測器だ。計測器をよこせ!」
「は? ブルーローズ。いったい何を……」
「はやくよこせ。計測器だ!」
蓮下がタキシードの内側からジナテリウム計測器を取り出してラニアに駆け寄る。だがそれを見てモントゴメリーが声をあげた。
「近寄るなと言っただろう!」
それが呼び水となり、周囲の聖ブリグダ教団員たちが蓮下に飛びかかった。蓮下は教団員たちに身体を掴まれ、ジナテリウム計測器がその手から転げ落ちた。
それを見て銀色タキシードも声をあげて教団員たちに飛びかかる。恐らく一番慌てたのは青森県警の刑事たちだ。突然始まった乱闘劇を前に最初は呆気に取られたが、すぐに仲裁のため乱闘の輪に潜り込んだ。
「やめろ。ばか、やめるんだ」
盛田の怒声が坂道に響き渡る。だがたったふたりの刑事だけでは、両手足の指を使っても数えきれない量の人間のケンカを止めるのは不可能だ。盛田の目は、乱闘騒ぎから距離をおいて立つモントゴメリーとラニアの姿を捉えた。ラニアは焦燥に満ち溢れた表情でアッバースに唾を飛ばしている。だがアッバースはラニアの言葉に聞く耳をもたない様子で、かすかにほほ笑みながら、じぶんよりもひと回りも背の低いラニアを見おろしていた。
「わ、わ、わ。ケンカが始まっちゃいましたよ。どうします、縛さん」
車内では苺刃が大型犬のように興奮した様子をみせていた。
「やめさせないとね。暴力反対」
「やめさせると言ったって。どうするつもりですか」
「それができるのはこの場では『巫女様』ひとりだろうね。だいじょうぶ。ナイスなアイデアが浮かんじゃった」
苺刃はこう思った。恐らく縛は、聖ブリグダ教団員たちを落ち着かせるつもりなのだ。『巫女様』として、神託の如き清らかなる声色で、『戦いを止めよ』と告げれば、彼らはきっと大人しくなる。教団員たちが戦いを止めれば、特秘委員会の人間もまた、戦闘意欲を失った相手を前にして落ち着きを取り戻すことだろう。なるほど。なんとも平和的で理性的で慈愛に溢れる判断ではないか。
「じゃ。やろうか」
そう言って縛は車から降り……るのではなく、運転席に移った。
「は? え、ちょっと。縛さん」
運転席に着いた縛は、ローブの裾を太ももまでずり上げると、しっかりとシートベルトをしてからサイドブレーキを下げた。
「どけいどけい」
けたたましくクラクションが鳴らされる。車はゆっくりと坂道を下りだした。車の前で繰り広げられていた乱闘は終わった。というか、それどころではなくなった。教団、特秘委員会、そして青森県警。三つの異なる組織に属する彼らの心がひとつに固まった。『避けねば』。彼らは黒塗りの巨大な外国産車に轢かれまいと、慌てて左右に散らばった。
縛は軽くアクセルを踏んだ。車は少しずつ坂道を加速していく。
「お、お、お待ちください。巫女様!」
後ろから黒いローブを着た集団が追いかけてくる。教団員たちはローブの裾をひざまで持ち上げ、不格好な姿勢で坂道を駆け下りていた。その最後尾にはモントゴメリーの姿もあった。この展開はさすがの彼も予想していなかったようだ。混沌とした精神状態が彼の表情筋を歪めていた。
対して特秘委員会と青森県警は、ぽかんと呆けた様子で聖ブリグダ教団の追いかけっこを見つめていた。
「まったくもー。この後も予定があるっていうのに、こんなところで無駄に時間を使うことないよね」
縛はほほを膨らました。坂道がカーブに差し掛かる。縛はブレーキを踏むことなく器用にハンドルを切ってみせた。
苺刃は縛の無茶苦茶なふるまいに驚きを隠せなかった。あの状況で、自ら車を運転するという選択肢を誰が思いつくというのか。
同時に苺刃は考える。ではこれよりも最適な方法があっただろうか。頭に血がのぼった人間を止めるのは容易なことではない。『落ちつけ』と言われて落ちつけるなら、人類史に記された多くの戦争は回避されてきたはずだ。結局、戦いを止めるのに最も効果的なのは双方を引き離すことなのだ。拳の射程外に連れ出せばいい。縛はそれをやってみせたのだ。
「強化の儀式って、神社の裏側でやるって行ってたよね。それじゃ、神社の前まで先に行こうか。ほーら、とばすぞー」
縛はリズミカルに首をふりながらアクセルを踏み込んだ。バックミラーに映る黒い影の群れは徐々に小さくなっていった。
3
2021年 2月 20日 土曜日 12時 38分
「蓮下」
ラニアは小さくなっていく黒塗りの車を目で追いながら言った。一連の事態に呆気に取られていた蓮下は、軽く頭を振ってから『何でしょう』と応えた。
「大至急。やってほしいことがある」
4
2021年 2月 20日 土曜日 12時 40分
黒塗りの外国産車は白山神社の前で停まった。縛は器用にハンドルを切って神社の前にある駐車場にバックで車を入れた。
数分後。聖ブリグダ教団員たちが息も絶え絶えといった様子で車の周りに集まった。両肩をモグラたたきのモグラように上下させながら千来田がドアを開ける。
「み、巫女……巫女……様……」
「すみません。皆さんお忙しいようなので先に行ってしまおうかと」
けろりとした様子で縛は言う。
「……いえ。かまいません。どうぞこちらへ。強化の儀式の場所へとご案内します」
「巫女様。わたくしは村の方々へのご挨拶がありますので、祈年祭に向かいますよ」
モントゴメリーは白いハンカチで額の汗を拭いながら言った。
「千来田も巫女様の案内が終わったらすぐに来るように。あぁそれと――」
モントゴメリーは人工的な笑顔を浮かばせると、前のめりになって縛に近づいた。
「……あのような行動は金輪際謹んでいただきたい。では、失礼します」
モントゴメリーが歩くと、周囲の教団員たちはモーセを前にした海のように左右に割れた。白山神社の入り口へ向かうモントゴメリーに数人の教団員が付き従う。
千来田を先頭に残った聖ブリグダ教団員たちは、神社をぐるりと周り、その背後にある林に入った。
林の木々には雪が降り積もっていた。晴天だというのに、木々の葉が太陽光を遮り、林の中は陰鬱な雰囲気が漂っている。閃光のように注ぐ細い太陽の光が苺刃の目に当たる。視線を上に向けると、木々のすき間から、そびえ立つ崖とその崖の上に立つ聖ブリグダ教団の教会が見えた。
しばらく進むと、正面に不自然に開かれた空間があらわれた。半径十メートルほどの円形に開かれたその空間には木々が一本も生えていない。聖ブリグダ教団が事前に木々を伐採したのだろう。太陽の光が注ぎこむ雪の上には、木々の葉や折れた枝が転がるばかりだ。
「準備を始めろ。急げ」
千来田が声を張りあげた。苺刃は、千来田の雰囲気からこれまでの彼女とは違うものを感じた。常人的とでも言おうか。昨日まで彼女が確かに持っていた、組織のトップとしての威厳が薄れている。その威厳はモントゴメリーに奪われた。モントゴメリーがいない今、彼女はその威厳を取り戻そうと必死になっているのだろう。
「巫女様、どうぞこれを」
千来田の手から銀色の鈴が縛に渡される。ハグドの儀式の際に使ったものと同じだ。
「やっていただくことは、ハグドの儀式と大きくは変わりません。巫女様には中央に立っていただきます。教団員たちが巫女様の周りで円となり、呪文を唱えながら強化の舞を踊ります。強化の舞は基本的にはすり足で左右に回り続けるだけですが、時おりその場で飛び跳ねる振りつけが入ります。彼らが着地したタイミングでその鈴を鳴らしてください。よろしいですね」
「よろしいです。幼稚園のお遊戯会より簡単ですね」
千来田の目元に小じわが集まる。縛の横で苺刃は精一杯の愛想笑いを浮かべた。
「……強化の儀式は祈年祭と同じタイミングで始め、祈年祭が終わるまで続けます。祈年祭が始まるのは十三時、終わるのは十四時半です。大変だとは思いますが、そこはご了承ください。巫女様。あなたは特別なお方。何者にも代わることのできない絶対の存在なのですから」
「はい。ところで、少しお腹が空いてきたんですけど。何かもってません?」
「ありません。儀式が終わったら食事の時間になりますので、それまで我慢してください。では、失礼します。祈年祭が終わりましたら迎えに参りますので」
千来田は深く一礼して去っていった。縛と千来田は広場の中央に立っており、その周囲では教団員たちが何やら木々に御札のようなものを貼りつけている。御札を貼り終えた教団員は、例の儀礼用ナイフを手に取り、雪の上に紋章のようなものを刻んでいた。
ひとりの教団員が折りたたみ式の椅子を持ってきて、縛の前に置いた。縛はそれに座り、感謝の言葉を告げる。
「ところで、わたしは何をすればいいんでしょう」
苺刃は小声で縛に言った。『巫女様の従者』としてここまで付いてきた苺刃は、強化の儀式で行われる舞なんてものは踊れない。とはいえ、彼らの舞に合わせて鈴を振る縛の横に突っ立っているのも不自然な絵面だろう。
「どうしよう。交代で振る?」
縛は銀の鈴を軽く振った。軽やかな鈴の音に、教団員たちが反応して飛び上がった。視線が一斉に縛に集まる。何故か縛ではなく苺刃が『ごめんなさい』と頭を下げた。
「この鈴、ちょっと動かしただけで音が出るんだよねぇ。柚乃ちゃんも振る時は気をつけてね」
「振りませんよ。それを振るのは『巫女様』の仕事でしょう。とりあえずわたしは、ちょっと離れた所から縛さんの雄姿を見守っています」
苺刃は一度落ちつこうと広場から数メートルだけ離れた所へ来た。背中を木の幹に預け、深い息を吐きながら、眼前で行われている黒装束の不審者たちによる儀式の準備をながめた。
その時。苺刃の耳に小枝を踏む音が届いた。
その音は後方から聞こえた。苺刃は音のした方にふり向く。一瞬だけ、木々のすき間に銀色にたなびく何かが見えた。
苺刃は慌てて縛のもとに戻り、自分が見たものを報告した。だが意外にも縛は『うん』。とつぶやくばかりで、隠し持ってきていたクッキーを教団員に見られないようヴェールの下に運ぶのに忙しそうだった。
「むぐ。ひとりじゃないよ」
縛は小さな缶からココナッツクッキーをつまみあげた。白いローブのいたる所にクッキーのカスが付いている。
「少なくとも十人はいるね。さっきから林の奥の方でチラチラと見えている。この広場の周りを囲んでいるみたい」
「儀式を邪魔するつもりでしょうか」
「どうかなぁ。ここって、神社の裏側でしょ。祈年祭をやっている最中にすぐそばで大騒ぎを始めたら、村のひとたちからも顰蹙を買うことになると思うんだよね。特秘委員会だってそのことはわかってるはず」
「では、ただ監視しているだけでしょうか」
「それにしては人数が多すぎると思うんだよね。なんか別の目的があるんじゃない。うーん。よくわからない。まぁいいや。考えても仕方がないことはどうにもならない。わたしたちは自分の仕事に集中しよう」
「縛さんの仕事って、鈴を鳴らすことですか?」
「今のところは、その仕事に備えてエネルギーを摂取することかな」
縛は次にチョコチップクッキーを手にとった。
5
2021年 2月 20日 土曜日 11時 39分
法律と籐藤は、村の中を例の棒状のもの……抑制電磁波発生装置を地面に埋めこんでいる特秘委員会構成員を捕まえては、彼らと親しくしていたという菅原について訊ねてみた。だが村で必死に働いている彼らは組織の下位の者らしく、菅原について知ることは多くなかった。菅原は主に青森支部における最高責任者の蓮下とだけ言葉を交わしていたらしい。
菅原の家の近所に暮らす者にも訊ねてみた。だが、これといって事件に関わりのありそうな情報は得られなかった。
十二時が近くなり、ふたりは昼食を摂るため新橋の家に戻ってきた。
「菅原は何のつもりで白山神社を訪ねたんだろうな。『すべてが終わる』てのはどういう意味なんだ」
玄関で革靴を脱ぎながら籐藤がぶつくさとつぶやく。法律は小言に付き合わず、そそくさと居間に入りストーブをつけた。
十二時を過ぎて数分後、新橋が帰ってきて昼食を作り始めた。といっても、ご近所さんからわけてもらったおかずを電子レンジで温めるばかりで、あとは保温してあるご飯とインスタントの味噌汁を器に盛るだけだった。
「捜査は順調ですか」
電子レンジが軽快なメロディを奏でる。白い湯気を吐き出す鶏のからあげを取り出しながら、新橋が訊ねた。
「ぼちぼちです」
棚から湯飲みを取りだしながら法律が答えた。
「先生はどうです。お仕事は順調ですか」
「ぼちぼちです。病院を村の寄り合い所と勘違いされるのは全国どこでもいっしょですね。おじいちゃんもおばあちゃんも、一度診療所に来たらなかなか帰ってくれないんですよ」
「先生は午後もお仕事でしたね。ご多忙で何より。東京では、土曜は午前中だけという病院もありますが」
「うらやましいですね。こっちはおばあちゃん方のご要望で午後も開業ですよ」
玄関のチャイムが鳴った。千切りキャベツを平皿に盛っていた新橋が『おや』と顔を上げる。
「わたしが出ましょう」
籐藤が居間から廊下に出てきた。玄関に向かった籐藤は『ん?』と訝しむような声をあげた。
「先生。ちょっとこちらへ」
玄関から籐藤が新橋を呼ぶ。千切りキャベツにから揚げを乗せた大皿を手にしていた新橋は、仕方なしにそのまま玄関に向かった。その後ろにしゃもじを手にした法律が続く。
客人は宮野さくらだった。高校の制服の上にフードが付いたコートを着ている。ここまで走ってきたのか呼吸が荒い。
「先生。お食事中にすみません。お願いがあってきたんです」
「お願い?」
「わたしを祈年祭に連れていってください」
「え。あ、いや。祈年祭? ぼく、午後は……」
「お願いします。先生以外に頼める人がいないんです」
「いや、そもそもどうしてぼくが一緒に? えっと。ちょっと困ったな」
「とりあえず」
法律がしゃもじをふらふらと左右に揺らす。
「上がりませんか? それと、お昼がまだならご一緒に」
居間の炬燵に四人は落ち着いた。考え事をしていて朝から何も食べていなかったというさくらは、みそ汁に口をつけて落ち着いたのか、ゆっくりと話しだした。
「祈年祭って聖ブリグダ教団のひとたちも来るんですよね。もしかしたら、母も来るかもしれません。声をかけることはできないと思うけど、ひと目見るだけでもできたらって」
「だけどそれは、ぼくがいなくてもできるでしょう。さくらちゃんはこの村の子どもだ。子どもが祈年祭に参加しちゃいけないなんて決まりはない」
「でも、教団のひとがいます。教団のひとは、わたしに会うと教団に入信するよう勧めてきます。『お母さんといっしょに暮した方がいい』。『お母さんもそれを願っている』。『たったひとりの肉親を悲しませるものじゃない』って。はっきり言って、怖いんです。いつかわたし折れちゃいそうで。自分でもお母さんを裏切っているって自覚があるから」
「それは違う。裏切ったのはお母さんの方だ。きみが教団に入る義理なんてこれっぽっちもないよ」
「頭ではわかっています。だけど、心が反抗しているんです。誰かといっしょに暮らすって、やっぱりいいことなんだなって気づいたんです。ひとつの家に、自分以外の誰かがいるって安心するんです」
「それ、ひょっとして妹のせいですか?」
鶏のからあげを箸でつまみ上げた法律が訊ねる。
「妹がお宅にお邪魔して、それで誰かが家にいるっていいなと再認したわけですか」
「そうです。わたし、もし教団に入ったら縛さんとも会えるって気づいて。わかっています。間違っています。間違っているとわかっているけど、教団に入ることにわたしは魅力を感じはじめているんです。もし教団のひとたちに背中を押されたら、一歩を踏み出してしまいそうで、それが怖くて、だから先生に一緒に来てほしいんです。教団のひとが近づいてきたら追い払ってください」
「引き受けましょう」
快活に応えた。新橋ではなく、法律が。
「先生は午後もお仕事があります。ですがぼくと籐藤さんは、もとより祈年祭に参加するつもりでした。ぼくたちでよければボディーガードの役目を務めさせていただきますよ。ね、籐藤さん」
白米を咀嚼していた籐藤は首肯した。
「……ただし。捜査の邪魔はしてくれるなよ」
「はい。しません。大人しくしています。よかった。ここに来るまでも、教団のひとに見つかるんじゃないかと不安で走ってきたんです」
「おふたりとも、よろしくお願いします」
新橋が深く頭を下げた。法律は苦笑しつつ『いえいえ』と言った。
食事を終え四人は家を出た。新橋は診療所へ。籐藤、法律、さくらの三人は白山神社へ向かった。
「任された以上は徹底する」
籐藤は厳しめな口調でさくらに言った。
「例外は認めない。何があってもおれのそばを離れるな。女性相手に悪いが、トイレに行く時も、近くまで同行させてもらうからな」
「もちろんです」
「そこまでする必要がありますかねぇ」
法律は車道沿いに取り除かれた雪だまりを蹴りながら言った。雪だまりを一瞬で蒸発させかねない熱気のこもった視線で籐藤は法律をにらみつける。
「大丈夫ですよ。籐藤さんと親しいとわかったら、教団の方はおいそれと宮野さんには近寄れません。ここに来るまで、籐藤さんはさんざん教団員の方々をどやしつけてきましたからね」
「カルトに常識は通じない。おれはあいつらがこの子を誘拐する可能性まで考えている」
「誘拐? そんな乱暴なことをするとは思えませんけどね。まぁいいや。宮野さん。ここはプロの意見を参考にするとしましょう」
法律はケラケラと声をあげて笑った。さくらもつられてかすかに笑う。
さくらは思った。法律はきっと、自分の緊張を和らげようと軽口を叩いているのだ。籐藤という刑事は無骨が服を着て歩いているような人間なのでそういうことはできない。だから法律がその役目を果たしている。彼はひとの気持ちがわかるひとだ。苦しみを、焦りを、嘆きを理解し、それを解消してあげようと気遣いができるひと。そうに違いない。だって彼はあのひとの兄だから。恒河沙縛の家族なのだから。
6
2021年 2月 20日 土曜日 12時 50分
法律たちは白山神社に着いた。白山神社の拝殿前広場では、祈年祭の会場の設営が完了しており、多くのひとで溢れていた。
横に並べられたパイプ椅子が四列になって伸びている。列の中央は左右に分かれて間に花道を作っていた。
花道の奥、拝殿前に黄ばみとシワのある白幕に囲われた祭壇が設置されている。祭壇の左右には縦長の幟が立っている。真榊だ。色は緑を基調とし、黄赤白青の四色が中央を走っている。左の真榊には三種の神器のひとつである剣が、右のものには勾玉と鏡が掛かっていた。
左側の席の最前列に千来田イヴリンの後ろ姿があった。そして千来田の隣には、フランシス・モントゴメリーがいた。モントゴメリーの前にはガスストーブが置かれてある。橙色の光熱を前に、モントゴメリーは満足そうな笑みを浮かべていた。
管理組合の江竜が壊れた人形のように何度も首を前後させながらモントゴメリーに近づいていく。千来田がモントゴメリ―に耳打ちをする。モントゴメリーは仰々しく立ち上がり、江竜の手を強く握った。
祭壇の左手後方にはタープテントが設置されていた。テントは竹垣の衝立に囲われており、その中で青い陰がのそりのそりと動いている。村長の梶谷源造とその息子の泰造が衝立の裏側に入っていく。泰造の手には、昭和、平成、令和と三つの時代を駆け抜けてきたと思われる古ぼけたカセットラジオが握られていた。
広場のいたる所で、村人たちが慌ただしく駆けまわっていた。その中には、祈年祭の運営を手伝っている聖ブリグダ教団員の姿もある。彼らは宮野さくらを視認すると、どこか粘度のある視線を彼女に送った。だがその後ろに鬼のような形相の籐藤の姿があることに気づくと、一様に視線を逸らした。
数こそ多くはないが、特秘委員会の姿もあった。神社に入ってすぐの左手、屋根のある通路に蓮下啓也とラニア・アッバース、そして管理組合の大久保の姿があった。三人は何か神妙な顔つきで言葉を交わしている。彼らの周囲には、頭頂部が屋根に触れそうなほど長身の委員会構成員がいた。肌は浅黒く、顔半分を覆う濃いひげを生やしている。アラビア系のほりの深い顔立ちだ。ラニアが本国から連れてきた護衛だろうか。法律が彼らの方を見ると、その男は決して穏やかとは言い難い視線を返した。男の目は光沢のある緑色に輝いていた。まるで、生きたカナブンを埋め込んだかのように。
広場の隅でひと際渋い顔をしたふたりの男が、刑務所のサーチライトのように会場全体を見回していた。盛田巡査部長とその部下だ。籐藤は自身の後輩がこちらを見て、舌打ちの形で口元を歪めたのを見逃さなかった。
「やぁ。村のおえらいさんがみんな集まっていますね。まるでオールスターだ。籐藤さん、どなたかおしゃべりしたい方はいますか」
「誰とも関わりたくない」
法律の軽口を籐藤は冷たくあしらう。法律はさくらに、会場にさくらの母親がいるか尋ねた。さくらは会場内にいる教団員を遠目で確認すると、小さく息を吐いた。
「フードを被っているひともいるので確実とは言えませんが、いない気がします」
「そうですか。どうします。もし帰るならお宅までお送りしますが」
「いえ。残ります。もしかしたら、祈年祭の最中にお母さんが来るかもしれません」
「それじゃ、早目に席に着きますか。ん?」
法律がふり返ると、神社の入り口に佐田本老人と岩城が現れた。
岩城は杖をつく佐田本の手を取り、えっちらおっちらと歩いている。怒鳴られて逃げ出したものの、村の年長者を放っておくわけにはいかず、当初の予定通り佐田本を連れてきたらしい。正面に法律の姿を認めると、疲れた様子の笑顔で手招きをした。
「あぁ、よかった。おたくも祈年祭に参加されるのですね」
「はい」
「もしよろしければ、祈年祭の間、佐田本さんの面倒を見ていただけませんか。横の席に着いていていただくだけでいいんです。わたしはほら、管理組合でしょう。管理組合の人間は五人まとまって、最前列に着かないといけないんです」
「おい、これ以上所帯を増やすつもりかよ」
籐藤が小声で不満をこぼす。法律が佐田本の手を取ろうとしたが、それより先にさくらが佐田本の手を取った。
「わたしが」
さくらは苦笑して言った。年頃の少女だ。進んで善行を積むのに気恥ずかしさがあるのだろ。その気恥ずかしさを打ち消すための苦笑だ。佐田本はさくらの顔を見て『宮野のとこの……美穂かぁ』とつぶやき、嬉しそうに笑った。美穂とはさくらの母親の名前だ。佐田本はさくらを美穂と勘違いしているようだった。
「それじゃ、これで失礼します」
岩城はモントゴメリーが座る席の方へ駆け足で向かった。足元の雪が跳ねてボコボコとした穴に変わる。
法律、籐藤、さくら、佐田本の四人は、最後列の右側に並べられたパイプ椅子に座った。間もなく祈年祭が始まるとのことで、手前の列に盛田刑事とその部下が、さらにその前に村の管理組合の五人が座った。花道を挟んで反対側、左側の最前列には意外なことに聖ブリグダ教団と特秘委員会の両重鎮が並んで座っていた。モントゴメリー、千来田、空席を挟まずラニアと蓮下が続く。ラニアの護衛とおぼしき長身の男は、距離をおき白壁のそばで石像のように佇んでいた。
二列目には聖ブリグダ教団の黒いローブ姿が騒然と並んでいる。彼らは組み合わせた両手を祭壇に向け、呪文のようなものをつぶやいていた。そんな彼らの後ろ、三列目に老齢な村人たちが座っている。
梶谷村長が席を立ち、衝立に隠されたタープテントの内側に入る。ものの数秒で出てくると、『これより祈年祭を始めます』とやや上ずった声を張りあげた。
『カチリ』とボタンを押す音が聞こえた。ざらついた音が衝立の裏から微かに響く。その音はすぐに止み、代わって極めて音質の悪い笙の音色が流れ出す。砂嵐のような笙に重なり、麺棒ですりつぶされた像の鳴き声のような篳篥の音が天を衝いた。神道の儀式らしい雅楽ではあるが、その音質のせいでひどく安っぽい。法律は泰造が古ぼけたカセットラジオを衝立の後ろに運んでいたことを思い出していた。
衝立の裏から、藍色の衣冠単を着た神職が現れた。祭壇の前に立ち会場を見渡す。参加者の約三割を占める黒いローブに身を包んだ集団に目を向け、ひくりと鼻を躍らせた。青髭が口周りに残る、三十代とおぼしき男だった。神職らしく艶のある冠と浅沓を履いてはいるが、どちらも太陽の光が反射すると、白い擦り傷が浮かび上がって見えた。
「むつ市の神社の次男坊らしいですよ」
青森県警の若い刑事が盛田に耳打ちする。その声は彼らの後ろに座る法律たちにも聞こえた。
「アルバイトってことか。この村にはもう神職はいないらしいからな」
「何だか頼りないっすね」
「それっぽければなんでもいいんだろ。早く終わってくれることを願うばかりだ」
雅楽が止まる。神職は長い咳ばらいを挟んでから、祭壇の方を向き、榊の葉の束――玉串を振り始めた。単調なリズムと、葉が触れ合うこそばゆい音が続く。カップラーメンが完成するかしないかといった時間が経つと、神職は動きをとめてふり返った。
「では。えっと、あれ。献饌を」
最後列にぎりぎり聞こえるか否かといった声量で神職が言った。村の管理組合の五人が立ち上がり、そそくさと衝立の裏に入る。すぐに彼らは出てきた。各人が三方を手にしており、その上には捧げものが乗せられていた。
五人は緊張しきった顔つきで三方を運び、祭壇前に置かれた八足台に横並びになるよう置いていく。捧げものは左から順に、酒、魚、米、大根、また酒と並んでいた。
管理組合の五人が早足で席に戻る。村長の梶谷は足が悪いのか、すこし不格好な早足だった。雪に足を取られ転びかけたが、息子の泰造が受け止めて事なきを得る。黒ローブの集団がくすくすと失笑する。モントゴメリーが一度大きく咳ばらいをすると、失笑はぴたりと止んだ。
再び神職が祭壇前に立ち、奉書紙を広げた。奉書紙には祝詞の言葉が記されており、神職がそれを読み上げていく。初めこそ静かに神職の声が響くばかりであったが、徐々に別の声が神職の声に重なり始めた。り り りっふるぅしてぐぃ ぶりぐだば。聖ブリグダ教団員たちは、両手を深く絡め、頭を垂れて例の言葉をつぶやいていた。ひとりひとりの声は小さい。だが、それが重なればなかなかの声量だ。神職は一度怪訝な顔で教団員たちを見たが、そのまま祝詞を読み続けた。止めさせる勇気がないのか、仕事への責任感がないのか。
十分ほどして聖ブリグダ教団の祈りと神職の祝詞のデュエットが終わった。神職が口を閉ざすと、教団員たちも祈りの言葉を止めた。
「本来ならばここで巫女舞が行われるのですが」
神職は安っぽいほほえみを見せた。
「今日は巫女がおりませんので、省略いたします。まぁ、足元がこれでは踊りも難しいでしょうから」
神職は足元の雪を二度踏んでみせた。会場のいたるところから失笑が飛ぶ。
「巫女ならこの村にひとりいるのに」
法律が軽口を叩く。籐藤が法律の太ももをひねった。子馬のような泣き声が法律の口もとから漏れる。さくらはそれを見て、笑いを手で覆い隠した。
「次に玉串拝礼になります。皆さま、順番にお願いします」
「皆さまって、おれたちもやるのかよ」
籐藤が小声で言う。どうやらその通りらしく、パイプ椅子に座っていた参加者たちはそわそわと身体を揺らし始めた。
最初に管理組合の五人が立ち上がり、神職から玉串を受けとる。村長の梶谷が祭殿の前に行き、献饌が行われた八足台の手前に置かれたもうひとつの八足台に、玉串の向きを一八〇度回してから置いた。二礼、二拍手、一礼のあと、神職にも一礼してから席にもどる。
続いて息子の泰造が、彼に続いて岩城、江竜、大久保と玉串を供えていった。
管理組合の次はゲストの番だった。モントゴメリーと千来田は、カルト的な怪しげなそぶりは全く見せず、むしろスマートが過ぎるほどに拝礼を終えた。特秘委員会のラニアと蓮下もまた恙なく終えた。
問題は次の聖ブリグダ教団員たちだった。彼らはたどたどしい手つきで玉串を受けとり、八足台に置く時も何か怪しげな言葉をつぶやいていた。神職はまたしても怪訝な顔をしたが、それだけだ。モントゴメリーと千来田は教団員のふるまいを止めるつもりはないらしい。むしろ、教団員たちの信心を確認する場だとでも思っているのだろうか。
教団員の次に、青森県警のふたりが、その次に法律たちの番がまわってきた。さくらが佐田本の手を取り、ふたりはいっしょに玉串を置いた。
そして最後に村人たちが玉串を置いて終わった。八足台の上は詰まれた玉串が積み重なって緑の丘陵を作り上げていた。バランスが崩れ、何本かの玉串が崩れ落ちる。背を向けていた神職はそれに気づいていなかった。
「本来ならばこれで祈年祭は終わりなのですが」
神職はかすかに肩を上げた。
「こちらの……何ですか。そう、留守部村では、他とは異なるしきたりがありますので、今回もそのしきたりに従って、望粥の儀を行います。これより、献饌した米で粥を作り拝殿に運びます。十五分間拝殿に置き、その後大神様のお力が注がれた粥を村の代表の方々に食べていただきます。現在は十四時ですので、粥を作る時間を加味して、三十分前に皆さま席にお戻りください」
よろしくお願いします、と神職が頭を下げて場は一度解散となった。トイレに行くもの、タバコを吸うもの、雑談を楽しむもの、不気味な祈りを唱えるものと様々だ。
席を立ち、大きくノビをしていた盛田がくるりとふり返り籐藤を見た。
「先輩。恒河沙縛に会いましたよ」
「ふぅん。どうだった」
「轢かれかけました」
「は?」
盛田は懐からタバコを取り出し、神社の隅にある喫煙所に向かった。
「お前の妹、あいつを轢こうとしたって」
法律は意に介する様子もなくけらけらと笑った。
「盛田さんは冗談がお上手ですね。ぼくの妹がそんなことをするわけないでしょう。はっはっは」
7
2021年 2月 20日 土曜日 13時 02分
生い茂った林の中、人工的が過ぎるほどに木々が伐採された広場の中央に巫女様――いや、縛は立っている。金色の刺繍と色とりどりの宝石が装飾された白のローブは、太陽の光を反射させて神々しく輝いていた。
白山神社の方角から、笙と篳篥で始まる雅楽の音色が聞こえてきた。
「巫女様。祈年祭が始まりました。強化の儀式を始めましょう」
丸眼鏡をかけた教団員の男が、厳かな声で頭を垂れる。男に追従して円形に広がった他の教団員たちも同じ様におじぎをした。
縛は一度鈴を鳴らした。しばらくの静寂。
丸眼鏡の教団員が促すような視線を送る。縛がもう一度鈴を鳴らすと、教団員は満足した様に首をふった。どうやらこの丸眼鏡の教団員がこの場の責任者らしい。
「り り りっふるぅしてぐぃ ぶりぐだば」
丸眼鏡の教団員が言う。一拍を置いて、他の教団員たちが同じ言葉をくり返す。これを三回繰り返すと、教団員たちはローブをめくり、ローブの内側のホルスターから儀礼用のナイフを取り出した。
円の外側で儀式の様子を見つめていた苺刃は思わず身構えた。だが教団員たちはナイフを天に向けて掲げ、その場でくるくると回りだした。苺刃が想像した不埒なことが起こることはなさそうだ。だが、苺刃が想像した以上に彼らの行動は奇妙だった。
「りどば」
教団員の誰かがつぶやいた。それに呼応して他の者たちも繰り返す。『りどば』『りどば』『りどば』『りどば』。回転が終わる。教団員たちはその場にかがみ、ナイフを雪に覆われた地面に突き立てる。
「える、りどば」
ナイフの刃を突き立てたまま誰かが言った。
「える、りどば」「える、りどば」「える、りどば」「える、りどば」。
全員がナイフから手を離す。ナイフは音を立てて雪の上に倒れた。教団員たちはナイフを拾い、一斉に時計回りの方向へ飛んだ。
「巫女様」
丸眼鏡の教団員がつぶやく。縛は鈴を鳴らした。鈴が鳴り止むと、教団員たちはナイフを再び天に向けて回転を始める。また誰かがつぶやく。『りどば』。そして皆が呼応する。『りどば』。回転が止まり、ナイフを地面に突き立てる。『える、りどば』とひとりがつぶやく。『える、りどば』と皆がつづく。ナイフを手から離し、拾い、横に飛ぶ。縛は丸眼鏡の教団員の合図を待たず鈴を鳴らした。
そんな一連の動作が続いた。
強化の儀式が始まってからニ十分ほど経ったころ、異変が生じた。
くるくるとコマのように回っていた教団員のひとりが、頭に手を置きその場に崩れ落ちた。中年太りした大きな身体が激しく上下する。それを見て教団員たちが息をのむ。奇妙な舞踏が止まり、教団員たちは倒れた者に視線を送る。そしてその視線が、今度は円の中央に立つ縛に向けられた。ヴェールの内側に顔を隠している縛の表情は読み取れない。
「滑ったんだ」
丸眼鏡の教団員が前に出て声を張り上げた。
「雪に足を取られただけ。地元のひとでもこの雪は堪える。そうだろう。みなも気をつけるように。さぁ。儀式を続けるぞ。集中しなさい。りどば」
復唱が響く。りどば。だが、その声は前よりも小さい。フードの内側に隠れて見える教団員たちの目はどこか不安の色に染まっていた。
「あ」
「うぅ」
そんな声と共に、今度はふたりの教団員がその場に膝をついた。ふたりとも顔中に枯れ葉の筋のようなシワが走る、五十代と思わしき男女だった。儀式が止まり、場がざわめく。
「どうした。早く立ちなさい。みんな、静かに。くそ。集中しろ。儀式を、ほら、とっとと立て。この田舎者が。りどば。りどば。りどば」
丸眼鏡の教団員の口調が荒れていく。縛が鈴を鳴らす。だがその鈴も狼狽のざわめきの中では、子どものすすり泣きのように頼りないものだった。
「わたしの顔に泥をぬるつもりか!」
丸眼鏡の教団員はとうとう叫び声をあげた。その声に他の教団員たちはびくりと身体を震わせた。
「立て。回れ。次に倒れたりしたら承知しないぞ。聖ブリグダ神への冒涜だ。信心が足りないんだ。あらわなる次元の風の音を聞け。一時的な次元の幻惑を断ち切るんだ。ほら、回れ。回れ。回るんだ。聖ブリグダ神への祈りをたしかなものにするために。回れ、回れ、りどば! りどばだ!」
8
2021年 2月 20日 土曜日 14時 01分
米が乗った三方を持った神職が竹垣の裏の衝立に消えた。ピンクのフリースの上にエプロンをつけた老婆が背中を曲げながら後に続く。
佐田本老人が祭殿を近くで見たいと言う。四人は連れ立って祭殿に向かった。感心した様子で祭壇を見つめる佐田本をさくらに任せ、法律は祭殿に向かい、二礼、二拍手、一礼を二回した。
「妹の分です」
横に来た籐藤も二礼、二拍手、一礼を二回する。
「苺刃の分だ。あのふたりは大丈夫かね。なかなか有益な情報を送ってくれないが」
「便りのないのはよい便り。捜査は順調に進んでいるということでしょう」
「認知バイアスのかかった解釈にしか聞こえんな。まぁいい。あの衝立の裏でおかゆを作っているのか。寒くてたまらん。少し分けてもらえないものかね」
「神様を自称すれば分けてくれるかもしれませんよ」
ふたりが衝立の内側を除くと、カセットコンロに乗ったアルミ鍋で米が煮られていた。
「どうかしましたか」
老婆の後ろで、折りたたみ椅子に座っていた神職と雑談をしていた梶谷村長が立ち上がった。
「すみません」。法律が軽く頭をさげる。「興味本位で見に来ただけです。ん? お粥には葉っぱも入れるんですか」
テーブルには水が入ったペットボトルと、刻んだ緑色の葉が入ったビニールパックが置いてある。老婆はビニールパックの口を開け、中の葉を粥に入れた。
「これは大根の葉っぱです。何でも、祈年祭で食べる粥には大根の葉を入れるのが留守部村の伝統だったそうで。質素な白い粥を食べないで済むっていうのはありがたいですね」
完成した大根粥は五つの汁椀に均等に盛られた。神職がそれを拝殿に運ぶ。そんな神職の背中を見守りながら、村長の梶谷が、望粥の儀について法律たちに説明してくれた。
「拝殿の中に置かれた八足台に五つの汁椀を乗せ、神職はその前で玉串を振ります。大神様のお力が粥に十分注がれるよう、十五分ほどその場においておく。神職はその間、拝殿を出て、十五分後にまた粥を取りにもどり、今度は外の祭壇まで運びます。その後は、神の力が注がれた粥を祭壇の前で村の代表者が食べ、大神様の力をその身にたくわえるというわけです」
神職は粥を拝殿に置いてもどってくると、粥をつくった老婆とふたり、喫煙所に向かいニコチンの注入に勤しんだ。
籐藤とさくらは連れ立ってトイレに行き、法律と佐田本は席に戻った。
呆けた表情で法律は周りに視線をやる。神社の中はひとがごった返している。数人の聖ブリグダ教団員が、祭壇の前で両ひざをつき何か呪文めいたものを唱え始めたと思ったら、若い警察官が止めるよう注意し、ちょっとした言い争いが始まった。それを見た特秘委員会の人間、例のカナブンのような目をした大男が横やりを入れ、今度は教団と特秘委員会の間で、『ちょっとした』とは言いがたい小競り合いが始まった。結局この小競り合いは、蓮下と千来田の仲裁で収まった。ラニアはその様子を遠くから眺め、モントゴメリーは近くの席に着いていたが我関せずといった様子で空を見上げている。岩城、江竜、そして大久保の三人は苦笑しながらその後ろで突っ立っていた。
騒がしかったのは留守部村のひとびとも同じだ。久しぶりの祈年祭でいくらか激昂していたらしい。彼らは今回の祈年祭について口論を始めた。どうも管理組合がむつ市の神社から呼んだ神職が、後継ぎでもない次男坊というあたりが気に入らないらしい。留守部村に来るのも初めてで、道に迷って約束の時間に遅れてきた。なんとも責任感のない男だ。アルバイト代を奮発すれば、神社で最も位の高い宮司は無理でも、その宮司の後継ぎである長男が呼べたのではないか。何を言う。大事なのは祈年祭を催し大神様に祈りを捧げることにある。そこに神職の位など関係なかろう。裕福とは言い難いこの村の財産を浪費するなどもってのほかだ。恥を知れ恥を。などなど。
殴り合いや暴言が飛び交うようなことはなかったが、その火種はいたるところで発生していた。そのたびに人々は『どうしたどうした』と神社の中をえっちらおっちら交差する。そんな騒がしい空間ではあったが、法律と佐田本は席に着き、そんな騒がしい場内を見つめていた。
休憩時間に入り二十五分ほど過ぎたころ、神職は喫煙所から拝殿に向かい、お粥を持ってもどってきた。
休憩時間が終わり、祈年祭が再開した。
神職がお盆に乗せた五つの汁椀を祭壇に運ぶ。お盆の上には五つの汁椀が五角形の形で並んでいた。神職は玉串をそのお粥に向かって数回ふり、その後、村の代表者たちに前に出てくるよう言った。
管理組合の五人が祭壇の前に行く。最初に村長でもある梶谷が汁椀を取り、続いて息子の泰造、それから岩城、江竜、大久保と順に汁椀を取った。
五人が祭壇に向かって横一列に並び、汁椀を高く掲げて祭壇に向かい一礼する。そして五人はお粥を食べ始めた。
水っぽいお粥はハシでは食べづらいようで、五人はかきこむようにお粥を胃に落とした。最後に食べ終えたのは岩城だった。岩城が食べ終えると汁椀を置き、二礼、二拍手、一礼をしてから五人は席に戻った。
神職が前に出て、閉会のあいさつを始める。どうもみなさまごくろうさまでした。ここ留守部村という自然豊かな村で、神道にとって大切なお祭りである祈年祭を行えたことをわたくしは嬉しく思い云云云々。
そんな長話が続く中、異変が起きた。
「岩城さん。だいじょうぶですか」
岩城の後ろに座る盛田刑事が、身体を丸める岩城の背中を叩いた。
「う」
岩城はその場で立ち上がり、生まれたての子ヤギのような、頼りない足取りで前に進んだ。
右へ左へ身体を揺らすその姿は、ホラー映画のゾンビのようだ。両目は飛びださんばかりに開かれ、くちびるとその内側にある青い舌がちろちろと震えていた。
岩城は痙攣する手を中途半端に丸め、自身の腹を何度もたたいた。だが手に力が入らないらしく、その動作は紙人形のように弱々しい。やがて彼は前のめりになってバランスを崩し、祭殿に向かって崩れ落ちた。
成人男性の全身が衝撃となって襲いかかり、祭壇は崩壊した。八足台は倒れ、その上に置かれていた捧げものが宙を舞った。左右に立てられた真榊も倒れ、それらにかかった三種の神器、剣、勾玉、鏡が音を立てて地面に落ちる。剣の装飾はその衝撃で外れ、鏡には細かいヒビが走った。
岩城の身体は祭壇を巻き込み、前のめりになってぐるりと回転した。棒のように伸びた両脚が、祭壇を囲っていた白幕に突き刺さる。黄ばみのある白幕は古いものだったらしく、岩城の脚は、いとも簡単に白幕を切り裂いた。三十センチほど白幕を切り裂いたところで生地の固い部分に当たったらしく、今度は足に引かれる形で固定するポールごと白幕は倒れていった。
「岩城さん!」
法律は飛び上がり、雷のような速度で岩城に駆け寄った。
岩城の背中は倒れた八足台の上に重なり、逆U字の形に沿っていた。全身が痙攣し、顔中に玉のような汗が噴き出している。
「医者を!」
法律は叫んだ。
「新橋先生を呼んでください。早く!」