第六章 祭りのまえ(あるいは兆候)
1
2021年 2月 20日 土曜日 10時 20分
籐藤と法律が、御人形様が置かれた本殿の方角を向きながら言葉を交わしていると、背後から足音が近づいて来た。
ふたりがふり返ると、パイプ椅子が並べられた祈年祭の会場の方から、丸っこい体躯の老人が笑顔で近づいてきていた。
「もし。警察の方ですか」
老人は耳カバーの付いた革の帽子をとる。わずかばかりの白髪を備えた禿頭が晴天を反射して籐藤の目をくらませた。橙色のアウトドアジャケットには有名なアウトドアブランドのロゴが入っている。
「村長の梶谷です。いやぁ、捜査のほどご苦労さまです」
籐藤の返事を待たずに老人は言った。黒のローブでも銀色のタキシードでもない村の部外者といったら、十中八九警察に決まっている。もっとも、この場には残りの一割に含まれる探偵もいるのだが。
「村長みずから、祈年祭の準備を?」
籐藤が祈年祭の会場の方に視線を送りながら訊ねる。休憩時間に入ったらしい。祈年祭の会場準備を行っていた村人と聖ブリグダ教団の教団員たちが、会場の隅に設置されたターフテントの下で、電子ポットからカップにお湯を注ぎコーヒーを作っていた。
「えぇ、えぇ。どうにも人手不足でしてなぁ。祈年祭は管理組合が運営しておりましてね。このとおり老体に鞭打ってやっております。といっても、そもそもこの村には老体しかおりませんが」
「あそこには、お孫さんも?」
テントの方を見ながら法律が訊ねる。黒いローブを着た教団員たちはおいしそうにコーヒーを口にしている。
「お孫さんは教団の方だと聞きました。おじいちゃんが仕事をしているのなら、手伝っているんじゃないかなと思いまして」
梶谷は口を開き何かを言いかけた。ほんの数秒の間を挟み、一度口を閉じてから、どこか不満を潜めた目で法律をにらみつける。だがその目の色を見せたのは一瞬のことだった。シワを集めた目元がほぐれ、笑顔を形成する一部になった。
「えぇ、いちおう。お恥ずかしい限りです。都会から帰ってきたのはありがたいことですが、就職もせず教団さんのお世話になっているわけですからね」
「桐人さん、でしたっけ。都会とは、東京のことですか」
籐藤が訊ねる。梶谷は猫背を少しだけ伸ばして、鼻息を荒くした。
「そうなんですよ。桐人は子どもの頃から頭がよくてね、青森の大学を卒業して、都内の上場企業に入社したんです。会社での評価も高くて、将来は管理職への昇進も間違いないと期待されていたようですが、少子高齢化に悩む生まれ故郷を何とかしたいと、会社を辞めて地元に戻ってきてくれたわけです。まぁ、教団に入るとは思いもしませんでしたが、あの子にはあの子の考えがあるようですので」
梶谷の口調はトーンダウンしていき、大きなため息と共に終焉を迎えた。
「小耳に挟んだのですが、大々的な祈年祭を行うのはずいぶんと久しぶりのようですね」場の空気を換気するかの如く、籐藤は大きな声で訊ねた。「なんでも、聖ブリグダ教団から要望があったとか」
「えぇ、えぇ。千来田さんから直々にお声がかかりましてね。いくらかの費用は教団さんにもっていただける言うんでね。宮司さんが亡くなって長いこと休止していたけど、わたしらにしても祈年祭をやるのにやぶさかではないからね」
「しかし、村の方々と聖ブリグダ教団の方々では、祈年祭の目的は著しく異なるようですが」
聖ブリグダ教団の目的は田畑の神に五穀豊穣を祈ることではない。彼らの目的は、彼ら自身の神、聖ブリグダ神への祈りを捧げることにある。
「でもねえ。よそ様の頭ん中にケチを付けるつもり権利はありませんから。うちらとしてはね」梶谷は声を潜める。「祭の費用を出してもらえるなら、それでいいんですよ」
「教団さんと懇意にしているようですね。御人形様の譲渡先は聖ブリグダ教団に決まったのですか」
法律が訊ねる。梶谷は『めっそうもない!』とのけぞって否定した。
「祈年祭と御人形様の件は別です。それに、祈年祭のことは特秘委員会さんにもお伺いは立てたんだ。もし蓮下さんがケチを付けてきたら、管理組合でもう一度話し合うことになったかもしれねぇが、あの人は何も言わんかったでね」
「なるほど。ところで、祈年祭は関係者でないと参加できないのですか。もしよろしければ、後学のために拝見したいのですが」
「あ、どうぞどうぞ。大歓迎ですよ。席が全部埋まるなんてことはありえませんのでね、よろしければお友達もお誘いください。あ、いえ。こんなド田舎に今日これから友達なんて無理な話でしたね。えへへ」
『ありがとうございます』との法律の声は、境内に響く男の金切り声に遮られた。
見ると隅の壁際で、銀色タキシードが黒のローブの襟元をつかみ、何か声を荒げている。金切り声を上げたのはローブを着た教団員の方だった。銀色タキシードが暴力的な手段に出て怯えたらしい。
設営会場から白髪頭の男がよたよたとふたりに駆け寄ってきた。だが銀色タキシードの腕を取ってふたりを引きはがすわけでもなく、壊れかけの人工衛星のように頼りげなく周りをうろうろと回るばかりだ。
籐藤が舌打ちを放ち、三人の方に足を向ける。だが梶谷老人が籐藤を制して前に出た。
「はんかくさいどもには困ったじゃ」
それまでの温厚な態度を脱ぎ捨てたかのごとく、梶谷は倦労が滲みだす低く虚ろな声を発した。
「葵。そうきもやぐでねぞ。ひとさまの前でしょうしいわ!」
老人の怒声に境内の視線が集まる。握りこぶしを固めた銀色タキシードも例外ではなかった。
そこにいたのは梶谷葵だった。今日もまたへジャブを頭に巻き、その内側で瞳を敵意で燃やしている。そんな葵に掴まれ、両手を弱々しく顔の前に上げて防御の姿勢をとっているのは弟の桐人だった。
「うるさい!」葵が負けじと一喝する。「おんじばっか大事にして。そんなに男が偉いのけ。長男だったらからやぎでもいいんか」
「んでね。じぐなしばって長男だ。ほら桐人。おめぇも男なら言い返しでみろ」
「う、うわぁ……」
黒ローブの桐人は陸に打ち上げられた魚のように身体を揺さぶり妹の手から逃れた。雪の上をつんのめりながら、神社の出口へ駆けていく。仲裁に入った白髪頭の男は、ホッとした様子で胸をなでおろした。
葵が桐人の後を追いかけるが、籐藤がすばやく前に出て無言で立ちはだかった。
「民事不介入」
葵は籐藤に負けず劣らない険しい表情でそう吐き出した。だが籐藤は口を閉ざしたまま、ひと回りも背の低い葵をにらみつけるばかりだ。
「刑事さん。本当にすみません。そいつはうちの孫でして」
梶谷老人がぺこぺこと頭を下げながら葵と籐藤の間に入る。
「ふたりともいい歳をした大人だってのに、子どもみたいにケンカばかりして。いや本当に、恥ずかしいばかりです」
「あいつが悪いんだよ」
祖父を相手にせず、葵は籐藤をにらみ続けた。
「わたしはただ、時間ができたから祈年祭の準備の様子を見に来ただけ。それなのにあいつ。わざわざわたしに近づいてきて挑発してきた。売られたケンカを買って何がわるいわけ。本当に信じられない。どうしてあんなやつが。わたしじゃなくて、あいつが……」
「葵。お前、よその方にそんな失礼なことを」
成功とは言い難い仲裁に入った白髪頭の男が、死にかけの虫のような声量で言った。だが葵は男を一瞥することなくそっぽを向いた。ポケットから着信音が流れるスマートフォンを取りだし、電話に応じながら神社の出口に小走りで向かう。
「どうも。お見苦しいところを……」
白髪頭の男が地面に付きそうな勢いで頭を下げる。卑屈が過ぎるその態度に、籐藤は苦笑を返すことしかできなかった。
「息子です」
梶谷老人が白髪頭の男を見ながら言った。
「泰造。こちら、警察の方だ。お会いしたことは」
「ありません。はじめまして」
梶谷泰造は両手をひざに置いて頭を下げた。枯れ枝のように細い腕から血管が浮き上がっている。
「たしか、息子さんも村の管理組合の一員なのですよね」
籐藤が訊ねる。
「はい。わたし、父、岩城、江竜、大久保、それと亡くなった菅原の六人です」
「失礼ですが、息子さんが聖ブリグダ教団に、娘さんが特秘委員会に入られて、お父様がたがどちらかの門下に下るということは」
「ないない。ないよ!」
梶谷老人が遮るように横で声を荒げた。
「あんなおかしな服を着るなんてわしらジジイには無理だよ。言っていることだって、よく理解できない」
「ですが。梶谷さんたち以外の管理組合の方は、彼らになびいているんですよね」
いつの間にか話の輪に加わっていた法律が両手を後ろで組みながら訊ねる。梶谷親子はそっくりに眉根を潜めて顔を見合わせた。
「まぁ。他の警察の方にも話しましたからね。隠すつもりはありません。岩城と江竜は聖ブリグダ教団と、大久保と殺された菅原は特秘委員会とねんごろの仲でした。四月に予定されている御人形様の譲渡先を決める多数決は、わしら親子の手にかかっているというわけで」
「難しいですね。どちらの手を上げるかで、どちらのお子さんに嫌われるかが決まるわけでしょう」
「いやなことを言いなさる。大丈夫ですよ。あのふたりはまだ子どもです。変わったもんに憧れているだけで、すぐに飽きるに決まっています。昔からそうなんです」
「だけど、少なくとも桐人は……早くあそこからは出てきてほしいんですけどね」
泰造が視線を上の方に向ける。その先には断崖の上に立つ廃校舎――聖ブリグダ教団の教会があった。
「あの廃校舎は戦後すぐに建てられた古い校舎なんですよ。廃校にした理由は、子どもが減ったからっていうのもありますが、老朽化が著しくて危険なんです」
「おまえはいつもそう言うがなぁ、実際のところ今でもしっかりと建っているじゃないか」梶谷老人がくちびるを尖らせる。「最近の横文字を並べた、見てくれだけの建築技術と違う。昭和の職人は経験に基づいた確かな技術を持っていたんだぞ」
「とっちゃ。それをわに言うか? あ……失礼します。準備の続きがあるので」
泰造は祈年祭の会場の方に戻ろうとしたが、何か思い返したように足を止めて法律と籐藤に視線をめぐらした。
「東京の方ですか?」
「は?」
籐藤が短く応える。
「これまでお会いした青森県警の方々とは違うので。イントネーションが。おふたりとも」
「あ。えぇ。警視庁の者です」
名刺を差し出すと、泰造は丁寧に両手を差しだして受け取った。
「東京でもこの事件には注視されているのですか」
泰造の目に光が灯る。朴訥とした男が初めて見せる感情的なふるまいであった。
「いえ。そういうわけではありません。わたし以外に警視庁のものは来ておりませんし、わたしも積極的に青森県警の捜査に介入しているわけではおりませんので」
「……そうですか。いえ、少しでもこの村の名前が知れればいいなと思って。若い方は殺人事件とか好きでしょう。おもしろ半分でいいから、留守部村まで足を運んでくれたらと」
泰造は肩を落とし去っていった。
「わたくしどもの言葉で、東京の人間だと分かりますか?」
籐藤が梶谷老人に訊ねる。老人は『うーん』と首をひねった。
「わたしにも下北半島の方じゃないとは分かります。最近は、青森市内にも標準語をしゃべる方が増えとりますからね。子どもなんか、青森の子か東京の子か分かったもんじゃない。それにわたしみたいに、よその方と喋る時は標準語を使うよう気をつけている人も多い」
「だけど息子さんは、東京の人間だと」
「あいつは東京の人間と長いこと仕事をしていましたからね。区別がつくんでしょう。青森市で大工をやっていて、現場監督さんは東京の本社から来る方が多かったそうです」
「今は、大工さんではない?」
「結婚したころに会社が潰れて、留守部村に帰ってきたのです。いまも時々むつ市内の建築の仕事に出かけていますが、基本的には村で農業をしております。あいつは昔から手先が器用でね、建築の仕事なら何をしても上手いって評判らしいんですよ」
「おじいちゃんとお父さんは、お子さんのことを心配されていないようですが、他の家族の方はどうなんです。たとえば奥様とか」
籐藤の質問に梶谷老人は顔をしかめ、口ごもってしまう。都合の悪い質問だったらしい。だが梶谷はその質問に答える必要はなくなった。境内にざわめきが満ちる。祈年祭の準備をしていた者たちの視線の先、白山神社の入り口の門に、銀色タキシードの集団が現れたのだ。
数十人の銀色タキシードに囲われ、際立って背の低い異彩を放つ少女がいた。
褐色色の肌に、黒の長い巻き毛を背中まで下ろしている。蝶の羽の筋のように長く伸びたまつ毛の下で、髪に負けない濃さの瞳が動いていた。
梶谷老人は籐藤達に別れの言葉も告げず、小走りで銀色タキシードの集団の元へ向かった。銀色タキシードの集団の中にいる梶谷葵が、祖父の姿を見て少女の横に立つ蓮下啓也に声をかける。続いて蓮下が少女に声をかけた。少女は蓮下の目を見ることなく、ぼそりと何かをつぶやいた。
「籐藤さん。あの子」
法律が少女を見つめながら言う。銀色のタキシードを着た少女の胸元には青いバラが差さっていた。
「ブルーローズ。あの子が超大物ゲスト、ラニア・アッバース副委員長ですか」
籐藤は大きなため息を吐き出した。
「トラブルの火種が増えた気がする」
そう言いながら、特秘委員会の集団の元へ歩き出した。
2
2021年 2月 20日 土曜日 10時 34分
「なんだ貴様ら。特秘委員会は祈年祭には参加しないんだろう」
黒いローブを着た教団員が果敢にも特秘委員会の群れに喰ってかかる。会場の設営に協力していた他の教団員たちも、作業の手を止めて集まりだした。銀色タキシードの特秘委員会構成員たちは腰にぶら下げた警棒に手を置いた。内ポケットに手を潜りこませている者もいる。『テーザーガンか』と法律は眉をひそめた。
「ふん」
特秘委員会の集団の先頭に立つ銀色タキシードの男がケンカ腰に鼻を鳴らした。
「見回りに来ただけだ。村の安寧を守るのがわれわれの役目でもあるからな」
「安寧を脅かしているのは貴様らだろう」
「何を。カルト集団が偉そうに。根暗なら根暗らしく、あのおんぼろ校舎にもどって『ぅむぅぅむぅ』とうなってやがれ」
「信じられん。聖ブリグダ神を罵倒するか。エゥムルシ法典第三章五十二節『神の実在を信じぬ者、その汚れた足で神の聖域を踏み荒らすことなかれ』。おら、とっとと出ていけ」
『よく言った!』『エゥムルシ神バンザイ!』と教団員たちが騒ぎ出す。ふたつの集団から距離をおいて、梶谷老人はうろたえていた。
「余が祭に参加すると申したら、どうする」
海を割るような凛とした声が境内に響いた。
声量が大きいわけではないのに、その場にいる全員の耳に届くふしぎな声だった。
声の主は銀色タキシードの群れの中心に立つ少女だった。少女の前にいた銀色タキシードたちが左右に分かれて道を作る。少女は気だるげに首をふり、巻き毛を揺らしながら教団員たちに近づいた。
「な、なにを―「二度も言わすな」
教団員の言葉を遮ってラニアは言った。
「余は祈年祭に参加すると申しておる」
法律の顔が嫌悪感にひくりと跳ねる。彼女は似ていた。法律がこの世で最も嫌悪する男と、同じにおいを発していた。
「ラニア様。滅多なことはおっしゃらないでください」
蓮下啓也が困り顔で近づく。
「神社にお越しになりたいと言うのでご案内してみれば、まさか祈年祭などという非科学的な祭事に参加するなんて」
「黙れ。余は本気だ。いや、初めからそのつもりであった。余は祈年祭に参加する。案ずるな。この狂人どもと同じくジンを祀ろうというのではない。留守部村のためだ。特秘委員会が厄介になっている以上、村の祭事を否定して不参加を決めるというのも大人気なかろう。ママゴトに付き合うのは大人の務めである。そこの村の者」
ラニアは梶谷老人に人さし指を突き立てた。
「余はアッバース&キャロライン財団 自然生物保護部門 太陽系圏保安維持室 特級秘匿物保全委員会副委員長ラニア・アッバースである。余が祭に参加することに異存ないな」
「も、もちろんです。大歓迎ですよ。席が全部埋まるなんてことはありえませんのでね、よろしければお友達もお誘いください」
ラニアの奇妙な気配にのみ込まれたのか、梶谷老人は場違いな言葉を返す。満足げにラニアはうなずき、教団員たちの方に向き直した。
「祭に参加する余がここにおることに異存はないな」
教団員たちはラニアの言葉に圧倒され、一歩二歩と後退した。
「皆のもの」
ラニアが銀色タキシードの集団に声を鳴らす。彼らは一同に『ハイ』と声を揃えた。
「余とピンクローズ蓮下は祈年祭に参加する。その間皆は、この村をよく周り、ジナテリウム分布図を基にアンカーを打ち込むこと。さすれば何も問題は起きない。ジンはアンカーに阻まれ、少なくとも祭の間は人形の中に閉じ込められる」
『おお』。『すばらしい』。『さすが副委員長だ』。感嘆の声が渦となって銀色タキシードの集団の中から湧き上がる。聖ブリグダ教団員たちはその熱気にのみ込まれていた。見るからにうろたえ、最後方にいた教団員はパイプ椅子にぶつかり背中から地面に転がった。
「鎮まれ」
ラニアは片手を上げて部下を制した。
「騒ぐな。村の方々の迷惑だ。それと、こうもぞろぞろと付いて来られるのも重ねて迷惑。散れ。各々責務に励め」
ラニアと蓮下、そして梶谷葵の三人だけを残して、特秘委員会のメンバーは神社から去っていった。
「神社でケンカが始まったと聞いたのですが、ひょっとして乗り遅れましたかね」
神社の入り口の門から盛田がひょいと現れた。どうも隠れて様子をうかがっていたらしい。後ろに若い刑事をひとり引き連れている。
「ラニア・アッバースさんですね。初めまして。青森県警の盛田ですお噂はかねがね」
盛田は名刺入れを取り出しながらラニアに近づいた。ラニアはまき毛に指を絡めながら、もう片方の手で名刺を受けとった。
「ほう。これが日本のビジネスカードか。縦書きのものは初めて目にする。読みにくくて仕方がないな」
「恐縮です。日本語がお上手ですね」
「うむ。日本のドラマを観て覚えた。思った以上に複雑な言語じゃな。習得するのにひと月もかかってしまったわ」
「アッバースさん。今週、この村で殺人事件が起きたことはご存じでしょうか」
「無論」
ラニアは受け取った名刺をポケットに無造作につっこむ。盛田は歯を見せて笑ってみせた。
「われわれは事件の真相を突き止めようと捜査に励んでおります。何か気づいたことがありましたら、お気軽にご連絡ください。それと、村中で特秘委員会さんと聖ブリグダ教団さんのケンカが起きておりましてね。はっきり言って迷惑です。われわれはケンカの仲裁のためにこの村に来ているわけではありません。仕事を増やされるのは困ります。おたくの部下たちに、聖ブリグダ教団を挑発するのも、彼らの挑発に乗るのも止めるよう通達してください」
「善処しよう。ところで、例の『御人形様』とやらを見ることはできるか?」
「本殿側は立ち入り禁止です。ご了承ください」
「ふん。そうか。……ん?」
ラニアは境内の隅、白壁の前に立つ法律に目をやった。みるみるうちにラニアの顔が曇っていく。
「おい。あのガキ、お前の方を見ているぞ」
「好意を抱いていただけたのでしょうか。困るなぁ。ぼくには妹たちがいるのに」
「あの顔を好意と解釈するなら、おれは今まで何人もの犯罪者から愛されてきたことになるな」
ラニアは法律に近づきながら右手をかざした。その手の上に蓮下がスマートフォンほどの大きさの機械を置く。ラニアは機械の突起に付けられたゴムカバーを外し、その下にある棒状のものを数センチ引き延ばした。
「貴様。動くなよ」
ラニアは機械を操作しながら言った。やはりその言葉は法律に向けられているらしい。ラニアの横で蓮下と葵が腰に備えた警棒に手を伸ばし、法律をにらみつけていた。
「なんだってんだ」
法律ではなく籐藤が不貞腐れたように言った。
三メートルほどの距離をおいて、ラニアは機械を法律に向けた。数秒後、短い機械音が鳴り響いた。ラニアは機械の液晶画面を見ると、左右にいる部下に見せてからゴムカバーをつけ直した。
「気のせいでしたか」
蓮下がラニアに問いかける。
「うむ。まぎらわしい」
三人は踵を返して法律から離れようとした。だがその背中に籐藤が声を荒げて突っかかった。
「おい、ちょっと待て。今のはなんだ」
「刑事さん。下がってください。あまり近づかないで」
蓮下がラニアと籐藤の間に割って入る。だが籐藤は歩みを止めない。
「うるさい。ひとさまにおかしな機械を向けておいて、謝罪のひとつもなしか」
「ジナテリウムを測っただけだ」
ラニアは手にしていた機械――ジナテリウム計測器を葵に渡した。
「余は悪のジンの気配を感じ取る能力に長けておる。その男からはかすかにジンの存在を感じた。だが、計測器の数値は〇.〇三キロカルツ。微々たるものだ。気にかけるほどのものでもない。だが……」
ラニアは再びふり返り、法律を凝視する。
「ジンではない。ジンではないが、何か……嫌な感じがする。五年前にアフガニスタンで会った男に似た感覚だ」
「どんな男でした?」
法律は弱々しく手をふってみせる。
「腹に爆弾を抱えて官僚の車に突っ込んでいった」
「わお」
「安心せい。その男は爆発する前に頭を撃たれて死んだ」
「そりゃ安心。ひとに迷惑をかけずに死ねるならぼくも本望です」
「お主、何者だ」
「警察ですよ。警視庁。東京の人間です」
横から葵が言った。だがさらにその後ろから、盛田が『半分正解』と言葉を繋ぐ。
「そして半分外れです。そっちにいるのはたしかに警視庁の刑事ですが、もう片方は探偵さんです」
「探偵? どうして探偵がここに」
葵の言葉が噛みつくように法律に向かう。その横で籐藤は、軽率に法律の正体をばらした盛田をにらみつけている。だが盛田はそんな籐藤の視線を意に介さない。
「もしかしたら特秘委員会さんも噂に聞いているんじゃないですか。先日、聖ブリグダ教団に現れたひとりの巫女。それが彼、恒河沙法律の妹、恒河沙縛なんですよ。彼は妹に会うために留守部村まで来たというわけです」
「あ、はい。実はそうなんですよ」
ジャンパーのファスナーを下ろし、中に来たカーディガンのポケットから名刺入れを取り出す。
「恒河沙探偵事務所の恒河沙法律です。以後お見知りおきを」
そう言いながら法律は名刺を配って回る。ラニアに、蓮下に、葵に、ついでにポカンと口を開けてことの成り行きを見つめている梶谷老人にも。
「すごい。一度に四人に名刺を配れました。営業活動としては上々です」
「あんた。教団員の身内の者だったのか。最悪。わたしはそんなやつを支部に招き入れて……もしかしてあんた、最初からそのつもりでわたしに狙いをつけていたの」
葵は腰の警棒をにぎりしめた。籐藤が法律を庇うように一歩前に出た。だが籐藤の背中から法律はひょいと顔を出しケラケラと笑った。
「そんなこと言ったら、葵さん。あなただって、聖ブリグダ教団の方のお身内じゃないですか」
「う、うるさい! わたしと桐人は違う。話をすり替えるんじゃない」
「そこの。少し黙れ」
重苦しい声に葵の背中が凍りつくように固まった。
黒い巻き毛を二本の指でつまむように擦りながら、ラニアが退屈そうな顔をしていた。
「親族だから悪なのではない。悪はただそのものとして悪に過ぎん。そこのグリーンローズ。お主、思慮が浅ければ品もないな。これ以上特秘委員会の格を下げる前に口を慎め」
「そんな。わたしは……はい。失礼しました」
葵はうつむき、そのまま後ろに下がった。だが顔は地面に向けながらも両の目はしっかりと反らして、法律をにらみつけていた。
「ただし、うさんくさい存在であることには違いあるまい」
ラニアは髪から手を離した。
「殺人事件が起きた。警察が訪れる。これは分かる。日本という国は法治国家であるからな。だが探偵。これは分からん。探偵なんぞいなくとも、警察が事件を解決してくれる。それがこの国のシステムであろう。そのシステムに反した存在。恒河沙法律。悪しきジンに似た雰囲気をもつ探偵。はっきり言って、世は聖ブリグダ教団以上にお主を警戒しておる。部外者がいったいここで何をしておる」
「部外者にしかできないことだってあるはずです」
「部外者にしかできないことはやってはならないことであろう。もういい。村長殿」
ラニアは梶谷老人に声をかけた。梶谷は背中を丸めながらラニアの前に移動する。
「神社の中を拝見したら一度失礼する。祈年祭の時間になったらまた来るので、先ほど申した通りふたりぶんの席を用意しておくように」
そう言い放つと、返事を待たずにラニアは拝殿の方に歩き出した。蓮下と葵も後に続く。ふたりは果物かごに納まる生肉を見つめるかのような視線を法律に送っていた。
「盛田。どういうつもりだ」
籐藤が盛田に詰め寄った。盛田はラニアのマネをして短い髪を二本の指でつまんでいる。
「わざわざ法律の正体をばらす必要もあるまい。なんでそんな余計なことを」
「いけませんよ先輩。警察官がひとを騙すなんて」
「ふざけるな」
「ふざけていません。ぼくは瀬戸際に立っています」
「瀬戸際?」
「ぼくはピンチなんですよ。言ったでしょう、先輩。丸子本部長は恒河沙の兄妹を嫌っている。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。恒河沙の兄妹と関りのある人物も同じく嫌っている。つまりはあんただ、籐藤剛。警視庁にお務めのエリートにとっちゃ、片田舎の本部長に嫌われたところで屁でもないだろう。だけどぼくは違う。ぼくは青森県警の人間だ。袈裟が憎けりゃ襪も。あんたと関りのあるこの盛田巡査部長はね、本部長に嫌われたら警察人生が終わるんだよ」
「だからおれたちのじゃまをするっていうのか。お前、ふざけるなよ。そんな下らない目的で――」
「くだらなくなんかない。ちくしょう。最初から、本部長に嫌われているって知っていたら、ぼくはあんたらを歓迎なんかしなかったのに。ぼくは瀬戸際に立っている。あんたらに邪魔をして、恒河沙の一味でないことを証明しなくちゃならないんだ」
「おうおう。だったらおれらをしょっ引け。手錠をつけて留置所に放り込め」
「それができれば苦労はしない。先輩らは副総監の息がかかっているんでしょう。警視庁副総監、桂十鳩。副総監の耳に入ったら、これまたぼくの警察人生はおしまいだ。ぼくにできるのはこれしかない。丸子本部長の耳には届くが、桂副総監の耳には届かない。そんな微妙な加減で足を引っ張ることしか……」
「おまえ、つまらない男になったな」
「先輩はくだらない男に。そうだ。ひとついいことを教えてあげますよ。探偵さん。さっき聖ブリグダ教団から聞いたんですけどね。妹さん、どうも今日の昼にあの廃校舎から出てくるそうですよ」
「えぇ、そうなんですか」
盛田と籐藤の口喧嘩を意に介さず、梶谷老人に自身の正体を明かさなかったことを謝罪していた法律は、『妹』の話とあってか、ぴょんとその場で飛び上がった。
「ひょっとして祈年祭に参加するんでしょうか」
「いや。どうも祈年祭とは別の目的なのようです。詳しくは教えてもらえませんでしたよ。ぼくたちは、降りてきた『巫女様』に接触するつもりです」
籐藤は鼻で笑った。
「任意で聴取できるとは思えんな。強制的に事情聴取をするなら、逮捕勾留をしないといけないぞ」
「わかっています。ただお声がけをするだけですよ。少しでもボロを出せば十分な収穫です」
盛田は踵を返し境内を去っていった。後輩の刑事も後に続く。彼がきっと、盛田と恒河沙一行と明確に敵対関係にあることを青森県警内で証言してくれるのだろう。
「しかし、なんだかあれですな。あなたの妹さんが来てからこの村は大騒ぎですよ」
梶谷老人は苦笑しながら言った。
「こんなにも騒がしいのは何十年ぶりでしょう。まるで、子どもたちが沢山いた昔のころのようです」
3
2021年 2月 20日 土曜日 10時 45分
「まだ祈年祭までは時間があります。ここにいらっしゃるとまたトラブルが起こるかもしれませんよ」
梶谷老人にとっては、籐藤と法律もまたトラブルの火種に違いないようだ。遠回しに神社から去るよう言われ、ふたりは白山神社をあとにした。
神社からおやしろ通りにつながるゆるやかな下り坂を、法律はペンギンのようにちょこちょこと歩いていく。その後ろを籐藤は憮然とした様子で続いた。
「被害者の菅原さんについて調べてみましょう」坂道を降り切って法律が言った。「菅原さんがどんなひとだったのか。彼の周囲で殺人に繋がることが起きていなかったのか」
「そんなもの既に青森県警で調べているだろう。真相に直結するような事実があるとは思えんな」
「まぁいいじゃないですか。どうせ盛田さんたちは教えてくれないだろうし、刑事なら刑事らしく足で情報を稼いでくださいよ」
道端を歩く村人に、法律は菅原久の家の場所を聞いた。その村人から、菅原久は独り身で、彼について話をしてくれるような家族はいないことも聞き出した。だからと言って足踏みを続けるわけにもいかない。せめて近所の住人に菅原についての話を聞ければ上々だ。
法律と籐藤は、昨日梶谷姉弟が喧嘩していた家の軒先の前を通り、コンクリートブロックで囲まれた小道に入った。陰に隠れた小道を進み、村の西側を南北に伸びる県道通りに出る。菅原久の家は県道通りの南側にあるとのことだった。
県道通りに出たところで、どこからか金属を叩くような音が聞こえてきた。断続的に続くかん高い音に、籐藤と法律は顔を見合わせた。
「祈年祭で使う足場でも組み立てているのかね」
籐藤が気だるげに言う。
「足場材なんて、神社にはなかった気がしますけどね。うん? 何だか。あちこちの方角から音が聞こえてくるような」
奇怪な物音が響く中、ふたりは県道通りを南下する。小道を出てから数十メートル行ったところで声が聞こえてきた。
「ごめんください。おじいさん。ごめんください」
平屋建ての一軒家の庭に銀色タキシード姿の男が二人いた。ひとりは太陽光を反射する窓ガラスが並ぶ縁側の前に立ち、ガラス窓に手を置いている。そしてもうひとりは少しだけ距離をおいて、鉄製の野球用バットのようなものを両手で抱えていた。
「あいつら。何をしているんだ」
籐藤が熊のようにのそりのそりと近づく。
「ごめんください。おじいさん。よろしいですか」
「なぁ。もういいんじゃないか。おれたちも早く始めないと」
「でも勝手にやるのはまずいだろう。住民の反感を買うのだけは止めろって、蓮下さんも言っていたし」
「こんだけ広い庭なんだし大丈夫だよ。とっととやって、終わらせよう」
籐藤は腰までの高さしかないブロック塀の前に立ち咳ばらいをした。
「ちょっとお兄さんがた。こちらで何を?」
相手が何か言う前に警察手帳を見せつける。ふたりの銀色タキシードは顔をひくつかせてうろたえ始めた。
「ひとの家の庭でいったいなにを。住居侵入罪で現行犯逮捕ですかなぁ」
「ちょ、ちょっと待ってください。お巡りさん」ガラス窓に向けて声をかけていた方が言う。「違うんです。チャイムを鳴らしても反応がなくて、でも庭の方を見たらこちらに――」
銀色タキシードは肘を軽く曲げて伸ばした両手を窓の方に向ける。よく見ると、白く反射するガラス窓の内側に、ぼぉっと呆けた顔でロッキングチェアに座る老人がいた。
「――いらっしゃったわけで、交渉をさせていただいていたわけですよ。悪だくみをしていたわけではありません」
「悪だくみでなければいったいなにを。第一それはいったいなんなんだ」
籐藤の目がもう片方の男が持つ野球バットのようなものに向いた。男は諦めたようにため息をつくと、両手に乗せて差しだしてみせた。
「抑制電磁波発生装置を設置しようとしていただけです」
「……は?」
「ご存じでしょう。今日の昼から白山神社で祈年祭が行われます。あの藁人形の中のジンが祈年祭の祝詞で活性化する可能性があるので、ジンの力を抑制する電磁波領域を村を包むように発生させるんです」
「祈年祭のことは知っているが、その、電磁波ってやつは……専門外だ」
取り繕っていた籐藤の敬語が崩れていく。
「そうですか。警察の方はご多忙でしょうからね」
銀色タキシードの男は、もうひとりの男から野球バットのようなものを受けとった。色は純白で、先端がエンピツのように尖っている。突端の反対側は丸く平らになっており、バットでいうと芯のあたりに黒い機器が付いていた。
「いま、村中でわれわれ特秘委員会のメンバーがこの抑制電磁波発生装置、通称『アンカー』を設置しています。この装置は一本では効果がなく、電磁波を発生させたい領域を囲うように設置することで、互いに発生させた電磁波を繋ぎ、その内側に抑制電磁波領域を作り出すわけです」
「あ、ひょっとしてさっきから聞こえるこの音。お前らの仕業か」
籐藤が空に向けて指を立てた。カンカンと金属を叩くような音が青空を飛び交っている。
「そうです。この装置は杭のように地面に埋めこみ起動します。安定した電磁波領域を生み出すためには、こちらの庭にも一本埋め込む必要があるんですよ」
銀色タキシードはポケットから紙を取り出し広げてみせた。それは留守部村の地図で、無数の点が記されていた。
「しかしなぁ」
「ご安心ください。この電磁波領域は、有機物無機物問わずジナテリウムだけに効果があります。普通の人間には被害はありません。もっとも、悪のジンに信心を捧げる無知蒙昧なる非科学的集団はどうだか知りませんがね」
「無知蒙昧なる非科学的集団って彼らのことですか?」
法律が県道通りの方を指さす。見ると、黒いローブを着た二人組が、何か紙を広げながらこちらに近づいてくる。
「ここだ、ここだ。うん? あ、銀色野郎どもがいるぞ。おい、お前ら。そこから出て行け」
「出て行けだと。無礼なやつらだ。ここはお前の家か?」
銀色タキシードは足元にある木槌を拾い上げた。抑制電磁波発生装置を埋め込むために持参したものだろう。
「おい、冗談だろ。お前ら、喧嘩はやめろ。おれは警察だ。あぁもう。うんざりしてきた」
「警察の方ですか。われわれは聖ブリグダ教団の……」
「見りゃわかる。おい、おれはいまこっちの銀色の相手をするので精一杯なんだ。昭和の不良みたいに目が合ったからケンカってのは止めてくれないか。ほら、なにも見なかったことにして通り過ぎてくれ」
「そうはいきませんよ。だってわたしたち、こちらのお宅に用があるんですもの」
「あぁ?」
籐藤が声を荒げる。後ろで法律がガラス戸を開き、ロッキングチェアで揺れる老人に『お騒がせしてます』と頭を下げていた。
「ご存じでしょう。今日の昼から白山神社で祈年祭が行われます。御人形様に祈りの言葉を捧げる儀式ですが、聖ブリグダ神の偉大さに嫉妬する輩のせいで、祭りが失敗する可能性があります。そこでわれわれ聖ブリグダ教団は、祭の祈りを強化する御札を村中に貼って回っているのです」
『ほらこれ』と縦長の四角い御札を手にしていたクリアファイルから取りだす。色は黒地で、その上に曲線が多い白い文字らしきものが散り散りになっている。目にしただけで、籐藤は嫌悪感に顔を歪めた。
「サー・モントゴメリーの指示に従い、線で結ぶとオアクル語の『ゲルダ』という記号になるよう、皆で村中に御札を貼っているのです。『ゲルダ』というのは、われわれの世界の言葉では『闊達』に近い意味で……まぁともかく。このお宅の庭にも一枚御札を貼らなければならないわけなのです。そこのおじいちゃんがこのお宅の方ですね。すみません。この御札を庭の……そうだな、あの物置の壁に貼らせてもらってもよろしいですか」
黒フードの男は庭の片隅にあるトタン造りの小屋を指さす。小屋の壁はところどころ錆びており、ひとたび強風に吹かれれば、津軽海峡を越えて北海道まで飛んでいきそうなほど頼りなかった。
縁側に座る老人はかすかに目を開き、首を曲げた。だが何か言葉を口にすることはなく、一度あくびをするに留めた。青いベストの下で胸が上下に動いている。
「こりゃだめだ。かまわない。勝手に貼って次に行こう」
黒フードの男は連れのもうひとりに声をかけ、小屋の方へ向かった。御札と言っておきながら、その実態はシールのようで、ぺりぺりと台紙から剥がし始めた。
「ちょっと待て。そんな非科学的なものを貼られちゃ困る」
ふたりの銀色タキシードが黒フードたちの後を追う。その手には木槌と『アンカー』が握られていた。凶器として用いるには十全が過ぎる。
「あ、何をする。暴力は止めろ、暴力は」
「野蛮なお前らといっしょにするな。これは抑制電磁波発生装置だ。われわれは今からこの庭にこれを立てるんだ。そんな怪しいシールをそばに貼られちゃ困るんだよ」
「おたくらはわたしたちの教義をオカルトと否定するのだろう。ならばこの御札を貼ったところで、何も問題はないはずだ。何故ならあんたらにとって、オカルトは何の作用も施さないのだから」
「だまれ。風紀の問題だ。この村を非人間的な風俗に染めるわけにはいかない。失せろ、失せろ。この村から出て行け」
双方が互いの襟首を掴み合う。ひとさまの庭でタッグマッチが始まってしまい、籐藤は憤然と息を吐き出した。
「おい、馬鹿。やめろ。いい歳をした大人がみっともない」
籐藤と法律が、庭に積もった雪をえっちらおっちらと踏みながら小屋のそばに近づいていく。だがその時、籐藤は法律の横にひとの気配を感じた。青い影を残して動くそのひとかげは、軽々とふたりを追い越し、狐が跳ねるように雪の上を進んでいった。
「なぁ! そごさばやめぐな!」
その怒声は雷鳴のように留守部村に轟いた。
人間はマイクもなしにこれほどの声量を発することができるものなのか。籐藤は自身の鼓膜が、数メートル先の老人が発した声に激しく揺さぶられるのを感じた。法律は驚嘆のあまり、彼にしては珍しいことに大きく口を開けて固まっている。
そしてその怒声を向けられた四人の闖入者たちは――揃って雪の上に尻もちをついていた。彼らの目から闘志は消えていた。山岳のようにそびえ立ち、彼らを見おろす小さな老人を前にして、瞳は怯えの色に染まり、明らかに寒さとは異なる要因で全身を震わせていた。
そこにいたのは、つい先ほどまで縁側にいた老人だった。だがその様子はロッキングチェアで揺れていた時とはまるで違っている。両目は大きく開かれ、あごの先から綺麗に禿げ上がった頭の先まで肌を紅潮させている。手に木製の杖があるが、持ち手ではなく、柄の部分を握ってふり上げている。青いベスト。黒のジャージ。ジャージの下は裸足だ。裸足で雪の上に立っている。
老人は再び雷を落とした。その言葉はあまりにも他言語的で、法律と籐藤には聞き取れなかった。恐らく下北弁だ。だが、ここまで強い下北弁を聞いたのは、ふたりにとって初めてのことだった。
「なんだ。強盗か、佐田本さん。」
隣の家の窓が開き、チューリップの球根のように大きな鼻の男が顔を出した。男は隣家の庭の様子を一見すると、慌てて飛びだしてきた。
「特秘委員会のやつらじゃないか。佐田本のじいさんをいじめているのか。あ、あれ。教団の方々も? いったいここで何を……」
「「「「お、おじゃましましたぁ!」」」」
特秘委員会と聖ブリグダ教団の男たちは、四つん這いになりながらブロック塀の方まで駆けていく。慌てた様子でブロック塀を越えると、どすりと音を立てて県道通りに落ちた。痛い痛いと嘆きながら、クモの子を散らすように去っていく。
佐田本と呼ばれた老人の顔からは嵐が去っていた。ロッキングチェアに座っていた時と同じ、呆けた表情にもどり、老人らしい頼りない足取りでトタン造りの小屋の方へ向かう。老人は小屋の入り口の前を通りすぎ、一本の常緑樹の前にしゃがみ込んだ。
「なにごとですか。あんたら、佐田本さんに何をしたんだ」
隣の家の男が法律と籐藤に詰め寄る。籐藤は警察手帳を提示すると、自分が目にしたことを一部始終話した。
「そうでしたか。特秘委員会のやつらがね。あ、失礼しました。わたしは岩城と申します」
「岩城さん……ひょっとして、管理組合の方ですか」
梶谷泰造から聞いた名前だ。管理組合のメンバーは梶谷親子と殺された菅原を抜くと三人。岩城、江竜、そして大久保。岩城と江竜が聖ブリグダ教団派で、殺された菅原と大久保が特秘委員会派だ。
「法律。こちら、管理組合の方だ。ちょうどいい。この方に……おい、法律?」
見ると法律は佐田本老人の横に並んでしゃがみ込んでいた。
「シュロだばかだごとだはんでの。かっちゃがえどもはっかめでらんだかっちゃがえでかえしてなぁ」
「ほぉ、なるほど。ではこちらは」
「こちがミカン。ミカンなぁ、なんぼめごいっきゃ。えぇ。はらこちょがえすとわらじみたいにないてなぁ」
「いいですねえ。すてきです」
「おい、法律。なにを……」
籐藤は気づいた。膝を曲げて並ぶ法律と佐田本老人の前の地面には、長方形の墓石が埋められていた。それもひとつだけではない。塀に沿って十枚の墓石が並んでいた。
「人間じゃないですよ」
岩城が背後から籐藤に言う。
「マタギ犬です。佐田本さんは元マタギでしてね、訓練した犬を連れて狩猟をしていたんですよ」
「この方が佐田本さんですか。」
つい数時間前、法律に飴玉をくれた老婆が教えてくれた名前だ。
「亡くなられたお犬さんを自宅の庭に埋めて供養しているわけですね。愛犬たちの安らかな眠りを妨げられたら、そりゃあ怒りますよね」
「そうです。しかし、亡くなったとは語弊がありますね」
岩城は意地悪そうにほほを歪めた。籐藤が問い返す前に彼は答えた。
「ここのマタギはね、マタギ犬が年老いて狩猟についてこられなくなると、自分たちの手でその犬を撃ち殺すんですよ」
籐藤は岩城の言葉の意味がのみ込めず――いや、のみ込めたからこそ、その解釈を自分は誤っていると、彼もまた難解な下北弁を用いているのではないかと錯覚した。
「ご冗談を」
「本当です。働きもしない老犬を飼っておく理由がありますか。生き物の命を奪い、その命に重きをおくマタギだからこそできる残酷な判断ですよ」
「そして、命を奪うマタギだからこそ、奪った命に対する感謝を忘れないというわけですか」
墓石に向かって両手を合わせながら法律が言う。佐田本は両膝を雪の上に下ろし、両手を必死にすり合わせながら墓前に何かをつぶやいていた。その声は小さく、隣にいる法律にも聞き取れない。
法律は佐田本を背中に乗せて縁側まで運び、ロッキングチェアに座らせた。裸足で出てきた佐田本の足は石のように冷たくなっていた。法律は縁側の続きの部屋から小さなストーブを持ってきて佐田本の足の先に置いた。
「ご家族はいらっしゃらないんですよね」
縁側に上がり込んだ籐藤が岩城に訊ねる。
「そうです。週に一度来る娘さんを除くと、わたしを含むご近所さんが見守っているという感じです」
「まだ足冷たいなぁ。佐田本さん。台所をお借りしますね」
法律はちょこちょこと家の奥へと消えた。佐田本は穏やかな顔つきで何か鼻歌を歌っていた。
「しかし先ほどの佐田本さんの動きには驚きました」
「何の話です」
籐藤の言葉に岩城が訊ねる。籐藤は、佐田本がその見た目に違わぬ俊敏さで、縁側から飛びだして来たことを語った。
「そんなことがありましたか。佐田本さん、まだそんなに動けるんですね。いえ、ある意味では驚くことじゃありませんよ。佐田本さんはこの村で最後のマタギでした。佐田本さんがデビューするころ、マタギは遠くない未来には廃業するだろうと予想されていて、当時のマタギたちは佐田本さんに彼らがもてる知識を徹底して注ぎこんだそうです。少しでも先の未来まで、自分たちの技術を生き残らせたかったのでしょう。その結果、佐田本さんは下北半島のマタギの間じゃ知らないものはいない、名うてのマタギになりました。もっとも今じゃそのほとんどが亡くなって、佐田本さんの腕を知るものはいませんけどね」
「岩城さんは、佐田本さんとは昔から知り合いなのですか」
「わたしもこの村の生まれですから。わたしが子どものころ、現役のマタギだった佐田本さんは、閻魔様みたいにおっかない人だった。わたしと同世代の村の人間は、みんな一度は佐田本さんに頭を殴られているんじゃないかな」
岩城の目元にはかつての留守部村の姿が浮かんでいるのだろう。口角をかすかにあげ、光悦とした視界の先に広がる留守部村を見つめる。その耳にはきっと、籐藤には聞こえない子どもたちの笑い声が聞こえているに違いない。
家の奥で鐘のような短い音が鳴った。戻ってきた法律の手には、濡らしたタオルを電子レンジで温めて作ったおしぼりが握られていた。
法律はおしぼりを広げて佐田本の足を包む。『だいじょうぶですか。熱かったら言ってくださいね』と法律が言うと、佐田本は笑顔で心地よさそうにうなり声をあげた。
「佐田本さんは今日の祈年祭に参加されるつもりだとか」
籐藤が訊ねる。
「お耳が早い。佐田本さんはマタギらしく信心深い方ですからね。久しぶりに祈年祭が行われると聞いてぜひ参加したいと。わたしも参加しますので、会場までお連れするつもりです」
「そうですか。ところで岩城さん。祈年祭前のお忙しいところ恐縮ですが、事件のことをうかがってもよろしいでしょうか」
籐藤が言うと、岩城は顔をしかめて、着ているセーターの袖を一度引っ張った。
「警察にはすべて話したつもりですがね」
「繰り返しになってしまい恐縮です」
「別に構いませんよ。といっても、わたしは事件のことはよく知らないんですけどね」
「教えていただきたいのは、菅原久さんのことです。菅原さんはあなたと同じ管理組合の方だったのですよね」
「まぁ、うん。そうですね」
どこか歯切れの悪い口ぶりで、岩城は縁側の床板に視線を転がした。籐藤が一度手を叩くと、岩城の視線は籐藤のもとに戻った。
「菅原さんとはどういった方なのでしょう。ご家族は」
「独り身です。昔っから勉強ばかりの固い男でね、それで金があれば少しはモテたかもしれないけど、公立小学校の教師じゃろくな稼ぎはありゃしない。見合いだっていくつも失敗して、『そのうち』をくり返しているうちに婚期を逃したわけだ」
「ご家族は」
「いない。両親はだいぶ前に死んだ。ひとりっ子で兄弟もなし」
「菅原さんはどうして殺されたのでしょう。彼に恨みを抱いていたひとに心当たりは」
「いないよ」
「最近、何かトラブルに見舞われていたとか」
「いやみったらしいね。はっきりと言ったらいいのに」
「では失礼して。菅原さんは特秘委員会の方々と親しかったそうですね。銀のタキシードを着こむわけではなかったが、御人形様を聖ブリグダ教団と特秘委員会のどちらに渡すかと問われたら、迷う事無く後者と答える程度には」
「つまり、聖ブリグダ教団の目の敵にされていた。殺したのは聖ブリグダ教団だと言いたいのでしょう。違うね。教団さんにとって特秘委員会は洟も引っかけない相手だった。科学だなんだと頭でっかちにものごとを考えて、神様の教えを蔑ろにしやがる。あんな不信心ものに、教団さんが負けるはずがない。わは知ってんだ。蓮下とかいう特秘委員会の親分がいるだろう。あいつ、白山神社を取り壊して特秘委員会の施設を作ろうとしているんだ。御人形様だけじゃない。あいつらは、留守部村が長いこと守ってきた神社そのものを無くそうとしているんだよ」
興奮して岩城の言葉遣いがかすかに荒れる。言い終えてそのことに気づいたのか、ごまかすようにせきばらいをした。
「聖ブリグダ教団さんは、殺人には関わっていないと」
「そう思います」
「では誰が殺したと思いますか。御人形様が殺したとお考えの方もいらっしゃるようですが」
「いやいや! そこまでは考えちゃおりません。いくらなんでも、御人形様がひとりでに動きだしたというのは、ねぇ。だけど、まぁ。御人形様を蔑ろにした罰が当たったとは思いますが」
物理的な意味での殺人を為したわけではないが、『罰』という宗教的な制裁は加えたということか。なんとも曖昧なもの言いに、籐藤は舌打ちをグッとがまんした。
「では、巫女様でしょうか」
そう口を挟んだのは法律だ。背中を向けてストーブの温度を調整している。
「聞いていますよ。警察は巫女様を疑っているそうですね」
岩城は鼻を大きく鳴らした。
「ですがその理由は? 巫女様が事件の直前にこの村に現れたからでしょう。そんな『偶然』の二文字で片付けられる事象を警察がおいかけるとはね」
「世の中には『偶然』の皮を被った『必然』が存在しますからね。少なくとも腰から下は同じです」
「思うに犯人は特秘委員会の人間ではないですかね。教団に罪をなすりつけようとしているんですよ」
「被害者には特秘委員会に殺され得る理由があったと?」
「あたまのおかしい集団に内ゲバはつきものです。菅原はおかしなことを言って、特秘委員会を怒らせたのではないですか。そして、御人形様の手によって殺したように見せかけられた。その結果、御人形様の崇高さを知る聖ブリグダ教団が疑われるというわけです」
その時、佐田本家の玄関のベルが鳴った。
「ごめんください。佐田本さん、入りますよ」
勝手知ったる他人の家といったところか。男の足音が縁側の方に近づいてくる。
「あれ? ど、どちらさまですか?」
法律と籐藤、それから岩城を見て男は目を細めた。側頭部を囲うように残った黒髪はきれいに刈りあげられ、禿頭の頂点は艶を放ち輝いていた。
「刑事さん。こいつは大久保です。わたしと同じ、管理組合のもんです」
『ほぅ』とつぶやきながら、籐藤はポケットの名刺入れに手を伸ばす。大久保は何度も頭を下げながら名刺を受けとった。
「警察の方が佐田本さんに御用ですか。特に事件に関わっているとは思えませんが」
「いえ。成り行きでこうなってしまっただけです。その成り行きってやつも……面倒なので説明は省かせてください」
「はぁ」
「で、おめ何しに来ただ」
岩城は嫌悪感を隠すことなく、あごと口を尖らせた。岩城は聖ブリグダ教団派。そしてこの大久保は特秘委員会派だ。互いに互いを敵視しているのだろう。
「佐田本さんが祈年祭に来るって聞いたから、いっしょに行ってやろうと思って来たんだ」
「はー。あまくせごとしかさね。おめが出る幕じゃねぇ。佐田本さんはわが連れていくんだ。佐田本さんの面倒を見るのは近所のもんって決まってんだ」
「なんだと。おめ殺してやろうか」
「おぅ。殺してみろ。やってみろ。家でうさぎさ死んでピーピー泣いとったじぐなしにできるか?」
「んな……わらじん頃の話もち出すやつが――」
「さしねじゃ!」
雷が落ちた。落としたのは佐田本老人だ。見ると佐田本はうっすらと目を開けて岩城と大久保をにらみつけていた。歯のない小さな口を開け、灰色に近い舌がびくびくと動いていた。
「なんぼさしねわらさどきゃ。わっつどへんかすぞ!」
籐藤と法律は佐田本の言葉の意味が理解できず、ただぽかんとしていることしかできなかった。だがその言葉の意味を理解できる岩城と大久保はそうはいかなかったらしい。彼らはふたり揃って頭に手を置くと、子どものように悲鳴をあげながら、玄関を飛びだしていった。
佐田本は満足したのか、目を閉じてロッキングチェアを揺らし始めた。籐藤と法律は視線を交わし、仕方なしといった様子で首をふる。
「佐田本さん。これで失礼します」
籐藤が頭を下げると佐田本は『んー』と老いた獣のようなうなり声を発した。
4
2021年 2月 20日 土曜日 11時 09分
佐田本の家の前で、岩城、大久保、そしてもうひとりゴボウのように細長い体躯の男が額を付き合わせて口論をしていた。岩城と大久保が対立して唾を飛ばし合っているらしく、もうひとりの男はふたりを宥めようと苦心しているようだった。
三人は佐田本家から出てきた法律と籐藤に気づいた。岩城は気まずそうに顔をしかめると、もうひとりの男の脇を小突き、ふたりでその場を去っていった。
「あれが江竜です」大久保がふたりの背中を見ながら言った。「昔とかわらず金魚のフンみたいに岩城に付いて回って。いい歳をしてみっともない。岩城は子どもの頃からせっかちで、宿題をするのも、メシを食うのも、ぱっぱと終わらせる落ち着きのないやつなんです。そんな岩城に置いていかれまいと、根がとろい江竜はいつも必死になって……」
「江竜さんも、聖ブリグダ教団と親しいと聞きましたが」
籐藤はコートから手袋を取り出して装着する。
「えぇ。だけど問題があるのはやっぱり岩城です。これは秘密ですけど、最近岩城は山の上の教会に足を運び始めたそうなんです」
「入信したというわけですか」
「どうでしょう。今も岩城にそのことを問い詰めたのですが、勉強会に参加しているだけで、入信したわけではないと言い張ってました」
「大久保さんはどうなのですか。あなたは、特秘委員会と親しいと、風の便りに聞きましたが」
「わたしを彼らといっしょにしないでください。わたしの態度は消極的です。どちらかといえば特秘委員会に与するといった程度です。わたしは子どもの頃から科学が好きで、科学の使徒を自認しています。世の中の奇怪な現象に科学的なアプローチを施す特秘委員会に親近感を覚えるのは当然のことでしょう」
「勉強会に参加するほどでもなければ、ましてや銀色タキシードなどもってのほかというわけですか。ですがわかりませんね。梶谷親子のように、中立的な立場という選択肢はなかったのですか」
「ありません。あんな謂れのしれないボロ人形を後生大事に持っておく道理はないでしょう。村の中には、あれが何か分からないくせに、神社にある神聖なものだからって理由でありがたがる者がいますが、まったく嘆かわしい話です」
「菅原さんも、大久保さんと同じ考えだったのでしょうか」
法律はダウンジャケットのポケットに手を入れながら訊ねる。大久保は口を半開きにして、眉をひそめた。
「殺された菅原さんも、大久保さんと同じく、消極的に特秘委員会に与していたのでしょうか」
「いえ。あいつは……少し異常でした」
「異常ですか」
山から吹き下ろす冷たい風が籐藤の首筋を撫でた。
「あいつは特秘委員会にのめり込んでいました。彼らが来る前はそんなやつじゃなかったのに。特秘委員会と言葉を交わしているうちに、この世には人智を越えた存在が溢れていると考え、怯えて、この世の安寧を守るためにも一刻も早く『御人形様』を特秘委員会に管理してもらわねばと、よく口にしていました。あの、お二人は警察の方だと岩城から聞きましたが、青森県警の方……ですか?」
「ひょっとして、発音ですか?」
籐藤は警察手帳を差しだし、開いてみせた。籐藤のバストアップの写真と並び、所属部署が記載されている。
「警視庁。東京の方ですか。やはりこれほどの大事件ともなると、警視庁も捜査に乗り出すんですね。うん。東京の方なら信じられる。刑事さん。実はですね、菅原のやつ、事件前日におかしなことを言っていたんですよ」
「おかしなこと?」
「『もうすぐすべてが終わる。四月なんて待っていられない』って」
「……それは、青森県警には伝えましたか」
「いいえ。むかし、青森市内で警察官の無礼な職務質問にあいまして、それ以来県警のことは嫌いなんですよ。だから彼らには言わなかったのですが、東京の方になら言えます」
「四月とは、管理組合で行われる御人形様の譲渡先を決める投票のことでしょうか。法律。どう思う」
籐藤が訊ねると、法律はこめかみに指を当て、小刻みに叩き始めた。
「わかりませんね。一度、特秘委員会をつついてみましょうか」