第五章 潜入調査(あるいは再会)
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2021年 2月 19日 金曜日 19時 18分
うす暗い室内で、縛と苺刃は立ったまま向かい合っている。禍々しい角が側面から生えたテーブルに着くでもなく、天蓋付きのベッドに腰を降ろすでもない。床に腰を降ろすのだって、選択肢のひとつとしてはありだろう。どちらかが『座りましょうか』と口にすればそれだけで成人女性が言葉を交わすにふさわしい場面が生まれるというのに、このふたりはプレーリードッグのように突っ立ったままだ。
「お兄さんに言われた通り、黒いローブを着てよかったです。これっぽっちも疑われることなくすんなりと通してもらえました」
はたして苺刃の言う通り『すんなり』なる副詞が千来田イヴリンの瞳の色に適しているのかは疑いが残る。そもそも縛は、聖ブリグダ教団とはまったく関係のない者としてこの教会を訪ねてきた。その関係者(使用人)が教団員と同じ黒いローブを着て訪ねてくるなどどこかおかしな話なのだが、苺刃が訪ねた時点では既に縛は巫女様であり、その従者が黒いローブを着ているのは至極当然だと入り口にいた教団員は思いこみ、苺刃を教会内に入れたのだろう。
「探偵さんの捜査に協力できて光栄です。不肖わたくし苺刃柚乃、縛さんの手足となって働きますのでどうかよろしくお願いします」
「いちごば……ゆの? どんな漢字?」
「『ストロベリーブレード』に『柚子』の頭。それと『及第点』の『及』から右はらいを取ったやつです」
「すごい。すごいすごい。苺に柚子なんて、なんてかわいらしい名前なの!」
縛は苺刃の手を取り、ウサギのようにその場で跳ねる。つられて苺刃も上下に揺れた。
「う、う、うらやましい。わたしなんてさぁ、恒河沙で縛だよ? 堅苦しいとかっこ悪いの二重奏。何年か前にかわいらいしい名前に改名しようとしたけど、先生に反対されちゃって結局『縛』のまま。『名は体を表すから』だってさ。失礼しちゃうよね」
先生とは学校の教師のことだろうか。そんなことを考えながら苺刃は『うんうん』とうなずく。
「でも……縛って名前も個性的ですてきだと思いますよ。それに、ねぇ。聞いちゃいました。お兄さんには『しぃちゃん』って呼ばれているんでしょう。『しいちゃん』。かわいらしいじゃないですか」
「え、やだ。ほぅ兄。人前で……本当に? 本当にかわいらしいかな。うん。自分でもそのあだ名はね、なかなか悪くないなって思ってるの。えっへへ。いやでも、ストロベリーな柚子っこっちゃんもかわいいよ」
「えっへっへ。そうですか。えっへっへ」
「えっへっへ。あ、クッキー食べる?」
「えっへっへ。いただきます。あ、おいしい」
「わたしも食べちゃお。でもよかった。柚乃ちゃんのような優秀な刑事さんとお仕事ができるなんて光栄です」
「え。わたし、刑事ではありませんよ」
「捜査第一課の刑事さんじゃないの」
「総務部です。主に県警本部長の秘書係を。ハッキリ言って、場違いにもほどがあります。でも大丈夫。縛さんはお若いのに優秀な探偵さんで、これまでもいくつもの難事件を解決してきたとお兄さんから聞いています。縛さんとご一緒ならどんな謎も快刀乱麻を断つ勢いで解くことができる気がします」
「え。わたし、事件を解決したことなんて一回もないよ」
「名探偵さんではないのですか」
「へぼ探偵だよー。頭は悪い。物覚えも悪い。探偵なんてガラじゃないんだよぉ」
「えっへっへ。へぼ探偵ですか。参りましたね」
「えっへっへ。秘書さんですか。参りましたね」
口ではそう言いながらもふたりの内心には共に楽観が満ちていた。
苺刃の楽観はこうだ。恒河沙縛はへぼ探偵を自称するがそれは謙遜に過ぎない。籐藤剛巡査部長は警視庁刑事部捜査第一課の刑事だ。日本一の刑事と言って過言ではないだろう。そんな日本一の刑事と行動を共にする探偵、恒河沙法律。日本一の刑事が行動を共にすることを認めたということは、これもまた信用に値する日本一の名探偵ということ。そんな名探偵が信用するのが、自身の妹であり眼前でクッキーを二枚に重ねてハムスターのように頬張る恒河沙縛なのだ。これが探偵として優秀でないわけがない。
では何故縛は『事件を解決したことがない』などと矛盾するようなことを言ったのか。つまりそれは謙遜なのだ。『事件を解決したことがない』とは正しくは『事件を(自身が納得する形で)解決したことがない』という意味なのだ。悪魔的知能を以って名探偵を翻弄する真犯人。ひとり、またひとりと犯人の毒牙にかかる被害者たち。名探偵は拳を床に叩きつける。熱い涙がこぼれおちる。『わたしにもっと力があれば……!』。そうだ。そうに違いない。『事件を解決したことがない』とはそういう意味なのだ。一瞬、苺刃の脳裏に『恒河沙法律は妹に激アマ採点をつけるシスコン野郎』という可能性がよぎったが、まぁそんな馬鹿げた真実はないだろうと一蹴する。
一方縛の楽観はこうだ。苺刃柚乃は総務部の秘書係を自称している。まぁ、それは嘘ではなかろう。だが秘書係であることと捜査能力が欠如していることは相反するわけではない。考えてもみよ。何故、秘書係の人間がこの留守部村にいるというのだ。秘書係といえばその名の通り、警察組織のキャリア組の業務をサポートするのが主な業務のはず。殺人事件の現場に赴き捜査に参加するなど秘書係の業務であるはずがない。だが苺刃柚乃にはそんな例外が許されている。それは苺刃柚乃が難事件を解決する能力に長けた警察官だからだ。秘書係でお茶を汲み電話対応に明け暮れる毎日。だがひとたび難事件が起きたとなれば、現場に飛びだし灰色の脳細胞がフィーバーフィーバー。百戦錬磨の刑事たちが驚愕するロジックを組み立て、犯人を追いつめる秘書係の警察官。それが苺刃柚乃なのだ。一瞬、縛の脳裏に『苺刃柚乃は何でも安請け合いする軽率な警察官』という可能性がよぎったが、まぁそんな馬鹿げた真実はないだろうと一蹴する。
「えっへっへ」
「えっへっへ」
「えっへっへ。あ、このクッキーおいしいですね」
「えっへっへ。ね、本当に」
2
2021年 2月 19日 金曜日 19時 30分
「失礼します。巫女様、お食事の時間です。よろしいでしょうか」
ドアの外から千来田イヴリンの呼び声がする。縛が入室を許可すると、ドアが開き配膳車を押しながら千来田が入ってきた。
「積もる話もあるでしょうから。今日はおふたりで食事をなさってください。ただし、明日の朝食からは使用人の方は他の教団員と同じく一階の食堂を使っていただきます」
「あ、はい。あの、しば……違う。お嬢様も普段はその食堂で?」
苺刃が訪ねる。千来田は配膳車からトレーに乗った夕食を取り出しながら、あざけるように笑った。
「まさか。巫女様は聖ブリグダ神と繋がり得る特別な存在です。一般の教団員たちが食事を共にするなど恐れ多い」
「あっはっは。そうですね。恐れがいっぱい」
千来田が去り、ふたりは側面に角が生えたテーブルに向かい合って着いた。『いただきます』と両手を合わせて食事を始める。
「それで、何から始めます」
スープの入ったカップを取りながら苺刃が訪ねる。黄色味のあるスープの中には、小指の爪程度の大きさにカットされた人参とトウモロコシがごろごろと沈んでいた。
「法律さんは、神社で起きた事件について教団の内側から探るよう言ったんですよね。ですが事件は神社で起きたわけですし、この廃校舎……じゃないか。教会の中を調べまわったところで、事件につながることなんて何もわからないんじゃないですか」
「おっと。柚乃ちゃんは大事なことを忘れているみたいだね」
縛は千切ったロールパンを両手で円を描くように振りまわす。その表情は得意げだ。
「事件の凶器は聖ブリグダ教団の儀礼用のナイフだった。まずはこの儀礼用のナイフがこの教会でどのように保管されているのかを調べてみようよ。わたしは『巫女様』である以上、この部屋をホイホイと出るわけにはいかないから、柚乃ちゃんで調べてみて」
「わかりました。やってみます」
「そうだ。事件とは関係ないんだけどさ、柚乃ちゃんって、わたしがここに来た理由って聞いてる?」
「お世話になった方のお母さまを連れもどしにきたと」
「正解。宮野美穂さんっていうの。祈年祭が無事終わったら、会わせてくれるって千来田さんと約束しているの。柚乃ちゃんも宮野さんを探してみて」
「先制パンチってことですね。わかりました」
食事の量は女性ふたりでたいらげるにはあまりに多く、そのほとんどを残すことになった。ナイフとフォークを置いたタイミングで、見計らったかのように千来田が現れた。千来田は皿の上に残された料理を見て、不機嫌そうに顔を歪めた。
「巫女様。従者の方のお部屋が用意できましたのでご案内させていただきます」
「従者って。え、わたしですか。あの、ご配慮いただきありがたき幸せですが、別にわたしはこの部屋でも構いませんのでお気遣いなく」
「……ずいぶんと仲睦まじい主従関係のようですね。ですが、他の教団員たちの手前、巫女様のお部屋を相室にするわけにはいきません。よろしいですね、巫女様」
「え、あ、はい。よきにはからえ、です」
「では、外に案内役を待たせておりますので」
それだけ言って、千来田は黙りこんでしまう。言葉を続けるでも、苺刃と一緒に部屋を出るでもない。『巫女様とふたりになりたいからお前は出て行け』と言わんばかりだ。
だがこれはそれほど悪い事態ではないと苺刃は考えた。
第一に、千来田は自身を訝しんでいる。そんな彼女と離れられるのならば、それは利点といえよう。
第二に苺刃の現在の目的は教団の儀礼用のナイフについて調べることだ。そのためにはこの教会内を自由に歩き回る必要がある。用意された部屋はもちろん、『使用人』である以上、主人である『巫女様』の部屋へ赴くのは自然なことである。ナイフについて調べるため教会内をうろついていて、咎められたとしても『迷ってしまった』と言い訳ができる。
苺刃は大人しく部屋を出た。ドアを開け廊下に出るまで、千来田の槍のような視線を背中に感じていた。
廊下に出ると、ドアの前に金砕棒を持った大男がひとり。そして男から少し離れて、ふくよかな体型の教団員が立っていた。『ご案内します』と粘度のある声で言う。女性の声だ。身にまとう黒のローブも大きく、苺刃は中身がたっぷりとつまったビニール袋を連想した。
「どうも、お世話になります。苺刃と申します。巫女様? の、使用人です」
苺刃はちぐはぐとした自己紹介をする。教団員はフードの内側でほほえんでから歩き出した。
「苺刃さんのお部屋は一階にございます。他の教団員との相部屋ですがご容赦ください」
階段の手前で教団員が言う。
段差に足を置いて降りようとしたその時、苺刃の耳に後方から叫び声が聞こえた。人間のものではない。人間が出せる声ではない。歪なビブラートがかかった重低音が二、三秒だけ続き、何事もなかったかのように静まり返る。
「驚かれたでしょう」
教団員の女は、口を半開きにする苺刃に言った。
「な、なんですか。今の声はいったい」
「この教会にはあらわなる次元から起こしになった化身様がいらっしゃいます。聖ブリグダ神の身体の一部が、一時的な次元にて顕在化されたお姿。千来田様が青森支部の守護神としてお呼びになったそうです」
「化身様、なんだか機嫌が悪そうでしたね」
「めったにお吠えになることはないんですけどね。何か気に喰わないことがあったのでしょうか」
教団員は苺刃を一瞥してから階段を降り始めた。苺刃は何度もふり返りながら後に続く。
案内された部屋はかつて一般教室として使用されていたであろう部屋で、室内には質素なパイプベッドが所狭しと並べられていた。ベッドに腰を下ろし読書に励むものもいれば、ベッドの間の狭い通路に両ひざをつき、目を閉じて祈りの言葉を唱えているものもいる。夕食を終えてそれぞれの自由時間を謳歌しているようだ。
苺刃には廊下側のベッドが与えられた。その後、食堂やトイレ、共同浴場など簡単な案内を受けてもう一度寝室にもどってきた。案内役に感謝を告げると、彼女は深く頭を下げてから去っていった。
「さて。どうしようかな」
ベッドに腰を下ろし、腕を組んで思案する。これから自分が為すべきことは、殺人事件の凶器として使われた儀礼用ナイフについて調べることだ。しかし、警察学校を卒業後、秘書係に配属されお茶汲みと電話対応と笑顔をふりまくことに明け暮れてきた苺刃に、捜査第一課の刑事たちに匹敵する捜査能力はない。そんじょそこいらの刑事ドラマ愛好家の方が上といっても過言ではない。
だが彼女には責務を果たす意志はあった。任せられた以上『わかりません』と『できません』の合わせ技で投げ出すつもりはなかった。では、どうすればよいのか。わからなければ訊けばいい。訊いてできれば、それでいい。
ということで。
「あの、すみません」
苺刃は隣のベッドに座る教団員に声をかけた。
「儀礼用のナイフってどこにあります」
尋ねられた教団員の手から、読んでいた本がばさりと落ちる。
「こっちに来て」
教団員の女は苺刃の手を取り部屋を出ると、うす暗い廊下を重機のような勢いで進んでいく。
「あなた、新入りね。だいじょうぶ。わたしにまかせて」
「あ、あの。そんなに急がなくても……」
「急がなくてはダメなのよ。まったく。オリエンテーションの担当は誰。ローブをもらうときに受けとらなかったの」
「あ、いえ。受けとってないです。待ってください。ナイフって、わたしもらえるんですか」
「当然でしょ」
あっけらかんとした表情で女は言う。
「教団員は所持を義務付けられているの。ほら、わたしも」
女はローブの内側に縫い付けられたホルスターをみせた。ホルスターには、例の歪な装飾のナイフが収まっている。
「『ナイフ』なんて野蛮な言葉はだめ。軍人が使う人殺しの道具じゃないんだから。これの名前は『第六腕』。聖ブリグダ神の腹部に生えた無数の第六腕は、サメの歯みたいに何度も生え変わるの。あらわなる次元を訪ねた眠り巫女は抜けた第六腕を聖ブリグダ神から授かり、一時的な次元に持ち帰るの。つまり、第六腕とは聖ブリグダ神の身体そのものであり、それを持つものには聖ブリグダ神のご加護が与えられるというわけ。ほら、ここよ」
女は木製のドアを石のように丸めた手で叩いた。ドアがきしむ音が響きわたる。
「ちょっと失礼。急ぎの用なんだけれど。誰かいらっしゃる」
口調こそ丁寧だが、所作は乱暴だ。ドアが開き、丸眼鏡をかけた男が怯えた表情で出てきた。
「何度もドアを叩かないでくださいよ」
「ごめんなさい。緊急だったものでしてね。この子新入りなんだけど、第六腕を受けとらなかったらしいの」
「えぇ。本当ですか。ううん。わかりました。ほら、入って」
男に促されふたりは部屋に入る。左右の壁から圧迫感を覚える縦長の部屋だ。手前にデスクトップのパソコンが置かれたカウンターがあり、その後ろには三列のスチールラックが部屋の奥へと伸びている。
「ここは儀礼道具の倉庫でね。教団の儀式で使う道具などはほぼすべてここに保管されている。もっとも、担当者の許可なしで持ち出すのは禁止だから、必要なものがある場合は担当者に依頼してくれ。じゃ、ちょっと待ってて」
男はスチールラックの最下段から、鉄製の箱を引きずりだした。箱が乗っていた棚から数センチ下の床に落ちた際に、中のものがガチャリと触れ合う音を立てた。
鉄製の箱は施錠されていた。男は手元を隠しながらダイヤル錠を開けた。苺刃がカウンター越しに背伸びをしてのぞきこむと、箱の中にはホルスターに収まった儀礼用ナイフが数十本ほど入っていた。
「じゃ、これがきみの第六腕だ」
男はホルスターごとナイフを苺刃に差しだした。苺刃はぺこぺこと頭を下げながらそれを受けとる。
「あの。これって、神様の腕、なんですよね」
「勉強しているね。聖ブリグダ神の第六腕。眠り巫女があらわなる――」
「それはさっきわたしが教えた」
女が男の口上をさえぎる。
「神様の腕って、そんな貴重なものがどうしてそんなに沢山あるんですか」
苺刃がダンボールの中に詰まれたナイフの山を指さした。
男は丸眼鏡を不自然に上下させながら『あーそれは』と小さくつぶやく。
「聖ブリグダ教団は世界中に支部があると聞きました。それなのに、日本の隅っこの青森にこんなにも貴重なものが大量にあるなんて」
「それは違うよ。これは決して珍しいものではないんだ。聖ブリグダ神は新陳代謝が早いんだ。第六腕はものすごい速さで生え変わる。だからここにもこれだけの数があるってわけさ」
苺刃はナイフを手に取り、まじまじと見つめて見た。先端に小さな宝石のついた二本の鍔。柄には琥珀色のプレートが貼られ、そのプレートには聖ブリグダ神の姿が描かれたメダルがはまっている。柄底からはブロンズ製の無数の触手が伸びていて、ホルスターに収めた時に、ローブの内側でおさまりが悪くなりそうだ。
変わった意匠ではある。だが、その気になればこの程度の道具はそんじょそこいらの町工場でも造れる。おそらく、どこかのナイフ工場に大量発注をかけているのだろう。
「気をつけて。刃は本物だ。スパッと切れるから、儀式の時以外は抜かないように」
「はい。知っています。ところでこれ、無くしたらどうすればいいんです」
「物騒なことを言うね。無くしたりしたら大問題だよ。まぁ儀式に必要な道具だから再支給はされるけど、少なくともきみが無くしたという記録はこの教団のデータの中にしっかりと残る。そして、そんな粗忽者は確実に昇格試験には受からない。教団内での出世の道は絶たれるだろうね」
「ここ最近、ナイフを再支給された方がいらっしゃいますか」
「まさか。青森教会開局以来、そんな大馬鹿者はいないよ」
苺刃は倉庫を出て寝室にもどった。倉庫まで連れていってくれた女は話し相手ができてうれしくなったのか、ぺちゃくちゃと自身が教団に入った経緯を語ってくる。相手の不信を買わないよう会話に付き合ったが、やがて消灯時間になり室内の照明が消えた。
固いベッドの上で苺刃は思考を整理した。
菅原久を殺害したナイフと同じものが、この教会の中に大量に存在する。そのナイフは教団員に一本だけ支給される。ナイフは携帯することを義務付けられ、再支給される場合はその記録がデータに残る。
そして、菅原久を殺したナイフは現場に残されていた。
つまり、ナイフを所持していない教団員がいるとすれば、それが菅原久を殺した犯人ということではないだろうか。
「あ、そうだ。あの。宮野さんって方がここにいるはずなんですけど、ご存じですか」
「宮野?」
教団員の女は自然に首をふった。
「それは、留守部村のひと? わたしたちは何年も前から教団に勤めていてね。新参者のことはよくわからないよ。宮野ってひとに用があるの」
訝しむように女が訊ねた。苺刃はつき出した両手をはげしく振り、『いえいえいえ』とくり返した。
「ここに来る途中で、村の方に宮野さんのことを聞きましてね。親切なひとだから教会に行くなら宮野さんを訪ねなさいって。それだけ、それだけです。はっはは」
3
2021年 2月 19日 金曜日 20時 15分
「では、明日のスケジュールを説明させていただきます」
千来田は手帳を持ち上げ、一度咳ばらいを挟んだ。
「十時にサー・モントゴメリーがここ青森教会に到着されます。到着後すぐに十一時頃まで簡単なミーティングを行い、十一時半に早目の昼食。儀礼服に着替えていただき、十二時半にここを出発。十三時から十四時半まで白山神社で祈年祭が行われます。サー・モントゴメリーとわたしは祈年祭に参加しますが、巫女様には祈年祭の間、神社の裏にある空き地で強化の儀式を行っていただきます」
「強化の儀式?」
天蓋付きのベッドに腰を下ろしていた縛は、右手を高々と掲げた。
「質問です。それってどんな儀式ですか。神社の中でやる祈年祭とは何がちがうんですか」
「それに答えるためには、まず祈年祭について説明した方がよろしいですね」
千来田はローブの内側からスマートフォンを取りだし、器用に操作し始めた。
「『祈年祭。春の耕作はじめに行われる新道の宮中祭祀。五穀の豊穣を祈念して供え物をする大御饌の儀と、天皇陛下からの御奉納品が田畑の神に奉献される奉幣の儀が行われる』と、世間一般ではこのように信じられております」
千来田は苦々しさと愉悦の感情が綯い交ぜになった表情を見せた。
「これは、聖ブリグダ教団を敵視する異教徒たちが流布した嘘偽りに過ぎません。祈年祭は遥か昔よりこの国で行われており、その祈りを捧げる相手は田畑の神ではなく、聖ブリグダ神だったのです。残念なことに、当時この日本という国では教団の勢力は弱く、私腹を肥やすことに邁進する悪辣卑劣な権力者の手により、祈年祭は田畑の神という至極曖昧なものに向けて催されると改悪されました」
「いつの世も為政者は最悪なんですね」
「おっしゃる通りです。多くの御用学者が、『祈年祭は聖ブリグダ神のための祭祀ではない』と主張しています。ですがこれが主張として脆弱であることは火を見るよりも明らかです。というのも――」
千来田はローブの内側から手帳を取り出すと、そこに挟まれている一枚の紙を縛に見せた。
「これは祈年祭で唱えられる祝詞です。祝詞は大まかに十二の編に分かれており、その諸所で聖ブリグダ神の教えについて明記しているとしか思えない記述がみられるのです。例えばここ。三つ目の編に、『御年の皇神の前に、白き馬・白き猪・白き鶏、種々の色の物を備へ奉りて、皇御孫の命のうづの幣帛を称へ辞竟へ奉らくと宣る』とあります。大まかに申しますと、白い馬、白い猪、白い鳥を供物として備えろという意味です。聖ブリグダ教典第八章には、『遥か古代、聖ブリグダ神の存在に救済を見出した多くの動物が、聖ブリグダ神と一体化することを求めてその身を捧げた』と記されてあります。『多くの』動物という以上、そこに馬、豚、鶏といったポピュラーな動物が含まれることは当然のこと。そして祝詞で三匹の動物が『白』と明言されているのは、聖ブリグダ教団のコーポレートカラーである『黒』と真逆の色を装飾することで、聖ブリグダ教団という真理の存在を恐れた権力者が『この祝詞は聖ブリグダ教団とは無関係である』と主張することを可能にしたのです。次にここをご覧ください」
千来田はまた祝詞の別の個所を指さした。
「『四方の御門にゆつ磐村の如く塞がり坐して、朝には御門を開き奉り、夕へには御門を閉て奉りて、疎ぶる物の下より往かば下を守り、上より往かば上を守り、夜の守り・日の守りに守り奉るが故に、皇御孫の命のうづの幣帛を称へ辞竟へ奉らくと宣る』とあります。四方の門に立ち、朝も夕方も、空からも地面からも悪しき存在が襲いかかってこないようお守りくださいという意味です。四方の門とはなんでしょう。語るまでもない。聖ブリグダ教団の本部には東西南北四つの入り口があります。これは教団に古くから伝わる『四方、つまりどこの国から来たものにでも門戸は開かれている』という思想を実体化したものであり、遥か昔より教団の理想的な建築様式としてその思想は受け継がれてきました。門が開かれている以上、敵もそこからやってきます。そんな敵が聖ブリグダ教団の建物に入ってこられないようお守りください。この祝詞にはそのような意味があるのです」
縛が何かを言いかけたが、千来田はそれを遮るように刻みよく言葉を続けた。
「朝と夕、というのもこの祝詞が聖ブリグダ教団の教えに従ったものであることの証拠となります。なぜ朝と夕方にだけ神の守護を願うのでしょう。昼と夜にはどうして神の守護を必要としないのか。簡単なことです。太陽の光は、朝は朝陽として、夕方は夕陽として、人間の視線の高さにまで昇り、降りてきます。この時間の間は、太陽の光に照らされ、ひとの眼はものを見ることができなくなる。つまり、もっとも無防備になるのがこのふたつの時間帯なのです。昼は太陽が頭上にあり、その光が目をくらませることはありません。この時間は神々の守護を必要としないのです。ここまでは至極当然。ですが、夜は? なぜこの祝詞は、夜の神々の守護を必要としないのでしょう」
千来田はここで口を閉ざした。愉悦に満ちた両目を開き、訊ねるように首をかしげる。
縛は考えた。夜はどうして神々の守護を必要としないのか。夜。夜。夜と言えば――
「夜はみんな眠っているからじゃないですか」
『敵も夜は眠るので攻めてくることはないので』と続けようとしたが、その声に被さり千来田が『エクセレントオ!』と大声で叫んだ。
「あぁ。さすがは巫女様。わたくしがご教授するまでもなく、聖ブリグダ神の教えを十全に理解しておられる。当然、当然です。あなたは巫女様。あらわなる次元に訪ねられ、神々とのコンタクトを果たされた、ひとにしてひとにあらざるもの。巫女様は聖ブリグダ神から、ハグドの神から、その他多くの神々から直接教えを授けられていらっしゃるのです。すばらしい。あぁ、すばらしい」
千来田は両手を叩きながら大粒の涙を流し始めた。縛はそんな千来田を引きつった笑顔で見つめる。
「その通りです。夜は我ら人の子は眠りにつきます。眠りにつくと、われらは『夢の赤子』と化し、一時的な次元を離れその精神だけがあらわなる次元に運ばれる。夢とはこの精神体験のことなのです。夢で見る摩訶不思議な光景とは、広大なるあらわなる次元の一部を人間の精神がさまよっている時に見た景色なのです。つまり眠っている間われわれは、あらわなる次元におわす神々の加護を受けていることになるのです。だから夜の間は神々の守護を必要としないのです」
縛は一瞬、正直に自身の解釈が間違っていたと口にしようとした。しかし、千来田の目を見て止めた。止めたというより、止めざるを得なかった。
千来田の両目は涙で赤く充血し、瞼は乱暴に調理された貝のように大きく開かれていた。そんなふたつの目が、白い歯を見せて愉悦に歪む表情の上で踊っている。今ここで彼女の意を害する発言をしたらどうなるのか。縛の危機管理能力は全体重をかけてブレーキを踏みこんでいた。
「他にも祝詞には祈年祭が聖ブリグダ神に向けられたものであることを示す記述が沢山ありますが、キリがないのでこれぐらいにしておきましょう」
千来田はローブの袖で涙を拭い、一度大きく深呼吸をして息を整えた。
「ですが、残念なことに聖ブリグダ神の教えを理解しない多くのものが明日の祈年祭に参加されます。また、聞くところによると、特秘委員会は祈年祭を妨害せんと何やら策を講じているそうです。彼らの妨害が成功し、我らの祈りがあらわなる次元に届かない可能性はゼロとは言えません。ですので、巫女様には祈年祭の祈りを確たるものにする、強化の儀式を行っていただきたいわけです」
「でも……わたし、そんなのどうやってやるのか知りません!」
「ご安心を。細かい所作は周りの者が行います。ハグドの儀式と同じく、巫女様は合図があったら心の中で祈りつつ、鈴を鳴らしてください。巫女様がなさるのはそれだけです」
「千来田さん。ひとつ、聞いておきたかったことがあります」
縛は膝の上の拳を軽く握りしめる。少しだけ声色を下げ、両目を細めた。
「わかっているはずです。わたしは聖ブリグダ教団の巫女ではありません。ただの……どこにでもいる一般人。それなのにあなたは、わたしを見て『巫女様』と崇めた。あなたはわたしを『巫女様』として教団の皆さんに同じ様に崇めさせ、教団の結束力を高めることに利用している。それって、詐欺でしょう。千来田さんの良心は痛まないのですか」
「誤解をなさっているようですね」
縛の非難を物ともした様子もなく、千来田は赤子をあやすような朗らかな笑顔を見せた。
「巫女様。あなたは本当の巫女様です。表層のあなたは、深層に眠る『巫女』というあなたの本質に気づいていないだけ。わたしには見えます。あなたの本当の精神……本当の姿……あらわなる次元におわすあなたの姿は人間のものではない」
千来田は足音を立てず縛に近づく。ベッドに座る縛に向かい、腰を曲げ、鼻と鼻が触れ合いそうになるほど顔を近づける。ひとたびのまばたきも挟まずに、千来田は縛の両目を見つめた。縛の黒い目が千来田の青い目を見つめ返す。縛は動じない。墨のように黒い瞳が渇いていく。それでも動じない。閉ざさない。彼女は戦っていた。挑んできたのは相手だ。逃げるわけにはいかない。縛は、強く、意志を、保ち――
「わたしがお訊ねしたいくらいです。巫女様」
千来田は縛のほほに手を置いた。白く細い手が縛の皮膚細胞を凍らせる。それでも縛は動じない。反撃を続ける。脳裏であの男の言葉を反芻する。意志をもて。存在をもて。そこに実在すると、自己で叫べ――
「あなたはいったい何者なのですか。どうしてそんなにも偉大なるオーラを放っておられるのですか。あなたには他の者が持たない不思議な力がある。わたしはそこに神性を見出しました。あなたならきっとこの世を変えてくださる。エゴに満ちたごみ溜めのような、この一時的な次元を浄化してくださる。そう信じて、わたしは……」
縛のほほから千来田の手が離れる。無言のまま千来田は部屋を出て行った。
取り残された縛は、一度大きく息を吐いてから、ベッドの中からクッキー缶を取り出す。
「本当に、へんな人だなぁ……」
4
2021年 2月 19日 金曜日 22時 11分
聖ブリグダ教団青森教会における消灯時間は午後十時だった。この時間になると、教団の組織図において最も位の低いスターⅣ――宵星――は、自身のベッドで眠りにつくことが義務付けられている。
だが何事にも例外はある。例えば一階の正面玄関。かつては小学校の昇降口と呼ばれていたこの場所には、木製の靴棚の間に学生机が置かれ、そこにひとりのスターⅣが寝ずの門番を務めている。他にも、深夜帯に儀式が行われる際は、そのために起き続けることが許されるスターⅣがいる。つまりは、何も用がなければ眠らなければいけないが、何か用があるならばその限りではないというわけだ。
彼もまた、『その限りではない』ひとりだった。
「ん? おい止まれ」
男は壁に立てかけていた金砕棒を取り、廊下の曲がり角に現れた相手に声をかけた。
「わたしです。巫女様の使いです。部屋にいれていただけますか」
苺刃はフードを下ろし、軽く首をすくめてみせた。金砕棒の男は小さなうなり声を発した後、巫女様がいる角部屋のドアをちらりと見た。
「だが巫女様は眠っておられるかもしれん。おいそれと声をおかけして起こすわけにはいかん」
「そんな心配しなくても」
「ならんっちゃぁならん。あしたは大事な祈年祭。巫女様にはしっかり眠って胆力をたくわえてもらわにゃ。い、いや。もしここでお前を返して巫女様の機嫌を損ねたりしたらどうする。この女を返して何か問題が起きたら、その責任はおれにあるのか。あの幽霊もそう言っておったな。ううむ。どうしたものか」
金砕棒の男は、自分で言って自分で反論し自分で悩みだした。覚悟を決めたのかドアを叩く。中からすぐに返事がして、男は『うひゃぁ』と驚嘆の声を出した。
苺刃が室内に入ると、縛は落ち着かない様子で室内を縦横無尽に歩き回っていた。苺刃の姿を見ても、その歩みを止める様子はない。
仕方なしに苺刃は縛の横に付きいっしょに歩き回る。『止まらないのですか』と苺刃が尋ねる。『歩きながら考え始めたら止まらなくなっちゃった』と縛は返す。
「ナイフについて分かったことがあります」
苺刃は自身が調べてきたことを伝えた。縛は歩く速度を上げた。
「現場で発見されたナイフには被害者の血液が付いていました。遺体の傷跡とナイフの刃の形状も一致しています。凶器があのナイフであることは間違いありません」
「ナイフを持っていないのが犯人……だけど、そんなのどうやって確認すればいいんだろう。ひとりひとりに『すみません。あなたのナイフを見せていただけますか?』なんて訊ねるわけにはいかないし」
「まぁいいじゃないですか。方法はともかく方向は見えてきました。ナイフ、ナイフ、ナイフです。ナイフを無くした教団員がいればその人が犯人です。しばらくはナイフに意識を向けましょう。籐藤刑事にメールでナイフのことを伝えておきます」
「うん。わかった。ねぇ柚乃ちゃんは、明日はどうするの」
「どうするとは? 使用人ですので、『巫女様』にべったり金魚のフンのごとく付いて行く所存ですが」
「わかった。そしたら、明日のスケジュールを教えておくね」
縛は苺刃に、千来田から伝えられた明日の予定を伝えた。苺刃は、祈年祭のくだりのあたりで顔をしかめ始めた。
「村に行くんですよね。まいったな。わたし、ここに来るまでに何人か村のひとに会いました。黒いローブを着ているのを見られて『なにをしているんですか?』なんて声をかけられたら面倒なことになりそうです」
「しっかりフードを下ろして顔を見られないようにすれば大丈夫だよ。ところで柚乃ちゃん。さくらちゃんのお母さんに会った?」
「宮野美穂さんですよね。いえ、今のところはまだ。よくしてもらった教団員の方に宮野さんのことを聞いてみましたが、宮野さんのことは知らないようでした」
「心配だな。あのね、これ前に食事を運んできてくれたひとから聞いた話なんだけど」
縛はぴたりと歩みを止めた。苺刃も慌てて足を止める。
「ふつうの教団員は、買い物とか正当な理由があれば教会の外に出られるの。だけど宮野さんは特例として外出が認められていないみたい」
「どうしてそんな特例が?」
「一度さくらちゃんが抗議しに来たから。お母さんに会わせてほしいって、教会まで来たんだって。家族の情にほだされて教団から逃れることを禁じるために外出を禁じているみたい。といっても、この建物のどこかで監禁されているわけじゃなく、単に外出禁止を命じられて、宮野さんは大人しくそれに従っているみたい」
「とすると、廊下でばったり宮野さんに会う可能性もあるわけですね」
「その通り。わたしは基本的にこの部屋から出られないけど、柚乃ちゃんには宮野さんに会えるチャンスが十二分にある。悪いけど、わたしの代わりに宮野さんを探して。お願い」
「お任せください。でも、宮野さんってひどいですよね。唯一の家族を残していくなんて。わたしには子どもはいませんが、その判断が母親失格だってことだけはわかります。子どもを捨ててこんな宗教に来るなんて、狂っていますよ」
「狂っている。そうかもしれないね」
か細い声で縛は言った。右手の人さし指を口もとに運び、第二関節のあたりを軽く噛む。
「だけど、狂ったのはどうして。狂ったのは聖ブリグダ教団が村に来たから? だったら村のみんなが聖ブリグダ教団の門戸に下っていないとおかしいよね。宮野さんには何かが既にあった。聖ブリグダ教団の門戸に下らざるを得ない心境が、宮野さんの中にあったんじゃないかな」
「言っていることの意味がよくわかりません」
「ごめん。わたしもよくわかっていない。だけど、わたしはこれまで沢山のひとを見てきた。この世には、カルト宗教なんかよりも容易にひとの心を蝕むものがたくさんある。柚乃ちゃん。狂気ってそこいらに、いくらでも転がっているものなんだよ」
5
2021年 2月 20日 土曜日 10時 31分
昨日とは一転して、留守部村の頭上には青空が広がっている。食べ残した綿菓子のような雲がぽつぽつと空に浮かび、時おり太陽の姿を隠していた。
陽があるというのに、山間部に吹き付ける風は変わることなく冷たいままだった。気温はゼロ℃をかすかに上回る程度。降り積もった雪はちろちろと溶けるばかりだ。
「そんな報告は聞いていないな」
男はカブトムシのように輝くアストンマーチンの後部ドアから出てくると、ドアを開けてくれたローブ姿の教団員を一瞥することなく大きくあくびをした。
二メートルに近い高身長。オールバックにした金髪は整髪料でキッチリと固められ、太陽の光を反射させていた。髪だけではない。スキンケアを欠かさないのか、白く艶のある肌もまた、太陽の光を反射させて輝いている。
鉤鼻をひくひくと神経質そうに動かすと、綿のジャケットを脱ぎ、小脇に抱えていた黒のローブをベストの上から身につけた。
「い、いえ。先日メールを送りました。モントゴメリー様に直接、たしかに送りました」
男に続いてアストンマーチンから降りてきた千来田が言った。アストンマーチンと廃校舎の入り口の間にはフランシス・モントゴメリーを歓迎するために集まった教団員たちが左右二列に並び道を作っていた。その道をモントゴメリーは自宅の庭の小道を行くようにリラックスした様子で進んでいく。千来田がその後にあわてて続く。
教団員たちは目を丸くしていた。スターⅢ『焔星』の千来田は、この教会における最高責任者であり、彼らにとっては『絶対』なる形容詞を冠するにふさわしい存在であった。そんな『絶対』が頭を垂れている。信じがたい。しかし、当然だ。相手は世界に数えるほどしかいない、スターⅡ『黄金星』なのだから。
「きみは焦っているんだ。同期の中できみだけが、まだ『巫女』を発見していない。落ちこぼれのミスターフォスターだってつい先日、ダブリンから『歌い巫女』を連れてきたからな」
「関係ありません。わたしはただ――」
「だいたい、こんなアジアの小国に『巫女』がいるわけがないだろ。アジア人の『巫女』なんて聞いたことがない。たしかきみは父親が日本人だったな。自分のルーツに威厳を与えたいと、そんな下心が働いているんじゃないか」
モントゴメリーは差別的な発言を吐き散らすが、周囲の教団員たちは気にする様子はない。モントゴメリーと千来田は英語で会話をしていた。そして、モントゴメリーの言葉は並大抵の英語話者でないと聞き取れない早口だった。
「まぁいいさ。きみがそこまで言うなら会ってやろう。気にするな。そいつが偽物でも、おれはきみを非難するつもりはないよ。子どもがおもちゃの宝石を自慢してきて、『イミテーション!』と叫ぶ大人がいるか?」
「……寛大なるお心遣いに感謝いたします。そして、それが無用であることもお伝えしておきます」
洞穴のようにうす暗い廃校舎にふたりが入ると、その後ろから教団員たちがぞろぞろとついてくる。
「きみたち」
階段の踊り場でモントゴメリーはふり返った。眉根をひそめ、口角はかすかに上がっている。
「きみたちが頭を垂れるべきはわたしではないよ。黄金星と宵星の差など、神々の力の前には微々たるものだ。わたしについてくるような暇があるのなら――祈りなさい。あらわなる次元におわす神々のために。詠いなさい。われらをお救いになる神々のために」
日本語だった。なんら淀みのない、ともすると日本語を母語とするもの以上に聞き取りやすい発音だ。教団員たちは感嘆の息を呑みその場を去った。教団員たちが姿を消すと、モントゴメリーは微笑みを解き、おおきな舌打ちを放った。
「どうぞ。こちらです」
千来田は先行して階段を上がる。モントゴメリーは蒸気機関車のように鼻を鳴らして後に続いた。
三階の奥にある一室にモントゴメリーは通された。広い一室の中央に横長のテーブルが置いてある。ドアの方を向いて、金色の刺繍が走る白いローブに包まれた女性が椅子に着いていた。ローブのフードの前面が薄い絹のヴェールになっておりその顔を隠している。女性の後ろには距離をおいて黒いローブ姿の女性が立っており、入ってきたふたりに会釈をした。
白いローブの女性は微動だにしない。ヴェールの先からのぞく口元はほんの少しだけ開いている。
モントゴメリーも千来田も呆気にとられた。モントゴメリーは一度咳ばらいをしてから、女性の対面に置かれた椅子に着く。それでも、白いローブ姿の女性は微動だにしない。
「おどぐ、るぅしゅてっぽ。ばぁめぇらんたふとぅ、かすぅめぬて、りっぽ」
モントゴメリーが言った。だが、白いローブの内側から声は返ってこない。
「……むぜむぜ。れぎのぉ、へれんて?」
「巫女様。巫女様」
千来田が声をかける。だがやはり、微動だにしない。千来田は窓際に立つ、巫女様の使用人に目をやった。使用人――苺刃柚乃は『ううん?』と首をかしげながら、巫女様――恒河沙縛に近づいた。
苺刃は縛の横から顔をのぞきこむ。『あ』と声をあげ、薄いヴェールを両手で持ち上げた。
ヴェールの内側で縛は寝ていた。半開きの口から細いよだれを垂らし、耳をすませば何とか聞こえるほどのか細い寝息をたてている。
「起きて。起きてください。ほらほら」
苺刃は縛の両肩を掴み前後にゆさぶる。縛は『ふぐ。ほぁ。ほぅえ』とかすかな声をあげ、目を覚ました。
「……むにゃむにゃ。どなたですか?」
モントゴメリーは答えない。青い瞳が飛び出そうなほど両目を見開き、縛を凝視している。千来田の指が黒いローブの裾の上でカタカタと震えていた。
「……すごいな」
モントゴメリーは口もとを手で隠し、縛に向ける目を細めた。
「見ただけでわかるよ。なるほど。千来田の言う通り、巫女であることは違いないようだ。それも、なかなかの逸材。黄金星を前にして、眠りにつき、あらわなる次元を訪ねることを優先するとは。すばらしい。おっと失礼。自己紹介がまだだった。スターⅡ『黄金星』のフランシス・モントゴメリーだ。ロンドン本部から派遣されてここに来た」
「はぁ。恒河沙縛です」
縛は小さく頭をさげた。
「きみは、オアクル語が話せるのか?」
「なんです?」
「オアクル語だよ。さっき、ぼくが話しかけただろう。『れぎのぉ、へれんて?』。そうしたらきみは『ふぐ。ほぁ。ほぅえ』と答えたじゃないか。おい、まさか……プリオアラーなのか?」
千来田が『そんな』と悲鳴に近い声をあげる。
「信じられません。プリオアラーは有史以来スター零『光星』ただひとり。この子が、巫女様が、創始者と同じ力をお持ちだと?」
「おちつけ。偶然という可能性だって。ふむ。よし」
モントゴメリーはローブの袖をめくり、右手を差し出した。縛は呆けた様子でその手を見つめる。
「これまで、多くの人間がスパイとして教団に潜入しようと試みた。聖ブリグダ神を信じていると口にするのは簡単だ。だが心で嘘をつくことはできない。わたしはひとの手を握れば相手の心を見ることができる。何人ものスパイの手を握りその本性を見抜いてきた。きみは、どうだ。わたしの手を握る勇気はあるか」
「はぁ。まぁ、他に選択肢はなさそうですし」
縛はモントゴメリーの手を握った。モントゴメリーは両眼を閉じる。たっぷり三十秒ほど経つと、やっとふたりの手は離れた。
「まぁ、及第点といったところか」
肩をすくめ、ヘラヘラと笑う。
「『巫女』であることには間違いないようだ。いいんじゃないか。強化の儀式をするそうだね。まぁ、その程度の儀式なら大丈夫だろう。ぼくは祈年祭の方に参加するからね、しっかり頼むよ。それじゃあ、ぼくは千来田と打ち合わせをするから、ふたりは出てもらえるかな」
縛と苺刃はドアを開け、『失礼しました』と一礼してから部屋を出た。モントゴメリーは背中を向けたまま『うむ』と厳かな声をあげた。
千来田は深く息を吐きだした。
「あぁよかった。モントゴメリー様にも分かっていただけたようですね。あの子は巫女です。本物の……どうしました?」
モントゴメリーの顔に粒のような汗が浮き出していた。一滴、二滴と、膝の上に握りしめた拳の上に落ちる。モントゴメリーの顔は蠟のように白く染まっていた。
「千来田。きみはいったい、何者を連れてきたんだ」
腹の底から無理やり引っ張り出したような声だった。椅子の上に曲げた両ひざをのせ、伸ばした腕でその足を抱える。
「あれほどの力、信じられない。アジア人であんなにも。プリオアラー? そんなもの。あの子の真の姿に比べたら……」
「サー。何が見えたのですか。巫女様はいったい」
「あの子は危険すぎる。ロンドンに送るべきだ。徹底した監視下で修行を積ませよう。イヴリン。あの子は世界を変えるぞ。ぼくたちは未来の『光星』を発見したのかもしれない」
「あぁ、そんな。すばらしい」
「いや、落ちつけ。落ちつこう。ひとまずは祈年祭だ。強化の儀式だ。そこで彼女の力を見ることにしよう。彼女のことはわたしに任せておけ。ロンドンへの報告もわたしから。大丈夫だ。任せておけ」
6
2021年 2月 20日 土曜日 10時 45分
「わたしは悪くないよ」
廊下を歩く縛は、下ろしたヴェールの内側で大きく口を膨らませた。
「あの外国人が悪いんだよ。十時が約束の時間だったのに、三十分も遅刻するんだもん。テレビもないあんな部屋で待たされて、眠くなって当然でしょ」
「子どもじゃないんですから。そんな言いわけは許されませんよ」
横を歩く苺刃は呆れた様子で言った。
「だいたい、よくあの状況でぐっすり眠れますね」
「睡眠は貯金だよ。貯められるときに貯めておくの。でも柚乃ちゃんも悪い」
「どうしてわたしが」
「あの人が来たなら、起こしてくれればよかったのに。柚乃ちゃんも悪い。同罪」
「それ、わたしは悪くないですよぉ。それにしてもあの外国人さん。なんです。変わった言葉が話せるんですね」
「オアクル語ね。なんか聖ブリグダ教団独自の言語らしいよ。あらわなる次元で使われている言葉なんだって」
「縛さんは喋れるんですか。すごいですね」
「んなわけないじゃん。ときどき講習会をやっているそうだけど、参加したことないし。いちおう教科書はもらったけど、もうあの部屋の中でどっか行っちゃった」
「ううん。でもでも、あの人は縛さんを『巫女様』として認めてくれてよかったですね。縛さんって、本当に神様の力が備わっているんじゃないですか」
「警察官がそんな非科学的な思考をしちゃだめだよ。宗教家っていうのは役者なの。『巫女様』として、この教会で崇められている以上、今さら偽物なんて言えないでしょ。教会のみんながショックを受けちゃう。だからあんな大げさに演技をして、わたしを『巫女』として認めたわけだよ」
「はぁ、なるほど。つまらないですねえ」
「真相なんてつまらないものだよ。わたしはただの一般人。どこにでもいる、普通で普通な普通の女の子なの」