第四章 特秘委員会(あるいは保全)
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2021年 2月 19日 金曜日 19時 27分
新橋広輝医師の家はおやしろ通り沿いに建っていた。盛田刑事が言う通り、二階建ての立派な一軒家であった。築年数こそ古く、柱や水回りなどは往年の来歴を語っていた(また照明の数も家主が言う通り少なかった)が、壁紙や調度品などはしっかりと取り換えられており、新築と見まがうほど立派な内装だった。
青森市内の総合病院の次男坊としてこの世に生を受けた新橋は、中学から東京に進学し、都内の有名な医科大学の卒業証書を手土産に青森へ帰ってきた。父が院長を務める総合病院の内科医として七年の経験を積むと、新橋は留守部村の診療所へ派遣された。先任の医師は高齢で、後継者探しに悩んでいたところを古い友人である新橋の父親が助け舟を出したのだ。
「いえ。助け舟というか、寒村に身内以外の者を送るのに抵抗があっただけですよ」
器用にキャベツを切りながら新橋は言った。シャツの袖をめくり、村の老婦人からもらったというひまわりの刺繍をほどこしたエプロンを着ている。
「総合病院の経営は安泰。後を継ぐのは結婚して一男二女をもうけた外科医の兄貴。次男坊で独身のぼくは、『新橋家』という名札をつけて、なんの責任を負うこともなく昼行燈に毎日を過ごしていました。父としては、そんな頼りない次男に喝を入れるという名目もあったのでしょうね」
「今はその先任のお医者さんとふたりで?」
椎茸の石突を切り落としながら法律が訊ねた。棚の奥から引っ張り出してきた割烹着を身につけているが、丈が短く腰まわりまでしか覆えていない。
「先任の先生はぼくが赴任して二週間で亡くなりました。引継ぎが一通り済んだその翌日に、まるで図ったかのように亡くなられたんです。親父に医師の増員を要請しましたが、『先任の先生がひとりでやってきたんだから若いお前にもできるだろ』とけんもほろろです」
法律は鶏だし醤油のスープが煮立つ土鍋に椎茸をいれた。続いて、鶏もも肉を手早くひと口サイズに切りこちらも土鍋に入れる。そこに新橋が丁寧に切り揃えたキャベツを落とした。鍋底で長いこと煮込まれていた根菜がぷくりと浮かんでくる。新橋はそれを菜箸で押し戻した。
鶏肉にしっかりと火が通ったところで土鍋を和室に運ぶ。掘りこたつにおさまっている籐藤は、額に青筋を立てて遅ればせながら捜査資料に目を通していた。
「ほら、籐藤さん。片付けてください。お鍋が置けないでしょう」
法律は熱々の土鍋をこたつの上に降ろそうとする。籐藤は卓上で散乱していた捜査資料をかき集めた。
「いただくとするか」
「まだですよ。がっつかないでください」
法律が籐藤を制した。箸をハの字に開いた籐藤は射るような目で法律をにらみつけるが、法律はひょうひょうとした表情で受け皿を並べている。
新橋が薄く白い煎餅を割ってから土鍋に入れた。
「余熱で少しだけ火を通して完成です。煎餅汁は初めてですか? 青森名物として有名ですが、南部煎餅は名前の通り南部地方の名産でして、煎餅汁はあまりむつ市では食べないんですよね」
「初めてです。いやぁ、名物を食べる時間はないかと思っていましたよ。ありがたやありがたや」
「法律」
籐藤は暖気に包まれた室内にはふさわしくない、冷たい声で言った。
「説明しろ。どうして苺刃を聖ブリグダ教団に送りこんだ」
法律は並べた湯飲みにウーロン茶を注いでゆく。
「つまりですね」
「あの。事件のお話しでしたら、席を外しましょうか」
新橋がこたつから右足を出す。
「いえいえ。大丈夫ですよ。新橋さんは苺刃さんのことを既にご存じですし」
公民館で法律は苺刃に聖ブリグダ教団の教会を訪ね、『巫女様の従者』として教団に潜り込むよう依頼した。公民館を偶然訪れていた新橋はこのことをしっかりと耳にしていた。
「もちろん。苺刃さんが教団に潜入していることは黙っていてください。というか。このことを知るのは捜査関係者を除くと新橋さんだけです。もしことが露見したら、それは新橋さんの口から漏れたということになります」
「な、なるほど。警察の方が口を滑らせない限りそうなりますね。大丈夫。ぼくは医者です。守秘義務を遵守するのは慣れっこですよ」
「まず先に。ぼくが教団内で見聞きしたことを報告いたします。あ、新橋さん。このこともご内密に」
法律は鍋をつつきながら、教団内で縛が『巫女様』として崇められるようになった経緯を話した。
「千来田ってやつは何者だ。何を企んでいる」
籐藤は親指の爪と人さし指の爪を乱暴にすり合わせている。
「まさか本気で縛が巫女だと信じているのか。おい、法律。おまえ、縛はそういうスピリチュアルなところはないと言ったよな」
「はい。皆無です。霊能力や怪異を寄せ付けるような異常体質はありません。おばけは信じているかもしれませんが」
「ふむ。となると千来田は、宗教心から脅迫的に、縛のなかに神秘性を見出したということか」
「いえ。単純にビジネスじゃないですか」
「ビジネス?」
「カルト宗教の幹部は、その宗教の信条をこれっぽっちも信じていないひとがほとんどです。宗教を金儲けの道具として割り切っているからこそ、宗教を信じているふりが上手い。千来田さんが縛を『巫女』として招き入れたのは、単に宗教的に特別な存在を教会内に存在させることで、教団の士気が上がると考えたからじゃないですかね。ハグドの儀式を前に縛が教会に現れる。相手は教団員のひとりに会わせてほしいと要求する。引き換えに千来田は『巫女』になることを要求する。ハグドの儀式における縛の役目なんて、取って付けたようなものでしたからね。することといったらしゃんしゃんしゃんと鈴を鳴らすだけ。本来は『巫女』の存在なしにあの儀式は行われる予定だったんじゃないですか。ただ教団員たちの『士気』が上がるから。それだけのために縛を招き入れたんですよ」
「だけど、どうして妹さんなんでしょう」
新橋が訊ねる。
「恥ずかしながら、この村から聖ブリグダ教団に入信した女性の村人は数人います。そのひとたちに『巫女』の役目を与えてもよかったのでは」
「だめですよ。『巫女』には神秘性が求められます。村人は『巫女』になっても、かつてこの村で暮らしたというバックグラウンドを持っています。神秘性皆無なバックグラウンドをよく知る元村人の信者に、『彼女は巫女だ』と説いたところで納得するのは難しい。それに、この村は超絶少子高齢化の限界集落です。入信した村人はほとんどが中高齢の方でしょう。巫女は若い方がいい。少なくとも、演出のためには」
「えぇ。そうです。その通りです。この村で二十代以下の女性はふたりしかいません。ひとりは聖ブリグダ教団ではなく、特秘委員会に入りましたし、もうひとりのさくらちゃんは言わずもがなです」
「特秘委員会か。こいつらもひと癖ありそうだな」
箸置きを手の中で揉みしだきながら籐藤が言う。
「盛田の言い分じゃ、こいつらも相当おかしなやつらみたいだな。新橋先生。あんたの意見を聞きたいですね」
「彼らもまた別のベクトルで変わっていますよ。聖ブリグダ教団は現代科学を否定しますが、特秘委員会は現代科学を認めた上で、それは宗教的な存在に起因すると考えているわけです」
「よくわからん」
「すぐに理解できるよりはいいと思いますよ」
「明日は特秘委員会の方にもお会いしたいですね。うん? 話がずれてきたな。苺刃さんのことでした。苺刃さんには縛と協力して教団内からこの事件を捜査してもらいます。そのために教会に潜入してもらったんですよ」
「たしかに、彼らのような怪しい団体が事件に関わっている可能性は大きいですからね」
籐藤は『うまくごまかしたな』と閉じた口の中で愉悦をかみ殺す。法律が教団を疑っている理由は、現場に落ちていた教団のナイフを起因としていることは明らかだ。だがナイフについては、盛田から箝口令が敷かれている。いかに新橋といえど、このことを伝えるわけにはいかない。
「ともかく、縛にはぼくのスマートフォンを渡してきました。何かあったら連絡をくれるでしょう。そうだ。捜査資料にのっていた第一発見者とは新橋さんのことだそうですね。これはラッキー。遺体発見時の詳しい話も後で聞かせてください。あ、もう食べられますかね」
法律が鍋の蓋を開ける。ぐつぐつと音を立てて煮立つ鍋から、腹の音を誘う鶏だしの香りが漂ってきた。南部煎餅はふやけており、煎餅というよりは麩に近い。スープを吸った南部煎餅を火傷に気をつけながら口に運ぶ。三人はしばらく言葉を無くし、黙々と煎餅汁をかきこんだ。
「宮野さくらさんとはどういう方なのでしょう」
デザートのりんごにフォークを刺しながら法律が訊ねる。新橋は表情に翳りをつくってから口を開いた。
「むつ市の高校に通う女子高生。村で唯一の子どもです」
「唯一ですか」
「この村に住む未成年はさくらさんひとりだけ。外から来た教団や特秘委員会のメンバーを除くと、次に若いのは村長のお孫さんの桐人くんと葵さんのふたりですね。といってもふたりとももうすぐ二十五歳ですが」
「年子ですか」
「いえ。双子です。そうそう。このふたりもちょっと困ったところがありましてね。お姉さんの葵さんは特秘委員会に、弟の桐人くんは聖ブリグダ教団に入会してしまったんですよ」
「家族で対立する組織に? そりゃ大変だ」
言葉とは裏腹に口調は軽薄だった。籐藤は切られたりんごを素手でつかんだ。
「教団と特秘委員会は村でしょっちゅう小競り合いをしていますが、この姉弟が村で顔を合わせるともう大変です。子どもみたいに殴り合いを始めて。おじいちゃんの村長も、お父さんの泰造さんも参っているみたいです」
「籐藤さん。ひょっとして、昼にケンカしていたふたり。あれが葵さんと桐人くんじゃないですか」
法律と籐藤が留守部村に到着した直後に出くわした喧嘩のことだ。片方の女性は銀色のスーツにヘジャブ、片方の男性は黒いローブに身を包んでいた。
「あいつらか。まったく、今度ケンカに出くわしたら鉄拳制裁で両成敗だ」
「今日は口を開けて見ているだけでしたからね。期待していますよ。ぎゃ」
こたつの中で籐藤が法律の足を蹴飛ばした。
「宮野さくらさんのお母さん、美穂さんは聖ブリグダ教団に入会したとか」
「ひどい話です。たったひとりの家族を置いて、あんな怪しい宗教に走るなんて」
「宮野さくらさんにも会ってお話を聞きたいですね。お話というか、妹の命を助けてくれたお礼を。明日は土曜日ですので、学校もお休みのはず」
「すると明日はやることが多いな」
首筋をひっかきながら籐藤は気だるげに言う。
「遺体発見現場の確認。特秘委員会を訪ねる。宮野さくらにも会いに行く」
「十三時から祈年祭があります。詳しくは聞いていませんが。噂では聖ブリグダ教団と特秘委員会のお偉いさんも参加されるそうですよ」
「祈年祭に参加もTo Doリストに入れておきましょう」
「興味があるのか?」
籐藤が眉をひそめる。
「祭りには村の性格が出ます。それと、教団と委員会のお偉いさんが、どんな態度で祈年祭にいどむのかも見てみたいですね。教団は御人形様を神聖なものとして崇めていますが、委員会は邪悪なものとして危険視していますから」
「きっと明日は教団員も委員会のメンバーも総出で村に出てくるでしょう。いたるところで小競り合いが起きますよ。いやだなぁ」
「先生の明日の予定は?」
「夕方まで仕事です。診療所にいますので、何かありましたらお越しください。それと、昼の十二時には昼食を食べにここに戻るので、おふたりもどうぞ」
「助かります。それじゃああとは、先生が遺体を発見した時の話でも伺いましょうか」
2
2021年 2月 19日 金曜日 22時 11分
夕食を終えて入浴を済まし、寝る支度をしていると、籐藤のスマートフォンに、苺刃からメールが届いていた。そのメールには、犯行で使われたナイフに関する情報が記載されていた。
「ほう。興味深い情報じゃないか。あのふたり、上手くやっているみたいだな」
「ね。苺刃さんを送りこんで正解だったでしょう」
「最愛の妹を褒めるつもりはないのか」
「ありません。縛が優秀であることはこの世の前提。当然について言及する必要などありません。『この部屋に空気がある』と口にするようなものです」
法律と籐藤は畳敷きの客間で横になった。
籐藤がいびきをかいて眠る中、法律はひとり両目を開けて暗闇を見つめていた。
時計の時刻を確認してぬるりと布団から抜け出す。部屋の隅に放られていたダウンジャケットを寝間着の上から羽織ると、法律は客間を抜けて家を出た。
宵闇に包まれた留守部村を法律はひとり歩いていく。積もった雪に刺さる法律の足音だけが、寝静まる村にさくりさくりと響き渡った。
公民館前の坂を上り白山神社に入る。か細く頼りない外灯が夜の神社を照らしていた。
拝殿に一礼してから左に曲がり、屋根付きの通路を直進する。突き当りに貼られた『立ち入り禁止』の黄色いテープをまたいで本殿前の広場に入る。捜査関係者の足跡で踏み荒らされた雪の奥で、本殿はひっそりと佇んでいた。白い息を吐きながら法律は本殿に近づく。遺体が転がっていたあたりを気に留める様子はない。さくりさくりと雪を割り、本殿の階段を上り、戸を開ける。
鬱蒼とした本殿の中に血染めの御人形様は飾られていた。
昼間に見た時と違いはない。壁からつき出た二本の角材に両腕を乗せ、だらりと身体を垂らしている。
足元に置かれたランプを点灯し、御人形様に近づく。手袋を取り、素手で御人形様の足の先に触れる。ささくれ立った稲わらが指に刺さり、『いたた』と法律はつぶやいた。
その時、法律の耳がぴくりと跳ねた。
音を立てずに左側の壁に背中を付ける。さくりさくりとこちらに近づいてくる足音が聞こえてくる。雪の上を歩く音は本殿の木階段を上る音に変わった。
法律は手にしていた懐中電灯を、戸の外からでは見えない軌道で、反対側の壁に放り投げた。黒光りした棒状のものが震えながら本殿に入ってくる。棒状のものを手にした何者かは、素早く本殿に入り懐中電灯が転がる方に身を向けた。
「え」
意外性に満ちた声色を侵入者は発した。
「ごめんなさい」
そうひと声をかけてから法律は飛びかかった。
侵入者の腕をとって背中に回し、そのまま壁に押しつける。侵入者はくぐもった声を発し手にしていたものを落とす。それを見て法律は息をのんだ。
「拳銃……」
灰色のロングコートに身を包んだ侵入者は全身を揺さぶり抵抗する。だが侵入者は法律よりもニ十センチ以上背が低く、またコートの上からでもわかるほど腕は細い。
「は、離せよ」
法律はその声に聞き覚えがあった。間違いない。昼と違いへジャブは身に着けていないようだが。
「梶谷葵さんですね。村長のお孫さんの」
「だったら、なに」
「落ちついてください。恒河沙と申します。昼間に一度お会いしました。弟さんと喧嘩なさっているところを、その、拝見しました」
「あの時の? つまり、警察か」
安堵したのか、葵は抵抗を止めて深く息を吐いた。
「腕を離します。拳銃には触れないで」
「テーザーガンだよ。拳銃なんて一般人がもてるわけないだろ」
「へ?」
法律は床に転がる黒い棒状のものを見た。形こそ拳銃によく似ているが、銃身は短く、銃口の部分には金属上の突起がふたつ付いている。
「あぁ、これは失礼しました。いえ、テーザーガンだって危険な武器であることには変わりないと思いますが……」
葵の腕を離し、攻撃の意図がないことを伝えようと法律は後ろに下がった。葵はテーザーガンを拾い、警戒するように法律をにらみつける。
「どうしてこんな真夜中に?」
「それこっちのセリフ。びっくりした。こんな真夜中に本殿のランプが点くのが見えたんだから」
「事件の調査ですよ。遺体が発見された時刻の現場を確認しておきたくて。それと、御人形様のご機嫌伺いに」
「御人形様だなんて、そんな大層なものじゃないよ」
葵は手にしたテーザーガンを血まみれの藁人形に向けた。
「あいつの中には悪のジンが宿っている。今はまだ力を蓄えて大人しくしているけど、早く対処しないととんでもないことになるよ」
「とんでもないこととは?」
「あんた知らない? 世界中で起きてきた大災害やテロにはいくつもの特秘物が関わっているの。特秘物に収まったジンが世に放たれて、大気を操ったり、人間を操って災害やテロを起こしてきたんだ」
「それを止めるのが特秘委員会の仕事というわけですね」
法律はダウンジャケットのポケットに手を入れ、大きくうなずいった。
「それで。梶谷さんはこんな時間にどうして?」
葵はテーザーガンをコートの内ポケットに入れると、ベリーショートの黒髪を乱暴にかきむしった。
「祈年祭が心配で眠れなくて。人形の様子を見にきただけ」
「心配?」
「グダグダ野郎どもは村中で儀式めいたことをするつもりみたいだからね。ひとつひとつの儀式は大した力をもたないけど、それが集まって大きな力になると何かしらの形で人形の中のジンに影響を与えるかもしれない。ひょっとしたら明日……じゃない、今日にはジンが解き放たれて、大災害が起こるかもしれないよ」
「あの。ぼくは昨日この村に来たばかりでして、特秘委員会さんの理論をよく把握していないんですよ。よろしければご教授いただきたいのですが」
「……馬鹿言うでね。こんな真夜中に」
「でしたら。明朝特秘委員会さんをお訪ねしますので。そこでぜひ」
「そんな暇はない。祈年祭対策の準備で忙しいし、午後にもやることがいっぱいなんだから」
「梶谷さんが『立ち入り禁止』のテープをまたいで殺人現場を訪れたことを、特秘委員会のお偉いさんにお伝えしてもいいのですよ」
「脅迫? 警察のくせに」
「脅迫ではありません。交渉です」
『ついでにぼくは警察ではありません』との言葉を法律はごくりと飲み込んだ。
「わかった。そしたら九時に来な。本当に忙しいのに。まったく」
「約束ですよ。よろしくお願いします」
法律が慇懃に頭を下げると、葵は背中を向けて本殿から去っていった。
法律は本殿の中に何か変わったものがあるのではないかとしばらく調べたが、特にめぼしいものも見当たらずその場を後にした。
3
2021年 2月 20日 土曜日 06時 00分
朝の六時になると、法律は閉ざされたカーテンに首を突っこみ、窓の結露をカーテンで拭ってから外を見つめた。
宵の匂いが残る窓の外には、静けさに包まれた留守部村の小さな家が並んでいた。雲ひとつない灰色の空が太陽の出現を待ち望んでいる。
籐藤を布団から引きずり出し、白山神社へ向かう。神社に着くころ、腕時計の針は六時半を指していた。神社には村の老人たちが集まり、お参りや井戸端会議を楽しんでいた。
法律は気さくな笑顔で井戸端会議に交わった。その間、籐藤は拝殿と拝殿前の広場をうろつき、特にめぼしいものを見つけられないまま戻ってきた。
「お前。よく向こうの言っていることが理解できたな」
神社に残り井戸端会議を続ける老人たちに手をふる法律に籐藤が言った。齢七十を裕に越すと思われる老人たちは、全員が法律に気をつかうことなく南部弁を用いてきた。だが法律はそれらの方言を苦にすることなく、快活に意思の疎通を果たしてみせた。
「全部の言葉を理解できたわけではありません。ただ、ある程度は文脈で理解できますし、本当にわからない単語については質問しました」
「それを即席でできるなら大したものだ。何かおもしろい話は聞けたか」
「えぇ。あの方たちは毎日白山神社にお参りするのが習慣になっているそうです。事件のことはさっぱり。ただ殺された被害者についてはよく知っていたそうです」
「菅原久とか言ったか。捜査資料にはやもめ暮らしの農家と書いてあったが」
「なんでも農業を始めたのはつい最近のことで、その前は小学校の教頭先生をされていたそうです。あそこで」
法律はそびえ立った崖の上に立つ旧小学校、現教会を指さした。
「十年前の廃校を機に教職を辞め、奥さんといっしょに村で農業を始めたそうです。ただ農業を始めて一年後に奥さんが亡くなり、それ以来ずっと独り身だとか」
「子どもは」
「いません。教職を務めていた頃は『学校の子どもの面倒だけで十分だ』と言っていたそうですが、本当は自分の子どもを望んでいて、それが強がりでしかないと村のひとたちはわかっていたそうです」
「なんとも悲しい話だな」
「菅原さんが特秘委員会と親しくしていたことも事実だそうです。菅原さんはもともと理系の教師で、聖ブリグダ教団のような非科学的な思想を否定する特秘委員会にある程度のシンパシーを感じていました。特秘委員会も、『留守部村管理組合員』という肩書を持つ菅原さんに目をつけて、何かと融通を利かせていたそうです」
「融通って……賄賂とか? だが、そんなことしてなんになる」
「これはまだ未確定な話らしいのですが、管理組合では四月に御人形様の引き渡し先を決める多数決が行われるそうです。管理組合の人員は亡くなった菅原さんを含めて六人。教団と委員会は、管理組合をできるだけ味方に付けようと水面下で必死に動いているそうです」
「となると、今回の事件で実益を得ているのは聖ブリグダ教団か。親特秘委員会の菅原久が亡くなれば、委員会への投票が一票減ることになる。確定ではないが、御人形様確保に一歩は近づくわけだ」
「そうですね。朝の九時に特秘委員会の支部とやらを訊ねましょう。場所は新橋さんに教えてもらいました」
「追い返されないかね」
「大丈夫でしょう。アポは取ってあります」
「いつの間に」
「籐藤さんが眠っている間に」
ふたりは一度新橋の家に戻り、家主が用意してくれた朝食を腹におさめた。
時計の針が八時を回ったころ、暖房を消して家を出た。新橋の家は村のおやしろ通りに面した村の北側にある。ふたりはおやしろ通りを南下していき、途中で細い通路に入り村の西側を伸びる国道通りに移った。国道通りの南側に宮野さくらの家はある。
「ここか」
通りに面した一軒家の前で籐藤がつぶやく。二階建ての立派な家だが、ここに子どもがひとりで暮らしていると思うと途端に哀愁が漂いはじめる。雪かきに使うのか、玄関先には使い古されたスコップと手押し車が転がっていた。
インターホンを押そうと近づいたところで、横開きの玄関戸が開き少女が現れた。黒いスウェットの上にどてらを羽織り、肩先まで伸びた黒髪はところどころが跳ねていた。
少女が警戒心を発する前にことは起きた。法律が転び、傍らの雪だまりに突っ込んだのだ。
「ぎゃん!」
頭から突っ込み、手足をばたつかせる。両足を地面につけて踏ん張るが、再び足を滑らせ雪だまりに深く潜り込む。
「おい。遊んでいる場合か」
籐藤が冷たく言い放つ。助けるつもりはないらしく、両腕を組み突っ立っていた。
「いや、遊んでいるわけじゃなくて。これ、角度が悪い。もごもご……雪が口に……」
「あ、あの大丈夫ですか」
少女が法律の腕を取りぐいと引き起こす。雪だまりから抜け出た反動で法律は地べたに尻もちをついた。
「い、いたた……こりゃ後で新橋先生に診てもらわないと。あ、どうもどうも。ありがとうございます」
「いえ、そんな別に」
「本当に助かりました。いやぁ、妹につづいてご迷惑をおかけしました」
「妹?」
少女の瞳が驚嘆に開かれる。
「宮野さくらさんですね。はじめまして。縛の兄、恒河沙法律と申します」
「縛さんの。あの、あの。わたし、妹さんに大変なことを! なんて謝ったらいいのか」
「警視庁の籐藤です」
籐藤が前に踏み出し、警察手帳を取り出す。
「と言っても、事件の話を聞きに来たわけではありません。わたしはただの付き添いです。彼がどうしても妹の命の恩人にお礼を伝えたいというのでね」
「あの……少々お待ちください。いま、中を片付けますので」
さくらが家に戻ると、どたどたと騒がしい音が中から聞こえた。
「お前、わざと転んだだろ」
変わらず冷たい口調で籐藤が言う。
「バレましたか」
「バレバレだ。まぁ、一介の女子高生にはわからなかっただろうがな。警戒心を解くためか」
「そのとおりです」
全身に着いた雪を払いながら法律は言う。
「青森県警は縛を犯人とにらんでいる。そんな縛にこの村で最も密に接したのが宮野さくらさんです。となると、青森県警が宮野さんに執拗に縛について問いただしたことは容易に推測されます。うら若き乙女がそんな対応をされて青森県警に好意を抱くはずがありません。話をする前に家に逃げ込まれ、門前払いされるのがオチです」
「だからわざと転んだのか。妹と同じ目にあって、村人の『新橋先生』の名前まで出して信用させて。そういう計算高いのは嫌いだ」
「嫌ってください。籐藤さんが嫌いなことはぼくが率先してやりますから」
「お待たせしました」
玄関が開き、さくらが出てきた。ジーンズとトレーナーに着替え、髪にはしっかりと櫛が通っていた。
「長居するつもりはありませんので、ここで結構です」
籐藤は玄関の上がり框に腰を降ろす。法律もその横に着いた。
「寒くないですか。いま、温かい飲み物を……」
「お若いのにしっかりされている。ですが、新橋先生の家でたっぷりと食べてきましたのでね。お構いなく」
「おふたりは新橋先生の家にお泊りになったのですか」
「えぇ。厄介になっています」
法律は破顔して頭を下げた。
「重ねてお礼を申し上げます。妹を助けていただきありがとうございました」
「そんな、それどころかわたし……妹さんにとんでもないことを頼んでしまって。あの、聖ブリグダ教団のことは聞きましたか」
「えぇ。よく知っています。入団されたお母さまを連れもどすよう縛に依頼したとか」
「本当に申し訳ありません。つい口にしてしまい、本気じゃなかったんです。それなのに縛さんは……」
「さしつかえなければ」
籐藤が上がり框から腰を上げ、靴箱の上に置かれた木彫りのクマに視線をやる。
「お母さまが教団に入団された経緯をうかがっても?」
「籐藤さん。そんなプライベートなこと……」
「いえ、いいんです。お話しします」
聖ブリグダ教団が留守部村に移住してきた当初は、宮野美穂もまた多くの村人と同じく、黒いローブを着て村を闊歩する彼らを胡乱な目つきで見ていた。
美穂の心の中に波風を起こしたのは、ひとりの教団員の存在だった。美穂は村の購買部でその教団員と出会い、同年代ということもあって軽く雑談を交わした。その教団員は身の上を語った。結婚後、子を授かってすぐに夫を亡くし親ひとり子ひとりで爪に火を点す生活を送っていたが、教団に入会して以降人生にハリが生まれたというのだ。
「母とその教団員の方の境遇は似ていました。母は若くして親の反対を振り切り、家出同然で憧れの都会に引っ越しました。子どもの頃から留守部村で暮らして来た母にとって、都会できらびやかな生活を送ることだけが人生の目標だったようです。ですが母は悪い男に引っかかり、わずか一年で大きなお腹を抱え生まれ故郷の留守部村にもどってきました。わたしの祖父母は数年後に相次いで亡くなり、親ひとり子ひとりの生活が始まったのです」
さくらは声をのどに詰まらせ、鼻をすすってから、一度大きく息を吐いた。
「母は人生の目標を失いました。ひとり娘の学費のために、漁村の缶詰工場でホタテの殻を剥く毎日です。その教団員の方は母と似たような身の上でありながら人生が充実していると目を輝かせていたそうです。聖ブリグダ神のご加護のおかげで」
宮野美穂の心は徐々に聖ブリグダ教団に傾倒していき、ほんのふた月前、黒いローブを羽織り、教会での共同生活を始めたという。
「母はわたしにも教団に入るよう勧めました。もちろん断りました。『カルトにハマるなんて馬鹿げている』と何度も大喧嘩をしました。子どもをひとりこの家に残していくはずがない。自分が反抗し続ければ、いつかは諦めてくれるだろうと思っていたのですが……」
「お母さんは行ってしまわれたわけですね」
『豈図らんや』と法律はつぶやく。
「教団の方たちが母を説得したみたいです。母が教会での生活を始めても、自分たちが村に降りて娘さんの無事を確認してくるから、と。実際、教団の方は定期的に家に来て何か困ったことはないかと聞いてきます。大雪で学校に行くのが難しい時は、車を出して送ってくれました。母とスマートフォンで連絡を取ることも禁止されていません。もっとも、わたしの方から連絡したことは一度もありませんが」
「それは、どうして?」
「どうせ連絡したところで、『あんたも教会に来なさい』とくり返すだけです。わたしは、興味ありません。神様なんて信じられない」
籐藤は名刺をさくらに渡す。『何か思い出したらすぐに連絡を』とお決まりの言葉を残してふたりは宮野家を辞去した。
「安請け合いをしたんじゃないか」
手袋を着けながら籐藤が苦々しく言う。
「なんです?」
「お前の妹さん。あの子の母親を教団から連れもどすなんて、本当にできると思うのか。いや違うな。そんなことをしてもいいと思うのか」
法律は何も言わない。ともすると挑発ともとれる笑顔を返すに留める。
「この国じゃ憲法が信仰の自由を認めている。イワシの頭を拝めようが、よそ様に迷惑をかけなきゃ文句を言われる筋合いはない。宮野美穂を教団から連れもどすってのは、彼女の信仰の自由を侵害するって意味じゃないか。そんなことをする権利が他人にあるのか」
「籐藤さんらしくもない。聖ブリグダ神のご加護を信じるのですか」
「軽口に興じる余裕はないぞ」
「ははは。心配しないでください。何もぼくは宮野美穂さんの信仰を否定するつもりはありません。もし彼女がただひたすらに聖ブリグダ神を信仰するだけなら、ぼくも放っておきますよ」
「だけなら? つまり、他に何かあるのか」
「さくらさんは、お母さまのことを想っています。母親を憂い、戻って来てほしいと願っている。母への愛がそこにはあるんです。この愛に比べたら聖ブリグダ神のご加護なんて児戯に等しい。縛もきっとこの愛に気づきました。だから教会に行ったんです。母への愛を伝えるため。ただそれだけで十分なんです」
4
2021年 2月 20日 土曜日 08時 35分
「おや。先輩、おはようございます」
国道通りの北の方からやって来た盛田刑事が、白い息を吐き出しながら片手を上げた。後ろに石像のように無表情の若いコート姿の男を連れている。
「もう宮野さくらを訪ねたのですか? いやあ足が速い。そういえば先輩は部活の時もいつも道場に一番乗りでしたね。後輩からしたら気まずいのであれは止めて欲しかった」
「昨日の捜査会議で何か進展はあったか」
文脈を足蹴にして籐藤が訊ねる。盛田が無精ひげを撫でながら口を開きかけると、後ろの男が『主任』と戒めるような小声を発した。盛田とコンビを組む刑事のようだ。
「そうきもやぐな。はっきりと言っておいた方がこのひとは納得する。あぁ、失礼。先輩。昨日の捜査会議ね。えぇ。大きな進展がありましたよ。なんと丸子本部長が車椅子に乗って激励に訪ねてくれました。数日前に見た時よりもげっそりと瘦せちゃって」
「それで」
「恒河沙法律さん。あなたが留守部村にいらっしゃっていると聞いて、本部長は再び激昂されました。せっかく退院されたのに、また病院に搬送されましたよ。聞くところによると、恒河沙さん。あなたたちご兄妹はうちの丸子に相当嫌われているようですね」
「みたいですね。でも、ぼくはけっこう丸子さんのこと好きですよ」
法律は軽快に身体を左右に揺らした。その横で籐藤が苦々しく目の前の後輩をにらみつけている。
「恒河沙さん。それと先輩。青森から立ち去れとは言いません。ですが、われわれ青森県警はあなたたちに今後一切協力いたしません。青森県警本部長が蛇蝎のごとく嫌う方に力を貸して、キャリアに傷がつくのは困るんですよ」
「お前……」
籐藤が盛田の襟をつかむ。だが籐藤が雪に足を取られバランスを崩すと、盛田は籐藤の腕を払い雪の上に押し倒した。
「腕が落ちましたね、先輩」
籐藤は何も言わない。かすかに開いた口の間から犬歯をのぞかせて後輩をにらみつける。
「警視庁のエリートにわたしたち……いえ。わあたちの気持ちなんてわかるわけね」
ふたりの刑事は背中を向けたまま宮野家の方へ向かった。籐藤は上半身を起こし、地面に拳を叩きつける。
「まぁ、別にいいでしょう。嫌われるのは慣れています」
法律が籐藤に手を差し伸べる。籐藤はその手を払い、自力で起き上がった。
「まぁ、かえってよかったかもしれんな」
籐藤はコートについた雪を払いながら言った。
「おれたちが情報を得てもあいつらに報告する義理はなくなったわけだ。さらに言えば青森県警の顔色をうかがいながら捜査をする必要もない。警視庁流の狼藉捜査を見せてやろうじゃねえか」
「わぁ。心強い。それじゃ、そろそろ特秘委員会のところに行きましょうか。もうすぐ九時です」
村の南東部にある木々の生い茂った小道をしばらく進むと、周囲を小高い丘に囲われ、隕石でも落ちたかのようにぽっかりと開けた空間が広がっていた。そこに幾何学的に設計された白壁の巨大な建物がたたずんでいた。建物の前には蜜でも塗ったのかと疑うほど照り輝く高級外車が所狭しと並んでいる。そんな車の群れを挟んでの建物入口では、銀色のタキシードを着たふたりの男がドアマンの役目についている。いや、テーザーガンと警棒を腰に携えているという事実を考慮すると、ドアマンというよりは歩哨というのが正しいのかもしれない。
警戒心を顕わにするふたりの銀色タキシードに、法律が大声かつ低姿勢で声をかける。ひとりの銀色タキシードが建物に入ると、数分後に同じく銀色タキシード姿の梶谷葵といっしょに戻ってきた。昨夜と異なり、しっかりとへジャブを頭に巻きつけていた。
「忙しいって言ったのに本当に来るとは。そちらは?」
葵は籐藤にあごの先を向けながら訊ねる。胸もとに差した緑色のバラがぐらりと揺れた。
「警視庁の籐藤です。どうぞよろしく」
差し出された警察手帳を葵は手に取り凝視する。手帳は紐でジャケットの内側に結着されているので、籐藤は引っ張られ身体を前に傾けた。
「警視庁って東京の人間でしょ。なんでわざわざ青森まで」
「いろいろと事情がありましてね」
籐藤は紐を引き手帳を奪い返す。葵はかすかに口をとがらせてから、ふたりについてくるよう言った。
ドアの向こうにはホールが広がっていた。左手に受付。銀色のタキシードを着た男が表情筋ひとつ変えずに法律たちを見つめている。左右には細長い廊下。正面奥には上の階へつながる幅の広い両返しの階段がある。
ホールの中央には噴水が設置されていた。その噴水を目にして籐藤が低いうなり声をあげた。
噴水の中には胸の前で両手を組みあわせる女性の像が建っていた。女性? 女性? 女性? 盛り上がった乳房。ふくよかな肉づき。たしかに女性だ。だがその像に人間の頭はない。頭があるべき場所には巨大な八枚の花弁が生えている。すべての花弁の内側に、表情を歪ませた小さな裸の人間が座りこんでいた。花弁の縁には細長い棘が上に向かって並んでおり、一枚の葉が人間を閉じ込める牢獄のようになっている。花の先端から鋭い勢いで細い水が流れ出していき、像の足元のプールに落ちていた。
異形なオブジェクトは噴水だけではなかった。壁のいたるところから不規則に顔を布で覆われた男の像が飛びだしている。腰から上だけ、下半身のみ、胴が壁の中にのみ込まれ両手足を前に着きのばしているなど、それらの姿勢は様々だ。男の手足は鎖の付いた錠で捕縛されている。頭をのけぞらせ、手足をくねらせ、薄い皮膚には血管とシワが細かく浮かび上がっていた。
このホールの最たる特徴は、そんな像を含むすべてのものが白で統一されていることだった。受付の台も、その上の電話も、階段に敷かれたマットも、手すりの色も白。不気味な像ももちろん白。噴水から流れる水も白く濁っている。吹き抜けの天井に伸びる梁もまた白。ちなみにその梁から、手足に錠を着けた男の像が何体かぶら下がっていた。
「……もとは会社の保養施設だったと聞いていたんだがな」
非難の色を込めた声で籐藤が言う。彼の表情は室内のすべてを拒絶していた。
「お前の感想は、法律」
「見物料が取れそうですね。ここは一般の見学は可能ですか?」
そんな軽口を無視して葵は左手の廊下の方に向かっていく。
ふたりは葵の後に続き、これまた白で塗りつくされた長い廊下を歩いていく。白い壁にはめ込まれた白いドアの前で葵は止まり、首からぶら下げたカードキーをドアの横のパネルに押し当てる。短い電子音が響き、錠が開く音がした。
葵がドアを開けると、室内から陽気な声色が聞こえてきた。
「やぁやぁ。ようこそおいでくださいました」
たまごを縦半分に切り裂いたような形をした椅子から初老の男が立ちあがった。くせ毛気味で波を描くボリューミーな髪がふわりと揺れる。髪はカラスのように黒いが、口周りに生やしたひげには白いものが大量に混ざっている。背中を丸め、恵比寿の如き破顔一笑。過剰と言えるほど頭を下げながら籐藤の右手を両手で握りしめる。
「梶谷から話は聞いております。なんでもわれわれの科学理論について学ばれたいとか。すばらしい。すばらしいですよ、本当に。これまでお会いした警察の方々はわれわれの話に耳を貸さず、ライクアペイガンな扱いをされるかたばかりでした。なにもわれわれは称賛されたいわけではありません。ただここに存在することを認めてもらいたいだけなのです。そのために必要なのは歩み寄ること。理解も納得もいりません。ただ距離を縮めること。それが真の平和のために必要なことなのです。あぁ、申し遅れました。アッバース&キャロライン財団 自然生物保護部門 太陽系圏保安維持室 特級秘匿物保全委員会 日本支部 総務部 部長の蓮下啓也と申します」
機関銃のような早口で蓮下はまくしたてる。銀色タキシードの内ポケットから手品師のように滑らかな手つきで名刺を取り出した。銀色の名刺には蓮下の名前の下に桃色のバラが横たわっていた。本人の銀色タキシードの胸元にも桃色のバラが刺さっている。
「警視庁の籐藤と申します」
籐藤は相手のペースにのみ込まれないよう、あえてゆっくりと名刺を取り出した。無骨でおもしろみのない名刺を、蓮下は名刺よりも低く頭を下げながら受け取る。
「ほう! 警視庁の……あぁ、これはすごい。刑事部! ははぁ、なるほど。わかります。わかりますよ。これほどの難事件。警視庁が捜査に乗り出すのも当然というものです。あ、そちらの方にも、どうぞどうぞ」
蓮下は法律にも低姿勢で名刺を渡す。素性を知られたくない法律は『名刺を切らしている』と常套の言い訳でごまかした。
蓮下はふたりに室内に点在するたまご型の椅子に座るよう勧めた。当然、この椅子もまた白い。椅子だけではない。円形のテーブルも、壁際に置かれたチェストも白。薄い白のヴェールがかけられた55インチの液晶テレビの部品さえも全て白い。
「お茶を淹れましょう。はっはっは。紅茶はしっかりと赤ですよ。もっとも、ホットミルクをご所望でしたら用意いたしますが」
チェストの上の白い電子ポットから白いティーポットにお湯を注ぐ。葵が近づき、横の棚から白いカップを三つ出した。
「わたしがやります」
「ありがとう。だがきみはお迎えの準備についてくれたまえ。わたしは副委員長がお越しになるまですることはない。ここで客人のご案内をさせてもらうよ」
「わかりました」
葵が部屋を出る。蓮下が紅茶の入ったカップをテーブルに置き、『さて』と切り出す。
「アッバース&キャロライン財団の事業規模は壮大です。一本の靴ひもから暗黒物質まで。われわれ特秘委員会の仕事など、数ある財団の仕事の一部でしかない。されどわれわれは、この宇宙の平穏を守るという重要な使命を帯びているのです。宇宙ですよ、宇宙。日本? アジア? 地球? 太陽系? そんな小さな規模ではありません。この世の存在すべての存続に関わる使命をわれわれは担っているのです。世にはびこる早急に保管すべき危険な物質、われわれはこれを特秘物と呼んでいます。財団の中で特秘物の収集を担当しているのが、われわれ特級秘匿物保全委員会というわけです」
「この村の御人形様も特秘物というわけですか」
法律がカップを持ちながら訊ねる。
「そのとおりです。わたしはこの仕事を二十年近く担当していますが、あれほどのジナテリウム値を秘めた特秘物はこれまで数えるほどしか見たことがありません」
「そこで聖ブリグダ教団と御人形様の所有権を巡って争っていらっしゃるわけですね」
「かれらには同情しているんですよ。聖ブリグダ教団の経典に目を通したことはございますか。はじめから終わりまで科学の『か』の字もない戯言のオンパレード。この世の人間すべてが科学的思考を理解し得るとは思っていませんが、まさかあんな神妙不可思議な理屈を信じるひとがいるなんて。世界中の科学の使徒は自分たちの広報力の低さに嘆くべきです。もちろん、わたくしも含めてね」
「四月に村の管理組合が多数決で御人形様の委託先を決めると聞きましたが、菅原さんが亡くなられて――」
「耳がお早い。そうなんですよ。六人いるうちのおふたり、菅原さんと大久保さんには特秘委員会の有用性を理解していただき、好意的な投票をお約束いただいていました。まさか殺されてしまうとは」
「困ったものですなぁ。聖ブリグダ教団にとっては都合のいいことに」
両腕を組み、籐藤は粘度のある声を出した。
蓮下は頭を叩きながら笑い声をあげた。
「言いたいことはわかります。聖ブリグダ教団が菅原さんを殺したと考えているのではないか。そうお聞きしたいのでしょう」
籐藤は返事をせず、眉を大きく上下させるに留めた。
「そういった考えを持っている者がわれわれのうちにいることは否定しません。ですが、犯人は警察の方々が科学的捜査で捕えてくれるとわたくしは信じています。まぁ、いまのところ捜査は芳しくはないと伺っていますがな。それと、管理組合の投票については、何も問題はありません。いえ、問題は解決されると言うべきですな。財団はことの重要性を鑑みて、特級秘匿物保全委員会副委員長のラニア・アッバースの留守部村への派遣を決定されました。財団創始者ハサン・アッバース様のお孫様ですよ。ブルーローズのアッバース副委員長がいらっしゃればことは好転するに違いありません」
「先ほど、お迎えがどうとかお話しされていたましたね。今日これから留守部村にいらっしゃるのですか」
法律は紅茶のカップに口をつける。
「あぁおいしい。副委員長さんは祈年祭に参加されるおつもりで」
「さあ、どうでしょう。少なくとも、特秘委員会の多くのものは祈年祭に参加せず、パトロールに励むことになりますがね」
「……パトロール?」
籐藤が鼻をひくつかせた。
「なんでも聖ブリグダ教団が祈年祭に合わせて人形の中の邪神、ジンを活発化させるオブジェクトを村中に設置するそうなんですよ。われわれはこれを阻止せねばなりません。どんな手を使ってでも、阻止せねば」
「……けが人が出ないことを祈りますよ」
籐藤も紅茶に口をつけたが、すぐに渋い顔をみせる。口に合わなかったのか、それとも他に理由があるのか。
「しかし特秘物とおっしゃいますが、わたしのような凡人にはその危険性がまったく理解できませんね。昨日白山神社の御人形様の姿を拝見しましたが、ただの藁人形にしか見えませんでした」
「ほう。刑事さんにはあの人形の危険性がまったく感じられませんでしたか」
蓮下は不服そうに顔をしかめ、一度大きく鼻息を鳴らした。口を滑らせたことに気づいた籐藤が謝罪の言葉を述べる前に『よろしい!』と叫び、蓮下は立ち上がった。
「おふたりに、この建物内に保管されている特秘物をご覧にいれましょう」
「ここにあるのですか。この建物の中に?」
籐藤は怪訝な表情で部屋の壁を見回す。
「この青森支部はたった一体の人形のためだけに建てられたわけではありません。札幌におかれている北海道支部が建て替えを始めたこともあり、北海道支部で保管されていた特秘物を一時的に青森支部で保管しているのです」
「わぉ。それはすごい。こうして部外者に見せることは滅多にないんですよね」
どこか興奮した様子で法律は椅子から腰を浮かした。
「もちろん。青森支部開業以来、部外者に特秘物をご覧いただくのはこれが初めてです」
「そりゃ光栄です。あ、その前にトイレに行ってもいいですか。紅茶があまりにもおいしかったもので」
籐藤と法律は案内された男子トイレに向かった。トイレ内に誰もいないことを確認してからふたりは小声で言葉を交わす。
「ナイスな挑発でしたよ、籐藤さん。ぼくも何とかして特秘物を目にしてみたいと思っていたのですが、素直に頼んでは『見世物じゃない』と断られるだろうし、どう切り出したものかと悩んでいました」
「おれは心のままに思ったことを口にしただけだがな」
トイレの中も一面白に染まっている。小便器の間の壁には枷を嵌められた男の像が一台ずつ埋まっていた。
「だが時間の無駄じゃないか。御人形様はともかく、他のなんとか物を見たところで、それは事件とは関係ないだろう」
「関係はないでしょう。ですが、事件が起きた時、この村には特秘委員会の方々がおり、彼らが何らかの形で事件と関わっていた可能性は十分にあります。いえ、実際に被害者の菅原さんは村の管理組合の中で特秘委員会に肩入れをしていたそうですから無関係とは言えません」
「つまり?」
「特秘委員会の思想を知りたいんです。彼らがどんな風にものを考え、どんな風にものごとを判断するのか。そのためには、彼らの業務の対象物たる特秘物を観察することが助けになります。彼らがどんなものに危険性を覚えるのか。そして、それらをどんな風に管理しているのか」
「言いかえれば、相手のことをよく知りたいってことだろう」
「省略がお上手」
「べらべらと舌を回すのが嫌いなだけだ。ほら、早く行くぞ」
5
2021年 2月 20日 土曜日 09時 14分
「おっと。忘れるところだった」
廊下を進んでいくと、蓮下はそばにある一室にひょいと飛び込み、すぐに戻ってきた。部屋の入り口には『備品庫』とプレートが掲げられていた。
「これをお持ちください」
蓮下は銀色の包みを差し出した。手のひらに収まる大きさで、まんじゅうのように丸い。振るとシャカシャカと軽やかな音がした。
「ニザミウム鉱石を粉末状にしたものです。西アジアの鉱山で採れるニザミウム鉱石にはジンの力を抑制する効力があります。特秘物に潜むジンにとっては、訓練を受けていない一般の方々の精神を取り込むなど赤子の手をひねるようなもの。ですがニザミウム鉱石を身につけていれば安心です。ジンもそう簡単には手を出せません」
籐藤は何か言いかけてやめた。口にしても無駄だと諦めたかのように。その横で法律はマウンド上のピッチャーがロジンパックをそうするように、手のひらの上で投げていた。
廊下を進んでいくと、突き当りに両開きの白く巨大なスライド式のドアが現れた。壁に付いたタッチパネルに蓮下が親指を押し当てるとドアが開かれた。ドアの向こうはものが一切置かれていない白い小部屋になっており、反対側の壁にも入り口と同じスライド式のドアとタッチパネルがある。
小部屋に入り、後ろのドアが閉まる。蓮下は十秒ほど待つように言った。
「ジナテリウム探知室。この小部屋自体がジナテリウム探知器となっており、今まさに部屋中にセンサーを巡らしてジナテリウムが観測されないか確認しているというわけです」
「なるほど。厳重なんですね」
感心したように法律は言う。横で籐藤は廃寺の仏像のように顔を固まらせていた。
軽快な電子音が鳴り響き、最後にピンポン玉が跳ねるような音がすると『オールクリア』との機械音声のあとに正面のドアが開いた。
ドアの向こうには直線の通路が伸び、左右の壁にタッチパネル付きのドアが並んでいる。通路の最奥にはエレベーターと上階へ伸びる階段があった。
「特秘物にはすべて個室が用意され、特秘物ごとに必要な処置を施した上で保管されています。それでは最初に……そうですね。肝の据わった刑事さんでは生半可な特秘物では驚かれないでしょうから、ショッキングなものからいきましょう」
蓮下は通路の中央あたりにあるドアのタッチパネルに親指を押し当てた。ドアが開くと、白一色の室内の中央に、二メートル四方の透明なケースが置かれていた。
ケースの横に銀色タキシードの男がひとり立ち、三人に一礼する。男の胸には緑色のバラが咲いていた。
「異常は?」
「問題ありません。ジナテリウム値は安定しています」
「よろしい。こちらはわたしの客人だ。すこし『椿姫』を見させてもらうよ」
男は露骨に不満そうな顔をして、籐藤と法律に視線を向けた。
「副部長……わたしは反対です。『椿姫』の危険性は副部長も十分ご存じでしょう。ろくに訓練も受けていない一般人が目にして、『椿姫』のジンに憑りつかれでもしたらどうするつもりですか」
「大丈夫。ふたりにはニザミウムを渡している」
「ニザミウムなんて保険に過ぎません。あなたは間違っている。『椿姫』の恐ろしさを理解していたら、この部屋に部外者を入れるなんて発想には至らないはずだ。前から思っていたんだ。あなたには副部長としての自覚が足りない。その自覚があるならどんな手を使ってでも神社の人形を手に入れているはずだ」
「黙りなさい。きみのような若者に何がわかる。わたしは八年前の『アルテマ事変』の責任者だ。特秘物の危険性を誰よりも知っているのはこのわたしだ。知ったような口をきくんじゃない」
「言いやがったな、この野郎!」
銀色タキシードの男は腰の警棒を抜き、蓮下に飛びかかった。蓮下もまた警棒を抜いて構える。
警棒同士が弾かれる音が室内に響く。ふたりの男の荒い息遣いとともに警棒と敵意が交じり合う。ちなみにこの間法律と籐藤はケースの中をのぞいている。
「あんたは何もわかっちゃいない! いや、見ていないんだ。おれは見た。今日も見た。『椿姫』に潜むジンの笑みを。おれを誘惑し、破滅に導こうとするジンの笑顔を見た。あれほどの醜悪な笑顔をおれは知らない。『椿姫』は危険だ。おもしろ半分でひとに見せていいもんじゃないんだよ」
「『椿姫』の収集に携わったのはこのわたしだ。危険性は熟知している。わたしは副部長だ。この胸に咲く誇り高きピンクローズが目に入らぬか」
「ピンクローズがなんだ。階級が真理を見通す目を与えてくれるわけじゃない。本当に大切なものは心の中に備わっていくんだ」
銀色タキシードはテーザーガンを取り出した。だが蓮下の警棒がテーザーガンを叩き落とす。飛んでいくテーザーガンに男の目が取られた隙に、蓮下は男の鳩尾に警棒の先端を突き刺した。男は膝をついて倒れこむ。ちなみにこの間法律と籐藤はケースの中をのぞいている。
「心? なんだその非科学的な言葉は。人間はタンパク質と水分の集合体だ。この身体に心なんて物質は存在しない!」
「それでもぉ!」
銀色タキシードがロケットのように蓮下に飛びついた。肩で蓮下の身体を壁際まで押し込む。背中から壁に叩きつけられ、蓮下はうめき声をあげた。ちなみにこの間法律と籐藤はケースの中をのぞいている。
「なにごとですか!」
入り口のドアが開き、銀色タキシードの集団が室内に流れ込んできた。暴れ出した男は拘束され、部屋の外へ連れていかれた。蓮下は乱れた髪と息を整えながら、法律と籐藤が前に立つ透明なケースの方へ近づいてきた。
「いや、大変失礼しました。長時間この部屋にいたせいで、彼はジンの悪気にやられたようですな。とはいえ、これでおふたりにも特秘物の恐ろしさを理解していただけたでしょう。怪我の功名というやつですね」
「……つまり、いまの乱闘はこれのせいだったと?」
籐藤はケースの中に台座に横たわるものを指さした。
そこには古いブックマッチが置いてあった。
「おっしゃる通り! SCO―SS―E―EA―JA―0041『椿姫』。あぁ、気をつけて! ジンの気にとりこまれないよう、目を細めてご覧ください。マッチの内側に楽譜が書かれているでしょう。あれはオペラ『椿姫』の『乾杯の歌』の楽譜なんです。このブックマッチに潜むジンは、周囲の人間の精神を狂わせ、最後には大々的な放火を行わせます。捕らえられた犯人は口をそろえてこう言うのです。『歌が聞こえる。火を起こすと乾杯の歌が聞こえる。そのためにぼくは――』とね。どうです。おそろしいでしょう!」
「はぁ。おそろしいですね」
籐藤は燃えカスのような覇気のない瞳で、うす汚いブックマッチを見つめていた。
6
2021年 2月 20日 土曜日 09時 21分
「SCO―SS―E―EA―JA―2210『北緯39度68分 東経152度 58分』です」
野球の内野ほどの広さの部屋の三方の壁に巨大なパネルが張り巡らされている。全てのパネルはすき間なく繋がっており、そこには環形動物のように細長い身体をうねらせた半透明のふたつの何かが描かれていた。何かたちは規則性なく身体をうねらせ、周囲に黄、紫、緑の光の玉を浮かべている。
「ミミズとクラゲの混血児ですかな」
茶化すように籐藤が言う。蓮下は籐藤に付き合わず、咳ばらいをしてから説明を続ける。
「一九九三年の六月、太平洋北西の無人島で二頭の龍が発見されました。この二頭の龍は島の地下で千年を超える長い眠りについていたのですが、ジンが憑りつき地上に飛びだし周囲の島を破壊してまわりました。特秘委員会は委員会創設期より活躍する伝説のエージェント、ハジド・レムゼンド三世を現地へ派遣し、ハジドは用意した木壁の中に二匹の龍を封じ込めることに成功しました」
それがここにあるパネルです、と蓮下は胸を張りながら言った。法律はパネルの前で両手を背中に回し、『ほうほう』とつぶやく。さながら芸術鑑賞のように。
「SCO―SS―E―EA―JA―0333『贖いの仮面』です」
部屋を移り、蓮下が部屋の奥のガラスケースの中の椅子に鎮座するそれに手を向けた。
椅子に皮膚がこげ茶色に変色した裸のミイラが座っている。ミイラは何か宗教的な意味合いを感じさせる仮面を着けていた。形は円筒状、木の幹をくり抜いたような造りをしている。目の部分が黒く塗装されており、そこから両ほほに向かって赤い歪な線が曲線を描いて伸びている。口の部分も黒く塗りつぶされ、そこから無数の赤い線が放射状に伸びている。
「仮面を被っているのは古代ローマの罪人です。贖いの仮面が罪を吸い取ることで、罪人が浄化されるのです。しかしこの罪人は数え切れぬほどの悪事を重ねており、頭のてっぺんから爪の先まで全身が悪で構成されておりました。贖いの仮面は悪そのものである男から悪を吸い取り、その結果、男には干からびた身体以外には何も残らなかったというわけです」
「いいですね。この仮面が猜疑心を吸ってくれれば、わたしも少しは他人の言葉を信じられるようになるかもしれません」
籐藤はうんざりとした様子で両腕を組んでいる。法律はガラスケースの周囲をくるくると回りながら贖いの仮面を観察していた。
『贖いの仮面』が置かれた部屋から出ると、蓮下は満面の笑みをふたりに向けた。
「いかがでしたか。特秘物の恐ろしさを十分に理解していただけたと思います。他にも当施設には様々な特秘物が保管されておりますが、そのほとんどが一般の方の精神力で耐えられるものではありません。今日お見せしたものだけで、当財団の重要性を理解していただけることを願っております。あぁ失礼。わたしはそろそろ祈年祭の準備にかからないといけませんので」
これ見よがしに腕時計に目をやる蓮下に、法律は満面の笑みで頭を下げた。
「いやぁ、勉強になりました。まさか青森にこんなにも大量の危険なものが保管されているとは。この建物は内装も凝っていて本当にすばらしいですね」
「はっはっは。お褒めにあずかり光栄です。木でできたおんぼろ廃校舎で暮らす彼らが羨望のまなざしでこちらを見おろすのが目に浮かびますとも」
「聖ブリグダ教団のことですね。ん? 見おろす……廃校舎からこちらが見えるのですか」
「そうなんですよ。では、お見送りついでにご説明しましょう」
外に出ると、蓮下は北の方角を見るように言った。青森支部の周囲の丘には木々が生い茂っているが、なだらかな斜面となっている北側の丘だけは、不自然といえるほど木々が生えておらず、白い雪の絨毯が一面に敷かれていた。
その斜面の遥か上の方に、見覚えのある木造校舎の一部が見えた。
「村の許可を得て森を栽培したのです。聖ブリグダ教団に常にわれら特秘委員会の存在を意識させるためにね。はっはっは。」
得意満面の様子で蓮下は丘の方を指さした。法律と籐藤は愛想笑いを浮かべながら、特秘委員会青森支部を後にした。
7
2021年 二月 二〇日 土曜日 一〇時 一三分
小道を抜けおやしろ通りまで戻ると、籐藤は両腕を大きく広げて深呼吸をくり返した。
「空気がうまい。人里に戻ってきた感じがするぜ」
「言い過ぎですよ。それで、どう思いました」
雪だまりにつま先を潜り込ませながら法律が訊ねる。
「聖ブリグダ教団もアレだが、特秘委員会もためを張るアレだな。あたまのおかしいふたつの集団に囲まれて留守部村は気の毒に」
「一体の藁人形がここまで村を変えるとは驚きですね。藁人形というより、人間の信心と言うべきですか」
「しかしなぁ。あんなおかしなものばかり見せられて、事件の解決にはなんの役にも立たないだろう」
「いえいえ。案外事件とまったく関係ないと思われたものが、意外な形で関わってきたりするものですよ。うん? 何だか騒がしいですね」
トタン屋根の物置の向こうから、男たちのどなり声が聞こえる。嫌悪感を表情筋いっぱいに顕わにする籐藤を法律が引っ張ってゆく。ふたりの予想通り、空き地で黒いローブと銀色タキシードが掴み合っていた。
「この……イカレ宗教家どもめ。お前らが菅原さんを殺したんだ」
「知るか。暴力はやめろ。われわれは貴様らと争うつもりはない。アリを気にかける巨象などおらんのだ」
「宗教なんぞ信じる時代錯誤の大うつけが。とっととこの村から出て行け」
「何を。出て行くのはお前らだ。村の平穏を荒す不信人ものどもが」
籐藤は大きくため息をついてからふたりに近づく。黒いローブのフードを右手で、銀色タキシードの襟首を左手で捻りあげ、雪だまりの中に放り投げた。全身を雪に埋もれさせ、困惑するふたりの前に立ち、『お前はあっち、お前はこっちに歩いていけ。それから、二度とおれの前で下らない喧嘩をするな』と、犯罪史に名を残す凶悪犯も震えかねない警視庁仕込みの怒声をあげる。黒も銀も背中を丸め、すごすごと異なる方角へ離れていった。
「悪いねぇ。よそのもんに迷惑かけて」
声のした方に目をやると、空き地の隣の家の庭に、ニット帽を頭に被った老婆がフェンスに両手をかけて籐藤を見ていた。
「さしねくて注意しよう思って外に出だば、あんだがやってくれて助かったよ。」
老婆は手招きをする。ふたりがフェンスに近づくと、少し待つように言って、家に戻る。老婆はすぐに個包装のチョコレート菓子を両手いっぱいにもってきてふたりにわたした。
「やぁ。ありがとうございます。ちょうどお腹が空いていたんですよ。いただいちゃいますね」
法律は手袋を取り外し、チョコレートを口の中に放り込む。おいしいおいしいと繰り返す法律を、老婆はシワだらけの笑顔で見つめていた。
「お母さんは村の方ですよね。きょうの祈年祭には参加されるのですか」
「行かないよぉ。祈年祭なんて十年も前に田所さんが亡くなって止めたじゃ。今さら『やります』て言われてもなぁ」
「祈年祭は十年前に止めた?」
「んだ。白山神社の宮司の田所さんが亡くなってな。後継ぎがいねぇってんで止めにしたんだ。代わりに毎年二月の十七日になると村の管理組合が神様に捧げもんをして、そんでしまいだ」
「それが今年から復活した。それは、聖ブリグダ教団の影響ですか」
「んだ。教団さ御人形様んためにやるべきだ言うて、管理組合を焚きつけたらしいよ。若いもんも増えたし、むかしっからの村の神事を見せられんのはいいことだって、村長たちは納得したらしいね」
「村の管理組合には特秘委員会と親しい方がいると聞きました。その方は反対されなかったのでしょうか」
「菅原と大久保のとこのぼっちゃんだね。教団さ相談したけど、構うなって言われたらしいよ」
「そうなんですか。村のひとたちはあまり祈年祭に乗り気ではないんですかね」
「そうでもねよ。祈年祭てのは五穀豊穣を祈るもんだから、農家のもんは参加するみたいだし、おらよりも年のいった信心深い爺さん婆さんも参加するそうだ」
「となると、ずいぶんたくさんのひとが参加するようですね」
「なして」
「だってお母さん、まだ三十代くらいでしょう?」
老婆はケラケラと笑いながらしわくちゃの手で法律の背中を叩いた。ポケットから大量の飴玉を取り出し、法律の手の中に押しこむ。
「あぁそうだ。あとは佐田本のじいさんも参加するよ」
「どちらさまですか?」
「この村で一番のジジイだよぉ。もうすぐ百歳になるんじゃないかね。かなりボケちまってて、しょっちゅう村ん中さ歩き回っとるよ。週に一回むすめさんがむつ市から来なさって身の回りの世話さしとってね、いい歳なんだからむすめさんの所さ引っ越せばいいのに、『こん村残る』言って聞かないんだってよ」
「郷土愛にあふれたおじいちゃんですね」
「んないいもんじゃねぇ。佐田本のじいさんは迷信深いんだ。元マタギだからな」
「……マタギ?」
法律は手で拳銃を作ってみせる。
「んだ。もう何十年も前に引退しとるのに、今でも毎晩鉄砲を家で磨いとるそうでよ。ひっひっひ」
法律と籐藤は老婆に別れを告げ、白山神社の方へ向かった。その途中、黒いローブと銀色タキシードのケンカを仲裁する機会が五度あった。五回目にいたって籐藤は全身から磊塊の感情をたぎらせ、ひと言も発することなく睨みつけるだけでケンカを止めさせるという、至極平和的な手腕を披露してみせた。
白山神社に着くと、拝殿前の広場で祈年祭の準備が行われていた。村人が黄ばみとシワのある白幕を不慣れな手つきで設置している。
そんな白幕の前では、村人と黒いローブを着た聖ブリグダ教団の教団員たちがパイプ椅子を並べていた。足元は雪と玉砂利が混ざりあっており、パイプ椅子は安定せずグラグラと揺れていた。
教団員たちは作業をしながらチラチラと周囲に敵意を込めた視線を送っている。視線の先には銀色タキシードの姿がいくつもあった。彼らは囚人を監視する刑務官のようにとげとげしい表情で神社の中をうろついている。聖ブリグダ教団と違って、特秘委員会は祈年祭に対してポジティブな想いを抱いてはいない。準備を手伝うつもりはなく、ただ様子をうかがっているだけのようだ。
「それで、どう思う」
コートのポケットに手を入れ、覇気のない声色で籐藤が訊ねる。法律は首をすくめながらとろりとした目でしゃがみこんだ。
「殺された菅原さんは村の管理組合の一員で、特秘委員会と親しかった。四月に行われるという御人形様の引き渡し先を決める多数決で菅原さんが特秘委員会に一票を投じるのはほぼ確定だったことでしょう」
「少なくとも、菅原久の死は聖ブリグダ教団にとっては利があるわけだ。じゃ、犯人は聖ブリグダ教団か?」
「決めつけるわけにはいきませんね。菅原さんに殺意を抱いているひとは他にもいるかもしれません。まぁ、そのへんは盛田さんたちがしっかり調べていることでしょう」
「しかし……おれたち、真相に繋がるような捜査は何もできていないな」
「おれたちはダメかもしれませんが、彼女たちはそうでもないかもしれませんよ」
法律は前髪をかき分けて空を仰ぐ。視線の先には、断崖の上に立つ廃校舎の姿があった。