第三章 ハグドの儀式(あるいは信仰)
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2021年 2月 19日 金曜日 17時 15分
籐藤と法律は、留守部村の東にそびえ立つ山の上にある教会へ向かうことにした。教会へ行くには、村の南東部にある細い道を東に進み、そこから左折して長い直線の坂道を登っていくことになる。
背の高い木々が左右に茂る坂道を十分ほど登ると、突然木々がばっさりと途切れ、開けた空間が現れる。
スライド式の錆びた鉄門が中途半端に伸びていた。籐藤が押してみると、ガタガタと鈍重な音を立てながら鉄門は開いた。鉄門が収まるレンガ塀には『公立 留守部村小学校』と書かれたブロンズの看板が掲げられていた。
鉄門の向こうにはサッカーゴールを左右に置いた校庭が広がっている。とはいえ、ゴールのネットはボロボロに破れ、ゴールポストにも鉄門と同じくいたるところにサビがあった。
校庭は足跡ひとつない白い雪に覆われている。籐藤と法律は校庭の左側に伸びる通路に向かった。こちらの通路を覆う雪は既に無数の足跡に踏み荒らされていた。
通路の向こうに木造三階建ての校舎が構えている。庇の上の雪は落ちている箇所があり、赤い瓦がところどころであらわになっていた。灰色の雲の向こうにあった太陽は既に恐山山地の山肌の陰に沈んでおり、あたりはうす暗い。
「こんな古い校舎が今でも残っているとはな」
亀のように首をすくめながら籐藤が言う。気温は氷点下ちょうどといったところ。厚手のロングコートを着てもなお籐藤は身体を震わせていた。
「指でつつけば崩れそうなほどボロボロだ。建築基準法的に問題はないのか」
「雪が多く降る地域ですし、見た目と反して頑丈に作られているんじゃないですか。村の宝である子どもたちが生活するわけですから、そんな脆い造りはしていないでしょう」
法律は通路の左手に立つフェンスに手をかけた。背を伸ばしてその向こうを覗くと、そこは数メートルの幅をおいて切り立った崖になっていた。崖下から距離を置いて留守部村の姿がよく見渡せる。南東の方角にヒバの木に囲われた白神神社の姿が見える。
「それに、この村はかつて林業が盛んにおこなわれていたんですよね。そんな村でやわな木造建築が造られるとは思えませんね」
「しかしあのカーテンはなんだ。太陽の光が入らんだろうが」
校舎の窓は全面に黒いカーテンがひかれていた。室内はなんとも陰鬱な雰囲気をかもしだしていることだろう。
通路を進み、校舎の左側にある昇降口に向かった。ガラス張りの入り口にも全面に黒いカーテンがひかれている。『なんだか文化祭みたいですね』と法律は呑気な様子だった。
籐藤はガラス戸の取手を乱暴に引いた。ガラス戸はがたりと音を立てるばかりで開きはしない。押してみるがまた同じ。がたりと音を立てるばかり。
「おい。誰かいるんだろ。とっとと開けないか。今すぐ開けないとここをぶち破るぞ」
籐藤はドアを前後に揺らしながら声を荒げた。
「乱暴は止めましょうよ。警察を呼ばれますよ」
「おう。呼べばいいさ。おれが警察だ。犯罪者と警察の一人二役だ。おら。誰かいるんだろ。開けろ。開けないか」
ドアの向こうのカーテンが開き、黒いローブに身を包む男が現れた。顔にかかったローブを目元まで引きあげると、嫌悪感をあらわにした無精ひげの表情があらわれた。
男はガラス戸を解錠し、ドアを開けた。
「警察だ」
男に先んじて籐藤は警察手帳を突きつけた。男の嫌悪感が加速する。男はフードを被りなおし、こほんと咳ばらいをした。
「何度も言ったはずです。お帰りください。関係者以外の立ち入りは禁止しております」
「聞いてるよ。おまえら、青森県警の人間を何度も門前払いで返しているらしいな。おれは警視庁のものだ。お前らが捜査に非協力的だから、青森県警が助けてくれって泣きついてきたんだよ」
「捜査に協力するつもりはないって言ったくせに」
小声で法律がつぶやく。籐藤は視線を男に向けたまま、背後の法律の足を踏んだ。
「東京から? 遠路はるばるご苦労さまです。しかし我々には関係のない話ですね。事情聴取はきちんと受けていますよ。わざわざこちらから村の公民館に伺っているじゃないですか。話を聞きたいというなら応じます。ですが、聖なる家であるこの教会に立ち入るのだけはご遠慮ください」
「聖なる家? ただの廃校舎だろう。大層なものいいだな」
「あなたは努めるべきです」
「なに?」
「努めるべきです。精神の高次元化。聖ブリグダ神との同調。かの神の安息のために祈り、詠い、そして願うのです。ブリグダ神によって清められたこの世界。浄化された健やかなる未来を願うのです」
「そうだな。願うよ。恒河沙縛ってやつがここにいるだろ。そいつを出せ。早くしろ」
縛の名前を耳にすると、男は大きくのけぞり、フードの下の表情は剥き出しの敵意に染まった。
「無礼な!」
周囲のうす暗闇が吹き飛ぶほどの怒声が発せられた。その勢いに幾多の凶悪犯罪者と対峙してきた経験をもつ籐藤もたじろぐ。
「き、き、きさまは無知なのか? ハグドの儀式が間もなく始まろうというのに。よくもそんな気やすく陽名を口にできたものだ」
男は頭を抱え、呆れたように首を左右にふった。
「これで儀式が失敗したらどうするつもりなのだ。きさまの身勝手なふるまいのせいでハグド神のお怒りを買ったりしたらどうするつもりだ」
「おいおい。興奮すんなよ。おれはただ恒河沙……その、今週ここに来た若い女がいるだろ。そいつと会いたいだけで」
「おかえりください。これ以上むだな話をしている時間はありません!」
男は籐藤の胸を強く押した。転びかけた籐藤の身体を法律が後ろから支える。男はガラス戸を閉じると、黒いカーテンを乱暴に閉ざした。
「予想通りというかなんというか。いい具合に狂っているな」
「警視庁流交渉術は失敗ですね。強気に出て相手を怯えさせるつもりでしたか」
「で、どうする。どうもあの調子じゃ実兄のお前が頼んでも妹には会わせてくれないぞ」
「ちょっと見学していきませんか」
「なにを」
「あのひと、『ハグドの儀式が間もなく始まる』って言ってましたよね」
2
2021年 2月 19日 金曜日 17時 32分
籐藤と法律は校舎の内側から見えないよう、校舎のガラス窓の真下を進んでいった。
「儀式と言うからには、そこそこ大がかりな演出が施されると思われます。『儀式』の頭に宗教的な言葉が付くとなればなおさらです」
腰を深く下ろしえっちらおっちらと両足を勧めながら法律が言う。
「それがなんだ」
同じくえっちらおっちらと進む籐藤が不満そうに尋ねた。
「盛田刑事によると当初留守部村にやってきた聖ブリグダ教団の数は約五十人。彼らがここを訪れてからすでに六か月近く経っているので、その数はさらに増えているかもしれません」
「減っている可能性もあるんじゃないか」
「あり得ません。一か月後には彼らと同じく藁人形を欲する競合相手が現れたんですよ。特秘委員会と張り合う必要があるのに人員を減らすはずがありません。そういえば何人か村人が入信したと言っていましたね。まぁつまり、少なくとも約五十人がこの木造校舎の中にいるというわけです」
「だから、それがなんなんだ」
「五十人もの人間が集まる場所がこの木造校舎にあると思いますか?」
籐藤は足を止めて考えた。
「……普通の教室なら三、四十人でいっぱいになるな。儀式がどんなものか知らんが、何らかのパフォーマンスが行われるなら、そこそこ広いスペースが必要だ」
「籐藤さんが通っていた小学校では、そういう行事はどこでやっていました」
「校庭、だな」
籐藤は右手に広がる雪に覆われた校庭に目をやった。
「だがこの校庭には誰もいない。つまり儀式は校庭で行われるわけではない。こんな寒いのに外でやるなんて馬鹿げている」
「では、どこで儀式は行われるのでしょう。籐藤さん。全校朝礼は雨の日にはどこで行われましたか」
ぐるりと校舎の裏側まで周ると、そこに答えはあった。かまぼこ型の屋根をした体育館が建っていたのだ。体育館の背後は木々が生い茂る斜面になっていた。
法律は校舎の陰に身を返し、籐藤の口を手でふさいだ。
少しだけ顔を覗かせると、校舎と体育館をつなぐ渡り廊下を行く三人の黒いローブ姿が見えた。三人は吸い込まれるように体育館に入っていく。体育館の入り口は黒い幕に覆われている。三人が入る際にちらりと中が見えたが、うす暗いばかりでよくわからない。
「どうする。誰かを気絶させてローブを奪うか?」
「そんなハリウッド映画みたいなことはしません」
「なんだつまらん。それで」
「そうですねぇ」
法律が駆け足で体育館の裏側に向かった。籐藤も続く。ふたりはそのままぐるりと、背後の雪山の斜面と体育館の間のうす暗いところに落ちついた。
法律はかがみこみ、体育館の外壁の下部にある小窓に手をかけた。だが鍵がかかっているようで開かない。小窓の向こうにも黒幕が敷かれているようで、透明のガラスの向こうで黒色が浮かび上がっていた。
「それじゃこっち」
法律はとなりの小窓に触れる。力をいれると、カタリと音を立てて小窓が開いた。大きな音を立てないようニ十センチほどゆっくりと開く。小窓の向こうには鉄柵と黒い幕があった。ふたりがいる体育館の裏側はうすぐらい。幕を少し開いたところで、室内の人間に気づかれるほど光が注ぎこむことはないだろう。
法律と籐藤は並んで小窓の前にかがみこむ。法律が鉄柵の向こうに指を伸ばし黒い幕をずらした。
室内は異様だった。
点々と置かれた焚火ストーブから頼りない光量の炎が立ち上がり、黒のローブに身を包む何十人と言う教団員たちの影を壁に映していた。教団員たちは体育館の中央を取り囲むように円形になってひざまずき、その中央に置かれた不気味なオブジェに向かって両手を組み合わせていた。
目を凝らし、オブジェをよく観察する。籐藤はそれを見て、昼食を抜いてよかったと思った。
土管のように太い胴体が立ち、その下部から数本の触手が乱雑に伸びている。触手の先端は極端に細くなり、その先はピンポン玉のように丸くふくらんでいた。
胴体の上部には四本の腕が空をかかげるように上向きに生えている。それら四本の見た目は一つとして同じものはなかった。一本は全体がウロコに覆われ、その先端は水かきのように指と指の間に膜が伸びている。一本は剛毛に覆われ、鋭い爪を備えたぶ厚い手を正面に向けている。一本は幾何学的で、無数の定規を貼りつけたかのように角ばり、曲がり、そこに巻き付いた電飾がちかちかとランダムに蛍光色を発している。そして最後の一本は――人間の腕だ。赤い血に染まった包帯が巻き付いた人間の腕。ゆるやかな曲線を描いて長く伸びる腕の先で、白い手はちぎれかけており、皮一枚を繋いで手首から先がぶら下がっていた。
オブジェの頭部は赤子のように丸く、炎の光を反射させて照り輝いていた。目のあたりにふくらみが四つ並行に並んでいる。まぶただ。眠りにつき閉じられたまぶたが四つの目を覆い隠しているのだ。そしてそんなまぶたの下には二つの縦に長い穴があいており、さらにその下、人間でいう口のあたりは幾本もの枝分かれした触手が皮膚から生え、ぴったりと貼りついていた。
「あれがブリグダ神ですか。偶像崇拝は許しているみたいですね」
膝に手をついて目を背ける籐藤とは異なり、法律は両眼を開いてオブジェを観察していた。
「本殿にあったナイフにはめ込めてあったメダル。あのメダルに彫り込まれていたやつにそっくりです」
「あのナイフは聖ブリグダ教団の儀礼用だったな。あぁたしかに。そっくりだ」
「ちゃんと見て言ってくださいよ」
「一度は見た。一度で十分だ。あんな気味悪いもん、この世にふたつとない。だから見間違えない。一度で十分だ」
「ほらしっかり、籐藤巡査部長殿」
法律は籐藤の首根っこを掴んで持ち上げる。いたずらがばれた子猫のように籐藤は顔をしかめた。
不気味なオブジェを中央に教団員たちはブツブツとつぶやきを続けている。ある者は石像のように固まりながら、またある者は頭を上下にふりながら、両手をオブジェに向けている。涙を流しているものもいるらしく、すすり泣きの声もいたるところから聞こえた。
「どこかに縛がいるはずなんですがね。みんなフードを被っているからわからないや」
「さっきの入り口のやつ、縛のことを『陽名』とか言ってたな。ありゃなんだ」
「真名と仮名みたいなものでしょ。宗教ってよく宗教的意味合いを帯びた名前を付けるじゃないですか。キリスト教徒も洗礼を受けた時に名前をもらいますよ。イブとかノアとか。縛も『陰名』をもらったんじゃないですか。だから『恒河沙縛』は陽の名前なんですよ」
「ところで、お前の妹さんは宗教にはまるような、スピリチュアルな性格なのか」
「おや。籐藤さんは宗教に否定的なのですか。地球上の大半の人間が神を信じ、神に祈り、神のために生きているこの大宗教時代に神を否定なされるわけですね」
「おい、冗談だろ。いまは科学の時代だ。そりゃ海外には神が実在すると信じているやつもいるだろうが、そんなのは少数派だ。神が人間を造ったんじゃない。人間の想像力が神という物語を造ったんだ」
「いえ。科学と神は両立しますよ」
「しねえ」
「します」
「しないね」
「しますってば」
「そうなのか?」
「神が科学を創ったとすれば問題ないです。複雑な構造をもつこの宇宙は偉大な叡智をお持ちの神が創られたわけです。現代人類が知り得た科学知識はなんとも複雑かつ独創的で、これが自然にこの世に生まれたとは思えません。大いなる存在である何者かが意図して創られたとしか思えないではないですか」
「くだらん。おれは科学なんてものはよくわからん。だからその理論には屈しない」
「ではご存じの知識をもとに屈してもらいましょう。籐藤さん。『今日』の一日前はいつです?」
「馬鹿にしているのか。『昨日』だ」
「そうです。昨日。つまり、過去。籐藤さんは過去というものを信じていますね。では『昨日』の『昨日』は? 『一昨日』です。そうやって一日一日、時間を後退させていって、最終的にたどり着くこの宇宙の始点はいつです?」
「ビッグバンってやつだろ。この宇宙はビッグバンってやつが起きて生まれたんだ。よく知らんが」
「では、そのビッグバンが起こる前にはなにがあったのでしょう。ビッグバンが起きた場所は、どうやって生まれたのですか」
籐藤は黙り込んだ。嫌悪感をあらわにした表情で法律をにらみつける。
「仮に始点Zというビッグバンを生みだした空間、時系列の一歩前があるとしましょう。ではその始点Zが生まれる前は? 始点Zのひとつまえ、始点Yはどうやって生みだされたのでしょう。無限後退です。過去という概念が実在すると信じる以上、籐藤さんはこの無限後退を信じないわけにはいきません。ですが、無限後退は構造的に始まりを認めません。それなのに事実として過去があり、現在があり、おそらく未来がある。過去現在未来という時間軸が生まれるためには、強権的な始点の実在を認めなければならないのです。神です。時間軸を超越した存在。そんなもの、神と呼ぶしかないではないですか。つまり、『過去』を信じる籐藤さんは『神』も信じているわけです」
「ばかな。そんなのは屁理屈だ」
「屁理屈も理屈のワンオブゼム」
「じゃあお前は、神を信じているのか」
「いえ別に。そんな暇はないんで」
籐藤が至近距離で法律に雪玉をぶつける。法律は雪を払いながらこほんと咳ばらいをした。
「最初の質問に答えていませんでしたね。縛はスピリチュアルなものに傾倒する性格ではありません。ですが、何か目的を達成するためならば、スピリチュアルの領域に足を踏み入れることをこれっぽっちも厭わない性格です。おや、籐藤さん。見てください」
ふたりの位置から奥の方に見える壇上に、ひとりの教団員が現れた。壇上に現れたその姿にざわめきが起こる。教団員がフードに手をかけ、その顔を顕わにする。女性だ。金髪を頭の後ろで束ねた壮年の女性が、射るような視線であたりを見回す。法律は思わず握っていた黒幕を少しだけ閉ざした。
「これよりハグドの儀式を執り行います」
拡声器なしに、女性はよく響く声を細い身体から発してみせた。
「教団に入信されたばかりの宵星の方々にはハグドの名は聞きなれないかもしれません。ですが、ハグド神は聖ブリグダ神の忠実なる僕であり、友であり、聖ブリグダ神の深き眠りを守護する偉大なる神にあらせられます。その祈力は聖ブリグダ神に勝るとも劣らない。偉大な神なのです。またハグド神は聖ブリグダ神が眠りについておられる間、一時的な次元の管理を任せられております。現在この一時的な次元でわれら無垢にして憐れなる人類が存在できるのは、ハグド神のおかげなのです」
教団員たちが熱狂的な歓声をあげた。その声量に体育館が揺れる。体育館の裏にある山に振動が伝わり、雪崩が起きるのではと籐藤は心配した。
「明日、ここ留守部村の白山神社で祈年祭が催されます。この日本という国において祈年祭とは田の神に五穀豊穣を祈る祭りとして語られていますが、ご存じの通りこれは聖ブリグダ教団の繁栄を厭う敵対者がでっち上げたカバーストーリーに過ぎません。祈年祭で語られる祝詞を読み解けば、それがこの世界を創られた聖ブリグダ神を讃えていることは言うことを須たない事実です。ですがそれを信じないものに語り、諭すことはわれらか弱き星々には難しい。それができるのはわれら無垢にして憐れなる人類の中でも、もっともその肉体をあらわなる次元に近づけた、光星、スター零ことエイブラハム・マーシュただひとりでしょう。大丈夫。われらが聖ブリグダ神は寛大です。不信心なるものも救ってくださいます。われらはただ自らの心のままに聖ブリグダ神を信じればいいのです。その信心が聖ブリグダ神の眠りを覚まします。救済の時を一分一秒でも早めるのです」
ふたたび教団員たちが歓声をあげる。籐藤は自分が目にしているものが現実とは思えずめまいを覚えた。
「明日の祈年祭で聖ブリグダ神やハグド神の名が語れることはないでしょう。祭を執り行う村の方々はカバーストーリーを信じているようですから。ですがいいのです。われらが心の内で神の名を唱えることで祭は正式に行われる。祈りはあらわなる次元にしかと届くのです」
「なんて寛大なんだ、われらの神は!」
奇妙なオブジェの近くにいた教団員のひとりが、声を張りあげた。両手を大きく開き、悦に至ったようにその場でくるくると回りだす。
「かつてハグド神と聖ブリグダ神は敵対関係にありました。長きにわたる戦いを経て勝利したのは聖ブリグダ神でした。そしてこの時、なんと慈悲深いことに聖ブリグダ神はハグド神を自らの配下にとお誘いになられたのです。そう。ハグド神とは聖ブリグダ神の慈愛の象徴なのです。これより行われるハグドの儀式では、明日の祈年祭での祝詞があらわなる次元にいらっしゃるハグド神のもとへ円滑に届くよう、次元間メッセージリンクを完成させます。みなさまにしていただくことは単純です。祈りなさい。強く、強く、祈りなさい。最初に、ハグド神に従事する豊穣の巫女が、ふたつの次元を繋げる次元間メッセージリンクを作成します。巫女は人類でもっとも神に近づいた存在ですが、人間である故にその力には限度があります。巫女の作る次元間メッセージリンクはそのままでは短時間で消失してしまうのです。そこでみなさんの祈りでこのメッセージリンクを補強します。か細く脆いメッセージリンクが、その内部を通過する祈りの言霊によって、内部よりその強度を増していくわけです。よろしいですね。それではこれより、ハグドの儀式を始めます」
室内が静寂に包まれる。焚火の爆ぜる音だけが無音の体育館に響いた。
重苦しい太鼓の音が轟き始めた。ひとつの太鼓の音に、次々と異なる低音の太鼓の音が重なっていく。獣の群れがその蹄で大地を踏み荒らすかのような音だ。
壇上の女性がフードを被り、両手を組み合わせて天を仰ぐ。
「ぐどぅで にぷぅると つぁらとぅしゅぷるう えびでふしゅ り り りっふるぅしてぐぃ はぐどばだ ぃえ ぃえ ごるでぇっしゅと はぐどばだ ぉるぇ ぉるぇ ごるでぃっしゅと はぐどばだ ぅむぅる しゅぷるうて ごるでぃっしゅと はぐどばだ ぅむぅる しゅぷるうて ごるでぃっしゅと はぐどばだ」
フードの下から発せられる女性の声が、太鼓の音と共に室内に響き渡る。ひざまずき、両手を掲げる教団員たちは身体を震わしながらその声に聞き入っているようだった。
「恐れるなかれ。みなの祈りがこの世の救済に繋がるのだ。さぁ続け。ぃえ ぃえ ごるでぇっしゅと はぐどばだ」
壇上の女性の祈りの後に教団員たちの声が響く。ぃえ ぃえ ごるでぇっしゅと はぐどばだ。徐々に教団員たちの声は大きくなっていく。ぉるぇ ぉるぇ ごるでぃっしゅと はぐどばだ。炎も猛りその身を震わす。ぅむぅる しゅぷるうて ごるでぃっしゅと はぐどばだ。おどる。おどる。影がおどる。太鼓の音にあわせておどる。ぅむぅる しゅぷるうて ごるでぃっしゅと はぐどばだ。
「いやあ。すごいですね。まさに宗教的」
どこか感心するような表情で法律は言った。その横で籐藤はひざにほおづえを突き、だらりと表情筋を弛緩させていた。
「お前、よく平気でいられるな」
「そんなに珍しいものじゃありませんよ。世界中を見渡せばこの手の儀式なんてよくあります。祈りの言葉を唱えるだけなんて、ましなほうですよ。一月の沼津では、褌姿の男性たちが神輿を担いで海に飛び込むみそぎ祭りなるものがありますけど、あっちのほうが何百倍も危険です。怖いですよね」
「妙に説得力のある反論をしやがる。それでどうだ。妹は見つかったか」
「見つかりません。本当にこの中にいるのかなぁ」
「ハグドの神に仕えし巫女よ。その身をあらわせ。豊穣の神にわれらの祈りを伝えたまえ」
女性が叫ぶ。背後にひかれた緞帳がゆっくりと上昇していく。
緞帳の裏側はまた異形だった。
黒い布が敷かれたテーブルが乱雑に並ぶ。テーブルの上には一貫性を持たないものがこれまた乱雑に置かれていた。蝋燭が燃える燭台。赤い液体の入ったグラス。くだものが盛られたバスケット。ハヤブサの剥製。錆だらけのトロンボーン。こめかみのあたりが剥がれ落ちた人間の頭蓋骨。チャンネルスイッチが外れたブラウン管のテレビ。そして花。無数の花がテーブルの上にすきまなく横たわっている。種類は様々なようだが、その色は赤と黒に限られていた。
壇上は黒い幕に覆われ、そこが廃校の体育館であることを思わせるものは徹底して取り除かれていた。奥の黒幕には、丸い円の中で胎児のように眠る半円形の異形の生物が描かれていた。儀礼用ナイフにはめ込まれていたメダルに刻まれていたものだ。異形の生物は閉ざされた四つの目と、小さく折りたたんだ四本の腕、そして先が丸くふくらんだ触手を持っている。体育館の中央に置かれたオブジェと同じだ。
「巫女様だ!」
「巫女様がお目覚めになられた!」
教団員たちが歓喜の声をあげる。その声に呼応して場は狂乱に包まれた。太鼓の音に拍車がかかる。ある者は獣のように興奮した奇声をあげ、ある者は号泣しながらその場に崩れ落ちた。激しくおどりだすものもいれば、両手を組んで祈りの言葉を唱え続けるものもいる。
それら狂乱は、ひとりの人物の登場に起因していた。壇上のテーブルの間から、白いローブを着た女性が立ち上がる。ローブには金色の刺繡が施され、いたるところに色とりどりの宝石が装飾されていた。
女性の登場と同時に、壇上の頭上から白い照明の光が降りそそぐ。太鼓の音が止まる。狂乱も収まる。一転して白の世界に転じた壇上で、巫女と呼ばれた女性はほほえみ、手にしていた小さな鈴を鳴らした。しゃらら。しゃらら。静寂の世界で鈴の音が繰り返される。しゃらら。しゃらら。巫女はテーブルの間を滑るように通り抜けて前に進み出る。腕を伸ばして鈴を鳴らす。眼下の教団員たちにその音がたしかに届くように。しゃらら。しゃらら。
「次元間メッセージリンクが繋がりました」
いつのまにか壇上から降りていた黒ローブの女性が、ステージの下で声をあげた。
「いま、あなたたちの耳に届くのはハグド神の眠りの声です。なんと清らかなのでしょう。なんと荘厳なのでしょう。このメッセージリンクを閉ざすわけにはいきません。みなさん、いま一度祈るのです。あなたたちの祈りがこのリンクを強固なものにします。祈りなさい。祈るのです。今こそ、さぁ!」
再び太鼓の音が轟き始めた。それに合わせて、教団員たちは祈りの言葉を唱え始める。ぃえ ぃえ ごるでぇっしゅと はぐどばだ ぉるぇ ぉるぇ ごるでぃっしゅと はぐどばだ。
「ここは本当に日本なのか。おれが生まれ育ったこの国でこんなおかしな儀式が行われているなんて」
籐藤は両膝を雪の中に落とし、手袋で自分の顔を拭っていた。
「やぁ。あんなところにいるとは」
相もかわらずけろりとした様子で法律は言う。籐藤は手袋の指と指の間から疲れ切った瞳をみせた。
「……どうした妹を見つけたか」
「はい」
「どこだ」
「よく見えるじゃないですか。キレイだなぁ」
「は?」
「白いローブを着ている巫女様。あれが縛です」
3
2021年 2月 19日 金曜日 18時 00分
籐藤は両膝を抱えてその場にうずくまった。間もなく四十路を迎えるとは思えない男の哀愁がそこにあった。
「ほら。籐藤さんも見てください。しいちゃん、立派に鈴を鳴らしてますよ。あ、落としちゃった。ほら拾って。大丈夫大丈夫」
対して法律は堪えることなく、それどころか、どろりと頬を緩ませながら不気味な儀式を見物している。
「おまえ嘘をついたな。巫女だなんて崇められて、あんな格好までして、がっつりスピリチュアルに傾倒しているじゃないか」
「ですから言ったじゃないですか。何か目的を達成するためならば、スピリチュアルの領域に足を踏み入れることを厭わないって。何か考えがあるんですよ。間違いありません」
「ほう。その考えってやつはなんだ。聞かせてみろよ、こら」
「それは本人に聞いてみないと。あ、そろそろ儀式が終わるんじゃないですか」
壇上の巫女――縛が鈴の音を止める。金髪の女性が再び壇上に上がり、ざわめきを抑えきれない教団員たちに満足げな視線を向ける。
「みなさんの祈りによって次元間メッセージリンクは強固なものとなりました。これで明日の祈年祭の祝詞はハグド神のもとに届くことでしょう。それとみなに善き知らせがあります。明日の祈年祭に……黄金星、スターⅡのフランシス・モントゴメリー卿がいらっしゃることになりました」
体育館が興奮のるつぼにのみこまれる。嘘だろ。信じられない。黄色い歓声。悦に浸ったのか、ぽかんと口を開けて微動だにせず、よだれを垂らす者までいた。
「くれぐれも粗相のないよう気をつけてください。そしてモントゴメリー卿がいらっしゃることの意味――祈年祭、そして御人形様の重要性を強く意識すること。それでは、これにてハグドの儀式を終えます。り り りっふるぅしてぐぃ ぶりぐだば」
り り りっふるぅしてぐぃ ぶりぐだば。教団員たちが声を合わせて復唱した。室内の緊張感がほんのすこし緩和し、教団員たちは体育館の出口に向かい始めた。
「籐藤さん」
法律が早口で籐藤の肩を掴んだ。
「籐藤さんは、村にもどってください。あとで、公民館で合流しましょう」
「何をするつもりだ」
「縛の目的を聞き出してきます」
法律は校舎に向かって駆けだした。ぐるりと校舎の角を曲がり、その姿を消す。籐藤は法律の後を追いかけようと雪の中から足を抜いた。だがそれと同時に体育館から出てきた教団員たちの足音と声が聞こえ、ぴたりとその場で息と動きを止めた。教団員たちは渡り廊下を通って校舎の中へ入っていく。
籐藤は足音を立てぬよう、ゆっくりと後退して体育館の裏に移った。体育館の裏側に伸びる緩やかな傾斜をのぼっていき、距離をおいて体育館と校舎を俯瞰する。籐藤は目を丸くした。籐藤から見て左側、校舎の東側の外壁に縦に伸びる配管に組みつき、するすると登っていく法律の姿があった。
「あいつ、探偵を廃業しても泥棒で食っていけるな」
法律はあっという間に三階の高さまで登ると、手を伸ばしてそばにある窓ガラスに手を置いた。鍵がかかっているのか開かない。逡巡することなく配管を登り直す。屋上の縁に両手を置き、難なく身体を引き上げる。法律は三階建ての校舎をほんの数分で登ってみせた。
籐藤は厚い手袋越しに首筋をひっかいた。一度ため息をついてから、校舎の中の教団員たちに見られないよう校庭の外側を迂回して廃校を後にした。
4
2021年 2月 19日 金曜日 18時 05分
「よいしょっと」
校舎の屋上に降り立った法律は、ザクザクと降り積もった雪をかきわけながら中央の出入り口に向かった。ドアノブにはサムターンが付いていた。法律はホッと破顔した。誤って内側から施錠された際に、外側からでも入れるよう造られているわけだ。
ドアに耳を当て、内側に人の気配がないことを確認してから中に入る。照明のついていない階段が下に伸びていた。濡れた靴が床と擦れて音を立てないよう、雪を払い落とし、靴底の水分をズボンで拭ってから三階へと階段を降りる。
話し声と足音。法律は階段の暗がりに身を隠した。隣にある二階からの階段を黒いローブ姿の三人の教団員がのぼってきて廊下へ向かう。三人が通りすぎた後で法律はひょいと廊下に顔をのぞかせた。
直線に伸びた廊下の壁に点々と橙色のカバーを被せた照明が付いている。外光を取り入れる窓が廊下にないため、光源はこの照明だけのようだ。洞穴のような陰鬱な雰囲気。宗教的演出が意図されているのだろう。
人気を感じ法律は再び階段の暗がりに転がりこむ。下階から折りたたまれた黒いローブを両手いっぱいに抱えた教団員が上がって来る。教団員は階段の正面にある教室に入ると数分で出てきた。両手からローブは消えている。法律は周りに誰もいないのを確認してから、正面の教室に飛び込んだ。
教室内にはスチールラックが整然と並び、黒いローブのみならずシーツや枕といった寝具も大量に置いてあった。法律は盛田刑事が、教団員たちはこの教会で共同生活を行っていると語っていたことを思い出した。
ローブを拝借して羽織る。背の高い法律には丈が短く、すねのあたりまでしか覆えていない。まぁいいだろうと法律は教室の外に出た。
緊張は態度にあらわれる。『潜入がバレるのではないか』という怯えは不審な足取りを生じさせる。ではどうすればよいのか。あえて堂々と歩く。素人はそう考える。誤りだ。堂々と歩くことを意識すると、ひとは不自然に胸を張り、肩を切り、勢いよく足を振る。それもまた不自然になるのだ。
「……ぅむぅる しゅぷるうて ごるでぃっしゅと はぐどばだ」
では玄人はどうするのか。玄人は――自分を騙す。潜入先の人間であると自分に強く言い聞かせ、自身の精神を偽装の衣で覆ってしまうのだ。
「……ぅむぅる しゅぷるうて ごるでぃっしゅと はぐどばだ」
法律は両眼を閉じ繰り返しつぶやいた。自分は聖ブリグダ神を信仰する敬虔な信者だ。一時的な次元に現れた仮初の存在。あらわなる次元の聖ブリグダ神が永き眠りから目覚めたその時、不遇なる人生に身をおくわたしは救済されるのだ。
「……ぅむぅる しゅぷるうて――」
「えぐで ろどぅるぅり ふぁおろくぉんて?」
背後から男の声がした。顔を伏せ集中していた法律は男が近づいていたことに気づかず、かすかに身体を震わせた。
「えぐで ろどぅるぅり きろっとぅふ ふぁおろくぉへれんて?」
「えっと、あの」
「ははは。『どこか体調が悪いのですか』だよ。オアクル語さ。去年の七月にロンドン本部の研修会で学んできてね」
男はフードを少しだけ引いて顔を見せた。面長の顔に、濃い黒のフレームの丸眼鏡をつけている。眼鏡の向こうで一重の両目がまばたきを高速で繰り返していた。
「いえ。気分が悪いわけでは。わ……あ、すんません。わたし、あぁいった儀式は初めてで」
法律の判断は早かった。留守部村に聖ブリグダ教団がやってきたのは約半年前、九月だ。七月にロンドンに行っていたとすれば、この男は留守部村出身者の教団員ではない。だから法律は留守部村出身の新参教団員を装った。これなら先方が自分を知らなくてもおかしな話ではない。
「初めて? それなら仕方がない。きみからしたらまだまだ非日常的だろう。だけどわたしはロンドン本部でヒレッツポァの儀式に参加したことがあってね。あれに比べたらハグドの儀式はまだ寛容だよ」
「あの。ハグドの儀式の巫女様は、有名なお方なのですか?」
「いや、巫女様のことは……じつはぼくもよく知らなくてね。数日前に千来田様がお連れになったとだけ聞いているが」
男はフードを被り直し、もごもごと口もとを歪めた。
「まぁ巫女様っていうのは素性が知られていない方が多いからね。ロンドン本部の眠り巫女もそうだった。普段は巫女様専用の居住区で一般教団員とはかかわりなく暮らしていらっしゃるよ。ロンドン本部の居住区には眠り巫女の他に、踊り巫女や嘆き巫女といった特別な――」
「ということは、あの巫女様もわれわれとは別のお部屋にいらっしゃるわけですね」
「そりゃきみ、当然じゃないか」
「いや、知りませんでした。どうりで見覚えがないはずで。いったい、どちらにいらっしゃるんでしょう。わ……すんません。方言が抜けなくて。わたし、先ほどの儀式の鈴の音色にほんと感動しまして。巫女様にこの気持ちをお伝えしたいと思ったのですが」
「巫女様に? なるほど。だから三階でうろうろしているわけだね」
縛は三階にいるのか。法律は心の内側でうなずいた。
「えぇ。それであの、どちらに」
「おいおい。きみのような新参者が巫女様にお会いできるはずがないだろう。いいかい。巫女様はあらわなる次元にいらっしゃる神々の化身なんだ。神々に等しい存在といっても過言ではない。そんな巫女様にお会いするなど、わたしのような古株からしても恐れ多い。ほら、一階に戻りなさい。宵星は用もなく三階に上がってはいけないよ。上位階級の方々はみな二階より上で祈祷や修行に励んでいらっしゃる。邪魔をしちゃいけない。ほら、行きなさい」
法律は大人しく階段を降りた。一階には三階と異なり教団員たちの姿がいたるところに散見している。一階も三階と同じく、壁に設置された橙色の照明の光だけが光源となって陰鬱な雰囲気を発していた。
法律は教団員たちの間を抜け、別の階段から三階に上がった。ふたりの教団員が雑談しながらこちらに向かってくる。先ほどの丸眼鏡の男の声ではない。法律は自身が三階を歩くにふさわしい階級であると自分に言い聞かせた。慣れた雰囲気で気だるそうに歩く。前から来たふたりは、法律に軽く会釈をして通りすぎた。
水飲み場が横に伸びる廊下の角を曲がると、その先の角部屋の前に、巨体の教団員が立っていた。身長は裕に二メートルを超えるだろう。黒のローブは法律のそれ以上に体格に合わず小さい。フードは頭の頂点までしか被っていない。袖は七分。裾にいたっては剥き出しのふくろはぎを露出させていた。
その教団員の手には背丈とほぼ変わらない長さの金砕棒が握られていた。黒ずんだ木の棒に無数の鋲が埋め込まれている。絵本に出てくる鬼が持つような凶器を実際に目にするのは、法律にとって初めてのことだった。
法律は自分が目的地にたどり着いたことを確信した。縛は三階にいる。縛は巫女様として崇められている。そして、巨体の男が凶器を持って部屋の前に棒立ちになっているとしたら、それは十中八九、重役の警護が目的であろう。
あの部屋が巫女様ではなく、教団幹部の部屋という可能性もある。だがこれ以上の確証を得てから行動を起こすには時間がかかりすぎる。
金砕棒の男の向こうにある黒幕が敷かれた窓の方から、何かが落ちる音がした。外の庇から雪が落ちたのだろう。男はその音に気を取られ、窓の方に近づいていった。この隙に角部屋に入れるのではないか。そう考え法律は足音を立てぬよう進み出た。
その時――法律の背後から叫び声がした。
この世のすべてを嫌悪するかのような重低音が法律の耳に届く。歪なビブラートがかかったその叫びは、長く、短く、高く、低くと、異なるパターンで何度も繰り返される。
法律は思わずふりかえる。声の主は長い廊下に見あたらない。だがこの三階にいるのは確実だ。つまり、この三階のどこかの部屋に。
「おい」
今度は前方から声がした。金砕棒の男が角部屋の前にもどり、法律をにらみつけていた。
『いまの声はなんですか』という質問を法律はのどの奥に押し戻した。男の耳にも今の声は届いたはずだ。だが男は驚いている様子ではない。つまりあれは、この教会内では日常的に起きていること。教団員のローブをまといながら、それについて訊ねるなど、怪しむに足る。
「だれだ。なんの用だ。容易にここに立ち入っちゃならんと聞いとらんのか」
「巫女様はいらっしゃいますか」
法律は男に近づきながら訊ねる。
「儀式が終わったばかりでお疲れだ」
男の返答に法律は心の中で『ビンゴ』と叫ぶ。
「お目通り願います。緊急で、どうしてもお伝えしたいことがありまして」
「何を言っとる。駄目にきまっとるだろうが。さっさと行け」
「はぁ。わかりました。でも、いいのですか」
「なにがだ」
「あなたが下がれと言うのならわたしは従います。つまり、わたしが去ったことで生じるであろう問題の責任はあなたにあるということですよね。わたしは構いません。あなたに断られた、自分に過失はないと主張するまでです」
「う、うむ。しかし、でも、しかしなぁ……」
「どうです。せめて巫女様にお訊ねになってみては。巫女様が断ったとなれば、あなたは責任を免れるでしょう」
「なるほど。それもそうだな。よし、そこで少し待っとれ。お前さんの名前は」
「刻音義丹と申します」
「……おかしな名前だ」
男はドアをノックする。中から入室を許可する声が返ってくると、一礼してから男は部屋に入った。数秒後。室内からけたたましい物音が響きわたった。そんな背景音を背に男が出てくる。男は怪訝そうな顔で法律をにらみつけながら部屋に入るよう促した。
法律は部屋に入ると、音を立てぬようゆっくりとドアを施錠した。
もともと普通教室として使われていたと思われる室内は、不気味な装飾が施された家具や宗教的な祭具であふれていた。
中央には天蓋付きのベッドが置かれており、そばのラウンドテーブルには禍々しい触手を生やしたティーポットとカップが乗っている。不気味な生物の姿を描いたタペストリーや、法律が見たことのない文字の一覧表が載ったポスターが壁全体を覆いつくしていた。人間の顔を模した蝋燭立てがキャビネットの上に大量に並んでいる。天井に向けて開いた口に太いろうそくが差しこまれており、垂れてくるろうが口の中に落ちていった。
「うんしょ、うんしょ」
そんな部屋の奥で白い影がもぞもぞと動いていた。両開きのキャビネットに上半身を突っこみ、白いローブに包まれた臀部が左右に揺れている。
「まずいよ、まずいよ。こんなところを先生に見られたら大変なことになっちゃうよ」
白いローブの向こうにキャビネットに押し込まれる祭具の山があった。ガチャガチャと金属が擦れる音が絶え間なくこぼれおちる。
法律はわざと大きく咳ばらいをした。白いローブがびくりと大きく跳ね上がる。静かに立ち上がりキャビネットの中に入ると、背中を向けたまま内側から扉を閉じた。
法律はキャビネットに近づきもう一度咳ばらいをする。キャビネットはまるで生きているかのようにガタガタと震えだした。
法律はキャビネットの扉に手を置き、ゆっくりと開く。
「あのあの先生ちがうんですこれにはきちんと事情があっていやもう先生がこの手の宗教的なやつを嫌っていることはじゅうぶん承知しておりましてでもでもわたしには仕方がなかったというか他に方法がなかったというかわたしもよくよく考えたんですよよーくよーく考えたんですよ考えに考えた結果これしかないと結論にいたったわけでしてじゃあこんなふかふかのベッドが置かれた部屋で何をしているんだと言われたらそりゃもうそりゃもうおっしゃる通りですがわたしとしてもここはしばらく向こうの言う通りにしといたほうがいいかなと思った次第でしていえけっしてここのごはんがおいしくて量も多いからもう少し長居してもいいかなと考えたわけではいえそれもいくらかありますがとにかくこれには事情が! 事情が! 事情があるんです!」
「うんうん。それじゃ、その事情ってやつを教えてくれるかな」
キャビネットを開き、法律は笑顔をのぞかせた。
膝を丸めて縮こまっていた恒河沙縛は、兄の顔を見ると、安堵の息を吐きながらスライムのようにその場に崩れていった。
5
2021年 2月 19日 金曜日 18時 14分
「どうして先生の名前を使ったりしたの」
法律に手を取られ、キャビネットから出てきた縛が首をかしげる。
「巫女様と同じ恒河沙を名乗ったら大事になりそうじゃないか。巫女様のお兄様うんぬんなんて呼ばれるのはごめんだ。だから偽名を使う必要があった」
「だからってどうして先生の名前を」
「先生が『会いたい』と言ったら断れないでしょ」
「う。それはまぁ」
縛はラウンドテーブルのカップにポットからお茶を注いだ。法律は差し出されたカップを手に取る。持ち手についた無数の触手が法律の指を撫でていた。
「それで。事情ってのは? まさか本当に聖ブリグダ神を崇拝しているわけじゃないよね」
「ひとを探しているの」
「ひと?」
「わたし、今週の月曜日にこの村に来たの。真夜中で、お腹もすかせて、フラフラで雪の中に倒れこんだところを、さくらちゃんが助けてくれたの」
「さくらちゃん?」
「宮野さくら。この村で暮らしている高校生。さくらちゃんは見ず知らずのわたしを雪の中から引きずり出して、ごはんも、おふろも、おふとんも用意してくれたの。それで何か恩返しはできないかって尋ねたら……」
――お母さんを、連れもどして――
「さくらちゃんのお母さんは、聖ブリグダ教団に入信しちゃったの。今もこの教会の中で暮らしていて、さくらちゃんはお母さんとしばらく会っていないんだって」
「お父さんは」
「いない。最初からいなかったって。さくらちゃんはひとりっ子で、今もひとりで生活しているんだよ」
法律は顔をしかめ、カップに口をつけた。まずい。話の方向も、お茶の味も非常にまずい。
「だからわたし、この教会に来たの。最初は門前払い。帰るように言われたんだけど、抵抗していたら千来田さんが出てきて――」
「千来田?」
「千来田イヴリンさん。この教会の責任者ってところかな。金髪の女性で、お父さんは日本人、お母さんがイギリス人なんだって」
「ハグダの儀式を取り仕切っていたひと?」
「うん。え、やだ。観てたの」
「観てたよ。しいちゃんがシャンシャンシャンと鈴を鳴らしているところ。がんばってたね」
縛は恥ずかしそうに首をすくめながら、法律の腹を殴った。法律の口からお茶が数滴飛び出る。
法律ははっきりと思い出した。千来田イヴリンの名前は盛田刑事の話に出てきた。去年の八月に留守部村に訪ねてきた、最初の聖ブリグダ教団員。白山神社の御人形様の姿を見て落涙し、教団に譲り渡すよう村長に交渉した女性のことだ。
「千来田さんはわたしを教会の中に入れてくれたの」
「どうして?」
「巫女様だから。あらわなる次元とコンタクトする能力を持っているからって」
「そうなの?」
「らしいよ」
縛はベッドの上に転がっていたクッキー缶を小脇に抱え、サクサクと軽快な音を立てて食べ始めた。
「さくらちゃんのお母さんに会わせてくれって頼んだけど、『宮野さんは修行中の身だから』て最初は断られちゃった。ただし、明日の祈年祭が終わるまで巫女としての務めを果たしたら会わせてくれるって」
「それで、その白いローブを着ることにしたと」
『ん』と縛はうなずく。クッキーの食べかすがぽろぽろと白いローブの上に落ちていった。
「それじゃあ、聖ブリグダ教団に長居するつもりはないんだね。祈年祭が終わったら、いっしょに東京に帰ってくれるね」
「え。帰らないよ」
けろりとした表情で縛は言う。
「わたし。さくらちゃんのお母さんを連れもどすまでは帰らない。祈年祭が終わったら会わせてくれるって約束だけど、さくらちゃんのお母さんがここに残るって言うなら、わたしも残る。残って説得を続ける」
「そんなことをする義理はないよ」
「あるよ。だって約束したもん」
法律は手で顔を拭った。兄妹一の頑固者。初志貫徹に猪突猛進。目的のためならば怪しげな新興宗教の一員になることも厭わない。恒河沙縛とはそういう女だった。
「縛。いま、自分がどういう状況に置かれているのかわかっている?」
「うん?」
「火曜日の早朝に、村の神社で刺殺体が見つかったことは知っているよね」
「うん。噂で聞いた。もしかしてほう兄は事件の捜査で村に来たの?」
「ちがう。丸子さんに頼まれてしいちゃんを迎えに来たんだよ」
法律は自身が下北半島まで足を運ぶことになった経緯を説明した。縛はそれを聞いてけらけらと笑ってみせた。
「えー。丸子さんって青森県警にいるんだ。それも本部長。すごーい」
「笑い事じゃない。青森県警は事件の直前にこの村を訪れたしいちゃんを疑っている。県警は聖ブリグダ教団にしいちゃんに会わせてくれと教会を訪ねてみたけど、門前払いにあっている。県警が強行策に出るのも時間の問題かもしれない。できることなら、事件の真相を突き止めて、しいちゃんの無実を証明したいんだ」
「ん。わかった。迷惑かけてごめん。それで、わたしになにかできることはある」
「それじゃよく聞いて。これは箝口令が敷かれている情報なんだけど、事件の凶器は聖ブリグダ教団の儀礼用ナイフだった。何らかの形で教団は事件に関わっている。だけど、ぼくも警察も教会の中を調べることは難しい。そこでしいちゃんは教団の内側から事件について調べてほしい」
「任せて。事件も解決する。さくらちゃんのお母さんも取り戻す。わたしたち兄妹なら楽勝だね」
縛と法律は軽快にハイタッチを交わした。
「これ、連絡用」
法律は自分のスマートフォンを縛に渡した。
「ぼくに用がある時は『籐藤さん』に電話をして。ぼくがお世話になっている警視庁の刑事さんで、今回もいっしょに来てくれている」
「わかった」
「しいちゃん。この前買ってあげたばかりのスマートフォンもう壊したでしょ。いくら電話しても繋がらないんだから」
「壊したんじゃない。壊されたの」
「誰に」
「犯人。ここに来る前、八甲田山のホテルでアルバイトをしていたんだけど、そこでおかしな事件が起きてね。スレッジハンマーでぐしゃぐしゃにされちゃった」
「……うん。その話はまたこんど聞くよ」
その時。ドアをノックする音が室内に響いた。
「巫女様。よろしいですか」
ドアの向こうから女性の声が聞こえた。
「千来田です。何やら怪しいものがお邪魔していると聞きました。巫女様。失礼します」
施錠されているドアががたりと揺れる。
「巫女様!」
ドアの向こうから千来田の叫び声が聞こえた。続いて千来田はドアを蹴り破るよう指示をだした。金砕棒の男が横にいるのだろう。スライド式のドアに激しい衝撃が走る。
「まずいな。もう行くよ。それじゃ、よろしくね」
法律は窓辺に敷かれた黒い幕を開け、ガラス戸に手をかけた。
「あ、待って。考えてみたら、わたし、いちおう『巫女様』だから教会の中をうろついて調べまわるのは難しいかも。悪目立ちしちゃうし、千来田さんはわたしがこの部屋から出るのを嫌がっているから」
「なるほど。そうしたら……大丈夫。お兄ちゃんに考えがある」
「巫女様!」
「巫女様!」
「巫女様!」
ドアの向こうから複数の叫び声が聞こえる。騒ぎを聞きつけて教団員たちが集まりだしたらしい。今にもはじき飛ばされんばかりの衝撃がドアに走る。
法律は窓からその身を外に出すと、窓の縁に立ち、反動をつけて横に飛んだ。二メートル近く離れたあたりに伸びる配管に両手両足で抱き着く。配管は僅かにきしむ音を立てたが、しっかりと法律の身体を支えてくれた。
窓から顔を出して見守る縛に手をふると、法律はするすると地上へと降りていった。
縛が窓を閉め、黒い幕を直すと同時にドアが破られた。教団員たちが室内になだれ込んでくる。
「巫女様。ご無事で⁉」
フードを払い顔中に汗を流す千来田が荒げた声で訊ねた。その横で金砕棒の男が脱獄囚を探すサーチライトのように視線を室内に回していた。
「な、な、なんでしょう。なにも問題はありませんよ」
「怪しげな男が部屋に入ったと聞きました。その男はどちらに?」
「お、おとこ? 誰です。誰も来ていませんよ」
「いえしかし。きざ……なんとかという男が確かに――」
「失礼します」
金砕棒の男の言葉を遮り、千来田が室内を見まわり始めた。ベッドの中のみならず、屈んでベッドの下まで確認する徹底ぶりだ。
「どうして祭具がここに?」
キャビネットの中をのぞきながら千来田が訊ねる。中では無理やり押し込まれた大量の祭具が積み重なっていた。
「いえあの。部屋に飾っておくには多すぎると思って模様替えを。は、ははは」
「……誰もいないようですね」
「そんなはずはありません! おれは見ました。男がひとりこの中に。ねぇ、巫女様」
金砕棒の男が泣きそうな顔をみせる。
「黙りさない。寝ぼけて夢でも見ていたのでしょう」
「そんな。おれはたしかに……そうだ。きっと窓から逃げたんですよ」
「ここは三階ですよ。ベランダもないし、足場にして降りるようなところもありません。そんなことができるのは……猿くらいです!」
窓の外を見ることなく千来田は言った。
「そうですそうです。猿くらいですよ。はっはっは」
縛は笑いながらクッキーをつまみ始めた。
5
2021年 2月 19日 金曜日 18時 21分
配管をするすると降りながら法律は腕時計で時刻を確認した。六時二十一分。既に太陽は水平線の向こうに消え、あたりは完全に夜の帳に包まれていた。
黒いローブを着ていることが功を奏した。法律は闇に紛れながら玄関前の通路を抜けていき、校門から外に出た。公民館にたどり着くと、中で籐藤と盛田、そして苺刃がストーブの周りに集まっていた。
「ただいま戻りました」
黒いローブを脱ぎながら法律が声をあげる。三人の警察官は勢いよく立ち上がり、法律のもとに駆け寄ってきた。
「ほらな。おれが言った通り無事だっただろ?」
籐藤は鼻息を荒くしながら盛田を小突いた。
「恒河沙さん。ごくろうさまです。それで、妹さんには?」
「会えましたよ。ただ、妹は教会から出てくるつもりはないみたいです」
法律は教会内で見聞きしたことを伝えた。籐藤と盛田は頭を抱える。苺刃は『はぁ』とひと言をこぼし、卓上の茶請けに手を伸ばした。
「宮野さくらね。もちろん知っていますよ」
盛田はむすりと顔を歪めた。
「恒河沙縛……失礼、妹さんを家に泊めた張本人だ。なるほど。宮野さくらは妹さんにそんなことを頼んでいたのですね」
「宮野さくらから聞いてなかったのか」
籐藤は尖った口調を盛田に向ける。
「ええ。話してくれませんでしたよ。どうして教会に向かったのかを訊ねても、知らぬ存ぜぬでした」
「怖かったんでしょうね」
苺刃が煎餅を割りながらつぶやいた。
「自分が黙っていれば恒河沙縛さんが教会に行くことはなかった。帰ってこないところを見ると、どうも教会の中に迎え入れられたらしい。怖いでしょうね。自分のせいで、ひとりの人間がおかしな新興宗教に潜り込んでしまったわけですから」
「苺刃さん。そりゃおかしいですよ」
盛田は年齢も階級も下の苺刃に敬語で語りかけた。
「お母さんを連れもどしてくれと頼んだのは宮野さくら本人ですよ。彼女にとってはいい方向に話は進んでいる。喜びはすれど、怖がる通りはありません」
「え。まさか、宮野さくらさんが本気で頼んだと思っているんですか」
苺刃が首を傾げる。
「月単位で子どものところに帰らないほど宗教にのめり込んでいる母親を、会ったばかりの人間が本気で連れもどせると思ったと? 違うと思います。宮野さくらさんは高校生なんですよね。まだ子どもです。寂しかったんです。お母さんを連れもどしてほしい。その想いは本当で、でも実現するはずがないことも分かっていた。子どもが七夕の短冊に『アイドルになりたい』と書くのと同じです。願いが叶わないことは分かっている。でも願わずにはいられない。だからつい口にしてしまったんです。その言葉を、恒河沙縛さんは本気で叶えようとしたんです。そうじゃないですか」
苺刃の視線は、縛をよく知る法律に向いていた。法律は破顔し、大きくうなずいた。
「ぼくもそう思います。とりあえず、宮野さくらさんから話を聞く必要がありますね」
「それは明日の朝いちばんにしましょう」
盛田は腰を上げ、大きくノビをした。
「わたしはこれから署に戻って捜査会議です。恒河沙さんを待っていたんで、遅刻は確定ですがね。お三方はどうします?」
「ん。おれたちはむつ市のホテルにでも――」
「ご、ごめんください」
玄関の方から男性の声が聞こえる。苺刃がパタパタとスリッパの音を立てながら向かう。苺刃に連れられて、男がひとり入ってきた。
「刑事さんどうも。ま、まさか女性がいらっしゃるとは思いませんで」
「先生。どうなさいました」
先生と呼ばれた男はぺこぺこと頭を下げながら『いえいえいえ』とくり返す。黒い直毛に交じって大量の若白髪が見える。南極大陸に挑むかのようなファーの付いたぶ厚いダウンに身を包み、そのダウンのいたるところに付いた反射シールが室内の照明でぎらついていた。
「公民館の電気がついているのが見えまして。刑事さんはみんなもう市内に帰ったころだと思いましたから、電気を消し忘れたのではないかと確認しに来たわけです」
「そりゃご心配をおかけしました。わたくしらももうすぐお暇しますので。あ、こちら村でお医者様をやっていらっしゃる新橋さん」
盛田は三人に新橋を紹介した。
「それで事件は、どうです?」
「ぼちぼちといったところですな」
「ぼちぼちですか。ねぇ、犯人はまたひとを殺すつもりでしょうか。テレビのミステリードラマなんかだと中盤くらいに二人目の被害者が出たりするでしょう」
「先生。テレビと現実をいっしょにしちゃだめですよ」
「ですが、実際に犯人は菅原さんを殺しているわけで。人間ってのは一度行動すれば抵抗感が薄れる生き物だと思うんですよね。つ、つまり。犯人は――」
新橋はダウンの上からでもわかるほどガタガタと全身を震わす。盛田は頭を掻きながら、低いうなり声を発した。
「心配しなさんでくださいな。こんだけ警察が村をうろついている中で殺人を犯すやつなんておらんですよ」
「ですが。菅原さんは夜中に殺されたんでしょう。刑事さんたちが市内にお帰りになられたタイミングで、犯人はまたひとを殺すかもしれないじゃないですか」
「菅原さんが殺されたのは神社の境内です。先生には真夜中に寒空の下を歩く御用がおありで? 戸締りをしてあの立派なご自宅で明け方まで眠っていれば大丈夫ですよ」
「り、立派だからこそ怖いんですよ。村長はどうして一軒家なんかを用意してくれたんですか。ぼくはひとり暮らしだし、後任が来たらすぐに青森に帰るから小さなアパートで十分なのに。部屋は広いし、その数も多い。そのくせ電気の数は少ないときた。夜中にトイレに行くだけでホラー映画なもんで――」
「泊めてください」
タケノコのように手をピンと伸ばしながら法律が言った。
「その立派なお宅に泊めてください」
「……ホラー映画がお好きで?」
「そこそこ。いえ、そうじゃなくて」
「馬鹿。なに失礼なことを言ってんだ」
籐藤が声を荒げるが、法律は意に介する様子はない。
「新橋さん。こちら、警視庁刑事部捜査第一課の籐藤巡査部長です。幾多の悪人をお縄にかけてきた、多治見要蔵も懐中電灯を消して逃げ出す名刑事です。そんな名刑事が家にいるとなれば、どんな殺人鬼だろうと手出しはできません。ですので、泊めてください」
新橋の顔がねぶた祭のように華やぐ。
「そりゃ願ってもない幸運です! もちろん喜んで。どうぞどうぞ。すごいな。まさか東京の刑事さんが留守部までいらっしゃるとは。あなたも警察のかた?」
「いえ。ぼくは探偵です。恒河沙と申します」
「探偵まで! 東京の刑事さんは探偵さんとバディを組んでいらっしゃるわけで。おお。ドラマでよくあるコンビは実在するのですね」
「おい。おまえ何を考えているんだ」
籐藤は法律に怒気に満ちた耳打ちをした。
「詳しい話はあとで。手短に言います。ぼくたちはこの事件の捜査に介入します」
「本気か?」
「本気です。事件当時の現場を見たいので、この村に留まる必要があります」
「あのー。わたしも泊めていただけるんでしょうか」
きのこのようにひょっこりと手を上げた苺刃が小首をかしげた。
「わたくし、おふたりの案内役ですので離れるのはどうかと」
「じょ、女性はだめです! こんなキレイなひとを男だけの家に泊めるだなんて」
「それじゃあわたしは、むつ市のホテルに泊まった方がいいですか?」
「いえ。苺刃さんにも留守部村に留まってもらいます」
法律は有無を許さぬ口調で言った。
「大変恐縮ですが、苺刃さんには重要なお仕事をお任せしたいので」
「よろこんでお引き受けします。それで、わたしはどちらのお宅に泊めていただけるのでしょう?」
6
2021年 2月 19日 金曜日 19時 15分
「巫女様――」
ドアの向こうから千来田の声がした。縛はクッキー缶をベッドの上に置き、慌ててドアに小走りで近づいた。
「ど、ど、どうしました。祭具はきちんと元の場所に戻しましたし、えぇもちろん霧のように消えた謎の男のことなんて知りませんとも」
「いえ。そういった件ではなくてですね。失礼します」
千来田はドアを開け、縛に要件を伝えた。
縛は十回ほどまばたきをしてから、短い叫び声をあげた。
「どうなさいました?」
「い、いえいえ。何でもありません。それより、うん。よきにはからえ、です」
「……わかりました。少々おまちください」
千来田は訝しむような表情を見せながらドアの向こうに消えた。数分後、再び千来田は戻ってきた。
「申しわけありませんが、ボディチェックをさせていただきました。さぁ、どうぞ」
千来田の後ろから、黒いローブを羽織った女性が進み出た。縛に近づくと、その手を取りぺこりと頭を下げた。
「お嬢様!」
かん高い声が室内に響く。
「探しましたよ、お嬢様。まさか聖ブリグダ教団様のお世話になっていらっしゃるとは思いもしませんでした。はい。事情は伺いました。ご安心ください。もう教団の皆さまにご迷惑をおかけすることはございません。これからはこのわたくしがお嬢様の身の回りのお世話を務めさせていただきますので」
「こちらの方は、あなたのお家の使用人だとか?」
相も変わらない訝しむ表情で千来田が訊ねる。縛は光の速度の首肯を返した。
「つ、積もる話もありますので。ふたりだけにしてもらえますか」
「……では失礼します」
千来田が下がると、ふたりは揃って安堵の息を吐いた。
「き、緊張しました。あんな長いセリフを喋ったのは運動会の選手宣誓以来ですよ」
黒いローブを羽織ったまま女性はぺたりとその場に座りこんだ。縛も両ひざを曲げて女性の顔をのぞきこむ。
「あの。あなたがほう兄の?」
縛は別れ際の法律の言葉を想起した。『なるほど。そうしたら……大丈夫。お兄ちゃんに考えがある』。
「え、あ。はい。青森県警の苺刃柚乃巡査です。巫女様……ちがった。恒河沙縛さんと合同で潜入捜査を行うため参りました。えっと、よろしくお願いします」