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第二章 村に留まるあやしいやつら(あるいは救済)

 1

 2021年 2月 19日 金曜日 11時 40分 


「おれは丸子まるこ警視長に同情するぞ。とんでもない話だ。たかが探偵にそこまで尊厳を傷つけられて、それでも警察を続けているなんて大したものだよ」

「いちおう、ぼくも探偵なんですけどね」

「なんだ。ご尊顔をはいあがたてまつれってか。えらくなったもんだな」

「またそうやっていじわるを言う。とにかく、『笑うランタン事件』で丸子さんは恒河沙ごうがしゃ理人りひとに激しいパワハラを受けて廃人同然となりました。その結果彼は多くのキャリアが嫌う地方への転勤を喜んで引き受けるようになったわけです。理人は警視庁が絡む大きな事件にばかり首を突っこんでいましたので、大型都市から距離を取れば二度と理人と会うことはないと考えたのでしょう」

「それなのに自身が本部長を務める青森県下で『恒河沙』の名前を耳にして、ショックのあまり失神してしまったというわけか。やれやれ」

 はやぶさ9号の車内に人工音声のアナウンスが流れる。間もなく新青森駅に到着するとのことだった。

 籐藤剛(とうどうつよし)巡査部長はダークブラウンのスーツの袖のほこりを払い落した。スポーツ刈りの黒髪と、野犬のような両眼は初対面の相手には問答無用で警戒心を与える。捜査第一課凶行班の名札に違わぬ外見だ。

 窓際の席に座っていた青年探偵――恒河沙(ごうがしゃ)法律(ほうりつ)は、東京駅から新青森駅までの道中約三時間の間、常に膝の上に置き続けていた黄色いリュックサックに飲みかけのオレンジジュースのペットボトルを入れた。背中とシートの間に挟んでいたダウンジャケットの袖に座ったまま両腕を通す。細い目をさらに細くして大きくあくびをすると、子犬のような息を吐き、口をもごもごと動かした。

 丸子本部長がむつ市警察署から市内の病院に搬送されてから十二時間後、白いベッドの上で目を覚ました丸子はいの一番に警視庁副総監のかつら十鳩じゅうばとに電話をかけた。

 スマートフォンの液晶に丸子の名前が表示されて桂は首をかしげた。警視庁在籍時は自身の部下として()()働いてくれた丸子から連絡が来るのは久しぶりのことだった。桂は日本警察において『恒河沙探偵事務所』と近しい存在であり、同探偵事務所を忌み嫌う丸子は可能な限りこの副総監との接触を拒む傾向にあったからだ。

 桂はことの次第を聞き、初手で捧腹絶倒ほうふくぜっとう、二手で先方の依頼を了承した。

 青森県の留守部村に滞在している恒河沙理人の息女、恒河沙縛しばりを即刻東京に連れ戻してほしい。丸子の依頼は簡潔だった。

 桂は警視庁刑事部捜査第一課の籐藤剛巡査部長と同課今江(いまえ)恭子(きょうこ)巡査部長を介し、恒河沙探偵事務所の所長恒河沙法律と、その妹の恒河沙氷織(ひおり)に、彼らの妹の縛を迎えに行くよう伝えた。恒河沙探偵事務所は別の依頼をひとつ抱えていたが、氷織ともうひとりの妹のLAWがその依頼を担当し、長男の法律が青森へ縛を迎えに行くこととなった。

 常人には理解できない狂人による狂気の犯罪――常人揃いの警察では解決が難しい事件が起きた際、警視庁は同探偵事務所に捜査協力を仰ぐ密約を結んでいる。副総監の桂はこの密約の締結者であり警察サイドの総責任者。籐藤と今江は実際に探偵と行動を共にする現場責任者である。警視庁が過去に恒河沙探偵事務所と同密約を結んでいた際は、探偵としては優秀で幾多の難事件を解決に導きながらも、背徳没倫はいとくぼつりんを体現する同探偵事務所前所長恒河沙理人のせいで、ひとつの事件を解決するたびに幾多の捜査員が心的外傷を負い退職に追いやられた。警視庁上層部で『恒河沙』の名前を蛇蝎だかつのごとく嫌うものは今でも少なくない。その嫌悪は彼らと連れ添って捜査にあたる籐藤と今江にも向けられる。少なくとも、名立なだたる警察官としての輝かしい未来が彼らに保証されていないことは警視庁内での共通認識であった。

 新青森駅のホームに降りると、全身を襲う寒気に籐藤はたじろいだ。新幹線のホームは屋根とガラス窓に覆われているものの、十分に外気を閉めだすことはできないようだ。広々としたホームで乗客たちは小走りで新幹線に駆け乗り、または階段を降りて改札口へと向かっていった。

「案内役のひととはどこで待ち合わせを?」

 階段を降りながら法律が訊ねる。ショルダーストラップの調整が緩いようで、動くたびに黄色のリュックサックが上下に揺れる。

「改札を出たところで待っているってさ」

 果たして改札が目に見えたところで、籐藤は鬼瓦のように顔を歪めた。その隣で法律は大きく口を開けてけらけらと笑いだした。

 改札の向こうの柱の下に淡いブラウンのロングコートを着た女性が立っていた。襟にもこもこと付いたボアの内側で、小動物のような頼りない表情が改札から出てくる人の顔を必死に追いかけている。目鼻立ちの整った小柄な美人ではあるが、全身がかもし出す畏縮した雰囲気のせいで不思議と魅力に欠ける。

 まわりのひとたちはそんな女性が()()()()()()()をじろじろと見ていた。持ち手のついた大きな看板。白い画用紙が貼られた看板には『ようこそ青森へ 警視庁刑事部 籐藤剛巡査部長 歓迎!』とマジックで書かれていた。看板のふちには折り紙で作ったと思われる色とりどりの花が貼りつけられ、今、ピンク色の花がぽとりと落ちた。

 籐藤は駆け足で改札を抜ける。女性は文字通り鬼気迫る表情の籐藤に動じる様子はなかった。むしろ待ち合わせの人物が気づいてくれたことに安堵したようで、朗らかな笑顔を浮かべてみせた。

「おい、あんた」

「あ。はじめまして! あの、わたくし。青森県け――」

 女性が深々とお辞儀をすると、看板も前に倒れ籐藤の顔面に直撃した。衝撃で金と銀の花がぽとぽとと落ちた。

 籐藤はうめき声をあげながら膝をついた。その後ろで法律がげらげらと笑っている。

「あ、あ、申し訳ありません。あぁ、東京のおえらい方になんてことを」

「……下ろせ」

「はい?」

「その馬鹿げた看板を下ろせと言っているんだ!」

 籐藤が声を張りあげる。ひたいと鼻が赤く腫れていた。

「え、また下ろすんですか。わかりました」

 看板が再び振り下ろされる。悲鳴が新青森駅のホームに響き渡る。籐藤の額と鼻はさらに赤くなった。



 2

 2021年 2月 19日 金曜日 12時 07分

 初対面で籐藤に二撃・・を喰らわしたこの女性は、青森県警警務部総務課秘書係の苺刃いちごば柚乃ゆのと名乗った。

 差し出された名刺には、苺と柚子ゆずのデフォルメされたキャラクターが描かれている。階級は巡査。『こんなふざけた名刺は警視庁なら許されない』と籐藤は毒を吐いた。

「警視庁の籐藤だ」

「はい。存じあげております。お名刺ちょうだいいたします」

「恒河沙法律です」

「どちらさまです?」

「探偵です」

「どうして探偵さんがここに」

「大変です籐藤さん。どうもお話が通じてないみたいです」

「おい。上司からなんて指示を受けてここに来た」

 籐藤はくちびるを曲げて言った。手にしていたボストンバッグを乱暴に背中に回す。

「はぁ。警視庁から籐藤巡査部長がいらっしゃるので、お迎えしてむつ市の留守部村までお連れするようにと」

「おれ一人が来ると? あんたの上司は誰だ。なんてやつから指示を受けた」

「丸子警視長です。わたし、本部長付きの秘書業務を担当しているんですよ」

 苺刃は鼻を鳴らし大きく胸を張った。対して籐藤はげんなりとした表情で舌打ちを放つ。

「いやぁ、嫌われていますねえ」

 法律は左右に身体を揺らして笑う。

 丸子には桂から、籐藤と法律を留守部村に向かわせると伝わっていた。恒河沙の名を恐れる丸子にとって、ひとりのみならず法律ふたりまでも自身の担当地域に足を踏み入れるなど、口にするのもおぞましい事態なのだろう。

「放浪癖のある妹が留守部村に現れたことをぼくと()()()()()関係の丸子さんが教えてくれましてね、妹を迎えにこうして青森までやって来たというわけです。それと、留守部村では殺人事件が起きたと聞きました。捜査第一課の籐藤巡査部長が、ぼくのお守りと兼任して、少しでも捜査に協力できればと同行してくださったわけです」

 法律が言うと苺刃は『なるほどお』と羨望せんぼうのまなざしを籐藤に向けた。籐藤はそっぽを向いてため息をつく。

 三人は新青森駅に隣接する立体駐車場に向かった。駅の外では灰色の空から細かい雪が降っていた。

 駐車場の一階に停めてある黒いセダンに三人は乗り込んだ。運転席に苺刃。助手席に籐藤。後部座席で法律がシートベルトを締める。

「留守部村ってところではどんな事件が起きたんだ」

 シートに深く腰を降ろした籐藤は苺刃に訊ねた。

「えーと。まず目的地ボタンを押して……なんとおっしゃいました。籐藤巡査部長」

 まごついた様子でカーナビの画面を押しながら苺刃が返す。

「事件だよ。留守部村で殺人事件が起きたんだろ」

「詳しくは知りません。噂によると、遺体が発見された状況と、村自体・・・に変わったところがあるそうです」

「村自体に?」

 後部座席の法律が眉をひそめる。膝の上には黄色いリュックサックが乗っている。

「たしか留守部村は下北半島の山間部にあるんですよね。ネットで少しだけ調べましたが、特別『変わった』と言えるような村ではなかったと思いますが」

「あれ。おかしい。最初の画面にもどっちゃった。はい? あぁ、そうですね。留守部村は普通の村ですよ。少なくとも、わたしが知る限りは」

「知る限りは?」

「わたし、子どものころ一年間だけ留守部村の近くの漁村に住んでいたんですよ。何回か留守部村に行ったことがありますが、ふつーの集落でしたよ」

「なるほど。土地勘があるから、苺刃さんが今回の案内役に抜擢されたというわけですね。いやぁ心強い。改めてよろしくお願いします」

「はい。お任せください。でも、どうしよう。カーナビの設定ができません」

 籐藤が苺刃の指を払い、留守部村までのルートを設定した。青森市街を東に横断し、まさかりの形をした下北半島を、つかの下から上っていく。柄と刃の間にあるむつ市街を経由し、陸奥湾沿いに走りしばらく行ったところで山間部に入る。留守部村はそこに位置している。

「さすが東京の方。コンピューターにお強いですね」

「……事件について詳しく知っておきたい。捜査資料はないのか」

「あります。出発前にむつ市警察署から送られてきました。といっても、わたしはまだ中は確認しておりませんが」

 苺刃は助手席側のグローブボックスを指さした。籐藤が開き、中から角形封筒を取り出す。機密事項たっぷりの種類を車内に置きっぱなしにしていたらしく、籐藤は露骨にうんざりとした表情をみせた。

「それでは出発しますね」

 苺刃は大きく息を吐いてからシフトレバーをドライブに入れた。

 のろのろと動き始めた車内で籐藤が封筒の玉紐をほどき、中の資料に手をのばす。その時――

「のわ!」

 急ブレーキがかかり籐藤は前につんのめる。

「すみません! すみません!」

 セダンが正面に停車しているミニバンカーにぶつかりかけた。これがミニバンカーではなくもう少し大きな車だったら衝突していたに違いない距離だ。

「お、おい。あんた……」

「えっと。シフトレバーを……こう、リターンに入れて……あれ。サイドブレーキを先に引くんでしたっけ」

「まてまて。ちょっと、ま――」

 三人を乗せたセダンは駐車場の中では許容しえない速度で走り出す。苺刃が慌ててブレーキを踏みこむ。駐車場内にゴムタイヤの悲鳴が響きわたる。後方の柱の数センチ手前でセダンは停まった。

「すみません! すみません! さっき車を停める時は上手くいったんです。駐車場に入ってから四十分はかかりましたけど」

「まて。まてまてまて! おまえもしかして」

 セダンは急発進し、今度は斜め正面に停まるクラウンにぶつかりかけた。前方につんのめりながら籐藤が声を荒げる。

「お前、車の運転が――」

「はい。普段は内勤ばかりでして、車の運転は教習所以来です。ですがご安心ください。来る前にネットで雪道の運転のコツを調べてきましたから」

「雪道でなくても死ぬわ! おい、法律。代われ。お前が運転しろ」

「えぇ。無理ですよ。ぼくだって慣れない雪道の運転は怖い」

 法律のくぐもった声が後ろから聞こえる。見ると法律の顔面は助手席のシートの背中に突き刺さっていた。

「籐藤巡査部長。一般人に警察車両を運転させるのは何かしらの規則違反に該当するのではないでしょうか」

「だまれ。苺刃巡査。だまっていろ」

「籐藤さんが運転すればいいじゃないですか。普段から運転はしているわけですし、雪道だって大丈夫でしょう」

「おれはこの捜査資料を読みたいんだよ!」

 籐藤は封筒を乱暴に叩きつけた。

「だけど……冷静に考えてくださいよ。ぼくは雪道の運転は自信がない。かといって苺刃さんに任せるわけにはいかない。苺刃さん。ここまで来るのに出した最高時速は?」

「ニ十キロくらいです。雪道はゆっくり走るといいと再生回数二桁のYouTuber(ユーチューバ―)が言っていました」

「はい。となると留守部村までの距離は約百四十キロですので、ニ十キロで走ると七時間はかかるわけですね。どうかしています。籐藤さん。道はひとつです。大人なんだからワガママはやめてください」

「……おれ、青森が嫌いになってきた」

 籐藤と苺刃が席を交換すると、セダンはわずか三十秒で駐車場を後にした。

 新青森駅を出て、国道を東に走り続ける。除雪作業が施された道路は、アスファルトの黒と新しく積もりだした雪の白で淡いグラデーションを生みだしていた。慣れない雪道での運転に最初は苦戦した籐藤であったが、ものの数分もするとコツを掴んだ。

 留守部村の捜査資料は後部座席の法律の手に渡っていた。封筒の中の紙束を法律は熟読している。

「それで、どんな事件なんだ。遺体ホトケが発見された場所に変わったところがあるとか言ったな」

 籐藤が訊ねる。しかし、法律は資料に目を落としたまま返事をしない。

「おい、聞いているのか」

「これは……ちょっと厄介なにおいがしてきましたね」

「なんだ。遺体はどこにあったんだ」

「神社の境内です。いえ、厄介なのは遺体のことじゃなくて。それよりも、なんだ。なんなんだこの村は? こんなことがこの日本で起きているなんて」

「何をブツブツと。おい、資料をよこせ。おれにも読ませろ」

「駄目ですよ、籐藤巡査部長。警察官がながら運転なんてしちゃいけません」

 後部座席に伸ばした籐藤の左腕を苺刃がハンドルに戻した。籐藤は忌々しそうに舌打ちを放った。

「よそ見しなくても危険な運転しかできないお前には言われたくないな。法律。ちゃんと説明しろ」

「お断りします」

「あ?」

「怖い顔をしないでください。籐藤さんが()()なタイプの話なんですよ。というかぼくも、この資料を読んだだけでは……とても信じがたい。とにかく留守部村に急ぎましょう。ご自分の目でご覧になれば、籐藤さんもきっと理解してくれるはずです。留守部村が今、どんな奇怪な状況に置かれているのか」

「本当、東京に帰りたいなぁ……」

 セダンは下北半島を北上し、二時間半かけてむつ市内にたどり着いた。時刻は午後の二時三十分。市内のコンビニで初めての休憩をとったが、籐藤刑事は捜査資料に目を通しはしなかった。むつ市内から留守部村までは車で約三十分。ここまで来たら法律の言う通り、自分の目で村の奇怪・・な状況とやらを確認してやると意固地になっていた。

「むつ市警察署の刑事部にはおれの高校の後輩がいてな」

 市街地を抜けたあたりで籐藤が言った。苺刃と法律は、籐藤におごらせたホットココアとサンドウィッチで遅い昼食を堪能していた。

「今回の事件を担当していて、今日も留守部村にいるらしい。村についたらまずこいつを訪ねよう」

 二車線の国道を走る車の量が減っていく。市街地を抜けると、右手に恐山山地の山々が並び、左手には陸奥湾が現れた。山も海ももやがかかっている。

「苺刃さん。留守部村っていうのは、どういう村なんですか。捜査資料には村についての情報が少なくて」

 法律の質問に『わたしが知っている限りでよければ』と前置きをして苺刃は語りだす。

「端的に言いますと、山の中にある限界集落です。もとは室町時代から始まった林業で栄えていたのですが、昭和の途中から日本に入って来るようになった輸入木材との競争に負けて林業は徐々に衰退していきました。主要産業が衰退して、少しずつ仕事のある都市部に人口が流出していき、限界集落のひとつが生まれたというわけです」

「青森市内に移ってもいいし、同じ下北半島のむつ市街地に移っても仕事はあるわけだからな」

 ハンドルを手のひらで撫でながら籐藤はどこか不満そうに言った。

「村で儲けの少ない木を切り続けるよりは、街のスーパーでレジを叩いていた方が確実な収入になる」

「ほとんどの村人がむつ市街地の会社やお店で働いているみたいですよ。他には山から下りたところにある漁業関連ですね。ホタテの缶詰の工場で働いているひとなんかもよくいるって聞いたことがあります。わたしが留守部村の近くの港町に住んでいたころ、留守部村の子どもたちが何人か同時に転校してきました。ちょうどその年に留守部で唯一の小学校が廃校になって、その子たちは毎日車で遠くの学校まで通うことになったんです。かわいそうですよね」

「限界集落。過疎地か。まったくもって胸がモヤモヤとする話題だな。この日本って国はその土地のほとんどが山間部だ。山と山の間にある平野にひとが集まり、都市ができて、文明が成長してきた。さっき通ってきたむつ市街地だって例外じゃない。下北半島で唯一の平野があの市街地なんだろ。住みづらい場所、金儲けができない場所から人口が減るのはある意味必然だ」

「それと同時に、郷愁ノスタルジアを感じるのも人間として当然です」

 法律はふたつのシートの間から亀のように首を突きだした。

「生まれ、暮らし、育った土地に人間は親しみを覚えます。どれだけ離れてもいつか帰る場所、それが故郷であり、ひとは皆心の中に故郷をもっています。故郷を離れることは、自身のアイデンティティの一部を喪失することを意味するわけです。自分が自分であり続けるためには故郷が存在し続けなければならない。過疎化の解消は大きな課題ですよ」

「そんな限界集落での殺人事件となると、犯人はすぐに見つかりそうなものだけどな。犯人が村人なら、人口が少ない分犯人捜しは楽になる。都会と違って田舎はプライバシーという概念が薄いだろ。被害者を殺し得る人間だって、簡単に見つかりそうなもんだがなぁ」

 籐藤が声を張りあげて同意を求める。助手席の苺刃が首肯するのに対し、法律は無言のまま捜査資料に視線を落とした。

 セダンは苺刃が子どもの頃に住んでいたという漁村に入った。家々のすき間から陸奥湾が姿を見せる。海に広がる白い靄はさきほどよりも濃くなったようだ。漁船の影がいくつも点在し、頼りげなく波に揺られていた。

 漁村の途中で右折し、北にある恐山山地へ向かう。川沿いの県道を進むと、歩行者も家屋もその数は減っていき、代わりに雪の積もった背の高い常緑樹が道路を覆うように左右に立ち始めた。

「あそこが留守部村です」

 漁村から走り始めて十分ほど、苺刃が細い指を正面に伸ばした。ガードレールと常緑樹が途切れ、視界が大きく広がった。トタン壁の小屋を筆頭に、いくつもの家屋が前方に現れる。マンションやアパートのような集合住宅なんてものはない。ほとんどが庭付きの一軒家だ。風が吹けば飛んでしまいそうな古い家から、つい数年前に建ったばかりだろう新しい外壁のものもある。車庫がある家がほとんどだが、ときおり庭先に車を出したままにしている家もあった。

 村に入って少し進むと、道路が二股に分かれる。二本の道路は並行して南北に延び、これらの道路に沿うように家が立ち並んでいる。村の東側には雪が積もった山が壁のようにそそり立っており、『雪崩でも起きたらのみ込まれちまうんじゃねえか』と籐藤が縁起でもないことを口にした。

 セダンは二股の道路を左に進んだ。ひとの姿は見えない。当然といえば当然かもしれない。外は氷点下をコンマ単位で上回る程度の気温なのだ。都会と違って、ただの散歩のために外を歩き回るひとなどいないのだろう。

「で、おれはどこで車を停めればいいんだ」

 籐藤がハンドルを指で叩きながら訊ねた。たっぷり十秒ほど車内は沈黙に包まれる。

「で、おれはどこで車を停めればいいんだ」

 一字一句違わぬ質問を聞いて、案内役・・・の苺刃はやっとその言葉が自身に向いていることに気づいた。とはいえ苺刃は答えることができなかった。彼女はただ新青森駅に向かい、警視庁の刑事を留守部村に連れていくようめいじられただけなのだ。彼女の上司は具体的な指示を与えることなく電話を切った。まるで、この件についてこれ以上口にするのは耐えられないとばかりに。

 除雪された道路をのろのろと進むと、民家からふたりの男が出てきた。両方ともがっちりとした体躯で、どこか抜け目のなさそうな雰囲気をかもし出している。籐藤は車を停めて降りると、ふたりに向かって声を張りあげ、警察手帳を大きく振った。ふたりの男はズボンが濡れるのも気にせず、雪をかき分けながら小走りで近づいてきた。籐藤が端的に自己紹介をすると、先方もむつ警察署の刑事であると返してきた。

「わたしが来ることはご存じでしたか」

 籐藤は、自身よりひと回り以上は年下であろうまっ赤なほほの刑事に訊ねた。その刑事は羨望と緊張が入り混じったまなざしで大きくうなずいた。

「伺っております。なんでも、警視庁の()()()優秀な刑事さんが捜査に協力してくださると……」

「それは誤解です。わたしは捜査に協力しにきたわけではありません」

 籐藤と法律の仕事はこの村に迷い込んだ恒河沙縛を東京に連れ帰ることである。副総監の桂は『ついでに事件も解決してきて』と申しつけたが、籐藤にも法律にもそのつもりはこれっぽっちもなかった。目の前の若いふたりの刑事は警視庁・・・という箔だけで籐藤に熱い視線を注いでいるようだが、普通の警察は縄張り意識を強く持ち部外者が介入することを激しく嫌う。彼らの上司だって例外ではなかろう。事件について興味がないといえば嘘になるが、だからといって口出しをする気は皆無。それが警察官としてのマナーだ。

「それより、現場責任者の方にお会いしたいのですが」

盛田もりた巡査部長は村の公民館にいらっしゃいます。公民館はこの民家の裏側のおやしろ通りをわたった所にあります」

 コートの襟を立てたもうひとりの刑事が、目の前に建つ縦に長い一軒家を指さした。家の横に細い小道が東西に伸びており、そこを通れば二股に分かれたもう一本の道路に出られるとのことだった。

「公民館に車を停める場所はありますか」

「いえ、警察車両はすべて村の北側にある空き地に停めてあります。公民館からは少し距離がありますが」

「法律」

 運転席側のドアを開けて籐藤が言った。法律は特に不満の様子もなく降りてくる。声をかけられなかった苺刃は不安そうに籐藤を見つめた。

「恐縮ですが、この車をその空き地まで運んでいただけますか。助手席のものも連れていって、その場所を教えてやってください」

「わかりまし……え、苺刃さん!?」

 運転席のドアに手をおいた刑事が絶叫に近い声をあげる。その声に反応して、もうひとりの刑事も車内をのぞきこみ黄色い声をあげた。

「おめうしろいけ。()が運転する」

 赤いほほの刑事が相棒の肩を強く押した。コートの襟を立てた男はバランスを崩し、雪の山に片膝を突き立てる。

「なに勝手に決めてんだ。おめえこそうしろいけ。いや、おめは()()()ばいいよ」

「あ、なにすんだ。おめえこそ()()()。こんの()()()()()が」

「あ、あの。籐藤巡査部長……」

 苺刃が眉をひそめて車内から声をかける。その視線は雪の上で取っ組み合いを始めるふたりの若い刑事に向けられていた。

「言ったとおりだ。車を停めたら公民館の方に来てくれ。寒い中すまんが、たのむよ」

 籐藤は背中を向けて手のひらをふると、家の脇の小道に入っていった。法律は苺刃に一礼してからその後に続く。

「あのふたり」

 白い雪をサクサクと踏み進みながら法律が言った。

「苺刃さんのお知り合いですかね」

「苺刃のほうは知らないみたいだったがね。案外、県警の有名人なのかもな」

 コンクリートブロックに挟まれた小道を進んでいくと、前方から怒声が聞こえてきた。

「さっきの刑事さんたちでしょうか」

「あいつらはおれたちの後ろで取っ組み合いをしていたんだぞ」

「取っ組み合いをしたまま、ぐるりと道路を迂回して回ってきたのかもしれません」

「本気か?」

「いいえ。となると、別のケンカでしょうか」

 法律と籐藤は雪に足をとられないよう小走りで進んだ。怒声は徐々に大きくなっていく。声を張りあげているのは女性で、それに抗うような男のうめき声も聞こえてきた。女性の怒声は尋常ではない。これに比べたら先ほどのふたりの刑事は子猫のケンカだ。

 小道を抜けおやしろ通りに出る。小道の左斜め前方の家の庭先でふたりの人影が掴み合っていた。

 相手が誰であれ、籐藤はそのケンカを止めるつもりだった。だが彼は止まった。石のように固まった。目の前で起きている事象が、現実のものだとは思えなかったからだ。

 怒声を鳴らす女性は男の頭を脇に挟むと、払い腰で男を地面に叩きつけた。女性の頭上でスカーフのような布が寒空の下で流れ星のような軌道を描いた。その布は女性の首元、()()()()()()()()()()()()()の襟元から伸びていた。

 籐藤が呆気にとられたのは、女性の服装が奇抜だったから()()ではない。もう一方にも原因はあった。背中から地面に倒され、女性の肘が腹に喰いこみガマガエルのげっぷのような呻きをあげた男は、フードのついた()()()()()()に身を包んでいたのだ。

「この、この、()()()()ことばっかの……」

 銀色タキシードの女性は、漆黒ローブの男に乗りかかり、男の頭を両手でたたきだした。ローブのフードが外れて坊主頭を剥き出しにした男は両手を振り回して抵抗していた。

「やめましょうやめましょう。おふたりとも。ほら、ストップストップ」

 赤子をあやすような口調で法律が駆け寄る。だが銀色タキシードの女性はそんな法律の声を意に介さず、這いつくばりながら逃れようとする男の背中に腰をおろし、後頭部に両の拳を叩きおろし始める。

 法律が女性の両腕を掴む。女性は大きく見開いた目で法律をにらみつけた。まだ若い。二十代前半といったところだろう。ベリーショートの黒髪の間から、汗がつたり鼻に落ちていく。女性は再び怒声をあげ、法律に掴まれた両手を振り払おうともがいた。

「なんだなんだ。どうしたんだ」

 道路の南側の方から、厚手の長靴を履いたスーツ姿の中年男が駆けよってきた。それを見て銀色タキシードの女性は舌打ちを放ち、軽く腰を浮かす。漆黒ローブの男はひいひいと息を荒くしながら腹ばいで女の下から抜け出すと、フードを深くかぶり、前のめりになりながら東側に伸びる草むらに入っていった。

「あらら。ちょ、ちょっと。どちらへ」

「いい、いい。どこに行くかなんてわかっとる。気にしなくて大丈夫ですよ」

 長靴男は顔の前で大きく手を振った。その手の動きに連動して頭も左右に揺れる。

梶谷かじたにさん、でしたよね。梶谷(あおい)さん。困るんですよ、こんな時に我々の仕事を増やさないでください」

「すみません」

 漆黒ローブの男が消えたからだろうか。梶谷葵と呼ばれた銀色タキシードの女性はしおらしくうな垂れ、掴まれた両腕の力を抜いた。

 法律が葵の両手を放す。葵は首元から伸びた布で頭全体を包みなおし、布の片端をタキシードの肩口に押し込んだ。顔だけを露出させるその様を見て、法律が『なるほど』とつぶやいた。

「思い出しましたよ。アッバース&キャロライン財団。それ、へジャブですね」

 葵は布地の間からのぞかせた両目で法律をにらみつける。その場でかがみ、雪の上に落ちていた緑色のバラをタキシードの胸元に差しこんだ。

「そのバラは?」

 法律が訊ねる。だが葵は答えない。無言のまま、道路の南側の方へ小走りで去っていった。

「あ、ちょっと」

「あれもいいんです。あっちもね、行くところはわかってますから。あとでお偉いさんに会ったらクレームしときます」

 長靴男は服の下のふくらんだ腹を撫でながらふぅふぅと息を吐いた。動くたびにたっぷりと肉のついた両ほほが揺れる。前髪は頭頂部よりに後退しており、日焼けした肌には脂汗が浮かんでいた。布袋ほてい様のような温厚な顔つきをしているが、糸のように細い両目が抜け目なく法律をにらみつけていた。

「あれ。先輩。籐藤先輩じゃないですか」

 長靴男は一連の騒動を前に、微動だにせず固まっていた籐藤を見て声をあげた。

「もう着いていたんですね。遠路はるばる下北半島。どうもどうも。おつかれさまです」

「……おい、盛田もりた

 籐藤は数十年ぶりに再会した後輩の名前を呼んだ。

「悪いが、帰ってもいいか?」

 口いっぱいの苦虫を噛みつぶしたような表情だった。それを見て法律が笑う。

「だから言ったんですよ。籐藤さんが()()なタイプの話だって」



 3

 2021年 2月 19日 金曜日 15時 37分


 留守部村公民館の大会議室には四つの石油ストーブが焚かれていた。テニスラケットとボールと人員があればちょっとした運動ができそうなほど広い。だがいま長テーブルが乱雑に並べられた室内は閑散としている。

「先輩らしくないですね。捜査資料に目を通してないんですか」

 今回の事件の現場責任者である盛田(たけし)巡査部長は、水垢が残るマグカップにインスタントコーヒーの粉を落とした。ポットからお湯を注ぐと、ポットが置かれた長机がガタリとかたむく。長机の金属の足はまんべんなく錆びついていた。

「やむにやまれぬ事情があってな。というかお前ら青森県警のせいだ」

 これまたギシギシと左右に揺れるパイプ椅子に座り、籐藤は仏頂面で丸めたコートに握りこぶしを落としていた。

「は。なんですって。まぁいいや。はいどうぞ。先輩はあいかわらずブラックで。学生時代から変わりませんね」

「お前はあいかわらず生意気だな。それよりなんだ。あのちんちくりんな格好をしたふたりは何者だ。青森じゃ二月にハロウィーンが開かれるのか」

「ちがいますよ。()だってここに来て度肝抜かれたんですから。本部の公安と一部の部署しか()()()()のことは知らんかったんですよ。そうだな、どこから説明したものかな」

「アッバース&キャロライン財団ですね」

 ストーブの前で濡れたくつしたを乾かしている法律が言った。

「おぉ。ご存じですか」

 距離があるので盛田は声を張る。

「名前と噂だけ。実際にお会いしたのは初めてです。財団はアラブ系の組織でしたね。そしてあの女性が顔を覆っていたのは、アラビア系の女性が身につけるへジャブでした。下北半島の山間部でイスラム教が流行っているとは思えませんし、銀色のタキシードなんて個性的な格好とくればアッバース&キャロライン財団の方に違いないかと。それともうひとかた。真っ黒のローブの男のひとが、聖ブリグダ教団ってやつですか」

「ええ。ええ、ええ。そうなんですよ」

 盛田は量の少ない髪をはげしくかきむしった。

「事件と直接関りがないとはいえ、こいつらのせいで捜査がややこしいのなんの」

「待て待て。ふたりで話を進めるな。最初から説明しろ」

 籐藤が声を荒げる。盛田はくちびるを真一文字に伸ばしながら両腕を組んだ。

「まずは事件現場の白山はくさん神社に行きませんか。そこで()()になっていただいた方が話は早く済みますよ」

「事件現場……」

 籐藤は外の寒さを思い出したのか、一度身を震わせてから首をふった。

「やめておこう。おれたちはそいつの妹を引きとりにきただけ。捜査に協力しにきたわけじゃないんだ」

 籐藤が法律を指さす。すると盛田は怪訝な表情で籐藤の指の先を見つめた。

「……妹?」

「おまえ、おれたちが何をしに来たと思っているんだ」

「丸子本部長が警視庁の副総監にじきじきに捜査の協力を仰いだとしか」

「馬鹿。んなわけないだろ。警視庁が首をつっこむほどの大事件ってわけでもないだろう」

「ですがねえ。事件そのものはともかく、事件の()()について考えたら、警視庁が出てきてもおかしくない事件ヤマですから」

「あ? そりゃどういう意味だ」

「籐藤さんこそ。ぼくのことを盛田さんに伝えてなかったんですか」

 ストーブに身体を向けたまま、首だけを傾けて法律が言った。

「……言ってない。おれも忙しかったし、上の人間が伝えてくれているとばかり思って」

「そりゃ籐藤さんも悪いですよ。業務怠慢だ。えっと、盛田巡査部長殿」

 法律は立ち上がり、乾いたくつしたを両手に持ったままあたまを下げる。

「ごあいさつが遅れました。わたくし、恒河沙探偵事務所の恒河沙法律と申します」

「探偵。恒河沙。妹……はぁ、なるほど」

 盛田のぶ厚いほほ肉が小刻みに揺れた。

「放浪癖のある妹が留守部村にたどり着いたと聞き、籐藤巡査部長と共にここまでまいったというわけです。捜査の邪魔をするつもりはありません。妹を見つけ次第すぐにおいとましますので、どうぞよろしく。ところで妹がどこにいるのかなんて……知りませんよね。あの子またスマートフォンを無くしたみたいで連絡が――」

「知ってます」

 盛田は突き放すように早口で言った。

「妹さんの居場所、知ってます。えぇ。よーく知っとりますとも。知っとるからこそ、()()()()()んです」

「もったいぶった言い方をするな。どこにいるのか教えろ」

「喜んで。ですが、妹さんがどこにいるかを理解していただくためには、やはり事件現場に足を運んでいただき、この村の現状・・について把握していただいたほうがよろしいでしょう」

 三人はコーヒーを胃に流しこみ、公民館を後にした。

 公民館は留守部村を縦断する二本の通りのうち、東側を走るおやしろ通りの近くにある。縦長の村の南東部に位置しており、通りからトラック一台分の幅の坂道をのぼって数メートル進むと、右手に横長の平屋建てが現れる。これが公民館だ。玄関口には子どもほどの大きさの立て看板が飾られ、豪快な毛筆で『留守部村 公民館』と記されている。

 玄関から坂道に出ると、先頭の盛田は籐藤の予想に反しておやしろ通りがある左側ではなく、右側の坂道をのぼり始めた。

 ゆるやかな傾斜をのぼっていくと、正面に大きな鳥居が現れた。雪を積もらせた赤い鳥居の向こうに瓦屋根が乗った白壁が横に伸びている。白山神社は村の家々から距離をとり、ヒバの森の中にひっそりとたたずんでいた。

 四脚門の入り口から中に入る。正面に雪に覆われた広場があるが、ひとが歩いた跡なのだろう、雪の下の砂利が掘り返されて白いキャンバスに点々と灰色を落としていた。

 広場の向こうに大きな社殿が見える。盛田が拝殿だと説明した。籐藤が拝殿に目を取られていると、先頭の盛田はかくりと左に曲がり、法律もそれに続いた。四脚門とそこから横に伸びる壁に沿うように屋根が伸びている。その屋根の下に通路がまっすぐ続いており、盛田と法律はその通路を進んでいた。籐藤も慌てて後を追う。

 通路の終わりにひとりの制服警察官が立っている。警察官の後ろにはドア二枚分ほどのスペースがあり、その向こうにも、雪と砂利が交じり合う地面と白壁に囲われた空間が広がっていた。

「この奥に神社の本殿があります。遺体は本殿前の広場で見つかりました。現場検証は終わっていますんで、気にせず入ってください」

 通路から見て右手、東の方角に縦長の広場が伸びていた。先ほどの拝殿前の広場よりもひとまわりほど狭い。その拝殿前の広場とこの本殿前の広場は、白壁を間において分断されている。

 その広場の最奥に、小さな本殿があった。積もった雪の下からちらちらと朱色の屋根をのぞかせている。

「遺体が発見されたのは二月十六日の朝七時前。今週の火曜日だから三日前のことになりますね。発見したのは村の住人です」

 盛田は一点に視線を注ぎながら言った。縦長の広場の中央から本殿に寄ったあたりに、四本のカラーコーンとバーが正方形をつくっている。ひと一人が横たわるには十分なスペースだった。

「被害者の名前は菅原すがわらひさし。五十九歳。留守部村の住民で農業を営んでいます」

 盛田は手にしていた紙袋からクリアファイルを取り出す。ファイルの中には写真データが印刷されたA4の紙が大量に収まっていた。

「死因は出血性ショック死。正面から腹部を何度も刺されたようです」

 差し出されたクリアファイルを籐藤が受け取る。中の紙の束の一番上には、被害者の姿がプリントされていた。両手足を大きく開いてあおむけに倒れる男。濃い緑色のジャンパーを着ており、腹の周囲の雪が黒く染まっている。朝日を浴びて輝く白雪と、生々しく命の終焉を語る酸化した血液のコントラストは、否が応でも見るものの嫌悪感をかき立てる。

「ずいぶんと出血量が多いな。ジャンパーを着ていたのなら、ある程度血を吸ってくれそうなものだが」

 左手で写真を見つめながら籐藤が言う。右手はコートのポケットの中に隠れていた。

「さすが警視庁。目ざといですなあ。犯人はどうもですね、刺して、引いたようです」

「引いた?」

「裂くと言った方が適切かもしれませんね。刃物を肉に突き刺して、抜くのではなく、傷口を広げるように引き裂こうとしたんですよ。もちろん、スーパーの精肉のように切れるわけはありませんから限度はありますがね。にしたって、被害者の腹はぐちゃぐちゃですよ。ジャンパーだってズタズタに切れて、けっこうな量の血液が飛びだしたみたいです」

「犯人は返り血を浴びただろうな」

「もちろん。()()()()()

 盛田はねっとりとした口調とともに、うんざりとした笑顔を見せた。

 次の紙をめくろうとした籐藤の手を盛田が止める。盛田はあごで奥にある本殿を差すと、背中を丸めて歩き出した。

「犯人は()()()にいます」

 籐藤が声を荒げる前に、盛田は木戸に手をかけた。建付けが悪いのか、ガタガタと音を立てながら木戸が開く。四畳ほどの小さな空間。照明は付いておらず、うす暗い。大きな屋根に遮られているせいで、室内に注ぎこむ外の光の量が少ないようだ。

 盛田はかがみこみ、足元に置かれたランプのスイッチを押した。室内が白い光に包まれる。壁は木板。床は黒ずんだ畳。奥には黒い板卓が三つ並ぶ。左の板卓には二本の紙垂しで。右の板卓には奉納された日本酒の一升瓶が三本。そして中央の板卓には三方に乗った鏡餅がふたつ置かれていた。

 三つの板卓の後ろに、U字型の木枠にはめ込まれた円形の鏡がある。鏡はその表面がくすんでおり、ランプの白い光を頼りなさげに跳ね返していた。

 そして、鏡の後ろに()()があった。

 眼も鼻も口もない顔が三人を見つめ返す。

 壁からつき出た二本の角材に両腕を乗せ、長い胴体から二股に分かれた両脚をだらりと床に向けて伸ばしている。小文字の『t』と漢字の『人』を組み合わせたような体勢だ。

 全長は約二メートル。全身を形成するのは麻縄で束ねられた無数の稲藁いなわら。何本かの稲藁はささくれ立ち、全身のいたるところから棘のように飛びだしていた。

 籐藤は言葉を失った。自分の身長を裕に上回る藁人形に圧倒された――だけではない。

 その人形は腹部を中心に赤黒く染まっていた。

 頭や手足、そして背面などは稲藁らしいベージュ色。だが人形の腹部や両脚には赤黒い液体が規則性なく飛び散っていた。汚れていた。汚されていた。いったい、何に。その連想は容易だった。問われる前に盛田が答える。

「被害者の血です」

 そう言って、一度だけ短く笑う。

「返り血です。つまり、人形が人間を殺したんですよ」



 4

 2021年 2月 19日 金曜日 15時 55分


「こりゃなんの冗談だ」

 籐藤は抑揚のない口調で訊ねた。その目は本殿の中でそびえ立つ藁人形に奪われていた。

「ほんと。冗談だったらよかったんですけどね。まったく、いや。冗談ですよ。まさか人形を逮捕しようなんて誰も思っていません。だけどこの人形に付着した血液は被害者のものです。科捜研に調べてもらいました。問題は、どうして人形に血がついているのかってことです」

「この人形は、事件当時もここに?」

「十中八九、この本殿の中にあったはずです。村の人間に確認したところ、この人形は常にこの本殿の中にあって、外に()()()()()()ことは今まで一度もなかったと」

「事件現場がこの本殿の中という可能性は。犯人は被害者をこの中で刺した。その時に飛散した血液がこの人形にかかったと」

「あり得ません。本殿の中にはこの人形以外から血液反応は出ませんでした。犯行現場が本殿前の広場であることは間違いありません。それと、この本殿の中でこんなものが発見されました」

 盛田は籐藤の手からクリアファイルを奪いとり、その中から一枚の紙を取り出す。そこには黒い液体がこびりついた一本のナイフが印刷されていた。

「凶器だな。……あん?」

 籐藤は過分なる拒絶の意志を込めてうなり声をあげた。というのも、刃渡りニ十センチほどのそのナイフの柄には奇抜・・な細工が施されていたからだ。

 まずナイフにしては珍しいことにつばがついている。西洋の騎士がもつ大剣につくような左右に伸びた二本の鍔だ。鍔の先は丸みを帯びて膨らみ、片方に赤い宝石、もう片方に緑色の宝石がはまっていた。柄は琥珀こはくのプレートで、そこには銀色のメダルがはめ込まれていた。百円玉ほどの大きさのメダルには、胎児のような丸みを帯びた半円形の何かが描かれていた。それが人間の胎児でないことは明らかだ。というのも、半円形の下部からはうねりを描く無数の触手が伸びている。柄の底、柄頭の部分からも、同じ様にブロンズ製の触手が伸びている。長さはバラバラ。人間の親指ほどのものから、中指ほどのものまで。触手の先端は丸く膨らんでいる。規則性なく――少なくとも籐藤の理解の範疇に置かれた規則ではない――ナイフを手にしたものの身体を撫でるように、その触手は伸びていた。

「これが捜査資料にあった、聖ブリグダ教団ですか……」

 それまで沈黙を貫いていた法律が、籐藤の後ろから首を伸ばしてのぞきこむ。

名状めいじょうしがたいですよね」

 盛田はため息をつき、汚れているわけでもない手のひらをズボンにこすりつけた。

「ナイフについた血は被害者のものです。傷口の幅とナイフの幅は一致しています。当然と言っていいのか、指紋はありません。このナイフは、人形の前の板卓にありました。二個の鏡モチの間にぽとりと置いてありましたよ」

「まてよ。なんだその、聖プリン?ってやつは。さっぱりわからん」

「捜査資料を読んでいない先輩が悪い。大丈夫ですよ、あとでちゃんと説明します。それより今は、人形に被害者の血液が付着していたこと、凶器がこの本殿の中にあったことだけを覚えていてください。この事件の最たる問題はにあります」

 盛田を先頭に三人は本殿の外に向かう。最後尾の法律は血まみれの人形に向かって、二礼二拍手一礼をしてから外に出た。

「遺体が発見されたのは二月十六日の早朝。下北半島一帯は前日の昼間から午前一時ごろまで豪雪が降りそそぎ、場所によっては三十センチ近く積もりました。雪が止んだ午前一時から、死亡推定時刻の午前一時から三時の間をはさみ、遺体発見時刻の朝七時頃まで、この村に雪は一粒たりとも降っていません」

 盛田はクリアファイルからまた写真がプリントされた紙を取り出した。あおむけの遺体から距離を取った写真。遺体の周囲をフィルターに収めんとするカメラマンの意志が感じられる。そこには白い雪の上に点在するいくつもの足跡が映されていた。

「遺体を発見したふたりの足跡を除くと、現場に残っていた足跡は被害者のものだけでした」

「……は?」

 籐藤が呆けた声を出す。

「なかったんです。犯人の足跡が。現場を訪れた足跡も、現場を去った足跡も残っていないんです」

「合理的に説明できるぞ。犯人は雪が降る前に事件現場を訪れた。雪が足跡の上に降りそそぎ、犯人の行きの足跡は消える。そして被害者が事件現場を訪れ、犯人は被害者を殺す。その後犯人は事件現場に留まり続けた。これなら事件現場から立ち去る足跡がなくてもおかしくない。何故なら犯人は事件現場から離れなかったから」

「都会の方はジョークが上手い」

「お前だって子どもの頃は東京暮らしだっただろう」

「DNAにはねぶたのお囃子が刻まれています。当然ですが、事件現場にひとの姿はありませんでした。ここは開けた場所で隠れる所はありませんし、隣村の駐在が来るまで、遺体発見者のふたりに加え隣の拝殿にお参りに来ていた数人の村人がこの広場を見張っていました。不審者はいなかったとのことです」

「負傷した被害者がひとりでこの広場まで来たという可能性はありませんか」

 両足を抱え込むようにしゃがみ、白い雪を片手でかき分けながら法律が訊ねる。雪の下からはコンクリート敷きの通路がほんの少しだけその姿をみせた。

「腹部を刺された状態で本殿前の広場を訪れ、息絶えた。これなら犯人の足跡がないことも説明できますが」

「おお。さすがの探偵さん。なんとするどい名推理なのでしょう」

 芝居がかった口調とともに盛田は両手を高々と掲げる。三秒の沈黙。盛田は空に向けて伸ばした首を左右に振った。

「だめです。白山神社周囲に血痕は見つかっていません。それと、被害者は腹部を何度も刺されています。致命傷です。この状態の人間が数十メートルを歩くなどあり得ません」

「これならどうだ。犯人が殺した被害者をここまで運んで――」

「遺体を放置して帰ったと。帰りの足跡が見当たりませんよ、先輩」

「行きにつけた足跡を踏んでうしろ向きに帰ればいい。バックトラックってやつだな」

「残念ながら足跡は被害者の履いていた長靴と一致しています。既製品ですが、色はド派手な赤だけで被害者以外に同じ長靴を持っているひとは少なくとも村では見たことがないと、村中のひとが証言しています。ちなみにこの長靴、九州地方のスーパーでしか流通していません。数年前に九州から来た被害者の友人が持ち帰るのを忘れたので、そのまま貰い受けたと生前の被害者が村人に説明していました」

「犯人が同じ長靴を履いていた可能性もほぼゼロというわけか。まいったな。犯人はどこから来て、どうやって帰ったんだ」

「すみません。嘘をつきました」

 唐突に盛田が言った。朴訥ぼくとつとした口ぶりで、自責の念は感じられない。

「犯人の足跡は、ありました。現場を訪れた跡も、立ち去った跡も、しっかりと残っていました」

 籐藤は盛田の首を捕らえんと腕を伸ばす。しかし学生時代の経験から先輩の動きを予測していた盛田は身を低くして避けた。

「盛田さん。それって、まさか……あの凶器と関係が?」

「探偵さん、ご明察。今回は文字通り褒めています。ええ。足跡はありました。どうぞ」

 クリアファイルから差しだされたプリント用紙を目にして、籐藤と法律の表情は凍りついた。

 遺体と本殿の間の雪の上に、無数の掻き傷のような細い線状の跡がある。掻き傷の上に靴の跡もあるが、それは遺体発見者たちが本殿の中を確認しようと近寄った際につけたものだと盛田は説明した。

「この細い線の幅ですがね。本殿の中にあるあの藁人形の藁の幅と一致するんですよ」

「おい、まさか。あの巨大な藁人形の返り血。おまえまさか、冗談じゃないぞこんなの」

 籐藤は嫌悪感に表情を歪めながら、革靴のつま先で雪をほじくりはじめた。

「冗談のつもりです。だけど、村の人たちは冗談抜きで噂していますよ」

 一拍を置いて、盛田は一度吹きだすように笑った。

「『御人形さまが殺した。本殿から降りられて、被害者(菅原さん)を殺し、本殿にお帰りになられた』てね」

「凶器は、本殿の中にあったんですよね」

 本殿を見つめながら法律が言う。

「大事な凶器はお持ち帰りになられたというわけですか」

 背後では籐藤が力任せに雪を蹴り上げていた。



 5

 2021年 2月 19日 金曜日 16時 03分


「帰る。おれは帰る。こんなわけのわからない事件に付き合わされるのはごめんだ」

 大股で雪の上を歩きながら籐藤は声を荒げた。

「落ちついて先輩。残念ながら先輩は帰れませんよ。だって先輩は、恒河沙縛さんを連れて帰るためにここまで来たのでしょう」

「縛の居場所を知っているとのことでしたね。妹はどこにいるんです」

 白い息を大量に吐き出しながら法律が詰め寄る。盛田は呆気にとられ、身を低くして後方に下がった。

「お兄さんも落ち着いて。妹さんはあちらにいらっしゃいます」

 盛田は東の山の方に指を向けた。エサに釣られた子犬のように法律の頭が動く。盛田の指の先には、切り立った崖の上に立つ木造の建物があった。

「なんだありゃ。山の上にも家があるのか」

 籐藤は平らにした手をひたいに当てて頭上を仰ぎ見た。

「家ではありません。学校です。や、違う。元学校で、現教会・・です。待ってください。先輩が言いたいことはわかります。まず先に、この村が置かれている状況・・について説明させてください。話は半年前にまでさかのぼります」

 昨年の八月末。真冬の極寒を忘却の彼方に連れ去ってしまうほどの猛暑に見舞われていた留守部村に、壮年の女性が現れた。千来田ちきだイヴリン。イギリス人の血が混じっている千来田の瞳は流氷のような透き通った水色をしていた。

 千来田は実質的に白神神社を管理する梶谷かじたに村長を訪ね、同神社の本殿の中を見学したいと申し出た。口調こそ穏やかではあったものの、水色の瞳には有無を言わせぬ絶対的な意志が宿っていた。梶谷村長は許可した。寛容なる精神をってではない。畏怖だ。齢七十をまもなく迎える梶谷村長の人生経験は、ここで抗えば千来田は次に()()()交渉に挑んでくると予感していた。

 本殿の戸を開け、黒ずんだ畳の上に駆け込んだ千来田は涙を流して崩れ落ちた。千来田は正面に飾られた御神体の鏡ではなく、右手の壁の前に横たわる巨大な藁人形に平伏した。

 村長宅にもどった千来田は名刺を差し出した。

 聖ブリグダ教団 日本支部 焔星フレームスター(スターⅢ) 千来田イヴリン。

 奇怪な肩書を前に梶谷村長が眉を潜めたのも無理はなかろう。

 千来田は自身が留守部村を訪ねた真の目的を語りだした。

『寝言が聞こえたのです』

 あらわなる(ネイキッド)次元(ディメンション)のイェームーシ山脈で――人類にとっては永劫といえる――眠りにつく大いなる巨神ブリグダの寝言が、聖ブリグダ教団 ロンドン本部で神々との同調を担う眠り巫女の耳に届いたのだ。

 眠り巫女は睡眠によってあらわなる(ネイキッド)次元(ディメンション)にその潜在意識を送りこむ。聖ブリグダ教団が崇拝する神々はその多くがあらわなる(ネイキッド)次元(ディメンション)に暮らしている。眠り巫女は神々の元を訪ね、神託を受け、そして目覚めによってあらわなる(ネイキッド)次元(ディメンション)から『無垢むくにしてあわれなる』われわれ人類が生きる一時的な(テンポラリー)次元(ディメンション)にその神託を持ち帰る。これまでブリグダ神は深い眠りについていたため、眠り巫女に神託を与えることはなかった。だがこの年の七月。ブリグダ神は初めてその寝息を眠り巫女の耳に届けた。眠りが浅くなり始めている。ブリグダ神の目覚めが近づいてきたのだ。ブリグダ神は目覚めると、自らが()()で生み出した一時的な次元を訪ね、その管理に動きだす。

『ペットの訓練みたいなものです。つまり、太った飼い犬に運動をさせるようなもの』

 だがブリグダ神はあらわなる(ネイキッド)次元(ディメンション)に暮らす姿のままで一時的な(テンポラリー)次元(ディメンション)に現れたりはしない。『無垢にして憐れなる』われわれ人類がブリグダ神の姿を直視すると、人智を越えたその神々しさに両眼が焼かれる。そのため慈悲なる心を持つブリグダ神は、『無垢にして憐れなる』ものの直視に耐え得る身代みのしろを生みだした。ブリグダ神はこの身代に憑依して一時的な(テンポラリー)次元(ディメンション)に現れるのだ。

『ですが身代は伝承に残るばかりで、その実在は確認されていません。われらブリグダ教団は、ブリグダ神の目覚めに備えるため世界中で身代を捜索しました。そして……ついに見つけたのです。間違いありません。あの藁人形こそ、ブリグダ神が生みだした身代に違いないのです』

「先輩、聞いていますか」

「あぁ。聞いているよ」

 説明する盛田に背を向けて、籐藤は足元の雪を両手で丸めだした。平然とした口調で『聞いているとも』と言いながら、手にした雪玉を後輩に向かって投げつける。『冗談』とか『戯れ』を越えた、本気の剛速球で投げつける。

「残念ながらこれで話は三割といったところです」

 身体をくの字に曲げて雪玉を避けながら盛田は話を続けた。

 千来田イヴリンは、本殿の中の藁人形の引き渡しを要求した。村長を委員長におく『留守部村管理組合』は返答を保留した。いつからか本殿に置かれていたいわれの知らない人形ではあるが、『何かしら村の先人に関わりのあるものなのだろう』として留守部村で祀られてきたのだ。おいそれと渡すわけにはいかない。そして何より、怪しげな宗教団体に唯々諾々と従うことが、常人を自認する留守部村管理組合の面々にとっては許せなかった。

『かまいません。それでしたら、われわれは交渉を続けるまでです』

 千来田イヴリンはそう言って留守部村を去った。三日後。東の山に位置する廃校舎に聖ブリグダ教団の教団員たちが移り住んできた。最高裁判所の周囲に事務所を構える弁護士事務所であろうと口出しできないほど完璧に合法な手続きを経て聖ブリグダ教団は留守部村にやってきたのだ。教団員たちは廃校舎にリフォームを施し、聖ブリグダ教団の教会に改めた。

 千来田イヴリンは引っ越しそばを持って村長宅を再訪した。その身は全身を包む黒いローブ――聖ブリグダ教団の祭服をまとっていた。

『われわれを理解してもらうことから始めることにしました』

 こうして聖ブリグダ教団は留守部村との長い交渉に挑むことになったのだ。

 始め、留守部村の住人たちは聖ブリグダ教団の存在を毛嫌いし、村を闊歩する黒いローブ姿の流れ者(ワンダラー)たちに冷たく接した。だがそんな感情は少しずつ瓦解していった。教団員たちは見た目や思想こそ過激ではあったが、話してみるとその性格や言動は決して過激ではなかった。年寄りたちの話し相手となり、力仕事や買い出しを手伝った。その代償として聖ブリグダ神への信仰を要求した? 否。聖ブリグダ教団は教団員たちに勧誘を禁じていた。

『求められれば応じます。ですが、能動的に勧誘することはあり得ません』

 千来田イヴリンは村長宅でまんじゅうをほおぼりながらそう言った。

『信じぬものも救われる。どこぞの神様と違い、ブリグダ神は寛大ですから』

 日本では六十五歳以上の人口比率が五十パーセントを越えると限界集落と公的に呼ばれるようになる。留守部村もまた限界集落だ。六十五歳以上の人口比率は八十パーセントに至る。多くの若年層は仕事も稼ぎも少ない村を捨てて街に出た。村に残るのは全身の皮膚にシワを走らせる腰の曲がった老人ばかり。現在約百人の村人が暮しているが、未成年はたったのひとりだけ。人口推計の際に作られる人口ピラミッドのグラフをつくれば、留守部村のそれは手を離した瞬間に倒れることが確実な、不安定なバランスのピラミッドとなる。

 そんな村に聖ブリグダ教団がやってきた。教団員たちは若かった。留守部村に引っ越して来た約五十人の教団員の平均年齢は二十八。六十五歳以上の人口比率は約五十三パーセントまで下がった。謎の教団の出現によって、村は唐突に若返ったのだ。

 聖ブリグダ教団が廃校舎に暮らし始めてから約一か月後の九月下旬。初秋しょしゅうの快適な気候に浸りながら、『今年の夏の暑さは大したことなかった』とのたまう留守部村に、初老の男性が現れた。蓮下はすもと啓也けいや。蓮下は白髪交じりのあごひげを撫でながら呆れたように首をふった。

『愚かな判断を下しましたな。あんな狼藉者ろうぜきものどもを村に招くなど』

 蓮下は聖ブリグダ教団を徹底的に罵倒した。時代錯誤のエセ宗教家。ドラッグのやり過ぎで目にした幻想を神と崇めるジャンキー集団。エトセトラ、エトセトラ。

『先ほど拝見しましたあの藁人形ですが。もちろん、ブリグダ神の身代などではありません。実に馬鹿げている。そんな非科学的な思想が令和の時代に許されるはずありません。ですが――』

 蓮下は座布団の上で居住まいを正した。

『あれが特別・・なものであるという点では同意いたします。あぁ、申し遅れました』

 蓮下は名刺を差し出した。

 アッバース&キャロライン財団 自然生物保護部門 太陽系圏保安維持室 特級秘匿物保全委員会 日本支部 総務部 部長 蓮下啓也 階級:ピンクローズ。

特級秘匿物保全委員会とくきゅうひとくぶつほぜんいいんかい。略して特秘委員会とくひいいんかいとよく呼ばれています。財団の第一命題は地球の平穏などというちんけなものではありません。宇宙です。銀河です。我ら自然生物・・・・が潜むこの世の全領域の平穏を維持することにあります。救済という意味ではそこいらのエセ宗教家どもと目的は同じかもしれませんが、方法は異なります。科学です。われわれは人間の叡智の結晶たる現代科学でこの世の平穏を維持することを目的としております。特秘委員会の役目は、そんな平穏を揺るがしかねない危険な物体を現代科学の手法を用いて管理することにあります。そして――』

 蓮下はスーツの内ポケットから小型の機械を取り出した。スマートフォンほどの大きさの機器の先端に、ゴムカバーを被った突起が付いている。

『ジナテリウム計測器です。あの藁人形のジナテリウム値は二〇三九キロカルツ。信じられません。これほどのジナテリウム値を放出する特秘物が存在するなどあり得ないことです。コネチカット州に保管されている呪いのアナベル人形をご存じですか? あれのジナテリウム値は二三キロカルツ。幾多の怪奇現象を引き起こし、死者まで生みだしたアナベル人形でさえ二三キロカルツ。あの藁人形はその百倍のジナテリウムを備えているのですよ。おっと失礼。ジナテリウムについて説明が必要ですね。ジナテリウムとは我が財団が発見した最新の電磁波の一種です。ご存じの通りこの世の災厄とは悪のジンが自然生物を滅ぼさんと意図して引き起こすものです。悪のジンは自然生物の周囲の物体に潜り込み、壊滅的な災厄を引き起こし得るタイミングを常に見計らっています。ジナテリウムとは、物体に潜む悪のジンが放出する電磁波のことであり、この数値が大きいほど電磁波が強く、つまりは悪のジンの能力が高く、そこから引き起こされる災厄も甚大になるというわけなのです。梶谷村長殿』

 ずいずいずいっと蓮下は身を乗り出した。

『聖ブリグダ教団に藁人形を渡してはなりません。やつらは悪のジンに精神を乗っ取られ、操り人形マジューンになってしまう。マジューンは悪のジンがこの世界に災厄を引き起こす手助けをするのです。梶谷村長殿。わたくしたち特秘委員会に藁人形をお預けください。悪のジンをあの藁人形から追い出すことはできません。ですが、あの藁人形に未来永劫閉じ込めることはできます。アッバース&キャロライン財団の科学技術ならばそれができるのです。これまでもわれわれはいくつもの特秘物を同様に保管しこの世の平穏を守ってきました。いえ。現在進行形で守っているのです』

 村長を組合長におく『留守部村管理組合』は返答を保留した。いつからか本殿に置かれていたいわれの知らない人形ではあるが、『何かしら村の先人に関わりのあるものなのだろう』として留守部村で祀られてきたのだ。おいそれと渡すわけにはいかない。そして何より、怪しげな科学団体に唯々諾々と従うことが、常人を自認する留守部村管理組合の面々にとっては許せなかった。

『なるほど。それでしたら、われわれは交渉を続けるまでですな』

 蓮下啓也はそう言って留守部村を去った。三日後。数十台のトレーラーが留守部村南東部の空き地に現れ、そこに打ち捨てられていた元保養所に特秘委員会のメンバーたちが移り住んできた。最高裁判所の周囲に事務所を構える弁護士事務所であろうと口出しできないほど完璧に合法な手続きを経て、特秘委員会は留守部村にやってきた。委員会メンバーは元保養所にリフォームを施し、特秘委員会の青森支部に改めた。

 蓮下啓也は引っ越しタオルを持って村長宅を再訪した。その身を銀色のタキシードに包み、胸元には桃色のバラをさしていた。銀色のタキシードはアッバース&キャロライン財団の礼服。胸元のバラは財団内における階級を表している。

『われわれを理解してもらうことから始めるべきかと』

 こうして特秘委員会は留守部村との長い交渉に挑むことになったのだ。

 その後の成り行きも聖ブリグダ教団と同じだ。彼らは特異な存在ではありながら、少しずつ村に同調していった。年齢層も聖ブリグダ教団と同じく平均二十代後半と若く、引っ越して来た人数も同じく約五十人。これにより留守部村の六十五歳以上の人口比率は約四十パーセントまで下がった。

 聖ブリグダ教団は留守部村の住人とトラブルを起こすことはなかった。また特秘委員会は留守部村の住人とトラブルを起こすことはなかった。

 だが、聖ブリグダ教団と特秘委員会は、互いを相手に毎日のようにトラブルを起こしていた。もありなん。彼らは互いに藁人形を保有する権利を欲し、そしてその権利は分割することができないものなのだから。

 村で漆黒ローブと銀色タキシードが鉢あえば、にらみ合いと小声での罵声は避けられなかった。一日に一度は小競り合いや口論が村のどこかで行われ、村民が必死になってそれを止めるさまはすぐに珍しいものではなくなった。

「『教団も委員会も村の住人とトラブルを起こすことはなかった』と言いましたが。嘘です。正確に言うと、()()()トラブルを起こすことはなかったと言うべきですね」

 雪玉を器用に避けながら盛田は話を続ける。

 十月中旬ごろから、留守部村の一部の住民に変化が起き始めた。聖ブリグダ教団の思想、もしくは特秘委員会の理論に傾倒しだすものが現れたのだ。

 教団も委員会も、村人とのコミュニケーションの場で決して強引に自らの主義主張を語ることはしなかった。だが一部の村人の好奇心はそれに接することを望んだ。なるほど。おかしな話だ。なるほど。そういう考えもあるのか。なるほど。思ったよりまともな話じゃないか。なるほど。これはもしかして真理なのではないか。

 決して数は多くない。だが何人かの村人は教団と委員会の門戸を叩いた。漆黒のローブまたは銀色のタキシードを身にまとい、教会または青森支部での共同生活を始めたのだ。

 村人が怪しげな新興宗教または秘密結社に()()()()()()()となっては、黙っているわけにもいくまい。梶谷村長は留守部村管理組合を招集し、公式に抗議の声をあげようと主張した。だが数人のメンバーが待ったをかけた。そんなことできるだろうか。聖ブリグダ教団も特秘委員会も、彼らが勧誘活動・・・・を行っていないのは誰の目にも明らかだった。そして日本国憲法は信仰の自由を、思想の自由を保障している。いやしくも日本国民を自認する以上、他人が黒のローブを着ようと銀色のタキシードを着ようとそこに口出しすることはできないのだ。

 妥当だった。こうして留守部村管理組合はあやしげな二団体に抗議の声をあげるのを自粛した。だがこの時梶谷村長は知らなかった。聖ブリグダ教団と特秘委員会の息は、門戸を下らない村人にもかかっていた。村人の中には、『特別親しくしてらった』。『あそこの若い子は村を出た息子に似ている』といった、私的な感情で片方の団体に肩入れする者が増え始めた。肩入れする団体と敵対する団体には、必然的に嫌悪感を向けるようになる。こうして村の中に《教団派》と《委員会派》という派閥が生まれだした。彼らは表立って親和団体を支持するわけではないし、相反する団体や派閥に敵対行動をとるわけではない。ただ、なんとなくの区分けが生まれたのだ。

「そして留守部村管理組合の中にもこの派閥の人間が潜り込んでいたわけです」

 雪玉に顔を白くした盛田はクリアファイルから被害者の写真をとりだした。

「殺された菅原久は委員会派の管理組合員でした。今月初頭に行われた管理組合の会合で、被害者は藁人形を特秘委員会に引き渡すべきと主張しました」

「それが殺害された動機につながると?」

 投げ疲れたのか、肩を上下させながら籐藤は訊ねた。

「他にそれらしい動機はありません。教団派、もしくは聖ブリグダ教団の意志が働いていると考えるのは妥当でしょう。現場から見つかった凶器は教団の儀礼用のナイフでした。ただし、凶器のナイフが聖ブリグダ教団のものであることは箝口令が敷かれています。村のひとにはただ『ナイフで』としか説明していません。おふたりもどうか口外しないように」

「あのぶきみな装飾のナイフか。なるほど」

 籐藤は鼻で笑う。

「だが被疑者は今のところ見当たらない。それで頭を抱えている。そんなところだろう」

「いえ、被疑者はひとりあがっています」

 けろりとした表情で盛田は答えた。

「少なくとも、大至急で事情聴取をするべき相手がひとり。事件当夜に村を訪れた謎の人物がいます。ですがそのひとは事件発生後、教会・・の中にこもってしまい、教団は会わせてくれません。この村がおかれている現状・・について把握していただいたほうがよろしいと言ったでしょう。恒河沙さん」

 盛田は再び崖の上に立つ教会に指を向けた。法律の方を向き、かすかな嫌悪感を交えた笑顔を浮かべる。

「妹さんは、聖ブリグダ教団の門戸を下ったようですよ」

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