第十五章 狂気(あるいは『よろしく』)
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2021年 2月 21日 日曜日 21時 03分
「おかしい。んな、いぱだすけな話が……」
乾いた叫びが夜の境内にこだました。声の主は梶谷源造だった。我が子を殺人犯として告発した探偵に、源造は震える指をつきつけた。
「恒河沙さん。あんたの言ってることは無茶苦茶だ。泰造が犯人なはずがねぇ。だって、泰造はな、菅原くんも、岩城のとこのわらしも、子どものころからの仲なんだ。おんなじ学校に通って、この留守部で成長してきたんだ。そりゃ人間だ。ケンカだってあったかもしれねぇが、殺すような仲じゃねぇ。泰造があいつらを殺して、いったいどんな得があるって言うんだ」
「そうだな。おれも村長の意見に賛成だ」
籐藤が普段から険しい表情を一層険しくして法律に喰ってかかった。
「菅原さんを殺したのが聖ブリグダ教団の人間というならわかる。菅原さんは、特秘委員会派だからな。逆もしかりだ。岩城さんを殺したのが特秘委員会ならわかる。何故なら岩城さんは聖ブリグダ教団派だからだ。だが、泰造さんは教団の人間でなけれな、特秘委員会の人間でもない。どちらかに与しているわけでもない。ふたりを殺すことで得られるメリットなんてないんだよ。それともなんだ。そいつは、目的もなく友人を殺す精神異常者だとでも言うつもりか」
籐藤は法律の肩を強く掴む。法律の身体は震えていた。その震えが籐藤の手に伝わる。籐藤は法律の顔を見て息をのんだ。法律の顔は、踏み荒らされ泥が混じった雪と同じ様な色をしていた。そこに生気はなかった。
「目的は、あります。幼なじみのふたりを殺すことで得られるメリットがあるのです。ぼくには理解できない。籐藤さん、あなたにも理解できない。盛田さんにも、苺刃さんにも、新橋さんだって理解できない。理解できるのは、この村のひとだけです。留守部村に生まれ、留守部村に育ち、留守部村で死ぬ。そんな覚悟を抱いた留守部村のひとだけが理解できる動機です」
「うれしいですね。わかってくれましたか。理解はできなくても、共感はしてくれるでしょう」
泰造はうっとりと顔をやわらげた。それとは対照的に、法律はのどにものを詰まらせたかのように顔を歪める。
「泰造さん。それじゃ部外者のおれらに説明してくれるか。あんたはどうして、幼なじみのふたりを殺したんだ」
「籐藤刑事。わたしの口から語るのは無粋ではないですか。それは夏休みの宿題の答えを写すようなものです。恒河沙さん。あなたです。これはあなたの役目です。わたしの思考をあなたがみなさんに語るのです」
「法律……」
籐藤は法律の肩に置いていた手を背中に移した。
「いけるか?」
「……やります」
すっくと頭を上げて、法律は泰造を見やる。法律の震えは止まっていた。いや、無理やり抑え込んだというのが正確か。
「この事件の動機。それを理解するには、第一の事件が起こることなく、菅原さんと特秘委員会の御人形様強奪が成就した事態を想像することが助けになります。月曜日の夜。菅原さんは幼なじみの泰造さんに協力を仰ぎ、ふたりで本殿から御人形様を特秘委員会青森支部まで運ぶつもりでした。もしこれが成就したら……そうですね。蓮下さんにお訊ねしましょうか。蓮下さん。御人形様が手に入ったら、特秘委員会はその後、留守部村でなにをなさるつもりでしたか」
「あの特秘物を手に入れたら? そ、それはもちろん……」
浜縁で宮野さくらにテーザーガンを突きつける蓮下は、激しく視線を泳がせながら言葉を詰まらせた。だがそんな煮え切らない態度に苛立ちを覚えたのか、ラニアが階段を踏んで音を立てると、覚悟を決めたように蓮下は口をひらいた。
「菅原さんの計画通り、特秘物の搬入が成功したら、数日間は青森支部内でできる範囲の調査を行い、数週間以内には本国へ輸送する手続きをとったでしょう。あれほどの危険な特秘物はここのような簡易的な施設では手に余ります」
「では、御人形様が本国に送られたあとは、みなさんはどうなさるつもりですか」
「どうなさるって、そりゃこの村をでますよ」
『え』と虚をつかれたような声がポンと放たれた。その声を発したのは大久保だった。殺された菅原とふたり、管理組合のなかで特秘委員会と親しくしていた彼は、能面のような表情で蓮下を見ていた。
「こ、この村に残っていただけるのではないのですか。留守部村を拠点として活動していただけると、てっきりそうなるのかとばかり……」
「まぁ、この付近に特秘物が存在しているというなら数人のスタッフを残していくかもしれませんが。われわれの当初の目的はあの藁人形なのです。それを手に入れた以上、留守部村に滞在する理由はありません」
「つまりですね」
法律はふたりに割って入った。
「菅原さんが御人形様を特秘委員会に引き渡したら、ちかく特秘委員会は留守部村を去ることになるのです。では次に千来田さんに質問です。千来田さん。聖ブリグダ教団さんにとっては聞くに堪えない質問かもしれませんが、もしいまお話しした菅原さんの計画が成就したらどうなさいます。御人形様が特秘委員会の手に落ち、本国まで輸送されたとなったら、あの山の上の教会で生活されている教団員のみなさんはどうなさることでしょう」
千来田は血走った眼を左右に走らせた。彼女の手には儀礼用のナイフがあった。菅原の命を奪ったのと同じ形をしたナイフが、さくらの首筋に向けられている。
「……わたしの一存で決めることではない。上のものに相談し、判断をうかがう」
「では現在この場にいる上長さんにうかがいましょう。モントゴメリーさん。質問です。どうなさいます?」
「ふむ。それはもちろん、御人形様を諦めるつもりはありませんからな。恐らくは特秘委員会さんとの交渉にフェイズは移行するでしょう」
「では、山の上の教会は?」
「御人形様がもうこの村にはないという想定ならば、それは当然、解散だ。教団員たちは、本人の希望と適性を配慮したのち、全国の教会に移っていただく」
「きょ、教団さんもですか。この村に残っていただけないのですか」
聖ブリグダ教団派の江竜が表情筋をふるわせる。それを見てモントゴメリーは柔和な笑顔を見せながら鼻で笑うという芸当を返した。
「当然ではないですか。聖ブリグダ教団がこの留守部村に来たのは、御人形様をちょうだいするためです。この地に永住するつもりなら、あんなぼろい木造校舎ではなく、コンクリートの頑丈な教会を新設します。われわれには聖ブリグダ神の教えを世に伝える責務があるのです。こんな人口のすくない土地に残るほど、われわれはひまではないのです」
「もうおわかりでしょう」
法律が話のバトンを手中にもどした。
「風が吹けば桶屋がもうかる。特秘委員会に御人形様が渡ったら、特秘委員会と聖ブリグダ教団が留守部村を去る。泰造さんが恐れたのはこれです。だから菅原さんを殺したのです。御人形様を特秘委員会に渡さないため、ひいては特秘委員会と聖ブリグダ教団に留守部村に残ってもらうために」
「意味がわからん。どうしてこいつらに残ってもらう必要がある」
籐藤が両手をふりまわしながら唾を吐いた。
「おれはこの三日間でこいつらの乱痴気を目の当たりにした。ハロウィンみたいにおかしな格好で危険物を携帯しながら平和な村を闊歩する。村のなかでふたつの団体の人間が出会えば、小競り合いのケンカを始めるしだいだ。百害あって一利なし。村にとっては迷惑極まりない存在だ。こいつらが留守部村を出て行く? そんなの、留守部村の人間にとっては喜ばしいことじゃないか」
「刑事さん。生まれはどちらです」
泰造が訊ねる。その表情は複雑だった。顔半分には侮蔑が浮かび、もう半分には羨望が浮かぶ。見るものの心を動揺させる、なんとも類を見ない奇妙な表情がそこにあった。
「わかりますよ。東京でしょう。生まれも東京。育ちも東京。子どもの頃から周りには人間がいる。休みになれば、どこもかしこも人間だらけ。人間の渦に窒息してしまいそう。そんな人生を送ってきたのでしょう」
図星だった。生来から無愛想な籐藤は、子どものころから人込みが好きではなかったし、デパートやテーマパークに我先にと集まるひとびとをテレビの画面越しに目にしては『烏合の衆』と笑うのが常だった。
「わたしも同じでした。かつては刑事さんと同じだった。むかしはこの村もひとにあふれていた。だけど、時が経つとともにひとの数は減っていった。この村に仕事はない。金儲けの手段を求めていくつもの家族が都会に出ていった。この村に学校はない。よりよい学習環境を求めて、いくつもの家族が都会に出ていった。この村に誇れる文化なんてものはない。いくつもの家族は自慢できる地元を求めてこの村を出ていった。何人もの村人がこの村を捨てていった。仕事を、勉強を、誇りを求めてこの村を捨てていった。残されたのはこの土地に魂を縛りつけられた臆病者たちだけだ。『この村にもいいところはある』。そんな戯言を口にする、現況を直視しない妄想家たちの集まりだ。それがここだ。留守部村だ。わたしは常々考えていた。どうすれば、この村にかつての活気を取りもどせるのか。行政関係者に会う機会があれば、地域活性化の具体的な方法を請い、実現を懇願した。だが彼らがくれるのは苦笑いばかりだ。刑事さん。東京から来たあなたに、わたしの気持ちがわかるはずがない。わたしは淋しかったんです。閑散としたこの村が耐えられなかったのです」
「そんな時に、思いがけない形で村に来訪者が現れた」
陰鬱に表情筋を動かしながら法律が言った。
「去年の夏。この村にふたつの団体が訪れました。聖ブリグダ教団と特秘委員会。彼らは多数の教団員と構成員を連れて留守部村に移り住んできた。彼らの目的の是非はともかく、泰造さん、あなたの胸の寂しさは満たされた」
「本当にうれしかった」
泰造は歯をみせて笑うと、周りを囲う教団員と構成員たちを、灯台のライトのようにぐるりと見てまわった。
「こんなにも多くのひとが留守部村に来てくれた。村のいたるところでひとの声が響き、いたるところでケンカの声がして、村人が『よしなさい』と仲裁する。むかしと同じだ。わの子どものころの留守部とおんなじなんです。いまのこの村は、活気があって、未来があって、少なくともわがそう信じていた留守部村とおんなじなんです。葵、桐人」
泰造は我が子の名前を呼んだ。ふたりは同時にびくりと肩を震わせて、光悦とする父親を見た。
「おまえらふたりは、子どものころから仲が悪かった。だけど思春期になったあたりから、ケンカはせず、互いにだんまりを決め込んで無視するようになったな。おどは悲しかった。わらじは騒がしいほどいいもんだ。だけどおまえらが聖ブリグダ教団と特秘委員会に世話になり始めてからは、わらじのころのように騒がしくけんかするようになった。おどはうれしかった。あのころが帰ってきたんだ。わがいっちばんしあわせだったころ。おめえらがいて、かかもいて、わの家族がおったころだ。ほんとうに幸せだった。教団さんと委員会さんのおかげだ。教団さんが、委員会さんがあのころのしあわせをもたらしてくれたんだ」
「う、うぅ……」
「おどぅ。そんな……」
双子の姉弟は、声を絞ってその場に膝をついた。葵は握り拳を足元の雪に叩きつける。桐人の手のひらは落ち葉のようにひらひらと舞い、雪の上に力なく落ちていった。
籐藤は梶谷家で見た写真を思い出した。
木製のフレームに収められたその写真には、緑いっぱいの原っぱでビニールシートを広げて弁当を食べる梶谷家の四人の姿があった。幼き日の葵は泰造の膝に座り、そのとなりで桐人はひとりの女性の膝に座っていた。あれが泰造の言う『かか』なのだろう。いま、梶谷家には葵以外に女性はいない。『かか』はいま、梶谷家にはいないのだ。
フレームに収められていたのは写真ではない。幸福だ。泰造の幸福がそこには納められていた。泰造にとっての幸せとは家族のふれあいにあった。教団と特秘委員会が来るまで、家族の仲は冷え切っていた。ふたつの団体が梶谷家に摩擦を起こした。冷え切った家族に熱をもたらしたのだ。
「菅原さんが殺されて、警察は当初聖ブリグダ教団を犯人として疑いました」
法律は北側に立つ白壁を見ながら言った。
「当然です。菅原さんが殺されて利益を得るのは教団しかないと思われたからです。現場に落ちていた儀礼用ナイフも、この当然なる推測に拍車をかけました」
「菅原を殺したのが教団のナイフだと知られたら、村中のみなが犯人は教団だと思いこむ。対立は深まると思ったのですが、警察が凶器の情報を非公開にするとはね。この点は失敗でした」
「泰造さん。あなた、桐人さんのナイフで犯行に及んで、お子さんが犯人として疑われるとは思わなかったのですか」
「ナイフの指紋は徹底してふき取りました。怪しまれることはあっても、冤罪を被ることはないだろうと。それに、多くの教団員がナイフを持ち出しています。桐人がナイフを紛失する以前にも、ひとりぐらいはナイフをなくしたひとがいるでしょう。それに、警察も桐人を調べればあの子が犯人ではないとすぐに気づきます」
「どうしてですか」
「あんなやさしい子に、ひとを殺せるはずがないでしょう」
泰造は口角を上げて桐人を見やった。桐人はうなだれて、頭頂部で父の歪な信頼と愛情を感じ取っていた。
「岩城さんを殺したのも動機は同じ。菅原さんを殺した復讐として、特秘委員会が岩城さんを殺したという図式が生まれることを期待したのですね」
「もちろんです。一方が一方に敵意を抱くだけでは意味がない。双方が刃を向けることで戦いは生まれるのです。わたしはこの戦いの火を消すわけにはいかなかった。だから油を注いだ。注いで注いで暖をとった。教団さんも特秘委員会さんもこの村から帰すわけにはいかない。この村が生き残るためには、あなたたちが必要なんです。菅原と岩城は生贄です。この村の命を保つための尊い犠牲なのです。彼らは彼らが愛する村のために命を費やした。恒河沙さん。あなたはそんな彼らの犠牲をむだにした。ほんとうに、ほんとうにひどいひとですよ」
「まちがっているとは思いませんか」
「まちがっています。だけど、道は一本しかなかった」
「そこは獣道です。人間が進む道じゃない」
「ひとを殺めました。そんなわたしにはお似合いの道です」
「泰造さん……」
虫の鳴くような法律の声をかき消すように、乾いた音が連続して響いた。
「いやはや。お見事ですな、探偵さん」
モントゴメリーが高々と掲げた両手を、高速で叩きながら笑みを浮かべている。
「神妙不可思議なるふたつの怪事件。みごとに解いてみせたことは高く評価いたします。しかし、あなたはこの怪事件をご自身の力だけで解いたとお考えかな」
「いいえ。ぼくは――」
「そうですとも。あなたが真相にたどりついたのは、ひとえに御人形様のお力添えがあってのこと。御人形様のご加護があなたを真相に導いてくださったのです」
「笑止。そのような戯れ言は控えられよ」
モントゴメリーを横目でにらみながら、ラニアは小さく首をふった。
「梶谷泰造とかいったか。そのものは正確には犯人ではない。すべての元凶はジンである。此度の事件は、藁人形に宿る悪しきジンがひとりの村人の精神を操り殺人鬼に仕立て上げたのだ。村長殿。あの人形の危険性は重々承知していただけたと推測する。かように危険な特秘物は、一刻も早くわれわれにお渡しいただきたい」
「ミス・アッバース。いけませんよ、御人形様に罵声を飛ばすだけに飽き足らず、その小さな手中に収めようとするとは」
モントゴメリーはかがみこむと、ラニアの手を子どもをあやすように握った。ラニアはすぐさまモントゴメリーの手を乱暴にふり払う。
「下郎が。お主のような詐欺師に扱える代物でないことがまだわからんのか」
「わかりませんね。どうしてそこまで御人形様を邪険に扱われるのです。あなたは御人形様に対し余計な先入観を抱いておられる。無垢にして純粋な心でお会いになるべきです。御人形様の向こう、あらわなる次元の息吹を感じるのです。そこには聖ブリグダ神が深い眠りについておられる。一時的な次元で苦しみながらさまようわれわれを待っておら――」
「話の腰を折らせていただきますよ」
法律が声を張りあげた。有無を言わせぬその声量と勢いに、モントゴメリーとラニアの顔が一瞬だけひるんだ。
「おふたりの形而上的な議論に興味は尽きませんが、いまはそれよりも大事なことがあります。モントゴメリーさん、ラニアさん。ぼくは殺人事件の真相を明かしてみせました。約束したはずです。さくらさんを解放してください。今すぐ」
「だめだ」
モントゴメリーが即答した。ラニアはその横で、かすかにほほえみながら大きくうなずいた。
「申しわけないが、約束は反故させていただこう。わたくしには、われわれを騙し甚大なる害をもたらした恒河沙縛を捕縛し、教団上層部からなる査問機関――星座間会議に召喚させる義務があります。しかし恒河沙縛が抵抗するのは重々承知。彼女をおとなしくさせるためには、宮野さくらという人質が必要なのです。恒河沙縛を星座間会議の場に連れていくまでは、宮野さんも同行していただきますよ」
「それは特秘委員会も同じこと」
ラニアは年齢不相応な笑みを見せた。
「恒河沙縛は特秘物である。地震や、竜巻や、津波と同じ、人類とその文明を滅ぼしかねない危険な特秘物にほからなない。そんな特秘物を管理し、人類の安寧を維持するのが特秘委員会の務め。そして、この特秘物を管理するのに効果的なのは、他でもない、宮野さくらだ。この少女が特秘委員会の手中にあれば、恒河沙縛はおとなしくわれわれに管理されるであろう。宮野さくらは渡さん。この子どもは人類の安寧のために必要なのだ」
「そんな。ひどすぎる。かえして。わたしのむすめを……かえして!」
宮野美穂が悲痛の叫びをあげながら、浜縁に向かって駆けだした。凶器を突きつけられ涙ぐむさくらは『おかあさん』と、涙声をあげた。
美穂の身体を籐藤が抑え込む。籐藤はわかっていた。我が子を想う親の気持ちを理解していた。それでも止めないわけにはいかなかった。正面から駆け寄って、それでいったい何になる。教団員と構成員が乱暴に美穂を抑え込むか、さくらの身体に凶器が触れるか。どちらにしろ、そこに平和的な未来を見出すことはできなかった。
「むすめをかえせ? なにを言っている。我が子から離れたのはおまえではないか!」
さくらの首筋にナイフをつきつける千来田が叫んだ。
「おまえは日常を恐れていた。幸せのない毎日に憂いていた。さびれた村でくたびれた青春を過ごす我が子に負い目を感じていた。おまえは逃げたのだ。我が子から逃げたのだ。親としての責任から逃げた。責務を放りだして我が教団に救いを求めた」
「やめて。わたしは……」
美穂はその場にうずくまり、頭を抱えてふるえだした。
「おまえにとって娘は負担だった。おまえの人生をどん底に陥れたのはこの娘だ。そうだろう。そう考えたのだろう。それなのにいまさら娘をかえせだと。そんな身勝手な考えが許されるか。おまえのような親の元にいることこそ、この子にとっての不幸だ」
「やめて、やめて、やめて」
「この子は我が教団が預かる。立派な教団員として教育して、いつの日か再びこの村に帰ってこよう。その時、この子は黒のローブを身にまといおまえに言うのだ。『おかあさん。わたしを捨ててくれてありがとう』と」
「やめてやめてやめてやめて」
「安心してください」
法律が美穂の背中に手を置いた。だがその目は美穂を見ていなかった。法律の目は正面を捉えていた。拝殿を背に立つ、聖ブリグダ教団と特秘委員会の幹部たち。法律の目には火花が散っていた。カチリカチリと音を立て、絶えることなく爆ぜる炎が――
「もう、知りません。聖ブリグダ教団がどうなろうと。特秘委員会がどうなろうと知ったことじゃない。たださくらさんを返してくれればそれでよかった。だけどそれを許さないというなら。もう、知りません。みなさん、スマートフォンをお持ちの方はどうぞ調べてください。ネットで『虫追い』と検索してください」
法律の言葉には鬼気迫るものがあった。境内のほとんどのものが、スマートフォンを取り出し、言われるがままに『虫追い』と調べる。次の瞬間、いたるところから驚嘆の声が飛びだしてきた。
「こ、こ、これはいったい。どういうことだ」
梶谷村長が、声を震わせて言った。
「どうしてここに御人形様の写真があるんだ!」
みなのスマートフォンには、巨大な藁人形の姿が映し出されていた。
「御人形様の姿を初めて見た時から、すでにぼくはその正体を知っていました」
背筋を伸ばした法律は、胸にため続けていた鬱屈な想いを吐き出すように強く言った。
「だけどそれを公言する必要はないと考えました。村の皆が親しんでいる、ある日神社に現れた不思議な人形。その正体を説明するのは野暮だし、そもそも御人形様の来歴など、事件の真相とはなにも関係がないのですから」
『しかし』と法律は続ける。
「モントゴメリーさん。ラニアさん。あなたたちが約束を破るというのなら、ぼくも攻撃に転じるまでです」
「な、なにを――」
「虫追い。または虫送りは、日本の一部の農村地帯で古来より行われてきた、豊作を祈願する伝統行事です。巨大な藁の人形を村人の手で作り、それをかついで集落を歩き回る。最後は人形を解体し、その場で燃やしてしまうのです」
「ほ、ほんとだ。御人形様が燃やされてる!」
教団員のひとりが声を荒げた。彼のスマートフォンには、青空の下で赤い炎をまとう藁人形の画像が映っていた。
「虫追いは日本全国、北はここ青森から、南は九州地方まで様々な場所で催されてきました。細かな違いはあれど、藁人形を祭事の道具として使うという点ではほとんど共通しています。いいですか。あの本殿のなかにどんと構える藁人形は、別に珍しいものではないのです。日本全国、その気になればすぐに見つかる、ただの巨大な藁人形なんです」
法律の声はよく響いた。スマートフォンの画面に映るいくつもの藁人形に目を奪われながらも、その耳には法律の声が投擲された槍のように容赦なく突き刺さっていた。
「しかし、その虫追いとやらはこの村では行われていないのだろう」
モントゴメリーが白いハンカチで汗を拭きながら言った。
「ある日突然、この村に存在しないはずの御人形様が本殿に現れた。御人形様が、その、ただの祭事の藁人形だとすれば、燃やされてこの世に残らないはずじゃないか。それなのに御人形様はかように本殿の中に存在する。これはつまり、御人形様は虫追いとは関係なく、特別な存在であることを――」
「あ!」
突然、宵闇を割くような絶叫が響きわたった。声の主は口と両眼を大きく開く新橋だった。
「お、お、思い出しました。ぼくがこの村に来てすぐのことです。健康診断のため佐田本さんのお宅にお邪魔したときのことです。その日、佐田本さんのお宅には、十和田市から来ていた昔の猟師仲間の方がいらっしゃっていたのです。なんでも佐田本さんは前日までそのご友人のもとを訪ねて地元の祭りに参加していたそうで、すでに痴ほう症の気が出ていた佐田本さんを心配し、そのご友人が佐田本さんを留守部村まで送り届けてくれたそうです」
「ちょ、ちょっと待ってくれ先生。まさかその祭りって……」
管理組合の江竜は、顔を歪めながらふらふらと新橋に近寄った。新橋はごくりとツバを飲んでから口をひらいた。
「そうです。虫送りです。『毎年、わの村の虫送りに来てくれるんだ』と友人の方はおっしゃいました。佐田本さんとそのご友人は幼なじみで、初夏におこなわれる虫送りの時期になると、佐田本さんは必ずそのお友達のもとを訪ねていたそうです」
そして、その友人は佐田本の血圧を測る新橋に恐る恐るといった様子でこう訊ねた。
『なぁ。一年前の、佐田本のイタズラってどうなったんだ』
新橋にはイタズラが何を指しているのか分からず、当惑の表情を返すことしかできなかった。その友人も、新橋がイタズラのことを理解していないと察するや、『気にしないで』と笑ってごまかしたという。
「まさか、イタズラって。御人形様を留守部村に持ち込んだのは、佐田本さんだったのでは?」
再び場が騒然とした空気に包まれた。
ある日一体の巨大な藁人形が白山神社の本殿にあらわれた。由来の知られぬ藁人形を、村人たちは『なんとなく神聖なものだから』という理由でそのまま本殿に置き続けた。この事態に多少の驚きはあれど、それ以上に村人の感情を揺さぶるには至らなかった。もともと日常的に本殿の中を目にする村人などはおらず、この藁人形がいつからここにあったのかもわからない。もしかしたら、自分たちが覚えていないだけで、遥か昔から、うす暗い本殿の片隅にこっそりと横たわっていたのかもしれない。とにかく、大騒ぎするほどのことではない。村人たちは平然とした様子でこの事態を処理した。仮に新橋の推測通り、イタズラによって、藁人形が本殿に運び込まれたとしたら――犯人は滑稽なまでにすべったことになる。少なくとも、犯人は自分だと名乗り出ることはないだろう。
「おかしい。そんなはずはない」
ラニアが拳を握りながら唾を飛ばす。
「探偵。お主は先ほどこう申したであろう。虫送りでは、『最後は人形を解体し、その場で燃やしてしまう』と。人形がすべて燃やされるのが祭の習わしだと言うのなら、その人形は祭りのあとにはこの世に存在しないはず。つまりは、その佐田本なる老人が持ち帰るのは不可能ということになろう」
「いえ、可能です」
ケロリとした様子で法律は応える。
「虫送りでは藁人形を燃やすのが主流ですが、川に流したり、村はずれに立たせておいたりとその方法はさまざまです。また、村人たちの手によって大量の藁人形が作られる土地もあります。仮に一体程度がなくなったところで、大きな問題になることはないでしょう」
「う、うぅ……」
ラニアは言葉に詰まり、救いを求めるようにモントゴメリーを見やった。だがモントゴメリーはくちびるを噛みながら、視線をちょこまかと回していた。
「おわかりですか」
法律は右足を大きく前に踏み出した。靴の下で、踏みつけられた雪が左右にはじけ飛ぶ。
「御人形様は特別な存在ではありません。日本全国どこにでもある、ちょっと大きなただの藁人形なんです。異世界の神様の化身だとか、悪のジンが宿るとか、そんな馬鹿げた話を信じる道理はありません。いい加減にしてください。たかだか一体の人形のために、いい歳をした大人たちが何をしているんですか。聖ブリグダ教団の信仰も、特秘委員会の活動も、それ自体を否定するつもりはぼくにはありません。ですが、あなたたちがこの村ですることは何もありません。繰り返します。御人形様はただの藁人形です。火をつければ燃える、ただの人形なんです」
2
2021年 2月 21日 日曜日 21時 14分
黒のローブに身を包んだ聖ブリグダ教団教団員たちが、焦燥の表情でざわめきだす。御人形様がただの藁人形? それは本当なのか。村の老人がふざけて持ち帰った? そんなばかげた由来でこの村に現れたというのか。
モントゴメリーは親指の爪を噛みながら、眉根を潜めていた。教団員たちを落ち着かせる方法を思案しているようだが、なかなか思考がまとまらないらしい。ギザギザになった親指の爪から口を放し、今度は手の甲の皮を前歯で嚙み始めた。
銀色のタキシードを身にまとった特秘委員会構成員たちが、苦虫を噛み潰した表情で口論を始める。日本中にある藁人形だって? それは本当なのか。大して珍しくもないものが特秘物だなんてあり得るのか。多くの藁人形が燃やされるだなんて、悪のジンが宿るならそんな危険な処理の仕方は許されないはずだ。
ラニアは両腕を深く組み、二の腕に置いた人さし指を痙攣するかのように震わせていた。構成員たちを落ち着かせる方法を思案しているようだが、なかなか思考がまとまらないらしい。指の震えが伝染したのか、右足もまたがたがたと震えだした。
「聖ブリグダ教団と特秘委員会のみなさんにお尋ねします。いま、どんなお気持ちですか」
法律は目に疲れを覚えたのか、まぶたの上からぐいぐいと眼球を押している。
「あなたたちは、ここ留守部村で、上の者の命令に従い、御人形様を確保するために尽力されました。ですが、そのすべては徒労です。無駄骨でした。何故なら、御人形様は珍しくもない藁人形で、上の者が言うような、特別な存在ではなかったからです」
黒のローブと銀色のタキシードの目に猜疑心の灯が輝く。彼らの目は、拝殿前に立つモントゴメリーとラニア、そして千来田と蓮下に注がれていた。
「だましたのか」
群衆の中から、ぽつりと声がした。黒のローブか、銀色のタキシードか。
「おれたちを騙したのか。大層な言葉を並べて説明しくれたが、結局ただの藁人形だったてのか」
「ふざけないで。なんのためにこんなド田舎まで来たと思ってるの。重大なミッションだって聞いたのよ」
「おい、説明しろよ。あれがただの人形じゃないって言うなら、おれたちを納得させてみろよ」
教団員と構成員たちが強い口調で詰め寄る。階段をやや下がった位置に立っていたラニアとモントゴメリーの姿は、群衆の背中に遮られて法律の視界から消えた。法律は首筋をなでながら、頭の角度をすこしだけ上げる。階段の上、浜縁では、相変わらずさくらに凶器を突きつける千来田と蓮下の姿があった。
「籐藤さん」
法律が籐藤に声をかける。場の騒動に多少の動揺を覚えていた籐藤は『お、おう』と平然とした様子をつくろってみせた。
「ここからが大仕事です。この混乱に生じて、さくらさんを助けま――」
それは一瞬のうちに起きた。
拝殿に続く階段の上、浜縁に立つ千来田が、横に立つ蓮下の手からテーザーガンを奪いとると、すばやくその電極を蓮下に放った。
「あ、あぁ、あぁぁぁぁぁぁぁ!」
風船を破裂させたような乾いた音に続き、地を揺るがすような蓮下の叫び声が長く続いた。蓮下はその場に倒れこみ、浜縁の床の上で徐々にその叫び声を小さくしていった。
千来田の行動は早かった。その場に居合わせた者の誰もが現状を把握できず呆然とする間に、彼女は黒のローブを脱ぎ捨てた。
千来田の姿を見て周囲のものたちは誰もが言葉を失った。ローブの下に彼女は服を着ていなかった。しかし、全裸の上にローブを羽織っていたというわけでもない。彼女の身体には三本のベルトが巻かれていた。ベルトには黄土色をした長方形の物体が大量に取り付けてあった。それらの物体は乱雑に絡み合った結束バンドでベルトに固定されている。
「だれも動くな!」
千来田は背後からさくらの首に腕を絡ませた。さくらを無理やり立たせ、左手のナイフの刃先を彼女の首に突きつける。
そんな状況でもさくらは気丈だった。涙を流してはいるが、声は押し殺し、千来田を刺激しないようにと意識しているようだった。
千来田に指示され、さくらは千来田と密着したまま拝殿の階段を降りていった。
「ち、千来田。なにを考えているんだ。まさかそれは、ベルトのそれは……」
モントゴメリーはカタカタと歯を鳴らした。だが千来田はそんなモントゴメリーを、路傍の石のごとく扱った。つまりは見向きもしなかった。彼女の目は一点に注がれていた。拝殿前の広場に立つ恒河沙の兄妹。真相にたどり着いた恒河沙法律。そして、その横で獣のような敵意を放ち千来田をにらみつける恒河沙縛。
モントゴメリーはその場で階段を飛び降りた。同じく階段に立っていたラニアは赤子のように小さく口を開き千来田を見つめていた。だが千来田の目にはラニアの姿は映っていなかった。あと数センチで接触するというところで、ラニアは思い出したように足を動かす。だがその足はもつれ、ラニアは数段の階段を転がり落ち、雪の上にしたたかに尻を打ちつけた。
「みな、その場から動くんじゃない!」
千来田が叫ぶ。境内を飛び越え、留守部村全体に届くのではないかというほどの声量だった。
「この身体に巻き付けられたものがなにかわかるか。プラスチック爆弾だ。無知蒙昧な輩のために説明すると、これだけの爆薬があれば、この神社を灰に返す程度は余裕でできる。動くな、誰も動くな。ひとりでも動いてみろ、その場で爆弾を起動してやるからな」
さくらの首に絡みつく右手には起爆装置が握られていた。タバコの箱程度の大きさで、黒光りする本体の上部に赤いスイッチがついていた。
拝殿前に集まった群衆は左右に分かれた。恐怖に彩られた花道を千来田とさくらは進んでいく。
「探偵。お前の口にしたことはすべてデタラメだ!」
ずるずると前に進みながら千来田は叫んだ。その声はしわがれ、抑揚は不気味なほどに不統一。山の上の教会を統治していた際のカリスマ性はそこにはなかった。
「御人形様は特別だ。あれがただの藁人形のはずがない。わたしは……わたしはあれに賭けたんだ。御人形様を持ち帰れば、教団内のわたしの立ち位置は確たるものになる。スターⅡへの昇格は絶対だ。わたしはスターⅢ程度で終わる器ではない。見返すんだ。わたしを馬鹿にした世間を見返すんだ。そのためには御人形様が必要なんだ。あれは特別な存在なんだ。訂正しろ。恒河沙法律。御人形様は聖ブリグダ神の身代であると、皆の前で訂正するんだ。訂正しないというなら、わたしがおまえを訂正してやる。おまえの真実を訂正してやる」
「ち、千来田。ストップ。おちつけ。おちつくんだ」
モントゴメリーはかたかたと震える両手を前につきだした。
「周りを見ろ。ここにはわれわれ聖ブリグダ教団の同胞がいる。せめてわれわれだけはこの神社から逃がしてくれないか」
「うるさい。モントゴメリー。お前がわたしに何をしたか覚えているのか。巫女様を見つけたのはわたしだ。それなのにお前は、途中からやってきて、手柄を横取りしようとした。そして、いざ巫女様がニセモノだとわかったら、今度は本部へ巫女を見つけたのは千来田だったと報告した。おまえの信仰心こそニセモノだ。救われるべきは、真に聖ブリグダ神の救済を信じるこのわたし。千来田イヴリンに他ならない。あぁ、巫女様! 巫女様!」
千来田は血走った眼を見開き、法律の横で千来田をにらみつける縛に言った。
「巫女様。ふふふ。ニセモノの巫女様。これより儀式を執り行います。あなたのせいで失敗に終わった『調和の儀式』をもう一度行うのです。生贄を供して聖ブリグダ神の怒りを鎮めることで、この世の調和を取り戻す。巫女様に選択肢をさしあげましょう。生贄はふたつにひとつ。この娘か、この場にいる全員か。娘を選べばその瞬間、このか細い首にナイフを突き刺す。この場にいる全員を選べば、わかっているな、この爆弾を起爆させる。さぁ、どちらだ。ひとりの命か。全員の命か。どちらだ。どちらだ。どちらにするんだ」
千来田の言葉に境内はパニックに包まれた。予想だにしない千来田の狂乱。逃げ出そうにも、この神社の入り口は四脚門の一か所しかない。その四脚門はいま、縛を間に挟んで、千来田の視線の先にある。逃げ出そうとする者がいれば、千来田は容赦なく手元のスイッチを押すだろう。この場の皆がそう信じていた。千来田の言葉からは確たる意志が感じられた。
「あ、あぁ……」
美穂が力なく雪の上に崩れ落ちる。その顔はとめどなく流れる涙で崩れていた。提示されたふたつの選択肢は、宮野親子にとってはどちらも絶望につながるものだった。さくらもまた、涙を流していた。母と同じく、すべてを諦めたように涙を。
「ほう兄。ちょっとまずいかも」
縛はほほに汗をつたわせながら言った。
「すこしでも隙があれば飛びかかろうとしたけど、無理かも。あのひとやばい。隙がないよ」
「ちょっとじゃない。かなりまずいね」
法律もまた、ほほに汗をつたわせる。
「すこし焚きつけて隙が生まれればと思ったけど。思ったよりも火力が強かったみたいだ」
「冗談言っている場合? それとも、冗談を言うほど余裕があるの」
「余裕はない。待って。いま、何かいいアイディアがないか考えて……」
「巫女様。巫女様。巫女様ぁ!」
千来田はぐるりぐるりと首をふりまわしながら叫び始めた。
「どうする。時間が必要か。よろしい。時間をさしあげましょう。あと十秒だ。十秒でこのスイッチを押す。それまでに選べ。この娘ひとりの命か、この場の全員の命か。さぁ、どちらだ。選べ。命を選べ。どちらにしてもおまえの責任だ。この死の責任はお前にある。ははは。おまえのせいだ。全部おまえのせいだ。おまえが来なければすべては上手く行っていた。御人形様はわたしの手の中に落ちていた。それなのにお前が、恒河沙縛、おまえがすべてを無茶苦茶にしたんだ。さぁ選べ。おまえの選択肢を聞かせろ!」
「いや。どっちもわがねよ」
その声は千来田の背後から聞こえた。黒のローブと銀色タキシードの群れから、古びたダウンを着た男が飛び出してきた。
梶谷泰造だった。先ほどまでこの場のスポットライトを浴びていたのは殺人事件の犯人として告発された彼だった。だがスポットライトの向きが全身に爆弾を巻き付けた千来田に移ると、泰造は境内の白壁沿いに拝殿側に回り込み、パニック状態の教団員と構成員の間に潜り込んだのだった。
千来田の親指が曲がり、爆弾のスイッチに触れかかる。だが泰造の方が早かった。彼は岩のように固めた握り拳で、千来田の手を強く払った。スイッチが千来田の手から離れ、数メートルの距離を飛んでいく。
この場で尋常ならざる集中力を発揮していたのは泰造だけではなかった。ある種のトランス状態に陥っていた千来田もまたすさまじい集中力を伴っていた。スイッチが飛んでいき、千来田に残された手段はもう片方の手に握られた儀礼用ナイフだけだった。サイレンのような悲鳴をさくらがあげる。さくらは理解していた。選択肢のひとつは千来田の手から離れていった。残された選択肢はもう片方の手のそれだけ。自身の命を犠牲にする選択肢だけ。
泰造がナイフを握る千来田の手を払う。だが千来田もまた、スイッチが飛ばされたいま左手の得物が最後の手段であることは理解していた。その手は儀礼用ナイフの柄を強く握りしめている。離れない。スイッチのように飛んではいかない。泰造は千来田の左手を掴む。離さないというのなら、使わせなければいい。泰造は千来田の手を手前に引き、儀礼用ナイフの刃先を自らの腹部に深く突き刺した。
境内のいたるところから悲鳴があがった。泰造は低音の息を一度吐き出す。そして笑った。千来田の唖然とした表情に勝利を確信した。だから笑ったのだろう。
「この神社も……」
泰造は口を開き白い歯を見せた。その白い歯のすき間から、鮮血がつらつらと垂れ落ちてくる。
「……さくらちゃんも、留守部村の一部だ。わが、わがこの村を守るんだ。おまえなんかに、わの村は壊せねぇ」
「く、くそ。離せ。離せよぉ」
千来田は泰造の腹に刺さったナイフを引き抜こうとする。だが泰造はそれを許さない。さらに力を込めて、ナイフを握る千来田の手を引く。離さないというなら、使わせなければいい。自身の腹にナイフが刺さっている限り、千来田はさくらにナイフを突き刺すことはできないのだ。
泰造の腹部が褐色に染まっていく。泰造の口から『うぷ』という重苦しい声とともに、鮮血のかたまりがこぼれ出た。
この場のスポットライトを浴びていたのは千来田と泰造だった。突然の殺傷沙汰を前にして、この場に居合わせた皆の脳は、眼前の事象の処理に時間を擁していた。
だがもうひとりいた。尋常ならざる集中力を発揮していたものが、千来田と泰造の他にもうひとりいたのだ。
縛は駆けだした。体勢を低くし、獲物を前にしたツキノワグマのような勢いで駆けていく。縛の足が一歩を踏み出すごとに、踏みつけられた砂利混じりの雪が爆ぜるように左右に散った。
縛は飛んだ。高く飛び、空中で身体の向きを横に曲げ、さらに両ひざを折り曲げた。体重が乗った両ひざが、勢いそのままに千来田ののどぼとけに激突する。千来田はのけぞり、儀礼用ナイフを離した。縛を首の上に乗せたまま、千来田は後ろ向きに倒れていく。縛は知っていた。このまま自身の全体重を乗せて地面にたたきつければ、千来田は死ぬ。頸椎はブルドーザーに轢かれたように砕け散り、痛みを感じる間もなく絶命するだろう。縛は知っていた。そうなることを経験的に知っていた。
千来田の後頭部が地面に触れる直前、縛の右手が包むように千来田の後頭部に添えられた。縛は上半身を大きく反らし、両足のつま先をピンと立てる。千来田の後頭部よりも先に、縛のつま先が地面に着いた。つま先を軸にして、両ひざが千来田の首から離れる。着地の衝撃は縛の両脚に吸収され、千来田は下半身と背中に衝撃を受ける程度で済んだ。
法律が雪の上に転がるスイッチを両手で抱えるように拾いこんだ。次に動いたのは苺刃だった。苺刃は両手を地面について身体を震わすさくらに駆け寄り、両腕でその身体を包む。
「さくらちゃん。だいじょうぶ。お母さんはすぐにそこにいるからね」
美穂は両手を口に当てて嗚咽を漏らしていた。娘と同じく、美穂もまた精神的なショックから足取りには頼りないものがあった。
「梶谷さんが……」
虫の鳴くような声でさくらは言う。
「助けてくれた……あのひとは、殺人犯なのに……」
「そうだね。殺人犯だけど、あのひとは誰よりもこの村のことを想っていた」
「先生! 新橋先生!」
縛の叫び声が境内に響きわたった。縛は、鮮血に染まり地面に横たわる泰造の横にいた。しゃがみこみ、狼狽した表情で泰造の肩を強く握っている。
「どこですか、先生。早く!」
「ナイフは抜いちゃいけない!」
新橋が慌てた様子で駆けつけてきた。ジャンパーを脱ぎ、刺さったナイフの周りからジャンパーを押し当てる。
「フタの役割をしているんだ。この出血量……だいじょうぶ。今すぐ治療すれば助かる。ぼくの診療所に運びましょう。公民館に担架があったはず。だれか、急いで」
「終わった……のか」
籐藤がスイッチを持つ法律に向かい、疲労感に満ちた声を出した。
「いや、まだ終わってない」
地の底からにじみ出るような、淀んだ声が聞こえてきた。声を発したのは、縛の一撃で地面に伏せていた千来田だった。
千来田は身に着けているベルトに手を伸ばした。大量のプラスチック爆弾に紛れて、小さな画面がついた黒い板状の機器がひとつ取りつけてあった。
千来田の手がその機器の上部にあるスイッチに触れる。次の瞬間、機器の画面に赤く巨大な四文字が現れた。『00:15』。一秒の間をおいて、『00:14』に表示が変わる。
籐藤は衝撃に顔を引きつらせ、次の瞬間、天が裂けんばかりの絶叫を放った。
「爆発する。全員逃げろ!」
皆が千来田の胴体の前で赤く光る四桁の数字に気づいた。途端に境内は悲鳴とパニックに包まれた。黒のローブと銀色タキシードの群れが、我先にと四脚門の入り口へ駆けだした。
「ひひひ。逃げられないよ」
千来田は顔を愉悦に歪めてみせた。
「わたしたちは供物だ。聖ブリグダ神にささげる供物になるんだ。ひひひ」
「そんな、嘘でしょ」
さくらを胸に抱いた美穂が、さらに力を入れて我が子を抱きしめる。
「せっかく会えたのに。さくらに会えたのに、ここで、ここで死ぬの。わたしたちはここで……」
縛が千来田に飛びつき、その身体に巻き付くベルトを剥がそうと試みた。だがベルトは強固に巻かれており、残された数秒で剥がすのは誰の目にも不可能だった。
タイマーの表示は『00:10』に変わった。境内に諦観の雰囲気が漂うなか、ひとりだけ諦めない者がいた。
「う、うぅ。うぅぅ!」
その男は、苦痛の息を吐きながら、自分の腹部に刺さったナイフを抜き取った。途端に、腹部から鮮血があふれ出して地面の雪を不気味な色に染めていく。
「泰造さん。何を――」
新橋が声を上げるが、泰造は新橋に見向きもしなかった。寝転がった体勢のまま、泰造はナイフを投げた。ナイフはその身を高速で回しながら夜の空気を切り裂いていく。ナイフの先には縛がいた。自身に向かってくるナイフの向こうに、縛は泰造の視線を見た。それを見て縛は理解した。泰造は縛に託したのだ。この村を救ってほしい。いま、この場でそれができるのは縛だと。
奇妙な話である。縛は探偵であり、真実の追求のために奔走してきた。そして泰造は真実を隠蔽しようと試みた犯人である。探偵と犯人は相反する存在のはずである。そんな探偵と犯人の心が、いま、たしかに通じ合ったのだ。
縛は飛んできたナイフの柄を片手で受け止めた。
「ほう兄!」
ナイフを手に叫ぶ妹を見て、法律もまた理解した。この探偵もまた、犯人と心を交わした。法律は本殿につながる階段に向かって駆けだした。
タイマーの表示が『00:08』に代わる。千来田の口から愉悦の声がこぼれだした。ケタケタと壊れた機械のように彼女は笑う。
縛はナイフを千来田に向かって振り下ろした。ナイフがプラスチック爆弾を巻いた三本のベルトを切り取る。ナイフの切っ先が千来田の肌に触れる。薄く赤い線が千来田の肌に走る。だが千来田は痛みを訴えたりはしなかった。ケタケタケタケタ。彼女にできることは笑うことだけだった。
三本のベルトを力いっぱいに抜き取る。物騒な装飾だらけのベルトが千来田の身体から離れた。
「だけど、それじゃなんの解決にもならんぞ」
そうつぶやいたのは籐藤だ。彼の言い分は正しい。プラスチック爆弾を千来田から離したところで、その爆発が白山神社とそこに集まった人々を木っ端みじんに吹き飛ばすことには変わらない。
「縛!」
本殿の階段を登っていた法律が、縛に向かって黒い塊を投げつけた。それは千来田が脱ぎ捨てた黒のローブだった。頭から足元までを包む丈の長いローブ。縛はローブを受けとると、プラスチック爆弾が巻き付いた三本のベルトをひとまとめにしてローブで包んだ。ローブに包まれる直前、タイマーの表示は『00:05』に変わっていた。
「まに……あえぇぇ!」
ローブの四隅を両手にまとめて握りしめる。風呂敷包みの要領で、ベルトと爆弾をローブに包んだわけだ。
縛はローブを持ち上げると、頭上でぐるりとふり回した。ローブに集まる遠心力に引かれて、縛の身体も回転を始める。軽く腰を曲げ、左脚を軸にする。一周、二周、三周。縛の身体がローブに引かれるように回転を始める。二本の足が足元の雪と砂利をはじき飛ばしてく。その両腕にかかる負担はいかほどのものか。プラスチック爆弾とベルトの重量は決して軽くない。風呂敷状に包んだローブは丈が大きく、そこにかかる空気抵抗は相当のものであろう。だが縛は止まらない。全身全霊の力を込めて回転を続ける。回転は徐々にそのスピードを増していった。さながら小さな竜巻のように、縛は反時計回りの回転を続ける。
「縛さん。まさか……」
苺刃は両眼を見開き、縛を見つめていた。
縛はローブを地面すれすれの高さまで下ろした。そこから半周ほどしたところで、背骨が折れるのではないかと見紛うほど激しく身体を反らし、その反動でローブを握る両腕を高く振りあげた。約五〇度の投射角がついたところで、縛はローブを放した。
「いっけ、いっけ、いっけぇぇぇぇ!」
遠心力と逆さまに働く求心力に乗ってローブは飛んでいく。宵闇を切り裂きながら高く高く飛んでいくその姿は、さながら砲丸のようだ。放たれた方角は北東。白壁を超え、本殿を超え、神社の周りを囲う林も超え、村の東部に構える山の断崖に沿いながら夜空に向かって飛んでいった。
雪で覆われた山肌の遥か高いところにその姿がのみ込まれていく。直後、白い山肌を背に山吹色の炎が広がり、耳をつんざく爆音が響きわたった。プラスチック爆弾は誰もいない山中で爆発した。
境内に歓喜の声があふれる。苺刃は縛に抱きつき、ほほに力強くくちびるを押しつけた。
「……泰造さん。泰造さんは?」
雪の上に尻もちをついていた縛は、この作戦を立案した泰造の名前を呼んだ。雪の上に寝ころぶ泰造のそばには、新橋の他に、源造、桐人、そして葵がそろっていた。
葵は嗚咽をこぼしながら泰造の胸に顔を押しつけている。源造と桐人はカカシのように呆然とした様子でその場に立っていた。
縛は立ち上がり、疲労の色が感じられる足取りで泰造に近づいた。すかさず苺刃が肩を貸す。ふたりの存在に気づいた新橋が、悲嘆に暮れた表情で首を横にふった。泰造の腹部からの出血は止まっていた。新橋はポケットから白いハンカチを取り出し、泰造の顔の上にそっと置いた。
3
2021年 2月 21日 日曜日 21時 20分
「は、はは。すばらしい。すばらしいですね、巫女様」
乾いた拍手をしながらモントゴメリーが近づいてくる。モントゴメリーの背後に続く聖ブリグダ教団員たちも、このスターⅡに倣って、たどたどしい拍手を始めた。
「あの爆弾を山の向こうまで投げ飛ばすとは。なんという馬鹿力でしょう。いやまったく。あなたには驚かされてばかりだ」
「特秘物としての面目躍如といったところか」
涼しい顔をしながらラニアも戻ってきた。ラニアの背後にもまた、特秘委員会の構成員たちが続き、ブルーローズに倣い無表情でうんうんとうなずいている。
「ひとの子の 正体見たり 特秘物。その人間離れした腕力こそ、特秘物たる証拠であろう。恒河沙縛。命を救ってくれたことには感謝する。しかし、貴様を捕縛するという当初の目的は……な、なんだ?」
ラニアの言葉を遮るように、遠くから地響きのような低い音が聞こえてくる。音の出所を探ろうと、皆が首を左右に振る。それを最初に見つけたのはラニアだった。ラニアは涼しい顔を崩し、『あぁ?』とすっとんきょうな声をあげた。
皆がラニアの視線を追った。ラニアはプラスチック爆弾が爆発した山のあたりを見ていた。そんな山の斜面に沿って、わたあめのような白いかたまりが浮かび上がっていた。
「雲が落ちてきた?」
縛に肩を貸す苺刃が、そんな非科学的なことを口にした。当然、山の斜面に浮かぶのは雲ではない。その白いかたまりは、ずりずりと動きながら山を下っている。その正体は雪煙である。勢いよく斜面を下ってくる雪が、風に吹かれて空気中に浮き上がっているのだ。
雪煙の下では山の斜面を大量の雪がすべり落ちていた。何故このような現象が起きたのか。考えるまでもない。数十秒前に、この山の斜面で爆発が起きた。神社ひとつを吹き飛ばすほどの衝撃と爆音はそれを引き起こした。なにを。つまり――
「な、雪崩だ!」
モントゴメリーが悲鳴に近い声をあげた。当然であろう。いま雪崩が向かっていく先には一軒の木造校舎がおかれていた。留守部村のひとたちはそれを『廃校舎』と呼んだ。聖ブリグダ教団はそれを『教会』と呼んだ。どちらでも構わない。いま、その木造校舎は大量の雪崩にのみ込まれ、悲惨と称することに誰も抗い得ない破壊音を発してみせた。昭和の時代から留守部村の子ども達の学び舎として使用されてきたこの校舎は、ろくなメンテナンスもされず、その耐久性はたかが知れていると元大工の泰造はかつて評していた。
雪崩は粉々になった木片を巻き込みながら進み続ける。雪崩の一部が断崖から落ちてきた。落ちてきた雪崩が白山神社まで届くのではと何人かは訝しんだ。しかし断崖側に落ちてくる雪の量は、山の斜面を下ってきた雪崩の量に比べると大したものではない。多く見積もっても、その被害は神社の裏に広がる林の一部を埋め尽くす程度で済みそうだ。
では、それ以外の雪崩はどこへ行ったのか。考えるまでもない。留守部村を望む断崖とは違う方向に流れていったのだ。
誰かが悲鳴をあげた。ラニアだ。両ほほに手を当て、年相応のかん高い悲鳴をあげる。当然であろう。いま雪崩が向かっていく先、断崖とは反対側の方向には木々が伐採された下りの斜面が広がっている。雪崩の本流はそちらに向かっている。そして、その斜面の最果てにあるのは――特秘委員会青森支部。特秘物がいくつも収められた、特秘委員会の活動拠点があるのだ。
山の向こうから激しい衝撃音が聞こえてきた。木造校舎の残骸を含み、その質量を増した雪崩が青森支部を粉砕したに違いない。青森支部はお椀上に地面を掘り下げた位置に立てられ、周囲は数メートルの断崖に囲まれていた。『教会』の残骸を含んだ雪崩はこの場所にたどりつき、無惨なまでに破壊された青森支部の上に積み重なっているだろう。
「わ、われらの家が……聖なる家が……」
「特秘物……余の貴重な特秘物……」
モントゴメリーとラニアは揃って失意の色を顔に浮かべた。瞬間、失意が敵意に変わる。彼らは怒りに満ちた表情で、法律と縛に詰め寄った。同時に、このふたりの指導者と同じく敵意に溢れた教団員と構成員たちも後に続く。籐藤や苺刃が止める間もなく、法律と縛は周囲を黒のローブと銀色タキシードに囲まれた。
「聖ブリグダ教団の教会とは教団員の心の拠り所。それを破壊するとは、まさにわれわれの心を破壊したに他ならない」
モントゴメリーはローブの内側から儀礼用ナイフを取りだした。それを見て教団員たちもナイフを取り、じりじりとにじり寄る。
「許せない。恒河沙の兄妹。この黄金星フランシス・モントゴメリーがいまこの場でお前らのその罪深き命を解放してやろう」
「そもそもおたくの千来田さんが爆弾なんて持ちこむから悪いんでしょう」
法律が不満そうにほほをふくらませる。
「モントゴメリーさんも慌てて逃げ出してましたけど、ここで爆発すれば、絶対に巻き込まれていましたよ。感謝こそされど、非難される筋合いはありません」
「許さん。どこまでわれわれに害を為せば気が済むのだ」
今度はラニアが啖呵を切った。さすがの彼女もこの爆弾騒動でかなりの精神的なダメージを負っているらしい。口調は荒く、唾を吐き散らしながら、縛に指をつきつけた。
「火災を起こすだけでは飽き足らず、建物そのものを破壊するとは。貴様のような特秘物は即刻処理してやる。いまこの場でその命を絶ち、世の安寧と平和をとりもどそうぞ」
ラニアは腰に備え付けたテーザーガンに手に取った。それを見て構成員たちもテーザーガンを手に取り、じりじりとにじり寄る。
「もうやめましょうよう。わたしは特秘物なんかじゃありません。どこにでもいる、甘いお菓子が大好きな普通の女の子なんです」
「普通の女の子は爆弾を前にしたら逃げ出すものだ」
「さっきのラニアさんみたいに? そんな無理して低い声を出さないで、すなおにかわいい声をだしたほうがいいですよ」
「だ、だまれ。もうがまんならん。今すぐこの場で、その内に潜む悪しきジンを成敗してくれる」
「助太刀いたしますよ、ミス・アッバース」
モントゴメリーと教団員たちが強く半歩を踏み出した。
「この兄妹は生かしておくべきではない。日本の警察なんて気にする必要はありません。聖ブリグダ教団と特秘委員会が裏から手を回せば、こんな小さな島国の事件なんてかんたんにもみ消せます」
「あー。前にも言いましたけど、やめておいたほうがいいですよ」
法律は弱々しく人さし指を上げて場の注目を集めた。だがラニアは法律のその手を乱暴に平手ではたいた。
「『やめておいたほうがいい』だと? 『やめてください』の間違いであろう。余がお主ら邪悪な兄妹を罰して、なんの責めを負うというのだ」
「その通りです。ミス・アッバース。いま、この場で殺してしまうのです。うら若き乙女には荷が重いですか。それならばわたしがこのナイフで――ん、なんだ?」
人ごみをかきわけて、背の曲がった教団員が、モントゴメリーのもとに来た。教団員はスマートフォンをモントゴメリーの手に押しつける。その顔は信仰する神に失望の意志を告げられたかのように悲哀に溢れていた。その教団員は法律を一瞥すると、悲鳴をあげながら逃げ出した。
「な、なんだ。ん? 電話か。どこのどいつだ。この忙しい時に」
『忙しい時にわるかったですね』
スマートフォンはスピーカーモードに設定されており、通話相手のよく通る声はその場の皆に聞こえた。荘厳な鐘の音を連想させる澄み切った女性の声。その声を耳にした途端、モントゴメリーは眼球が飛び出るのではないかと疑うほど両目を開いた。
「ホ……聖星……ミス・フィッツロイ……」
次の瞬間、モントゴメリーはその場に膝をついた。両腕でスマートフォンを高々と掲げ、筋肉が許すかぎり頭を地面に近づける。
周囲の教団員たちもことの重大性に気づいたらしい。『マルタ・フィッツロイ』。『聖星様だ。我らが教団のナンバーツー』『すごい。スターⅠのお声が聞けるなんて』。そんな言葉を漏らしながら、モントゴメリーに倣い彼らもひざまずいた。
『その場には日本語しか理解できない教団員もいるのでしょう。彼らのためにも、日本語を使わせていただきます。モントゴメリー。報告書を拝読しました。青森の地でがんばっているようですね。報告書は光星もお読みになりました』
教団員たちから興奮の声が上がる。『聖ブリグダ教団最高位、光星』。『スターⅠのお口からスター零のお名前をうかがえるなんて』。『今日はなんてすばらしい日なんだ』。
モントゴメリーは愉悦に溢れた笑みを浮かべた。しかし――
『……とんでもないことをしてくれましたね』
その笑みは、フィッツロイの言葉で凍りついた。
『あなたの報告書を読まれたスター零は、その場で倒れ病院の集中治療室に運ばれました。いまも意識は戻らず、生死の境をさまよわれています。忘れたとは言わせませんよ。スター零は心臓の持病をお持ちで、過大なるショックは厳禁。それなのにあなたは……信じられません。あなたは恒河沙と接触したというのですか』
モントゴメリ―は何も答えない。エサを求める池の魚のようにぱくぱくと口を動かすばかりだ。
『……今から四十年前。若き光星ことエイブラハム・マーシュ青年は、マダガスカル島の館で奇怪な殺人事件に巻き込まれました。閉ざされた館で毎晩発見される十の身元不明の死体。それを解決したのが日本から来た私立探偵、恒河沙なる男でした。恒河沙はたしかに真相にたどり着いた。ですがその方法はあまりにも乱暴で、神をも恐れぬ悪鬼羅刹のごとき不遜な捜査に、事件関係者の精神はひとりとして例外なくズタズタに傷つけられました。若き日に光星が自殺未遂を繰り返していたことは知っているでしょう。あれは、マダガスカル島から帰国した直後の話なのです』
モントゴメリーの手からスマートフォンがこぼれ落ちた。氷のように固まったモントゴメリーは、拾うそぶりさえみせない。雪の上に落ちたスマートフォンから、彼にとっては無情なことにフィッツロイの言葉が続く。
『スターⅡに昇進した際の研修で聞いたはずです。光星にとって、恒河沙の名前は絶対的なタブー。恒河沙に触れてはならない。その名前を教団に持ち込んではならない。それなのにあなたは……』
「はっはっは。情けないことよのう」
ラニアの高笑いが境内に響きわたった。
「そうかそうか。聖ブリグダ教団はそろいもそろって腰抜けの集まりのようじゃな。よい。あとは特秘委員会に任せよ。邪悪なる兄妹に引導を渡すのは余だ。偉大にして雄大なる勇士、ハサン・アッバースの高潔なる血を継ぐラニア・アッバ……な、なんじゃ?」
銀色タキシードの構成員が、スマートフォンをラニアの手に押しつける。その顔は信仰する神に失望の意志を告げられたかのように悲哀に溢れていた。その構成員は縛を一瞥すると、やはり悲鳴をあげながら逃げ出した。
「誰じゃ。この忙しい時に電話などかけおって」
『ずいぶんとえらそうな口をたたくじゃないか』
スピーカーモードに設定されたスマートフォンから男の声が発せられた。
ラニアはその声を耳にした途端、スマートフォンを両手でかかげ、両ひざと頭を地面にこすりつけた。周りの構成員たちも、一瞬だけ困惑した表情を見せたが、すぐにラニアに倣い、その場に伏せた。
『みなにわしの声は聞こえているかな。聞こえているようだな。ふん。わしの名前はサイード・アッバース。アッバース&キャロライン財団理事長といった方がわかりやすいかね』
構成員たちは口々にささやき合った。『サイード様だ』。『この世に五人しか存在しないホワイトローズのおひとり』。『財団理事会のトップがどうして』。
『ラニア。わしの声は聞こえているのか』
「は、はい。おとうさま」
『どうだ。わしの日本語も悪くはないだろう』
「お上手です。まさか日本語もお話になれたとは」
『二十年前に一度習っただけだ。それよりラニア。青森なる地でのお前の活躍を耳にしたぞ。特秘物収集のために尽力しておるようだな』
「は、はい。銀河系全域の平和と安寧のため、またわれらの高祖、レッドローズ、サイード・アッバース様の科学第一主義の教義をこの世に広めるため――」
『そのおじい様だが、二時間前に執務室の窓から飛び降りになられた』
「……は?」
『中庭に転がっているおじい様を見つけたのはこのわたしだ。ラニアよ。お前ならどんな気分になる。全身の骨が折れ曲がり、トラックに轢かれた猫のようにぴくぴくと痙攣する実の父の姿を見て、お前ならどんな気分になる』
「そ、それは。それは、なんとも……」
『なぁ、どんな気分だ。実の父が飛び降りた原因が、血のつながった我が子にあるとしたら、どんな気分になると思う』
ラニアの手からスマートフォンがこぼれ落ちた。飴細工のように固まったラニアは拾うそぶりさえみせない。雪の上に落ちたスマートフォンから、彼女にとっては無情なことにサイードの言葉が続く。
『約四十年前。レッドローズ、サイード・アッバースは、かの有名なコーヴォスレイル寝台列車に乗り、アフリカの雄大なる大地をめぐる旅行を楽しまれておられた。だがその列車で残忍な殺人事件が起きた。走行中に客のひとりが施錠された個室でライオンに捕食されたのだ。当然だが、豪華な寝台列車にライオンを運ぶスペースなんてものはない。ライオンはどこから来て、どこへ消えたのか。この事件の謎を解いたのが、日本から来た『恒河沙』なる私立探偵だった。だが、恒河沙の捜査に『人権』なる二文字は存在しなかった。傲岸不遜な彼の捜査に、事件関係者はその精神に著しい傷を負った。おじい様も同じだ。我が子を十三の肉片に切り裂かれた時も平然としていた男が、恒河沙とかいう探偵の前では、生まれたての赤子のように泣きじゃくったというのだ』
「あ、あ、あ……」
『安心しろ。おじいさまは生きておられる。だが今も病院のベッドで昏睡し、苦しそうにうわごとをくりかえしている。『逃げなくてはならない。恒河沙がくる。恒河沙がくる』とな』
「あ、あ、あ……」
『二時間前、おじい様のもとにお前が書いたレポートが届けられた。そこには『恒河沙』の名前があった。ラニアよ。わしは覚えている。おまえの六歳の誕生日に、おじい様はおまえにこう説かれた。『東の国には鬼がいる。恒河沙というその鬼には、何があっても関わってはならない』と。ラニア。おまえは、おじい様のいいつけを裏切ったのだな』
「そ、そんなむかしの話……」
『だまれ! ブルーローズ、ラニア・アッバースよ。よく聞け』
『フランシス・モントゴメリー。聖星の名のもと、あなたに以下の厳命を申しつけます』
サイードの声に、フィッツロイの声が重なった。
『今すぐ逃げろ。恒河沙から逃げるんだ。恒河沙はわれらに破滅をもたらす』
『その場から立ち去りなさい。恒河沙から離れるのです。恒河沙はわれらに破滅をもたらします』
教団員、そして構成員たちの目が、彼らが囲う法律と縛に注がれる。ガタガタと歯を鳴らすもの。口を半開きにして凍った笑みを浮かべるもの。呼吸を荒くして、服の袖を犬のように噛むものもいた。
「そう。ぼくらの父親はみなさんの組織のトップとちょっとした関りがあるんですよ」
法律は片手をひらひらとふってみせる。
「だから言ったでしょ。やめておいたほうがいいって。ぼくらには関わらない方がいいって」
ひとりの口から、『ひ』と鋭い悲鳴が漏れでる。それが呼び水となり、悲鳴の重奏が夜の留守部村に響き渡った。黒のローブと銀色タキシードたちは、われさきにと神社の入り口へと駆けだす。モントゴメリーは他の者を押しのけて走り、ラニアは手の痛みに耐えながら走るファルークの背中に乗り、馬にムチを打つ騎手のように、彼の頭を叩いていた。
「ま、まて。あんたらは事件の大事な関係者だ。勝手にどっかに行かれたら困る……おい、聞いてんのか」
盛田が慌てて追いかけるが、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した教団員と構成員たちの耳に盛田の声は届かない。結局は盛田も諦め、警察本部に連絡し、彼らを下北半島から逃さないよう非常線を張るに留めた。
「ねぇ、ほう兄」
「ん?」
法律は目頭を両手で抑えながら縛の方を向いた。
「やっぱり、お父さんって嫌われてるんだね」
「そりゃもちろん。まぁ、今回はその悪行に救われたわけだけど」
「縛さん!」
天使の翼のように両腕を広げた苺刃が、力強く縛に抱きついた。
「よかった。無事で、本当によかった」
苺刃の顔は涙と鼻水と安堵が入れ混ざっていた。縛は苦笑しながらも、苺刃の髪をやさしくなでた。
「縛さん……」
美穂に支えられながら、おぼつかない足取りでさくらがやってきた。苺刃が鼻水を拭きながら縛から離れると、入れ替わるようにさくらは縛に抱きついた。
「本当に……わたしの願いを叶えてくれた。縛さん。誰がなんと言おうと、あなたはわたしのヒーローです。本当に、ありがとう」
「ヒーローなんかじゃないよ」
縛は笑いながらさくらを抱き返した。
「わたしたちはともだち。ともだちならこれぐらい当然だよ」
その横で美穂が涙を流しながら法律の手を強く握り上下にふりまわしていた。
「しかし、後味が悪いっちゃ悪いよな」
籐藤が腕組をしながら、広場の中央に視線を送った。そこには、顔にハンカチがかけられた泰造の遺体と三人の遺族がいた。
葵は泰造の遺体に覆いかぶさり、声をあげて泣いていた。桐人は尻もちをついて頭をかかえている。そして源造は、眼前の状況が現実のものであると受け止められないのか、まるで日光浴をするかのように無表情のまま立ち尽くしていた。
「あいつはあいつなりにこの村を守ろうとしたんです」
沈み込んだ声がした。管理組合の江竜が背中を丸めて法律を見ていた。その横には大久保が立ち、落ち着きのない様子でしきりに太もものあたりをこすっている。
「人口減少と過疎化を止める簡単な方法は外からひとを呼びこむことです。頭では誰もがわかっている。だけど実現するのは難しい。誰だって利便性の高いところに住みたい。誰だって土地単価が高いところに住みたい。ステータスとして誇れる場所に住むのは、見栄を張る動物として当然の行動です。だけど彼らは……聖ブリグダ教団と特秘委員会はこんな寒村に来てくれた。彼らがここに留まってくれれば、問題はすべて解決したんです」
「解決しませんよ」
法律は突き放すように江竜を見やった。
「家とは帰る場所のことです。これ以上はもどることができない、自分自身の終着点が家という場所です。留守部村のみなさんはこの村に家がある。だけど彼らは違う。教団にも、特秘委員会にも、この留守部村とは違う場所に家があります。彼らは最初からこの村の住人になるつもりはなかった。この村に家を建てるつもりはなかった。彼らは異邦人。ぼくらと同じ、いつかはこの村を去る旅人なんです。そんな人間を招いたところで、留守部村の問題はなにも解決しませんよ」
「泰造は無駄なことをしたんですね」
「無駄でした。だけど人間は追いつめられると、無駄だとわかっていてもやってしまうものです」
江竜は口もとをおさえながら、嗚咽を漏らした。大久保がその背中を撫でて、深いため息をついた。
雲がかすかに動き星の姿をのぞかせた。だが空に浮かぶ星は少なく、その少ない星もぼやけてかすんだ光を放つばかりだった。
4
2021年 2月 21日 日曜日 21時 32分
「あぁ、そうだった。法律。おまえ、今江からのメールをまだ読んでないだろう」
籐藤がスマートフォンを取り出して法律に差し出す。
「メール?」
「氷織とLAWって妹の調査報告だ。初日の金曜日は今江に電話で報告したそうだが、氷織がのどを痛めたそうで、昨日と今日はメールで報告してきた。そのメールを今江がおれのところに転送してくれたんだ。大した内容じゃないが、お前もいちおう探偵事務所の所長だろ。目を通しておけ」
現在、恒河沙の兄妹の長女と次女は、相模湾に浮かぶ孤島の主に呼ばれ、その孤島に住むひとりの女性について調査を行っていた。氷織とLAWの探偵としての能力を高く評価していた法律は、ふたりならこの程度の仕事は容易に済ませられるとたかをくくっていた。しかし――
「これは……まずいかもな」
法律は二通のメールを読み終えると、スマートフォンを操作してどこかに電話をかけ始めた。
「おい、どこに電話をかけているんだ」
「警視庁です。桂さんのところですよ」
「副総監だと。おまえ、どういうつもりだ」
「籐藤さんはわかりませんか。この二通のメールは氷織からの救難信号です。氷織とLAWは窮地に陥っている。いそいで助けにいかないと」
やがて電話が通じ、法律は自宅でドラマを鑑賞していたところを邪魔されたと憤慨する警視庁ナンバーⅡの桂十鳩警視監に事情を説明した。法律の言葉に鬼気迫るものがあったからだろう。桂の判断は早かった。持てる限りの権力を活用し、法律と籐藤、そして縛を相模湾まで運ぶ足を用意すると約束してくれた。
「盛田さん。申し訳ないのですが、われわれはこれで失礼します」
法律が早口で盛田に言った。
盛田はいちど咳ばらいをしてから口を開いた。
「そりゃ困りますね。あなたたちも教団や特秘委員会と同じ事件の関係者だ。特別な事情がない限り、しばらくここに残ってもらいますよ」
「特別な事情があります。警視庁副総監がこの特別を保証してくれます。それとも、盛田巡査部長殿は、警視監殿に楯突くつもりですか」
盛田は大きく舌打ちを放ちそっぽを向いた。
「苺刃さん。恐縮ですが、セダンの鍵をください。ぼくらは大至急、むつ市へ向かいます。そこで青森県警航空隊のヘリと合流し、東京まで運んでもらいます」
苺刃がセダンのキーを籐藤にわたす。
「わたしは、もう少しこの村に残ります。すこしでも捜査のお役に立てればと思いまして」
「それじゃあ、ここでお別れ?」
縛が心細そうに眉をひそめた。苺刃は悲しそうに笑い、縛の手を取った。
「縛さん、法律さん、それと籐藤さん」
苺刃は手を握りながら深くあたまを下げた。
「ありがとうございました。真実を追求するみなさんの姿に、わたし、強く感銘を受けました。わたしはたぶん、一生この青森から外に出ることはないけれど、いつかまたいっしょにみなさんとお仕事がしたいです」
「わたしも……わたしもそう思う。本当にありがとう」
「苺刃さん。強く願ってください。願えばその望みはきっと叶います。ねぇ、籐藤さん」
「あぁそうだね。同感だ」
籐藤はつまらなさそうに頭のうしろをかき、皮肉じみた口調で言った。
「またおまえのような優秀な警察官と一緒に仕事ができればと思うよ」
「わぁ……警視庁の刑事さんにそんなことを言っていただけるなんて。ほんとうにうれしい。ありがとうございます」
「縛さん、もう、行っちゃうんですか?」
心細そうな表情でさくらが縛に近づく。縛は苦笑しながらうなずくと、さくらの肩を強くたたいた。
「たいへんな目にあわせてごめんね」
「そんな。縛さんが謝ることなんてありません。本当にいろいろとありがとうございました。……ねぇ、縛さん」
さくらは顔を横に向け、悲嘆に暮れる梶谷一家を見つめる。縛はさくらの顔に手を置き、顔の向きを戻そうとしたが、さくらはその手を優しく払った。
「梶谷さんが菅原さんと岩城さんを殺したのって、殺人の動機って、結局は淋しかったからなんですよね。村からひとが減って、だからふたりの友だちを殺したんですよね」
縛は無言でうなずいた。さくらの両眼に覚悟を決めたような強い光がともった。
「わたし、勉強してみます。留守部村の過疎化を食い止める方法。この村にひとを取りもどす方法を見つけてみせます」
「それは、たぶん簡単なことじゃないと思うよ。わたし、これまで日本中、いろんなところを歩き回ってきた。留守部村みたいなところはたくさんあった。ひとが減って、なんとかしようと努力しているひともたくさんいた。何年も前から、過疎化と人口減少は問題視されていて、それを食い止めようと努力しているひとがいた。なのに明確な方法はまだ生まれていない。それって、この問題が難しいからでしょう。ううん。難しいだけじゃない。もしかしたら、解決する方法がないのかもしれない」
「そうかもしれません。だけど、イヤじゃないですか。あんな悲しい家族はもう見たくありません。ふたりめの梶谷さんを生み出すわけにはいかないんです」
――それに――とさくらは続け、季節外れの花のような笑顔をみせた。
「わたしはこの村で生まれ育ちました。わたしはこの村の一部であり、この村はわたしの一部なんです。わたしは、わたしが輝くためにこの村をしあわせにしたい。それが、わたしの願いなんです」
5
2021年 2月 24日 水曜日 11時 08分
籐藤、法律、縛の三人が留守部村を去ってから三日が経った。
三人はその後、桂が手配したヘリに乗り、相模湾に浮かぶ孤島の館で窮地に陥っていた恒河沙氷織と恒河沙LAW、警視庁刑事部の須貝正義巡査の救出に向かった。ヘリは翌朝には孤島近況にたどり着き、その後は縛の常人離れした身体能力が難局を打開してみせた。
北と南の二か所に分かれて行われた恒河沙探偵事務所の仕事は、双方ともに一筋縄ではいかない殺人事件に見舞われた。だがこれまた双方ともに、恒河沙の兄妹の力をもってして事件は解決された。
いま、警視庁刑事部捜査第一課の籐藤巡査部長と今江巡査部長は、恒河沙の兄妹が巻き込まれたふたつの事件について話をしたいと、警視庁副総監の桂から自室に呼びだされていた。
「聖ブリグダ教団と特秘委員会は留守部村から完全に撤収したそうだね。雪崩にのみ込まれた教会と支部の処理は、雪解けが終わってから行うことで村の了承を得たそうだよ」
桂はその小さな体躯に似合わない革張りの椅子の上に、正座の体勢でちょこんと着いている。口もとには微笑をぶら下げ、眼は食事を終えたばかりのサバンナのライオンのようにとろりとしていた。
重厚感のある長机の横では、今江とのじゃんけんに負けた籐藤が三人分のお茶を用意していた。ポットの横に柄の違う湯飲みが大量に置いてある。はてどの湯飲みを副総監に出すべきかと、ものの価値がわからない籐藤は無表情で困惑していた。
「もっとも、どちらの組織も実際の処理は、現地の業者に任せるみたいですけどね」
今江は両腕を組みながら気だるそうに言った。巡査部長のバッジが副総監のバッジに対して取っていい態度ではない。だがそれは、『今江』と『桂』の関係と捉えなおせば許容される態度であった。
「教団も特秘委員会も、留守部村にいた全員が白山神社に押しかけていたので、雪崩に押しつぶされた建物のなかにひとはいませんでした」
「不幸中の幸いだね。彼らにとっては」
「ふたつの団体にとって、下北半島は、『恒河沙』が出没する禁忌の地となりました。本当、あの兄妹って嫌われているんですね」
「問題があるのは理人の方だよ。まぁ、子どもたちの方にも問題がないわけじゃないけど、だいたいは親のせい。あのクソみたいな探偵が悪い。はい、閑話休題。それで、加害者家族はどうなったの」
「村長という身分とはいえ、さすがに村には残れないからと、近日中に青森市内に引っ越すそうです。ただ……」
急須にポットのお湯を注ぎながら籐藤が語りだす。加減を誤ったのか、急須の縁からお湯が少しだけこぼれた。
「長女の葵さんは村に残るそうです。自分の親が村を無茶苦茶にしたことに責任を感じているようで、村の過疎化を止めるのが一番の罪滅ぼしだと、いろいろと勉強されるそうですよ」
「考えが青いね。留守部村の住人がどんな気性なのかは知らないけど、同胞を殺した人間の家族に気を許すとは思えないけどね」
「ですが、梶谷葵もまた同胞です。あの村のひとは、きっと彼女が立ち直るよう背中を支えてくれるはずです」
「籐藤くんも青いね」
「それと、つい先ほど医師の新橋先生から連絡がありました。昨夜、例の御人形様が何者かに燃やされたそうです」
「へぇぇ」
「神社の広場に大量の燃えガラが落ちており、本殿の中から御人形様が消えていたと。夜中に本殿に侵入して御人形様をもちだし、前の広場で火をつけたようです」
「梶谷葵かな」
「御人形様はひとりで運ぶのは難しんじゃなかった」
今江が流し目を送りながら口をはさむ。
「あぁ、宮野さくらね」
籐藤は一番ハデな柄の湯飲みにお茶を注ぎ桂にわたした。意思の読めない顔つきのまま桂はそれを受けとる。
「村の過疎化を食い止めたいという気持ちでも同調しています。今回の事件はすべて御人形様から始まりました。あの子たちは、村を元の形にもどすために、人形を燃やしたのでしょう」
「束ねた藁には暖を求めて虫が集まる。まぁ、卵を産まれる前に駆除できてよかったんじゃない。あ、そうそう。恒河沙の兄妹が青森を去ったからって、丸子くんも昨日から本格的に復職したらしいよ。この一週間で女子中学生の平均体重並みにやせ細ったらしいけど、復帰初日からバリバリ仕事をしているってさ。さすがは『恒河沙』に鍛えられた男だね」
「『いじめられた』の間違いでは?」
「日本警察にいじめなどというものは存在しませーん」
「質問があります」
今江がそっと手をあげた。
「恒河沙縛とは、何者ですか」
ふたつの湯飲みをもち、籐藤は今江の横にもどった。起立したままの今江に湯飲みをわたす。籐藤も今江の問いに追従し、桂に視線を送った。
「人づてに話を聞いただけで、わたしは実際に恒河沙縛の活躍を目にしていません。教団の教会や、特秘委員会の青森支部で、複数人の大の男を打ちのめしたそうですね。とても信じられません」
「ついでに言うと、人間を食い殺す化身様をひとりで殺した」。籐藤はしかめっ面で首をひねる。「凶暴な大型犬に、徒手空拳で立ち向かえる人間が、この警視庁の中に何人いるかな」
籐藤も今江も、恒河沙の兄妹に関して知ることは決して多くない。彼らの父親である『恒河沙理人』の有害性を鑑み、警視庁は『恒河沙』に関する公的なデータを一切残していない。また、過去の『恒河沙』に関する事件を知る同僚に話を聞こうにも、彼らは例外なくその名を避け、『口腔が毒されてはたまらない』とばかりに口を閉ざしてしまう。桂もまた例外ではなく、警視庁の中では比較的『恒河沙』に対する免疫を有しているが、語ることを好まないのは同じだった。
結局、『恒河沙』について知るには、直接『恒河沙』に話を聞くしかない。しかし、籐藤や今江は、恒河沙の兄妹と共に仕事をしていないときも、刑事としての仕事に追われている。そのような時間はなかなか作れない。籐藤と法律が出会ってから半年の時間が過ぎていたが、互いに相手について知ることはまだ多くない。
「恒河沙理人が、探偵としての技能を四つに分けて体系化したのは知っているよね」
桂は居住まいを正すと、人さし指を宙に走らせ、ひし形を描いた。
「聞いています。恒河沙理人は、それぞれ四つの技能に特化した四人のスペシャリストの探偵と、四つの技能すべてに精通したジェネラリストの探偵をひとり弟子として育てあげた。そして、五人の恒河沙の兄妹は、幼いころから別れてそれぞれ五人の弟子に師事し、その弟子の特徴を引き継ぐ探偵になるため修行に励んだ。そうですよね」
「ん。今江ちゃんにハナマルあげちゃう。法律はジェネラリストの探偵のもとで修行を積んだ。氷織は『知識』に特化した探偵のもとで、LAWは『知覚』に特化した探偵のもとで、ね」
「それで、縛の師匠の探偵というのは」
「彼はね、Active Detectiveだった。どんなに頭がよくても、体力がなければ難事件に挑むことはできない。どんなに頭がよくても、逆上した犯人に反撃をくらい命を落としては意味がない。完璧な探偵であるためには、活力に長け、核弾頭レベルの暴力でさえもいなしてみせる力が必要である。そんな理人の探偵哲学のもとに作られたのが、『恒河沙縛』という探偵なの」
「その理人の弟子というのは、縛の師匠というのはどんな男なのですか」
「傭兵」
「……は?」
「傭兵。二十代後半に自衛隊を辞めたあと、世界中の紛争地帯を飛び回って、楽しそうに機関銃をぶっ放していた危険人物。縛は五歳の時からこの危険人物に師事させられて、彼と一緒に紛争地帯を渡り歩いてきたの」
「ちょ、ちょっとまってください。日本にも戦場を好んで傭兵になるものがいるとは聞いたことがあります。しかし――」
籐藤は手を頭に乗せて苦悶の表情を浮かべた。
「五歳のこどもを戦場に連れていくなんて。虐待なんて言葉じゃなまぬるい。りっぱな人権侵害だ!」
「同い年の子が人形を抱いてベッドで眠るころ、縛はAK―47を抱いて茂みで眠っていた。同い年の子が校庭で組体操に失敗して膝に擦り傷をつくるころ、縛は戦場でCQCを学び全身に生傷を負っていた。同い年の子が教室の反対側にいる男の子に淡い恋心を抱いているころ、縛は密林の反対側にいる敵兵に殺意を抱いていた」
淡々とした桂の口調を前に、今江が大きな舌打ちを放った。隠すそぶりもなければ、無礼なことをしたと謝罪する様子もない。ひとり息子を溺愛する彼女からすれば、恒河沙理人とその弟子が縛にしたことは許せないのだろう。
「わたしが縛に初めてあったのは、あの子が十歳くらいの時だった。泥だらけの汚い服を着た、愛想のないガキだったよ。目も粘土でつくったみたいにどろりとしていてね。人間を信用していない保護猫っているでしょ。手を伸ばしただけで毛を逆立てて『シャー』って威嚇してくる猫。まさにあんな感じ」
「信じられません。たしかに変わった子だと思いますが、現在の縛はほがらかでいい子ですよ」
籐藤は本心からそう言った。実際、縛は留守部村で、宮野親子や新橋といったひとたちとうまくコミュニケーションを取っていたではないか。
「いろいろとあったんだよ。特に大きな『いろいろ』は、あの子の師匠が死んだことだね。ライフルで頭を打ちぬかれたんだっけ。暴走した民間人のトラックに轢かれたんだったかな。地雷を踏んで中東の風になったか、下痢を起こして脱水で死んだか……忘れたけど、とにかく死んだの。師匠が死んで、縛は戦場から離れた。戦場から離れて、いろんなひとと触れ合った結果、現在の縛に至るというわけ」
一分近い沈黙が室内に満ちた。今江はすこし冷めたお茶をひとくちで飲み干すと、桂のテーブルに音を立てて湯飲みを置いた。
「ほんとにあの兄妹はクセのある子ばかりですね。なるほど、恒河沙縛が何者なのかはよくわかりました。ではついでに、一か月後にもどってくるという、五人目の恒河沙についても教えてもらえませんか?」
「あぁ。末っ子ね。話すと長くなるよ」
「かまいません」
「わたしはかまう」
「は?」
「あのね、わたし副総監なの。きみたちと違って忙しいの。末っ子のことを知りたかったら、法律たちに聞きなよ」
「……わかりました。ではご多忙のようですので、最後にひとつだけ。須貝正義巡査のことですが」
今江は、氷織とLAWに付き添い、相模湾に浮かぶ孤島での事件に巻き込まれた刑事の名前を挙げた。須貝はほんの数日前までは、警視庁の公安第四課に席を置いていた。警察の中にあっても秘匿性が高い公安の人間が突然刑事部に異動してきたとなっては、刑事部に属する人間として心穏やかではいられない。ましてや、刑事部の中でも特殊性の強い『恒河沙』の仕事に関わるというなら、なおさらだ。
「あれね。公安のえらいひとの差し金」
「それは前に聞きました。もうすこし具体的に……」
「公安の総務課長の差し金。なかよくしてあげてね」
児童館の子どもを相手にするかのような口調。今江は再び容赦なく舌打ちを放つ。だが桂は気にする様子もなく、テーブルに置いたスマートフォンに指を滑らせていた。
「その公安の回し者、なんだっけ。公的スパイくん。彼、LAWとふたりでいい感じに仕事をしていたんでしょう。それならLAWを担当させなよ」
「未熟者同士を組ませるのですか」
「大切なのはバランスだよ。未熟者同士だからいいんだよ。それにこれは、氷織が提案してきたんだよ」
「実はわたしも聞いています。異存はありません。ただ、警視監に楯突きたかっただけです」
「今江ちゃん大好き。籐藤くんも異存はないかな」
「構いません。ですが、須貝巡査が刑事部での仕事を始めるにあたり、その面倒は今江巡査部長に見させるということでよろしいでしょうか。先の事件では、今江巡査部長も捜査に尽力したと聞いています。須貝巡査も、既に親しくしてもらっている今江巡査部長から指導を受けたほうがやりやすいでしょう」
「ちょっ……」
「うん。よろしいんじゃない。今江ちゃんも警視庁に移って二か月か。そろそろ仕事には慣れてきたでしょ。もともとベテランの刑事なんだし、若いのひとりの面倒くらい見なさいよ」
「……恨むからね」
今江は両眼を細めて籐藤をにらみつけた。籐藤はニヤリと笑い、ひげの跡が残るあごを指で掻いた。
「さてと。やっと恒河沙の兄妹も四人までそろったね。今後は四人に積極的に仕事を回していくし、それに付随してきみたちの仕事も多くなっていくはず。恒河沙探偵事務所を担当する刑事たち四人、仲良くやっていってね」
「はい。承知し……四人?」
籐藤は『自分、今江、須貝』とつぶやきながら三本の指を折った。はたして四本目の指とは。時おり『恒河沙』がらみの仕事を手伝ってくれる初芝広大巡査のことか。だが、初芝巡査は、半年前に捜査第一課の二班から四班に異動し、いまは四班の野上建太巡査部長とバディを組んで厳しく鍛えられている。その多忙ぶりをはた目に見ている籐藤からすると、彼が四本目の指に該当するとは思えない。
「四人だよ。籐藤くん、なにか忘れていない。丸子くんが、恒河沙の息がかかった人間を手元においておくわけないでしょ」
桂がスマートフォンから指を離すのと同時に、副総監室のドアが外から叩かれた。『どーぞ』と桂が応えると、重厚な木製のドアを吹き飛ばさんばかりの勢いで『失礼します!』と力強い声が聞こえてきた。
果たしてドアが開きそこにいたのは、ベージュ色のパンツスーツに身を包み、栗色の髪をハーフアップにまとめた苺刃柚乃巡査だった。鼻の穴を開かせ、初めて飼い主の家に来た子犬のように、好奇心に満ちた視線を部屋中にふりまわしている。
「本日付けで警視庁刑事部捜査第一課に配属されました、苺刃柚乃巡査です」
鋭い敬礼と共に苺刃は着任のあいさつを始めた。
「まさか一介の秘書係に過ぎなかったわたしが警視庁の花形部署へ異動だなんて。これも籐藤巡査部長のおかげです」
「え? は? ふん?」
「なんでもきみ、苺刃巡査のことを『一緒に仕事がしたい』『優秀な警察官』と評価したらしいね」
桂が二本の人さし指をくるくると回しながら言う。
「その言葉が人事の関係各所の耳にとどき、『警視庁の名刑事がそこまで言うのなら』ということで、この栄転はすんなりと決まったらしいよ」
丸子にしてみれば籐藤の発言は渡りに船だったのだろう。桂としても、多くの警視庁職員が忌避する『恒河沙案件』に割ける人材が手に入って渡りに船だ。結局この人事異動で心労を負うことになるのは、苺刃にふり回されることになる直属の上司ということになり、それは当然、(表面上は)苺刃を警視庁へと勧誘した籐藤に他ならない。
「苺刃巡査が刑事部での仕事を始めるにあたり、その面倒は籐藤巡査部長に見させるということでよろしいでしょうか」
にやにやと悪趣味な笑みを浮かべながら、今江が籐藤の肩をたたく。籐藤は聞き覚えのある言葉を前に表情をこわばらせた。
「苺刃巡査も、既に親しくしてもらっている籐藤巡査部長から指導を受けたほうがやりやすいでしょう」
「お、おい。待て……」
「わぁ! 籐藤さんがわたしのメンターになってくれるんですか。うれしい、よろしくお願いします」
「うん。警視庁内の仕事については、籐藤巡査部長に教えてもらって。だけど恒河沙探偵事務所の案件についてはね、苺刃巡査には恒河沙縛を担当してもらうよ」
桂がそう言うと、苺刃は宝石のように目を輝かせた。炭化してボロボロになった墨のような目の籐藤とは大違いだった。
「留守部村では、たしかに直接推理をはたらかせて謎を解いたのは法律だったかもしれない。だけど、その法律に推理のヒントを与え、真実につながる情報を収集してきたのは苺刃巡査と縛のふたりなんでしょ。ふたりの長所は積極性。そんな積極性から生まれた行動が、事件の解決につながったの。ふたりはいいコンビになるよ。それじゃ、悪いけど三人とも出てってくれる。わたしは副総監なの。えらいの。きみらとちがっていくつもの書類にポンポンポンっとハンコを押さなきゃいけないの。ほら、苺刃巡査。そこで失神しかけてる籐藤巡査部長を引きずっていって。うん。よしよし。それじゃあおつかれさま。今日もいちにち、日本国民の安寧なる日常のためにがんばってね」
お読みいただきありがとうございました。
ほんのひと言でも構いません。感想をいただけると幸いです。
参考文献
・ 山下 祐介(2012)『限界集落の真実: 過疎の村は消えるか?』 筑摩書房
・青森県むつ市(2021年10月策定 2023年5月一部改訂)『むつ市過疎地域持続的発展計画』
https://www.city.mutsu.lg.jp/kurashi/machi/files/7.zennbun.pdf
・粕谷興紀 (注解)(2013)『延喜式祝詞付中臣寿詞』和泉書院
・次田潤(2020)『新版 祝詞新講』戎光祥出版株式会社