第十四章 真実(あるいは狂気)
1
2021年 2月 21日 日曜日 20時 40分
時が止まったかのような静寂に包まれた境内で、ただひとりの男だけが、顔に余裕の笑みを浮かべていた。
白壁に背中を預けていた男は、灰色のジーンズのポケットに入れていた手をゆっくりと抜き出す。その手には板ガムが握られていた。ミント味のガムを一枚取り出し、落ちついた様子で口に運ぶ。聖ブリグダ教団の教団員が、特秘委員会の構成員が、留守部村の村人が、青森県警の警察が、警視庁の警察が、そしてひとりの探偵が、そんな男の所作を無言のまま見つめていた。
四拍子のリズムで男はガムを噛み続ける。白壁から背中を浮かせると、男はガムを飲み込み胃の中に落とした。
「あなた、不器用ですね」
男は境内の中央に立つ法律に背中を向けると、一歩だけ後退した。白い雪の上に男の足跡が生まれる。男はそばに落ちている雪を素手で掴むと、生み出したばかりの足跡に被せた。刃のように伸ばした手のひらで二度雪を切ると、足跡は消え、そこには降り積もったばかりと見紛う雪が残っていた。
一歩、また一歩と男は後ろ向きに下がっていく。ひとつ足跡ができるたびに、そばの雪をすくい、すばやく足跡を埋めていく。男が立っていた白壁から数メートル、白く滑らかな、誰の足跡も存在しない雪の帯が生まれていた。
「たしか、前職は大工さんとのことでしたね」
法律が首元をさすりながら言った。
「職業柄、細かい作業はお手の物なようで」
「肩書は大工ですが、建築仕事ならなんでもやりました。足場の組み立ても、タイルの張り替えも。だけどいちばん得意だったのは、左官仕事だったかな」
男は軽く握った手を左から右へ水平に泳がせた。それが左官仕事のパントマイムであることは想像に難くはなかった。握りこぶしは、銀色の小手を掴んでいるのだ。
「なかなかおもしろい話でした。説得力にあふれている。なるほど。菅原を殺したのはわたしですか」
「うそ……」
か細い声が法律の耳に届いた。それは梶谷葵の声だった。
法律は声がした方に目を向けたりはしなかった。ただ下唇の端を噛み、己の言葉が傷つける相手は、告発する相手だけではないことを噛みしめていた。
言葉。言葉。言葉。言葉が告げるのは真実だ。ひとは真実を拒む。真実は決して心地よいものではない。真実は人間の意志の介在を許さない。真実と自然災害はよく似ている。台風や地震の規模を下げる力は人間にはない。ただ、それらの災害から受ける被害を減らすことはできる。『防災』の二文字で語られる対応によってそれは可能となる。だが、真実には? 真実には目を背けるという形でそれは可能となる。
真実は人間の意志とは独立して存在している。森羅万象を自らの支配下に置きたいと根源的に欲する人間にとって、これほど妬ましいものはない。だからひとは目を逸らす。自らが生みだし、自らの支配下に置かれる『偽りの真実』に目を眩ます。
だがそれは、この世界を生きるわれわれにとって、理想とされるべき態度ではない。
どんなに拒んだところで、真実は確かに存在する。人間は死ぬまで真実から目を背けながら『偽りの真実』と戯れ続けることができるのだろうか。できるかもしれない。だがそれは非常に居心地の悪いものであろう。真実は常に背後にあるからだ。たしかにそこに存在し、静かにあなたを見つめるからだ。『偽りの真実』に目隠しをされながらも、あなたは近くに真実の気配を感じている。真実はその存在感と共に語りかける。偽りの日常を享受するあなたに問い続ける。『それでいいのか。それが正しいのか』と。
難しい話をしているのではない。
哲学的な小論でもない。
人生観を説いているわけでもない。
ここでいう話は単純なものである。
人間は本当の意味で真実から逃れることができるのか。
恒河沙法律は既に答えを導き出していた。
できない。人間は真実から逃れることができない。
真実と共存するのが人間であり、真実から逃れ、その概念の意味を失った瞬間、人間はその姿を別のものに変える。変える。変える。変える。何に? わからない。だがそこにいるものは人間ではない。自己欺瞞の毛皮に身を包み、真実と虚偽の意味さえ失った、悲しき獣だ。
法律はそんな獣に過去に出会った。獣にとって大切なのは真実ではない。獣にとって大切なのは盲目的に信じる『正義』であり、その『正義』が活きる『日常』であり『人生』であった。獣は所詮獣だ。人間と交わることはできない。だが彼の毛皮はよくできていた。その毛皮は一瞥しただけでは人間のものと違いなかった。彼は獣でありながら周りからは人間として認識されていた。法律もそうだった。彼をひとりの人間として、師として尊敬していた。それが過ちだった。ある日獣は人間の柔らか肌を鋭利な牙で穿った。法律は喰われた。心を喰われた。そしてすべてを失った。
真実を蔑ろにするものは獣に喰われる。どんなに苦しいものであろうと、真実から目を背けるわけにはいかない。人間が人間であるためには真実から目を背けるわけにはいかないのだ。
「おもしろくもなんともありません」
まくし立てるように法律は言った。
「菅原久さんを殺したのはあなたです」
「ふぅん。それじゃあ、岩城は? 祈年祭の毒殺事件の犯人も既に判明しているのですか」
「もちろんです」
力強い法律の声に境内が凍りついた。
「岩城秀二さんを殺したのもあなたです。梶谷泰造さん。あなたがふたりを殺したのです」
2
2021年 2月 21日 日曜日 20時 42分
ぽつぽつと小さな粒の雪が境内にふりはじめた。
法律の黒い髪に白い雪が積まれていく。当の本人は気にする様子もなくその場に立ちつくしていた。
泰造はふたたびポケットから板ガムを取り出すと、絨毯のように丸めてから口の中にほうりこんだ。
「期待していいですか」
「……なんです?」
「わたしはあなたに、期待をしてもいいですか」
「言っていることの意味がわかりません」
「おい。あんた、自分が犯人であることを認めるのか」
籐藤がどすの効いた声で詰め寄る。だが泰造は籐藤には見向きもせず、ガムを咀嚼しながら法律を見つめていた。
「おねがいします。もう、あなたしかいない。この村を救えるのはあなたしか。だから、聞かせてください。わたしが犯人たり得る理屈を。みなが納得できる論理を説いてください。そして、この村を救ってください。わたしといっしょに、留守部村を救ってください」
「聖ブリグダ教団と特秘委員会のことを言っているのか。この村にやってきた闖入者どもを追い払いたくて、あんたは彼らに与する菅原さんと岩城さんを殺したっていうのか」
再び籐藤が詰め寄る。すると、泰造は目元に冷気の色をのせ、大きく白い息を吐き出した。
「しあわせなことだ」
その声に籐藤は全身を震わせた。
泰造の声には力があった。諦観がこめられていた。籐藤の言葉を、まるで稚児の歓声のようだと言わんばかりの。
「籐藤さん。ぼくに任せてください」
法律は籐藤の肩にやさしく触れた。
「あのひとは壊れています。籐藤さんの手に負える相手じゃない」
籐藤はふたたび全身に震えを覚える。恒河沙法律事務所の存在意義。それは、人智を超えた理屈で犯行をはたらく狂人と対峙することにある。一般常識の枠内に生きる警察官には理解しえない思考回路をもった凶悪犯を捕まえること。恒河沙の兄妹にはそれができる。だがそれは、彼ら兄妹もまた狂人であるということを意味している。狂人の論理が理解できるのは狂人だけ。籐藤は肩に置かれた法律の手から熱を感じている。心地よい熱のこもった手だ。だが、これが狂人なのか。この男もまた狂人なのか。籐藤は抗いたかった。恒河沙の兄妹は狂人なんかではない。根拠はない。ただの願いだ。そばにいる親しいひと。彼らが狂っているなど、認めたくない。
「早く済ませましょう」
法律はくるりとふり返り、拝殿の方を見た。拝殿の階段に足を置くモントゴメリーとラニアは揃って怪訝な顔を浮かべている。その後ろの浜縁では、相も変わらず千来田と蓮下が混乱にのみ込まれた様子で、宮野さくらにナイフとテーザーガンを向けていた。千来田と蓮下の精神状態が限界を迎えつつあることは一目瞭然だった。ほんの少しの刺激で、彼らはその手の凶器をふりまわしかねない。
法律にとってもうひとつの懸念はすぐそばにあった。恒河沙縛だ。縛は微動だにせず、獲物を前にした肉食獣のように千来田と蓮下をにらみつけている。長々と法律が推理を語っている間も、一度として縛は浜縁から目を逸らさなかった。彼女はただ集中していた。命の恩人であり、友である宮野さくらの無事を願っていた。だからこそ危険だ。法律がこれから話す真実が千来田と蓮下を刺激し、彼らの暴挙に繋がれば、途端に縛は行動に移るだろう。気をつけなければならない。まわりを興奮させてはいけない。
「ま、まってください」
ただたどしい声が現れた。今にも崩れそうな足取りで、二歩三歩と梶谷源造が前に出てきた。新橋がすばやくそばに来て、源造の肩を医師らしく優しく掴んだ。
「恒河沙さん。息子が菅原くんを殺したというあなたの推理は、よくわかりました。認めたくないが、説得力を感じます。だけど、岩城くんを殺したのも息子だというのは信じられない。祈年祭の粥を食べて岩城くんは死んだ。だが、粥は五つ用意され、そのうちのひとつは、あなたが告発する梶谷泰造もまた口にしたのです。五分の一とはいえ、息子は自分が毒粥を口にする可能性があったのですよ。五分の一。さいころをふって一の目が出るよりも高い確率だ。そんな可能性に賭けてでも、息子は幼なじみを殺したかったというのですか」
「いいえ」
法律は言った。
「息子さんが毒粥を口にする可能性はゼロです。これはよく練られた計画殺人でした。泰造さんは、岩城さんが毒の入った粥を口にすることを確信していました」
「そりゃ無理ですよ、探偵さん!」
弱々しい叫びが発せられた。殺された岩城と同じ親教団派の江竜が、細い体躯を震わせた。
「毒粥はどれも同じ汁椀に入っていた。五つの汁椀に盛られた粥はどれも同じ粥に見えました。もし泰造が犯人だと言うなら、『自分が毒粥を口にしない』五分の一の確率と、『自分以外の四人の誰かが毒粥を口にする』五分の四の確率に賭けたという方が理解できる」
「ちがいます。祈年祭の場で泰造さんが殺意を向けたのは岩城さんだけです。村長の源造さんでも、江竜さんでも、大久保さんでもない。ましてや、自分がそれを口にする可能性など微塵も考慮していません」
「そんなことが可能なんですか」
江竜が訊ねる。法律はゆっくりとうなずいた。
「雪が強くなる前に終わらせましょう」
泰造はそっと手をかざした。白い雪が泰造の手のひらに落ちる。その雪の粒を泰造はもう片方の手の親指ですりつぶした。水分を吸った親指を、手のひらの上で泳がせる。
「事件の概要をまとめておきましょう」
法律は大きく胸を張った。
「昨日の午後一時より、ここ白山神社にて祈年祭が催されました。祈年祭はお供え物の献饌と、神職の祝詞の読み上げ、玉串拝礼と続き、三十分の休憩に入ります。休憩の間、献饌した米でつくった粥を拝殿に捧げ、その後は村の代表者が神の力が宿った粥を口にする望粥の儀が行われました。この望粥の儀の際に、岩城さんは刻んだトリカブトが入った粥を口にして亡くなられました。警察が調べたところ、五つの汁椀のうち、トリカブトが入っていたのは岩城さんが手に取った汁椀だけで、他の汁椀には大根の葉が入った粥が入っていました。そうですよね、盛田刑事」
「そのとおり」
きつく腕組をしながら盛田が応える。
「被害者の体内からは、トリカブトの入った毒粥が検出されました。同じく粥を口にした管理組合の四人の体内から検出された粥にはトリカブトは入っていなかった。緑の葉は大根の葉だったし、その後四人から体調が悪化したとの報告も受けていません」
「ありがとうございます。五つの汁椀のうち、毒粥が入っていたのはひとつだけだった。また祭壇に五角形の形で配置された粥を、誰から順に手に取るかは明確に決まってはいませんでした。そうですよね」
法律は管理組合の五人のうち、最初に粥の汁椀を取った源造に訊ねた。源造は丸めたティッシュのようにしわくちゃになった顔でうなずいた。
「ぼくも祈年祭に参加していたので、お粥を取った順番は覚えています。最初に手に取ったのは村長の源造さん。次に泰造さん、岩城さん、江竜さん、最後に大久保さんと続きました。五つが四つ、四つが三つと順に減っていき、残った三つの粥の中に紛れ込んだ毒粥を岩城さんが手にする可能性は一〇〇パーセントに近い確率となっていました」
「ま、まってください。恒河沙さん」
源造が弱々しく手をあげる。
「お話を聞く限りでは、その、最初に五つの汁椀からひとつを選んだわたしも、毒粥を取る可能性があったということですか」
「そうですね。可能性はありました」
「わたしの息子が父親を殺そうとしたと。そんなのは信じられない!」
「落ちついてください。手に取る可能性はありました。五分の一です。ですが、もし源造さんが毒粥を手に取っても問題はありません。横に立っていた泰造さんには毒粥と大根粥の区別がつきました。おそらく、源造さんが毒粥を取った場合は、よろけるフリをしてその手の汁椀を叩き落とすつもりだったのでは。もちろん、この場合岩城さんを殺害する機会は失われますが、それはまた別の機会を待てばいいだけです」
「探偵さん。大根粥と毒粥の区別がつくとおっしゃいましたが、いったいそれはどのような根拠でおっしゃるのですが」
源造の語気がわずかに荒くなりはじめた。
「わたしは五つの粥を目にしましたが、大根粥も毒粥も同じく緑の葉が白い粥の中に埋もれていて、どれも同じ粥に見えました。それなのに、息子には区別がついたと言うのですか」
「念のために付け加えさせてもらいますと」
盛田刑事が腕組をしながら声を張った。
「五つの汁椀に、傷や欠けといった目印になるようなものはありませんでした。汁椀は事件発生直後に警察で押収しましたので、仮に目印となるシールのようなものを貼りつけていたとしても、それを剥がす時間はなかったでしょう。毒粥と大根粥の見た目は変わらない。汁椀にも違いはない。それなのに、梶谷泰造さんは毒粥と大根粥の区別がついたと、恒河沙さんは主張されるのですか」
「そう主張します。犯人である泰造さんと、信心深い岩城さんには、その区別ができたのです」
「被害者にも? 言っている意味がわかりません」
「最後だったんです」
ぽつりと法律がつぶやいた。その言葉の意味が理解できず、場の誰もが首をかしげた。
「望粥の儀のクライマックスで、それぞれ汁椀を手にした管理組合の五人は一斉にお粥を食べはじめました。この五人のうち、最後にお粥を食べ終えたのは誰だったか覚えていますか。岩城さんです。殺された岩城さんだったんですよ」
「それがなんだと言うのです。食べる速さがバラバラで、なにがおかしいと言うのですか」
「おかしいんですよ。では大久保さんに訊ねましょう。大久保さん。管理組合の五人が一斉に粥を食べ始め、最後に食べ終えたのが岩城さんだった。これをあなたは、何もおかしなところはないと思われますか」
「え? え? べ、べつにおかしなところなんて――」
大久保の顔がぴたりと固まった。『え? あ、えぇ?』と不明瞭な言葉をつぶやきながら、頭をかきむしる。
「いや、でもそんなことって……」
「大久保さん。ぼくはわかっています。祈年祭の前に、佐田本さんの家の前であなたはぼくに教えてくれました。今度は皆さんに教えてあげてください」
「く、くだらないことなんです。あの、岩城は子どもの頃から早食いの癖があったんです。それなのに、同じ量の粥を口にして、最後に食べ終えたなんておかしいなって」
「そうだ。あいつは昔から早食いだった」
江竜がぽんと手を叩いた。
「クラスでいちばん早く給食を食べ終えるのはあいつだった。早食いの癖は今も変わっていない。それなのにお粥を最後に食べ終えたのが岩城だなんて……ありない!」
「そのありえないことがおきたんです。ありえないことはありえることだった。何がおかしかったんでしょう。どうして岩城さんはゆっくりとお粥を食べたのでしょう」
「岩城がゆっくり味わって食べるなんて、ありえません。産まれた時から知り合った仲だが、いつだってあいつは水を飲むみたいにメシを食うやつでした」
江竜は顔中に困惑の色を広げた。やがて観念したように顔を上げて法律を見つめる。
「前提が間違っているのです」
法律は人さし指をピンと掲げた。
「江竜さんは先ほどこうおっしゃいましたね。『同じ量の粥を口にして』と。しかし、粥の量が五つの汁椀で全て同じだったと、どうして言えますか?」
「それは、だって……」
江竜は言葉を失った。どうしてと問われたら、『当然だろう』と何の根拠もない答えを返すことしかできない自分に気づいたのだ。
「毒粥は、他の粥に比べて量が多かった」
法律が言った。
「意識して見なければ違いがわからない、数センチの高さしか変わらない量だったのでしょう。だがその違いに意識を向ける人物がふたりいた。ひとりは、その毒粥を用意し、自分と自分の父親が誤って口にしないよう注意する犯人。そしてもうひとりは、信心深い岩城さんです」
「法律。おまえ、さっきもその言葉を口にしたな」
籐藤が不満げに訊ねる。
「岩城が信心深いってのは、事件と何か関係があるのか」
「大ありです。岩城さんは聖ブリグダ教団と親しくされていた。教団と接しているうちに、最近の彼は教団の教義に浸かり始めたと聞いています。門下に入るのも時間の問題だったそうですよ」
「だからそれが何の関係が……」
「あ、あぁ……」
女性のか細い悲鳴が雪空に吸い込まれていった。
宮野美穂は手を両ほほに当て、大きく見開いた両眼を法律に向けていた。
「恒河沙さん。そういうことですか。聖ブリグダ教団の教義……そういうことだったのですね」
「その通りです。宮野さん。ぼくがこの真実にたどり着いたのは、あなたのおかげです。あなたがぼくに、食事を運んできてくれたから気づけたんですよ」
「食事? いったいなんの話だ」
「昨日の夜の話です。祈年祭の後、ぼくが聖ブリグダ教団にお邪魔している間、宮野さんはぼくのもとに食事を運んできてくれました。山盛りのナポリタンとどんぶり一杯のスープ。いやぁ、とてもおいしかった。教団員ではないぼくに、どうしてあれほどのおもてなしをしてくれるのかと不思議に思いました。好意でしょうか。ちがいます。大量の食事とは、教団の教えに他なりません。聖ブリグダ教団は、教団員たちに大量の食事を摂取することを推進しているのです。そうですよね、千来田さん」
突然声をかけられた千来田は、びくりと痙攣したように首を震わせた。半開きの口から咳払いを挟み。『そ、そうですね』と答えた。
「聖ブリグダ教団の最終的な目的は、一時的な次元を出て、あらわなる次元へ移住することです。ですが、この次元間の移動には多大なカロリーを消費するので、教団員には常日頃から過剰にエネルギーを蓄えておくことが義務付けられているのです」
「つまり、よく食べることが義務なのですね」
「簡略化すると、そうです」
「もうおわかりでしょう」
法律は視線を梶谷泰造に戻した。泰造は包み紙に入ったままの板ガムを楽しそうに手の中でもてあそんでいる。
「毒粥と大根粥の区別は、ちょっと意識すれば簡単にできるものでした。量です。毒粥は他の粥に比べて量が多かったのです。泰造さん。毒粥を用意されたあなたも当然そのことを知っていた。あなたは自分が取る粥は、量の少ないものを選び、またお父様が手にした粥も両が少ないものであることを、五分の一の毒殺という確率に外れたことを確認した。残された汁椀は三つ。聖ブリグダ教団の教えに傾倒していた岩城さんは、残された三つの汁椀のうち、最も量の多い粥を選んだ。彼は吟味したことでしょう。最もエネルギーを摂取できるお粥はどれだ。もっとも量の多い汁椀はどれだと」
「法律。ひとつ質問だ」
籐藤がむすりと石のような表情で言った。
「汁椀を取る順番は決まっていなかったんだろ。三番目に汁椀を取るのは岩城さん以外の可能性もあった。岩城さんの順番が四番目、五番目となると、それだけ毒粥を取る可能性が低くなるよな。岩城さんではなく、江竜さんや大久保さんが三番目となり毒粥を取る可能性もあったわけだ。犯人は計画が失敗に終わる可能性も覚悟していたのか。緻密に計画を練っているようにみえて、大まかなところでは偶然に頼っているようにしか見えないんだが」
「いえ。岩城さんの順番が三人目であることは充分推測が可能です。粥を取る順番が決まっていなかったのは、決める必要がなかったから、暗黙のうちに決まっていたからです。つまり、序列の順番です。管理組合の五人のうち、序列の最上位は村長であり年長者の梶谷源造さんであることは間違いありません。序列の二位は、村長の息子である泰造さん。そして三番目は? 傍から見ると、残った三人の序列は同じに見えますが実際はちがいました。殺された岩城さんは、幼なじみの中でリーダー的な存在でした。序列の三番目は、子どものころからのリーダー、岩城さんだったのです。泰造さんが心配するのは、お父様の源造さんが毒粥を取るか取らないかだけ。二番目の自分が取ることはない。そして三番目に粥を取りにくるのは九九パーセント以上の確率で岩城さんです。そうでしょう?」
法律は江竜と大久保に手を差し向けた。
「い、言われてみればそうです」
大久保がうなずく。
「子どもの頃から何をするにも、岩城が音頭を取っていました。勝気な性格で、われわれ幼なじみの中でリーダーは誰かと言ったらあいつでした」
「江竜の言う通りです」
大久保もうなずく。
「村長と泰造に続くとしたら、岩城です。あそこで岩城を差し置いて、わたしや江竜が汁椀を取りに行くなんて考えられません」
「いや、すばらしい。本当にすごいひとですね、恒河沙さん」
けらけらと笑いながら、泰造はガムの包みを開いた。
「ぼくは覚えていますよ。そこにいる県警のひとは『犯人は五人のうちひとりを無差別に殺すつもりだった』と断定しておられた」
泰造は盛田に剥き出しの板ガムを向けた。盛田は顔をしかめて睨み返す。
「それなのにあなたは、犯人は岩城ひとりを狙っていたと納得のいく説明を与えてみせた。なるほど。説得力にあふれている。しかし――」
泰造は板ガムを両手で折り曲げた。二段に重なったガムをもう一度中央で折り、短い四段重ねにしてから口にほうり込む。
「それで、わたしが犯人だという証拠はどこですか。論拠はどこですか。いまのお話しにあるのは説得力だけだ。ぼくが岩城を殺したという根拠の類は――」
「ありますよ」
けろりとした表情で法律は言った。
「何度でも言います。犯人はあなたです。あなた以外に犯人ではあり得ないのです」
3
2021年 2月 21日 日曜日 20時 51分
「犯人の条件を考えてみましょう」
法律は雪の上に足を動かし、片屋根付きの『1』を書いた。
「犯人は望粥の儀でどの汁椀が使われるかを知っていました。事件後、拝殿の縁の下から、望粥の儀に使われたのと同じ汁椀が見つかりました。汁椀の中身はほとんどそばにこぼれていましたが、底に残っていたのは大根粥でした。現場には六つの汁椀が残されていたことになります。考えるまでもありません。五つの大根粥のうちのひとつと、犯人が用意した毒粥がすり替えられたのです。本来なら岩城さんの口に入るはずだった大根粥はすぐには見つからないよう、犯人が縁側の下に捨てたのでしょう」
「汁椀は拝殿の奥にある給湯室に保管されているものでした」
盛田がそう付け加える。法律はぺこりと頭を下げた。
「はい。黒地に朱色の線が走った模様の汁椀です。給湯室には他の種類の汁椀もありましたが、犯人は事前にこれを盗み、毒粥を盛って、大根粥とすり替えたのでしょう。問題は、犯人がこの黒地の汁椀を盗んだという事実です。どうして犯人は他の柄の汁椀ではなく、この黒地の汁椀を盗んだのか」
「そりゃ、大根粥に使われる汁椀と同じ柄だからだろう。他の柄の汁椀に毒粥を入れてすり替えたら、中身が違うのではと疑われるに決まっている」
籐藤が言う。法律はもう一度小さく頭をさげた。
「そうです。そしてここに、犯人の条件がひとつ加えられます」
「ん?」
「犯人は望粥の儀でどの柄の汁椀が使われるのかを知っていたことになります。犯人は祈年祭の内実に大きくかかわっていた人物というわけです。そうでなければ、事前にどの柄の汁椀が使われる予定なのかを知ることはできず、また拝殿から盗むこともできません」
「なるほどな。それで、次の条件は」
「ふたつめはシンプルです」
法律は足で雪の上に『2』となぞった。
「凶器です。トリカブトです。犯人はトリカブトを入手し得る存在です。ですがこれは、多くのひとに当てはまる条件でしょう。トリカブトはその名高い有毒性から、どこか非日常的な植物のようなイメージがあります。しかし実際のところ、この見目麗しい藤色の多年草は、全国のいたるところで自生しており、湿度がある山ならかんたんに見つかります。また、園芸用としてネットで買うことも可能です。山に分け入る体力。もしくは、ちょっとした経済能力があれば誰にでも手に入り得るというわけです」
「当然が過ぎる。凶器を扱い得るものは、凶器を手にし得るもの。そんなこと、わざわざ確認するまでもなかろう」
ラニアが苦言を呈すと、最後に大きなため息を付け加えた。法律は苦笑しながら足元の雪に『3』と書いた。
「ところで犯人はどのタイミングで毒粥をすり替えたのでしょう。大根粥は一四時から一四時半の間の休憩の最中に、祭壇横にあるターフテントの中で作られました。ターフテントは衝立に隠れていたので、村の方がお粥を作っている姿を見たひとはいないかもしれませんね。ですがぼくは見ています。ぼくはこの目で、鍋から大根粥が盛られる五つの汁椀を見ました。そしてその汁椀は、神職さんの手によって拝殿に運ばれました。その後神職さんは拝殿から離れて休憩をとられると、十五分ほどで拝殿にもどり、神様の力が注がれた五つのお粥をもって、祈年祭の会場にもどってきました。そこから先はみなさんがご覧になった通りです。管理組合さんが順番にお粥を取り、そして、殺人事件が起きたのです。もう一度お尋ねします。犯人はどのタイミングで毒粥をすり替えたのでしょう」
「そりゃ当然、拝殿に置かれている間じゃないですか」
苺刃が言った。
「お粥が作られている間は、タープテントの中にはひとがいます。お粥が拝殿からもどってくるときは、休憩が終わっています。席にもどった祈年祭の参加者はお粥に注意をくばるでしょう。これらの間に、こっそりと汁椀をすり替えるなんて難しいですよ。となると、拝殿の中に運ばれて放置されていた十五分の間にすり替えられたと考えるのが妥当では」
「同意です。同意です。同意します。まったくもってその通り。すり替えるのが可能なタイミングは、拝殿に置かれた間以外にありえません。こうして三つ目の犯人の条件が提示されます。犯人は休憩時間に拝殿に入ることが可能だった人間です」
「ま、まって。まってください」
梶谷源造が前に出てきた。源造は右足を引きずるように動かしている。リウマチの影響だろう。だが源造の表情に痛みを覚える様子はない。息子を殺人犯として告発された焦燥感が麻酔の役目を果たしているようだ。
「いまの話を聞いた限り、神職だって十分怪しいのではないですか。拝殿に運んだのがあの若造なら、毒の粥とすり替えるのだって簡単でしょう」
「いえ彼は犯人ではありません」
法律は人さし指をぴんと立てた。
「あの若き神職さんはひとつめの条件を満たしていません。すなわち、『犯人は望粥の儀でどの汁椀が使われるかを知っていた』。彼はむつ市の神社から来たアルバイトです。留守部村に来たのも初めてとのことでした。そんな彼が、使用される汁碗の柄を把握していたと思いますか。ありえません。事前に留守部村のどなたかに教えてもらったのでしょうか。はて。それを尋ねられて留守部村の方はどう思われるでしょう。『そういえば事件の前に、神職さんが、汁椀のことについて訊ねてきました』なんて証言をしたが最後、警察のマークは徹底して神職さんにつきます。やめましょう。神職さんが犯人だなんて、非現実的です」
「念のために申しておきますがね。あの神職はシロですよ」
盛田がうんざりとした様子で言った。
「彼のことは警察でも捜査の初期段階から疑っていました。しかし、彼が留守部村での仕事を命じられたのは、事件の前日の朝とのことでした。突発的に留守部村に来ることになったのに、このような複雑な毒殺事件を企てるとは思えません。また、事件前日は彼の父親が宮司を務める神社で、一日中働いていた姿が参拝客に目撃されています。事件の準備をする時間もない。さらに言えば、彼が留守部村を訪れるのは、人生で初めてのことだったそうです」
源造はもごもごと口を動かすと、諦めたように肩を落とした。
「犯人の条件その③。犯人は休憩時間に拝殿に入り得た人物である。といっても。これには多くのひとが当てはまります」
右手で二本、左手で一本の指をあげると、ハサミを欠損したカニのように法律は三本の指を左右にふった。
「覚えていらっしゃいますか。というか、忘れたとは言わせません。祈年祭の休憩時間中、聖ブリグダ教団さんと特秘委員会さんが境内でケンカを始めました。神聖な儀式の最中になんとも失礼な話です。モントゴメリーさん、組織のトップとして反省していますか。ラニアさん、ちゃんと村のかたに謝りましたか」
「ケンカとは物騒な言葉を使われる」
モントゴメリーは芝居よろしく両腕を左右にあげた。
「あれは言語的交渉の延長上に存在する、物理的な交渉に他ならない。特秘委員会さんが言葉の通じる相手でしたらよかったのですが」
「うむ。聖ブリグダ教団は人類の理知から外れた、奇想天外な論理を好まれるようだからな。特秘委員会の知識をもってしても、彼らの言語体系を理解するのは難しい」
ラニアはモントゴメリーを横目でにらみつける。すると、聖ブリグダ教団の教団員と特秘委員会の構成員たちが、両陣営の最上位に倣って、一触即発の雰囲気を発しはじめた。ある者は細めた目を向け、ある者は腰の獲物に手を当てる。
大きな破裂音が境内に響いた。音の発生源は法律だった。両手を勢いよく叩き、場の注目を一手に引きつける。
「ほら貝をもっているのはぼくですよ。いまはぼくのはなしを聞いてください。ところで、あのケンカは必然的に発生したものでしょうか。プロパンガスが充満した部屋でライターに火をつけたらガス爆発が発生するのと同じように、必然的に起きたのでしょうか。ちがいます。『特秘委員会がおたくのボスの悪口を言っていたぞ』なんて告げ口をして、ちょっとしたケンカを引き起こすことは可能かもしれません。でもそれは『可能かもしれない』程度の蓋然性しか含んでいない。必然性はそこにはない。あそこまでの大騒ぎを必然的に引き起こすことは誰にもできないのです」
「探偵さん、話が脱線しているのでは。休憩時間に起きたケンカと事件にいったい何の関係があるんですか」
盛田は無精ひげをさすりながら言った。法律は三本の指を前後に動かした。
「いえ。関係は大ありです。考えてみてください。もし聖ブリグダ教団と特秘委員会のケンカが行われなかったら、あの場はいったいどうなっていたと思いますか。どうもなっていません。静寂です。三十分の休憩時間を、祈年祭参加者たちは思い思いに過ごしていたことでしょう。そんな時に、おかゆが運ばれた拝殿にとことこと入っていくひとがいたら、どうでしょう。少なくとも、会場の数人の視線を集めるとは思いませんか」
「それは、まぁそうでしょうな」
盛田は拝殿の階段へ目を向けた。石畳から木製の階段が伸びて浜縁へ繋がっている。階段にはモントゴメリーとラニアがそろって怪訝な表情を浮かべ、浜縁では千来田と蓮下が焦燥感たっぷりの顔つきでさくらに凶器を向けている。
「考えてください。想像してください。われわれが実際に経験した祈年祭の休憩時間の場から、騒動と呼ぶにふさわしいあのケンカを引き算するのです。そこかしこから聞こえる談笑の声。喫煙所から空に向かういくつもの紫煙。パイプ椅子に座ったまま時間が経つのを待つひともいれば、神社の外にあるトイレに用を足しに行くひともいるでしょう。さて、ここで大久保さんにひとつ質問があります」
「わ、わたしですか」
突然名指しされた大久保は、しょぼしょぼと顔を歪めた。
「はい。あなたです。質問です。よく考えてください。そんなのどかな休憩時間に、お粥が運ばれた拝殿の階段を登っていく男がひとりいます。恒河沙法律。東京から来たとかいうみすぼらしい探偵です。大久保さん。恒河沙法律が拝殿に向かっているとしたら、あなたはどうしますか」
「そりゃ止めますよ。拝殿は神様がいらっしゃる神聖な場所だ。この村の人間は、子どもの頃から拝殿と本殿の中には不用意に入っちゃならねぇとしつけられています。東京から来たお客様でも、その点は守ってもらわなこまります」
「その通り。その通り。その通りです。神聖なる拝殿。神様のお住まい。ましてや望粥の儀のおかゆが捧げられた直後です。神様がお粥に力を注いでおられる時に、部外者が拝殿におじゃまするなど許されるはずがありません。ですが、犯人はそれをするつもりでした。聖ブリグダ教団と特秘委員会の大げんか。境内の注目がこちらに集まっていたので、犯人は誰にも目撃されることなく拝殿の階段を登ることができました。ですが、先ほど確認した通りあのケンカは偶然発生したものです。むしろ、あんなケンカが起こらないと予想する方が当然です。つまり犯人は当初、ケンカが起こらない中で拝殿に入ろうとしたわけです。しかしその場合は、境内にいる人からその姿が見られる可能性が高い。境内の浜縁へと続く階段はここからよく見えますからね」
「言っていることが無茶苦茶です。もし村の人間が拝殿に入る何者かの姿を見たら必ず注意します。犯人はそのことをわかっていなかったのですか」
「ちがいます。犯人はわかっていました。つまり、犯人の条件その③『犯人は休憩時間に拝殿に入り得た人物である』とは、物理的に入室できたというだけの意味ではありません。犯人は拝殿に入ってもおかしくない人物だった。拝殿に入ることが規範として認められている人物だったのです。自分が拝殿に入る姿を見られても問題ない人物。それが犯人の条件です。それはいったい、どんな人物でしょう。実際にお粥をもって上がった若い神職さん。しかし彼が犯人たり得ないことは既に説明しました。留守部村の住人の方々は? いえ。留守部村のみなさんは、白山神社を神聖な場所として敬っておられる。幼いころから興味本位で社に入ることを禁じられています。ふらふらと階段を上がる姿を見られたら、不敬と怒られて呼び戻されるでしょう。では他に休憩時間にあの場にいらっしゃったのは? 聖ブリグダ教団と特秘委員会のみなさんもいましたね。ナンセンスです。階段をのぼる黒いローブまたは銀色タキシードの姿が見られたら、村の方々が止めに走るに違いありません。他に境内にいたのは? そうそう。ぼくと警察関係者の方々もいましたね。これも重ねてナンセンス。その理由は聖ブリグダ教団さんと特秘委員会さんと同じです」
「神職、村人、聖ブリグダ教団と特秘委員会、警察と探偵。……ん? おい、法律。これで全員じゃないか」
籐藤は両眼を細めて言った。
「あの時境内には他に誰もいなかったぞ。お前の説明だと、拝殿に入った人間は誰もいなくなっちまう」
「たしかに。いま挙げたひとたちで全員です。ですが、ある一部のひとたちには可能なんです。祈年祭の最中、拝殿に入ることを許された人物。それは、祈年祭を運営する関係者です。村の管理組合のみなさんです。彼らならば『様子をみる』ために拝殿に入っても誰も咎めたりはしないでしょう。管理組合の五人だけに、お粥をすり替えることが可能だったのです。そうは思いませんか、泰造さん」
「おっしゃる通りかもしれません」
泰造は答えた。その声から感情の類は感じられない。押し殺しているというわけでもない。ただただ無機質で、無色透明な人間の声が彼の喉から発せられていた。
「しかし、納得できませんね。仮に管理組合の人間が犯人だとします。その後、事件が発生して。さぁ誰が岩城の汁椀に毒を盛ったとなったら、疑われるのは階段を上がった姿を見られた犯人ではないですか。探偵さん。もしわたしを犯人だと告発するなら、心外です。そんなことを予期する頭がこのわたしにはなかったと言うのですか」
「なかなか説得力のある反論です。もしかしたらこの中にも、泰造さんの意見が正しいと思われる方がいらっしゃるかもしれません」
法律は鼻のあたまを指で弾いてみせた。
「ですが泰造さんのお言葉は誤っています」
「ほぅ。どこが誤っていますか」
抑揚のない声を泰造は返す。
「犯人が疑われることはありません。というのも、五つの汁椀に違いはなく、汁椀を取る順番も決まっていなかった。だから、犯人は管理組合の五人のうちひとりを無作為に殺害するつもりだった。事件当初警察は、もちろんこのぼくもそう結論づけていました。これは妥当な推理です。『お粥が置かれた拝殿に入った? だがそれは殺されていたかもしれない管理組合の方なのでしょう。毒粥をすすることになったかもしれない人間が、五分の一という確率で生じる自らの死を覚悟して、毒粥に取り替えたというのですか』。だがぼくはこの推理を先ほど否定しました。岩城さんが毒粥を取る未来は必然的に生じたのです。泰造さん。あなたは被害者候補という隠れ蓑にもぐることで、犯人候補から外れるつもりだったのです」
「……いいかもしれない」
泰造は白い犬歯を薄い唇の間からのぞかせた。
「なんです?」
法律はとげとげしい声色で訊ねた。泰造の態度に法律は警戒心を放っていた。泰造は何かがおかしかった。告発されているというのに、その目は輝いていた。そのほほは吊り上がっていた。くちびるの色はうす紫から朱色に染まり、十本の指はくらげの触手のようにはたはたとジーンズをたたいている。泰造の顔は好意の様相を呈していた。自身を告発する法律に対する好意がそこにはあった。
「足りません。探偵さん、まだ足りませんよ。村の管理組合は五人です。御人形様に殺された菅原を抜いて五人。この五人からどうやって犯人をしぼりますか。死んだ岩城を抜かすなんて戯言は許しません。自ら毒を盛り、自ら毒を口にしたという可能性もないとはいえない。岩城、江竜、大久保、梶谷源造、そしてわたし。管理組合の人間にだけ犯行が可能だというなら、この五人のうち誰が犯人だと言うのです」
「最初に述べた通りです。犯人はあなたです」
法律はズボンのポケットに右手を深く差した。暗闇に隠れた右手は震えていた。臆病者の右手の存在を覚られんと、口角をかすかに上げて余裕を繕う。
この震えはなにを起因としているのか。法律は確信していた。自分は近づいている。真実に近づいている。真実は心地よいものではない。平穏な心で受け入れられるなら、ことさら『真実』などと箔のついた言葉で呼ぶ必要はない。覆い隠されるから真実なのだ。不可解だから真実なのだ。真実は揺るがしようがなく、それ故ごまかしが効かない。拒絶を許さない。真実は絶対的な様相でこの宇宙に存在する。だから人間は目をつぶる。真実から逃れるためにまぶたを閉じるのだ。真実など存在しない。ここにあるのは暗闇だけだ。そんな自己欺瞞のために。しかし――
「たしかに。一見したところ、管理組合の五人は犯人の条件を満たしています」
あごを引き、大きく目を開いて法律は言った。
「しかし、ありえません。岩城さんも、江竜さんも、大久保さんも犯人ではあり得ないのです。そうですよね、モントゴメリーさん、ラニアさん」
深く腕を組み様子をうかがっていたモントゴメリーは、大きく息を吐きながらうなずいた。
「ミス・アッバース。あなたも同じ意見ですな」
モントゴメリーが横目に訊ねる。ラニアは、宵闇と同じくらい黒い毛に指を絡めていた。
「答えるまでもない。休憩の間、そこにいる大久保とかいう輩は、ひとりへこへこと頭を下げながら余のそばでおべっかを使っておった。休憩の三十分間、常にその男は特秘委員会といっしょにおった」
「ミスター岩城とミスター江竜も同じです」
モントゴメリーが高々と声をあげる。
「彼らもまた、主人に媚びる飼い犬のようにつねにわれら聖ブリグダ教団と共におりました。休憩時間に彼らがこの拝殿に入らなかったことは、神と正義の代理人たる聖ブリグダ教団が保証しましょう」
「そういうことです」
ポケットの中で、法律の震える手が強く握りしめられた。
「岩城さん、江竜さん、大久保さんは犯人ではあり得ません。彼らにはアリバイがあります。休憩時間中は、常に自身が親しくする団体の方々といっしょにいた。ぼく自身がお三方のその姿を見ています。彼らには拝殿に忍び込む時間はなかった。毒粥を取り替える時間はなかった。故に彼らは犯人ではあり得ません」
「村長さん。おたくはどうなんですか」
籐藤が矢のように鋭い言葉を源造に投げかける。
源造は魚のように口をぱくぱくと動かすと、すがるように自身の息子に視線を動かした。
だが泰造はその視線に応えなかった。彼は源造を見ていなかった。目玉が飛びでんばかりにまぶたを開き、板ガムを噛みながら法律を凝視している。泰造は笑っていた。両の頬をつり上げて笑っていた。泰造がこんな笑顔を見せたのはいつぶりだろう、と源造は我が子の過去を想起する。驚くべきことに、いや、恐ろしいことに、源造の記憶に笑顔の泰造はいなかった。ちがう。そんなことはない。笑顔を浮かべない人間などいるものか。源造はもう一度過去に潜った。深く深く潜り、我が子の笑顔を探し求める。それはやっと見つかった。今現在の泰造のように、両のほほをつり上げて笑う泰造。そうだ、この子はガムが好きだった。おこづかいをあげると、村の駄菓子屋でガムを買い、一日中飽きることなく噛み続けていた。泰造はのどの奥で小さく嗚咽を漏らす。なんということだ。源造の記憶にある泰造の笑顔は彼が子どもの頃のものだった。我が子の笑顔を見るためには何十年という過去を潜らなければならなかったのだ。
「わ、わは……わは……あん時……」
源造の口は油を塗りたくられたようにつるつると滑った。激しく脈を打つ胸に手を当てると、落ちつけ落ちつけと心臓に言い聞かせる。冷たい汗を手のひらで払いのけてから源造は口を開いた。
「あん時は……神社の中をうろちょろしとりました。岩城くんたちのようなアリバイなんてものはありません」
境内中にざわめきが巻き起こった。源造は自身にアリバイがないことを認めた。そして彼は、犯人たり得る管理組合の一員だ。つまり、留守部村を治めるこの村長にも人殺しの烙印が押され得るというのか。
「いいえ。村長さん。あなたは犯人ではありません」
だが法律はあっさりと救済の手を源造に差し出した。
「アリバイなんて必要ありません。あなたは犯人ではありません。だってあなたは、拝殿には入れないのだから」
「な……なにを」
「籐藤さん。今日、籐藤さんは拝殿に入りましたよね。どうです。村長さんは、あの拝殿の中に入れると思いますか」
籐藤は深く両腕を組みながら拝殿の方に目をやった。数秒の間だけ黙り込むと、やがて『あ』と声を漏らして法律にふり返った。
「無理だ。村長の身体じゃあの拝殿には入れない」
「な、なにをおっしゃいます。たしかにわたしは年を召しています。時間はかかりますが、あの程度の階段ならのぼれますとも」
「そうですね。外の階段は手すりがついているので、なんとかのぼれるかもしれない。だけど無理です。あの拝殿の入り口の敷居は、大の大人が足を高く上げてまたがねばならないほど高い。家の玄関を上がるのに、手すりを使わなければならないほどのリウマチを患っているあなたには無理です」
盛田がすかさず新橋の名前を呼んだ。
「先生、どうなんです。梶谷村長のリウマチで、あの高い敷居をまたぐのは可能ですか」
「不可能です」
人込みの中から新橋が断言した。
「村長の関節リウマチは重症です。設計ミスとしか思えないあの敷居は、若いひとでも足を高く上げないといけません。村長の足では、物理的に不可能です」
「せ、先生……」
「勘弁してください、村長。ぼくは医者です。頼りない人間かもしれないけど、医療に関して嘘は言えないのです」
新橋は前髪を払いのけると、くちびるを噛んでから法律を見やった。
「いやな役目ですね。最後に背中を押したのはぼくというわけですか」
「いいえ。先生はなにも気に病むことはありません」
法律は言った。
「真実を告げるのは探偵の役目。あとはぼくの役目です。さて、泰造さん」
泰造は三枚の板ガムをまとめて口の中にほうり込む。噛む。噛む。噛む。子どものように、笑いながら、楽しそうに、笑いながら。
「あなたはどうです。休憩時間中のアリバイは存在しますか。岩城さんたちのように、常にいっしょにいたと証言してくれる方はいますか」
「いない」
「では、身体能力はどうです。体調は良好ですか。少なくとも、あの拝殿の敷居をまたぐ程度には」
「ははは」
泰造はその場で垂直に飛び上がった。両膝を折り曲げて、裕に六〇センチは高く飛んでみせた。
「もう、十分でしょう」
法律は疲れきった声色をこぼした。
「犯人はあなたです」