表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/15

第十三章 かくして探偵は語りだす(あるいは真実)

 1


 恒河沙法律ごうがしゃほうりつの声は大きいわけではない。

 それなのに彼の声は白山神社の境内によく響いた。

 恒河沙法律の声は活舌かつぜつがよいわけではない。

 それなのに彼の声は境内に詰めかけたひとびとの耳によく届いた。

 声を商売道具のひとつとする役者のように、何かキャラクタリスティックな性質がそこにあるわけでもない。どこにでもいそうな、それこそファーストフードのレジで『店内でお召し上がりですか?』と訊ねてくるような、日常に潜む、そんな声だ。

 それなのに、彼の声はひとびとの耳によく届いた。

 それはひとえに、聞くものの意識を集中させる力があるからではないだろうか。

 彼の声そのものに聴衆の注意を引き付ける力があるというわけではない。ただ、彼は自分が語るべきを作りあげた。言葉を紡ぐべき者は自分自身であるという独擅場どくせんじょう。だから彼の言葉は耳に届くのだ。

 スポットライトを浴びることなく、場の雰囲気で自分自身を主役に駆り立てる。彼自身がそのような力を有していると自覚しているのかどうかは知らない。自分の顔を直視することが叶わないように、自分のことは自分自身では案外わからないものだ。

 思うにこれは探偵が持つひとつの能力なのだろう。

 探偵は謎を解く。そして真相を語る。

 だがこれは聴衆がいてこそ成り立つ図式に他ならない。

 もし誰もが探偵の言葉に耳を貸さなければ、探偵はひとり心の中に真相を抱えて終わる。謎は謎のまま取り残され、探偵の心の中でだけ溜飲は下がる。誰にも真相は語られない。ワトソン(相棒)にも、犯人にも、そして、あなたにも。

 自分という殻の内に真相を留めておく者は探偵ではない。真の探偵とは他者に対して語るもの、他者の耳に言葉を届けるものなのである。

 古今東西に語り継がれる探偵のすべてはこの能力を有しているのではないだろうか。違う。これは探偵を探偵にする必要条件なのだ。あらゆる名探偵がこの能力を有しているのは必然なのである。

 だから法律の声は響くのだ。その場に居合わせたひとびとの耳に届くのだ。それは彼が探偵だから。真実にたどりつき、他者に伝える探偵だから。



 2

 2021年 2月 21日 日曜日 19時 45分


「二月十五日月曜日の夜から日付をまたぎ、十六日にかけて、菅原すがわらひさしさんが、腹部をナイフで刺され死亡しました」

 拝殿前の広場の中央に法律は立っている。仁王立ちのまま首を少し上げ、拝殿の浜縁に立つモントゴメリーとラニアを見つめていた。

「警察が割り出した死亡推定時刻は午前一時から三時頃。遺体が発見されたのは隣にある本殿前の広場です。遺体の周囲の雪の上に血痕が残っていたことから、犯行現場が同じ広場であることは間違いないでしょう」

「わかりきったことをぐだぐだと」

 ラニアは両腕を組んで顔を上げると、鼻を荒くして法律を見おろした。

「余は犯行当時この村にはいなかったが、事件についての詳細は聞き及んでいる。かような細かい話は不要である」

「まぁまぁ。いいではないですか、ミス・アッバース」

 モントゴメリーは余裕を見せつけるかのように芝居がかった声をあげた。

「探偵というのは手間な作業が好きなのですよ。あなたは将来、アッバース&キャロライン財団の代表の座を継がれるのでしょう。上に立つものに求められるものとはなにか。それは寛容性ですよ。おじいさまのハサン・アッバース殿は寛容性の塊と聞きます。本国に帰り次第、おじいさまの元で帝王学を学ばれるべきですな」

「ふん。まぁよい。探偵、続けよ」

 ラニアは胸元の青いバラをいじりながら言った。法律は軽く会釈をしてから口を開く。

「菅原さんの事件のキーポイントは、足跡です。遺体は朝の六時半過ぎに新橋しんばし先生と三ツ森(みつもり)サチ()さんにより発見されました。この時、現場には被害者の足跡以外は残っていなかった。そうですね、新橋先生」

「え、ええ。その通りです」

 法律の後ろの方に立つ新橋は、突然発言を求められて上ずった声を発した。

「わたしと三ツ森さんが本殿前に来た時、雪の上に残っていた足跡はひとつだけでした。いえ――」

 新橋はほほを軽く指で引っかくと、周囲をうかがうような目で見つめた。

「足跡はもうひとつ。菅原さんの遺体の先から拝殿前の階段まで、御人形様の足跡が残っていました」

「御人形様の足跡。それは、雪の上に残されたひっかき傷のような跡ですね」

 法律の問いかけに新橋はうなずく。

「はい。御人形様はその全身が藁で作られています。両足の先には鋭い藁が何本も伸びており、御人形様が歩けば無数の縦線が残るはずです。まさしくわたしは、そんな縦線を見ました。イメージするならば、毛先の固い箒で雪を払ったような跡でした」

「警察でもそれは確認されていますね」

「もちろんです」

 憮然とした表情で盛田はうなずく。外気温はゼロ度に近いというのに、緊張からか彼の顔は汗で湿っていた。

「縦線の幅は、あの藁人形の両脚を合わせた幅と一致しました。藁人形は一度本殿から外に出され、その後、本殿に戻されたと考えるべきです」

「現場に残されていた足跡はふたつ。広場の入り口から本殿前まで続く被害者のものと、その被害者のそばから本殿まで続く御人形様のもの。月曜日は昼間から日付が変わるころまで豪雪が降りそそぎ、場所によっては三十センチ近い積雪が残った場所もあるそうです。その雪は日付が変わり午前一時頃に止みます。事件現場もまた新雪の絨毯が敷かれていました。踏み固まれた被害者の足跡の上に雪が降った跡はありません。つまり、被害者が現場に現れたのは午前一時以降ということになります。ところで、本殿の中に()()()御人形様は被害者の返り血を浴びていました。盛田さん、そうですね」

「藁人形に付いていた血液を解析したところ、間違いなく被害者のものでした」

 盛田が答える。

「どうもです。本殿の中には、被害者の血痕が付いたナイフが落ちていました。ここから見えてくる犯行の図式とは以下のようになります。①雪が止んだ午前一時以降に菅原さんは本殿前の広場に現れる。②本殿から御人形様が現れ、菅原さんをナイフで刺殺する。③御人形様はナイフを手に本殿に戻られる。④翌朝、新橋先生と三ツ森さんによって菅原さんの遺体が発見される。以上です。異常です。そんなはずがありません。あれはただの藁人形です。自立して動くところなど、誰も見ていません」

「だけど、その場に人間はいなかったんだろう!」

 周りを囲う教団員のひとりが叫んだ。法律が声の方を見ると、教会に侵入した時に法律を案内してくれた丸眼鏡の男が白い息と唾を吐き出しながら法律に指を向けていた。

「足跡がない以上、その場に人間はいなかった。そして返り血を浴びておられるのは御人形様だけ。おまえらの下賤な言葉を借りれば、犯人は御人形様だ。御人形様は、頭のおかしな特秘委員会に与する菅原とかいう男に裁きを与えてくださったのだ」

 その言葉に周りの特秘委員会たちが非難の声をあげる。一触即発の空気が境内に満ちた。籐藤や盛田といった警察官、そして管理組合の四人が彼らをなだめるのに数分の時間を要した。籐藤は法律の頭を小突き、『あいつらを刺激するな』と注意した。

「いたた……それでは話を続けます。この世には科学では説明のできない現象が多々あることは、まぁ、たぶんそうなんでしょう。では今回の事件もその手の一種なのでしょうか。雪の上に残された足跡は被害者と御人形様のものだけ。ここから導き出せる結論は、われわれ一般人の理解の範疇を超えた、神秘の世界が見せたる真実なのでしょうか。かもしれません。ですが、()()()()()()()()()()()()()()、それを真実として享受すればよろしいのではないでしょうか。御人形様自身に動いてもらうのではなく、わたしたちの日常的な発想でこの事象を説明できるのならば、それが正しかったということで、よろしいのではないでしょうか」

「その点は同意しよう」

 モントゴメリーが大きくうなずいた。

「つまり、殺人現場には被害者と御人形様の他に少なくともひとりの人間がおり、そのものは足跡をつけることなく現場に現れ、去っていったというわけか」

「そんなとこです」

 喫茶店で注文を確認された客のように、法律はけろりと答える。その朴訥ぼくとつとした態度を前にモントゴメリーは顔をこわばらせた。

「ならばあなた自身でやってみせればよろしい」

 モントゴメリーは高々と掲げた腕を、北の方角――隣の本殿の方へと向けた。

「足跡を残すことなく殺人現場を去るなど不可能だ。だがあなたはそれができると主張された。ならばあなた自身でやってみせればよろしい。そうすればわれらも納得しましょう」

「よい考えだ」

 ラニアは腕を深く組み、大仰にうなずいた。

「探偵よ、大口を切ったからには相応の自信があるということであろう。目にもの見せていただこうではないか」

 ふたつの組織のリーダーがそろって法律を目のかたきにすることで、周りの教団員と構成員たちも声をそろえる。『早くやれ』。『できるわけがない』。『奇跡を見せてくれ探偵さん!』。そんなヤジが飛び交う中、法律はほほを人さし指でゆっくりとかいていた。

「おい、法律」

 籐藤が彼の腕を乱暴に掴む。

「どうするつもりだ。あいつらの挑発に乗るのか」

「困りましたね。いえ、できないわけではないのですが。うん。わかりました。それでは、これより実演してみせましょう」

 法律と籐藤、そして盛田と新橋が本殿前の広場に向かった。モントゴメリーとラニアも、拝殿の階段を降りて彼らに続く。管理組合の四人も、誰が先導するでもなく頼りない足取りでついてきた。

 しばり苺刃いちごば、そして美穂みほは拝殿前の広場に残ることにした。拝殿の浜縁では、今も千来田ちきだ蓮下はすもとが涙に目を赤くするさくらに凶器を突きつけている。縛はそのふたりから目を逸らさず、隙あらば襲いかからんと身構えている。苺刃はそんな縛に付き添い、そっと背中に手をおいていた。

 本殿前の細長い広場はしんと静まり返っていた。隣の広場に置かれた照明の光が届いており、宵闇に埋もれるということはなかった。だが、その光はほとんどが拝殿と本殿の敷地を阻む白壁に遮られており、場は全体的にうす暗く、不気味な様相を帯びていた。

 本殿前の広場の雪は、警察の捜査関係者によって踏み荒らされ、いたるところに足跡がついていた。

 法律は咳ばらいをして注目を集めると、はにかみながら口を開いた。

「ではこれより、犯人の行動をトレースしていきたいと思います。まず犯人は今のわれわれと同じく、屋根付きの通路を通って、この広場に来ます。特別なことはしません。素直に本殿の方へ向かいます」

 法律は縦に細長い本殿前の広場の左端をまっすぐ歩いていった。広場に残る捜査関係者の足跡は、そのほとんどが中央のラインに残っており、広場の左右はほぼ新雪のままだった。法律はその新雪の上を歩いていく。

「この行きの足跡の存在を気にする必要はありません」

 ずしずしと進みながら法律は言った。

「事件があった日は一時間で約三センチの量が積もる強い雪が降っていました。その雪は日付が変わり午前一時頃に止みます。つまり犯人は、自分の足跡を降雪が埋めてくれるよう、余裕をもって本殿を訪れればいいのです。人間の足跡の深さなどたかが知れています。天気予報で雪が止む時間を確認し、少なくともその二時間前に足跡をつければ、その後は六センチの量の雪が降り、足跡を消してくれるでしょう」

「つまり犯人は菅原と約束するよりも、何時間も早くここに来たというわけですか」

 管理組合の大久保が眉を曲げながら訊ねる。思わず口から飛び出た言葉らしく、周囲の視線が集まると彼は肩をすくめて縮こまった。

「おっしゃる通りです。まぁ他の手段が考えられないでもないですけど、それがいちばん自然・・でしょうね」

「行きの足跡などどうでもよい。われわれが知りたいのは、帰りの足跡なのだよ!」

 モントゴメリーが声を荒げる。だが法律はくしゃくしゃと笑いながら、本殿の方へ歩き出した。

「菅原さんの御遺体があったのはこのあたり」

 本殿の階段から二メートルほど距離をおいたところの足元を、法律はぴんと指さした。広場の入り口で立ち止まる皆のために、法律は大声を発した。

「そして、菅原さんから十センチほど本殿よりに離れたところから、御人形様の足跡は始まっています。また御人形様が菅原さんの返り血を浴びていたことから、菅原さんの腹部にナイフが刺さった瞬間、御人形様は菅原さんの目の前に立っていたことは明らかでしょう」

「お主の言うことは訳がわからん。それでは、悪しきジンが宿る人形が菅原とやらを刺したということではないのか」

 ラニアが指に自身の巻き毛を絡ませながら言った。

「ちがいます」

 法律は断じた。口調こそ柔らかいが、有無を言わせぬ力強さがそこにあった。

「御人形様は、ご自身では立てません。自立するように作られていないので、拝殿の中では壁に打たれた左右の木片に両腕を置いて保管されています」

「まるで磔刑たっけいのようにな!」

 モントゴメリーが声を荒げる。

「はい。体操の吊り輪のように」

 法律のたとえが気に喰わないらしく、モントゴメリ―は苦々しく鼻を鳴らした。

「いいですか。実際に御人形様は拝殿を出て菅原さんの前まで来た。それは御人形様の足跡と返り血という証拠が保証してくれます。ですが御人形様は自身で歩くことができない。そしてぼくは、この時この拝殿に犯人がいたと主張しています。御人形様を動かしたのは犯人です。犯人は御人形様を後ろから抱え、よいしょ、よいしょと階段を降りて行ったのです」

「あの人形はなかなか重い」

 盛田がコートのポケットに両手を入れながら言った。

「成人男性ひとりで運ぶのはなかなか大変です。重さもあるが、体長も二メートル近いのでバランスを崩してしまうのです」

「つまり、犯人は男性?」

 管理組合の江竜えだつがおどおどとした様子で訊ねる。

「女性蔑視が過ぎますな。最近では、一般的な成人男性と同等の運動能力を持つ女性も珍しくはありません」

 盛田に批判された江竜は、猫背をさらに丸くしてちぢこまった。

「犯人は御人形様を抱えながら菅原さんの前に立ちます。そして、御人形様を間に挟み、後ろから手にしていたナイフで菅原さんを刺したのです」

 法律は丸太を抱えるように両腕を広げ、それを地面に下ろすふりをする。次に腰の後ろから存在しないナイフを取り出し、抱えている()()の脇をすり抜けて、二度三度と正面を突き刺した。

「菅原さんは出血多量でその場に倒れます。そして、返り血を浴びた御人形様と、せいぜい腕に返り血を浴びた程度の犯人は――」

 法律は例の丸太を抱えるようなポーズのまま後退を始めた。雪の上を後退していき、足を取られないよう注意しながら本殿の階段を上る。

「犯人の足跡は、御人形様がかき消してくれるということですな」

 村長の源造が感心したようにうなずいた。リウマチがひどいのか、必死にひざをさすっている。

「村長さんのおっしゃる通りです。御人形様を構成する藁はその先端が細く頑丈できめ細やかに生えそろっています。雪の上に残った人間の足跡程度なら、御人形様が上から払ってくれるのです」

「問題はそこからだぞ、法律」

 籐藤ががなり声をあげた。ひょっとすると、この中でもっとも緊張しているのは、探偵と最も精神的な距離が近いこの男なのかもしれない。

「犯人は菅原久を殺害し、御人形様を抱えたまま後ろ向きで本殿に戻った。それから?」

「御人形様を本殿の中に元通りに置きます。そして犯人はナイフを拝殿の中に置きました」

「わかりませんね。犯人はどうして凶器を現場に置いていったのでしょう」

 梶谷泰造はうかがうように籐藤に訊ねた。籐藤は頭の後ろをかきながら首をひねる。

「置いていったんじゃねぇ。うっかり落としちまったんだろ。犯人はひとを殺したばっかではっかめでらんだ。そんな失敗してもおかしくね」

 父親の源造が籐藤に代わって息子に答えた。だが泰造はその答えに満足できなかったのか、籐藤と同じく首をひねった。

 源造はそんな息子の様子を見て、法律に訊ねた。

「探偵さん。犯人がナイフを意図的に置いていったとは信じられません。それは事件の証拠でしょう。現場に置いていくより、持ち帰って、どこかで処分した方がよいのではないですか」

「村長さん。あなたは正しい。正しいから間違っているのです」

 法律はとんちんかんな言葉を源造に返した。源造は息子と同じく首をひねる。

「普通の犯人ならそうしたでしょう。だけどこの事件の犯人は普通ではありません。この拝殿にナイフを置いていくことには大きな意味があります。それは――」

「話が長いですなぁ!」

 巨像の雄たけびのような大声をモントゴメリーが発した。

「ミスター恒河沙。凶器がどうとか、そんな些細なことはどうでもいいのです。わたしが知りたいのは、あなたがそこからどうやって地に足を着けずに立ち去るかです。菅原とかいう輩が殺された時刻には雪は止んでいた。犯人が拝殿から立ち去るならば、雪の上に足跡が残る。それなのに足跡は存在しない。それで犯人はどうしたのですか。あなたはどうするのですか。空でも飛んでみせてくれるのですか」

「念のために言っておきますがね」

 盛田は周りを囲う白壁を指さした。

「白壁を飛び越えたとかいうのはなしです。壁の上の雪に誰かが通った跡はありませんでした。念のため、ご報告させていただきますよ」

「ご親切にどうも。ですがご心配には及びません。ではこれより、犯人がどのようにしてこの拝殿を去ったのかを実演させていただきます。ただ、ちょっと恥ずかしいので、あまりじろじろと見ていただくのは……」

「いいからさっさとやれ」

 誰よりも冷たく籐藤が言い放つ。本殿の前に立つ法律は、渋々と頭を垂れた。

「ではまず準備をしてきます。ちょっと本殿の裏側に失礼して」

 法律はぐるりと回り本殿の裏に隠れた。二分ほどで戻ってくると、法律は着ていたジャンパーを脱いでいた。そのジャンパーの二本の袖口と左右の裾を片手でまとめて握り、風呂敷のようにぶら下げている。

「……寒いですね。それでは、始めましょう」

 法律は本殿の浜縁を右側に回った。浜縁には木製の手すりがついており、そこに足をかけて白壁に向けて飛ぶ。

「だから白壁を超えてはいないって――」

 盛田の声は途中でかき消えた。手すりから白壁までは約三メートル。白壁の高さは約二・五メートル。拝殿と白壁の間に、木や箱といった足がかりになるものはなにもない。プロのアスリートであろうと、白壁を超えることは不可能であろう。

 当然、法律にもそれはできない。彼は白壁から五〇センチほど手前に着地した。白壁沿いに足跡はなく、法律の両足は誰も踏み抜いていない新雪の上に落ちた。

 法律の姿を見て、皆は一様に『え?』と困惑の声をあげた。浜縁から降りてきたこの探偵は後ろ向きだった。皆に背中を向けた状態で立っていたのだ。

「じゃ、いきます。よいしょ」

 法律は雪から左足を抜いて、()()()()()()()一歩下がった。左足を後ろに進ませると、その場で止まり、風呂敷のように抱えたジャンパーの内側から何かを取り出した。

「ジーザス……」

 モントゴメリーは自身が所属する宗教のことを忘れ、習慣的にとある神の名前を口にした。だがそれを咎める者はいなかった。この場に居合わせた皆は、あまりにも単純で、あまりにも幼稚で、あまりにも真実に近しく思われる法律の行動に、呆気に取られていたからだ。

 法律がジャンパーから取り出したのは、雪だった。彼は自分の左足が作り出した足跡の上に、雪を被せたのだ。

「これ、ぼくはそんなに器用じゃないから」

 ぶつぶつとつぶやきながら、法律は手袋をした手で足跡の上の雪をならし始める。数十秒ほどで作業は終わった。法律が生みだした足跡が消えた。そこに残っていたのは偽物の新雪だった。

「よいしょ」

 右足を抜き、後ろ向きに下がる。ジャンパーの中から雪を取り出し、足跡に被せる。そして、均す。よいしょのかけ声。左足を抜き、後ろ向きに下がる。ジャンパーの中から雪を取り出し、足跡に被せる。

「ご覧の通り被せる雪は周りにもありますが、手で取って不自然な形を残せばこのトリックに気づかれるかもしれない。雪を取った跡を同じように均すという方法もありますが」

 法律は後退と穴埋めを続けながら説明する。その様子は、たどたどしく田植え体験に励む子どもにそっくりだった。

「そんなことをしなくても、事前に大量の雪を調達しておくのが一番楽です。大量の雪を軽いカバンにでも入れておけばいいのです。ありがたいことに、雪ならいくらでも村の中に落ちていますからね。よいしょ」

 たっぷり十五分ほどかけて、法律は広場の入り口にたどりついた。『ふーっ』と息を吐き、法律の足が屋根の下のコンクリートの通路を踏みしめる。

「ご覧の通りです」

 法律は、皆の前でマジシャンのように両腕を広げた。法律が雪の上につけた足跡は、そのすべてが消え去っていた。

「犯人は空を飛んだわけではありません。白壁を超えるなんてもってのほか。後ろ向きに歩いてきた。それだけです。ちょっと手先が器用なひとなら、誰でもできるトリックなんです。何か異議はありますか」

 返事はなかった。



 3

 2021年 2月 21日 日曜日 20時 07分


 法律を先頭に本殿側から拝殿側へともどる。法律の幼稚な奇術を目にした一同は、揃って苦虫をかみ殺したような顔をしていた。

黄金星ゴールデンスター。どうなさったのですか。御人形様の御前でいったい何が」

 ひとりの教団員がモントゴメリーに駆け寄った。モントゴメリーはその教団員を乱暴に払いのけた。

 不気味なことに、モントゴメリーの表情は満面の作り笑いに変わっていた。雪の上を転げた教団員は、それを見ると慌ててあとずさった。モントゴメリーは両腕を後ろに回しながら、鷹揚とした様子で、拝殿の階段をのぼった。

 ラニアの元にも、特秘委員会の構成員が駆け寄った。だがラニアが無表情のまま首を一度振ると、彼らは払われた羽虫のように散り散りになった。ラニアもまた、重い足取りでモントゴメリーに続いた。

 拝殿の浜縁では、相変わらず千来田と蓮下がさくらを拘束していた。モントゴメリーが千来田に、ラニアが蓮下に耳打ちをする。ふたりは驚嘆に顔を歪め、そろって眼下に立つ法律を凝視した。

「あぁ。やってしまった。すみません。せっかく新橋先生からお借りしたのに」

 当の法律は、ジャンパーの内側を手で触れながらうなだれていた。大量の雪を入れたせいで、ジャンパーの内側は雨に打たれたかのように濡れている。仕方なしに法律はこの寒空の下、グレーのトレーナーで過ごさざるを得なくなっていた。

「ごめんね。ずいぶん時間がかかっちゃった。問題ないかな」

 法律は広場の中央で千来田と蓮下をにらみつける縛と、そのかたわらに立つ苺刃と美穂に訊ねた。

「問題ないです。問題ないけど、問題ないからこそ、問題ないが故に、不気味がすごいです」

 苺刃かたくくちびるを噛みしめた。

「法律さんが向こうに行っている間、あのひとたち、まったく動かなかったんです。モントゴメリーさんとラニアさんがいなくなっても、一瞬のスキも見せず、さくらさんに凶器を突きつけていました。あのひとたち何かおかしいですよ」

「初めてお会いした時の千来田さまは理知に溢れるお方でした。それなのに、今のあの人には見る影もありません」

 美穂は何か醜いものを目にしたかのように視線を逸らしながら言った。

「仕方ないよ」

 視線を固定したまま縛が言う。

「あのひとたち、心が壊れ始めている。殺人事件が起きて、普段なら雲の上であぐらをかいているはずの組織のお偉いさんが、目の前に来てあれこれと指示を出すんだもん。心のキャパが限界を迎えているんだよ」

「そんなひとたちが横にいて、さくらちゃんは怖いだろうね」

 法律は首を左右に振りながら、囚われのさくらを見つめた。ナイフとテーザーガンを向けられたさくらは、浜縁に座り込み、虚ろな表情で足元を見つめている。

「それで、ほう兄。トリックの方はどうなったの。みんな納得してくれた」

「納得してくれたよ。不愉快だったみたいだけど」

「あの。トリックってどんなものだったんですか」

 苺刃が訊ねる。法律は自分が披露したトリックについて説明した。

「おどろきです。足跡をつけずに立ち去るでなしに、足跡を消しながら立ち去るだなんて」

「本当に犯人がそうしたのかは分からないけどね。少なくとも、御人形様が自らナイフで殺したと考えるよりは、説得力があるでしょ」

 法律たちが短い言葉を交わす間に、縛と苺刃同様、拝殿側に取り残されていた教団員や構成員たちも、盛田刑事や新橋、管理組合の四人からトリックの話を聞き及んでいた。誰もが一様に呆気にとられた。こんな現実味と説得力と非興ひきょうに溢れた考えをよく思いつくものだと、探偵の想像力に唖然としているようだ。

「納得しよう!」

 拝殿の階段上に立つラニアが、留守部村中に届くほどの大声を発した。

「悪なるジンがこの形而下の世界で目覚め動き出すことは事実として起こり得る。特秘委員会はこれまで何度も世界各地でこの現象を観測しておる。だがそれがまれにしか起こらないこともまた事実。たしかに、そこの探偵が示した陳腐な手法の方が現実的である。この点について余は納得しよう。モントゴメリー殿。お主は?」

「納得せざるを得ないでしょう。不服ですがね」

 モントゴメリーは『ふん』と鼻を鳴らしてから法律を見た。

「だが問題はそこではない。肝心なのは『どうやって』ではなく、『誰が』だ。探偵。いや、恒河沙法律。罪には相応の罰を与えなければならない。だが罪の所在がどこにあるのか判明しなければ、われら善意と理性に溢れた民は罰を与えることはできない。『どうやって』を証明したところで、その行為に大した意味はないのだ。本当に大切なのは『誰が』だ。罪の所在地だ。それを語れない以上、きみの発言に価値は……」

「あ、はい。次にそれをお話ししようと思っていました」

 平然と法律は言った。その言葉に境内は騒めく。モントゴメリーは額に血管を浮かせ、ラニアは憮然としたまま法律をにらみつけた。

「ちょっとまて」

 籐藤が法律の腕を強く引いた。

「本当か。それともでまかせか。犯人がわかったというのか」

「はい。みんなの話を聞いているうちに犯人の姿が見えてきました」

「自信は?」

 籐藤の後ろで盛田が訊ねる。その口調に遊びの余地はない。

「あります」

「……うへ」

 盛田の声を背に受けて、法律は一歩前に進んだ。

「この場の第一声で犯人の名前を口にしても、皆さんは納得されないでしょう。必要なのは、とある人物を犯人として告発するに至る過程であり、論理です。そこでまずは、被害者について考えてみたいと思います」

 法律は大仰に両手を上げ、境内中に散るひとびとの顔を見るように左右に首をふった。

「絶対的な事実からはじめましょう。殺されたのは菅原久さんという、留守部村在住の方です。さて。彼が殺されて得をする人間はいますでしょうか」

「いるさ。聖ブリグダ教団だ!」

 黒いローブの教団員がそう叫んだ。途端に、場がざわつき、教団員と構成員たちが口舌の争いをそこかしこで始める。

「お静かに。お静かに。なるほど。菅原久さんは村の管理組合の一員でありながら、特秘委員会に与していた。四月に管理気合でおこなわれるという、御人形様の譲渡先を決める投票で、菅原さんが特秘委員会に投じることは確実でした。蓮下さん。これは事実ですか」

「……その通りですな」

 蓮下の手が震え、テーザーガンがカタリと音を立てた。さくらの全身が跳ね上がる。遠くからそれを見て、母親である美穂が短い悲鳴をあげた。

「なるほど。菅原さんがお亡くなりになれば、残された五人の管理組合のうち、特秘委員会とねんごろの仲にあるのは大久保さんただひとりになる。村長さん親子は中立を保っており、岩城さんと江竜さんは聖ブリグダ教団と親しい。この状況で投票が行われれば、特秘委員会に不利。故に菅原さんが亡くなられることは聖ブリグダ教団にとって利益がある。しかしですね、犯人が聖ブリグダ教団であるはずがないんですよ」

「お主の申しておることは理解できん。余の日本語能力が未熟なせいか?」

 ラニアが首をかしげる。その横でモントゴメリーがくすくすと笑った。

「いえ。ミス・アッバース。わたしも彼の言葉はよく理解できません。ミスター恒河沙。つまりなんだ。きみもまた、聖ブリグダ教団の恒久平和を願う信念を理解してくれたのかな。われわれが殺人などという物騒な所業に及ぶはずがないと――」

「いえ別に。聖ブリグダ教団に与したわけではありません。ついさっきぼくのことを殺そうとしたくせに、よくそんなことを言えますね」

「むむむ……では、どのような根拠でわれわれが犯人ではないと主張するのかな」

「われわれは事実の上に生きています。ひとつの事態を事実として認めれば、その事実は実際に起きたこととして認められ、それが『何故』生じたのか」を考えずに済まされます」

「や、ややこしい日本語を使いますね」

 苺刃が目を細めて苦言を呈した。

「失礼。つまりですね、ぼくたちはまず最初に考えるべきことを考えずに済ませていると言いたかったのです。考えるべきこと。それは菅原さんの目的です。そもそも、菅原さんは、何故深夜に本殿を訪れたのでしょう。村長さん。村の方々の間には、真夜中に白山神社にお参りする習慣があるのでしょうか」

「まさか。そんなはずありません」

 梶谷源造は口をすぼめて言った。

「この村のものは、夜は早いうちに布団に入って寝ちまうんです。起きていると暖房をつけなきゃならんくて、燃料を無駄に喰っちまいますからね。布団の中なら寒くない。夢の中ならなおさらです」

「それなのに、菅原さんは白山神社を訪ねた。それはどうしてだと思います?」

 源造は首をかしげて数秒間だけ思考した。やがて降参とばかりに両手をあげた。

「目的はわかりません。ですが、事件当夜、菅原さんの他に忙しく働いているひとがこの村にいらっしゃいました。梶谷葵あおいさん。前に出てきてください」

 法律が葵の名前を出すと、銀色タキシードの群れの中から、苦々しい表情の葵が出てきた。

「なにか用ですか」

「はい。大事な用です。葵さん。あなたは事件当夜、特秘委員会の青森支部で大仕事に携わっていたそうですね」

「どうしてあなたがそれを……」

 葵は法律の後ろにいる苺刃に目をやった。苺刃はその視線に気づくと、顔の前で両手を合わせて頭を下げた。

「なんでも、緊急で特秘物が搬入されることになったから、保管する部屋を用意するよう頼まれたとか。どなたに頼まれたのでしょう」

 法律が訊ねる。葵の視線は拝殿の浜縁でテーザーガンを構える蓮下に向いた。蓮下はこの寒さの中で額から汗を流している。彼は葵の視線に気づくと、拒絶するように小刻みに首をふる。それを見て葵はキッと目を細めた。

「……蓮下さんです。大至急用意してくれと頼まれました」

「ば、ばかっ……」

 蓮下の汗の量が増す。銀色タキシードの袖で額を拭くが、その指は震えていた。

「ありがとうございます。では次に蓮下さんにお聞きします。蓮下さん。事件当夜、搬入される予定だった特秘物とはいったい何ですか。どうしてそれは、搬入されなかったのですか」

「こ、答える義理はない」

「ほう。余が訊ねてもそう返すつもりか」

 ラニアがふり返り、蓮下をにらみつけた。蓮下は全身を小刻みに震わせて、金魚のようにぱくぱくと口を動かした。

「事件当夜にそのようなことがあったとは聞いておらんな。何故余に申さなかった。事件とは何ら関係がないからか」

「そ、そうです。事件とは無関係で……」

「ならば、話しても問題はあるまい」

 蓮下は言葉を失った。助けを求めるように周囲の構成員たちを見渡すが、彼らの瞳には蓮下に対する疑念が灯っていた。

「『もうすぐ、すべてが終わる』」

 ぽつりと法律がつぶやいた。場の視線が蓮下から再び法律にもどった。

「事件前に菅原さんがそう言っていたそうです。この村で起きている御人形様争奪戦。すべてが終わると、口にしていたそうです。本当ですね、大久保さん」

「は、はい。管理組合の投票のことでしょう。投票は二か月ほど先なので、ずいぶんと気が早い話ですが」

 殺された菅原と同じ、特秘委員会派の大久保がたどたどしく応えた。

「おっしゃる通りですね」

 法律はぶんぶんと大げさにうなずく。

「普通は二か月も先のことを『もうすぐ』とは言わないですよ。だけど、菅原さんの中では『もうすぐ』終わる算段がついていた。そして、菅原さんは事件当夜、御人形様のもとを訪れた。同じころ、特秘委員会青森支部では、蓮下さんの指示で特秘物の受け入れの準備が進められていました」

「つまりそれは……」

 儀礼用ナイフを手にする千来田が横にいる蓮下をにらみつけた。蓮下は視線をあちらこちらに泳がせている。

「蓮下さん。あなた、御人形様を強奪するつもりだったんですね」

 平然とした様子で法律は言った。

「あなたは特秘委員会を慕っている菅原さんに依頼をした。夜の闇に紛れて御人形様を運ばせ、特秘委員会の建物内で管理しようと企んだのです」

「ち、ちがう!」

 うわずった声で蓮下は言った。首を絞められたニワトリのように憐れな声だった。

「わた、わたしが命じたんじゃない。菅原さんが自分から言ってきたんだ。今日の夜、御人形様を運ぶからって。それでわたしは、急いで保管室を用意したのに、約束の時間になっても菅原さんは来なかった。そして朝になると、菅原さんは殺されたと聞いて……」

「そんな大事なことを今まで黙っていたんか!」

 盛田が銅間声をあげながら前に出る。籐藤はそんな盛田に『おちつけ!』と言い聞かせながら、羽交い絞めで押さえつけた。

「とにかく。これにてぼくが先に挙げた疑問に対する答えが提示されました」

 法律は一度うさぎのようにぴょんと跳ねて、場の視線を集めた。

とい。菅原さんは、何故深夜に本殿を訪れたのでしょう。答え。御人形様を運ぶつもりだったから。ところでみなさんは御人形様の重量をご存じでしょうか。あの人形は藁のみで形成されておりますが、その重さはなかなかのもので、成人男性ひとりではとても運ぶことはできません。青森県警の屈強な警察官でも、ふたりがかりでないと運ぶことができないそうです。菅原さんひとりで運ぶのは不可能でしょう」

「そして事件当夜、本殿にはもうひとりの人間がいた」

 籐藤が鼻息を荒くしながら言った。盛田はその両腕に羽交い絞めにされたままだ。

「もちろん犯人のことだ。犯人は菅原久に協力するために本殿を訪れたんだな」

「ウェイト! それは大事なポイントですな」

 モントゴメリーが高々と両手を掲げる。

「殺人犯は御人形様を運ぶために殺人現場を訪れた。つまり殺人犯は被害者と協力関係にあった。犯人は被害者と親しい人物ということ。そして被害者は特秘委員会と親しい間柄でしたね」

「特秘委員会が菅原殿を殺めたと申されるか」

 ラニアがモントゴメリーに喰ってかかる。だがモントゴメリーは平然とした様子で、高々と上げた両手を指揮者のようにふりまわし始めた。

「実際にあなたの下っしたっぱ君は告白したではないですか。特秘委員会は御人形様を受けいれる準備をしていた。それをあなた方は、あの四角く風情のない人工的な建物の中で指をくわえて待っていたのですか。普通じゃない。自ら白山神社に赴き力を貸して御人形様を盗み出すと考えた方が自然でしょう」

「そ、それはちがう!」

 蓮下が再びうわずった声をあげた。

「われわれは人形を受けいれるだけで、それ以外のことをするつもりはなかった。もし、特秘委員会のものが人形を運ぶ姿を村人に見られでもしたら、その時点で村からの信用が失われてしまう。この手で人形を運ぶわけにはいかなかったんだ。このことは菅原さんも承知していた。運ぶのは自分に任せるよう、菅原さんは言ってくれたんだ」

「だとしたら、その協力者とは彼のことではないですか」

 落ちついた口ぶりで千来田が言った。千来田の視線は、母馬と離れた子馬のように、頼りげなくあたりを見回していた大久保に向けられた。

 大久保は境内中の視線が自分に向いていることに気づき、慌てて梶谷親子の後ろに下がった。だが皆の視線は梶谷親子を貫通し、変わらず大久保に注がれていた。

「管理組合の大久保さんは、殺された菅原さんと同じく特秘委員会さんと親しくされていた。菅原さんが御人形様を運ぶ際の協力者として、彼以上にふさわしい存在はないでしょう」

『たしかに』。『千来田様のおっしゃる通りだ』。『なるほどあいつが犯人か』。そんな声が聖ブリグダ教団員の間から湧き出る。当の大久保は、困窮に顔を歪ませながら、激しく胸を上下させていた。

「ちがうちがうちがう!」

 大久保は小刻みに首をふった。

「わたしじゃない。わたしはそんな話を聞いていない。あの人形は村の本殿で長いこと保管されていたんだ。それを勝手に持ち出すなんてこと、わたしには、で、できない」

「その通りです。大久保さんは犯人ではありません」

 法律の言葉が場の混沌を断ち切った。

「ここでひとつ新しい情報を提示させていただきたく思います。あの、盛田さん。先に謝っておきます。ごめんなさい」

「なんですって?」

 盛田の疑問符を無視して法律は話を続ける。

「警察は事件に関するある情報を、捜査活動に影響を及ぼすと考え秘匿してきました。それは何か。凶器です。菅原さんを殺した凶器のことです」

「ナイフと聞いていますがね。違うのですか」

 梶谷泰造があごを撫でながら言った。

「ナイフはナイフです。ですがそれはただのナイフではありません。刃渡りニ十センチほどの奇妙な細工が施されたナイフです。ちょうど今、千来田さんが手にされているものと同じ、聖ブリグダ教団の皆さんが『第六腕』と呼んで大事に所有されているナイフが、犯行に用いられた凶器なのです」

 籐藤は盛田を羽交い絞めする腕に、ひときわ強く力を入れざるを得なかった。



 4

 2021年 2月 21日 日曜日 20時 19分


「凶器が聖ブリグダ教団のナイフだと。つまり、犯人は聖ブリグダ教団の人間ということで決まりじゃないか」

 それまで全身を震わせていた蓮下が、今度は一転してひまわりのような笑みを顔いっぱいに浮かべた。

 大久保に向けられていた非難の目が、今度は境内中の聖ブリグダ教団員たちに向けられる。誰が犯人だ。黒いローブを着たどいつが人殺しなんだ。

「みなさん落ちついて。ぼくの話はまだ続いてますよ」

 法律は両手を激しく二度たたいた。

「凶器のナイフは本殿の中に落ちていました。ナイフには菅原さんの血痕が付着し、ナイフの幅と菅原さんの傷の幅も一致しました。これが菅原さんの命を奪ったことに間違いはありません。聞かれる前に答えますが、指紋は付着していませんでした。手袋をはめて犯行に及んだが、犯行後にふき取ったのでしょう。そしてこの凶器は現在も警察に保管されています。あの。聖ブリグダ教団の備品を管理されている方はどちらです。お訊ねしたいことがあります」

 漆黒ローブの群れを見回しながら法律は言った。すると、丸眼鏡をかけた男が、おずおずとした足取りで前に出た。

「あぁ、その節はどうも。『第六腕』と呼ばれている儀礼用ナイフは、入団した際に一本だけ配られる貴重なものだそうですね。事件が起きてから、このナイフを紛失したので新しいものをもらいたいと申し出た教団員の方はいらっしゃいますか」

「いや、いない」

「あなたの目を盗んでナイフを盗み出すことは可能ですか」

「ナイフは施錠したケースに保管されている。わたし以外に、例え千来田様であろうと無断で持ち出すことは不可能だ。ま、まさかわたしがナイフを持ち出したとでも。そんなことはしていない、もしそんなことが起きたら――」

「その場合、ナイフを持ち出すことができる唯一の存在であるあなたが疑われるだけですものね。当然、あなたは犯人ではありません。ぼくが確認したかったのは、事件発生後、誰もナイフをなくしたと申請に来ていないということ。そして、事実として犯行現場には一本の儀礼用ナイフ『第六腕』が落ちていた」

「つまり、今現在ナイフを持っていないひとが犯人というわけです!」

 苺刃がその場でぴょんと高く飛びあがった。

「モントゴメリーさん。あなたは先ほど、この場に聖ブリグダ教団青森教会の皆さんが集まっていると言いましたね。教団のみなさん。『第六腕』を見せてください。あなたの無実を証明するため、高々と掲げて。ほら、はやくはやく!」

 苺刃に急かされ、教団員たちはひとりまたひとりと、ローブの内側から儀礼用ナイフを取り出した。だが、教団員の中で、ひとりだけナイフを取り出さず人込みの背後に隠れようとする姿があった。

 モントゴメリーはその者の動きを目ざとく見つけると、周囲の教団員に前に連れ出すよう命令した。ひとりの教団員が三人の教団員に取り押さえられる。

「う、うわぁ……」

 前に連れ出された教団員は、足の壊れたロボットのようにその場に崩れた。深く被っていたフードが教団員の手によって剥がされる。

 そこにいたのは、梶谷桐人(きりと)だった。

 梶谷源造は怯えた表情の孫を目にして、激しく咳き込み始めた。となりにいた泰造はふらふらと我が子の方に足を進めたが、近くの教団員が前に立ちはだかると、おとなしくその足を止めた。

「ふぅむ。千来田。あの者は誰だ」

宵星ディムスターの梶谷桐人です」

 モントゴメリーの問いに千来田は淡々と答える。

「留守部村の出身で、数か月前に入団しました」

「ふん。そこの宵星ディムスター。わたしの質問に答える栄誉をやろう。なぜ第六腕をださない」

「ち、ちがうんです。ぼくのせいじゃない。ぼくのせいじゃないんです」

「質問の意味がわからないのか。入団時に受けとった第六腕をどうしたかと聞いているんだ。いまそのローブの中にあるのなら見せよ。ないというのなら、はっきり言え!」

 だが桐人は答えない。歯をガタガタと震わせながら、そこに自分を助けてくれる何者かがいるかのように足元を見つめるばかりだ。

あらためろ」

 うんざりとした様子でモントゴメリーが言った。教団員たちが桐人のローブを開き、ナイフが収められているはずのホルスターを確認する。ホルスターは空だった。

「犯人が見つかったではないか」

 ラニアが満足気にほほをつり上げた。

「現場に教団のナイフが落ちていた。落ちていたナイフには被害者の血液が付着していた。凶器がその気色のわるいナイフであることには違わない。ナイフを持たない男がひとり。犯人はつまり、その男というわけであろう」

「いいえ。大ハズレです」

 得意げなラニアに冷や水をかける。誰が。当然、法律が。

「犯人は桐人さんではありません。桐人さんではありえないんです」

「なぜだ。その男にはアリバイがあるとでもいうのか」

「アリバイなんていらないでしょう。桐人さんが犯人でないことは、自明のことですよ。だって彼は聖ブリグダ教団の人間です」

「何を申す。探偵、お主は中立の立場と思ったが、この稚拙な集団に肩入れするつもりか」

「ちがいます。ラニアさんは大切なことをお忘れです。ぼくたちは先ほど、ひとつの仮説を妥当と認めたはずです。殺人犯は菅原さんと協力して御人形様を運ぶために殺人現場を訪れたのです。菅原さんは()()()()()()親しかった。そんな菅原さんが、どうして()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。菅原さんが特秘委員会と親しかった以上、少なくとも彼が聖ブリグダ教団の人間であると認識しているひとが犯人であるはずはないのです」

 ラニアは上下のくちびるを丸めて口の中に入れた。両眼を細めて、年相応に不満気な顔をする。

「桐人さん」

 法律は三人の教団員に取り押さえられている桐人に近づいた。

「桐人さん。ナイフはどうしたのですか。どうしてあなたのナイフが、殺人現場に落ちていたのですか」

「な、なくしたんです!」

 壊れた蛇口から噴出する水のように桐人は叫んだ。

「いつの間にかなくなっていて。本当はすぐにでも、教団のひとに言おうとしたんですが、こんな大事なものをなくしたことが知られたら怒られると思って……」

「ちがいます。なくしたのではありません」

 法律が桐人の声をさえぎった。桐人は怯えた表情で視線を泳がせている。

「桐人さんのもとからナイフが離れていったという事態。この事態が起こり得るパターンはどういったものがあるでしょう。ひとつは、譲渡。誰かに渡すということです。しかし教団員である桐人さんにとって、儀礼用ナイフ『第六腕』は大切なものです。これをひとに渡すわけにはいきません。何者かに譲渡することは、桐人さんが聖ブリグダ教団の人間である以上はあり得ません。ふたつめ、紛失。カバンからはみ出たスマートフォンが歩いた際の振動でぽろりと落ちるように、ナイフをなくしたのでしょうか。これもない。何故なら、聖ブリグダ教団のナイフは、ローブの内側に備え付けられたホルスターに収められています。ホルスターから落ちるはずはないし、儀式の際に取り出したものをホルスターに戻すのを忘れるとは思えません」

「ひとに渡すでもない。どこかに落としたでもない。だとしたらいったい」

 籐藤が首をかしげてみせた。法律はそれに苦笑しながら応えた。

「いやだな籐藤さん。警察官は()()()のパターンの専門家じゃないですか。ぼくたち一般人の日常には関わりなく、警察官にとっては日常茶飯事でしょう」

「窃盗ですね」

 苺刃が小学一年生のようにピンと手を伸ばして答えた。

「ナイフは何者かによって盗まれた。そういうことではないですか」

「正解です。苺刃さんには花まるをあげちゃいます。誰かに渡すはずはない。落とすはずもない。他に思いつくパターンとしては、ナイフがひとりでに桐人さんのもとから離れていくか、盗まれたかでしょう。前者は自然科学の観点から起こり得ない。消去法で後者です」

「ナイフを盗んだやつが犯人ということか!」

 籐藤が叫ぶ。推理の道程が終点たる犯人という存在に近づきつつあることに、場の皆が気づき、不気味な一体感を共有していた。

「そうです。では考えてみましょう。桐人さんのナイフを盗み得る存在とは誰か」

「せ、聖ブリグダ教団の人間だ!」

 大量の汗で顔中を湿らせた蓮下が、うわずった声を発した。

「その男はあのみすぼらしい教会で生活をしているんだろう。ナイフを盗むチャンスがあるのは、共同生活を送っているやつに決まっている」

「残念ながらあり得ません」

 法律はバッサリと蓮下の意見を絶った。

「先ほど申した通り、犯人は殺された菅原さんにとって、いっしょに御人形様を盗む程度には信用に足る人物でした。菅原さんが親特秘委員会派の人間である以上、聖ブリグダ教団の人間はこの条件に当てはまらないのです」

「聖ブリグダ教団の人間がナイフを盗み、犯人にわたした可能性は残っておろう」

 ラニアが顎を尖らせながら言った。だが法律はつめたく首をふる。

「ありえませんね。どうして教団員が非教団員にナイフを渡すのですか。彼らにとってナイフはただのナイフではありません。これは神聖なる『第六腕』です。あらわなる(ネイキッド)次元(ディメンション)を訪ねた眠り巫女が、聖ブリグダ神から授かり一時的な(テンポラリー)次元(ディメンション)に持ち帰ってこられた聖具なのです。第六腕の実態とは、聖ブリグダ神の腹部に生えた無数の腕。つまり、このナイフを所有することは、聖ブリグダ神のそばに仕えることに等しい。そのような大切なものを、どうして聖ブリグダ教団の人間が、同じ教団員から盗み、部外者に譲りわたすでしょうか」

「ではどうやって犯人はナイフを盗んだのだ。教会の外で、その男を気絶させて無理やり奪いとったとでもいうわけか」

「ふむ。念のために聞きますが、桐人さん。そのようなご経験は?」

 桐人はすばやく首をふった。当然であろう。意識が飛ぶほどの暴力を経験していれば、その時に盗まれたと察するはずだ。

「ならばこれで()()じゃ! おんぼろ教会の中でも外でも盗むのが無理というなら、どこであろうと不可能ということになる」

「いえいえ。ラニアさんは誤解されています。別にナイフは教会の外で盗まれたと考えてもおかしくないでしょう」

「だが、先ほどナイフを奪いとるのは不可能と申したではないか」

「申しましたね。ローブの内側から気づかれないよう抜き取るのは難しい。ラニアさん。そんなに難しく考える必要はないんですよ。ローブの内側からナイフを奪いとるのに、もっと簡単な方法があるじゃないですか。ローブを脱いだ時ですよ。桐人さんがローブを脱いでいる間に、ナイフをホルスターから抜けばいいだけの話です」

「その男が教会の外でローブを脱ぐだと。娼館に行った際に女が盗んだとでも言うか」

「どうもラニアさんは想像力が豊富すぎます。ですから、難しく考える必要はないんです。桐人さんは留守部村の出身です。彼は現在、山の上の教会で暮らしていますが、時おり村にある実家に泊まりに来ているんですよ。教会の中で盗まれたはずがない。外を歩いている時に盗まれたわけでもない。他に考え得るのはこれくらいでしょう。家に帰った時、ローブを脱いで風呂にでも入っている時にホルスターから抜き取ればいいだけです」

「た、探偵さん。あんた、自分がなにを言っているのかわかってるのか」

 盛田が声色と指先を震わせている。

「理解しています。ぼくは告発しているんですよ。桐人さんのナイフは梶谷家の中で盗まれた。菅原さんを殺した犯人は梶谷家の中にいます」

 境内が今日一番のざわめきに包まれた。法律の背後で、籐藤と盛田が周囲を見渡し梶谷家の三人を探す。あわてふためく黒いローブと銀色タキシードの群れの中に紛れたのか、三人の姿はなかなか見つからない。

「桐人さんのナイフを盗んだのは誰でしょう。彼と仲の悪い双子の姉の葵さんでしょうか。ちがいます。特秘委員会の構成員である葵さんが、特秘委員会が御人形様を手に入れるためには不可欠な存在である菅原さんをどうして殺しましょうか。また、事件当夜に葵さんは特秘委員会青森支部で、御人形様を保管するための部屋づくりに勤しんでいました。ナイフを盗むだけなら彼女にもできますが、菅原さんを殺めたとなると話がちがってきます。犯人ではありません」

 何かが雪の上に落ちる音がした。銀色タキシードが左右に分かれる。そこには両ひざから雪の上に崩れ落ち、無表情のまま雲のかかった夜空を仰ぐ葵がいた。

「では。村長の梶谷源造さんでしょうか」

 法律はくすりと鼻で笑った。

「いいえ。ちがいます。源造さんはリウマチを患っておられる。梶谷家の玄関には源造さんのために木製の手すりが設置してあるそうですね。玄関を上がるのにもひと苦労する相手に、菅原さんがいっしょに御人形様を運んでくれと頼むでしょうか。菅原さんがひどく非常識で分別のない人間ならあり得るかもしれません。まぁ、その可能性は考慮しなくともよいでしょう」

「う、うそだ」

 何かが雪の上に落ちる音がした。黒いローブが左右に分かれる。そこには両ひざから雪の上に崩れ落ち、無表情のまま土と砂利石が混じった雪を見つめる源造がいた。

「留守部村の管理組合は、村長の他に五人の幼なじみで形成されています」

 白い息を吐きだしながら法律は告発を続ける。

()()()は殺された菅原久さんの幼なじみでした。子どもの頃からいっしょに遊びまわり、よく村の大人たちに怒られていたそうですね。子どもの頃の交友が今も続いているとはなんとも羨ましい。そうです。()()()は、菅原さんの信頼を得ていた。幼なじみで、親教団派でもない。そして、桐人さんのナイフを奪うことが可能だった」

「話が長いですね」

 黒いローブと銀色タキシードの群れが左右に分かれる。ヒビの入った白壁に背中を預け、不気味にほほをつり上げる男の姿がそこにあった。

「梶谷泰造さん」

 法律は刃のような言葉を突きつける。

「菅原久さんを殺害したのはあなたですね」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ