第十一章 脱出(あるいは強襲)
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2021年 2月 21日 日曜日 09時 51分
「お待たせしました」
日曜の朝の乾いた空気の中に、緊張感の混ざった田宮諒巡査の声が響く。田宮巡査は滅多に訪れない秘書係の執務室を、首を動かさず目だけを動かして眺めた。
縦長の部屋で十のデスクが島を作って伸びている。机の後ろにはグレーの棚がいくつも並び、その棚の中にはキングファイルが整然と収められていた。
十のデスクからなる島の先に、太陽光が降りそそぐ大窓を背にしたデスクが離れ小島のように置かれている。
そのデスクに着き、パソコンのモニターを見つめる男がいた。白髪混じりの髪を六四の比率で左右に分け、二又に分かれた前髪の下では、爬虫類のような大きく少し盛り上がった目がゴロゴロと動いている。
田宮は爬虫類男に近づき、手にしていた書類の束を差し出した。爬虫類男はそれを無言で受け取ると、音を立てずにデスクの上に置いた。目はモニターに食らいついたままだ。小型のキーボードを手前に引き軽快に叩き始める。
がらんとした室内でキーボードを叩く音だけが駆けまわる。田宮は耐えきれず、ごくりとつばを飲み込んでから口を開いた。
「あの、確認し――」
「若いのが休日出勤してまでやるような仕事か」
爬虫類男――秘書係長の副島警部補は感情の起伏を感じさせない口調で言った。副島のその声質は、青森県警の若い警察官の間では『自動音声』として揶揄されていた。
「それは、もちろんです。今月の広報記事は係長のアドバイスをもとに作成しました。係長が今日出勤されていると聞き、一刻も早く確認していただこうと――」
「お前の前任者も就任一年目で同じことをしたよ」
キーボードを叩きながら副島は言う。
「は?」
「メシを食っているおれのところに来ると、秘書課の話をむりやり聞きだして、広報を書き、後日、内容を確認してほしいと、ひとりで休日出勤しているおれのところに来た」
相も変わらず副島の口調はフラットなままだ。だが今、副島の目はごろりと動いて田宮を見つめていた。田宮は思わず視線を逸らす。彼は確信した。自分の思惑は気づかれている。
「どうせお前も、苺刃のことが聞きたいんだろう」
「は、はい。実はその、自分は独身でして、東京出身ではありますが、ここ青森に骨を埋める所存でありまして、つきましては、恋人? 嫁? 生涯の伴侶? を現在進行形で募集しているところでして、苺刃巡査なら年齢も近いですし、寿退社した後も、元警察官ならわたしの仕事の苦労も理解してもらえる。最適な女性ではないかなと」
副島の目はモニターに戻っていた。田宮は気づいていなかったが、キーボードを叩く音が先ほどよりも大きくなっていた。まるで、十本の指先からいら立ちを放出するかのように。
「それで、どうなんでしょう。苺刃さんは、いま恋人などはいるのでしょうか」
「やめておけ」
副島は言った。真剣のような鋭い口調。田宮は子どものように口を開き、まばたきをくり返した。
「田宮。苺刃はやめておけ。あの女は――」
「魔女だ」
助手席で深く腕を組みながら盛田巡査部長は物騒な言葉を吐き捨てた。
青いスバルは留守部村の北部にある空き地に向かっておやしろ通りをトロトロと進んでいる。運転席でハンドルを握る新米刑事の林巡査は、捜査初日にスピードを出しすぎ、小道から出てきた村の老婆を轢きかけた。以来、盛田は林に村の中では『亀以下ナメクジ以上』の速度で運転するよう言いつけていた。
鈍感な性格の林は盛田の命令の裏に潜む怒りに気づかず、『亀以下ナメクジ以上』なる命令を『安全運転』の四文字と同程度にしかとらえていなかった。そのせいか、ハンドルを握りながらも林はペチャクチャと雑談を仕掛けてくる。数分前に始まった話題、つまり、『県警本部の苺刃さん』もそんな雑談のひとつとして始まったものだった。
「ま、魔女? 天真爛漫なフリをして、実はその裏で男を惑わす悪女ってことすか」
林は鼻の穴を大きく開きながら盛田の方を見た。盛田は人さし指を正面に向け、視線を戻すよう無言で諭す。
三日前の金曜日、県警本部で秘書係に属する苺刃柚乃が留守部村にやって来たと聞き、若い刑事たちは色めき立った。本部の秘書係は美人揃いとして有名であり、中でも際立った美貌を有すると、苺刃は県内の若い警察官たちの羨望のまなざしを一挙に引き受けていた。
一方で、一定の年齢を超えた県内の警察官のほとんどは、若い警察官のように苺刃を評価することはなかった。彼らは耳にしていた。苺刃のもつ噂を。若造の耳に入れるには過激な噂。しかし、しょせんは噂だ。真偽のほどは定かではない。だが、真である可能性が残っているのならば、触らぬ神に何とやらとの対応をとるのが、大人として正しい判断であろう。
「自覚があるならマシだ。苺刃巡査はな、無限の行動力で、無自覚に害をふりまく、歩く災害だ。あの女は、前本部長と総務課長が『顔』だけを見て秘書係に採用した。本部のお偉いさんは秘書係が自分たちの目の保養のためだけに存在していると思いこんでいる。秘書って仕事はお茶汲みと愛想笑いができれば給料をもらえるに値すると考えているわけだ。だがな、苺刃は期待通りおとなしくしているような玉じゃなかった」
スバルは村の北部にある空き地――警察車両用の駐車場に着いた。だが盛田も林も車を降りることはなかった。林はハンドルを握ったまま、目線で盛田に話の続きを要求する。
「高卒で県警に採用された苺刃は、警察学校での研修を経て県警本部の秘書係に配属された。そして配属されたその週末に、サンシャインモールであの事件が起きた」
「サンシャインモール。覚えています。立てこもり事件ですよね。拳銃を手にした三人組が、モール内のアイスクリームショップで、店員と客を人質に取った事件です」
「その事件を解決したのが苺刃だと言ったら」
「つまらない冗談です」
林はげらげらと笑ってみせた。だが盛田は笑い返したりしない。それどころか、その表情は真摯で、冷たく、淡々と真実を語っているかのような――
「ち、ちがいますよ」
林は力強く首をふった。
「あの事件は道警から派遣されたSAT(特殊急襲部隊)が解決したんです。犯人はヤクザ崩れの三人組で、SATの隊員がひとり撃たれて殉職されたはずです。苺刃さんのようなひとでは……」
「SATが突入した時、犯人は三人とも延長コードで手足を縛られ気絶していた。事件後、アイスクリーム屋の従業員はこう証言した。犯人を退治したのは、偶然現場に居合わせた苺刃巡査だったとな」
「待ってください。それが真実なら、ただの大手柄というだけの話で」
「はんかくせぇなぁ。おめぇで言ったことを忘れたのか。SATは津軽海峡を渡って北海道から来たんだ。当時の県警本部長の小里警視長は、事件発生直後に道警にSATの出動を要請した。道警の本部長は、数年後には警視庁の重役ポストに着くことが確約されていた大物だった。小里警視長は、そんな大物の面を立てようとほくそえんでいたわけだ」
「それなのに、青森県警の警察官に手柄をとられたってことですか」
「ジャージ姿で休日を満喫していた、十八歳の女性事務職員にな」
林はスーツの下で自身の身体が震えていることに気づいた。警察官になって数年の新米ではあるが、警察上層部の権力闘争の重要性はよく理解している。小里とかいう元本部長が誤った判断を下し、そしてこのゲームの盤面から振り落とされたことは火を見るよりも明らかであった。
「苺刃に名誉欲がなく、自分から積極的に事件のことを風潮するような性格ではなかったことが幸いし、表向きはSATが解決したということで事件は落ち着いた。だが事件の真相はしっかりと足を生やして全国の警察上層部の間を駆けまわった。青森県警のせいで道警のメンツは丸潰れだ。だが苺刃を処分するわけにはいかない。あいつが責められる謂れがどこにある。新人だろうと、事務職だろうと、ましてや十八の小娘であろうと警察官であることに違いはない。警察が市民の安全を守るために尽力して何が悪い。こうして事件後も苺刃は元気に県警本部でお茶くみを続けた。だが県警上層部にとっては嘆かわしいことに、苺刃はその後も、似たようなことを大なり小なりいくつも繰り返している。お偉いさんのメンツを、非難される筋合いのない方法で堂々と潰して回っている。どうやらあいつは、そういう星の下に生まれついたらしい」
「歩く災害って、そういう意味ですか」
盛田は黄色い歯を見せて不気味に笑った。
「その通りだ。地震に悪意はない。台風に敵意はない。火山の噴火は神の怒りではないし、津波が村を飲み込んだとしても、それはただの自然現象だ。自然現象に他人を傷つけようなんて意志はない。苺刃も同じだ。あいつは、県警上層部に迷惑をかけようなんてつもりはこれっぽっちもない。それなのに、持ち前の正義感と無限の行動力を発揮することで、無自覚に害をふりまいて回っている。恐ろしい女だ。だから上層部の人間は悪意をこめて『魔女』と揶揄しているんだ。俗世間に肩までつかった人間は、人智を越えた存在を恐れるものだからな――」
「わかったかな。田宮巡査」
副島は再びキーボードを叩き出した。先ほどよりも軽快に、滑らかに、弾けるように十本の指が躍る。
「災害から逃れる最善策は近寄らないことだ。地震が起きやすい場所には住まない。津波が発生したら山の上に逃げる。『歩く災害』も同じだ。田宮巡査。きみが真っ当な警察人生を望むというならば、苺刃巡査に関わるべきではないよ」
石像のように固まった田宮は、形ばかりの一礼をすると、壊れた人形のように左右に足を動かして部屋を出て行った。
副島は一度鼻で笑うと、デスクの引き出しの奥底に隠してある高級チョコを取り出して口にした。部屋に誰もいない休日出勤の時にだけ自分に許すご褒美だ。彼は幼いころから洋菓子に目がなく、それは定年というゴールテープが見えてきたこの年になっても変わることはなかった。
だが封建的かつ男社会であるこの地方警察の中で、自身の嗜好について口外する勇気は彼にはなかった。だからこそ彼は羨ましかった。周りに害をふりまこうとも、無限の行動力を持ち、自身の思うままに正義の道を驀進する苺刃柚乃という警察官。苺刃柚乃は迷わない。自身を覆い隠すなんてことはしない。そんな心の有り様が、副島のような日陰者にとっては、ひたすらに眩しく、輝いて見え、つまりは、ただただ羨ましかった。
2
2021年 2月 21日 日曜日 16時 08分
正気を疑うほどの白に満たされた空間。壁も白。床も白。天井も白。白、白、白、白、白白白白白白白白白白白白白白白白――
そんな白に満たされた細い廊下にコツコツと乾いた音が響きわたった。その音はハリネズミ髪の男の前にあるドアの向こう側から聞こえていた。
ハリネズミ髪の男は椅子の背もたれから身体を起こすと、両目を細めてドアをにらみつけた。
白いドアがゆっくりと開いていく。抜け出すために音を立てないよう気をつけているわけではなかろう。もしそうなら、そもそもノックなんてしないはずだ。
つまりこれは、ドアの向こう側にいる相手――ハリネズミ髪の男を刺激しないようにしているのだろう。野生動物の前で突然駆け出さないのと同じだ。ゆっくりと動くことで、攻撃的な姿勢をとるつもりはないことを身体で表明する。そんな意志を、ハリネズミ髪の男はドアの反対側から感じていた。
だがハリネズミ髪の男の使命は、このドアの内側にいる女性を部屋の外に出さないことだった。だったらドアを施錠すればいいだけの話なのだが、その場合は一般人を『監禁』することになってしまい、特秘委員会の沽券にかかわる。そこで、苺刃には施錠されていない部屋に自主的に『滞在』してもらう。ハリネズミ髪の男は『客人』の要望を聞き及ぶためにここにいる。そんな自己欺瞞的な態度を特秘委員会は取っていた。
「あ、あの~」
苺刃が室内から情けない声をだす。ドアから数歩下がっている。外に逃げ出す意志はないことを表明しているようだ。
ハリネズミ髪の男はすでに立ち上がり、廊下側に押されたドアを片手で掴んでいた。
「なにか」
「あの、お兄さんは。ずっとここにいらっしゃるんですよね」
ハリネズミ髪の男は返事をしない。無言のまま苺刃をにらみつけた。
「よかったら、これどうぞ。暇つぶしに」
そういって苺刃が差しだしたのは、八冊のマンガ本だった。
「わたし、もう八巻まで読みましたんで。よかったら、どうぞ」
ハリネズミ髪の男は束ねられたマンガ本を受けとった。読みたいと思ったわけではない。とっととこのドアを閉めたいからだ。
片手にドラえもん。もう片方の手で、ドアを勢いよく押しこむ。ドアは大きな音を立てて閉ざされた。内側から『ひん』と小さな悲鳴が聞こえた。ちょっとした優越感を覚えながら、ハリネズミ髪の男はドラえもんをテーブルに置いた。両肘をつけばその表面積が埋まってしまうほどの小さいテーブルではあるが、廊下が細いため、圧迫感がある。椅子に座り無言のままでいると、どうしても視線がカバーに描かれたドラえもんに向いてしまう。気がつくと、ハリネズミ髪の男はドラえもんを読み始めていた。
「ふむ……ほう……ふふ」
苺刃が捕らえられている部屋は、特秘委員会青森支部の中でも奥まった場所にある。周りに多用される部屋がないこともあって、この細長い廊下にひと気はない。ハリネズミ髪の男は周りの目を気にすることなくドラえもんを読みふけった。
数十分後。ハリネズミ髪の男は強く眉を潜めて舌打ちを放った。
ドラえもん六巻を読み終えたハリネズミ髪の男は、次に七巻を読もうとした。だが、テーブルの上に七巻はなかった。苺刃が渡した八冊は、一巻から六巻と、八巻と九巻の八冊だった。
むすりと顔をしかめながら、七巻を飛ばし八巻を読み始める。だが、黄ばんだ紙の中を駆け回るドラえもんやのび太くんを見ていても、六巻まで読んでいた時のような昂揚感は湧いてこない。奥歯の間に、舌で押しても、指を入れても取れない食べかすが残り続けているような感覚だ。
ハリネズミ髪の男は立ち上がり、周りに誰もいないことを確認してからドアをノックした。
「すまないが、七巻を――」
部屋に入り、そう早口で言った次の瞬間のことだ。ドアの陰から『ごめんなさい』という声が聞こえ、その声が聞こえた左耳のあたりに何か表面積の大きな物体が振り下ろされた。
ハリネズミ髪の男の左側頭部に強い衝撃が走る。男は前のめりに倒れこむ。気を失うことはなかったが、猛烈な吐き気とふらつきで、身体を動かすことも声を発することもできない。
「本当にごめんなさい」
再び声がする。苺刃柚乃の声だ。ひとに傷害を加えたとは思えない、憐みに満ちた声色だ。ハリネズミ髪の男は不思議に思った。どうしてそんなことができる。どうしてそんな優しい声でひとを傷つけることができるんだ。
どさりと何かが床に落ちた。ハリネズミ髪の男の視界にその何かが入ってくる。ビニールひもで固く結ばれた三十七冊のドラえもんの束だった。
ビニール紐は強固に締め付けられ、多少乱暴に振ったところでばらけることはないだろう。凶器としては及第点だ。
この時になって、ハリネズミ髪の男は自分が苺刃の策略にはまっていたことに気づいた。
七巻を抜いて、続きを渡す。いい歳をした大人は気にすることなく八巻を読み始める。だがことはドラえもんだ。国民的人気キャラクターのドラえもんだ。できることなら刊行順に読みたい。そしてその七巻は恐らく目の前の部屋の中にある。苺刃は『八巻まで読んだ』と九巻までを渡して来た。つまり、七巻は既に読破している。ならば七巻を受けとっても問題はあるまい。取りに向かうのが当然であろう。
もしこれが苺刃の言う通り一巻から八巻までだったら、ハリネズミ髪の男は素直に八巻まで読み進めて、そこで手を止めていたかもしれない。たしかに続きを読みたいという気持ちは生まれるかもしれないが、そこはいい歳をした大人だ。刊行順に読み進めたという正当性を胸に抱き、『ひとまずはここまで』とひと段落するに違いない。わざわざ部屋に入って、『続きを読ませろ』と子どもじみたことを言ったりはしないだろう。
そんなハリネズミ髪の男の後ろで、苺刃はそそくさと部屋を出て行った。
3
2021年 2月 21日 日曜日 17時 30分
ドアが閉ざされる瞬間、苺刃は背後の室内からハリネズミ髪の男のうめき声を聞いた。無事であったことに胸をなでおろしつつも、同時に急がなければと危機感を覚える。
苺刃の行動は早かった。男が着いていたテーブルを両手で掴むと、ドアの前に横向きに置いた。
次の瞬間、ドアが内側から強い勢いで押された。がつりと音を立ててドアとテーブルがぶつかる。廊下の横幅が短いこともあり、横向きのテーブルがつっかえ棒の役目を果たしドアが開くのを阻害している。
室内からハリネズミ髪の男の怒声が漏れ出す。数ミリのドアのすき間から男の指がピコピコと動くのが見えた。
苺刃はひと気のない廊下を駆けだした。白に包まれたこの建物の中で、黒いローブは目立ちすぎる。そう考え、苺刃は黒いローブは既に脱ぎ捨てて部屋に置いてきた。ローブの下に着ていたニットのセーターに黒いズボン。どこかで純銀タキシードを調達して着たいところだが、警察官として窃盗はいけないと自省していた。数十秒前に傷害罪として立件されかねない行為をしたことを忘れながら。
曲がり角の向こうから話し声が聞こえてきた。苺刃は、壁からつき出た顔を布で覆われた男の像の頭部を掴み、自分の身体にブレーキをかけた。話し声はこちらに近づいてくる。遥か後方では、横置きのテーブルがドアに叩かれ、フラストレーションのたまった衝撃音を繰り返し放っている。
苺刃はそばにある部屋に飛び込んだ。ドアが閉ざされる瞬間、廊下の白い照明が室内を照らす。小さな部屋だった。照明はついておらず、左右に天井まで伸びる棚が並んでいる。倉庫のようだ。
ドアを閉ざし、暗闇の中、苺刃は両手で口をふさいだ。ドアの向こう側を足音が駆け抜けていった。曲がり角の向こうにいた特秘委員会のメンバーが細長い廊下の向こうに置かれた横置きのテーブルと、ハリネズミ髪の男の助けを呼ぶ声に気づいたらしい。
ハリネズミ髪の男はすぐに救出されたらしく、さっきよりもひとつ多い足音がドアの前を通りすぎていった。
苺刃はそっとドアを開いた。すると、曲がり角の方から『三階だ!』との叫び声が聞こえてきた。
苺刃は破顔した。ハリネズミ髪の男たちは、苺刃が三階に向かったと思っているらしい。何故苺刃が三階に向かったと推測したのか。単に苺刃がこの建物から脱出するつもりならば、出入り口がある一階に向かうのが妥当だろう。
それは、苺刃の目的と推測されるものが三階にあるからだ。その推測は当たっていた。この建物から出るためではない。ズボンの後ろポケットにねじ込んだメモ紙を縛に届けるため、そのために苺刃はあの部屋から逃げ出したのだ。
倉庫から出て、曲がり角の方に向かう。角を曲がるとすぐに、上下に続く階段が現れた。苺刃はその階段に見覚えがあった。この建物に入った時に、上ってきた階段だ。睡眠薬入りの紅茶を飲まされた部屋も三階にあった。「ひょっとして、縛さん、今もあの部屋にいるのかな」
苺刃は音を立てぬよう気をつけながら三階に上がった。廊下に身を乗り出したところで、慌てて身体を引き戻す。廊下の右手の方に向かって、ハリネズミ髪の男を筆頭に三人の銀色タキシードが駆け抜けていく姿が見えた。
階段と廊下の境から、こっそりとのぞきこむ。三人はとあるドアの前で足を止めた。ハリネズミ髪の男がカードキーを壁付けの端末に当てる。電子音が鳴り、ドアが開くと、三人は室内に駆け込んでいった。
縛があの部屋にいるのは間違いないようだ。だが、三人の男に素手で立ち向かうわけにはいかない。苺刃は何か武器はないかと周囲を見回した。
苺刃の視界が廊下の壁から生えた、布を顔で覆われた男の像を捉えた。白い男の像は二本の腕を天井に向かって伸ばしている。この腕をへし折れば武器になるのではないか。苺刃はそう考え、何か石像を破壊し得るものはないかとあたりを見回した。
苺刃は壁の下の方に、縦長の小さなドアがあることに気づいた。ドアは壁と同じく白く塗られていて同化している。そのドアには灰色の横文字でFire extinguisherと書かれている。発音も意味も分からないが、中にあるものは想像がついた。現実が苺刃の想像と期待に応える。中には消火器が置いてあった。
「よし、これで」
苺刃は消火器を取ると、全身全霊の力をこめて像の左腕に振り下ろした。だが衝撃が強すぎたらしく、像の左腕は粉々に砕け散り、手首から先だけが床に転げ落ちた。
「失敗。これじゃ武器にならない」
ごろりと転がる手首を見つめながら苺刃はため息をつく。では次は右腕と消火器を振り上げたその時、苺刃はほんの数秒間フリーズした。
「あ、これでいいのか」
既に自分の手の中に武器があることに気づき、苺刃は縛が囚われている部屋に向かって駆けだした。
あと数メートルというところで、横開きのドアが開き、室内からハリネズミ髪の男が側頭部をさすりながら出てきた。
「もう一回ごめんなさぁぁぁぁい」
そう叫びながら苺刃は消火器のノズルを正面に向けた。ためらうことなくレバーを握る。ノズルの先から白い消火剤が噴出され、ハリネズミ髪の男の顔面に当たった。
男の叫び声をBGMに、苺刃は消火器の本体を男の身体に押しつけた。男が床に身体を強かに打ちつけた衝撃音が聞こえる。聞こえるだけだ。見えはしない。何故ならこの時すでに、ふたりの周囲は消火剤が充満して、雲の中のごとき白に包まれていたからだ。
「な、なんだよぉ」
室内から戸惑いの声が聞こえる。苺刃は声のする方にノズルを向けた。ふたりの男の叫び声が室内に響き渡る。白い世界の中でふたりのうち片方が尻もちをついた。
苺刃は部屋に飛び込んだ。消火剤が蔓延し始める室内には見覚えがあった。思った通り、苺刃と縛が通された部屋だ。
だがその部屋には、苺刃が当初訪れた時と大きく異なる点があった。鉄格子だ。無数の鉄棒が床と天井の間に伸びている。
鉄格子の向こうに大きく目を開いて困惑した様子を見せる縛がいた。
「縛さん!」
苺刃は消火器を後ろに放り捨て、鉄柵に駆け寄った。消火器が後ろにいた特秘委員会の男の顔に当たり、男はその場に倒れた。さらにその男の身体は、先に床に倒れていたもうひとりの男の身体に折り重なり、潰された男は短いうめき声をあげた。
「柚乃ちゃん。何をしているの。早く逃げて!」
「逃げたいです! でも逃げるより先にやらなきゃいけないことが……」
苺刃はズボンのポケットからメモ紙を取り出した。宮野美穂からはじまり、さくら、葵、そして苺刃にと継がれてきたメッセージが刻まれたしわくちゃの紙片だ。
縛の手が鉄格子のすき間から伸ばされる。縛の小指と苺刃の人差し指が触れた。互いの指先に熱を感じる。そしてその熱とともに、縛はメモ紙を受けとった。
「よかっ――」
次の瞬間、乾いた破裂音が室内に響いた。
間髪入れず、カタカタと小刻みな音が続く。
苺刃は短い悲鳴を上げ、苦痛に顔を歪ませながらその場に崩れ落ちた。
「柚乃ちゃん!」
「鉄格子から離れろ」
白い煙幕の中から男の声が聞こえた。
空気中に巻かれた消火剤が徐々に薄くなっていき、長身の男が現れた。浅黒い肌。顔半分を覆う黒いひげ。カナブンを埋め込んだような緑色の瞳。さくらのほほをはたいたファルークという男がそこにいた。
ファルークは両手でテーザーガンを構えていた。テーザーガンの先端からは既に電極が射出され、それは苺刃の背中に刺さっていた。
「何を……やめて。その子に近づかないで!」
「鉄格子から離れろと言ったんだ。特秘物め。お前もこいつを食らいたいか」
ファルークはサディスティックな笑みを浮かべながら、おもちゃのようにテーザーガンを振ってみせる。
ファルークに続き、銀色タキシードの男たちが室内に流れ込んできた。床に倒れ、気を失った苺刃の身体を持ち上げる。縛は抗議の叫びを何度もあげたが、特秘委員会の男たちは、まるで縛がそこに存在しないかのように反応を示さず、部屋を出て行った。
ただひとり、反応を示したのはファルークだけだ。
「この国のメスは本当に躾がなっていないな」
ライフル弾のように太い親指で、ファルークは自身のくちびるを撫でていた。
「アジア人の女は猿みたいにうるさくて仕方がない。もっとも、おれは動物を調教するのは嫌いじゃないがね。それじゃあ、失礼するよ。このことをラニア様に報告しなければならないので」
ファルークは縛に背中を向け、大きく胸を張りながらドアを出て行った。
「あの、ひとつお伝えしたいことがあります」
縛は丁寧な口調でファルークの背中に語りかけた。
「ほぅ、何かな」
肩越しにふり返り、ファルークは尋ね返す。
縛は不気味と言えるほどの笑みを浮かべながら、口を開いた。
「あんたは、絶対にぶちのめす」
4
2021年 2月 21日 日曜日 17時 45分
「すみません。すみません。もしもし」
コツコツと乾いた音と縛の声が重なっている。鉄格子に分けられた室内で、縛は木製のコップでその鉄格子を叩いていた。
「もしもし。すみません。すみません」
室内には縛以外に誰もいない。ファルークは下卑な笑い声をあげながら部屋を出て行った。数分前の騒動などなかったかのように静まり返った室内に、縛の声と鉄格子を叩く音だけが響きわたっている。
数分後。電子錠がかけられたスライドドアが開き、特秘委員会の構成員が現れた。緑色のバラを胸もとに差すその構成員は、猜疑心と警戒心に満ちた顔で縛を見つめている。床に置かれたままの消火器が足に触れ、びくりと猫のように飛び跳ねる。その手はすぐにテーザーガンに置かれた。消火器を視認した後も手が離れることはなかった。
「すみません。もしもし。すみません」
「お、おとなしくしていろ」
「あの。寒いんです。さっきから、すごく寒い。毛布と、何か厚い服をいただけませんか。この服、生地がけっこー薄いんです」
縛は今も巫女様用の金の刺繍が施された白いローブを羽織っていた。両腕を身体の前で交差させて震えてみせる。特秘委員会の構成員は眉をひそめてみせた。
「……上の者に確認する」
そう言って部屋を出ると、構成員は五分後に三枚の毛布とトレンチコートを持ってきた。
鉄格子越しに毛布とトレンチコートが渡される。トレンチコートの色はベージュで、ハウンド犬のたれ耳のようにだらりと伸びたベルトがついていた。
「あぁ。ありがとうございます。助かります。これでなんとかなりそうです」
縛の感謝の言葉に応じることなく構成員は部屋を出た。廊下に出ると、ため息をつき、パイプ椅子に腰をおろす。
それから十分ほど経ったころのことだ。
眠気を覚え両腕を組みながら舟をこいでいたその構成員は、慌ただしい駆け足の音に目を覚ました。
見ると、同じグリーンローズの階級の構成員が、大失敗に終わった福笑いのように顔を歪めながらこちらに向かってくる。
「中だ。早く中に入れ。確認しろ」
こちらにやってくる構成員は、室内に設置された監視カメラで特秘物の様子をモニターする役目を担っていた者だ。どうやら、監視カメラ越しに異常を発見したらしい。
「あの特秘物、カメラを壊したぞ!」
「壊しただと?」
「あぁ。突然柔軟体操みたいなことを初めて、それが終わったとたん、カメラに飛びついてきた」
パイプ椅子から立ちあがり、電子錠を開けるカードキーをポケットから取り出す。だが慌てていたせいか、カードキーは手から滑り落ち、よく磨かれた床に落ちた。狼狽する精神状態も重なり、薄いカードキーはなかなか拾えない。
「お前、寝てたんじゃないだろうな。中から変な音とかしなかったか」
「ね、寝てなんか……いやそれより。この部屋は防音室になっているんだよ。中の音なんて聞こえるわけないだろ」
やっとのことでカードキーを拾い、電子錠を解除した。ふたりは室内に飛び込んだが、すぐには自身が目にしたものが何なのか理解できなかった。
鉄格子の向こう側、部屋の奥の隅に、陽光色の巨人がいた。巨人は立ち上がり、気怠そうに全身を揺らしている。銀色のタキシードを着たふたりに目をくれる様子もなく、ただ、ゆらりゆらりと上下左右に揺れている。
当然それは巨人などという超自然的な存在ではなかった。巨人の正体はごくごく妥当な自然現象だった。珍しいものではない。地球上のありとあらゆる場所で発生し得る、一般家庭のコンロの上でも起こる自然現象。だがそれは、この場所で起きていい自然現象ではなかった。
陽光色の巨人の正体は炎だった。ベッドやテーブルといった木材、シーツや衣服などを火種に、不完全燃焼の巨大な炎が部屋の隅に発生している。炎は勢いを増していき、白い壁紙を黒く焦がし始めていた。
「すみません。これしか方法が思いつかなかったもので」
炎の前に縛がいた。縛はローブを着ていなかった。下着さえも身に着けていない。乳房も局部も露出しているが、そこに恥じる様子などはない。全身の筋肉は細くしなやかに隆起し、浮き出た血管と全身についた古傷は生命の息吹を強く主張している。古代ギリシャの彫刻のように毅然とした態度で立っているが、なんと靴はしっかり両足に履いており、そのアンバランスな外見はこの奇怪な状況に不思議とマッチしていた。
縛は片手に抱えたローブのポケットからタバコをとりだした。白く短い紙巻タバコ。それを口にくわえ、左手のライターで火をつける。
「な、な、な……」
「ふぅ。あの、早く消火した方がいいんじゃないですか」
紫煙を吐き出してから縛は言った。二本の指で火のついたタバコを挟み、床に転がる消火器を指した。
特秘委員会の構成員は消火器に飛びついた。鉄格子越しにノズルを伸ばし、消火剤を噴射する。だが届かない。炎は部屋の奥隅で燃えており、鉄格子の手前からでは遠すぎるのだ。
「鉄格子を開けないと火は消せません。だけど、特秘物が収められた鉄格子を開けるわけにはいかない」
縛はローブを炎の中に放り投げ新たな火種とした。構成員が悲鳴をあげる。それを見て縛はタバコを口の端にくわえると、年相応のほがらかな微笑みを見せた。
「どうします? わたしは別に建物ごと燃やされてもかまいませんけど」
だがその発言は年不相応に達観的だった。
こうしている間にも炎は徐々に大きくなっていき、ついには天井にまで届くほどの大きさになった。
ふたりの構成員が部屋の外へ飛び出すと、初老の構成員とともに戻って来た。初老の構成員が消火器を手に取り再び消火剤を撒く。当然ながら炎には届かない。無駄だと聞いていながらも、試さずにはいられなかったのだろう。
混乱と焦りが構成員たちの顔中にシワを生み出していた。時間経過とともにそのシワは濃くなっていく。
「……仕方がない。開けるぞ」
初老の構成員がポケットから鍵を取りだした。胸には紫色のバラを挿している。緑のバラを挿すふたりの構成員よりは階級が上らしい。
「おい。よく聞け。今からそっちに行って消火活動を始める。お前はそっち、そっちの隅にいっていろ。変なまねはするなよ。逃げ出そうなんて考えるんじゃないぞ」
初老の構成員が、炎とは反対側の部屋の隅を指さしながら縛に言った。
縛はパタパタと足音を立てながら部屋の隅に移る。初老の構成員が鉄格子のドアのシリンダーに鍵を挿しこむ。グリーンローズの構成員たちは、警棒を構えて縛をにらみつけていた。
鉄格子のドアが開かれた。三人の構成員が、一歩、二歩、三歩と鉄格子の内側に足を踏み入れる。
「ごちそうさまでした」
縛は軽く一礼すると、短くなったタバコを口から取る。そして、歩いた。とことこと足音を立てて。どこに向かって。鉄格子のドアに、ではない。三人の構成員たちに向かって、である。
その歩みは自然だった。水族館で次の展示室に向かうかのように自然体で歩いている。だから三人は咎めることができなかった。慎重な抜き足でもなければ、焦燥に駆られた駆け足でもない。ただの歩行だ。そのふるまいの裏に隠された意志のようなものは見受けられない。それが失敗だった。それが縛の策略だった。縛はいとも簡単に、射程距離に入ってみせた。
「あ」
グリーンローズの構成員が悲鳴をあげた。縛が手にしていたタバコの吸い殻が、警棒を握る彼の手の甲に当てられた。
思わず警棒を握る手を後ろに逃がす。その先に、もうひとりのグリーンローズの顔面があった。
「あ、ぐぁ」
頭を抱え、その場に崩れ落ちる。他のふたりの構成員が声をあげる前に、縛は次の行動に移った。
といっても、特別派手なことをしたわけではない。タバコの吸い殻を、構成員の顔の前に移しただけ。この時になってやっと、グリーンローズの構成員は現状を把握し、恐怖の感情がその思考を支配し始めていた。手の甲に走る痛み。仲間をこの手でぶちのめしたという事実。そしていま、それら負の事態を起因させた、タバコの吸い殻が文字通り目の前に浮かんでいる。反射的に警棒を払う。吸い殻をはじき飛ばそうと警棒を強く振ったわけだ。右から左に払われた警棒の先には、初老の構成員の顔があった。警棒は彼の鼻の頭を鋭く振りぬいた。子ども向けの水鉄砲から放たれたかのような鼻血が宙を舞う。初老の構成員はその場に崩れ落ちた。手にしていた消火器も、ごとりと音を立ててその場に落ちる。
「え、あ、え?」
それで充分だった。ふたりの仲間を気絶させた構成員は、自分がしたことを理解できず、床に転ぶふたりの仲間を呆然と見つめている。彼が我を取り戻すまでには十秒ほどの時間を要するだろう。そう計算し、縛は当然といった様子で目の前の構成員のポケットからカードキーを、それに加えて床に転がる警棒を取り、とことこと鉄格子の方へ向かった。
鉄格子のドアを抜け、その向こうにある部屋のドアにカードキーを当てる。電子音を立てて自動ドアが開いた。ドアの向こうにファルークがいた。嗜虐的な笑みを浮かべ、瞬時に腰のテーザーガンに手を当てた。まるで西部劇のガンマンのような早打ちで、電極を射出した。
縛は右に上体を逸らして電極を避けた。恐ろしいことに、ファルークの判断もまた早かった。テーザーガンに連射機能はない。一度電極を放ったら、カートリッジを交換する必要がある。だからファルークはテーザーガンを手放した。そしてその手で、タキシードの内側からサバイバルナイフを取り出した。
縛の判断もまたまた早かった。後方に下がり、ナイフの射程から距離をとる。だが表情は平然としたものだ。顔だけを見れば、まだ彼女は水族館の中にいた。
「カシミヤの毛布だったのに」
ファルークは部屋の奥の炎を一瞥して言った。
「すみません。少しでも火種になるものが欲しかったので」
「だから服まで燃やしたのか。恥ってものを知らないのか。本当に猿みたいだな。日本人のメスはしつけがなっていない」
「かもしれません。育ちが悪いので。あの、お願いがあるんですが」
「ん?」
「柚乃ちゃんのところまで案内してもらえますか。それで、ここからお暇し――」
ファルークはナイフを突きだした。相手の発話の最中に攻撃に移る。ファルークの行動は妥当と評価されるべきだ。戦闘の最中に言葉を発するなど愚の骨頂。発話とは思考を声にすることであり、それに割かれる脳の出力は相応な量である。発話に気を取られている隙を狙う。コミュニケーションの獣たる人間の弱点をファルークは衝いたわけだ。
だが悲しいかな、蟻の子細工は巨像には通用しないものだ。
縛は警棒を振り下ろした。両膝を軽く曲げ、ほんの数センチだけ身体を横に倒す。直立とは異なり、この態勢を取ることで腕の振りの勢いが増す。つまりは、破壊力が増える。
雷光のような速度の警棒は、ナイフを握るファルークの右手を粉砕した。
ナイフは音を立てて床に転がる。そのかん高い音はファルークの阿鼻叫喚に妨げられた。
褐色の右手は垂直の角度で下を向いている。手首は巨大な瘤のように膨れ上がり、腐敗した桃のような色に変わっていた。
「あの。それで、柚乃ちゃんはどちらに……」
平然とした様子で縛は訊ねた。だがファルークに答える余裕なんてものはなかった。彼はその場に両ひざをつき、無事な左手で右腕を握りながらサイレンのような苦悶の声をしぼり出していた。
自動ドアが開き、数人の構成員が消火器を手に現れた。だが彼らは子どものようにポカンと口を開けるばかりだ。当然だろう。鉄格子の向こうでは火災が起き、炎の手前にはふたりの仲間が倒れ、ひとりは今の自分たちと同じ様に呆然と口を開いている。鉄格子の手前では、ラニア・アッバースの護衛として派遣されたピンクローズのファルークが床に伏して子どものように泣きじゃくっているのだ。さらにそのファルークの前には、特秘物として保管されている女性が全裸の姿でファルークにものを訊ねている。この状況を何と評すればよいのか。端的に言うならばカオスである。
「あの。柚乃ちゃんってどこにいます」
ファルークに答える意志がないと判断した縛は、部屋に来たばかりの構成員たちに訊ねだした。
「え、あ、え?」
「苺刃柚乃ちゃんです。わたしといっしょに、ここに来た女の子。どこかに監禁していますよね。わたし、柚乃ちゃんといっしょにお暇しますので、どなたか案内してくれますか」
「あ、あの女なら二階の倉庫に……」
「よかった。あ、ちょっと待ってください。さすがにこの格好で外に出るのはまずいから。すみません。借ります」
縛は芋虫のように床に転がるファルークに手を伸ばした。その手がファルークのタキシードを脱がしにかかる。無理やり服を脱がされると、それに付随して身体が動く。折れた手首もごりごりと動く。ファルークに抵抗する意志はないようだ。アヒルのような悲鳴を上げ続けながら、為されるがまま、服を脱がされた。
「うーん。上着は……ダサすぎますね。返します」
縛はファルークが着ていたズボンとワイシャツを着始めた。自宅で着替えるかのごとく落ち着いた様子だ。サイズの大きなワイシャツの袖口を手首まで折りたたみ、丈の長いズボンもくるぶしの高さまで折りたたむ。その様子を特秘委員会の構成員たちはただただ見ている。相も変わらず、ぽかんと口を開けたまま。
「それじゃ。どなたか、柚乃ちゃんのところまで案内してくれますか。あ、そっか」
縛はポンと両手を叩き、自身が起こした巨大な炎に目を向けた。
「みなさんはこれから火を消さないといけないんですよね。そうしたら、この方に案内してもらうことにします。手首が折れていたら、消火器は持てませんから」
そう言って縛は再びファルークに手を伸ばした。ファルークが履いているパンツの腰の部分を片手で掴み引きずっていく。パンツのゴムは丈夫らしく、チューインガムのように長く伸びた。
「それじゃあ、失礼します。短い間でしたが、お世話になりました」
縛が出口に近づくと、構成員たちは左右に割れて道をつくった。その道を、ぶかぶかのワイシャツを着た縛と、半裸の状態で苦痛に悶えながら引きずられるファルークが通っていく。
彼らが我を取り戻し、消火活動を始めるまでに、それから五分の時間を要した。
5
2021年 2月 21日 日曜日 18時 02分
重い息を吐きだしながら苺刃は意識をとりもどした。
後頭部にゴリゴリとした痛み。これは固い床に寝かせられているせいだと納得する。背中にズキズキとした痛み。これは何か。身に覚えがない。自身を包む暗闇の中で思案に暮れる。
「あ。そっか」
消火器をふり回しながら縛の元へ駆けつけたことを思い出す。白煙が舞う中で、鉄格子越しに縛に駆け寄り、たしかに渡した。あのメモ紙を渡した。そして、背中に激痛が――
「ふふ」
くちびるの端から笑いがこぼれ落ちた。
すべてを肯定する歓喜の笑い。ベストを尽くしたものだけに許される、充足感に溢れた笑いだ。恐怖は? ないと言えばウソになる。死体安置所のような暗闇に放り込まれ、その放り込んだ相手は、平気で個人を監禁する危険思想に染まった集団だ。充足感の背後に恐怖が見え隠れする。
身体を起こそうとすると、背中に激痛が走る。無理をすれば立ち上がれるかもしれない。だが無理をして何になる。苺刃は一度、半ば監禁された状態からの脱出に成功してみせた。そんな実績をもつ苺刃を再び捕らえたのならば、今度は脱出不可能な部屋に監禁するに決まっている。
室内に窓がある様子はない。足を伸ばした方向から、針の先ほどの細さの白い光が漏れている。ドアとドア枠のすき間から刺しこむ外の光のような気がする。だが苺刃にはそれを確認する気持ちさえなかった。
待つことしかできなかった。次にドアを開けるのが誰であれ、彼女にできることは他者に運命を委ねることだけであった。
ドアノブをひねるのは誰か。世界の安寧を狂ったロジックで保守せんとする異常者集団か。それとも――
「ここね。どうもどうも」
白い光の向こうからそんな声が聞こえた。
「え、なに……鍵? 鍵がかかっているの。じゃあその鍵はどこに。あ、もういいです。時間がもったいない」
衝撃音とともに、室内に刺しこむ白い光が大きく揺れた。衝撃音は一秒と間をおかず繰り返され、白い光も一秒と間をおかず揺れ動く。
「おもったより頑丈。三、二、そりゃ」
ひときわ大きな衝撃音が響きわたる。白く細い光は瞬時に大波のごとく巨大な光にその姿を変えた。その白い光の中にひとりの女性がいた。ノブを蹴飛ばしてドアを開けてみせた縛は、コーヒーショップで待ち合わせの相手を見つけたような気やすさで、うす暗い倉庫に入って来た。
「おまたせ。立てる? 肩貸すね」
縛はひょいと苺刃の腕を肩に回して立たせた。ふたりの顔が紅白まんじゅうのごとく接近する。
「痛いとこある?」
縛が訊ねる。
「背中が……わたし、なにをされたんですか」
「テーザーガン。だいじょうぶ。かたきは討っておいたから。ほら」
縛は廊下の片隅をあごでさした。その先には、ゴムがびろんびろんに伸びたパンツ一枚をはいて床に転がり、子どものように泣きじゃくるファルークの姿があった。ファルークは苺刃を連れて戻ってきた縛を視認し、かん高い悲鳴をあげた。
「曲がってますね。右手が」
「きれいに折ったからね。きれいに治るはずだよ」
「でも、わたし、背中を撃たれたんですよ」
「ん?」
「このひと、背中きれいです。産毛も生えてない。女の子みたいにつるつる。ムカつきます。わたしは、たぶん痕が残るのに」
「そうだね。どうする。ハンムラビる? テーザーガン借りてこよっか」
「いやです。非殺傷武器だから人道的? 非暴力の皮を被った暴力兵器なんて、精神が卑怯です。暴力性という負い目を意識することで、ひとを痛めつけることへの責任感っていうのは生まれるんですよ」
「一理ある。それじゃ、どうする」
「純粋な暴力をお返しします」
苺刃は屈伸をしてしっかりと両足の筋肉をほぐすと、ファルークの背中にPKをお見舞いした。
「満足した?」
屈強な男の泣き叫ぶ声を耳に縛が訊ねる。
「いまいちです。やっぱり、ひとを傷つけるのって気分がわるいですね」
「同感。それじゃ、行こうか。早くしないと、ほう兄が死んじゃう」
苺刃はふたたび縛の肩に腕を回す。いっちに、いっちに、と声をそろえながらふたりは階段を降りていき、正面玄関から堂々と出て行った。
陽が落ちた外は暗く、空にはどんよりとしたぶ厚い雲が天蓋のように広がっている。肌を刺すような鋭く冷たい風が吹いている。外気に触れたとたん、寒気がふたりの全身を包み込んだ。
「ほう兄は、教会にいるんだね」
縛が訊ねる。苺刃は小さくうなずいた。
「みたいですね。急ぎましょう」
「急ぐよ。急ぐけど、教会に行くのはわたしひとり。柚乃ちゃんは村にもどって」
「足手まといだからですか」
苺刃は右頬だけをぷくりと膨らませてみせた。
「ちがう。柚乃ちゃんは、ほう兄といっしょに来た警視庁の刑事さんに、これまでのことを話してきてほしいの」
「なるほど。増援を引き連れて教会にカチコミをかければいいわけですね」
「いや、それはたぶん無理。信憑性の低い情報をもとに、青森県警が乗り込んでくれるとは思えない。警視庁の刑事さんがどんな人なのかは知らないけど、正直、おじさんがひとり乗り込んできたところで、何かが変わるとは思えない」
「じゃあ、どうすれば」
「どうもしなくていいんだって。柚乃ちゃんは背中を撃たれたんだから、ゆっくり休んでて。あ、しいて言うなら」
縛が笑うと、口の両端から白い息がほくほくと漏れ出た。
「わたしを信じて、待っていて」
5
2021年 2月 21日 日曜日 18時 00分
「時間だ」
金砕棒の男は法律の両手に手錠をかけながら言った。手錠を乱暴にひっぱり、しっかりと固定されていることを確認すると、次に壁から伸びる鎖とつながれた手枷を解いた。数時間ぶりに手枷から解放されたが、手錠のせいで『自由』の二文字はやってこない。法律は首を左右に二回ずつ曲げた。
法律は金砕棒の男に三階の廊下まで連れてこられた。途中、黒いローブを身にまとった教団員たちが、声を潜めながら法律に蔑視の視線を投げつけていた。
とある一室の前で金砕棒の男は足を止めた。その巨体に似合わず、スライド式のドアを神経質そうに小さく叩いた。室内側からドアが開き、千来田が顔をのぞかせた。
千来田は無言のまま、中に入るよう視線を動かした。金砕棒の男が法律の背中を乱暴に押す。法律はバランスを崩しながら、部屋に入った。
部屋の中はふらふらと揺れる橙色の光に染められていた。その光源は足元にあった。小皿の上に立てられた蝋燭が、床の上に不規則に置かれているのだ。
そんな幻想じみた光の中で、何よりも目立つのは眼前にそびえ立つ巨大な黒い壁だ。壁。壁。壁。床から天井までそびえ立つ巨大な壁。少なくとも壁であると法律は視認した。だがよく見ると違った。それは壁ではなく、部屋の半分以上の面積を占める立方体の正面であった。その立方体には黒い幕が被せられていた。まず最初に立方体の箱か骨組みのようなものが設置され、その上に黒い幕が敷かれたようだった。
次に法律が知覚したのは臭いだった。室内に立ちこめる腐敗臭と糞尿が混ざりあった臭い。法律は大きく咳き込んだ。まともな人間ならば嫌悪感を表さずにはいられない。そんな臭いが室内に漂っていた。
最後に知覚したのが音だった。目の前の黒い立方体の内側から、ジャラジャラと鎖が床に擦れる音が聞こえる。その金属音をかき消すように、叫び声が放たれた。この世のすべてを嫌悪するかのような重低音。歪なビブラートがかかったその叫びは、長く、短く、高く、低く――法律は思い出した。それは、彼がこの教会に侵入した時に耳にした叫び声だった。
廊下に通じるドアが開いた。黒いローブを着たふたりの教団員が、背中を丸めてよたよたと歩くひとりの女性を連れてきた。
「み、宮野さん……」
法律が驚嘆の声をあげる。連れてこられたのは宮野美穂だった。
教団への裏切りが発覚したのだろう。美穂はいま黒いローブを脱がされ、下着とキャミソール一枚に裸足という痛ましい格好をしていた。
ふたりの教団員は、美穂を金砕棒の男に預けると、一礼をして部屋を去った。
美穂は両手に法律と同じ手錠を嵌められていた。恐怖と疲労感が入り混じった表情をしており、両目の下には涙の轍が長く伸びていた。
「恒河沙さん。ごめんなさい。わたし……」
「謝るのはぼくの方です」
法律は苦々しくくちびるを噛みしめた。
「聞いたよ。きみはこの女をたぶらかしたそうだね」
椅子に座りながらぶ厚い本を読んでいるモントゴメリーが、視線を本に落としたまま言った。
「なんでも村の警察に助けを求めたそうだが……」
美穂は自分が真夜中に教会を抜け出した理由を話してしまったらしい。だが助けを求める相手については吐露しなかったようだ。もしくは、美穂の告白を教団員たちが信じなかったのかもしれない。警察を差し置いて、あの『巫女様』に助けを求めるなんて、馬鹿げている。
モントゴメリーは本を勢いよく閉じると、すっくと立ちあがった。
「まったくもって無駄なことを。日本警察には本国の聖ブリグダ教団が圧力をかけている。明確な事件性がなければ、この聖なる家に警察が踏み入ることは許されない。令状なしに君を助けに来るわけがないだろ。」
モントゴメリーは腹を抱えてケラケラと笑い出した。その横で千来田も腕を組みながら、鼻を鳴らしてみせる。
「宮野さんをどうするつもりですか」
「心配する必要はない。きみといっしょだよ。彼女もまた、化身様の慈悲を享受する。それだけだ」
「止めてください。宮野さんはぼくに命令されただけ。何も悪くない」
「残念だが彼女の魂はきみのせいで汚された。その魂を浄化するためには、やはり調和の儀式を受けるしかないのだよ。さて。間もなく時間だ」
モントゴメリーの明瞭な声が室内に響く。
「調和の儀式は容易ではあるが、それを軽んじてはいけない。化身様の怒りを早急に治めねば、一時的な次元は消滅しかねない。探偵さん。わたしはあなたが羨ましい。あなたはわれわれよりも一足早く、あらわなる次元を訪ねることになる。ブリグダ神の身体の一部たる化身様とひとつになることで、あなたは特異的にこの偽りの世を去り、この世界の真実の姿に触れることが可能となるのです」
「よくわかりません。学がないもので」
法律が苦笑しながら首をかしげる。口調に焦りの色はない。そんな法律の態度が気に入らなかったのか、モントゴメリーの左のほほはヒクヒクと引きつっていた。
「ずいぶんと余裕そうじゃないか。拷問の痛みで頭がおかしくなってしまったのかな」
「そういうわけではありませんが。あの、いいですか。交渉です。ぼくを解放してください。そうでないと、モントゴメリーさん、あなた大変な目にあいますよ」
「またその戯言か。くだらない。そんな脅しに乗るわたしではない。他に何か言っておきたいことはあるかな、ミスター恒河沙。ふむ。ではそろそろ始めるとしよう」
モントゴメリーが指を弾くと、金砕棒の男が、黒い幕を引いた。
幕の裏側には、巨大なケージが置かれていた。
四方と天井には金網が張り巡らされ、床には銅色の鉄板が敷き詰められている。
ケージの中のそれを見て、美穂は悲鳴をあげた。
黒く丸みを帯びた物体が、ケージの奥の方に落ちている。法律は最初、ケージの中にダンプカーのタイヤが横たわっているのかと思った。だがそのタイヤには太く長い鎖が付いていた。鎖の先は、反対側のケージの壁面まで伸びており、金網に巻き付き、南京錠で固定されていた。
問い。鎖とは何のためにある。
答え。行動を制限するためである。
問い。行動をするものとは何か。
答え。それは生命体である。
そこにあったのは、ダンプカーのタイヤではない。
そこにいたのは、巨大な犬だった。
鼻の先から尻尾の付け根までで、裕に一・五メートルは越すだろう巨体だ。全身はごわついた漆黒の長毛に覆われ、中でもあご先まで伸びた巨大な垂れ耳と、曲剣の先端のようなカーブを描き天井を向く大きな鼻の周りと目元が際立って黒い。上を向く鼻に引かれるように上あごも上部に伸びており、口は常に半開きだ。その口の内側から、腐りかけた桃のような色をした舌をだらりと垂らしている。両目は激しく充血し、ケージの外側にいる人間たちをにらみつけていた。
「あぁ、化身様。おやすみのところ申し訳ありません」
モントゴメリーは大仰に両手を広げながら、巨大な犬に向かって膝をついた。その後ろで千来田と、法律と美穂の肩を掴んだ金砕棒の男も膝をついた。金砕棒の男に強く肩を押しこまれ、ふたりは勢いそのままに床の上に倒れた。
「これより調和の儀式を執り行う。執行者はこのわたし、スターⅡ、黄金星、フランシス・モントゴメリー。ぃえ ぃえ ごるでぇっしゅと はぐどばだ。ぉるぇ ぉるぇ ごるでぃっしゅと はぐどばだ」
千来田と金砕棒の男も呪文を続けた。ぃえ ぃえ ごるでぇっしゅと はぐどばだ。ぉるぇ ぉるぇ ごるでぃっしゅと はぐどばだ。
千来田がケージのドアにかかった南京錠に金色の鍵をさしこむ。カチリという音とともに南京錠が外されると、ケージの中の巨犬は俊敏に立ち上がった。上半身を低く伏せ、牙を露出しながら、低音の太鼓のようなうなり声をあげる。
ドアが開かれ、手錠を付けた法律と美穂がケージの中に押し込まれる。巨犬は耳をつんざかんばかりの咆哮を放ちながら、法律と美穂に飛びついてきた。
美穂が悲鳴をあげてその場にしゃがむ。法律は美穂をかばうように前に出た。だが巨犬はあと一歩というところでその動きを止めた。巨犬の首輪から伸びる鎖は、反対側の法律たちに襲いかかるには長さが足りなかった。ガツリガツリと力強く引かれた鎖が金網と擦れて音を立てる。
「ははは。どうだい。美しいと思わないかい。化身様とは、ブリグダ神の身体の一部がこの一時的な次元に顕在化されたもの。化身様はブリグダ神であり、化身様とひとつになるということは、ブリグダ神とひとつになることに等しい。あぁ、きみたちが羨ましい。きみたちは救われるんだ。ブリグダ神とひとつになり、この一時的な次元を去ることができるんだ」
美酒に酔いしれたような表情でモントゴメリーは笑った。
「それで、この化身様はどちらからいらしたのですか」
法律が訊ねた。当の化身様は、低いうなり声をあげながら、自身を縛る鎖を箒のように太い前足でかきむしっている。
「化身様は、わたしが見つけて保護させていただきました」
千来田が前に進み出て得意げに言った。巨犬は千来田の方に鼻を向け、一度大きく吠えた。
「岩木山で化身様と思わしきお方が捕獲されたとのうわさを聞き、わたしが直々にそのお姿を確認にうかがいました。化身様は……その巨体を小さな檻の中に閉じ込められ、自らの責務――一時的な次元の救済を妨げられ怒り狂っておられました」
「岩木山ですか。なるほど」
クツクツとのどを鳴らして法律は笑う。バカにしたようなその姿に、千来田は不快感を顔いっぱいに広げた。
「何がおかしいのですか」
「この子、闘犬ですね」
「え?」
「闘犬です。二頭の土佐犬を土俵の中に入れて戦わせるスポーツですよ。青森は全国でも有数の闘犬大国で、今でも弘前市は闘犬の大会が行われているそうですよ」
「そ、そうです。それは本当です」
この中で唯の一青森県出身である美穂が言った。
「毎年、闘犬の大会があるとテレビでニュースになります。そう、まさにこの子みたいな大きな犬が、嚙みつき合って……」
「鼻の周りと目元が濃い黒色をしているのは土佐犬の特徴です。ただ土佐犬の体長は一メートル程度ですが、この子は裕に一メートル以上あります。恐らく、この子は闘犬に勝つために人為的に生み出されたミックス犬ではないでしょうか。土佐犬にしては長すぎる耳、長い毛。土佐犬を超える大型犬と言ったら、間違いない、セントバーナードだ。この子は土佐犬とセントバーナードのミックスですよ。ただし、セントバーナードは心優しい性格をしているので、争いごとには不向きです。戦うために生み出されたのに、その性格のせいで闘犬には向かず、飼い主に愛されず、捨てられ、自分を苦しめた人間を恨みながら、凶暴化し、弘前市のそばにある岩木山で暮らしていたのではないですか」
「な、なにを。化身様がただの雑種犬だと言うのか」
千来田は声を荒げて、ケージの中の法律と美穂に歩み寄った。
「この無礼者が。貴様のようなやからは……」
「よい。千来田、下がれ」
モントゴメリーは愉快そうな笑みを浮かべながら千来田の肩を叩いた。
「これはわたしたちの失態だ。わたしたちがきちんとブリグダ神の聖なる教えを彼らに啓蒙していれば、このような誤解が生じることはなかったのだ。彼らを責めるな。教団員としての自分の未熟さを責めたまえ。もっとも――」
モントゴメリーは金網越しに法律をにらみつけ、小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「化身様であろうと雑種犬であろうと、きみたちの運命に変わりはない。化身様は、人間の肉の味を知っている。新鮮な肉ともなれば、喜んでむしゃぶりつくに違いないよ。もういいだろう。鎖を外せ!」
金砕棒の男が、ケージの裏側に向かう。巨犬を縛る鎖を解くのだろう。
美穂はいま一度悲鳴をあげてうずくまった。その姿を見ながら、モントゴメリーと千来田はサディスティックな笑みを浮かべている。彼らの口は高速でつぶやいていた。ぃえ ぃえ ごるでぇっしゅと はぐどばだ。ぉるぇ ぉるぇ ごるでぃっしゅと はぐどばだ。
場に走る緊張感に感応したのか、巨犬は何度も吠えながらその場をグルグルと周り始めた。巨犬の動きに釣られて、首に繋がれた鎖もざらざらと蛇のように地面を擦れる。
「宮野さん」
法律が背後でうずくまる美穂に声をかける。
「縛にメッセージは伝わったのでしょうか」
「わ、わかりません」
美穂は顔面を涙で濡らしながら答えた。
「どこにいらっしゃるのか分からなくて、直接お伝えすることはできませんでした。わたしはただ、娘に……さくらに、縛さんに伝えてくれと頼んだだけで」
「さくらちゃんに。なるほど。それならきっと大丈夫だ」
法律は力強くうなずいた。
「娘さんは意志の強い女の子です。あの子が動いてくれたなら、だいじょうぶです」
金砕棒の男が、巨犬の鎖を固定する南京錠に鍵を挿しこんだ。
その時、部屋のドアが乱暴に開け放たれた。
そこにいたのは恒河沙縛だった。両手には何も持たず、ズボンの裾とワイシャツの袖を何重にもめくりあげた恒河沙縛が、憮然とした表情で部屋に入ってきた。
6
2021年 2月 21日 日曜日 18時 25分
「これはこれは。巫女様のご帰還だ!」
モントゴメリ―は壊れたおもちゃのように激しく両手を叩いてみせた。
「どうやってここまで。部下たちはいったい何をしているのですか」
千来田はブロンドヘアーに指を絡ませながらくちびるを噛んでいる。
「調和の儀式、か」
縛はため息をひとつ漏らし、首をふった。
「外にいた教団員に教えてもらった。なにかお題目を並べているそうだけど、結局は自分で手を汚す勇気がないから、化身様に代わりに手を汚してもらっているだけでしょう」
「何とでも言うがいい。裏切者の言葉など、真理に満ちたりたわれらの魂には響かぬわ」
モントゴメリーの手がローブの内側に潜り、拳銃を握り戻ってきた。銃口が素早く縛に向けられる。
「聞いたよ。そこにいる男はきみのお兄さんなんだってね。すばらしい。実の兄が浄化される様を、特等席から見物するといい」
「提案」
縛は兎の耳のようにピンと手をあげた。
「聖ブリグダ教団が誰よりも恨んでいるのは、巫女様であるわたしでしょう。それなら、ふたりの代わりにわたしがそのケージの中に入る。だから、ふたりを助けてあげて」
「なにを偉そうに。そのような提案を受け入れるわけが……」
「よかろう!」
千来田の苦言をモントゴメリーが遮った。
「自らの命を犠牲に兄を助けるとは。その家族愛に、この黄金星、涙が止まりませんな。よかろう、よかろう。千来田、ドアを開けてやれ」
千来田は不満気な表情のまま、ケージのドアを開けた。モントゴメリーは、最初に縛をケージに入らせ、次に法律と美穂に外に出るよう言った。その間、モントゴメリーの銃口はしっかりと縛を狙っていた。
「しいちゃん。ごめん」
すれ違いざま、弱気な口ぶりで法律は言った。
「こんなつもりじゃなかった。しいちゃんは『恒河沙』から離れて、自由な生活を送っていたのに……ぼくのせいで、こんな目にあわせて」
「ほう兄、それはちがうよ。わたしはだいじょうぶ」
『え?』と伏せていた顔を上げた時、法律はモントゴメリーに腕を乱暴に掴まれケージの外に引きずり出された。そして室内に悲鳴が響きわたった。モントゴメリーは法律の後ろに続いていた美穂を蹴飛ばし、ケージの中に戻したのだ。
千来田が素早くケージのドアを施錠する。外に出られると思っていた美穂は、恐怖に引きつった顔で金網のドアにへばりついた。
「助けて!」
「残念でしたなぁ、巫女様」
モントゴメリーは下卑た声をあげた。
「わたしが許したのは、お兄様とあなたの交換だけ。人間の命の価値は平等です。あなたひとりで、ふたり分の命を助けられるわけがないでしょう。おっと、動くなよぉ!」
法律の後頭部にモントゴメリーの拳銃が押しつけられる。
「いい席だろう? この会場で一番のSS席だ。よく見ろ。自分の命は救われて、代わりに実の妹が無惨に食い殺される様を見とどけるんだ」
モントゴメリーは法律の髪をつかみ、頭を金網に押しつけた。法律は『こんなはずじゃ』とつぶやく。
「調和の儀式の始まりだ。ぃえ ぃえ ごるでぇっしゅと はぐどばだ。化身様を放て!」
モントゴメリーの合図と共に、金砕棒の男が、巨犬の鎖を固定していた南京錠を解錠した。
巨犬は自身が解き放たれたことを理解し、弾丸のように駆けだした。その牙の先には縛がいた。二本の足でカカシのように立つ縛がいた。縛の背後で、美穂が恐怖に引きつった顔を背けている。
「わたしはだいじょうぶ」
縛は言った。
「わたしは、汚れる覚悟ができている」
巨犬の身体と縛の身体が重なる。次の瞬間、つんざくような悲鳴が飛び散った。
モントゴメリーの顔に醜悪な笑みが浮かぶ。だがその笑みは瞬時に凍りついた。悲鳴を発したのは縛ではなかった。巨犬だった。巨犬は頭を上に向け、背中から床に落ちた。
腰に納めた真剣を抜刀した侍のように、縛はその場に立っていた。ただ、彼女が抜いたのは刀ではない。肘だった。右腕を折り曲げ、射出される砲弾のごとき勢いで、巨犬の顔面を振りぬいたのだった。
プロレスでいうエルボー。端から見ると、なんとも芝居的だ。本気で攻撃するなら、ボクシングのように握り拳を突きだすか、ムエタイのように足技を仕掛けるべきだと批判されるかもしれない。
だがこと実戦という場において、エルボーは意外にも理に適っている攻撃なのである。
握り拳など論外である。ボクシングのようにグローブが優しく包み込んでくれるならともかく、生物の身体を素手で殴りつければ、関節だらけで筋肉の少ない手はいともたやすく骨折する。
ではキックはどうか。人間は二足歩行の生物のため、足の筋肉は腕のそれよりも何倍も発達していると聞く。
主張に誤りはない。だからこそ誤っている。人間にとって二本の足は行動のための主要な器官である。そのため、そこに傷を負うわけにはいかない。高々と突き出した蹴り足に相手が差しだしたナイフが突き刺されば、それだけで格闘能力は著しく低下する。仮に相手を倒せたとしても、その衝撃で少しでも足に異常が発生したら、その後の行動への影響は甚大なものになる。なんと言っても、二本の足は行動のための主要な器官なのだから。
ひるがえってエルボーはどうか。折り曲げた上腕に走る衝撃は決して軽視できるものではない。だが、腕の筋肉のなかでもひときわ太い上腕二頭筋を鍛え上げておけば、衝撃を吸収し被害を軽くしてくれる。キックのところで為された批判もエルボーは容易にいなしてみせる。仮にカウンターをくらい、格闘能力が低下したとしても、少なくとも二本の足はまだ活きている。逃げることはできるのだ。『逃げる』の意味をどう捉えてもかまわない。戦いの放棄かもしれないし、相手との距離を取ることかもしれない。大事なことは、相手に追撃をさせないこと。カウンターを受けた際、エルボーにはそれができるのだ。
縛の脳裏にこんな批評が交わされたのかは知るよしもない。だが事実として彼女の選択肢はエルボーだった。この瞬間、迫りくる牙を撃退するために放たれたのが、腰の回転と共に放たれたエルボーだった。
背中から落ちた巨犬は、くるりと身をひるがえすと、雷鳴のような咳を吐き出した。顎のあたりが痙攣している。ダメージを負っているのは確実だったが、その目にはまだ闘志の火が灯っていた。
巨犬はぐるりとその場で一度周回して自分のリズムを作ると、再び縛に襲いかかった。この犬もまた学習したらしい。先のように飛びかかるのではなく、今度は地に足をつけて潜り込むように向かってくる。狙いは下半身だった。首を横に傾け、口を大きく開き縛の右足を狙っている。
そんな巨犬に、縛は頭上から倒れこむように覆いかぶさった。レスリングの『がぶり』のような姿勢だ。巨犬の腹部を両腕で抱え込むように掴み、左の太ももを巨犬の顔の上に乗せている。
その体勢のまま、二匹は崩れ落ちた。巨犬の顔が、床と縛の太ももの間で激しく動いている。顔だけではない。巨犬はその大きな身体を陸に打ち上げられた魚のように激しく動かしている。だが抜けない。縛の拘束から逃れることはできない。縛は重心を左側に傾け、しっかりと腰を落としていた。巨犬が叫ぶ。憤怒に染まった両の目がごろりごろりと動き回る。
「人間は動物には勝てません」
法律がつぶやいた。モントゴメリーは驚嘆に大きく口を開けたまま、法律のその言葉を聞き流していた。
「猫に腕をひっかかれれば、それだけで人間は逃げ出します。正面からハトが飛んで来れば、慌てて両腕を突きだして身体を庇う。道端で出くわしたドブネズミにさえ、噛みつかれるのではと恐れてしまう」
――しかし――と法律は続ける。
「現実として、それら動物と人間にはフィジカル面で大きな差があります。人間が本気で蹴れば、猫はサッカーボールのように吹き飛ぶでしょう。ハトを頭突きで迎撃すれば、嘴は衝撃で粉砕される。ドブネズミは……なんてことない。足の裏で踏みつければおしまいです。そう。人間は強い。それなのに、人間は動物を恐れる。何故なら、人間は他者を傷つけることを根本的に嫌うからです。秩序もなく、殺し殺され得る自然社会に嫌気がさし、人間は社会という秩序を作り出しました。社会という枠組みの中では、他者への攻撃――自然社会への回帰――はご法度であり強く罰せられます。社会的生物として生まれ変わった人間は、他者を傷つけることを好まない。必要に駆られてそれを為した時、著しいストレスを感じる生物に進化したのです」
縛は巨犬の身体に密着したまま手を伸ばした。二本の腕で巨犬の後ろ左足を掴む。巨犬は何かを察知したのか、輪をかけて激しく抵抗した。だが逃げられない。縛の身体の下でただただ体力を消耗していくばかりだ。
右手で巨犬の足の先をつかみ、左の肘を下腿部に押し付ける。その間には、足根――いわゆる、足首があった。
躊躇いの様子はなかった。顔色を変えることもなく、無表情のまま、縛は足の先を掴む右手を強引に押し込んだ。巨犬の足首の可動域とは反対の方へ。
「あ」
千来田の口から乾いた声が漏れた。その声は、巨犬の悲鳴にかき消された。
巨犬の後ろ左脚の先が尻尾の方に――曲がってはいけない方に曲がっていた。だらりと、見る者に嫌悪感を覚えさせずにはいられない、そんな様子で折れ曲がっていた。
「け、化身様が……」
モントゴメリーは鉄網をつかみ、大きく目を見開いた。くちびるがわななき、カタカタと白い歯が震えている。
縛は巨犬から身体を浮かした。巨犬はその隙を見逃さなかった。押しつけられていた首がほんの少しだけ自由になったその瞬間、大きく首を曲げて、縛の左太ももに噛みついた。
だがダメージは大したものではなかった。その要因は三つある。
ひとつは、縛の身体の下で巨犬の体力が著しく奪われていたこと。その噛みつきは、初撃で巨犬が見せた、飛びついてからのかみつきに比べれば、子犬の甘噛み程度の威力でしかなかった。
ふたつめの要因はズボンだ。縛のズボンは寒冷地での着用が可能なタキシードである。ぶ厚い生地は防弾ベストのように縛の肌を守ってくれた。
そして三つ目の要因は、縛の肉体だ。縛の鍛え上げられた大腿筋は、それ自体に常人を超えた防御力を備えている。並みの人間の太ももであれば巨犬の牙が喰いこんでいたかもしれない。だが巨犬にとっては残念なことに、この相手は、並みの人間をはるかに凌駕する肉体の持ち主であった。
縛の行動は早かった。噛まれた左脚を振り払い、その脚を巨犬の首に絡ませた。
左膝の裏側に巨犬の首が収まる。巨犬が顔を抜こうとする。だが抜けない。縛は上半身と左腕で巨犬の背中を押さえつけており、巨犬は身体を動かすことはできなかった。
縛の右手が巨犬の首を捕らえた左足のつま先を背中越しに掴む。その手が、車のハンドルのように輪になった左足を絞り上げた。巨犬は大きく口を開き悲鳴をあげ始めた。何度も何度も悲鳴をあげる。その悲鳴は徐々に小さくなっていく。やがて、悲鳴に代わりその口から白い泡が吹きだす。そして最後に、泡に代わり、だらりと黒い舌がこぼれ落ちた。
「あの子は、そうなるように作られたのです」
悔いるように法律が言った。
「ふつうの人間は、暴力に抵抗感を覚えます。だけどあの子は、必要に駆られたら、そのリミッターをいともたやすく解除してみせる。恒河沙縛は覚悟のひとです。あの子は子どもの頃から、他者を傷つける存在になることを覚悟している。自身が必要と判断したら、社会性を、人間性を捨てて暴力に走ってみせる。それが恒河沙縛なのです」
「おまえたちは……」
モントゴメリーがくちびるを強く噛みしめる。赤い鮮血が滴り落ち、彼の黒いローブにシミをつくった。
「おまえたちはいったい、何者なんだ」
「言いませんでしたっけ。探偵ですよ。ぼくたちはただの探偵です」
縛は立ち上がると、無言のままケージの入り口に向かった。ケージのドアは南京錠で施錠されている。縛はドアを蹴った。金網がきしみ、無機物の悲鳴がこだまする。縛は蹴った。何度も、何度も、容赦なくドアを蹴飛ばした。裕に十の回数を超えた頃、南京錠を固定していた掛け金が吹き飛び、ドアは開いた。
「さ、行こう」
縛は傍らで座り込む美穂に手を伸ばした。美穂は一度だけ躊躇いを見せたが、すぐに大きく頷き、その手を取って立ち上がった。
「お待たせ、ほう兄」
縛はヘラヘラと笑ってみせる。だが法律は傷心した様子で、頼りなく首をふってみせた。
「しぃちゃん。ごめん。ぼくはこんなことをさせたくなかった。しぃちゃんは探偵だ。暴力なんて、探偵の仕事じゃない。ぼくはあの男たちとは、きみを作りあげた男たちとは違うんだ。今度はきみを、まともな探偵に育て上げようと、そう思って――」
「それなら、わたしは探偵じゃなくてもいい」
縛は空いている手で、法律の手を取った。
「探偵じゃなくてもいいから、そばにいさせて。ほう兄にも、みんなにもできないことをするのがわたしの仕事。ほう兄たちを守るのがわたしの仕事。言ったでしょう。わたしは、汚れる覚悟ができている」
縛は両手で法律と美穂の手を握り、部屋の入り口に向かった。
「け、けしんさまがぁぁぁぁぁ!」
黒板をかきむしったような悲鳴が轟いた。その声は千来田の喉の奥から発せられていた。
千来田はケージの中に駆け込むと、巨犬の亡骸の前で頭を伏せて泣き始めた。
「ま、待て。おい、そいつらを逃がすな!」
千来田の悲鳴で我を取り戻したのか、モントゴメリーは金砕棒の男に向かってつばを飛ばした。その手には拳銃を持っているというのに、自分の手で縛を止めるという発想には至らなかったらしい。
金砕棒の男は部屋のドアの前で縛に立ちふさがった。キャッチャーミットのように大きな両手を重ねて、ぽきぽきと骨を鳴らしている。
「犬一匹を殺した程度で粋がるんじゃねえぞ」
「別に、そんなつもりないけど」
「いいか。おれは人間を殺したことがあるんだ。二年前、東京のとあるプロレス団体にいたおれは、試合中の事故を装って、気に喰わない先輩レスラーを殺したんだ。相手が気絶していることに気づかないフリをして、受け身の取れない姿勢のままバックドロップでぶん投げた。まぁそのせいでプロレス界からは追放されちまったがな」
金砕棒の男は胸を張り、大きく鼻を鳴らした。だが縛は、法律と美穂の手を掴んだままこくりと首をかしげた。
「それだけ?」
「……なに」
「たったひとり殺しただけなの?」
縛の問いかけに、金砕棒の男は困惑の表情を浮かべた。縛の反応は予想外だったのだろう。たいていの者は男の話を聞けば、震えあがり畏縮する。それなのに、まるで縛は、そんなものは珍しくもないとばかりに――
「同類かと思ったけど、違ったみたい」
両手が塞がっていた縛は、飛び上がり、金砕棒の男のあごに片膝を叩きこんだ。
男の巨体は、爆破解体されたビルのように崩れ落ちた。全身を痙攣させながら、冷たい床に転がる。
三人は金砕棒の男をまたぎ、部屋を出て行った。
「お、おい。待て。誰か。誰かいないか」
モントゴメリーはうわずった声をあげながら三人の後を追って部屋を出た。そして彼は、縛がこの部屋に来た時に千来田が口にした疑問を思い出した。
『どうやってここまで? 部下たちはいったい何をしているのですか』
教会内には何人もの教団員がいる。彼らに気づかれず、三階のこの部屋まで来るなど不可能だ。
その答えが廊下にあった。その答えはいくつも転がっていた。
廊下にはうずくまる黒い塊がいくつも落ちていた。それらはすべて、痛みのうめき声をあげる教団員たちの姿だった。
なんてことはない。縛は、邪魔をする教団員たちをねじ伏せながら、この部屋まで来たのだった。