第十章 メモ紙リレー(あるいは破戒)
1
2021年 2月 20日 土曜日 21時 30分
白い部屋の中には、パラパラと紙をめくる音と時おり漏れ出す微笑だけが満ちていた。
ベージュ色のベッドから起き上がると、苺刃柚乃はテーブルに置かれたドラえもん七巻に手を伸ばした。表紙には首をかしげて笑うドラえもんと、その周りを駆けまわる色とりどりの小さなドラえもんたちが描かれている。
苺刃がこの小さな部屋に閉じ込められてから二時間以上が経過していた。この間、この部屋に生じた変化といえば、四十八冊に及ぶドラえもんのコミックスと夕食が届けられたことぐらいだ。夕食は完全栄養食のパンが三つ。ぼそぼそとした食感のこのパンを、苺刃は部屋の隅に置かれたペットボトルの水で胃に流し込んだ。
苺刃にとって自身の精神が落ちついていることは意外なことだった。睡眠薬を盛られ、この小さな一室に監禁されているというのに、心の中に焦りのようなものはない。とはいえ、この状況を打開する希望があるのかといえば、そんなものもない。なんとかなるだろうの精神をもちながら、苺刃は直近の目標にドラえもん全巻読破を掲げることにした。
外から誰かがドアを叩いた。現れたのは、梶谷葵だった。
葵の顔には疲れの色が見えた。肌には脂が浮き、背中を少し丸めている。頭に巻いたヒジャブはゆるみ、ほほと首の間にすき間ができていた。
「少し、お話ししましょうか」
葵はテーブルに着くと、首筋を片手で揉み始めた。
「尋問ですか」
苺刃はベッドに腰を下ろしたまま対応する。同じ席に着くつもりはなかった。
葵は深く息を吐きだすと、頭を左右に振った。
「ごめんなさい。正直に言うと、気持ちを落ちつかせたくて来たの。この建物の中は、どこにいっても同僚の目があるから気の抜けた姿を見られるわけにはいかない。でもここなら、この部屋だけが唯一の例外。ここにいるのはあなただけだから。あなた、祈年祭の事件のことは聞いた?」
「事件?」
苺刃はまだ岩城が毒殺されたことを聞いていなかった。強化の儀式が終わったあと、聖ブリグダ教団に追いかけられ、神社裏の林から特秘委員会青森支部まで直行し、そして睡眠薬を飲まされたのだ。事件のことを耳にする余裕など、苺刃と縛にはなかった。
葵は事件のことを苺刃に話した。トリカブトが入った粥を食べて岩城が亡くなったこと。また、同じく粥を食べた他の四人は病院に搬送されたが無事だったことも。
「その中に、わのおど……お父さんとおじいちゃんがいてね。もしかしたらふたりも死んじゃうんじゃないかと思ったら、怖くて、冷静でいられなくて」
「ドラえもんを持ってきてくれた時は冷静そうでしたけどね」
「内心では心臓がバクバクだった。家にマンガを取りにいったら誰もいなくて、もしお父さんとおじいちゃんが死んじゃったら、子どもの頃から住んでいるこの家は空っぽになっちゃう。そう思うと、ね」
葵はテーブルに肘をつき、両手で顔を覆った。そのままの姿勢で動かない。彫刻のようにジッとしたまま。そうやって、自分の気持ちと向き合っているのだろう。
苺刃はベッドから立ち、部屋の隅に置かれた水のペットボトルを一本取った。
「睡眠薬は入ってないよ」
そのペットボトルを葵に差し出す。葵はおとなしく受けとり、キャップをひねった。ひと口で半分以上を飲み干し、『ふぅ』と大きく声を漏らす。
「ねぇ。あなたたち、何者なの。あなたと、例の巫女様。どうして、この村に来たの」
「正直に申しますと。あのひとは探偵で、わたしは警察官です。ということで、今すぐ解放してください。国家権力に楯突くべきではありませんよ」
「……はは」
葵はけらけらと笑い出した。年相応に、かん高い声をあげて腹を抱える。苺刃はその姿をぽかんと口を開けて見つめていた。
「あーおかしい。あの子が探偵で、あなたが警察官? まさかそんな。それじゃあ何、あなたは警察官だってのに、聖ブリグダ教団の信者のマネをしていたの。信じられない。警察官がそんなことをするわけないでしょう」
言われて『なるほど』と苺刃は膝を打った。自分にとっては事実であるのだが、第三者の立場から見ればずいぶんと馬鹿げた事実である。
「ふふ。それじゃあおまわりさん。お伺いしたいんだけど、殺人事件の犯人は誰。岩城さんを毒殺したのは誰なの」
「意地悪な質問ですね。岩城さんという方が殺されたとわたしが知ったのは、つい数十秒前。ほかならぬあなたから教えていただいたんですよ。犯人が誰かなんてわかるわけありません」
「それじゃ、火曜日の事件は。拝殿前で菅原さんを殺したのは誰なの」
深夜、白山神社の拝殿前で菅原久は何者かに刺殺された。この事件には大きな謎がひとつ残っている。第一発見者が現場に足を踏み入れるまで、現場には被害者のもの以外の足跡がなかったのだ。いや、正確にはひとりぶんの足跡はあった。御人形様だ。無数の藁で形成された御人形様の脚が作り出した、ひっかき傷のような足跡は現場に残されていた。
「犯人は御人形様ではないのですか」
ばかげている。そう思いながらも、苺刃は言った。
「御人形様には、菅原さんの返り血がついていたんですよね。だから犯人は御人形様。そういうことじゃないんですか」
苺刃は冗談のつもりで言ったが、葵は目を細めて神妙にうなずいた。
「たしかに、あの人形が菅原さんを殺すのはおかしなことじゃない。菅原さんは、わたしたち特秘委員会に親しくしていた。つまり、人形の中のジンは菅原さんを目の敵にしていたとしてもおかしくないからね」
「では、警察は今すぐ御人形様を逮捕するべきだと」
「そうは思わない。実は事件が起きたあと、白山神社のジナテリウムを計測したの。もしジンが顕在化して動いたとしたら、神社中にジナテリウムが蔓延していたはず。だけど、ジナテリウムの数値に大きな変化はなかった。あの夜ジンが目覚めて人形を動かしたという事実はあり得ない」
「では。御人形様は犯人ではないと」
「直接手を下さず、配下の人間にやらせた可能性はあるけどね。その方が自然かな。人形の中から、自分を崇拝する聖ブリグダ教団にテレパシーで指示を送り、殺人を行わせる。悪のジンにふさわしい所業でしょ」
「でも、聖ブリグダ教団のひとが犯人なら、そのひとは普通の人間でしょう。普通の人間が、足跡を残さず雪の上を出入りするなんてできません」
「なにか魔術を使ったのかも」
「まじゅちゅ」
またトンチンカンな言葉が出てきたものだと苺刃は呆れる。リアリティを求めてドラえもんの世界に戻りたいとさえ願った。
「悪のジンの力を借りれば可能でしょ。どう。あなたが警察官だというなら、犯人は誰と睨んでいるの。どの教団員が犯人なの?」
「わたしがこの村に来たのはつい昨日のことです。事件が起きた時はこの村にはいなかったんですよ。事件の情報なら、事件当日この村にいたあなたの方が詳しいかもしれない」
「悪いけど、わたしも何も知らないの。月曜の夜から火曜の朝まで、徹夜で作業をしていたから。その後は、事件が起きているなんて知らずに仮眠室でぐっすり……あ」
葵は小さく口を開けたまま、何もない宙をまばたきもせず凝視した。『どうかしました』と苺刃が声をかけるが、その返事をするまでたっぷり十秒の間を要した。
「ごめんなさい。ちょっと、仕事のことで思い出したことが。事件とは関係がないから」
「関係がないにしても、目の前でそんな態度を取られたら気になります。守秘義務を遵守する程度に教えてください」
「本当に大したことじゃないんだけど。事件が起こる日の一日前に、蓮下さんに頼まれて、特秘物を管理する部屋を用意したの」
菅原久が殺害されたのは、二月十六日火曜日の午前一時~二時頃だ。特秘委員会の蓮下が葵にこの急用を頼んだのは、十五日月曜日の午後六時ごろだったという。
「『緊急でひとつ特秘物が搬入されることになった』って、それで徹夜で特秘物を保管する部屋を用意したんだけど、結局あの部屋、何も入ってないままになっているの。せっかく徹夜で仕事をしたのに。どうなったんだろ。あとで蓮下さんに聞いてみなくちゃ」
2
2021年 2月 20日 土曜日 23時 18分
聖ブリグダ教団の信者たちは、山の上にある元廃校舎の教会に寝泊まりしている。
信者の多くは青森県の外部から千来田イヴリンの招集を受けて参上した。残りのメンバーは、教団の活動に共鳴し、門戸を下った留守部村の村人たちだ。
いわゆる新参者である留守部村の信者たちも教会での寝泊まりを強いられている。だが入団後、聖ブリグダ神への信心が十分に深まったと責任者(この留守部村の教会においては千来田)に認められれば、外泊許可書を提出することで、教会の外で一夜を過ごすことが許される。
だがこれも、翌朝六時から始まる朝の祈祷の時間には教会に戻ればいけないので、多くの信者は外に泊まることなく教会に泊まっている。祈年祭があったこの日も、外泊許可書を提出する者はいなかった。つまりは、教団に所属する者は皆、教会で一夜を過ごすこととなっていた。しかし――
暗闇の中をいくつかの寝息が飛び交っている。就寝時刻の二十二時から一時間以上が経ち、小さなベッドが並ぶ寝室で休む女性信者たちは、皆夢の世界に旅立ったようだった。
だがひとりだけ例外がいた。その例外は音を立てぬようベッドから降りると、寝室を抜け出した。
廊下にひと気がないことを確認すると、宮野美穂は足音を立てぬよう注意しながら廊下を進んだ。
美穂が聖ブリグダ教団に入団したのはほんのふた月前だ。彼女はまだ教会の外に出ることは許可されておらず、他の教団員が教会の外で活動に励むのを尻目に、教会内での修行――その実態は掃除、洗濯、炊事といった仕事がほとんど――に励んでいた。
美穂と同時期に入団した教団員は既に教会の外に出ることが許されていた。『どうして自分は』とポロリと言葉を漏らすと、千来田は、まだ美穂には聖ブリグダ神への信心が足りていないと説明した。
さくらに会いたい。家に置いてきた娘が心配だから会わせて欲しいと伝えると、教団員たちは村に出てさくらの様子を見てきてくれるようになった。また、さくらに教団に入らないかと勧誘もしているらしい。自分が教団に入ると伝えた時、さくらは強く拒絶した。娘が教団に入るとは思えなかった。だが、親子二人で黒いローブに身をまとうのは、美穂にとって魅力的に思われた。少なくとも、恒河沙法律に会うまでは。
恒河沙法律は、自分を助けられるのは妹だけだと言った。美穂の役目はその妹、恒河沙縛に助けを求めることだ。だが、どうやって。
スマートフォンは教会に入った際に取り上げられた。教会内の固定電話は、階級の高い教団員の許可がなければ使えない。この教会の中から外部に連絡をとることは、美穂には不可能だった。
だから、逃げ出す。教会の外に出る。村に降り、なんとかして恒河沙縛を見つける。強化の儀式が失敗に終わり、一転して教団の仇敵になった巫女様がどこにいるのかは分からない。既に村を出たかもしれない。縛に出会える可能性は低い。それでも、教会を出なければその低い可能性にたどり着くことさえできないのだ。
だが、どこから出ればいい。
就寝時刻から一時間以上が経過して、教会内にひと気はなくなった。とはいえ、皆が皆、おとなしく眠りについているとは思えない。千来田やモントゴメリーのような幹部クラスの教団員は仕事をしているかもしれない。さらには法律が捕まる部屋の前には、この罪人を監視する金砕棒の男(もしくは彼の交代員)が仁王立ちの姿勢でドアを見つめているに違いない。
とにかく。夜中だから誰にも見られるはずはないなどと、楽観視するわけにはいかなかった。誰にも見つからずに教会を出る。一階の窓を開けて出ればいいが、この教会の廊下には窓がなく、窓はすべて部屋の中にある。美穂は自分の寝室の窓から外に出るつもりだった。眠っている同室の信者たちを起こさぬよう細心の注意を払わなければならない。
一階の他の部屋から出る方法も考えたが、どうもそれは難しそうだ。男性信者向けの寝室には入るわけにはいかない。勉強会を行う教室、教団員の食事を用意する炊事室、そして食堂。どれも夜間には施錠されている。今の今まで美穂はこの事実について何とも思わなかったが、これは教団員が無人の部屋から逃げ出すのを防ぐ処置なのかもしれない。
美穂は昇降口に向かった。外は雪が積もっており、美穂が履いている安物の革靴では心もとない。昇降口には備品の長靴が置いてある。それを拝借するつもりだった。
壁のように大きな下駄箱が列になって並び、その奥に外にでる両開きのドアがある。このドアにも他の部屋の窓と同じく黒い幕が張られている。ドアは不届きものが入ってこないよう二十四時間施錠されている。内側から鍵を開け、外に出ることもできるわけだが、逆に外側から施錠することはできない。解錠されたままのドアが発見されてしまえば、何者かが逃げ出したとして大事になってしまう。ここから外に出ることはできなかった。
壁際に長靴が収められた棚がある。心臓の鼓動が早くなる。そっと速足で向かい、長靴を取って部屋にもどり、窓から外に出る。それだけだ。何も難しいことはない。不安を抱くな。行け。今がチャンスだ。そうやって自分を鼓舞して、美穂はローブの裾をつかみ、一歩を踏み出し――
「おいこら」
男の野太い声が美穂の背中を叩いた。
凍りついたように立ちすくむ美穂の背後から、ひとりの教団員が現れた。フードの下から、浅黒いシミが点々と浮き出た丸顔が美穂をにらみつけている。トイレに行っていたのか、水滴が滴り落ちる手をローブにこすりつけている。
男の視線が美穂から昇降口のドアの方へと向かう。男の顔はいっそう険しくなった。
「消灯時刻は過ぎている。ベッドから抜け出して、何をしている」
「あ、あの」
「おれは見張りをしているんだ。不届きものが外から入ってこないようにな」
男はあごで昇降口の隅の方を指した。そこにはマンガ雑誌が置かれた小さなパイプ椅子と、だるまストーブが置いてあった。
「それでお前は。何をしている」
「音がしたんです。トイレに行こうと部屋を出たら、何かを叩く音が聞こえたんです。たぶん、そこの出入り口のドアかと思って」
しどろもどろに美穂は答えた。男はのそのそと進むと、外に通じるドアを開けた。もちろんそこにあるのは真夜中の冷気と暗がりばかりだ。男はふり返り、猜疑心に満ちた目で美穂を見つめる。
「勘違いだったみたいですね。どうもすみませんでした」
美穂は深く一礼してから廊下を戻っていった。背中に男の視線を強く感じる。一刻も早く駆けだしてその視線から逃れたいと思った。
結局、長靴は手に入らなかった。寝室のベッドにもどった美穂は、暗がりの中で自身が履いている革靴をなでた。合革の頼りない厚みの革靴だ。こんなものを履いて雪道を進むなんて馬鹿げている。だが、素足で挑む方がもっと馬鹿げているだろう。仕方なしに、美穂は革靴のまま窓へ向かった。
室内の皆がしっかりと眠っていることを確認してから、幕の内側に手を入れて鍵を開ける。そろそろと、音を立てぬよう気をつけながら窓を開ける。身体を窓と幕の内側にすべり込ませる。窓枠に手を置き、力を入れて身体を上げて窓を飛び越えた。
着地の際に左足の革靴が脱げ、靴下のまま足元に広がる雪を踏んでしまった。足の裏を駆け抜ける冷気に美穂は声をあげそうになった。
音を立てぬよう窓を外側から閉める。深く白い息を吐き、その場にしゃがみこむ。目の前には雪に覆われた校庭が広がっている。だがその雪景色は夜の暗闇に覆われて、うっすらと見える程度だ。外灯のようなものはここにはない。空には厚い雲がかかり、星々のきらめきを覆い隠していた。
美穂は正面に広がる暗闇から原初的な恐怖を感じた。黒いローブの下で心臓が強く脈打っている。心臓は訴えかけていた。引き返せ。あの男を救う義理なんてない。中に戻り、朝になるまでベッドで大人しくしているんだ。
だが美穂は歩き出した。暗闇の中、数歩進んだだけで、革靴の中に雪が入り込んできた。ものの数分で足先の感覚がなくなってきた。何度も滑って、雪の上に手をついた。教会から村へ降りていく坂道では、何度も転んで尻もちをついた。手はかじかみ、拳を握りしめてもその感覚はなかった。
それでも美穂は進み続けた。荒い息を吐きながら進み続けた。自分を残して人類は絶滅してしまったのではないかと錯覚するほど静かな暗闇の中を、そして――
3
2021年 2月 21日 日曜日 00時 28分
夜になったら早く寝なさい。でないと鬼がやってくるよ。
さくらは母のそんな言葉を思い出しながら寝返りをうった。右足の先がふとんの外に出る。暖房のない室内の冷気が右足を突き刺した。
この孤独を埋め合わせてくれるなら鬼でもよい。誰かがこの場に現れてくれれば、自分はきっと笑顔になれるだろう 。
今日、またひとが死んだ。
祈年祭に参加していたさくらの前で、毒入りの粥を食べた岩城は、のたうち回り、最後には祭壇に倒れこみその生涯を終えた。
その後さくらは家に帰り、食事もせずにひとり家の台所でうなだれ、気づいたら和室に敷いたふとんの中にいた。
一週間でふたりの人間が死んだ。
この村で何が起きているのだろう。
いったい、この村はどうなってしまうのだろう。
さくらは窓を叩く音を聞いた。その音に心臓は氷の矢で貫かれたかのように、跳ね上がった。
窓の外に誰かがいる。二枚のガラスを重ねた防寒用の窓の外からくぐもった声が聞こえる。縛はふとんから這い出て、恐る恐る窓に近づいた。カーテンを少しだけ開き、そのすき間から窓をのぞきこむ。そこにいたのは――
「うそ……」
縛は二枚のガラス窓を勢いよく開けた。頼りない外灯の光に照らされる、母の姿がそこにあった。
数秒間、親子は言葉もなくただ見つめ合った。美穂がそっと手を差しだす。さくらはその手を掴み返す。冷たかった。その手は冷たかった。それなのに温かかった。
どこかの家の屋根から、どさりと雪の塊が落ちる音がした。その音に驚き、ふたりは同時に飛びあがった。
「その。とりあえず、玄関を開けてくれる?」
美穂は玄関に入ると、框の上に腰を降ろし、疲労に包まれた身体を横たえた。
「ストーブを点けるから、居間に行こう」
そう言って居間の方へ身体を向けたさくらの腕を美穂は掴んだ。
「さくら。恒河沙縛さんは今どこにいるの」
「どこにって……」
さくらは頭の上に疑問符を浮かべた。縛の居場所は、山の上にある聖ブリグダ教団の教会ではないのか。彼女はそこで巫女として歓待されていると聞いている。
「質問の意味がわからない。お母さん、教団を抜けてきたんでしょう。もう教団のことなんか忘れてさ、この村から逃げようよ。わたし、もういや。今日もひとが死んだんだよ。祈年祭で岩城さんが死んだの。わたし、お祭りに参加していたの。わたしの目の前で岩城さんが……」
「わかった。この村を出ましょう。だけど、その前にやらなきゃいけないことがある。お母さんはあのひとを助けなきゃいけない。そのためには、恒河沙縛さんを探さないといけないの」
美穂は教会での顛末を話した。法律が監禁されたこと。明日の夜には処刑されること。そして、彼を救い出せるのは、恒河沙縛ただひとりであることを。
さくらは呆然とした様子で美穂の話を聞いていた。さくらの手が、ポケットの中のスマートフォンに伸びる。美穂はポケットの上にすばやく手を重ねた。
「警察はだめ」
「だけど!」
「恒河沙さん自身がだめだって言ったの。青森県警は証拠もなく動くことはできない。それに、下手に動けばあのモントゴメリーという男は処刑を早めるかもしれない」
「だけど……縛さんは、ただの女性なんだよ。たったひとりで、どうやって助けるっていうの」
「わからない。だけど、恒河沙さんがそう言った以上、わたしにできるのは縛さんに助けを求めることだけ。さくら、縛さんは今どこにいるの。あなた、あのひとによくしてもらったんでしょう」
「ちょっとまって。だって、縛さんは……教団に入ったんでしょ。『巫女様』の正体が恒河沙縛さんだって、お母さんは知らないの。あのひとは今も、教会にいるんじゃないの」
「ちがうの。あのひとは祈年祭と同時に行われた強化の儀式に失敗して、偽物の巫女であることが発覚したの。教団のひとたちは巫女様……縛さんを捕まえようとしたけど、すんでのところで逃げられたそうよ」
「そう、だったの。そんなことがあったなんて知らなかった。だけど、縛さんがどこに行ったかなんて、わたし知らない」
「やっぱり、もう村を出たのかしら。教団に追われて、この村に残るわけがないものね」
美穂の考えは妥当だった。だがさくらには、その考えにどこか引っかかるところを覚えた。
何が引っかかるのだろう。さくらは縛のことを考えた。二日にも満たない、短い間しかいっしょに過ごしていないというのに、いったい彼女の何がわかるというのか。
いや、わかることはある。ニワトリの卵が丸いように、降り積もった雪の色が白いように、長い時間をかけずとも知り得る明確な特徴というものが縛にもあったのではないか。
「お母さんが教会から逃げる決心をしたのは、縛さんのおかげじゃない」
ぽつりとさくらは言った。
「お母さんは、お兄さんのほうの恒河沙さんの言葉を受けて教会から出てきた。縛さんはお母さんが教会から出てきたことを今も知らないはず」
「それは、まぁそうでしょう」
「だとしたら縛さんはまだこの村にいるはず。少なくとも、近くにはいる。だって、村から逃げることは、わたしのお願いを放棄することになるでしょ。わたしはあのひとの命を助けた。少なくとも縛さんはそう思っている。それで、わたしはあのひとにお母さんを連れもどしてほしいと頼んだ。その結果、あの人は教会に乗り込んで、『巫女様』なんて役目を押しつけられながらも、お母さんと接触しようとその役目を果たしたの。ねぇ。すごい責任感だと思わない。一宿一飯のお礼のためにできることじゃない。縛さんには強い責任感がある。たぶんあのひとは、今もまだ、お母さんを教会から連れ出したいと考えている。だから、きっとこの村のどこかにいるはずだよ」
「そう。そうかもね。いや、もうそうだと信じるしかない。さくら、お願い。明日の十八時までに、縛さんを見つけて。お兄さんのことを伝えて、何とかして教会まで来てもらうの」
「わかった。やってみる。お母さんはしばらく家にいて。教団のひとに見つかったら大変なことになるでしょ」
「お母さんは教会にもどるわ」
「どうして!」
さくらが声を張りあげる。だが美穂は娘の手を取り、小さく首を左右にふった。そんな彼女の目には、強い意志の光が灯っていた。
「教団は恒河沙さんに更なる拷問を加えるかもしれない。そんなことが起きたら、お母さんは恒河沙さんを守らなきゃならない。大丈夫。必ずこの家に……いえ。さくらのもとに戻ってくるから」
納得できないのか、さくらはうつむき、くちびるを噛みしめていた。やがてその顔は強い意志の光と共に上を向き、美穂に大きくうなずいた。
「帰ってきたら、話しましょう。互いに思っていることを、たくさん話しましょう」
「それもいいけど、わたしお母さんのあれが食べたい」
「あれ?」
「春巻き。このまえ、ひとりで作ったけど、上手くできなかった。具が飛び出るし、まる焦げになるし」
「わかった。作ってあげる。お腹いっぱいになるまで、もう食べられないって言うまで作ってあげる。約束する」
美穂はさくらのひたいに自分のひたいを合わせた。冷たくも温かい熱が互いに伝わる。さくらの目から涙がこぼれた。冷たくも温かい涙が、美穂の手の上に落ちる。
「……かなえてくれた」
さくらが言った。
「縛さんはわたしの願いをかなえてくれた。本当に、かなえてくれた」
美穂は玄関に置かれた古い長靴を履くと、名残惜しさを感じながら家を後にした。
村を横切り、坂道を登り、息を切らしながら美穂は教会にもどってきた。
雪面の向こうに構える教会は、黒い陰を覆いながらひっそりとたたずんでいる。建物それ自体が眠りにつく巨大な生き物のようで、今からその中に戻ろうとする美穂の胸中には、不気味な感覚が走った。
自分が脱走したことが露見していないことを期待しながら、美穂は寝室の窓の下まで戻った。窓に手を触れ、そっとずらす。窓は開いた。ゆっくりと、音を立てないよう気をつけながら窓を開けていく。長靴は坂道の上から崖下に向かって投げすてた。大丈夫。証拠はない。静かにベッドにもどり、朝までおとなしくしていればいいのだ。
室内の様子をうかがう。ひとの声はしない。教団員のいびきが聞こえるばかりだ。美穂は窓枠に両手を置き、勢いよく身体を持ち上げた。
その時、何者かが美穂の右足を掴み、勢いよく引っ張った。
美穂はこめかみのあたりを、窓枠に打ち付けた。両手が窓枠から離れる。雪に覆われた地面に身体が落ちていく。
悲鳴をあげる余裕もなかった。美穂は右足を掴まれたまま、雪の上に這いつくばっていた。
何か温かい液体が美穂の右目のあたりを通りすぎて行った。嗅覚がその液体の正体を教えてくれた。鉄のにおい。血だ。こめかみから流れ出た血が、顔をつたって落ちているのだ。
痛みはこめかみだけでなく、雪の上に打ちつけられた全身に走っている。もちろん、骨が折れんばかりに強く握られた右足にも。
美穂は顔を動かして、自分の足を掴む相手を見た。金砕棒の男だった。男の後ろには、ランタンを手に嫌悪感をあらわにした表情で美穂を見つめる千来田と、ローブの上から両腕を組んで楽しそうに笑うモントゴメリーの姿があった。
4
2021年 2月 21日 日曜日 05時 48分
窓から差し込む朝焼けの光の中、さくらはキッチンの椅子に座っていた。
美穂が家を出た後、さくらは一睡もせずに縛の行方について考えていた。候補はいくつか上がった。夜が明けたら、即座に行動に移る。さくらは母のクローゼットから拝借した黒いジャンパーを、学校指定のジャージの上に羽織っていた。
時刻は間もなく六時を回るところ。焼いていない食パンにピーナッツバターを塗りたくり、二枚を重ねて一気に食べる。空腹というわけではない。いや、夕食以来何も口にしていないのだから空腹ではあると思うが、緊張と焦燥が空腹を打ち消していた。それでもさくらは分かっていた。行動するためにはエネルギーが必要だ。ピーナッツバターと食パン二枚の摂取カロリーはそこそこな量だろう。
さくらは洗面所で歯をみがいてから家をでた。冷気に包まれた留守部村に出ると、吐く息は例外なく白く可視化される。道路の脇によけられた雪に沿ってさくらは歩きはじめる。まず最初に向かったのは、白山神社だった。
四脚門を通り、境内に入る。つい昨日、殺人事件が起きたばかりの場所ではあるが、現場検証は既に終えたらしく警察の姿は既にない。ただし、祈年祭が催されていた広場の手前――つまり殺人現場は、複数のカラーコーンと黄色いバーが置かれ区画されていた。
本殿前で菅原久が刺殺され、拝殿前では岩城秀二が毒殺された。
この神社は死に溢れている。なんとも不吉な場所だ。神社とはその名の通り神域ではないのか。神聖なる力はこの村の平穏を守ってくれはしないのか。
恨むべきか、非力な神を。蔑むべきか、非科学の社を。
すべての神事を『無意味』の三文字で一蹴して、『合理性』という新たな神を奉るべきだろうか。
違う。こんなのは気の迷いだ。さくらは固く目をつぶり、次に大きく見開いて拝殿を見た。透き通った空気の中、もの言わぬ拝殿はただそこに座してさくらを見つめていた。
さくらは考えた。神がいるとかいないとか、難しいことは分からない。だけど、神は自分の生活の中にたしかにいる。生活とは日常であり、昨日であり、明日であり、今日である。神は自分の毎日のなかにいる。それは一種の現象だ。殺人事件も同じ。それは日常の中に突然に現れた現象に過ぎない。ふたつの異なる現象が自分の生活に存在する。片方が発生した原因をもう片方に求めることはできない。それらは互いに、独立して存在する。
恨みはしない、非力な神を。
蔑むものか、非科学の社を。
自分がこの神社に求めるものは何か。それは世を統べる神秘的な力でなければ、形骸化した信仰の拠り所でもない。
ただ、背中を押して欲しいのだ。
勇気を出して一歩を踏み出さなければならない時。そんな臆病な自分の背中を優しく押してくれる力。
さくらがこの白山神社に求めるのは『その程度』のものだった。『その程度』でありながら、何とも頼もしい力ではないか。この神社にはそんな力があると、さくらは強く信じていた。
カラーコーンの前でさくらは遠くの本殿を見つめた。距離はある。ある意味ではそうだ。同時に、距離はない。またある意味ではそうだ。だから近づく必要はない。この場で十分だ。二礼二拍手一礼。さくらは白山神社に背を向けて去っていった。
さくらには算段があった。彼女は既に縛の居場所に目星がついていた。
前提として、縛は聖ブリグダ教団の追跡から逃れた。これは事実だ。法律は妹に代わって処刑されるというのだから、縛が本当は聖ブリグダ教団の元にいるとしたら、法律が捕まり処刑される道理がない。
そして彼女はまだこの村にいる。これはさくらの推測だ。だがこの推測には自信があった。縛は自らに課した責任を途中で投げ出すことはしない。
そして推測をもうひとつ付け加える。もし縛が無事ならば、彼女はきっとさくらに連絡をとるはずだ。
『もし自分が教団から追放されたことをさくらが知ったら、さくらは、自分が仕事を放棄したと思うかもしれない』。縛はそんな可能性に至るだろう。例えば新橋の家のような、籐藤が寝泊まりしている安全な場所にいるならば、縛は自分に『まだあきらめていない』と連絡をくれるはずだ。
だがそんな連絡は一切ない。
これはつまり、縛はさくらの期待を裏切ったということなのか。命の危険を感じ、そもそも自分には無関係だからと村から逃げ出したのだろうか。
さくらの脳裏にそんな発想は一片たりともなかった。
縛はまだこの村にいる。この村の、さくらに連絡をとることができない場所にいるのだ。
そんな場所はひとつしかないではないか。
「恒河沙縛さんに会わせてください」
特秘委員会青森支部の正面玄関前で、さくらは大きく声を張りあげた。
その声が向けられた対象は、名指しで呼び出された梶谷葵だった。葵は眉間にシワを寄せ、後ろに組んだ両手でタキシードを強く握りしめていた。正面玄関前で守衛の任に就いているふたりの銀色タキシードは無表情でそっぽを向いている。葵にはその白々しい態度が憎たらしく思えた。
「さくらちゃん。なんの話かわからない」
「とぼけないでください。縛さんはここにいるんでしょう。葵さんたちは縛さんを……教団の『巫女様』を捕まえた。特秘委員会にとっては、教団の内情を知り得る貴重な情報源だから。ちがいますか」
「ちがうよ。ぜんぜんちがう」
さくらは間違っている。恒河沙縛はさくらの言うような目的で捕えられたのではない。彼女は特秘物だ。この世の災厄をもたらしかねない危険な物質。だから特秘委員会で管理するのだ。そんな真意を葵はグッと飲み込んだ。
「お願いです。ねぇ、昔はよくいっしょに遊んでくれたでしょう。村でふたりだけの女の子だからって。頼れるのは葵さんだけなんです。お願いします。縛さんに……縛さんに会わせてください」
縛は葵にすがりついて懇願した。タキシードを両手で掴み、繰り返し声を張りあげて、頭を下げる。
「さっきからうるさいな」
自動ドアが開き、建物の中から男が現れた。空を貫かんばかりの高身長。肌は浅黒く、顔半分を黒いひげで覆っている。カナブンを埋め込んだような緑色の瞳。アラビア系のほりの深い顔立ち。例に違わず銀色タキシードに身を包み、その旨にはピンクのバラが咲いている。
「も、もうしわけありません。ファルーク様」
葵は深々と頭を下げた。
「この子、その、知り合なんです、わたしの。村の子で、わたしに用事があって来ただけで。あの、すぐに帰らせますから」
葵はさくらを自分の背中に隠すように立ち位置を変えた。その口調からは恐怖心がひしひしと感じられた。
ファルークと呼ばれた男はあごひげを葉巻のように太い指でいじりながら、のそりのそりと葵に近づいた。
さくらが葵の背中から前に出た。震える手を背中に隠して、一度小さく深呼吸をする。葵が何か注意の声をかけたが、さくらの耳には届かない。さくらは高身長のファルークの顔を見上げて口を開いた。
「恒河沙縛さんに会わ――」
最後まで言うことはできなかった。ファルークの手がさくらの頬を叩いた。
ファルークにとってはハエを払う程度の力加減だったのだろう。だがさくらはコンクリートの地面に倒れこみ、短い悲鳴をあげた。
「……日本語で、なんだったかな」
ファルークはかすかに動いた胸元のバラの位置を調整しながら言った。
「そう。『クソガキ』だ。おいクソガキ。ここは子どもの遊び場じゃないんだ。二度とここに来るんじゃない。わかったな」
ファルークは足元に唾を吐き、建物の中に戻っていった。自動ドアが閉まりきる前にファルークは悪趣味な笑みを浮かべて、大きな声で言った。
「親の顔が見てみたいもんだ」
さくらは立ち上がり、ファルークの後を追おうと駆け出した。だが葵とふたりの守衛がさくらの身体を捕まえた。
「帰って。さくらちゃん。あなたをここに入れるわけにはいかない」
「いやです。縛さんに会わせて。わたしは。だって、そうしないと。いるんでしょう。ここに。お願いです」
「さくらちゃん……」
「だったらせめて、手紙だけでも、お願いします」
さくらはポケットからメモ帳とボールペンを取り出した。殴り書きで一枚のメモ紙に記していく。
「本当に縛さんがいないなら、構いません。この紙は捨ててください」
メモ紙を二つ折りにして葵に差し出す。
「だけど、いるなら。縛さんにわたしてください」
葵は右手を伸ばすが、その手でメモ紙を受けとるか逡巡した。怖かった。さくらの瞳には強い意志が宿っていた。それが怖かった。このメモ紙を受けとったが最後、自分は何か抗えない何かにのみこまれてしまうのではないか。そんな気がして。
だがしかし、葵はさくらの瞳の輝きにどこか惹かれるものを感じていた。どうして自分は特秘委員会に入ったのだろう。田舎者で何もない自分に『特別』を与えてくれると思ったから?
それでどうだ。今の自分は『特別』か。銀色のタキシードを着て、頭にヒジャブを巻きつけて、それだけだ。それだけで自分は何も変わってないのではないか。自分は何になりたかったのか。本当に自分がなりたかったのは? 欲しかったのは? さくらの瞳に宿る意志。意志の光。それが?
気がつくと葵の手はメモ紙を掴んでいた。さくらは深く頭を下げ、赤く腫れた頬に触れながら去っていった。
葵はメモ紙を掴んだ手を見つめた。二枚に折られたメモ紙が、風に吹かれて手の中でかすかに揺れていた。
5
2021年 2月 21日 日曜日 08時 55分
「やらかしたな」
厚いかけ布団に包まれた籐藤は、他人の家の天井を見つめながら重苦しい息を吐いた。
新橋には法律の失踪について気にしていない体を見せたが、本心はそうではなかったらしい。昨夜は早めに布団に入ったのだが、なかなか眠気は訪れず、結局三時過ぎまで籐藤は布団のなかで眠れぬ夜を過ごしていた。そのせいもあって、籐藤が目を覚ましたころには太陽は既に空に高く上がっていた。カーテンを引くと、大きな雲の間を縫って太陽の光が籐藤の眼球を突き刺した。
家に新橋がいる気配はなかった。日曜日ではあるが、今日は診療所で書類仕事を済ませると言っていたことを籐藤は思い出す。
着替えを済まして家を出る。冷気に包まれた町は日曜の朝だというのに静まり返っている。ところせましと走りまわる子どもの姿なんてものはない。
少子高齢化が叫ばれる現代日本ではあるが、東京で子どもの姿をまったく見ない日なんてものは滅多にない。だがこの村ではそれが日常だ。この村で最も若い村人は高校二年生の宮野さくらだ。
日本という国家の未来が留守部村にはある。
少子高齢化がこのまま進めば、東京においても子どもを見ない日は珍しくなくなるだろう。次なる世代が生まれない社会集団に未来なんてものはない。この先細りの現象が行き着く先は集団の消失、日本という国家の消滅だ。
日本はこの危機をどうやって回避するのだろう。人工的に生み出した生命に人権を与えて国家の一員として迎えてはどうか。そんな提案を居酒屋でとなりの席の大学生たちが話していたことを思い出す。笑い話だ。笑い話で終わればいいのだが。
籐藤は昨夜のうちに病院から帰ってきたという梶谷親子の家を訪ねることにした。
おやしろ通りを南に進むと、ひときわ広い敷地に二階建ての一軒家が建っている。紺色の瓦屋根が張られた和風の建築。建付けが悪いのか、ハイエースが通るとその振動で雨樋が大きく揺れた。
「あ、刑事さん。おはようございます」
籐藤は後ろから声をかけられた。
ふり向くと、梶谷泰造がビニール袋を両手に抱えていた。車から降りてきたところらしく、泰造の後方に自動シャッターが降りていく車庫があった。
「おはようございます。ご無事でなによりです」
「わたしも父もぴんぴんしています。昨日はろくな食事もとれなかったせいか、朝からハイカロリーなものを食べたいと父がワガママを言いましてね。コンビニでカップ麺と弁当を買ってきたところです」
「それはよかった。村長さんは家の中に?」
「えぇ。父は膝にリウマチを患ってましてね。人前では平気そうにふるまっていますけど、実際は車に乗り降りするのも辛いみたいで」
「昨日のことでお話を伺いたいのですが、お邪魔しても?」
泰造は快諾し、ふたりで家に入った。玄関の壁に木製の手すりが伸びていた。古びた家の中でこの手すりだけが小ぎれいでどことなく浮いている。父が脚の痛みに苦しむ様を見て、元大工の泰造が一年前に取りつけたらしい。
客間に入ると、どてら姿の梶谷源造が出てきた。籐藤の姿を見ると、歓待の声を漏らしながら、ヤギの角のように突き出た寝ぐせに手ぐしを通し始めた。
「いやしかし参りましたよ。菅原くんに続いて岩城くんまで殺されるとは」
源造は両足を大きく開いてソファーに座り、ほほをふくらませた。その後ろでは息子の泰造が腕を組みながらガラス棚に寄りかかりうなずいている。
「捜査の進捗はどうです。犯人の目星はついているのですか」
「何とも言えませんね。菅原さんも岩城さんも不可解な状況で殺害されています。捜査にはまだ時間がかかるでしょう」
身体が沈み込んでしまいそうなほど柔らかいソファーに座りながら籐藤が言った。もっとも、籐藤は青森県警の捜査に関与していないので、盛田たちがどの程度事件を解明しているのかは知りようがないのだが。
「そうですか。一刻も早い解決を願いますよ。しかし、これで管理組合も四人になっちまった」
「江竜さん大久保さん、それからおふたりの四人ですね。そうだ、江竜さんと大久保さんの様態は?」
「わと同じで身体の方は問題ないけど、精神的に辛いみたいだね。なんといっても、幼なじみがふたりも亡くなったわけだから」
「父を除く管理組合の五人は全員幼なじみなんです。中でも菅原と岩城のふたりはリーダー格でしたので、船頭を失った気分ですよ」
泰造が首筋を引っかきながら言った。村長の息子というポジションでありながら、その性格のせいか船頭にはなるつもりはないらしい。
「刑事さん。これはオフレコでお聞きしたいのですが」
源造が顔中のシワを際立たせて前のめりになる。
「今回の事件に、聖ブリグダ教団と特秘委員会が関わっていると思われますか」
「質問の意図をお聞きしても?」
籐藤は少しばかり意地の悪い質問で返した。それを理解してか、源造はほほを少し上げてシワの数を増やした。
「知っているでしょう。菅原くんは特秘委員会と親しく、岩城くんは聖ブリグダ教団と親しかった。四月に御人形様の譲渡先を決める投票が管理組合で行われるが、ふたりは互いに親しくしている団体に投票するつもりだった。聖ブリグダ教団にとっては菅原くんが邪魔者で、特秘委員会にとっては岩城くんが邪魔者だったわけです」」
「菅原さんを殺したのが聖ブリグダ教団で、岩城さんを殺したのが特秘委員会だと?」
源造は人さし指を口もとに当てた。
「そんな物騒なこと口にしちゃいけない。ただ、ふたりが死んで利益を得るのは誰かと考えると」
「江竜と大久保のふたりは昨日から怯えていますよ」
泰造が口をはさむ。
「殺されたふたりほどではないにしても、江竜は教団と、大久保は特秘委員会と親しくしていましたからね」
「菅原さんの場合はともかく、岩城さんは狙って殺されたわけではありません。岩城さんはたまたま毒入りの粥を食べたため死んだのです。敢えて言わせていただきますが、あなただって、お父様だって殺される可能性はあったわけですよ」
「五人のうち二人が聖ブリグダ教団と親しかった。特秘委員会は五分の二の確率に賭けたのでは」
「馬鹿げています。五十パーセントを下回る成功率で殺人を?」
「捕まらないと確信しているなら、やるでしょう」
「ですが、五人のうちひとりは、特秘委員会と親しい大久保さんですよ」
「教団と親しい人間に当たる確率よりは低い」
「常軌を逸した犯人像ですね」
「刑事さん。殺人に至る人間はみな常軌を逸しているのでは」
泰造の意見は妥当に思われた。籐藤は閉じた口の中で唸り声を発した。
「被害者に共通するのは、村の管理組合の一員であることと、対立する団体に肩入れをしていたという点です。包み隠さずお答えください。おふたりは、聖ブリグダ教団または特秘委員会と懇意にされていますか」
「わたしたちは他の四人と異なり、フェアな立場にあります」
泰造は両眼を細めて籐藤を軽くにらみつけた。東京にいる時は毎日のように浴びせられる視線だ。被疑者からも、同僚からさえも。
「本当のところはわかりませんからね。先の確率の話も信憑性を増す可能性があります。つまり、おふたりが聖ブリグダ教団と親しいならば、確率は五分の四になるわけですから」
「刑事さん。誓って言いますが、わたしも息子も、聖ブリグダ教団はもちろん特秘委員会にも与しておりません。というのも、われわれがどちらかと親しくすれば、我が家は崩壊するからです」
源造がそう言った時、客室のドアが勢いよく開いた。
革張りのソファーや木製の棚といった一般的なインテリアの中には、何ともミスマッチな黒いローブ姿の男が現れた。ドーナツをかじり、肉づきのよい頬を揺らしながら客間に入ってくる。
「おとちゃん。昨日、わの……あ、あれ?」
部屋に入ってきたのは梶谷桐人だった。
桐人は籐藤の姿を見るや、見るからに狼狽した様子で、部屋の外に出ようとした。
「こら、桐人。刑事さんに挨拶をせんか」
源造が家主らしく張りのある声を発する。
桐人はドアノブに伸ばした手を止め、いたずらを見つかった犬のように顔をしかめながら籐藤の方を見た。
「…………」
桐人の口から、何か言葉が漏れ出る。だがその声は小さく籐藤には聞きとれなかった。籐藤は『おじゃましています』とつつがない返事をした。
「教会にもどるのか」
源造が訊ねる。桐人は子どものようにうなずいた。
「そうか。もし家に泊まるなら連絡しなさい。食事の都合もあるからな」
「あ、あと……」
蚊の鳴くような声で桐人は言う。顔を伏せたままちらりと籐藤の方を見つめた。
「桐人。言いたいことがあるならハッキリ言いなさい」
そう注意したのは父親の泰造だ。だが桐人は籐藤の存在が気になるらしく、視線を送り、外し、送りとくり返す。
「もしよろしければ失礼しますよ」
籐藤が立ち上がりかけると、源造がそれを制した。そして孫である桐人に向かって『言いたいことがあるなら言いなさい』と、村長らしい威厳のある態度で言った。
「た、大したことじゃないんだ。わの部屋のドラえもん、だれか持っていった? いつの間にかなくなっているから」
「わもおどもマンガなんて読まないよ。葵だろ。昨日の夜、いったん帰ってきたし」
泰造が早口でそうまくしたてた。
「あ、葵がドラえもんなんて読むわけないよ。子どもっぽいって馬鹿にしていたし」
どうも桐人の部屋からマンガが紛失したらしい。家庭にはよくあるトラブルだと籐藤は聞き流した。
桐人はブツブツとつぶやきながら客間を出て行った。
「すみません。どうもできの悪い子どもでして」
源造が苦笑いをしながら頭を下げる。
「刑事さんはうちの子どもたちのことをご存じでしょう。桐人は聖ブリグダ教団に、葵は特秘委員会に入りました。ここでわと泰造がどちらかに肩入れしたりしたら、もう片方の団体に入っている孫は怒り心頭で家族との縁を絶つでしょう」
「崩壊するとはそういう意味ですか」
籐藤は膝に手を置き、汚れを払うように動かした。
「あの子はかわいそうな子なんですよ」
しみじみとした様子で泰造はドアの方を見た。
「昔から勉強のできる子でね、青森のこんな片田舎でその才能を終わらせるのはもったいないと、東京の企業に就職したんです。システムエンジニアってやつです。ですが、入った会社がいわゆるブラック企業でして、過剰な残業とモラルハラスメントにメンタルがやられてしまいました。二年ほどで退職して留守部村に帰ってきたんですよ」
「わに言わせれば、おめが甘やかして育てたせいだ」
腕を組み、えらぶった口調で源造は言う。
だが籐藤からしてみれば、この祖父だって十分孫を甘やかしているように見えた。源造は桐人に、教団に入信することと実家の門をくぐらせることを認めている。本当に厳格な性格をしているならば、孫が新興宗教に入信することも、同時に当たり前の体で実家の門をくぐらることも許さないだろう。
「しかし、教団も特秘委員会も各々の施設で寝泊まりしていると聞いていたのですが、お子さん方は……」
「教会と支部に泊まるのが基本ですが、外泊の申請をすれば自宅に帰れるみたいです。桐人はわらが心配なのか、よく帰ってきますし、葵も月に数回は自分の部屋でひと晩を過ごしとりますよ。まぁ孫たちは仲が悪いので、どちらかが家に帰っていると知ると、自分のところにもどってしまうけど」
「この村に来た日に、お孫さんたちのケンカを仲裁しましたよ」
これは嘘だ。籐藤は黒いローブと銀色タキシードの取っ組み合いに呆気をとられ、傍観していたのが事実である。
「お孫さんたちは、教団と委員会に入る前は仲がよろしかったのですか。いえ、失礼しました。これは事件とは関係ない話でしたね」
「いや、かまいませんよ」
源造が右手を突きだしヘラヘラと笑う。
「子どものころは仲がよかったけど、思春期になってからしょっちゅうケンカするようになりましたね。まぁ姉弟なんてそんなもんでしょう」
籐藤が暇を告げると、泰造が見送りに立ってくれた。玄関まで来ると、靴箱の上にいくつも写真立てが置いてあることに気づいた。そのうちのひとつに籐藤は目を惹かれる。
無骨な木製のフレームの中に梶谷一家の写真があった。四人がこの家の正面玄関に横並びになっている。四人ともそろって直立不動で真顔だ。桐人は白のワイシャツを、葵は猫のキャラクターがプリントされたティーシャツを着ている。黒のローブと銀色のタキシードを着た二人しか見たことがない籐藤には、ふたりの私服姿が新鮮に思えた。
「息子が東京から帰ってきた時に、撮った写真です」
しみじみとした口調で泰造が言った。
「去年の……六月ごろですね。桐人、だいぶ痩せているでしょう。東京にいる間は仕事のストレスでぐんぐん痩せてしまって、こっちに戻ってからは米が美味しいせいかブクブクと太ってしまったんですよ。まぁ、子どもの頃も太っていましたから、元に戻ったと言うべきかな」
写真の中の桐人は線が細く、シュッとしている。こうして並ぶと、双子というだけあって、桐人と葵と、その立ち姿は似たところがあった。葵の方はファッションこそ違えど、体型に変化は見られない。
「娘さんの方は変わりませんね」
「……変わりましたよ」
泰造はすこしだけ声を低くした。
「あの子は堅実な子でした。子どもの頃から遊びに興じることもなく、真面目に勉強して、真面目に家事の手伝いをして。特秘委員会に入ったのはその反動でしょうか。刑事さん、子どもっていうのは小さいころに少しは遊ばせないといけませんね」
籐藤は他の写真立てを見た。そのうちのひとつに、緑いっぱいの原っぱでビニールシートを敷いて弁当を食べる梶谷家族の写真があった。小学生と思われる男の子が棒アイスを手に泣きじゃくっており、その横で女の子がくちびるを尖らせている。女の子は、困り顔で子どもたちを見る若き日の泰造の膝の上に座っていた。一方で棒アイスを手にした男の子を抱きかかえる女性は――
「刑事さん」
泰造の声に籐藤は写真立てから顔を上げた。
「そういえば、今日はおひとりなんですね」
法律がいないことを訊ねているらしい。籐藤は苦笑と咳ばらいのコンビネーションで間をおいてから『そうなんですよ』と言葉を紡いだ。
「その、思いついたことがあると言って、昨日から勝手に単独行動を……困ったものです」
『失踪しました』と正直には言えず、籐藤は言葉を濁した。
「あの、どこかであいつを見ませんでしたか」
「いえわたしは。お見かけしたら、刑事さんに報告しましょうか」
「よろしくお願いします。では、これで失礼します」
梶谷家を辞すると、籐藤は首筋を撫でながらあてもなくおやしろ通りを北に歩いていった。
「……特に収穫はなかったな」
積みあがった雪を革靴で蹴りあげて、籐藤はぽつりとつぶやいた。
6
2021年 2月 21日 日曜日 09時 23分
葵の頭の中には靄がかかり、思考はその靄の中をあっちへ行ったりこっちへ行ったりとさまよっていた。
タキシードの内ポケットにはさくらから渡されたメモ紙があった。特秘物として保管されている、恒河沙縛に渡してほしいと頼まれた。
当然、そんなことが許されるはずがない。
最も位の低いグリーンローズの葵が、今現在この建物の中で最も危険視されている特秘物と接触できるはずがない。もちろん、他の者に頼んで縛のもとに届けてもらうなど論外だ。特秘委員会がそんなことをする義理はない。その行為から生じるメリットもない。
だがそのメモ紙が今もポケットの中にあるという事実が葵を責め立てる。特秘委員会としての責任を自負しているのなら、さくらの目の前でメモ紙を破り捨てるのが正しい行いだったはずだ。しかし葵はそうしなかった。
葵は自身に訊ねた。何故メモ紙を捨てなかったのか。そうだ。自分はメモ紙を盗み読むために受けとったのだ。さくらが、恒河沙縛がここにいると悟った理由がこのメモ紙の中に記されているかもしれない。特秘委員会の機密事項を知り得た理由。それを探らない手はない。だから自分はメモ紙を受けとったのだ。
だが葵にはメモ紙を開くことはできなかった。抵抗感があった。このメモ紙は手紙だ。さくらから恒河沙縛への手紙。他人の手紙を盗み見るという行いを葵の倫理観が許さなかった。倫理観? ちがう。葵の脳裏には、子どものころから親しくしているさくらの姿があった。手紙を盗み読むことは、さくらの信頼を裏切ることになる。そんなこと葵にはできなかった。
「梶谷くん。ちょっと。梶谷くん」
そんな精神状態のせいか、葵は背後からかけられる声に気づかず、廊下を通りすぎて行った。
「おい、聞いていないのか」
男の腕が葵の肩を強く叩く。葵がふり返ると、不服そうに顔をゆがめる蓮下の姿があった。
「あ……すみません。わたし――」
「どうしたの。幽霊みたいにボーっとして。まぁいいや。悪いけど、今から買い出しに行って来てくれない」
「え。あの、十時半からミーティングですよね。買い出しに行ったら、時間までに戻ってこれませんよ」
「サボっていいよ。買い出しの方が大事だから。ミーティングのことは帰ってきたら議事録を読んで。あ、議事録は他の若いのに取らせるから心配しないで」
蓮下はA4用紙にプリントされた買い物リストを葵に渡した。葵は無気力な手でそれを受けとる。霧吹き、竹ぼうき、ちりとり、ブルーシート、ボールペン、替え芯、エトセトラエトセトラ……どれもこれも急いで用意する必要があるとは思えない。葵には自分がミーティングに参加することよりも、これらを買いそろえることに価値があるとは思えなかった。
「……わかりました。行ってきます。昼までには帰ってきますから」
「いや、いいよ。お昼は外で食べてきな。夕方までに帰ってくればいいから」
笑顔で言いながら、蓮下は葵の肩をまた叩いた。
蓮下に悪意はないのだろう。むしろ、勤勉な部下に息抜きを勧める、気の利いた上司の対応ができたと思っているに違いない。
だが葵は蓮下の言葉に大きな衝撃を受けていた。自分はこの建物にとって、特秘委員会にとって、いなくてもいい存在だというのか。そんな葵の感傷に気づくことなく、蓮下は葵の前から去っていった。
「蓮下さん」
葵の声が白色に溢れた廊下にこだまする。蓮下は、壁からつき出た顔を布で覆われた男の像に手を置きながらふり返った。
「火曜日に入ってくるはずだった特秘物ってどうなったんですか」
葵に訊ねられ、蓮下の笑顔は接着剤を塗りたくられたかのように、ぴたりと固まった。
「あ、あぁ。あれね。うん。結局、なしになった」
蓮下は像の頭をこすり始めた。白い塗料が細かく砕け、白い床に落ちていく。
「なし?」
「そう。先方の都合でね。あ、いや。先方というか。うん。特秘物なんかじゃなかった。そういうことで、なしになったの」
「だって、蓮下さん。あの時、言ってたじゃないですか。急ぎの仕事で悪いけど、警戒レベルの高い特秘物が入るからって」
あからさまにうろたえてみせる蓮下に、葵はくちびるを尖らせてみせた。
「もういいでしょ。あのことは忘れて。ほら。はやく買い出しに行ってきて。そうだ。その特秘物のことだけどね、悪いけど口外禁止。誰にも言っちゃだめだよ。ラニア様にも、絶対にだめ」
「ですが……」
「この話はここまで。ぼくはきみと違って忙しいんだから」
蓮下は背中を向けると、つかつかと速足で去っていった。
葵はその背中を長いこと見つめていた。否。にらみつけていた。これも違う。正確には、思考の読みとれないエイリアンに向けられるような、疑義に凝り固まった視線を向けていたのだ。
市街地での買い物を終えた後、葵はむつ市の西よりにある公園のベンチに座って曇り空を見上げていた。
蓮下にああ言われた以上、急いで帰る必要はない。といっても、言われた通り市街地の店に入ってランチというのも癪だ。結局、こうして、ベンチに座り時間を潰すという、反抗期を迎えた内向的な子どものような態度をとることしかできなかった。
葵は銀色タキシードの上に、足元まで覆う白いロングコートを着ていた。タキシード姿で市街地を訪ねる勇気は彼女にはなかった。他の特秘委員会のメンバーは、銀色タキシードで堂々と市街地を闊歩しているという。葵にはそれが信じられなかった。特秘委員会の活動方針を疑っているわけではない。ただ、彼らほど妄信してはいないだけ。葵は自分の精神状態をそう分析していた。
ストレスが空腹をかき消していた。食事も、水さえも口にすることなく公園の空気と一体化していた。
時刻は午後の二時を回っていた。葵はふとあることに気づいた。この公園は市街地の中心から離れているとはいえ、その周囲には一軒家がいくつも建っている。
それなのにひとが少ない。というより、公園にいるべき存在がない。子どもがいないのだ。
葵は過去にこの公園を訪れた時のことを思い出す。それは二年前のことだった。市街地に引っ越した高校時代の同級生の家がこの公園の近くにあり、近くのドーナツ屋で買ったドーナツと缶コーヒーを手にこのベンチに座った。
あの時も、今日と同じ日曜の午後だった。
そしてあの時は、この公園に遊びまわる子どもたちの姿があった。
そんな子供たちを見て葵の友だちはこう言った。
「昔に比べると、本当に子どもたちを見かけなくなったね」
二年前の時点で、既に子どもたちはその数を減らしていた。少子高齢化は留守部村だけではなく、当然ながらむつ市で、青森県で、全国で発生している日本国全体の問題なのだ。
留守部村で生まれ育った葵にとって、駅とビルが立ち並ぶむつ市街地とは人びとが集まる『都』であり、だからこそ友人のこの発言は衝撃的だった。『都』とはひとが集まる場所。自分の住む留守部村は『田舎』であり、『田舎』と違い『都』には右肩上がりでひとが集まり続ける。だから、留守部村とは違い、むつ市には公園で遊ぶ子どもたちの姿が――未来を保証するその姿があるのだと思いこんでいた。
それは違った。二年前の時点で、子どもたちは減り続けていた。そして二年経ったいま、子どもたちは公園からその姿を消した。
ベンチから立ち上がり、記憶のままに二年前に訪れたドーナツ屋を探し始めた。友だちに連絡して店の場所を聞く気にはなれない。いっしょにドーナツをほお張った友達も、一年前に東京の一流企業で働く男の元に嫁いでいった。
葵の記憶が語りかける。赤レンガの三階建てのビル。その一階、黄色い庇の下で、快活な笑顔を浮かべる若い女性店員が、抱っこ紐で赤子を抱えながら揚げあがったばかりのドーナツを店先のショーケースに並べていた。店の奥では、女性店員の夫だろうか、ひげを蓄えた無骨な男が、めん棒でドーナツの生地を伸ばしていた。
ドーナツ屋のとなりは床屋で――あそこだ。葵の視界に、見覚えのある床屋が現れた。自然と速足になる。記憶の中からドーナツの甘い香りが漂ってくる。忘れかけていた食欲がわきあがってくる。
しかし、床屋のとなりにドーナツ屋はなかった。
閉ざされたシャッターと不動産屋の連絡先が書かれた『テナント募集』の張り紙。黄色い庇には小さな穴がいくつも空き、為すがままといった様子で風に吹かれていた。
7
2021年 2月 21日 日曜日 15時 51分
「まずいかも」
苺刃の細い指に力が入る。一本ではない。十本の手の指すべて。いや、靴下の内側でもぞもぞと動く足の指も含めればニ十本だ。
特秘委員会青森支部に監禁されてから、間もなく二十一時間近くが経とうとしている。
この窮地を脱しなければという強い意志が苺刃にはあった。一介の婦人警官に過ぎないと言われればそうかもしれない。だが彼女は、この日本国の安寧を担う警察官の一員だ。そんな警察官がこんな胡乱な組織に為すがままにされるとなっては、日本警察の沽券に関わる。何とかしなくてはいけない。何とかしなければいけないのだ。
だがそんな強い意志は苺刃の眼前に現れたひとつのファクターによって疎外されていた。いや、正確には四十八のファクターか。
「こんなにもドラえもんがおもしろいとは」
苺刃の前には読破済みのドラえもんが山となって積まれていた。現在彼女が手にしているのはコミックス二十六巻。この二十六冊の間に続く『苺刃柚乃を楽しませた』という事実が、残りの二十二冊のマンガとしてのレベルの高さを保証していた。
「梶谷葵さん、すごいやり手です。この部屋から逃げ出すなんて邪な考えを抱かせないよう、こんなにもおもしろい娯楽を用意するとは」
その葵がドアを開け、苺刃が監禁される部屋に現れた。ベッドに腰かけていた苺刃は立ち上がり、空手の構えのように両手をつき出す。ただし右手はドラえもん二六巻を掴んだまま。
「ちょっと、いいかな」
葵は肩を落とし、その視線は壁の方を向いていた。溶けきったシャーベットのように覇気のない口ぶりに、苺刃は首をかしげた。
「わたしは、変わりたいと思ってここに来た。特秘委員会がわたしの退屈な人生を特別なものにしてくれるんじゃないかって。そう期待してここに来たの」
「人生、退屈なんですか」
「退屈。昔からそうだった。家の中で優遇されるのは弟の桐人。勉強も、スポーツも、友達の数だってわたしの方が上なのに、おども、じさまも桐人を一番にかわいがってきた。どうしてだと思う。長男だから。男だからって、それだけであいつは甘やかされてきた。わたしの家には、お金がなかった。大学に行けるのは姉弟のうちひとりだけ。わたしは高校でトップの成績をとっていたのに、大学に通うことが許されたのは桐人だった。留年ギリギリの成績の桐人が? どうしてわたしじゃないの。わたしはおどとじさまに言った。そうしたらあのふたり、なんて言ったと思う。『女は嫁に行くから学歴は必要ない』って。それじゃなに。わたしの人生は生まれた時から決まっていたというの。同じ日に、数分の違いで生まれた弟には無限の選択肢が与えられて、女に生まれたわたしにはたった一択しか与えられないっていうの」
葵の目から涙がこぼれる。たったの一滴の涙が、頬をつたい口の中に入っていった。葵はのどを鳴らしその涙を飲みこんだ。
「なのに弟はこの村に帰ってきた。仕事でミスをして怒鳴られたからって、それだけの理由でみんなが甘やかしてくれるこの村に帰ってきた。馬鹿げてる。あんたが投げ出したその道は、わたしが身悶えるほど欲した道だっていうのに。なにもかも下らない。下らない家族。下らない村。下らない風習。だけど、そんな下らない場所にも大切なものがあった。さくらちゃんは、この村の希望。あの子は過去のわたしであり、だからこそ今のわたしみたいにしちゃいけないの」
葵はタキシードの内ポケットからメモ紙を取り出した。
「それは?」
「中は読んでないから」
苺刃はメモ紙を受けとった。爆発物を扱うような慎重な手つきで二つ折りのメモ紙を開いた。殴り書きで記されたメッセージを読むと、苺刃の目は驚愕の色に染まった。
「これ、わたし宛じゃないですよね」
「わかってる!」
葵は叫んだ。
「わかってるけど、どうすればいいのかわからないの。さくらちゃんはあの特秘物に渡せと言った。そんなことはできない。そんなことは許されない。だからといって、この手紙を捨てることもできない。それはさくらちゃんの信用を裏切ることになる。さくらちゃんはわたしなの。無数の選択肢の前に立つ昔のわたしなの。わたしはわたしに嫌われたくない。だけど、特秘委員会としてルールを破ることもできない」
「それでわたしに? 縛さんの仲間としてこの部屋に監禁されているわたしにくれるっていうんですか」
苺刃は嘲るようにかん高い声を発した。
「こんなの自己満足です。さくらちゃんに嫌われたくない。でも特秘委員会も裏切れない。だから折衷案として苺刃とかいうやつに渡そう。何も折衷していません。生きるべきか死ぬべきか。悩んだ末に踊りだすようなものです」
葵は背を向けてドアを開くと、駆け足で部屋を出て行った。
「待って。そんなの、卑怯」
苺刃が追いかける。だがあと一歩でドアを出ようというところで、苺刃はドアの前で番をしていたハリネズミ髪の男に突き飛ばされた。
尻もちをついた苺刃の前でドアが閉ざされた。のぞき窓もなく、カギもかかっていないスチール製のドア。苺刃はドアを開けた。ドアの目の前にハリネズミ髪の男が立っており、今度は靴の底で腹を蹴飛ばされた。
ふたたび尻もちをつき、苺刃はうめき声をあげる。ハリネズミ髪の男もいら立っているのか、今度は音を立てて勢いよくドアを閉ざした。
手の中に握られたメモ紙を見ながら苺刃はつぶやく。
「どうしたらいいんだろう……」