第一章 村への来客(あるいは鬼) & 留守部村 白山神社 見取り図
1
2021年 2月 15日 月曜日 22時 28分
宮野さくらが十歳の時のことだ。
テレビの前でまだ眠たくないとくちびるを尖らせる我が子の肩を抱き、母の美穂は耳元で言った。
夜になったら早く寝なさい。でないと鬼がやってくるよ。
宮野さくらが十三歳の時のことだ。デスクスタンドの頼りない光の下でマンガを読むさくらに美穂は言った。
冷気と暗闇は気を落ちこませる。だから夜になったら早く寝なさい。冷気も暗闇も夢の中に入ることはできないのだから。
宮野さくらが十六歳の時のこと、つまりこれはほんの一年前の話になる。
学校からの帰り道、元マタギの佐田元老人の家の前に設置された灯油タンクを目にして、さくらは気づいた。
夜の間に起きていると、ストーブを焚き続けなければならない。鬼の話も、冷気と暗闇のことも、結局はストーブの燃料代を節約したいがためにひねり出された方便に過ぎなかったのだ。
宮野さくらが十七歳の時のこと。つまりは現在。さくらは母の言葉の少なくとも一方が真実であったことを知る。
冷気と暗闇が気を落ち込ませる。昼間のうちは小さな痺れ程度の孤独が、夜になると猛烈に胸の内に募りだす。子どもの頃のように言葉を交わし、孤独を分かちあう相手もいない。唯一の家族であった母親は数か月前に家を出た。ほんの数十分歩いていけばたどり着けるあの場所で、今夜も必死に祈りを捧げていることだろう。
ストーブの火を消し、和室に敷いたふとんにもぐりこむ。深く息を吐いて暗闇に溶けていく天井を見つめていると、カーテンが数十センチだけ開いていることにさくらは気づいた。
二枚のガラスを重ねた防寒用の窓に、外灯の白い光が浮き上がっている。カーテンを閉ざそうと起き上がりかけた身体を、ふとんの中のまどろみが引きとめる。大丈夫。今日は疲れているし、すこしの光があっても眠れる。ストーブも消した。ふとんの外は寒い。いいでしょ、このままで。
もしここで、さくらがまどろみの声を無視して起き上がり、カーテンを閉ざしていたら、それだけできっと留守部村の未来は変わっていたにちがいない。
だが彼女はそうはしなかった。まどろみの声に従い、目を閉じ、まぶたの裏側からかすかな白い光の存在を感じながら、感じながら、感じながら……眠りに落ちていき――
白い光が消えた。
夢の中に片足をつっこみかけていたさくらの意識が急速に熱を帯びていく。カーテンの数十センチのすき間に黒い影がとまっていた。
何かが――いや違う。影は呼吸をくり返すように揺れている。何かではない。誰かがいるのだ。
不審者。果たして誰だ。留守部村の住人だろうか。ちがう。そんなはずはない。この季節の真夜中にそんな下らない目的で外を歩き回る村人はいない。
では、彼らか。ちがう。彼らがそんなことをするはずがない。いま、彼らが最も恐れているのは村人の反感を買うことだ。そのことは上層部のみならず末端の者にまでよく伝わっているはず。住人の家に押し入り、留守部村に多大な被害を与えたとなれば、その時点で彼らは村との交渉権を失う。少なくとも彼ら双方はそう考えているはずだ。
村人でもない。彼らでもない。つまり、この影の正体はまったくの部外者ということになる。
まさか。そんなはずはない。それこそが一番ありえない可能性だ。こんな真夜中に、こんな村に、外からひとが来るなんてあり得ない。
「あの。誰ですか」
さくらは言った。だが、ぶ厚いガラスがあっては声が届くはずもない。声はぽすぽすと暗闇に溶けていった。
影はあいかわらず揺れている。さくらは音を立てないようゆっくりとふとんから出ると、座卓の上のスマートフォンに近づいた。警察を呼ぼうか。だが、通報したところで警察が隣村の駐在所から留守部村にたどり着くのには二十分近い時間を要するだろう。その間に不審者が行動に移らないと断言する根拠はない。
では、隣人に助けを求めるか。それが最適解に思われた。スマートフォンの電話帳の中には、村長の梶谷家をはじめとした隣人の電話番号が登録されている。だが、隣人が助けに来る前に窓の外の不審者が姿を消したら、その時隣人たちは、さくらが寝ぼけていたに違いないと笑うだろう。明日の昼には村中にこの深夜の笑い話が広まり、そして、きっと、菅原をはじめとした委員会派の村人は、さくらのことを村に迷惑をかけたと蔑むに違いない。
最後の手段は母に助けを求めることだった。母はスマートフォンを持たずに家を出た。だが連絡先は知っている。彼らに助けを求めれば、ものの数分で母の代わりに彼らが宮野家を訪ねるだろう。だがそれこそがさくらがもっとも恐れていたことだった。
「あ」
さくらは思わず声をあげた。窓の外の黒い影がゆっくりと、大きななめくじが這うように落ちていく。どさりと、窓の外の雪だまりに倒れる音がした。
カーテンのすき間から再び白い光が注がれる。さくらは呆然とその光を見つめていた。すると今度は、窓の外を上から下へひと塊の影が通過していった。この影ならよく知っている。屋根の上の雪が落ちてきたのだ。落ちてきた。落ちてきた。落ちてきた……いったい、何の上に?
さくらはふとんを払いのけて部屋を出た。玄関に横たわる長靴を履いて家の外に飛び出る。昼間から降り続けている雪は、静寂に包まれた真夜中の留守部村のいたるところに白い防壁のように積もっていた。
玄関を出て和室の外側に向かう。外灯の光が道路から和室の窓に伸びる足跡を照らしていた。その足跡の先、窓の下に、ついさっき屋根から落ちたばかりと思わしき雪のかたまりが落ちている。そして、その雪の中から人間の腕が飛びだしていた。
悲鳴をあげる間もなくさくらは雪に両手をつっこんだ。氷点下を下回る気温の中、さくらは素手で雪をすくい続けた。少しずつ雪に埋もれた人間の姿が現れる。女性だ。さくらよりもいくらか年上の、紺のダッフルコートを着た女性。肌は青白く、意識があるのかないのか、半開きの両目の下でぐらぐらと眼球が揺れている。
さくらは雪を十分に払いのけると、女性の腕を肩に乗せて玄関まで運んだ。女性は決して大柄ではなかったが、さくらとて年相応の体型と体力しか有していない。玄関にたどり着いたころには、息は切れ切れで全身にしっとりとした汗が広がっていた。
上がり框に女性を横たわらせてから、さくらは和室に入りストーブを点けた。女性を和室まで引きずるように運び、身体を冷やしている濡れた衣服を脱がしていく。シャツを脱がし、上半身を下着だけの姿にしてさくらは息をのんだ。女性の肉体が引き締まり筋肉が隆起していたから――ではない。いや、たしかに女性の筋肉は常人とは比べ物にならないほど鍛え上げられていた。だがそれさえも些細なことに過ぎないと思わせるほどの衝撃が、彼女の素肌には刻まれていた。
それは、傷痕だ。無数の縫合の跡が上半身のいたる所に走っていた。まるで全身をマシンガンで打ち抜かれ、その全ての銃弾を掘り返して傷を縫い合わせたかのように。
見てはいけないものを見てしまったような気分になりながら、さくらはすこし前まで自分が入っていたふとんの中に女性を入れた。
少しずつ暖まり始めた室内で、さくらは一度大きく息を吐いた。そして思考。とりあえず身体は温めた。次は……救急車だ。この女性は意識を失いかけていた。何かしら身体に深刻なダメージを負っていることには違いない。いや、救急車よりも先に新橋先生を呼ぶべきか。まとまらない思考でスマートフォンを取ると、さくらの腕をふとんから伸びた手が掴んだ。
「あの。なにか、たべものあります?」
ふとんから両目をのぞかせて女性は言った。
これが宮野さくらと恒河沙縛との出会いだった。
この出会いから六日後。全てが終えた時、さくらは母のもう一方の言葉も真実だったことを知る。
夜になったら早く寝なさい。でないと鬼がやってくるよ。
だが、その鬼は――
2
2021年 2月 15日 月曜日 23時 02分
さくらは縛に夕食の残りのキムチ鍋に冷や飯を混ぜてつくったおじやを供した。
ストーブの前の小さな座卓に着き、縛は下着姿のまま犬のようにがつがつと食べた。体中の傷跡を隠すつもりはないらしい。両目はたれ気味。自分の犬小屋でおちついて休む大型犬を想起させる柔和な顔立ちをしていた。
ものの数分で完食すると、縛は座布団から降り、両手をついて深く頭を下げた。
「あらためまして感謝申し上げます。命を救っていただくのみならず、食事の世話までしていただいて、このご恩一生忘れません」
下着姿の女性に平身低頭されるなど十七年の生涯で初めてのことだったし、それどころか今後一生このような経験をすることはないだろう。さくらは口ごもり、『あぅ』と曖昧な声を吐き出した。縛は畳に額をこすりつけたまま胴像のように微動だにしない。自分が頭を上げるよう言わなければ、いつまでもその姿勢のままでいるつもりだ。そのことにさくらが気づいたのはたっぷり三分ほど経ってからのことだった。
「き、気にしないでください。それより……あの、お身体はだいじょうぶですか。もしよろしければ、村のお医者さんを呼びますけど」
「あぁ。重ねてご心配をおかけして申し訳ありません。少し失礼して」
縛は正座を崩し、両足を左右にゆっくりと開いていく。たっぷりと一八〇度の角度まで開くと、上半身を右に揺らしてつま先を掴みそのままの姿勢で一分間ほど静止した。さくらからすると体中の筋肉が悲鳴をあげるのではと思うほどきつそうな体勢だったが、縛は平然とした表情をしている。
脚は開いたままで上半身を戻し、今度は左側に身体を倒す。再び、たっぷり一分間の静止。その次は上半身を前に倒し畳の上に伏した。腰から頭にかけてぴったりと畳に接地している。さながら一枚の敷物のようだ。
妙齢の女性が下着姿で大きく足を開いているというのに、そこにはエロティシズムの要素は皆無だった。さくらはただただ畏怖を覚えていた。自宅というテリトリーに異形の怪物を招いてしまったのではないかという畏怖。それと同時にじぶんに言い聞かせていた。そのような畏怖は間違いだ。彼女はたんに身体が柔らかいだけ。それだけだ、と。
「うん。うん。うん」
上半身を伏せたまま、両腕を背中に回して肩を反らせる。肩甲骨が盛り上がり、ボキリと枝をへし折るような音がした。さくらが小さな悲鳴をあげるが、音の発生源である縛は平然としている。
縛は目を閉じ、複雑なリズムで三分間ほど深呼吸を続けた。最後に大きく息を吐き出すと、名人が糸を引く操り人形のようにするすると立ち上がった。
「うん。うん。だいじょうぶみたいです。ご心配をおかけしました」
「ほ、本当にだいじょうぶですか。朝になってからでもお医者さんに――」
そこでさくらは言葉を止めた。医者に診せるということは、縛の身体の傷を見せるということだ。本人は傷を見られることを何とも思っていないようだが、さくらはそれに抵抗感を覚えた。
「あの、恒河沙さん、でしたよね。いったい、どうして留守部村に?」
「ええっと。わたし、東京を目指してまして」
「東京って。あの、東京?」
「はい。関東平野です。わたし八甲田山のホテルで短期のアルバイトをしていたんです。そのホテルでトラブルが起きて、ごたごたのせいで結局アルバイト代が貰えなかったんです。お金もないし仕方ないから歩いて東京まで帰ろうと思って」
「歩いてって。いったい、何日かかると思っているんですか。いえそれより、八甲田山? 八甲田山って、十和田湖の近くにある八甲田山のことですよね」
「もちろん」
「あの、ここがどこだかご存じですか。留守部村って下北半島ですよ」
「え、下北半島。下北半島ってたしか」
「本州最北端。東京とは真逆です」
3
2021年 2月 15日 月曜日 23時 25分
青森県の北東部に位置する下北半島は、その形状を鉞に例えられることが多い。
同県東部にある、小川原湖から鉞の柄の部分が北に向かって伸びていき、陸奥湾を抱え込む形で鉞の刃の部分が西に向かっていびつな曲線を描いていく。総面積は約一四〇〇キロメートル平方。南北の距離は約五十キロメートル、東西は約六十キロメートルにおよぶ。西を臨めば平舘海峡を挟んで石川さゆりの歌で有名な津軽半島が凛として構え、北を臨めば日本の国土面積の約二割を占める北海道本島の大地が堂として構えている。
山がちで平地は少なく、特に鉞の刃の部分となればそれは顕著だ。釜臥山を最高峰とする恐山山地がそのほとんどの面積を占め、海沿いの開けた土地と、山間の集落にひとびとは主に暮している。
留守部村もまた、そんな場所に位置する集落のひとつであった。
「はーなるほど。おかしいと思ったんだよね。青看板を見上げたら『横浜』って書いてあって。いつの間にか関東に戻ってきたのかと驚いていたら」
縛は宮野家の日本地図を広げながら驚きの声をあげた。胃が温まり気持ちもほぐれてきたのか、縛の口調は敬語からさっぱりとしたものに変わっていた。
「ここ、ここです。ちょうど鉞の柄の部分にあるんですよ。横浜って町が」
「なるほどね。いやー知らなかったな。まったくもー。ものを知らないってのは困るね」
『ものを知らない』なる次元の話ではない。
歩兵第五連隊の雪中遭難で有名な八甲田山は青森県の中心部に位置する。そんなところから東京まで歩いて帰ろうという時点で常軌を逸しており、さらには北と南の方角を間違えて歩き続けるなどもってのほかだ。
とにかく道沿いに歩き続け、途中神社仏閣や観光地など目に入ったものを観光しながら歩き続けた結果、縛はここ留守部村までたどり着いたという。宿に泊まる金などないので、どこか寒さをしのげる場所はないかとさ迷い歩いていたところ、宮野家の和室の窓の外で体力が尽きたというわけだ。
「留守部は、ちょうどここです」
さくらは鉞の刃の中央からやや下のあたりを指さした。イタコの霊媒で有名な恐山から西に進み、温泉地で有名な湯野川から川沿いに数キロ下ったところに留守部村はある。
「山を降りて脇野沢から津軽半島の蟹田まで渡るフェリーがあるんですけど、冬の間は運航していないんですよね。となるとやっぱり、半島をぐるりと回るので遠回りになりますが、むつ市内に戻られるのが一番だと思いますよ」
「なるほど。それでは」
縛はふすまの上枠にかけられたハンガーから自分の衣服を取った。まだ半乾きのシャツに動じることなく袖を通す。
「え、あ。ちょ、ちょっと。ちょっと待ってください。まさか帰るつもりですか」
さくらは片膝を立てて声を荒げた。栄養補給を済ませ、身体を温めたとはいえ、縛は数十分前に意識を失いかけたのだ。そんな人が氷点下の外に出るなどあってはならない。
「あ、そっか」
縛は破顔してさくらに近づくと、片膝をつき彼女の片手を両手で包んだ。
儀礼じみたその所作にさくらの心臓がどくりと跳ねた。縛の両手はところどころにタコができており、岩礁のフジツボに包まれているようにさくらは感じた。
それと同時に、縛の手は暖かかった。
固いタコの向こうから、さくらは人の熱を感じた。どくりどくりと血の通う肉体からの放熱がさくらに伝わる。さくらは考えた。ひとの肌にこんなにじっくりと触れるなどいつぶりだろう。友人同士で過度なスキンシップをとることなどないし、ましてや恋人などという存在はいない。では家族は? 家族。唯一の家族は、我が子を捨てて――。
「助けていただき本当に感謝しております。お金はありませんが、もしわたくしにできることがありましたら、何でもお申しつけください」
「何でも……」
さくらの脳裏に母の姿が映る。記憶に残る母はいつも虚ろな瞳でこの冷たい村を見つめていた。そんな母の瞳に熱い火を灯したのは彼らだった。『何でも』と言うのならば。
「お母さんを――」
さくらは我を取り戻し、縛の手を強く払った。
自分は何を言おうとしたのか。
身内の恥を赤の他人に話すというのか。
だが宙に浮いたさくらの手を縛は再び優しく包んだ。
縛の表情から笑顔が消えていた。眉をひそめ、憂いを帯びた両目でさくらを見つめている。落ち込む飼い主の姿を見て、自身も落ち込む大型犬のようでもあった。
「お母さんが、どうしたの」
「いえ、そんな。なんでもないんです」
「なんでもないなら、口にしない。なにかがあるから、口にしたんでしょ」
さくらの手を包んだ縛にふたたび笑みがもどった。小さく、くりかえし、うなずいてもいる。大丈夫だと伝えるために。なんどもなんども伝えるために、ほほえみながら頭をゆらす。
「お母さんを」
か細い声が、ぽとりと漏れ出る。
「お母さんを、連れもどして」
4
2021年 2月 16日 火曜日 06時 43分
釜臥山の頭上からほんのりと黄色味を帯びた太陽の光が留守部村に注がれる。
昨日の朝から未明にかけて降り続いた雪が、村の東側を縦断する二車線の県道、通称おやしろ通りを白銀に染め上げていた。雪に覆われた道路の両脇にいくつもの足跡が点在し、それらすべての足跡が白山神社の方へと続いている。
新橋広輝はネックウォーマーを鼻までずり上げた。革の手袋をした両手をコートのポケットに入れ、ペンギンのような小さな歩幅で神社に向かう足跡を追う。
「お。せんせ。おはよーごす。はやいね」
民家と倉庫の間の小道から、三ツ森サチ江が現れた。毛糸の帽子とピンク色のジャンパーに身を包んだサチ江は白い息を吐き出しながらぴんと腕をあげた。
新橋はこの腰の折れ曲がった老女の手を見て息をのんだ。素手だ。氷点下に近いこの気候の中、素手で出歩くなど都会育ちの新橋からしたら考えられないことだった。
「サチ江さん手袋は? だめですよ、こんな寒いなか。前にも言ったでしょう。防寒対策だけでなく、転んだ時に手をついて怪我をするリスクを避けるためにも手袋は必要だって」
「朝からそんなごもめぐな。わらはわらじのころから手袋なんてしたことねーの。それよりどした。おめがこんな朝早く起きるなんて珍しい」
「お酒のせいですね。早く眠ってしまい、起きるのが早かったんですよ。雪も止んだし、せっかくだからみなさんに倣って、お参りでもと思ったわけです」
「そらいいごった。いっしょにいごか」
サチ江を前に白山神社に向かう。新橋はサチ江が転んだ場合すぐに身体を受け止められるように後ろに並んだわけだが、すぐに後悔することになった。というのも、腰が折れ曲がった御年八十八のサチ江は、その見た目にそぐわず足取りはしっかりとしていた。基本的には誰かがつけた足跡に自分の足を重ねるが、自分の歩幅と足跡の位置が合わない時は迷うことなく新雪に足を突っこむ。新橋は留守部村に来たばかりのころ、雪の下に隠れた側溝のすき間につま先を掴まれハデに転び鼻の頭を強くうった。それからというもの、新橋は道路脇の新雪を踏むことを避ける傾向にあった。
「みなさん、毎朝お参りをされているんですか。えらいですね」
「そりゃあ白山神社は神様だからねえ。神様にごあいさつに伺うのは当然だ」
おやしろ通りを半分ほど過ぎたあたりに、緩やかな傾斜の道が東に向かって伸びている。トラック一台分の幅のこの道をまっすぐ上った先に鳥居が立ち、鳥居の向こうには瓦屋根が乗った白壁に囲われた白山神社が見えてくる。
神社の入り口に白壁と同じく瓦屋根が乗った四脚門が立っている。二枚の木扉は開かれ、その戸をくぐった先には雨よけの屋根が白壁に沿って渡り廊下のように横に長く伸びている。
屋根を横切ると野球場の内野ほどの大きさの広場がある。この広場には砂利が敷き詰められているが、当然いまは昨夜遅くまで降り続いた雪に全面が白く覆われている。
その広場の先に朱色の屋根の社殿がある。
五段ほどの石段を上った先に賽銭箱が置かれ、その後ろに社殿に入る木扉があるが、平時は閉ざされそれはいまも例外ではない。この木扉が次に開かれるのは今週末に催される祈年祭の時になるだろう。
賽銭箱の前の石段を三人の老人たちが降りてくる。参拝を終えたところらしい。三人ともサチ江よりも二回りほど若いはずだが、それでも新橋にとって人生の大先輩であることに違いはない。
その三人、サチ江を交えて下北弁を流暢に使いながら雑談を始めた。人生の大半を東京で過ごした新橋はまだこの方言に慣れていない。ともすると学生時代に習ったドイツ語の方がよく聞き取れるほどだ。四人からほんの少し離れたところで手持ち無沙汰に雪を足で掘っていた新橋にサチ江が何か問いかけた。単語の意味を聞き取れなかったが、曖昧に笑ってみせるとサチ江は満足そうにうなずいた。
三人と別れ、新橋とサチ江はふたりで参拝を済ませた。革の手袋をはめ直しながら、新橋はふと思いついたことを口にする。
「祈年祭で御人形さまを見られるんですかね」
「そんなおばぐだ言いかたわがねよ。御人形さまは神様だぁ。ものみたいに扱っちゃわがね」
「はいはい。祈年祭で御人形さまのお姿を拝見させていただけるんですよね」
「おめそりゃ二重敬語ってやつだ。ほんとうに大学出てんのか?」
「もう! どうでもいいでしょう。とにかく、ぼくは御人形さまをまだ見たことがないんですよ。最近の留守部村は御人形様を中心に回っているというのに、当のご本人様を見たことが――」
「おばぐだ」
「……拝見したことがないだなんて。いつだって入り口が閉じているんですから」
新橋は木扉に閉ざされた拝殿を指さすと、サチ江がその指をとって左の方へ向きを変えた。
「御人形さまはあっちだ」
指がさす北東の方を見て、新橋はぽかんと口を開けた。指がさしているのは、社殿の左手だ。ヒバの木が数本立ち並び、その後ろに白壁が見える。
「おめえ知らなかったんだな。御人形さまはな、こっちの拝殿じゃなく向こうの本殿におわすんだ」
「え、え? 白山神社って、他に社殿があるんですか。こっちは本殿でなくて、拝殿? はじめて聞きましたよ」
騒ぐ新橋を尻目にサチ江は石段を降りて、入り口の門の手前にある屋根の下に入った。南から北の方へまっすぐ伸びる屋根の下の通路を歩いていくと、屋根の終わりのところに三本の赤いカラーコーンが並べられていた。カラーコーンの横には先ほど新橋が指さした白壁が拝殿の後ろの方まで伸びている。カラーコーンの後ろには開けた空間が続いていた。
「へえ。神社にこんな場所があるなんて知りませんでしたよ」
カラーコーンを避けて、ふたりは縦長の広場に入った。三十メートルほど進んだところに、こぢんまりとした本殿が建っていた。造り自体は拝殿とさほど変わらないようだが、背後にそびえ立つ山の起伏の影響なのか、拝殿よりもたっぷりと朝陽が注がれている。積もった雪の間からのぞく朱色の屋根が、神々しく朝陽を反射させて輝いていた。
「はぁ、なるほど。本殿の前の広場は狭いから、催事なんかは祭殿の前で行わ……れ……」
新橋の言うとおり、本殿の前の広場は社殿のそれに比べて狭く、特別なものはなにもない。
だが今日はちがった。昨日の降雪が作りだした白銀の絨毯の上に、あお向けで倒れている男の姿があった。
両手足を大きく開いて倒れる男の周りの雪が赤黒く染まっていた。ジャンパーを着た男の腹部も染まっており、男の右手が腹の上に乗っていた。
「あ、あ、あぁぁ」
情けない声とは裏腹に、新橋の手足は彼の職業意識に従ってすばやく動いた。
男に駆け寄り、脈を確認しようとしたが、やめた。するまでもない。男の肌は周りの雪と同じくらい白く染まり、小さく開いた両眼は微動だにせず空を仰いでいた。
血にまみれたジャンパーの下部に刃物で切り裂かれた跡があった。『ひどい』と一度つぶやいてから、新橋は声を張りあげた。
「サチ江さん。誰かひとを呼んできてください。それから、警察に通報を」
新橋がふり返ると、サチ江は呆然とした表情でゆっくりと新橋の方に近づいていた。そしてその足が徐々に加速していき、御年八十八とは思えない速度で走りだした。
「お、お、おにんぎょうさまぁぁぁぁ!」
サチ江は遺体に見向きもせずその横を通って本殿へと向かった。石段を一段飛ばしで登り、木扉に両手をつく。
「せんせ! こっちへ」
「さ、サチ江さん。なにを」
「いいからこっちへ!」
有無を言わせぬサチ江の口調に従い、新橋は本殿に向かった。
「御人形さまは無事かなぁ」
木扉は重いようで、震えるサチ江の手では開けるのが難しそうだ。
「サチ江さん、いまはそれどころじゃないでしょう。ひとが死んでいるんです。はやく警察を呼ばないと」
「御人形さまが先だぁ!」
木扉の上部には枠に囲われたガラスののぞき窓が横にならんで三つついている。背の低いサチ江は腕を伸ばしてのぞき窓を指さした。
のぞき窓は新橋の目線とほぼ同じ高さにある。仕方なく新橋は本殿の内側を覗くが、中は暗く、物の陰がぼんやりと浮かび上がる程度だ。新橋はコートのポケットに懐中電灯があることを思い出した。東京のアウトドアショップで買った小型だが光量が多いものだ。家を出る時はいくぶん外が暗かったので念のために持ってきたのだったが、まさかこんな形で使うことになるとは思いもしなかった。
懐中電灯の細い光を覗き窓に注ぎこむ。新橋は横にある覗き窓から室内をうかがった。
「え」
その言葉と共に、懐中電灯が新橋の手からこぼれ落ちた。
新橋は御人形さまを見た。御人形さまは左右に伸びた両腕を、本殿の壁から伸びた二本の木片においていた。
両脚は下に向けてだらりと垂らし、床から数センチの高さで浮いている。頭は新橋から見て左に傾いていた。
御人形さまとは藁人形だった。何本もの稲藁を束ねて作られた、人間よりも大きな藁人形。それが御人形さまの正体だったのだ。そう。ただの藁人形。くすんだ色の藁人形。しかし、しかし、しかし――
「あ、あ、あ……」
腰を抜かしその場に崩れ落ちた新橋は、足元に転がる懐中電灯を取ろうと手を伸ばす。だが指が震えて握りそこね、懐中電灯は石段を転げ落ちていった。
サチ江が新橋に必死に問いかける。新橋にはその声が届かなかった。サチ江の下北弁が難解だったわけではない。彼は自分の網膜に残る冒涜的な御人形さまの姿を消し去ろうと必死だった。
新橋が見た御人形さまは、腹部を中心に赤黒く染まっていた。
それと同じ色を新橋は数十秒前に見た。雪の上に転がる男の腹部に拡がるものと同じ、陰鬱なる色が御人形さまを染め上げていたのだった。
5
2021年 2月 17日 水曜日 20時 19分
その男が現れると、室内の捜査員たちは一同に席から立ち敬礼を向けた。
針のように細い体躯を揺らしながら、男は自身に向けられた敬礼に見向きもせず壇上に上がった。
「これより、丸子本部長より捜査員一同へ激励のお言葉をいただく。みな、心して拝聴するように」
男の横で大道栄治警視が声を張りあげた。捜査員のみならずこの警察署長も相当緊張しているらしく、ぎくしゃくとした足取りで、壇上から降りた。
一度くすりと鼻で笑ってから、丸子は壇上のマイクに顔を近づけた。
「大道警視、話が違いますね。わたしはただ殺人事件の捜査本部の様子をうかがうだけと言ったはずなのに。まぁいいか。みな、ご苦労。腰を降ろしてくれ」
丸子の合図で捜査員たちがパイプ椅子に着いた。捜査員たちの両目が羨望の色に輝く。ある者は丸子の言葉をひと言も聞き漏らすまいと全神経を両耳に集中させ、またある者はポケットの中でこっそりと私物のスマートフォンの録音アプリを起動した。
「きょうわたしは、ここむつ市内で催された、飲酒運転被害者支援フォーラムへ参加するために下北半島を訪ねてきた。明日も朝早くから仕事があるので、フォーラムが終わり次第青森市内に帰るよう秘書たちから口を酸っぱくして言われていたのだが――」
丸子は鷹揚に首を左右にふった。
「青森県警本部長として、殺人事件の捜査本部の様子を確認することなく帰路につくわけにはいかない。そう考えた所存だ」
捜査員たちの中から感嘆のどよめきが漏れ出した。大道警視にいたっては、涙ぐんでレースのハンカチで目頭を拭っていた。
「殺人。これほどまでに残忍で、これほどまでに人の道を外れた行いがあるだろうか。私利私欲のために他人の命を奪うなど言語道断だ。被害者の無念を晴らすため。また事件への恐怖から夜も眠れず不安に苛まれる市民の皆さまのためにも、一刻も早く殺人犯を確保するのだ」
「「「「「「「「「「はい!」」」」」」」」」」
捜査員たちが絶叫に近い声量で返し、むつ市警察署の庁舎が揺れた。覇気に溢れるこの雰囲気を前に、丸子は満足そうにうなずき壇上から降りた。
丸子に代わり捜査本部の指揮をとる刑事部長が壇上でマイクを手に事件の概要を語りはじめた。当然、捜査員たちは昨日留守部村で起きた殺人事件の詳細を既に頭の中に叩きこんでいる。つまりこれは、事件について今日初めて耳にした丸子へのものなのだろう。当の丸子本人は、恐らく署長室から運ばれてきたであろう革張りの椅子に座り、真摯な表情で刑事部長の言葉に耳を傾けていた。
「おまえ、丸子本部長のこと知っているか」
後方の席に着くベテラン刑事が、相棒の若手刑事の耳元に顔を近づけた。
「すごい人だってことは聞いていますよ。十一年前に起きた『笑うランタン事件』が解決されたのは、当時警視庁で刑事部長を務めていた丸子本部長の尽力が大きかったとか。若いころから警視庁でバリバリ働いてきたキャリアなんですよね」
「それだけじゃない。あのひとがすごいのはな、自ら望んで、僻地への転勤を望んでいるってとこだ」
「どういうことです」
「警察キャリアってのは昇進してなんぼの世界だ。昇進するためにはハデな成果を上げなきゃならない。ハデな成果ってのはどこで手に入る。都市だ。都会だ。ドハデな事件がばんばん起きる大きな街だ。人口減少率ランキング上位常連の青森県で仕事をしたところで、キャリアの経歴にとっては大した価値にはならない。だからキャリアは地方での仕事を嫌う。都市部への辞令は期待されている証だし、地方への辞令はその逆だ」
「それなのに、丸子本部長は……」
「自ら進んで地方への転勤を希望しているそうだ。青森だけじゃない。ここに来る前も人口が少ない地方での仕事を希望し、点々としてきた。だが決して怠け者というわけではない。キャリアとしてキャリアらしくキャリアの仕事を全うし、その評価も高い。あのひとはな、ひとの嫌がる仕事を進んでおこなう警察官の鑑のようなひとなんだよ」
「なるほど。しかし苦労人みたいですね。年齢はまだ五十過ぎと聞いていたのですが、七十近いおじいさんみたいな見た目じゃないですか。あんなにやつれて、頭も白髪だらけ」
そんな会話が捜査本部の最後方で行われている頃、皮張りの椅子に座る丸子は背もたれに身体を預け、もごもごと口の中でなにか言葉を転がしていた。
刑事部長による事件概要の説明が終わり、会議は各捜査員による今日一日の捜査報告に移る。ひとりの捜査員が、事件当夜に留守部村を訪ねてきた謎の人物についての報告を始める。その謎の人物は村人の親族でもなければ友人知人の類でもない。留守部村には観光資源もないので観光客とも言い難い。では彼らの仲間なのかというと、村人によればそういうわけではないらしい。何の目的で留守部村に現れたのかは不明。捜査員たちはこの謎の人物との接触を試みているが、昨日に続き今日も、諸般の事情で失敗に終わった。
「……平穏だ」
おおよそ殺人事件の捜査本部には似つかわしくない言葉が漏れ出る。丸子のもとに熱い緑茶を運んできた女性警察官が目を丸くするが、何かの聞き間違えと自分に言い聞かせてその場を去った。
「なんて平穏なんだ。あの男に関わらずに済むというのは。本当に平穏だ。この先ずっと、退職するまでわたしはこうして平穏に――」
「で、そいつの名前はなんと言ったかな。この漢字、読めないんだよな」
「恒河沙です。上の名前が恒河沙で、下は――」
捜査員が壇上の刑事部長にそう答えると、室内に陶器が割れる音が響いた。
室内の注目が音の方に集まる。丸子の手元にあった湯飲みが床で割れ、緑茶がタイルカーペットに染みとなって広がっていった。
「ご、ご、ご……」
丸子の全身が携帯電話のバイブレーションのように震えだした。その反動で丸子が着いている椅子もガタガタと小刻みに揺れ、少しずつ左に移動していく。
「ご、ご、ご、ご、ごう、ごうう、ご、ごううぅううう」
白い泡を吐き始めた丸子は、かきむしるように自身のネクタイを引き延ばし、ワイシャツの胸元を乱暴に開いた。ボタンが宙を舞い、大道警視の額に当たる。捜査員たちは、本部長の豹変を茫然と見つめることしかできなかった。
「ごぅ、ごぅ、ごうして、ごうしてここに、ごぅがしゃがぁぁぁぁ!」
クラクションのような丸子の絶叫が室内に響き渡った。丸子はぴょんと立ち上がり、両腕で頭を抱えながらフラフラと墜落寸前のUFOのように室内を漂い始める。テーブルにぶつかり、資料棚にぶつかり、何人かの捜査員をなぎ払い、最後に窓ガラスに激突して粉々に砕くと、上半身だけを真冬のむつ市の外気に晒しながら意識を失った。