黒い英雄
マルクスが産んだ化け物は一億人を殺害し、農民を想う青年革命家を赤い皇帝、人類史上最悪の独裁者に変えた。思想と権力に翻弄された人々の物語がここに始まる。
ここは地球最大の人口を誇る大国、大エリス帝国である。中世には群雄が割拠し、諸王国が興亡したスーダ半島の大半を占めるこの国は、18年前に立憲君主制に移行し、皇帝は傀儡となった。古くから農耕地帯として栄えたこの半島は10億の人口を誇ったが、近年の外国経済勢力の侵入により貧富の格差が拡大し、飢える農民が人口の大半を占めるようになった。大半の農民は土地を持たない小作農であり、収穫物の大半を地主に収める貧農であった。
この貧しい大国を率いるのは、最後の絶対君主であり、自ら欽定憲法を定め、政党政治へ道を開いたエリス大帝の外戚クルーバル率いるエリス民主党である。民主党は極端な制限選挙の下長期政権を維持し、民主主義を切り開くべく奮闘したが、選挙権と豊富な資金を有する大資産家、大資本の利益へと誘導され、人口の大半を占める農民を顧みない政治を行なっていた。農民を中世から苦しめ続けた基礎小作料の上限が撤廃され、農民の逃亡を防ぐための国内パスポート制度も導入された。10億の貧民は乞食をしたり子を捨てて生き続けようとしたが、農村には悲惨な光景が日常となっていた。民主党政権は経済の成長で難関を乗り切ろうとしたが、諸外国は貧困に喘ぐエリスに次々と侵略の魔の手を伸ばし、既にスーダ半島南端は準国家企業カルベルの植民地に割譲され、内陸部の大都市アンドンコンには強力な外国軍が駐留していた。外国勢力との不平等条約と不平等な軍事同盟は日にひに国を蝕み、民主党政権は主権国家を維持することさえおぼつかなくなり、ついにカルベル社の世界植民地帝国の一員となろうとしていた。
そんなこの国の農村、コルドチュン村でティルスリークスは生まれた。西暦1900年である。ティルスリークスはイスラム教徒の両親に育てられた。この子供は抜群の記憶力を誇り、親がコーランやイスラム諸指導者の歴史書を覚えさせると見事に暗記し、3歳にしてイスラーム教を理解した。この村はイスラム教徒が大半を占め、村民は毎日礼拝を欠かさず行なっていた。荘厳なミニアチュールが刻印された聖アストームドのモスクははるか聖地に向けて首を垂れる民衆で溢れていた。父はソンミニ・アグムと姓を持っていたが、母はクートと名のみであった。女性に姓が与えられない風習があったのである。リークスの家は裕福な土地をもつ農家であり、村の名士であった。アグムは村議会に影響力をもち、選挙になると投票にいく権利を持っていた。5歳のリークスは投票日になるとよちよちと歩き、将来の投票の予習として投票所に連れて行かれた。その道中にて、幼少のリークスは疑問に思った。なぜ、投票日に投票所に向かう村の道に薄いボロ布を纏った乞食が溢れるのだろうと。これが、ティルスリークスが自身の住む国、そして社会に疑問を抱いた瞬間であった。
死去するまで三十年間エリスに絶対的に君臨し、極端な軍事政策で1億人の人民を死に追いやる独裁者となる彼が、社会制度の転覆を純粋な心に描いた最初の瞬間であった。