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李徴VSティガーマスク

作者: 勝華麗


 ガォオオオオ!

 

 白く輝く月の下――中国のとある山中にて、二重の雄の咆哮が響いた。

 

 片方は、虎。

 アモイトラと呼ばれる種で、かつての中国にて広い分布で生息していたが現代では絶滅危惧種とされている。

 チーターに近い貌で頬から口先までが細く、赤みがかった縞をしているのが特徴だ。

 

 再度、虎は威嚇をする。巨岩の土砂崩れにも勝る大声で、山羊の角のような太く長い牙を伸ばした。

 

 通常のアモイトラの体長は二五〇センチメートル前後くらいなのだが、この虎はそれよりも五〇センチメートルは大きい。もはや虎というよりはクマのようだった。

 

 そんな凶暴な存在の虎は、なにに吠えているのか。

 

 獲物が竦みあがる視線の先にいたのは、人間の男だった。

 

 裸だ。

 

 胴体にはなにも纏うことなく、下半身にハーフパンツと顔面をマスクで覆っているだけだ。マスクは、虎を模していた。

 

 男の名前は、ティガーマスク(虎面人)

 中国のプロレス業界においてスターとされる名選手。現在のテレビにおいてその姿が映らない日はないとされ、マスク姿で人目のあるところに出れば喝采とともに行列ができあがる。

 富と名誉と強さ。男ならば誰もが羨む全てを手にした人物だ。

「ガァアアアア!」


 ティガーマスクも虎に負けじと吠えた。虫歯ひとつない親知らずまで綺麗に生えそろったまっ白な口内をかっ広げ、鍛えあげた強靭な腹筋を震わせて腹から声をあげる。

 天に与えられた才能と血が滲むほどの努力によって超人に至った戦士(プロレスラー)の姿がそこにあった。


 近くの川の水面に映る月が、振動によって崩壊した。

 

 虎が走った。

 四足による跳躍は、一気にトップスピードまで加速する。

 

 速い。

 

 トラの最高速度は時速六〇キロ程度とされるが、この虎はチーター並みの一〇〇キロで宙を疾走していた。


「……」


 ギリギリギリ……


 ティガーマスクは、拳を握って胸を張った。

 前面の筋肉を痛むくらい限界まで延ばすと、縮む力に背筋のバネが反発する力を上乗せして拳を前方に繰り出す。


 ナックルアロー。


 十平方センチメートルもの巨大な鏃が、虎の眉間を捉えた。


 前進が停止し、ミシィ、ととても重い音が聞こえてきた。


 渾身の一撃。

 どんな強敵だろうと、脳震盪によって意識を奪われてしまう。


「……ガォオオオオ!」

 

 しかし虎の目蓋は閉じられなかった。

 

 尻尾を棒のようにして地面へ叩きつけると、再加速によって追撃を開始する。

 

 全力を費やしたことによって力を失っていたティガーマスクは押し倒された。


「ぐっ」


 押し返されることも予想していたティガーマスクは先に自分から倒れこんでいた。上から落ちてくる虎の爪を転がって回避した。


 グシャア、と地面が抉れる。


 三〇〇キロを超える重み。力士以上の重さにのしかかられたら、さしものティガーマスクもろくに抵抗できずに潰されていた。


「グルルルル」


 鼻息を荒げ、いきりたつ虎。すぐさま二度目の飛びかかりを行う。


 体勢を立て直したティガーマスクは、背を向ける。


 諦めて逃げようとしている。

 いくら鍛えようが所詮は人間、虎に勝てるはずなどなかったのだ。


 だが虎は手を緩めない。獲物を仕留めるために、牙をナイフのように背へ振り下ろした。


 ギュルッ


 ティガーマスクが土を左足の指で掴みながら回ると、夜空に大潮の月を右足の踵が描いた。


 後ろ回し蹴りは、肉食獣の死角を突いて、虎の首へヒットした。


「!」


 空中にいて抵抗がなかったため吹っ飛ぶ虎。


 そのまま地面へ倒れると思いきや、


 グルン


 宙返りして、背中からではなく足から着地を決める虎。猫科の動きではあるのだが、この巨体で小柄な猫のように軽快な動作をしてしまうことに対しては、驚くしかなかった。

 

 息をする間もなく敵へ反撃する虎。ティガーマスクも迎え撃つ。

 

 このふたりの激闘の幕開けは、数刻前の夕方からだった。

 



 朝から、ティガーマスクは山道を登っていた。

 

 整備されてない山は険しく、真っすぐ歩くだけでも地面が平坦でないためバランスが取れない。常に周囲が森なため、視認によって現在の居場所を掴むこともできなかった。

 

 普通ならば自殺者か未開の場所を調査しにくる探検家しか来ない場所であるのに、ティガーマスクの装備はおにぎりふたつ程度しか入らないポーチで、あとはまるでピクニックでも来たかのような軽装だった。

 

 現在のティガーマスクはマスクを着用していない素顔である。


 朴訥とした顔で、リング上で華麗な空中殺法を決める戦士にはとても見えなかった。

 Tシャツとデニムがはちきれそうなほどの恵体も、この面頬と合わさるとまるで畑仕事をしている農家のようだった。

 

 そんなティガーマスクだが、厳しいはずの山道をストックもなしに街の通路を散歩でもするかのように軽々と踏破していく。

 

 首を回すと、目を凝らすだけでなく、鼻と耳、そして肌と、五感全てでなにかを感じ取った。

 

 確信した表情になると、足をわずかに早めた。


 長時間の移動をしているはずなのに、息切れのひとつもない。

 

 五分後、彼は広場に出た。

 

 そこ一帯は開けていて、木がなく、草原だった。

 中央に、石の柱が埋まっていた。

 

 ティガーマスクは柱に寄ると、刻まれている文字を発見した。

 

 

 “閻豪”

 


 ベチャリ……


「!?」


 雨の中の泥を踏むような音が聞こえたため、ティガーマスクは振り返る。


 虎が、いた。


 ティガーマスクが戦っていたあの虎の姿がそこにあった。虎は鳥の死体を咥えていた。鳥から垂れた血を、虎はベチャリベチャリと踏んでいる。


 虎は、ティガーマスクと目を見合わせると動きを止めた。


 瞳孔が縮小した後、ドサリと牙から鳥を落とす。


「エン……ハオ……?」


 虎の口をつついて出たのは、獣の鳴き声でなく人間の言葉だった。


 ティガーマスクは唇を震わせながら、か細い音で鳴いた。


「はい」

「その声……本当に、エンハオなのか?」

「そうです。久しぶりです師匠」


 (エン)(ハオ)。リングマットから降りたティガーマスクの名前だった。

 



 周囲が暗幕に包まれている中で、薪をくべられた炎は星のように明かりを灯していた。


 火の上では、雉の一種であるイワシャコが踊っていた。

 積もった灰に向けられていた嘴。その先っぽが樹の根をさし、葉をさし、星をさし、また葉をさして、根をさし、灰に戻ってくる。

 

 スンスン

 

 イワシャコに虎は鼻を近づけた後、山で採掘した岩塩と干した草を細かく砕いたものを降らせた。

 虎は鳥の胴体を貫いている枝に、肉球を引っかける。

 そうしてから器用に枝を回転させて焼きを再開した。

 

 刺しているものとは別のY字の少々太めの二本の木の枝の間を、イワシャコは、グルングルンと飛び回る。

 塩の少し焦げた匂いがしたところで、虎は細い枝を持ち上げた。

 

 二匹いた内の一匹を、閻豪は虎からもらう。

 

 羽は既に焼け落ちていて、そのまま歯を突きたてても齧れた。

 硬い肉質を切るために何度も噛むと、塩で引きたてられた肉汁の旨味と脂の甘味が口内を気持ちよく満たしてくれる。

 血と内臓の苦みも味わいながら、イワシャコを閻豪は食べ終えた。

 

 塩と一緒にかけた臭み消しによって、最後まで匂いが鼻につくことなく香ばしさを楽しめた。


「……」

 

 ガツガツガツ

 

 嘴と足を持ちながら食べていた閻豪に対して、虎は地べたで食事をしていた。舌先で熱を確かめてから、フーフーと息を吹き当てる。

 

 少しぬるいなって感じるほどの温度になってから、虎は喰らいつく。

 

 嘴も爪も骨も残さず飲みこみ、こぼして土に染みた血を舐める。

 

 閻豪は手元の骨を火に投げ入れて、灰にした。


「懐かしいですね」

「ふーふー。なにがだ?」

「赤子の頃のボクにも、同じように冷ましてから食事を与えてくれた」

「……覚えているのか?」

「ええ。あなたといた日々は、絶対に忘れなんてしません」

 

 山に捨てられた赤子だった閻豪。

 

 野良犬に餌として食われそうだった彼を助け、拾ってくれたのが目の前にいるこの人語を介する虎だった。

 

 閻豪は、虎に育てられた。

 

 食事や寝床の提供。さらには山で生きる手段を教えられた。

 

 ある種、虎は閻豪にとって親のようなものだった。


「あなたとずっと一緒に生きていくと、ボクは思っていました」


 三年前、閻豪は虎に別れをつきつけられた。


 山を出て、人の世で暮らせと言う。


 どこから持ってきたのか、独り立ちするには充分すぎるほどの金も渡してきた。

 それでも嫌だと三日ほど閻豪は泣いてすがりついたが、寝て起きると、虎は自ら寝床から姿を消していた。


「本気でいなくなったあなたを発見できるほどの実力はボクにはなかった」

「おまえに山での術を教えたのは、私だからな」

「それだけじゃない。役人や研究者になれるほどの学まであなたに身に付けさせてもらっていた。虎であるあなたに、人の言葉まで教わった」


 人里に降りた閻豪は、最初に挑んだ役人試験に合格した。

 当時の閻豪はとりあえず世間を学ぶために工場のアルバイトをしていて、そこでできた知人の付き合いで試験を受けたのであって、そのための勉強なんてものは自分からはしていなかった。


「おまえは人なのだ。だからこんな野生に囚われてはならない」

「はい。ボクを人にしてくれて、ありがとうございます師匠」


 突き放した理由を語る虎へ、閻豪は頭を下げた。


 ふたりの間の炎が、パチパチと小気味よい音を立てて周囲を暖める。


「しかしせっかく役人になったのに、まさかプロレスラーなんてものになるとは……」


 虎は不満げに言った。


 閻豪は現在の自分がどういう存在なのかを食事前に伝えたのだが、虎はその時もこんなふうだった。


 言葉を濁す閻豪。


「それは……」

「まあ成功しているのだからよい。しかし所詮は水商売だ。いつ失業しても転がり落ちないように気をつけなさい」

「はい。重々、承知しております」

「ならばよい」


 虎は忠告を終えると同時に、口内の肉を丸呑みした。


「それで、今日はなんの用で来たんだ?」


 ゴックン

 喉を鳴らす音は、二重に聞こえた。


 閻豪は意を決した表情になった。


「いまさら、ただの里帰りというわけではあるまい?」

「はい。残念ながら」


 虎と別れたあの日、閻豪は虎ともう二度と会えないと悟った。最初に言った通り、虎に本気で逃げられた閻豪では見つけられないからだ。


 実は、山に来たのは今回で五度目。


 全てがここ最近によるもので、人里離れた険しい山を登るというのは一度するだけでも生死をさまようほど疲弊するものだ。


 そうまでして、なぜ急に虎に会う必要があったのか?


 星空からの光が薄くなり、閻豪の顔のほとんどが闇に潜む形となった。


「師匠。あなたの名前を知りました」

「――」

「李徴」


 ドドーン


 雷が落ちた。山の天気は変わりやすく、いつの間にか天は暗雲に包まれていた。


 一瞬、白く照らされた閻豪の目には苦しみと悲しみの色があった。


「――今日、ボクはあなたを殺しにきました」


 雨も降り出して、炎が消える。

 普通ならばなにも見えない暗闇の中だが、虎の猫目は変化することで周囲を見通す。


 閻豪――ティガーマスク。

 彼は戦のための仮面を被り、平らな牙によって威嚇することで闘志を示していた。


 もう一度、稲妻が山を白く染めた。


 虎は、踵を返した。


「来い」


 尻尾を上げて、歩き始める虎。

 ティガーマスクは少し迷ってから、獣へついていく。

 

 洞窟に、ふたりは辿り着いた。


「どういうつもりなんですか?」

「雨に当たり続けて体を冷やしたら風邪を引いてしまう。ここで待とう」


 浅い洞穴だが、雨宿りするには充分な深さがあった。


 穴へ入った虎の隣に、ティガーマスクは座った。


 殺意を証明されたにも関わらず、虎はティガーマスクの心配をしていた。


 その想いに、揺らいでしまう感情。


 ティガーマスクは雑念を振り払うために自分の今いる場所を確認する。指の先に、山の中では見慣れないものを発見した。


「師匠……いや李徴。なんでこんなところにノートパソコンが?」

「林に捨てられていた。最近、ここにゴミを捨てていくものたちが多い。社会が豊かになっても、これでは心は貧しいままだ」


 国の現状を憂う虎。

 ティガーマスクは自分がするべき話の邪魔になると感じて、パソコンについてはは放置することにした。


「宣室志(※山月記の元となった中国の伝奇小説)の登場人物で、人から虎になったもの。まさか実在したうえ、それがあなただとは夢にも思いませんでした」

「確証はあるのか? 私がただの人間の言葉を話す虎じゃないと?」

「役人になったボクは、仕事をこなしている内に自分の出自を知りました」

「……」

「本当のボクの苗字は閻ではなく袁。かの李徴の友人である袁傪の子孫だったわけです」


 最初はたまたま苗字が被っただけの偶然だとティガーマスクも思った。

 しかし調べていけばいくほど、かつて住んでいた土地や先祖を取り巻いていた状況から自分が袁傪の子孫だと確証を得ていくこととなった。


「本当の両親にも会いました」

「どうだった?」

「元々、役人の家系で裕福でしたが、当時有名だった詐欺グループに騙されて金を奪われる。借金まみれになったふたりは、稼いだお金のほとんどと同じ額の利子だけを返済し続けていました。今では、ボクが稼いだお金で借金は消えて、三人仲良く暮らしています」

「それはよかったな」

「そんな両親ですが、ボクのことは捨てなかったそうです」

「……」

「曰く、我が家の守り神である虎にこの子だけは救ってくれるように渡したと。その虎は、うちの家系の誰かが困った時にいつも救いの手を差し伸べてくれる存在だったと」

「……」

「あなたは、ずっと友の子孫を守り続けてきたんですね」


 風が強くなるとともに、雨の勢いも増していく。


 できた水たまりは、虎の顔を映していた。


「……袁傪は、親友だった」


 虎はなにもない遠くの風景に目をやった。


「人間だった頃は、私が見下していた一員であった。だが、あいつは虎になった私をも見つけてくれるどころか、馬鹿にされていたことも気にすることなく、私の勝手な願いを全て聞き入れてくれた」

「……」

「あいつが先に死んだ時、充分に借りを返すこともできなかった時点で私はこの命あるかぎりやつの血を継ぐものを守ってくことを決めた」

「……この先も、ずっとそうしていくおつもりですか?」


 ティガーマスクが口を開いた。


「実際の時間は分かりませんが、もしあなたが物語の通りの存在であるのならば、あなたは千年以上もボクたちに尽くしてくれました」

「覚えていない。時の経過など、この身を置き続けた自然では無意味だ」

「もう充分ではありませんか? あなたは虎からもいつ終わるかも分からない恩返しからも解放されてよいのじゃありませんか?」


 ティガーマスクは、仮面の下で瞳を潤ませていた。


「少なくともボクは、あなたを永遠の束縛から解いてあげたい。余計なお節介だったら言ってください。もしそうだったのなら、ボクはかつてあなたに言われた通り、二度ともう山に顔を出しません」


 ガサッ


 虎は、洞穴から出た。仮面の目元と違って、いつの間にか雨はやんでいた。


 ティガーマスクは再び、虎へついていく。


 広場に戻ってきた。


 ぬかるんだ地面で、ふたりは相対した。ティガーマスクを見つめる虎の表情は、まるで世を慈しむ老いた人間のようであった。


「閻豪よ」

「はい」

「私は、もう死を恐れていない」

「はい」

「だが、逝く前に教えてくれ。おまえたちが、もう私の手を借りることなく立派にやっていけるかと」

「……はい!」


 シャキンシャキン

 虎は爪を泥へ食いこませた。瞳孔が細長くなって光り、暗闇で獲物を狩るための夜目と化す。


 虎は食いしばることで牙を力強く揺らし、ティガーマスクは歯をかみ合わせる。


 雲が完全にどこかへ消え、月が姿を見せた頃にふたりはお互いへ向かっていった。




 虎虎虎。


 虎を模した男と虎になった男が上空で幾度となく交錯する。


 現在の戦場は広場や森を抜け、竹林と化していた。


 李徴とティガーマスク。

 お互い、竹を足場にして跳躍を繰り替えす。


「いける……!」


 打撃に、手応えを感じるティガーマスク。

 平坦な地面ではどうしても純粋なフィジカルの差が大きかったが、空中戦においての戦闘力はそれにあまり左右されていない。

 

 また竹は虎の重さを支えられないため、かなり李徴はやりにくそうにしていた。


「いい兵法だ」

 

 横を過ぎ去っていく李徴から、誉め言葉が聞こえてきた。


「ガァアアア」


 しかし李徴は再攻撃の姿勢になると、また虎のように吠える。野生を剥き出しにして、ティガーマスクへ食らいついてくる。


 負ければ食われる。


 本気の戦いなのだ。李徴だけが死というリスクを負うアンフェアは許されない。人間よりも虎となって過ごしたほうが長かった人生にかけて、李徴は虎として獲物を狩ろうとしている。


 凍えるほどの恐怖と強敵と戦える興奮の熱さがティガーマスクの背筋を駆け抜けた。


「グワァアアア」


 全力を振り絞ると、意識せずともティガーマスクは自然と叫んでいた。

 

 ソバット。クロスチョップ。ドロップキック。


 ティガーマスクが放つそれはプロレスの技であるが、どこか虎の動作に似ていた。当然だった。幼き彼に戦う術を教え、また幼き彼が真似をしたのはかの李徴という虎だったから。


 虎を模しているのは仮面だけではなく、戦い方そのものだった。


「なぜ役人という恵まれた立場まで捨てて、プロレスを選んだ!?」

「プロレスは、過去を捨てられない己にさえも偏見を抱かなかったから!」


 問答が、攻撃に乗って行われた。


「プロレスは、全てを受け入れてくれる!」


 拳が、李徴の喉にクリーンヒットした。


 そのまま落下することなく、虎も人も近くの竹に身を乗せる。


「はあ……はあ……」


 両者ともに息が荒れている。肉体が汗と傷塗れで、体力が限界に近づいていた。


 もうすぐ決着だということをどちらも悟る。


 これまでは五分五分。

 次からの攻防で一度でも優勢になったほうが勝利するに違いなかった。


「――」


 どちらからなにも言うことなく、両者同時に動いた。


 めいっぱい荷重をかけてしならせた竹から唸りをあげて飛翔する。


 ――月爪(げっそう)


 縦回転しながら爪をたてる李徴。

 同じく縦回転でティガーマスクは踵落としをして虎の手を弾く。


 ――山牙(さんが)

 着地すると、李徴は弾丸のような動作で噛みついてくる。

 ティガーマスクはスピンエルボーで虎の頬を貫いた。

 

 刹那の間に起こった空中殺法の応酬の後、李徴とティガーマスクはお互い手を伸ばせば届く距離で膝を屈し合う。

 

 マスク越しに虎の目線と人の目線が混じる。


「月爪と山牙を防いだのは見事だ」

「ずっと見ていましたからね」

「まさか、爪を膝に、牙を肘と見立てて同じ技を出すとはな」

「ずっとあなたを目指していましたから」


 李徴が先に立ち上がった。


「だが、これで終わりだ」


 ティガーマスクめがけて、李徴は爪を振り下ろした。


 ガッ


 肩が肉球に当たった。回避されたことに驚く李徴を尻目に、ティガーマスクはこれまでにない滑らかな動作で虎の背後をとった。


「どういうことだ!?」


 ティガーマスクの腕が、李徴の喉にくいこむ。

 チョークスリーパーの態勢に入った。


「知っていますか? プロレスって脱出不可能だと思われるピンチから逆転するものなんです」

「そのために力を隠していたのか!?」

「違います……声が聞こえるんです。頑張れ(加油)ティガー、負けるな(你别放弃)ティガーっていつも応援してくれるファンの声援が耳に届いてくるんです。するともう限界だと諦めていても、力が湧いてきちゃって」

「そんな非科学的な。ウググ」


 力がこめられると、呼吸を妨げられて苦しみ始める李徴。


 四つ足になり、藪の中を疾走する。


 ティガーマスクはマフラーのように振り回されるが、決して離さない。その頭の中では、かつて背中に乗せられて一緒に山を散歩した思い出が浮かんでいた。


 懐かしい。


 茸や草の実をふたりで採取した。

 川で泳いだり、水遊びをした。

 冬の季節には体を寄せて眠った。


 故郷とも呼べる光景が、育ての親に背負われながら横目に映って過ぎ去っていく。


 殺しくたくない――だからこそ殺さねばならない。

 永遠の生命に伴なう孤独という呪いから、この男を解放できるのはもう自分しかない。


 誰よりも不殺を願うティガーマスクは、大泣きしながら山のような力瘤を盛り上げた。


 ピュルルル


 李徴は、虎の鳴き声とはかけ離れた音を喉から響かせた。


「……」

 

 ガクン、と落ちる虎の頭部。

 

 加速も止まり、堕ちたことを確信したティガーマスク。実は最初からこうして寝技に持ち込む予定であった。李徴から様々な体術を教わった彼だが、寝技に関してはプロレスを始めてから習ったものだったため一日の長があると考えてのことだった。

 

 トドメを差すために、肩を捻って脊髄を折ろうとする。


「くふっ」


 唐突に、ティガーマスクの脇腹に針のようなものが刺さるような痛みが生じた。


 虎は動いていない。


 ではなんだ?


 ティガーマスクが見下ろすと、そこには先ほど自分が食したはずのイワシャコが嘴を突き立てていた。


 一瞬、思考が暗闇に包まれた瞬間にティガーマスクは地に背中をつけていた。


 虎の牙が、目の前にあった。

「起きたか!」


 回復力の速さに驚嘆するティガーマスク。逆転した李徴は、そのまま食い殺そうとしてきた。


 この絶体絶命の危機に、ティガーマスクは冷静だった。


 虎の顎を肘でかち上げながら、地面を滑る。そのままスルリとバックを取る。


「寝技では、こっちのほうが上だ」


 イワシャコについては運が悪かったが、もう一度、同じような不覚は取らない。ティガーマスクは、今度こそ李徴の命を奪おうとした。


 ――虎が吠えた。


「虎が寝技を使えんと誰が言った!」


 首を嵌めた右腕の輪の中から、まるで液体を入れた袋のようにスポっと虎の頭が抜けた。


 骨が無いかと錯覚しかねない動作で、李徴は大地をヌルヌルと動き回る。

 ティガーマスクが腕十字を仕掛けるが、靭帯を伸ばさないように腕をロックしながら足を絡ませて切る。


 教本通りの理想的な抜け方だが、ずっと独りで山に籠っていたこの虎がどうしてそんなことができるのか。

 

 訳が分からずに混乱していると、ティガーマスクの四肢が絡めとられながら宙に浮かされた。

 

 ロメロスペシャルだ。

 

 腕を足で掴まされ、足を腕で掴まれているという本来のものとは若干違う形だが、それは確かにプロレスの技術だった。


「い、いかん」


 正気に戻ったティガーマスクは、無我夢中で技から脱出しようとする。


 首を上下に振って、その反動を使う。


 だが、ティガーマスクの首もまた落ちた四肢と同じように絡めとられた。


 縄のような触感から、尻尾だと理解できた。


 ――渓山明月(けいざんめいげつ)


 人間にはない部位を使った虎独自の寝技。プロレスでもない今までの虎に教わったものでもない新技に、ティガーマスクの肉体は絶叫をあげた。


 ……この虎を……この人を孤独にしてはいけない。


 自分だけではなく先祖代々からの恩に報いるため、奮闘するティガーマスク。だけど彼にも限界はついに訪れてしまった。

 光り輝く月が、山の頂上に隠れるように落ちていった。




 ワーワー

 

 メルセデス・ベンツアリーナは、今日もプロレスを観に来た客で賑わっていた。


 セミファイナルが終わると、観客はメインに最大の期待を寄せる。今回の試合はどれも素晴らしく、会場は数年に一度のヒートアップをしていた。


 タッグマッチのヘビー級王者がリングに上がると、あとは挑戦者を待つ。

 わずかな間の後、ふたりの対戦相手がゲートから姿を現した。


「きゃー! ティガー!」


 ひとりは、もはや中国人なら誰もが知っている看板選手のティガーマスク。

 シングルでのチャンピオンベルトを持っている彼に、ベルト統一の夢をファンは見る。


 もうひとりは――


「虎だぁあああ!」

 

 会場騒然。

 

 予想もしていなかった一匹の登場に、興奮混じりの悲鳴をあげる。

 

 喧騒の中を、虎とティガーマスクはリングまで突っ切っていく。

 

 到着すると、すぐに鳴るゴング。


 混乱の最中での試合開始を受けながら、ティガーマスクは一か月前のことを思い出した。



『閻豪。おまえ、タッグマッチに弱いな』


 決闘の後にティガーマスクを待っていたのは、死ではなく気絶からの復活だった。


『確かにボクは、タッグを組んでも連携が下手で失敗しています。役人だった時もそうだったんですが、どうも自分は普通の人とはどこか違うようで』

『私に育てられたのだ。人里にいたものとの相違も無理はあるまい』

『でも、なぜ師匠が知っているんです?』

『それは……まあ理由はともかく、さっきおまえは小鳥の不意打ちをもらった』


 どうやらイワシャコの襲撃は偶然ではなく、李徴が意図的にやったものだったらしい。

 気絶する前の笛のような鳴き声で、鳥を操ったのだ。長年、山に君臨する虎はもはやこの場所の主のようなものだった。

 敗北し、自らの弱点を指摘されてティガーマスクはうなだれた。


『だから私が責任をとる』

『え?』

『根っこから同じ感性をしている私がタッグを組んで、おまえを育てる。プロレスは、全てを受け入れてくれるのだろう?』

 


 ティガーマスクは李徴を連れて山を下り、つい先日まで彼を試合に出場できるまでの交渉をした。

 

 ワァアアア!

 ティガーマスクがラリアットを決めると、会場が沸いた。


 倒れた相手がパートナーと入れ替わるのを見ると、彼もまたすかさずコーナーマッドに寄り沿う。


「ここからは任せましたよ師匠」

「ああ」


 種族の違う掌をぶつけると、ついに李徴がリングへ上がった。


 驚きでどよめく観客たち。


 奇異の目線でも見られる中、李徴は相手に突進を仕掛けた。


 グギギギギ


 熊のような背格好のプロレスラーに肩を掴まれて止められる。力強さでは、この男は虎よりも上だった。


 持ち上げると、マットに李徴を叩きつけた。


(つ……強い……)


 倒れる李徴。上から体を踏まれてフォールされる。


 審判のカウントが、隣から聞こえてくる。


(数字が進むごとに客が騒いでいる……何度も見た光景だ……)


 ネットを通じて放送されるティガーマスクの試合を李徴は観戦していた。親友の子孫が戦うたびに手に汗を握って応援した。


(閻豪が楽しそうなのを見るたびに、私も嬉しくなった)


 最初はティガーマスクの活躍だけを見ていた李徴だが、いつしかプロレスそのものに興味を持つようなった。


(私もああなりたい。みんなに目の前で褒められたいと考えるようになった)


 李徴の手足に力がこもった。


「ワン、ツー、ス――」


 二.五秒で立ち上がった。


 李徴は敵へぶつかると今度は真っすぐではなく、捕まった瞬間に柔らかな肉体を活かして回りこんだ。

 背後からプロレスラーの両腕を閂のように極める。


 タイガースープレックス。


 ブリッジのまま三秒を迎えると、審判から勝利が伝えられた。


「やったー師匠!」

「あ、ああ」


 リングに上がってきたティガーマスクが勝利を称える。


 マイクを手渡されて静まる観客の前で、李徴は立ち尽くした。


「え、えーと。これはどうすればいいのだ?」

「フィニッシュ決めた師匠がなんでもいいから言えばいいんですよ。そのためにみんな黙ってくれたんですか」

「そ、そうなのか」


 李徴は、昔、自分を軽蔑した目で見ていた役人たちを思い出す。


 あの時は驕っていた。そして世の中を愚かだと考えていた。だからああされるのも仕方なかった。

 だが永劫にも近い時を生きた(李徴)は、その長い命による確かな自分の変化を感じると、胸を張って叫んだ。


「偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃

 今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高

 我為異物蓬茅下 君已乗軺気勢豪

 此夕渓山対明月 不成長嘯但成噑」


 パチパチパチ! ワーワー!

 

 素晴らしいファイトと詩に、観客は拍手と賞賛を示したのだった。李徴は、心に欠けていたものがその時に戻ってきた気がした。


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