ロイの涙
アーレンゼルを乗せた馬車は、王宮を出てマドラス公爵邸に向かった。
厳重な警備は、そこに公爵令嬢が乗っていると思わせるに十分だった。
馬車の窓からは、美しい横顔の令嬢が見える。
馬車の横に騎乗したロイが並走する。
窓から見えるのは、よく似ているがメリーアンジュではない。
メリーアンジュを守る為とわかってはいても、悲しみが止まらない。
王家相手に不利はわかっていた。
だが、マドラス公爵が娘に王妃の苦労を厭った為に、ボーデン公爵家と王家は甲乙つけがたい嫁ぎ先であった。
可愛いアンジュ、どんどん綺麗になって目が離せなくて、惹かれて。
10年の恋は叶わなかった。それでも恋は終わらなくて。
ここで自分が死ねば、アンジュは自分だけの為に泣いてくれるだろう。
抗い難い甘い魅力。
ベルンストと誓った言葉が甦る。
ずいぶん昔に、お互いに誓った。どちらかしか選ばれない。それでも共にいようと、国の為に尽くそうと誓った。
ベルンストはいい奴だ、立派な王になるだろう。
自分はそれを支えたいと思う気持ちに嘘はない。
それでも、涙を止めることができない。時が過ぎれば終われる気持ちなのか、今はわからない。
馬に揺られながら、流れる涙を隠す。
メリーアンジュはどちらも選ばなかった。
未練がましいとは、わかっている。
メリーアンジュが選んだのではないのだ。
マドラス公爵の意が大きいだろうが、議会が王太子の婚約者としてメリーアンジュを選んだ。
王宮がどこよりも警備が強く、魔力による防御も高い。
メリーアンジュに生きて欲しいと願う。
何より大切だから。
誰よりも幸せになって欲しいから。
誰よりも幸せにしたかった。
自分が泣いていれば、メリーアンジュが悲しむ。
自分を想って、メリーアンジュが悲しむのが嬉しく辛い。
馬車の窓から、アーレンゼルは無表情に馬を走らすロイを見ていた。
予想どおり、馬車は賊に襲われた。
そんなことは想定のうちだが、予想外のことがあった。
賊の数が多い、100人ではきかないだろう。
傭兵が雇われているというよりは、貧民層の人間が集まっているような感じだ。
手に持つ武器は、剣の者もいれば、ただの鉄の棒の者もいる。魔法を使える者は多くないだろう。
「女神の血だ」
「どんな願いでも叶うんだ」
「生き血だ」
聞こえてくるのは信じたくない言葉。
底辺で生きている者達には、希望の言葉だとしても尋常ではない。
「容赦はいらない!
死ぬ気で来ている、手加減するとやられるぞ!」
ロイが叫ぶ。
我が国の国民なのだ、それを手にかけないといけない。
ユークレナ結社が流した情報に操られているとはわかっているが、それでも人間としての一線を越えてしまった人々だ。
貧しい生活は国にも責任があるのかもしれないが、今はそんな余裕はない。
いくら精鋭隊といえど、群衆といえるほどの数の多さに苦戦する。
各々が防護の魔法をかけ直しながら、剣を振る。
馬車の中から、アーレンゼルが魔力を飛ばして暴徒を撥ね飛ばす。
数で馬車にたどり着けるなどと思わせてはいけない。
同じような輩を出さないように、絶望を与える。
「女神を寄越せ!!」
人々が、叫ぶ。
ユークレナ結社の人員はどこかで見ているのかもしれない。
人々が欲にまみれ、混乱し、争乱を起こす様子を。
最終的にメリーアンジュを手にいれる為に、人々を迷わせる甘言を与えたのだ。
ロイは群衆の中に入っていき、剣を振り下ろす。
涙が止めどなく流れている。
国を守る為に、国民を斬っている。
豊かな国を願い、鍛練してきた。
ユークレナ結社、必ずつぶしてやる。
メリーアンジュの為に。
国の為に。
自分の為に。
よくも、僕に民を斬らせたな。
どんなに数が多くとも、統制もとれていない暴徒では、勝ち目はなかった。
マドラス公爵の家紋の入った馬車の周りには、数えきれない骸。
兵士達もロイもアーレンゼルも身体よりも心の傷から血と涙が流れていた。
誰も何も言わない。
言葉がみつからない。
馬車の扉が開き、アーレンゼルが降りてくる。
アーレンゼルは骸を踏まないように、ロイに近づく。
ドレスの裾が埃と血に染まっていく。
それを見て、ロイから、あ、と言葉が漏れる。
アーレンゼルは返り血で血塗れのロイを抱きしめる。
「ロイが、一番優しいとわかっている」
そっとアーレンゼルが囁く。
「あああああ!!」
獣のうなり声のようなロイの嗚咽が響いた。