予見
意味深とも思える言葉を発していることもあったが大概にしておかないと思うのだ。三枝が出ようとすると店主の表情が何時も以上に穏やかだった。
「世間じゃ世知辛い世の中だというけどさ、捨てたもんじゃないと思うんだよ。災害が起こったとしても助けてくれる存在があるんだから。恨み節ばかり言ってもしょうがないけど。助けるのは最後は人でしかないんだから。」
そう言いかけるように言うのは高校生の時に訪れたときと変わらないのだ。ノイズのように嘘を畳みかける人もいるが、そうじゃない人のほうを探すほうが早いだろうから。インターネットが発達しただけでも良かった部分と違う部分にあふれてしまっているだろう。世の中から縁を切るのが難しいことを知っているのならうまく付き合っていくほうを選ぶだろう。
「そうですよね。泣き言を言っても嘆きごとを言っても救ってくれるのは人なんですよね。恨み、ねたみ、憎しみ、悲しみとかに沈んでしまうときがあるかもしれないですけど・・・。何時か雨はやむし、晴れるのを待っているのもいいかもしれないですね。」
「そうだろ。・・・そんな話をしていたらうまいコーヒーが冷めちゃったんじゃないのかな。」
いただきますといってコーヒーを飲んだ。冷えてもうまいものもあるのだ。それを思ったのだ。空を見つめていた時に思うのだ。今は曇っているかもしれない。雨が降っているかもしれない。だけど、最後にはありったけの光が降り注ぐ晴れとなるのだ。悲しみに嘆くときはあるのだ。見た目の復興というのは進んでも中身の復興は取り残されてしまうこともあるのだろう。それを取り除くのは人になってくる。口先だけではわからないのだ。政治家による自分たちの評価集めなど戯言でしかない。忘れて去っているのはきっと政治家のほうなのかもしれない。全ての現象を天災を言い訳をしてしまうほど愚かであっていいのかと。
「おじさんのコーヒーはうまいな。・・・10年前は何を飲んだかな?」
「当時は高校生だろうから、俺が入れたコーヒーにミルクを足したんじゃないのかな。」
そう聞いて思うのだ。世の中というのは混ざりあった人並みにおじけづくことなく進むのではなくて、助けを求めたりしていくことが正しいことじゃないかと。きれいごとをいくら並べても何かに変わる力をもっていないのだろうから。それなら動いてくれる人達のことを思うほうがいいのではないか。冷えた世界を恨むほどの力は破壊に導くことはあってはならないから。




