雫の祝福
よろしくお願いします。
遠くに見える一軒家には、どうやら普通の人間が住んでいるようだった。
私は、草に紛れながらじりじりとその一軒家に接近する。丘を伝って視界を遮り、時に植物や泥を纏って、そしてその家にたどり着いた。
一人の女性が、洗濯物を竿にかけていたところだった。網かごに物干し竿、ひらひらと舞い踊る蝶、揺れる草花。いかにも牧歌的であり、ここに来る前にも見たことがないほどだ。
私は一日しばらく女性を観察することに決めた。建物の物陰から彼女を観察していると、やがて彼女は洗濯物を干し終え、家の中に入っていった。すると今度は台所にて食材を取り出し、料理を始めた。玉ねぎ、人参、ジャガイモ…彼女は具材を刻んでいき、大鍋に放り込む。どうやら彼女はスープを作っているようだ。窓から覗いていると、そのいい匂いが漂ってくる。完成したのか、彼女は皿を取り出し、スープをこんもりと盛り付けていった。
彼女はそれを二皿盛り付けたところで、私が潜んでいるほうを突然振り向いた。そして、声をかけてきたのだ。
「隠れてないで出ておいで。あんたのためにたくさん作ったんだから、あんたが食ってくれないと無駄になっちまうよ。」
私は衝撃を受けた。私は、今ここで出るか出ないかに悩んだが、本当に気付かれているのか、将又、カマをかけているだけなのか、区別がつかなかった。悩んでいると、彼女は続けてこう言った。
「あの門が開いた時点で誰かが一人やってきてるってことはわかってるのさ。あの門は試練の門。神の試練を潜り抜けたものだけが開ける特別な門さ。あそこじゃ全く満足に飯も食べられないからねぇ、神の試練を乗り越えたあんたに振舞ってやるってわけさ。どうだい、それでもなおだんまりかい?」
私は、諦めて物影からゆっくり姿を現した。正直、肉体的には大丈夫でも人間らしい食事がとりたかった。常時精神的な飢餓に襲われるよりも好意に甘えたかった。私ですら知りえなかった情報を知っているのだ。対話すれば新たに得られる情報もあるだろう。
すると、彼女はやれやれ、といった風に微笑んだ。
久しぶりに飲んだスープはおいしかった。ただおいしかった。もしかするとただ野菜を煮て塩で味をつけただけのスープかもしれないが、今の私にはそれがただひたすらにおいしかった。大鍋に大量に入っていたスープが跡形もなくなるほどに夢中で食べていた。
彼女はそんな私の様子を見て、ふっ、と安心したように微笑んだ。
「あんた、目が生き返ったね。よかったよ。試練で人間の心を忘れちまうやつも少なからずいるからね。いやはや、安心したよ。」
彼女は食べ終わって人心地ついた私にそう言った。まるで母親のようだった。
私は彼女のことを知らないが、どこか、懐かしい感覚がした。不思議だった。訝しげな顔をして彼女を見ていると、食器を洗い終えた彼女はただ「後で話してやるから、今は眠りな。疲れているだろう。」と私をベッドへと追いやった。
途方もない時間あの迷路に囚われていた。それだけあって体への疲労は未だかつてないほどに甚だしかった。強烈な睡魔に襲われているのに、激痛が体のそこかしこを走り回るせいで眠れもしない。激痛のせいで体中が強張ってまともに呼吸もできない。時折気絶してはまた痛みによって覚醒し、そして痛みによって気絶する。一晩経って朝が来るまでがこんなに長いと思ったことはなかった。
朝が来て、彼女が私の様子を見に来た時には、私は起き上がれなくなっていた。痛みで声すら出せなくなっていた。彼女は、懐から液体の入った小瓶を取り出すと、その中身を私の口の中に流し込んだ。
「特別製の薬さ。あと一時間もすれば直によくなるだろ。まったくなんでそんなになるまで…」
彼女は呆れたような声を出しながらその場を去った。直後、痛みがさらに悪化し、自分でも驚くほどに瞬時に意識がシャットダウンされた。次に目が覚めた時には、あの痛みが嘘だったかのように体が元に戻っていた。筋肉にはこわばりがあり、まだ体はうまく動かすことはできなかったが、痛みは見る影もなく消えていた。
苦労をしながら体をベッドから起こすと、その音を聞きつけたのか彼女がやってきた。彼女は、私が眠りにつく前(あれを眠りとは言い難いが)とは打って変わって真剣なまなざしで私を見つめ。足のつま先から頭のてっぺんまで一通り見つめると、「ゆっくりでいい。リビングに来な」と言って踵を返した。
暫くしてから、私はリビングに出た。体全体が引き攣るような感覚が残っているが、歩けないことはなかった。彼女は椅子に座っていて、テーブルを隔て彼女に対面する椅子に、私に座るよう目線を配った。私がその椅子に座るなり、彼女は話し出した。今まで私が体験してきたことについて、そして、これから体験するであろうことについて。
「今、あたしとあんたがいるこの空間も、あんたが元居たであろう世界も、全て神様が作ったものなんだよ。そしてこれからあんたが行くであろう世界も、ね。あんたがくぐってきた試練の門は、これから為さねばならない事柄を達成するために必要な力をつけるためのものなんだ。試練の門をくぐってここに来た人間は、何かしらの使命を神から授けられているのさ。そしてあたしは、試練をくぐり抜けた者を一時的に保護し、加護を押し付けて行くべき世界に送り出す、神から自意思を授けられた命ある人形なんだよ。」
彼女は、テーブルにぐっと身を乗り出し、私の目を覗き込む。青く光り輝く瞳が、私を、私の全てを見通しているかのようだった。それを終えた後、彼女は椅子に座り直し、深くため息をついた。
「災難だね、あんた。」
彼女は、それだけ言い放って、家の外に出て行った。私はちょっとの間ぽかんと上の空だったが、すぐに気を持ち直して彼女を追って家の外に出た。外では、彼女は両手を宙に掲げ、ぼそぼそと何かを呟いていた。
神だとか、加護だとか、私は新手のカルトにでも勧誘されているのだろうか、と思ったが、すぐにその思考はかき消された。彼女が両手を掲げていた青空に「虚空」が現れたのだ。途端に暗雲が立ち込め、雷が鳴り響く。穏やかだった風は嵐となった。
「あんたの使命は、ここより繋がるすべての世界、そしてこの空間の破壊さ。あたしを最初に殺すと繋がる世界は全部散り散りになっちゃうから、ご丁寧に一つずつ潰して来いってさ。全く、遊ぶために作られたって言っても、簡単に殺されたくはないんだけどねぇ。」
彼女は、その虚空で私を取り囲む。それからずかずかと近づいてくると、左手を私の胸に突き入れた。私はただ唖然とそれを見ていた。何の衝撃も痛みもなく、ただ手が体の中に入った。まるで水に手を差し入れたかのようだった。彼女はその手を引き抜くと、虚空へと私を突き飛ばした。
「最後の試練さ」
彼女は、その顔に今まで見たことがないような悲壮感を漂わせていた。落ち行く中、彼女はただ私を見つめ、一言、呟いた。その言葉が一体何だったのかはわからない。ただ、
彼女は、泣いていた。
「ごめん、ごめんよ。きっとあんたは、その運命を嘆くだろう。きっとあんたは、自らを絶つだろう。神を憎むだろう。だがそれは、神が作りしあたしたちには、許されざる行為なのさ。だからせめてもの『呪い』を、あんたが狂わないだけの『祝福』を。」
「最後にはあたしと、死んどくれ。」
次回もお楽しみに。