7:宣戦布告~The New Transmission~
勇者が襲来した竜を討ち取った次の日の深夜。
人間の街はいつも通りの夜を取り戻していた。
そんな彼らの隙を伺い、スライムは保管されたウォータードラゴンの死体の中から、密かに抜け出した。
勇者の攻撃で白い部分の大半を失い、残っているのは赤い核周辺の僅かだけ。
聖剣に宿った力の影響なのか、触れても切り離された体を取り戻すことが出来ない。
元々の大きさよりも更に小さくなってしまったスライムは、人間達に見つからないように、体を引きずって静かに物陰に隠れた。
曇り空のおかげで隠れやすいのが幸いだ。
全身を使って周囲の気配を探る。
――”奴”がまだどこかにいるかもしれない。
それを考えるたび、恐怖で体が震える。
――“あの人間“に出会わないように。
――“あの人間”がいませんように。
月と街の光の合間を縫うように掻い潜り、スライムはそれだけを祈りながら、静かに“人の巣”から逃げ出した。
敗北者。
まさに弱者たるスライムにふさわしい称号だ。
ウォータードラゴンという借り物の力を過信し、溺れた者の末路がこれか。
人のいない方向へとひたすらに跳ね続けるスライム。
自分がどこへ向かっているのかもわからない。
その惨めな姿を慰めるかのように、やがてポツポツと雨が降り始めた。
周囲にはもう人影はない。
雨で体温を奪われても問題無いのは、この辺ではスライムぐらいのものだ。
やがて嵐となった空の下を、それでもスライムは跳ね続けた。
雷鳴の鳴り響く中、誰もいない小さな洞窟を見つけて駆け込んだのは、そろそろ日が昇ろうかという頃になってからだ。
★
スライムは震えていた。
雨音すらも遠く聞こえる洞窟の奥で、敗北の傷で再び小さくなった体を震わせて、スライムはただ震えていた。
絶対強者たる勇者への恐怖に。
そして不甲斐ない自分への怒りに。
スライムの知能は低い。
彼はその本能のままに、自分が何故戦うのを見失っていた。
太陽という栄光から逃げ、神の加護無き暗闇に隠れて眠る。
お似合いだ、自分には。
お似合いだ、貧弱なスライム風情には。
夜が過ぎて再び日が昇っても、スライムはただ惨めに震え続けた。
植え付けられた恐怖が常に片隅に佇んでいる。
ただひたすらに恐ろしい。
今は他のスライム達と身を寄せ合って、巣の中に隠れていたい。
スライムの知能は低い。
だから彼はこの時になって、ようやく思い出した。
――そうだ、スライムはもう自分しかいないのだった。
手持ち無沙汰に土を掘りながら、彼は仲間達と過ごしたを思い起こし始めた。
眠った仲間達を起こさないように、こっそりと巣を抜け出した朝。
昼間にしか表れない虫を捕まえて持ち帰った自分は、ちょっとした英雄になった。
一緒に鉱石を掘り起こして遊んだ夜。
一番大きな水晶を掘り起こした仲間をみんなで称えた。
地面を掘っていた体が止まる。
スライムの知能は低い。
しかしそんな彼にだって理解出来る。
……あの日々は、もう二度と訪れない。
どうしてこうなった?
その答えをすぐに見つけられるほど、彼は賢くない。
洞窟の外で再び雷鳴が響いた。
どうやらまたすぐに次の嵐がやってきたらしい。
変わった環境を受け入れきれないまま、スライムは再び土を掘り始めた。
★
二度目の嵐は過ぎ去った。
そしてスライムは震えていた。
絶対強者たる勇者への恐怖に。
そして不甲斐ない自分への怒りに。
彼は思い出した。
自分が戦っていた理由を。
自分が戦うべき理由を。
そうだ。
ここにはもう、自分しかいない。
そうだ。
この世界にはもう、自分以外にスライムはいない。
彼は体を引きずって洞窟の外へと出た。
空には嵐に置いていかれた雲達が残り、天頂にはスライムと同じような形をした白い満月が輝いている。
彼はそんな月明かりの下に銀色の体を表した。
掘り起こした金属を取り込み、滲み出た地下水を飲み込み、スライムは再び戦闘態勢へと移行した。
それは嵐の後の静寂か、あるいは嵐の前の静寂か。
珍しく物音一つ無い夜を見上げ、彼は体の形状をまるで金管楽器のように変えた。
ブォォォォォォォォォ!
大気が震え、世界に甲高い音が響き渡った。
体を膨らませて空気を送り込み、全身震わせて力一杯に音を鳴らす。
スライムに声帯は存在しない。
だからこの世界の歴史において、自分自身の体を使って音を鳴らしたスライムは今までいなかった。
せいぜいが石をぶつけたりして音を立てるぐらいだ。
故に、この行動の意味を理解した者は誰もいないだろう。
この世界のスライムが初めて行った、自分自身の体を用いた意思表示の意図を汲み取れる者など、きっとどこにもいない。
だが。
だが。
……これは紛れもない敵意だ。
もはや考えるまでもなく、ただ彼自身の感情と本能が『戦え!』と促している。
そうだ。
忘れていた、自分が戦う理由を。
そうだ。
もう忘れない、自分が戦うべき理由を。
そうだ。
これは威嚇でも恫喝でもない。
仲間の仇を取ると決意した証。
そして最後の瞬間まで戦い続けるという、覚悟の証明だ。
ブォォォォォォォォォ!
世界に甲高い音が響き続ける。
今この瞬間、最後のスライムは人類に宣戦を布告した。