5:雄々しく進め~Ultravisitor~
ズリュ、ズリュ……。
戦いの翌日。
全てが灰燼に帰した街から辛うじて生還したスライムは、傷んだ体を引きずり湖を訪れた。
スライムの体は大半が水分で構成されている。
故に湖の水で体を癒そうとしたのである。
彼の知能はスライムの標準的水準。
それは考えての行動というよりも、本能的なものだった。
人間とは体の構造も構成も異なるとはいえ、爆心地のど真ん中にいた彼が無事なわけがない。
早速水分を補給しようと、彼は湖の浅瀬になっている部分に体を浸した。
ゆっくりと体に水分が補給されていく。
ひんやりとした冷たさが心地良い。
時間帯はもうそろそろ昼になろうかというぐらいか。
普段ならば、夜行性のスライムは寝ている頃合いだ。
そう、普段ならば。
フラッシュバック。
スライムは全ての同胞を失った事実を改めて噛み締め、そして震えだした。
水面が小刻みに揺れる。
そうだ、こんなところで呑気に休んでいる暇はない。
人間はまだまだ沢山残っている。
敵と戦わなければ!
敵を殺さなければ!
と、その時。
彼は湖の中を泳ぐ何かを見つけた。
魚、だろうか?
しかし大きい。
スライムよりも、そして人間よりも。
……遥かに。
スライムという生物は、本来であれば夜行性だ。
昼間に外に出ることを好む変わり者の彼とて、活動の軸が夜である点に関しては例外ではない。
だから彼は知らなかったのだ。
それが竜と呼ばれる種類の生物であることを。
スライムとは違い、単独で人間達に恐怖を与えられる存在であることを。
そうだ、彼は知らなかったのだ。
故に彼はこう考えた。
あれを餌にすれば、自分は強くなれるかもしれない、と。
スライムの知能は低い。
だからこそ、彼はそう信じた。
かつて未開の地で生きた人間達がそう信じたように、彼もまた”強い者を取り込むことでその力を自分の物にできる”と信じた。
あの力を手に入れれば、自分はきっと人間達を蹴散らすことができるに違いない、と。
あの竜はまだこちらに気がついていない。
いや、気が付いていて歯牙にもかけていないのかもしれないが。
どちらにせよ、仕掛けるならば早い方が良さそうだ。
スライムは野生の勘でそう判断すると、水分を補給し終えたばかりの体で周囲の様子を探り始めた。
正面からぶつかって勝ち目のある相手では無い。
最初の一撃で勝負を決めなければ。
スライムは、あのウォータードラゴンの硬くて分厚そうな鱗を貫けるような物が無いか探した。
結論を先に言えば、あるわけがない。
それだけの強度を持つ物が天然にそうそう存在するわけがなく、そしてだからこそ竜は強者の象徴なのである。
湖の周囲を一周してから、スライムもようやくそのことを理解した。
絶対的な種族の差。
それを突きつけられた。
まだ完治していない体が痛む。
そのとき、彼は先日の戦いの事を思い出した。
そうだ。
あの時使うことはなかったが、毒の液体というのがあった。
スライムは考えた。
もしもこの湖の水を全て毒に変えることが出来たなら、あの竜を倒せるかもしれない、と。
スライムの知能は低い。
だから彼は、湖の水が膨大であることやウォータードラゴンが毒に耐性を持っている可能性には気が付かなかった。
自分はとてつもない名案を閃いたと思ったのである。
そして彼は早速それを実行しようと、周囲にある毒性を持った草や鉱物を集め始めた。
毒物に関する知識はないので、実際に触れてみて判断していく。
毒草を摘んでは磨り潰し、地面を掘ってはそれらしき鉱石を砕き、そして湖へと片っ端から放り込んでいった。
もちろん混ぜるのだって忘れない。
そのままでは毒物が湖の一部にだけ留まってしまうから、たまに水をかき混ぜた。
ウォータードラゴンがいる影響で、周囲に大型の動物が少ないことも大きい。
そうでなければ、今頃はとっくに狙われていただろう。
スライムは草や鉱石を細かくするための尖った石を持って、毎日せっせと毒を運んだ。
二日が経ち、三日が経ち、自分がどうしてこんなことをしているのかを時々忘れそうになりながら、彼はせっせと湖に毒を投下し続けた。
そして――。
「ギャァォォォォォォォオォオォオォオオオオオオオ!」
四日目の朝。
自分の縄張りを汚されることに対していよいよ腹を立てたのか、ウォータードラゴンはついに敵意の咆哮を上げた。
水面を激しく揺らし、また何度もかもわからない毒物の投下を実行しようとしていたスライムに襲い掛かる。
この数日間に何も無かったことで安心していたスライムは毒草を持ったまま、慌てて背後の茂みに飛び込んだ。
ウォータードラゴンはずっと水の中で生活していたので、陸地に隠れれば大丈夫だと思ったのだ。
ちょうどカモフラージュに都合の良い毒草を持っていたし、これで難を逃れることが出来る。
スライムはそう思って、茂みの中で白い体をぷるぷると震わせていた。
……が、しかし彼はすぐに気が付いた。
大きな振動が大地を伝わってくることに。
慌てて周囲の様子を確認すると、なんとウォータードラゴンが自分の姿を探して地面を歩き回っているではないか。
スライムが目に頼らない生物だからまだ見つからないで済んでいるが、ここで確認のために体を一部でも出そうものなら即座におしまいだ。
この湖に来るまでウォータードラゴンという存在を知らなかったスライムは、この段階になって初めて、相手が魚ではないことを理解した。
……魚でなければなんだろう?
スライムにはその答えが思いつかなかったが、とにかく今はそんなことを悩んでいる場合ではない。
戦力の差は決定的で、見つかればそこで終わりだからだ。
とにかく体の震えを押さえ込み、嵐の過ぎ去るのを待つ。
先程までは自分が狩る側だったというのに、立場は即座に逆転してしまった。
「グルルルルルル!」
ウォータードラゴンがすぐ近くを通り過ぎていく。
……。
……。
……恐ろしい。
自分の意思に反して体が震える。
絶対的な強者を前に、スライムは自分の中から沸き起こる恐怖を完全に抑えることが出来なかった。
足音が徐々に遠ざかっていくことに気が付いた瞬間、いったいどれほど安堵したことか。
しかし――!
ドォォォォォォォンッ!
次の瞬間、そんなスライムを嘲笑うかのように爆音が鳴り響いた。
同時に爆風が吹き荒れ、彼の隠れていた茂みも吹き飛ばされてしまった。
一体何が起こった?
ウォータードラゴンがブレスで周囲の草木を吹き飛ばしたのだと理解するまで、スライムは一瞬の時間を要した。
竜という種族の力は、もはや彼の想像の域を完全に超えていた。
「グギャァァァァァァァオ!」
周辺の整地を終えたウォータードラゴンが、ついに目標を見つけ出した。
自分の住処を荒らしたスライムを仕留めようと、一直線に走り出す。
ドラゴン対スライム。
もはや結果は明らかだ。
スライムは白い体に緑色の毒草を貼り付けたまま、必死に跳ねて逃げようとした。
そして――!
バクン!
湖の魚達がそうされるように、スライムはウォータードラゴンに一飲みされてしまった。
竜の太い食道を通った後、彼を痛みが包み込む。
彼は知っている、この痛みの種類を。
そう、先日の戦いでも経験した痛みだ。
ウォータードラゴンの胃酸がスライムを包み込み、その体を焼き始めた。
彼の体に張り付いていた毒草は先に溶かされ、しかし竜の胃はその毒をものともしない。
侵入者を片付けたウォータードラゴンは、食休みとばかりに湖に入ると、水面にその体を浮かべた。
以前よりは少々住みにくくなってしまったが、しかし竜にとってはこれぐらいの毒は何の支障もない。
そうして一分が経ち、二分が経ち……。
そして五分が経過しようかという時になって、ウォータードラゴンは体の異変に気が付いた。
「グォホッ! グォホッ! ゴォ!?」
喉の奥からはブレスではない”何か”が湧き出してきた。
湖に吐き出された”それ”は、水面に赤く広がった。
……血だ。
強者である竜の体が傷つくことなど、そうそうあることではない。
だから、ウォータードラゴンは一瞬何が起こったのか理解できなかった。
それがわかったのは、直後に腹の痛みを感じた時である。
竜は知能が高いため、原因が先程のスライムにあると結論付けるのに時間はかからなかった。
ウォータードラゴンは急いで陸地に上がり、両足を踏みしめてスライムを吐き出そうとした。
しかし、なかなか目当ての”物”が出てこない。
代わりに出てくるのは自分自身の赤い血と胃液ばかりだ。
「グゥァッ?」
体内の痛みは次第に広がっていき、それと引き換えに視界が怪しくなっていく。
そしてついに、ウォータードラゴンは意識を失って倒れた。
……。
……動かない。
既にその呼吸は止まり、この竜が死を迎えたことは明らかだった。
それを確認し終えたかのように、竜の口からはようやくスライムが姿を現した。
純白の体は胃酸で焼かれ、ところどころ黒く焦げている。
そしてその体には、この数日間使っていた鋭い石が握られていた。
草を刈り、鉱石を掘り、そうやって割れて鋭く尖った石が。
確かに竜の鱗は硬い。
その辺に転がっているような石で傷つけることは、まず不可能だろう。
しかし内蔵となれば話は別だ。
人間のそれに比べれば確かに耐久性はあるが、全くどうにもならないわけではない。
スライムはずっと握りしめていたその武器を使い、ウォータードラゴンの体内をズタズタに切り裂いた。
胃液に焼かれ、溶かされ、自分の体の境界が不確かになりながら、彼はこの竜の内蔵を斬り裂いていた。
いくら生命力の高い竜とはいえ、肺も心臓も機能を失ってはどうにもならない。
逆転。
自然界の絶対弱者たるスライムは、絶対強者たる竜に勝利した。
そしてもう飛び跳ねる力すらも残っていない体を引きずって、彼は再びウォータードラゴンの体内へと入り込んだ。
理由は決まっている。
……喰らうためだ。
この竜にとって生命の源である心臓へとたどり着くと、彼はそれを取り込み始めた。
彼は信じていたのだ。
この竜を喰らえば、自分はその力を手に入れることができると。
彼は信じているのだ。
この竜の力があれば、人間達に勝てると。
死んだウォータードラゴンの心臓を喰らって生命力を増したスライム。
以前よりも体積を増した彼が、内部から竜の体を操ってこの湖を出発したのは、それから二日後の事だった。