五歩の距離。
僕の通っている学校では、生徒会は二年生だけで運営されている。まぁ、それは特別おかしな事でもないと思う。三年生になれば受験勉強が忙しくなるし、一年生はまだ浮わついた子が多いから。ただ何よりの理由は、生徒会役員の定員がこの学校ではたった二人というのが一番で、この学校のおかしな所だろう。
まぁ、それにも理由はあって、田舎の学校、というのはそれはそれは人数が少ない。よって、生徒会の仕事も少ないのだった。生徒会の仕事、なんてようは先生方の雑用の手伝いと、毎日の日誌くらいのものだ。
なんで、そんな事をだらだらと考えていたのかというと、いま僕は生徒会の日誌を竹野さんと書いている。
竹野さん、というのは、ふわふわとしてそうな髪と、柔らかな瞳が印象的な女の子で、もう一人の生徒会役員だった。
僕と竹野さん、二人が生徒会役員。会長とか書記とかそんなカッコイー肩書きは無くて、ただの雑用係。
カリカリ。さらさら。僕が動かすBの鉛筆と竹野さんが動かす花柄のかわいーシャープペンシルが出す音が、夕陽が差し込み橙色に染まった狭い生徒会室に響く。
日誌、まぁ、書くのは戸締りの確認とか、今日の出来事とか。簡単に書いてファイルに綴じる。実はこの日誌、別に先生が読むわけではない。そもそも、先生は僕らが馬鹿真面目に書いている事を知らないだろう。
でも、こうやって放課後の時間を潰してまで書くのは、僕がこの時間を嫌いじゃなかったからだ。
竹野さんは日誌を僕よりも時間かけて書く。一度だけ、言った事がある。「この日誌、書かなくても大丈夫らしいよ。三年の先輩が言ってた」
言った僕の内心は、もし竹野さんが書くのを止めて、この緩やかな時間がなくなるのは惜しいなと、そう思ったのだけれど、それよりも、彼女にとって、この時間が何の意味もない無駄な時間だったらと思うと申し訳なかった。
「ううん。これも生徒会の仕事だから。……書かなくても大丈夫なら、書いても大丈夫でしょ?」
意外にも、いや、真面目な竹野さんらしい答えが返ってきて、僕は緩やかな時間がなくならない事に安堵した。ただ、竹野さんが言った言葉の意味はよく、分からなかった。
僕は自分が書き終わったからといって、先に帰ることはしない。
それはなんだか、竹野さんを裏切る行為のように感じていたから。
だから、僕は竹野さんが終わるまでのほんの少しの時間、いつも手持ちぶさたになる。
さらさら。書かれている文字を見ないように、視線を窓に写す。なんだか、竹野さんが何を書いているのか知るのは怖かったし、例え業務的な事を書いてるのだとしても、盗み見るのはデリカシーのない事だ。
「終わったよ。利根君、私達も帰ろう」
利根君。そう呼ぶのはあまり仲のよくない、つまり普段話さない人だ。僕と竹野さんは生徒会の仕事でしか話す機会のない間柄だと、その言葉が如実に語っている。
竹野さんが筆記用具をしまい、日誌をファイルに綴じたのを確認して僕は席を立つ。
「お疲れさま。はい、日誌、直してくるよ」
手のひらを竹野さんに差し出す。
「利根君もお疲れさま。ありがとう」
自分の日誌と竹野さんの日誌を持って部屋の端にある本棚へ歩く。ありがとう、と優しい声で言われるような距離じゃないのだが、言われて悪い気はしない。
生徒会室を出て鍵を返却し、学校の校門を抜ける。辺りはまだ明るかったけれど、春の夕陽はまだ落ちるのが早く、一時間もしない内に暗くなりそうだった。
春特有の肌寒さを感じながら僕は竹野さんと帰る方角が同じな事に感謝していた。いい加減夕方の遅い時間に女の子を一人で帰すのは不安だと思うほどには僕も成長している。同時に「送るよ」なんてカッコイー台詞は言えず、誰かに目撃されて囃し立てられるのが嫌だと思うほどに子供でもあったが。
田舎というのは、なんというか、危険が以外と多くて、普通に猪が出るし、不審者の目撃情報だって日常茶飯事だ。
街頭のあまりない道は夏でも直ぐに暗くなるし、車は制限速度なんて関係なしに飛ばしていくし、信号もない。言葉にすると男でも一人は危ない気がする。
竹野さんとは、隣に並んで歩くわけじゃなく、僕より歩くのが少しだけ早い竹野さんの背中を五歩くらい後ろからぼんやりと見て歩く。話すこともしないし、竹野さんが家に入る時にサヨナラも言わない。言われない。僕が手を挙げて、竹野さんが会釈するだけ。それが僕と竹野さんにとって普通の毎日だった。
五歩。この距離が短くなれば、果たしてその言葉を使う日がくるのか、暗くなった道を一人歩きながら考えたが、特にその日が来てほしいわけでもない。僕は現状に満足している。
次の日の放課後、僕は古くさい学校指定のジャージを身に纏い、汗だくになりながら、一輪車で砂を運んでいた。
竹野さんはいない。わざわざ放送で僕だけが呼び出され、砂場の土を学校の裏へ運びだせと命じられたのだった。
現在の砂場の土は粗く、怪我をするかもしれないから、新しい土に入れ換えるらしい。どうせ新しい土は業者が持ってくるんだから業者に頼めばいいのにと思ったが、そこはやはり経費削減をしたいのだろう。
体育の先生が掘り出した土を僕が一輪車で学校の裏まで運ぶ。最初こそだるいと思う程度で舐めて掛かっていたが、何回も往復していると流石に手も足もパンパンに張って、辛い。
体育の先生だって、既に上半身裸の土と汗まみれだ。汚かった。
「ふぅ、ふぅ……よし。これで最後だ。利根、これ運んだらもういいぞ」
汚いおっさん。なんて実際に言ったら流石に殴られるけれど、もうそう言うしか表現できない先生が一仕事終えた、いい笑顔を僕に向ける。
無性に殴りたくなった。そもそも、こんな拷問は、そこら辺で元気に声を上げている野球部かサッカー部にやらせれば良かったのだ。なんで先生は僕に頼んだのだろうか。
最後の土を運び終えて、僕は汗と土で汚れたジャージを着替え、生徒会室へ向かう。向かいながら、今日の日誌は書かないで帰ろうかな、と考えていた。手も足も怠いし、何よりも多分、竹野さんはもう日誌を書き終えて帰っただろうから。
僕にとって日誌とは書かなくても大丈夫なもので、特に書きたいとも思わないものだ。なら何故いつも書いているのか、と聞かれたら竹野さんが書いているから、だ。
特に話すこともなく、ただ鉛筆とシャープペンシルの音が響くだけの緩やかな時間を味わいたくて書いている。
一人で書いたってあの時間はやってこないだろう。
落胆した気持ちで、生徒会室の扉に手を掛けた。
掛けた時に、そういえば鍵が掛かっているかも知れないと思った。ドアノブに置いた手をじっと見て、鍵が掛かってたらやっぱり帰ろうと、諦めに近い気持ちで回したドアノブは、
「あ……」
カチャ、と僕の考えとは裏腹にすんなり開く。
ぎぃ、と錆びた蝶番が鳴る音を聞きながら僕の視界に入るのはゆったりと、彼女の定位置である椅子に座ってハードカバーの本を捲る竹野さんの姿で、僕の心臓が鼓動を一際大きく打った。
「まだ、帰ってなかったんだ……」
こちらに顔を向けた竹野さんがコクりと頷いた。
「だって、利根君はいつも待っててくれるでしょう?」
そう言った竹野さんの言葉になんと返えせば正解なのか分からず、結局は、「ありがとう」と口に出す。
待っててくれた事に対してのありがとう。でも、なんだか僕は竹野さんに僕の我が儘を強要したみたいで、素直には喜べない。
ふるふると頭を振って日誌を手に取り、僕の定位置である竹野さんの向かい側に座る。
竹野さんは再び小説の中に意識を落としたようだった。
僕もさっさと書こうと筆記用具を取り出して日誌を開く。各種確認事項にチェックをつけて、今日の出来事などを書いていく。
書いていると、途中から体育の先生の悪口になっていた。明日、筋肉痛になるだろうな、と核心して憂鬱になる。
カリカリ。鉛筆の音が響く。時折、紙を捲る音もした。
ふと、書き終わった日誌から顔を上げると竹野さんと目があった。どうやら僕を見ていたらしい。
「……え、と、どしたの?」
目を逸らさずに見てくる竹野さんに僕の方がたじろいでしまう。
「利根君、甘い匂いがするね」
こて、と首を傾げて竹野さんが言う。思わず息が止まる。可愛い、と浮かんだ思いを口に、表情に出さずに胃の中へ落とす。
「あぁ、汗かいたから教室に残ってた尾野に制汗剤貸して貰ったんだよ。あ、ごめん、臭かった?」
一応、ハンドタオルを濡らして身体は拭いたし、汗の匂いはしないと思う。体臭は自分だとあまり気付けないのが厄介だ。
「ううん。大丈夫だよ……利根君、尾野さんと仲いいよね」
「え? いや、まぁ……普通、じゃないかな?」
意外な言葉だった。生徒会役員になって初めて、僕と竹野さんは生徒会以外の普通の会話をしていた。
「利根君と尾野さん、いつもよく喋ってるから付き合ってたりするのかなって」
その言葉は心なしか棘のある気がした。多分僕の勘違いだ。
竹野さんの瞳は変わらず僕を見ていて、その瞳は柔らかなものだった。
「いやいや、付き合ってないよ! 尾野とはただの友達だよ」
僕は大げさに否定してみせた。尾野と僕はただの友達だし、僕が付き合えるわけないとも思う。竹野さんが僕から目を逸らし、窓を見た。
「じゃあさ、利根君、好きな人とか、いるの?」
「……いないよ」
本心だと思う。好きな人はいない。考えてみれば、嫌いな人なら沢山いるのに、僕は誰も好きになった事がない。恋をまだしたことがない子供だ。
「竹野さん。帰ろうか。もうすぐ完全下校時間だ」
嫌な予感がした僕はそう言って席を立つ。この話を続けたら、この緩やかな時間が終わってしまうような嫌な予感。
「……ホントだね。うん。帰ろう。お疲れさま利根君」
「お疲れさま」
竹野さんは、少しだけ寂しそうな顔をしていた。
それは、やっぱり僕のせいだろうか。
来週には完全に梅雨明けすると最近有名なアイドル天気予報士が言っていた。今日は曇りのち晴れだとも。
「あーあ……止まないなぁ」
授業が終わり、窓の外を見て呟く。やっぱり予報は信じないほうが良かった。特に、あのアイドル天気予報士はよく外す。つまり、外は雨が降っていたし、愚かにも信じた僕は傘を忘れていた。
「そうちゃん、傘忘れたん? うっはー、ドンマイ」
尾野が僕の呟きを耳聡く聞いて来て、折り畳み傘を見せ付けながら笑った。
「ちっ……貸してよ。どうせ普通の傘も持ってんでしょ」
「やっだよー。舌打ちするやつには貸さんっ。まぁ、土下座したら考えてもいいよ?」
「考えるだけかよ。僕の土下座の価値が低すぎる」
「この尾野光希様の傘なんだから妥当でしょ? そうちゃんは私の有り難みを知るべき」
何を馬鹿なと思ったが、他の男子なら喜んで土下座するのかもしれない。そう思うくらいに、尾野は所謂、美少女というやつで、人気者だった。
「はいはい。ありがたやーありがたやー」
両手を合わせておざなりに感謝してみせると、尾野は深い溜め息を吐いて折り畳み傘を差し出してくれた。元々、僕に傘を貸すために話しかけて来てくれたんだろう。こういう然り気無い優しさも彼女が人気者になる理由だった。
「心が篭ってない……まったく。まぁ、それで勘弁してあげる。ね、生徒会室行くんでしょ? 竹野さん、先に行っちゃったけど、いいの?」
尾野が教室の扉の方を向いて言った言葉に、僕は「あっ」と声をあげる。
「やば、くはないけど、僕も行かないと」
言いながら鞄を掴むと教室の扉へ駆け出す。僕の我が儘に付き合ってくれている、まぁ、僕がそう感じているだけだけれど、竹野さんを待たせるのは申し訳ない。
そのまま生徒会室へ向かおうとして、一つ、言い忘れていた事を思い出して尾野の方へ振り向いた。
「尾野、傘、ありがとう。感謝してるよ」
僕の言葉を聞いた尾野はふん、と鼻を鳴らして僕から背を向けた。その仕草を可愛いと思ってしまうのは、僕が男で、彼女が美少女だからだろう。
雨の降る中の生徒会室はもうすぐ夏だというのにひんやりとした空気を作り出していた。
「雨、止まないね」
日誌を書きながら竹野さんが言う。竹野さんと僕は教室では話さないけれど、生徒会室では段々と言葉を交わすようになっていた。喋る。というよりは、呟きあう。そんな感じだけど。
「うん。尾野に傘貸して貰わなかったら、びしょ濡れになる所だった」
「また……さんか……」
「え?」
雨の音に紛れ込ませるように、竹野さんが何かを呟いたけれど、僕の耳はそれをちゃんと捉える事は出来なかった。
「ううん。なんでもないよ。良かったね、貸して貰えて」
誤魔化すように笑った竹野さんを不思議に思ったが、詮索するのもなんだか変だと思い僕も合わせるように頷く。
しばらくしてまた竹野さんが言葉を呟いた。
「……利根君は雨好き?」
「うーん、どうだろう」
手を止めてちらりと窓の外を見る。特に意識した事がないから、そういう感情も湧かない。視線を戻して手を再び動かす。
「私は雨、好きじゃないな。気分が落ち込むし、濡れるのが嫌だから」
僕はてっきり、好きと言うのかと思ったのだが、どうやら違ったらしい。確かに、服や髪が濡れるのは女の子にとっては嫌な事だろう。
「僕は雨、というか、雨が止んだ後の空気は好きかもしれない」
何か言おうと思って、自然と出た言葉だった。そして前に、竹野さんが僕に聞いてきた言葉をふと、思い出した。
好きな人って、なんだろう。
一緒にいて安らげる人? 一緒にいて楽しい人?
そう思って、そう思った事に僕は頭を悩ませた。
「利根君」
「なに?」
掛けられた声に顔をあげて竹野さんを見る。
竹野さんは日誌に顔を向けたまま、僕に話しかけていた。
「利根君はなんで生徒会役員になろうと思ったの?」
「あー……内申点良くなるって聞いたから、かな。でも、何かしようって思ったんだよ。僕は部活とかしてないし、卒業した時に何か思い出せる事しようって」
言ってて少し恥ずかしくなる。動機が不純だし、人に話すような事じゃないから。他人の為、なんて一欠片もない。
「竹野さんは? なんで、なろうって思ったの?」
僕より頭良いし、内申点なんて気にする必要もないのに、そう付け加える。自分で言いながら嫌味な言い方だな、と感じた。
ぱき、と竹野さんの花柄のシャープペンシルから、芯の折れる音がした。
「私は、特に理由なんてないよ。みんなやりたくなさそうだったから、私が貧乏くじ引いてあげたの」
カチカチと竹野さんが芯を出しながらしみじみと言う。
「貧乏くじ……僕は好んで貧乏くじ引いたのか」
「ふふっ、ごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど。利根君の理由、良いと思うよ。私もこれからそう思う事にしようかな」
顔をあげた竹野さんが、優しい声でありがとう、と笑った。
その顔に見とれていたからだと思う。僕は迫り来る時間の終わりに気付けなかった。
「私、利根君の事、好きだよ」
竹野さんが僕の目を、その柔らかな瞳で強く捕える。
僕の耳に、終わりを告げるチャイムが聞こえた。
「……あ、ありがとう。でも」
「知ってるよ」
顔に昇る熱の温度を感じながら言葉を探す僕を、竹野さんが遮るように続けた。
「利根君、多分、尾野さんの事好きなんだよね」
違う。とは言えない自分がもどかしい。僕はまだ、誰だって好きになっていない。だからこそ、悩む。竹野さんの気持ちに。僕は答える術を持っていないから。
でもね、と竹野さんが強い口調で言葉を繋ぐ。
「私、尾野さんに負けないから」
梅雨の雨の音が響く生徒会室には、竹野さんの歩く早さのような時間が、流れていた。
五歩の距離を僕はそろそろ詰める頃なのかも知れない。