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その9:文久四年、睦月-弐

――羨ましい――

 島原に「売られて」から少し経った頃、「水菊」と名付けられ、「見習い」と呼ばれる立場となった彼女はずっとそう思っておりました。

 綺麗な着物を身に纏い、重い下駄を履きながら、その代償に自身の自由と家族を失った自分の境遇を嘆いては、街で見かける質素な格好の娘達に、羨望の眼差しを送っていたのです。

 やりたくもない三味や琴や舞の稽古に、着たくもない華やかな着物。それらを与えられる度に、借金と言う鎖が彼女を縛りつけ、気付けば己は島原と言う名の籠に囚われた(トリ)

――自由が欲しい――

 気儘に遊ぶ事も許されず、日々得るのは島原と己の未来への絶望と、外の娘達と自由への羨望。

 島原には自分よりも小さな禿がいるのだと、頭では理解していながらも、決して納得できぬ己の境遇に、彼女はいつしか嘆き悲しみ、そして思うようになっておりました。

――あの子と私、取り替えられたら良いのに――

 綺麗な着物など要らない。

 豪勢な食事も、飾る為の装飾も要らない。

 ただ、家族の温もりと自由が欲しい。

 最初は小さな願いだったそれが、日を追うごとにやがて大きな欲へと変わり、気付けばその欲を持て余すまでに膨れ上がり、自分でも制御できなくなりはじめたある日。

 あまり好きではなかった禿の少女が、彼女に向って問うたのでございました。

 ……羨み、欲するだけで良いのか、と。欲するだけで、それを掴む努力はしていないのではないのかと。

 それを言われた時、彼女の中で燻っていた感情が、爆発したのです。

「だって、どんなに努力したって手に入らないじゃない。お父さんもお母さんも……自由だって」

 自分よりほんの少しだけ年下の子供に言われた事も手伝ってか、声を荒げ、涙を流しながらそう返したのでございます。……廓言葉を使う事も忘れ、彼女の故郷の言葉で。

 ただ、彼女の流す涙は怒りから来た物ではなく……図星を突かれた事による悔し涙だったのでしょう。

 確かに努力はしていない。何故なら努力をして、どれ程足掻いた所で、己が負う借金は返せる額では無いのだと諦めているのですから。

 そんな彼女を見透かして、禿の少女は更に言葉を続けるのです。

「やれやれ。他人より器量良しで、芸事に対する飲み込みも早い。だが、置かれた環境の美点を見つけず、欠点だけを見て不貞腐れるのは、実に勿体無い」

 呆れているでもなく、怒るでもなく。禿の少女はただ淡々と言葉を紡ぎ、水菊の目をじっと見つめるのでした。

 ですが、島原の……置かれた環境の美点を見つけろと言うのは、その時の水菊にはひどく難しかったのです。

 島原などと言う花街に、美点などない。表沙汰にならぬだけで、色を売り、そして好きでもない男に媚を売る場所。逃げたくても、見つかれば更なる借金を背負わされるか、あるいはもっと悲惨な目にあうかと言う地獄。

 島原に来て間もない水菊ですら、既に幾度となく駆け落ちを企てては連れ戻され、折檻された芸妓や舞妓達の姿を見ております。

 見目の華やかさとは裏腹に、島原と言う地は、女の血と涙、そして様々な欲望から成り立っている場だと、否が応でも理解してしまっているのです。

「私は、こんな土地に縛られた一生は嫌。いくら綺麗な着物を着て、お稽古事が出来るからって、自由がなければ意味が無いの! だったら、こちらを羨む子と取り替えたって……」

「この島原に自由がないと思うのも、『取替へばや』と願うのも君の勝手だ。だが、取り替えた所で……君は本当に満足するのか?」

「それ、は……」

「苦労もせずに手に入った『幸せ』は、いずれ更なる欲望に繋がる。もっと、もっと、もっと上にと」

 その言葉に、水菊はビクリと体を震わせると、その言葉を反芻するのでした。

 今、彼女が欲しているのは「自由」。

 けれど、それが「取り替える」事で簡単に手に入ってしまったとしたら? 次に望むのは安定した衣食住でしょう。そしてそれも「取り替える」事で手に入ったら、今度はめいっぱいの贅沢を欲し、更に次は……

 己の内から溢れ出る「欲望」の一端を覗き込んだのでしょう。水菊は戦慄くように唇を震わせ、何か言葉を吐こうと懸命に努力しますが……まるで言葉を忘れてしまったかのように頭の中は真っ白に染まり、言いたい事も纏まらなくなっていくのでございます。

「1度取り替えれば、その欲望の赴くまま、君はひたすら己の人生を取り替え続ける事になる。だが……それは果たして、『君』と言えるのかな?」

 軽く首を傾げ、そう言った禿の顔を覗き込んだ時、彼女は初めて気付いたのでございます。

 ……黒いはずの己の瞳が、薄い蒼に染まりかかっていた事を。



 睦月も七日の夜更けに、水菊は人気の少ない島原の裏路地に居りました。

 瞑目し、己の過去を振り返り終わったのか、彼女はゆっくりとその目を開き、待ち人が来るまで佇んでおりました。

――お姉ちゃんに黙って来たのは、流石に不味かったかもしれまへんなぁ――

 心の中でのみ苦笑を浮かべて呟きを落とした刹那。彼女の「待ち人」が来たのでしょう。カランコロンと小さな下駄の音を響かせ、あやめとは異なる禿の少女が、行灯と文を持って水菊の前に現れたのでございます。

 月の光の下、水菊の「黒い瞳」は、行灯を持った一人の禿の少女に向けられており、そして禿の少女もまた、自身の瞳を水菊に向けているのでございました。

「お晩どす、水菊姉さん。何ぞ、うちに御用どすか?」

「ひなたちゃんへの文、きちんと届いたんどすなぁ。安心やわぁ」

 ひらり、と持っていた文をはためかせ、禿……ひなた、と言うらしいその童女が、心底不思議そうに問いかけたのでございます。

 一見すれば、それはごく普通の挨拶に見えますし、芸妓が禿を呼び出す事もそう珍しくはございません。

 ですが、先にも申しました通り、ここは人気の少ない場所。島原特有の喧騒も、この場では遠い出来事のように聞こえる、異質な空間(スペース)。斯様な、異様とも言える場所で、水菊は最上級の接客用の笑顔をひなたに向けると、硬い声で問いかけたのでございます。

「……本物のひなたちゃんは、どこどすの?」

「お姉さん? 何言うてはりますのんえ? ひなたはうちどす」

「あんたはんはひなたちゃんとは違う。……それどころか、ヒトやない」

 キッパリと確信を持って言いながらも、どこかで不安があるのでしょうか。水菊の背に、つうと冷たい汗が流れ落ち、心の臓はバクバクと破裂しそうな程に高鳴っております。

 それでも顔だけは涼しげかつ不敵な笑みを浮かせ、己の中の恐怖は一切見せずに立っている凛とした姿は、芸妓の鑑と申せましょう。

 すっと閉じた舞扇の先をひなたに突きつけながら、水菊は更に言葉を続けるのでございました。

「あんたはんは『闇の者』……それも、『取替へばや(チェンジリング)』どすやろ?」

「何を言うてはるか、うち、分りまへん。『闇の者』? 『取替へばや』? 何どすのん?」

「とぼけても、無駄よ」

 心底不思議そうに首を傾げるひなたに対し、水菊は廓言葉をやめ、鋭く言い放つのでございました。

 島原の芸妓が廓言葉をやめるのは、年季が明けて晴れて自由の身となった時以外、許される事ではございません。

 島原に来た以上、「生まれは京、言葉は廓言葉」と厳しく躾られております。

 無論、目の前のひなたが「本物」であった場合、故郷の言葉で話した事は百花の耳に入り、大目玉を食らう事でございましょう。事と次第によっては、他の置屋へのけじめとして、折檻と言う可能性もございます。

 それでも、その掟とも呼べる躾に背いてまで言の葉を放ったのは、彼女の覚悟の証。

 その覚悟が伝わったのでしょうか。それまでただきょとんとしているだけだった相手の顔が、月明かりでもはっきりと分るほど、醜く歪んだのでございます。

 見慣れているはずの禿の少女。そうであるにも関わらず、浮かべる表情は恐怖を掻き立て、宵闇の中で光る瞳は、蒼い光を放って水菊を絡めとるのでした。

「うふ。うふふふ。そっかぁ、お姉さん、あたしの事が分るんだぁ」

 歪んだ口から漏れた声は、水菊の知るひなたの物ではなく。見目の幼さに見合わぬ、老婆のようにしわがれた声でございました。

 それに、ひなたは生まれも育ちも島原でございます。それ故、廓言葉が彼女の故郷の言葉であり、斯様な言葉遣いは出来ないはずでございました。

「やはり、あなたは『取替へばや』なのね」

「ええ。貴女の言う通り。……でも、どぉして? あたし達『取替へばや』は、普通の人間には分らないのに。貴女は勘が鋭いのかなぁ?」

「…………だって、私はかつて『取替へばや』へ堕しかけた事がある者だから。だからこそ、『取替へばや』だけは分るの。……蒼い目で」

 ぐきりと首を直角に曲げ、不思議そうに問う相手に僅かに気圧されながらも、水菊は一瞬の躊躇の後、そう口にしたのでございます。

 その言葉に驚いたのか、相手はぎょっと目を見開くとまじまじと水菊の頭から爪先までを幾度となくまじまじと見つめたのでございます。

 その視線は、まるで品定めをする女衒に似ており、生理的な嫌悪感で水菊の体にはぶわりと鳥肌が立つのでございました。

 それでも、彼女は怯むものかと己を叱咤し、相手の視線を真っ向から受け止めて睨み返し……その視線で更に相手はニタリと笑うと、ぺろりと己の唇を舌で湿らして言の葉を紡ぐのでございました。

「ふぅん。堕しかけたって事は、踏み止まったって事よね? 凄いなぁ、きっと恵まれているんだね」

 蒼い瞳が水菊を捉え、歪んだ口元は更に歪み、そしてしわがれた声は歓喜に震え。「取替へばや」は、はあ、と恍惚の溜息を漏らすと、ジリジリと水菊の側に寄るのでした。

「良いなぁ、欲しいなぁ。……その美貌、その環境、その心。欲しい、欲しい。貴女の全てが欲しいなぁ」

「嫌よ、あげない。だって今の環境は、私が努力して勝ち得た物だもの」

「どうして? 取り替えようよぉ。貴女だって、昔は取替えっ子したいって思っていたんでしょう?」

「……私はあの時の私とは違うわ。他人を羨み、自身の立場に嘆き、そしてただ漫然と日々を過ごしてきた、あの時とは」

 近寄ってくる相手に対し、水菊は逃げ出したくなる衝動をぐっと堪えながら、何とかその場に踏み止まって言葉を返したのでございます。

 背を向ければ、即座に襲われると言う恐怖もあったのでしょうが……それ以前に、彼女にとって「取替へばや」と言う種の「闇の者」は、対峙すべき相手であったのです。

 母である百花が、その過去から「餓鬼」に対して憎しみを抱いているように、水菊は「取替へばや」に対して恐怖と、そしてほんの少しの同情を抱いているが為に。

――ここで逃げたら、きっと私は、一生「取替へばや」に勝てない。私の中の欲に、勝てない――

 一種の自己暗示のようなものなのかもしれません。ですが、それ故に彼女は勝ちたいと思うのです。

「確かに、あの時は『島原』と言う檻から出られるなら、何でも良かった。普通の女の子として暮らしていきたいと願ったし、それは何よりも魅力的だった」

 ひたり。

 近寄ってくる「取替へばや」との距離が、また1歩分縮まり。

「でもね、今は違うの。お母さんがいて、お姉ちゃんがいて、銀彌さんがいて、島原の皆がいる。束縛は有るけど、自由が無いとは思わない」

 するり。

 相手の手が、ゆっくりと伸び。

「何よりも嫌なのは……私が『私』で無くなる事。私を見失ってしまう事よ」

 はしり。

 そして水菊の腕を、相手がしっかりと掴み。

 それでも彼女は、その腕を振り払うような事はせず、自身を見上げる「取替へばや」の目を真っ直ぐに見つめ返して、言葉を続けるのです。

「『水菊』には、私以外の誰もなれない。あなたじゃ……ただ欲望の赴くままに欲しがるだけのあなたには、絶対に無理よ」

「そう。……欲しい物を、全て手に入れたのね」

「そうね。あの頃欲しいと思っていた物は、大抵手に入ったと思うわ」

「だったら、余計に貴女が欲しい。貴女になって、貴女の持ってる全てが欲しいっ!」

 怒鳴るようにそう言った「取替へばや」が、不敵に笑う水菊の額に接吻しようと身を乗り出した瞬間。

 2人の間に黒い影が通ったかと思うと、「それ」は「取替へばや」の小さな体を思い切り蹴り飛ばし、水菊を支えて、彼女から引き離したのでございます。

 ぐぎゅ、と言う「取替へばや」の低い呻き。そしてその直後に響いたのは、水菊にとって聞き慣れた男の声でございました。

「ったく、無茶しすぎだぜ! 守るオレの身にもなれっつーの! お嬢に怒られんのはオレなんだぜ?」

「銀彌さん!」

 そう。現れたのは島原の男衆、銀彌。恐らくは自分の後をつけ、そして今まで身を潜めていたのでございましょう。その手には既に「虎の爪」がつけられており、いつでも戦える事を暗に示しております。

「揚屋じゃぁ嫌な臭いはするし、お前の様子もおかしいし。心配になって付いて来たら『取替へばや』の相手だぁ? 無謀もいいトコだっつーの!」

「……ごめんなさい……」

「まあ良いさ。それにしても、久々に聞いたぜ。廓言葉をやめた、お前自身の言葉」

「こればっかりは、『水菊』じゃなくて、『私』の言葉で喋らないとって……」

「そーかよ。なら、あいつを消すまでは『水菊』はやめとけ。…………向かい合うんだろ、『取替へばや』と」

「……うん」

「あぁ、お嬢と女将さんには言わねぇから安心しな」

「ありがとう、銀彌さん」

 着飾り、随分と重いはずの水菊の体を左腕のみで抱え上げながらそう言うと、銀彌はようやく立ち上がった「取替へばや」を見て、喉の奥で低い唸り声を上げるのでございます。

 その声はまるで敵を威嚇する獣。そんな彼に、「取替へばや」は忌々しげな視線を送り、怒鳴るのでございました。

「邪魔してくれるわね。あたし、男の人と取替えっ子する気は無いの!」

「はっ! 悪ぃがこっちから願い下げだ。あとな、こいつをやる気もねぇ。ウチの芸妓に手ぇ出そうとしたんだ。……覚悟は良いよなぁ、クソガキ?」

 チリッと右手に着けている「虎の爪」を小さく鳴らしながら言うと、銀彌は先手必勝とばかりに相手との距離を一息で詰め、その爪を相手の腕に突き立てるべく真っ直ぐに繰り出します。

 如何に「闇の者」とは言え、相手の見目が子供であろうと関係ないのか、全く容赦の無いその一撃はビリと音を立てて相手の袖を破り、更にはその下にあった相手の白い腕をも裂いたのでございます。

 裂けたそこからは、黒い色をした、血と思しき液体が滲み……しかしそれは雫となって大地へ落ちる前に、夜の闇に同化するようにすっと溶けるのでございました。同時に相手の傷も消え、破れた袖だけが銀彌の攻撃の痕跡を残すのみ。

 その様子を見て、「取替へばや」はクスクスと楽しげに笑い……そして、小ばかにした声で銀彌に告げるのでございます。

「無駄だよ? だってあたしは『闇の者』だもの。普通の武器では効果がないの」

「ああ。ンな事は知ってる。『闇の者』に対するには、闇を纏った武器じゃなきゃ意味が無いって事はよぉ」

 長年あやめについて「闇の者」を葬る手伝いはしておりません。水菊も、その事は充分承知しておりますし、あやめと共に戦っている銀彌とて、当然知っている事でございます。

 恐らく、今の一撃は確認だったのでしょう。

 ……相手がどの程度まで堕しているのかと言う。

 銀彌達の言う堕人には、いくつかの段階がございます。

 まずは堕ちかける一歩手前、かつて水菊が辿り着いた段階。ここではまだ堕人とは言えず、自身の時間も止まりません。多少の感情の暴走が見られはしますが、ごく普通の人間と同じ。この時点であれば、堕人と化す事を止める事も可能です。

 次に堕人となってすぐの段階。この時点で既にその者の「時間」は止まっておりますが、まだ常識や自我と言った物は強く残っており、時折非道を働く程度。この時は、体を流れる血は闇に染まりきっていない為、人と同じ赤い色をしておりますし、場合によってはそのまま生活する事も、不可能ではございません。

 そして最後に、完全に堕してしまった段階。この時点では完全に己の感情を制御(コントロール)出来ず、暴走した状態なのでございます。体を流れる血の色は闇に染まりきった黒へと変化し、「自身が満たされる為だけ」に行動する、危険な存在なのです。

 今回は最後の「完全に堕した段階」である事を、先の攻撃で確認済みでございます。となれば、ただの「虎の爪」では先のようにすぐに傷は塞がりますし、致命傷を与える事は不可能と言えましょう。

 相手もそれを理解している為か、ニタリと笑い……

「じゃあ、どうするのかなぁ? 無駄な抵抗、してみる?」

「無駄な抵抗ってのは、趣味じゃねぇんだよ。だから……闇を使う」

 銀彌がそう宣言した瞬間。まるで彼のその言葉を待ち侘びていたかのように、周囲を取り巻いていた闇が、ゆらりと蠢いたのでございます。

 そしてそれは、音も無く銀彌の右手に付いている「虎の爪」に擦り寄ると、鈍色の刃を侵食し、その色を漆黒へと変えたのです。

 更に闇はそれだけに留まらず、銀彌が抱える水菊の着物までも侵食し始めたではございませんか。

「え? えぇっ!?」

 ジワリと黒に染まっていく己の着物と、ニヤリと不敵な笑みを浮かべる銀彌を交互に見つめながら、水菊は驚いたような声を上げるのでございました。

「お嬢程じゃねぇけど、オレだって闇を纏わせる事が出来る。……こんな風に、な」

「でも、だからって、どうして私に!?」

「鎧だよ、鎧。オレの『すぴぃど』で動いてみろ。お前にかかる衝撃が酷ぇ事になるだろうよ」

 どうやら抱えたまま戦うつもりらしく、銀彌は水菊の体を抱え直すと、黒く染まった右の「爪」を構えて、「取替へばや」へ向って走ったのでございます。

 その速度は、確かに銀彌が言った通り、生身であればその風圧で気分を悪くしたでしょう。ですが銀彌が纏わせた「闇の鎧」のお陰なのか、水菊に感じられるのは微風程度の風圧と、速さのあまり線のように流れる周囲の景色のみでした。

 銀彌が闇を扱えると言う事実は、「取替へばや」にとって予想外だったのでしょうか。驚きのあまりその目を見開き、次の瞬間には迫り来る銀彌に危険を感じたのか、半ば反射的に後ろへ向って飛び退っておりました。

 ですがそれも半瞬遅く、「取替へばや」の右腕は持っていた行灯ごと「爪」に切り裂かれ、今度は傷口が塞がる事なく、そのまま腕はざらりと闇へと溶けて消えたのでございました。

「う、嘘。嘘だぁっ! 何で、何で!? 痛いのなんか要らないっ! 怖いのなんか要らないのにっ!」

 しわがれた声を出して、しかし見目の通り、まるで駄々をこねる子供のように地団駄を踏みながら怒鳴る「取替へばや」。

 そんな相手に対し、銀彌は容赦なく「爪」を振るい、相手の体に幾筋もの傷跡を残すのでございます。

「冨も名誉も自由も権利も美貌も健康も若さもっ! あたしはただ、欲しいだけなのに! どうして邪魔するのよぉぉっ!!」

「欲するのは自由だわ。でも、貴女はそれを他人から奪う形で手に入れようとしている」

「それが、オレらには気に食わねぇんだよっ!」

 「取替へばや」の言葉に返すと同時に、銀彌は大きく飛び上がると、拳を振り上げるようにして「爪」を引き……

「お嬢がいないからな。いつもの台詞、お前がキメてやんな!」

「……ヒトから堕した闇の者。貴女の止まった時間は、死を以って再び動かしなさい!」

花街(まち)にあんのは、見目麗しい華だけじゃねぇ!」

 ザン、と。

 2人が言い放った直後、鈍い音が銀彌の体を通じて水菊の耳に届き、その一瞬後には、顔を大きく引き裂かれた相手が、それでもまだ水菊の方へ手を伸ばしてこちらを見つめているのでございました。

「どう、して……? あたしはただ、欲しかっただけ……」

「欲するだけでなく、それを掴む努力をしろ。……お姉ちゃんの言葉よ」

「努力、なんて……」

 銀彌の腕から下ろされた水菊が、どこか哀しげに言うと同時に。

 禿の姿をした「取替へばや」もまた、何故か哀しそうにその顔を歪めると……そのままするりと、闇へと溶けたのでございます。

 後に残るは、蟠る黒い靄に似た闇。そこにはもう誰もいないのに、水菊はまだそこに誰かがいるかのように、声を続けるのでございます。

「私はね、努力したわ。私が『私』である為に。同時に……私が『水菊』である為に」

 言葉と同時に銀彌が纏わせていた闇の鎧もまたふわりと溶け落ち、彼女の姿はこの島原に合う鮮やかな色を取り戻します。

 それはまるで、彼女が「本来の自分」から「水菊と言う芸妓」に戻った事を示すかのよう。

 それをどこか寂しく思いながらも、まだどこか「本来の自分」である余韻があるのか、彼女は廓言葉に戻れぬまま、俯いて呟くのでございました。

「……お姉ちゃんがいなかったら、私もああなっていたのかな。他人を羨んで、欲して……結局何を欲したのか、それすらも見失ったのかな」

「さあな。けどよ、留まるきっかけはお嬢かも知れねぇが、実際に留まったのはお前の意思だろ」

 軽く彼女の髪を撫でながら、銀彌はニヤリと笑い……

「……さてと。そんじゃあ水菊姐さん。そろそろ帰るとしますかね。……女将さんが待つ、家へさ」

「…………そうどすな。こない遅うなってしまったら、お母さんもあやめちゃんも心配してはるわ」

 「爪」を外し、差し出された銀彌の手を取りながら。

 彼女は「水菊」に戻ってふわりと笑うと、闇を振り払うかのように、その小路を抜けたのでございました。

 煌びやかで、騒がしくて……そして人の欲望が渦巻く、表舞台へ戻る為に。


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