その8:文久四年、睦月-壱
年が明けた文久4年。干支は巡って甲子、肌寒さも何とはなしに和らぎ始めた睦月。七草の節句を翌日に控える夜。
台所では、あやめが明日の七種粥作りに向け、仕込みや見習いの者達の陣頭指揮を執っておりました。
「ご存知やとは思いますけど、明日は『人日の節句』どす。日頃お世話になっているお母さんと御姉さん達に、今年も一年健康でいてもらう言う願いを込めて、うちらで七種の用意をしますえ」
張り切っているあやめに触発されているのか、はたまた彼女の気迫に圧されているのか。彼女を「ただの禿だ」と思っているにも関わらず、仕込みも見習いも、皆あやめの指示に従っててきぱきと動いておりました。
七種粥を食すのは、邪気を祓い万病を防ぐ呪いの意味が強くあります。
勿論、豪勢ではある物の、冷たい御節料理ばかりを食していたが故に、疲弊した胃の腑を休めると言う効果もございます。……春とは言えど、まだまだ寒さの続く季節。温かい食べ物が恋しくなる時期なのですから。
俎板の上に、用意した七種……芹、薺、御形、繁縷、仏の座、菘、蘿蔔を乗せ、集った彼女達は囃し歌を歌いながら、それらをトントコと軽やかな音を立たせて切っているのでした。
「あやめちゃんは、ほんに楽しそうどうすなぁ」
「時節や伝統は大切にしたいて思うてますさかい。あ、そうや。銀彌はんの粥は『春の』やのぉて『昔の』を使いますよって、別に作りますぅ」
有名な七種は、七草粥として食す「春の七種」と、秋に月と共に愛でる為の「秋の七種」を指すのですが、その他にも「七草」と呼ばれる物がございます。
それが、先程あやめが口にした、「昔の七種」。米、粟、稗、黍、胡麻、小豆、蓑米の七種を用いた物もまた、「七種」と呼ばれているのでございます。
「また、えらく古典的どすなぁ。銀彌はん、何ぞあかん物でもありますのんえ?」
「あのお人、葱と菊があかんのどす。御形と仏の座は、菊の仲間どすやろ? 昔食べた時に、凄く苦しみはって」
「あらまぁ……」
「昔食べた時」の事を思い出したのでございましょう。あやめは哀しそうに眦を下げて、問うてきた仕込みの1人にそう返すのでございました。
事実、銀彌が最初にこの置屋で七種粥を食した際、何やら口から泡を吹いて苦しんだのです。後に聞いた所によれば、葱と菊は体質的に受け付けないとの事。それ以降、彼には一般的な七種粥ではなく、先に挙げた「昔の七種」で作った粥を与えているのでございます。
「案外、可愛いトコあるんどすなぁ銀彌はん」
「うちも、そう思いますぅ。銀彌はんて、どこかちょっと怖いなぁて思っとったんどすけど、それ聞いたら何や普通のお人やなぁって」
「そうそう。ちょっと目付きも鋭いし、『島原の狂犬』なんて呼ばれてはるし」
怖いとは言いながらも、彼の弱点を知って少し安堵したのでしょうか。台所にいる娘達の顔には、楽しげな微笑が浮いているのでございます。
勿論、銀彌が自分達を嫌っている訳では無い事は知っているのでしょう。ですが、あやめや水菊のいない場所での彼は、ひどく無口で同時に奇妙な威圧感も持っており、銀彌をよく知らない仕込みや見習い、そしてあやめ以外の禿の娘には、少々怖い存在なのです。
そう思われている事は、あやめも、そして銀彌本人も知っております。
だからこそ、あやめはこの日……睦月の六日の夜だけは、台所で陣頭指揮を取り、銀彌の「情けない部分」を晒して、親しみ易さを作ろうとするのでございました。
彼を、「独りきり」にしない為にも。
夜は明け、人日の節句当日。
睦月、そして節句と言えど、お座敷の仕事はございます。
今宵も「縁屋」では、上弦の月と水菊の三味を肴に、永倉、藤堂、原田の3人が、酒……ではなく、茶を嗜んでおりました。
昨年の文月に、永倉と共に来て以降、原田と藤堂もまた、「縁屋」に顔を出すようになっていたのでございます。
無論、永倉ほど頻繁に通う訳ではなく、むしろ他の揚屋の料理に飽きた頃に、「縁屋」へ来ると言った風でございました。
そんな彼らの目の前には今、あやめ達が作った七種粥が置かれております。
それは、「酒ばかりでは体の疲れも取れなかろう」と言う「縁屋」側の配慮もありますが、何よりも彼らが最初に所望したのがこの「七種粥」だったのでございました。
椀の中にある、白と緑。七種の香りが湯気に乗って淡く彼らの鼻をくすぐり、それだけでも日々の疲れが癒されるような気が致します。
その香に癒された結果なのか、はたまた何か別の要因があったのか。その粥をじっと見つめていた3人が、やがてポツリと、感極まったような声を漏らしたのでございます。
「…………新さん、左之さん。まともな七種だよ」
「屯所で出たのは、まともから程遠かったからな。……色んな意味で」
「ああ。アレはやマズイ。……これまた色んな意味で」
「そこまで言う程の事やったんどすか?」
死んだ魚のような濁った目で遠くを見つめ、空笑い混じりに吐き出す彼らに水菊は軽く首を傾げながら問いかけたのでございます。
七種粥は、料理としては然程難しい物ではございません。勿論、料亭に出す程美味な物を、と言うのであれば通常の何倍もの手順を必要とするのでございましょうが、百花の置屋で作ったそれは至極普通の物。
感動されるようなものでもないはずなのですが……
「言う程の事だったんだ。新さん達も言ったけど、そりゃあもう色々ね。その中でも一番の難点は、お粥なのに何故か米の色がやたらと青かったって事かな。おかしいでしょ?」
「入っていた葉の色も、無駄に明るい桃色でよぉ。世の中にあんな物体が存在したのかと言いてぇ」
「思い出させるな、平助、左之。アレは食べ物じゃない。……一種の兵器だ」
無駄に明るい桃色の葉に、やたらと青い色の米。……確かにそれは想像するだけでも食欲を損ないそうな色合い。それを目の前に出されたなら、確かに青褪めるのも理解出来ます。
そもそも、どうすれば米がそんな色になるのかと疑問に思わなくもないのですが、それを聞いてはいけないような気がして、水菊は口元に微苦笑を浮かべるのみに留めるのでございました。
世の中には、知らない方が良い事が山程あると言う事を、彼女もよく存じておりますので。
そんな彼女の顔を、藤堂は手元の七種粥をかき込みながら眺め……ふと思い出したように言葉を口にしたのでございます。
「そうそう、お姐さんに会ったら聞こうと思っていたんだけどさ」
「へえ、何どすえ?」
言いながら、藤堂はその身をすっと水菊に寄せると、その視線を水菊……ではなく、廊下に控える禿の1人に向け、囁くように言うのです。
「あの禿の子って、あんな顔してたっけ? ほら、あやちゃんの横の子」
流石に指をさすのは憚られるのか、顔と視線、そして口で水菊の視線を誘導しながら、藤堂はやや困惑の混じった表情であやめの隣に立つ禿の少女を見つめるのです。
禿のような幼子は、成長が早く少し見ない間に雰囲気が変わる事などよくある事。それに、芸妓や舞妓に比べて印象に薄い為、藤堂本人と致しましても、記憶違いと言う可能性を否定出来ないのでございますが。
「どれどれ? ……前からあんな感じの子じゃねぇか」
「左之さんには聞いてないよ。そもそも左之さん、禿の子見分けつかないでしょ? あやちゃんの事だって、認識してるか怪しいし」
「流石にそこは知ってるっつぅのっ! この姐さんにくっ付いてる禿の子だから……アレだろ?」
「当たってるけど、人をアレとか言って指差すのやめなよ左之さん。失礼だから」
軽く顔を顰め、諌めるように言う藤堂に、原田の方は気にした様子もなくびしっとあやめを指差したまま、その指を彼女の隣……藤堂の言う「禿の子」に移動させて、まじまじと見つめるのです。
とは言え、藤堂の言うように禿の見分けはつかないのか、うーんと低く唸りながらその童女を見つめ……やがて諦めたのか、盛大な溜息を吐き出すと、頭を掻きながら小さく「わからねぇ」とだけ呟くのでございました。
同じ様に永倉もちらりとその童女を見やりますが、これと言って特に何の違和感もございません。藤堂達よりもこの揚屋に通い慣れている分、藤堂の感じている変化に気付けていないだけかもしれませんが。
ですが、水菊はそうは思わなかったのでしょう。彼女はひくりとその頬を引き攣らせたのでございました。……その時に浮かべた表情は、どう表現すれば良いでしょうか。憎悪と憤怒、そしてほんの僅かに怯えが混じったような、複雑な表情……と言うのが、最もしっくり来るかもしれません。
とは言え、それもほんの一瞬……それこそ刹那よりも更に短い間の事。すぐにいつもの芸妓としての顔に戻すと、軽く小首を傾げて曖昧な返事を返すのでございました。
「女の子は成長が早いから。うちには……何とも言えまへん」
「本当に? うーん、俺の気のせいなのかなぁ……」
水菊の否定を素直に受け取ったのでしょう。藤堂はいまひとつ釈然としない様子を見せながらも、視線を件の禿から外すと、水菊の側を離れて、己の七種に箸をつけるのでございました。
それに倣うかのように、永倉と原田もそれぞれに箸をつけ、水菊は軽く目を伏せて再び三味を鳴らし始めるのです。
指が覚える程に弾き込んだ調べは、幼い頃から置屋で寝起きしてきた証。女衒に売られ、見知らぬ女を母と呼び、そして強制的に芸を仕込まされた己の境遇を、恨んだ事が無いと言えば嘘になります。
稽古事の帰り、何の苦労も無く笑う街の娘を見る度に、彼女達に嫉妬し、羨んだ事も当然ございます。
「島原の女」と言うだけで、男達は好色そうな目付きで自身の体を見やり、その視線に吐き気をもよおす事も多々。幾度「芸を売るのだ」と申しても、所詮島原も「花街」。中には芸だけでなく体も売る者がいる事も存じておりますし、そうしなければ年季が明けない者がいる事も重々承知しております。
己も、芸を覚えなければ、百花が母でなければ、そして……あやめと出会わなければ、彼女達と同じ道を歩んでいたかも知れないのですから。
島原の……いいえ、花街の女なら誰しもが思う事。それを、藤堂が指した禿の少女は願い、そして応えてしまったのかもしれません。
「…………『取替へばや』」
「え?」
びぃんと弾かれる音色に紛れて乗った水菊の小さな呟きは、側にいた藤堂の耳に届いたのでしょう。不思議そうに軽く首を傾げ、反射的に聞き返すような声がその口から漏れるのです。
ですがそんな彼に、水菊はふるふると首を横に振ると、ふわりとつくり笑顔を浮かべて……
「……いいえ。何でもおまへん」
答える気は無い事を暗に示し、それ以降は押し黙ってしまったのでございました。
笑みの下……視線をずっと、あやめの横に立つ禿の少女に向けたまま……
そして殊更に夜は更けて。座敷ではぼんやりと月を見上げる藤堂と、その後ろでは酔い潰れでもしたのか、顔を朱に染め高鼾で眠る永倉の原田の姿。
そんな彼らの鼾が聞こえていたのか、それまで廊下にいたあやめが座敷の中へそっと入り、奥に用意してあった布団を2人に向かってそっとかけるのでございました。
「ゴメンねあやちゃん。新撰組の飲兵衛2人が迷惑かけて」
眦を下げて言いながら、藤堂は重そうに布団を引き摺るあやめを手伝います。
布団を敷き、寝こける永倉と原田を藤堂が布団に向ってごろりと蹴り飛ばし、乗った所であやめが掛け布団を掛ける。その連携のお陰で、男2人は座敷の片隅に追いやられ、後に残るは先程まで飲み食いに使っていた膳と銚子、そして藤堂とあやめと言った、少々変わった取り合わせでございました。
水菊は、別の座敷から呼び出しがかかったからと申し訳無さそうに藤堂に告げ、四半刻ほど前に座敷を出て行っておりました。
代わりの芸妓を呼ぶと水菊は言ったのでございますが、その頃には既に永倉も原田も出来上がっており、唯一素面だった藤堂が、丁寧にそれを断ったのでした。
「あ、そうだ。あやちゃんにも聞こうと思ってたんだけどさ」
「へえ? 何どすえ?」
「さっきまで君の横にいた禿の子なんだけど……あんな顔だったかなって思って」
散らばった銚子を拾い上げるあやめに、藤堂も手伝うように拾い上げながらそのように問いかけると、彼女のは心底不思議そうに首を傾げるのでございます。
自身の横にいた禿と言うと、確か別の置屋で寝起きしている「ひなた」と言う少女だったと記憶しております。
置屋が異なれば顔を合わせる機会も少なく、覚えている顔もぼんやりとしたものでしかありません。
芸妓、舞妓であれば、まだあやめも覚えていられるのでございますが、仕込みや見習い、禿までは流石に数が多すぎて記憶しきれないのです。
特に島原のような花街は、日々女が売られてくるような場所。その全てを覚えるなど、如何に400を超える齢を経たあやめであれ、流石に不可能でございます。
名前は知っているが、顔までは正確に把握していない。それがあやめの、ひなたに対する認識でございます。
「ひなたちゃんの事どすか? うーん……うちも忙しゅうしてましたさかい、しっかり見てまへんどしたけど……いつも通りやと思いますえ?」
「じゃあ、やっぱり俺の気のせいだったのかな。ちょっと違和感あったんだけど」
「違和感?」
「うん。何て言うのかなぁ……目が、変だったんだよ。ちょっと蒼がかった色に見えたって言うか」
藤堂が吐き出した言葉に、銚子を拾っていたあやめの顔が、微かに強張ります。
――蒼がかった目、だと? そして、それに気付いた?――
そんな風に思いながら、ちらりと横目で藤堂を見やるも、彼の方はその視線に気付く事なく、頭を掻きながら更に言葉を重ねるのでございました。
「多分、気のせいだね。その事は気にしないで」
「……へえ。他に気になる事ありますえ?」
「気になる事? うーん……あ、『取替へばや』って、何の事か分るかな?」
「普通に考えたら、『取り替えたい』言う意味どすけど、何でそんな事いわはるんどす?」
「これは水菊さんが言ってたんだ。何かよく分らないけど、俺の中で凄く引っかかってさ」
水菊が言った。
その一言に、あやめは何を思ったのか、強張った顔を更に引き攣らせ……そして心の中でのみ、舌打ちを鳴らすのでした。
それは恐らく、水菊が他の座敷に呼ばれたと言うのは嘘であり、彼女1人で決着をつけようとしている事が分ったからなのかもしれません。
――「取替へばや」だと? チッ、菊の様子がおかしくなる訳だ。気付かなかった私も迂闊だが……――
己の迂闊さを呪いながらも、あやめは大きく息を1つ吐き出すと、極力普段通りを装って藤堂の顔を覗き込むのでございます。
水菊の事は無論心配でございますが、あやめが今から追ったところで彼女の行方は分りません。ならば、彼女の事は「番犬」である銀彌に任せ、今は視線の先にいる相手をするが先決と思ったのでございましょう。
自分すら感じ取れなかった「違和感」に気付いた、藤堂の。
「ん? どうしたの、あやちゃん? 俺の顔、何か付いてる?」
「……なあ藤堂はん。昔、誰かを『羨ましい』て思うた事ありはるんと違う?」
「え?」
「そのお人が持ってる物、全部欲しいて。自分とそのお人、何もかも『取り替えたい』て、強く思うた事」
真っ直ぐに見上げるあやめの瞳に、藤堂は微かに困ったような笑みを浮かべたのでございます。
ただ、不思議と彼女の問いを不快とは思いません。それどころか今まで誰にも言った事のなかった、過去の己の胸の内を打ち明けても良いのではと言う気分にすらなったのでした。
「……うん。あるよ」
持っていた銚子を、空いている膳の上に乗せると、藤堂はストンとその場に座り込み、あやめの顔を真っ直ぐに見つめ返してから大きく頷きを返した後、その時の心情を言の葉に乗せるのでございました。
「俺さ、親父が誰かわからないんだよね。一応、どこかの藩主なんじゃないかって話はあったけど、金はやるから調べるな、みたいな事言われて。だから…………ああ、子供の頃だよ? 父親がいる奴が羨ましかった」
言いながらも半分の月を見上げる彼の顔は、懐かしそうでもあり、寂しそうでもあり……そしてどこか哀しそうにも見えるのでした。
親がいないと言うのは、この島原ではある意味当然の事。ですが、島原の「中」の常識と、「外」の常識が異なる事くらいは、あやめとて重々承知しております。
きっと彼が晒されたであろう好奇の眼差しは、島原の女が向けられる物の何倍も屈辱的な物だったのでは無いでしょうか。
……あくまで、あやめの予想ではございますが。
「ははっ。今考えると情けないよなぁ。島原や吉原の姐さん達の方が、もっと酷い目に遭ってるって言うのに」
「…………良ぅ、踏み止まれましたなぁ」
「うん。もう本当に、いっそ別人になりたいって思った時、試衛館に着いた。でも、そこにいたらいつの間にかそんな気持ちはなくなってたんだ。取り替えたいって気持ちを忘れるくらい、楽しかったから」
そこで言葉を一旦区切ると、彼はちらりと部屋の片隅で眠る永倉達に視線を向け、心底嬉しそうに微笑んだのでございます。
恐らくはそれこそが、彼が「踏み止まった」理由なのでしょう。
永倉や原田、ここにいない土方や山南、そして沖田や斉藤など彼にとって「取り替え難い存在」、「取り替え難い居場所」が手に入ったからこそ、彼は「闇の者」へと堕す事なく、今のままであり続けられたのだと。
「俺は、新撰組って居場所を見つけられた。誰かと立場を取り替えたら、この居場所はなくなるって事だろ? ……俺はそんなの、ゴメンだ」
月の光に照らされながら。そう言った彼の顔は、とても晴れやかで。
あやめは微かに、作っていない笑みを口の端に浮かべて、彼の顔をじっと眺めるのでございました。
――後の問題は……菊と銀に任せるより他、あるまいな――
心の内で、そう呟きながら。